精神療法家 増井武士のブログ・バリ島日本人自殺予防ヴィラオーナー(レンタル可)

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最近、つくづく思うこと

2018-12-20 19:13:32 | 日記
 昨日も友達より公認心理師のテキストの執筆依頼が来てました。
ひどく複雑な思いです。公認心理師ができるのを私は反対しているのでなく、その資格認定方法に問題があると思い、原稿に纏めました。
それも患者さんと関係のない、単なる資格なら別に何ら言う事でもないのです。しかし、その資格はいわゆる患者さんとか来談者の方と関わるようなものです。
あのような莫大な記憶と○×式の試験方法は、どう考えても来談者の共感や寄り添い能力を育てるものではなく、神田橋先生はわざわざお手紙で、そのような能力を圧殺するような問題だと連絡をくれました。
試験問題とは恐ろしいものです。なぜなら、そのような問題をクリアする能力を磨かなければならないからです。そして試験問題が変わらない限り、毎年そのような能力を持った方が来談者に接するのです。
仮に、問題を、「ある来談者は…というように述べたが、それをあなたは、どのように考え、どのように対応するのか、具体的なセリフなどを入れ、詳しく示しなさい。」というような問題にすれば、そういう問いについての考えは共感や寄り添い能力を高める手がかりとなります。
私はそのような問題をどうして出さないのか?という疑問点を示したいだけです。
しかし、その採点には時間と採点者の主観が絡むからという事であのような問題になったと思います。
しかし、その○×式の試験問題が客観的かといえば、その考え方自体が主観的なのです。
即ち我々は独断と偏見で育ち、その主観の結果が他人と共有できたという主観の客観化が、大切な大人への成長点となります。
絶対的な客観性などは、我々の妄念以外の何ものでもありません。
○×式の試験は採点には時間が掛からず機械的に便利です。
恐らく、このような考えで基本的な大事なものを見失ってできた資格認定方法に、私は来談者の立場と歴史的に心理臨床家の能力を考えて述べているのですが、なかなか当たり前の事が判って貰うのがとても大変難しいみたいです。




ことしの冬も、やはりバリに行くことにしました。

2018-12-11 22:53:58 | 日記
 春の宿泊研修会のこともあり、今年はバリへ行かない予定でしたが、やはり、バリに行きたくなりました。
というのも、公認心理師に関する原稿も書き終え、その疲れが出て、だいぶ取れてきたのと、この寒さから一時逃れたくなりました。今はバリは真夏で、その太陽のもとで、ボーっとしていたのです。
急でしたが、約6万で往復チケットが買え、今年の12月24日~1月11日まで、バリに行くことになりました。その間、バリで元気をもらう会(約5泊6日)として、参加したい方が、もしもいらっしゃるなら、至急、ご連絡ください。
 メールアドレス ship55go1@yahoo.co.jp

今年の冬は、バリで元気をもらう会をしないことにしていたので、突然のお知らせ、すみません。
 
付記
このブログを熱心に読まれて、非常に深い感想などを頂いています。有り難いことだと思っています。公認心理師の資格にまつわることなど、何でもよいので、気軽にコメントくださればと思っています。問題提起をしていますが、意見はさまざまあると思います。

公認心理師ーその危惧と懸念

2018-12-09 15:21:30 | 日記
前回の続きです。

2)公認心理師の質の低下の予感とその根拠

(1)公認心理師認定方法についてのいくつかの疑問

 本書を本格的に書きはじめた2018年6月現在、国家資格としての公認心理師の試験が目前に迫り、今までの臨床心理士の方もすっきりしないままで受験勉強しています。それは、
「明日の生活の為にその資格を取る。」
と言う事で、その勉強に懸命になっております。
明日の生活がかかっている事実の重さを鑑みた場合、その資格試験は明日の仕事に役立つものであることが好ましく、かつ非常に重要な要件でなければならないと言えます。しかし実態は、そこでの受験勉強は沢山の問題と、その正解の、莫大な「記憶」であるようです。
後にまた指摘しますが、これは資格試験の妥当性に関する重大な問題であります。何故なら、後に続く受験者は、ある問題と回答がセットになっているという考え方自体と、その正解の記憶をまず臨床現場に持ち込む恐れが強いからです。しかし、その臨床現場において、極めて重要な発想は、「正解は面接者にはなく、来談者の潜在能力や意識の中に在る」ということなのです。必要なのは目の前の来談者について、ああでもなく、こうでもないという事情に即しての面接者の仮設設定能力であり、○×式ないしマークシート方式(以下、○×式と記します)の単純な記憶、正解能力では決してありません。
この点は非常に重要なことなので、細かくふれてみます。ここで○×式のような、ある問いに対する答えはあるというふうな発想を、正解推定モデル(以下、正解モデルとも記します)と記します。そのモデルの中では、正解がなければならないのです。この点がまず、臨床現場にそぐわないということになります。例えば、来談者がよくあるように「ああでもなく、こうでもない。」と述べる時に、臨床上、必要な発想は来談者の「ああでもない。」のが正解で、「こうでもない。」というのも正解で、いくつもの正解が来談者側にあり、面接者の中には、何も正解が「ない」し、持たない方が来談者はありのまま、迷えるわけです。
結局、面接者が正解推定モデルにこだわっている限り、「こうではないか。」とか、「要は、どういうことか。」というふうな発想をすると同時に、来談者の「ああでもなく、こうでもない。」というありのままの姿を見失います。つまり、面接者は、それでは「どれが正解か」について気が向くと同時に、来談者への関心と共感の世界から外れ、自らの問いの中に落ち込みます。そして、これらはすべて面接者の中に解答があり、それを求めるという○×式からくる弊害とも言えます。また、時としては、その正解推定モデルの中にいる間は、このような対応は面接者の来談者に対する「いったい、あなたは何が言いたいにか?」を確認するような無意識的な正解をみつけなければいけないという強迫めいた雰囲気に来談者は付き合わなくてはなりません。最悪の場合、「いったい、あなたは何を悩んでいるのか。」というような、来談者に、面接者の正解を明確にさせるようなことをしかねません。それは、社会一般の人がすることで、悩みを共有するという専門家のすることではありません。また、正解モデルを持ち込み「この問題の解答は親子関係にある」という勝手な正解に行きつき、来談者がせっかく今までの親子関係のことをあれこれ考えず、これからのことを考えようとする大事な態度を育むことができなくなります。
そして、面接者はこの正解モデルを放棄し、来談者の体験に耳を傾け、「ああでもない、こうでもない。」という迷いを一緒に「「ああでもなく、こうでもない。」というふうに、ありのままを理解して初めて、来談者がわかってもらえたという気持ちになるのです。そして、そこでは、面接者の正解の必要なしとか、面接者に正解を持たない方が良いという自覚があって、より積極的に来談者の混沌とした世界を共有できるようになります。
そこで、来談者のありのままの理解には、正解推定能力というよりも、全く逆の「ああでもなく、こうでのない。」という面接者の迷う能力( )さえ必要になってくるかもしれません。
専門的にいうと、正解モデルは治療者の万能感を育成して、それが来談者との健全な関係を育てることへの弊害ともなりえます。面接者に、治療者的な万能感が芽生えた時、来談者との横並びの自然な、対等な関係が壊れるのです。そのモデルにおいては、面接者が来談者の問いかけに、素直に解らないことを解らないと表現しづらくなる、あるいは、そうあってはならないという気持ちにさせ、面接者が素直になれない、ありのままにいられないという弊害をもたらしかねません。お互い、ありのままでいる、いていいという治療上、極めて大事な基本的安心感が生まれにくくなります。
私がここで論じるのは、公認心理師という仕事は、多くの場合は人の悩みに直面し、そして、その面接の不全感や質の悪さは、常に来談者が引き受けることになるからです。この点により、本書の筆は突き動かされているのです。
本来、公認心理師の認定試験は、人の悩みを聴く時に役立つ能力の習得のための母体となるべきです。何故なら、受験者はみな、その試験に応じて懸命に勉強するからです。だから、来談者の役に立てるような能力を査定して、悩める人の役に立ち、やっと元来の認定試験の目的が果たせるのです。敢えて、厳しい言葉で言うならば、正解推定モデルという方式は、来談者の悩みの共感にそぐわないようなパラダイムを持たさざるをえません。
認定試験における正解モデルは、時には捨てた方がいい場合が多いのです。それは、あたかもシジホスの神話のように、苦労して覚えたものを、また忘れてもとに戻すという作業が、必要になると思います。常に、来談者は質の良い面接と心理的援助的を受ける必要があり、そのためには、そのように訓練された面接者があり、その母体は資格認定試験にあります。
本論は、あまり来談者の共感に役立たないような試験と、試験勉強を避け、そのように勉強することが来談者の共感の役に立つという合理的で、平和な元来あるべき方法に戻そうという提案でもあります。そのための具体的な例題などは、後に示しています。

臨床的事態における正解モデルの弊害について、かみくだき。具体的な例をあげ、詳しく述べたいと思います。問題・正解モデルは、面接者に正解がなければいけないという強迫的心性から発する心の信号を、来談者が感知して、ゆっくり悩むことへの共感の妨げになるでしょう。何故なら、面接者にとって、そこには「正解」がなければならないからです。しかしその正解もどきものは、来談者が発見するもので、常にそれは変わっていくものです。それが臨床的にはふさわしい姿なのです。正解は面接者にあるという考え方自体、臨床的事態に沿ったものではありません。例えば、「死にたい、死にたい。」という来談者への対応の正解は、「あまり、自殺の心配をする必要がない。」ということだと聞きましたが、私の長い臨床歴において知る限り、「死にたい、死にたい。」という来談者が、幸いにも未遂でしたが、自殺行為に至りました。この正解の話が本当であるならば、危機介入に至って、とんでもない事態を引き起こしかねません。この要件はまた後で示します。
分かりやすく言うと、来談者に共感するという正解や共感しなければならないという正解や概念などの記憶や知識と、来談者が実際に共感されたという体験に結びつく共感とは、次元と心が違うということなのです。
 我々の取り扱う心とは、ああでもなく、こうでもないという、極めて漠然として、曖昧でアナログ的なものです。曖昧なものは曖昧なものとして、いろいろな対処方法(14)があり、○×式の発想と対極するものであります。また、そのような○×式の発想は、ある来談者にとり、窮屈な感じを与え、その視野が狭くなり有害でさえあり得ます。何故なら多くの来談者が望む要件は、○×式の発想ではなく、ああでもなくこうでもないという「ありのままの自分」への理解であるという事態が在るからです。そこでは、○×式の記憶・正解モデルは迷う来談者への理解に弊害をもたらすことは、私の目には火を見るより明らかなように見えてくるのです。
莫とした生き物に目鼻立ちをつけると、死に絶えるという例え話は極めて的を得た話です。迷う来談者の心情は莫としたものは莫としたものとして理解しなければなりません。その時、○×式のようにデジタルなもので容易に目鼻立ちを早くつけようとすると、来談者の莫とした心情を正確には理解できにくくさせてしまう恐れがあるからです。

そして、仮に資格収得者が、現場での実態に応じた仕事ができずにその資格にしがみつこうとするなら、私の恐れる心理臨床家としての堕落への道の上に立つことになると思います。そして、後述するような堕落の過程を歩むことになるかもしれません。

ブログでの紹介は、ここまでにしておきます。
大事な点は、おおよそ示していますので。

公認心理師ーその危惧と懸念

2018-12-07 21:36:00 | 日記
 公認心理師の結果発表があり、悲喜こもごもだろうと思います。
しかし、その前に、私は、随分前から公認心理師の国家認定の試験が4択とか○×式のものである事とその受験資格者の範囲が拡がる事について、とても問題や危機感を感じていました。
そのような○×式の問題ないしは問題形式がもたらす問題ををクリアした相談者は、果たして質の良い心理臨床の仕事ができるのか?かえってその邪魔になるのではないか?という危機感を持っていました。
その危機感はそのような問題をクリアした相談者に相談にくる来談者との心理臨床家としての関係の質の向上を妨げるのではないか?というこれからの来談者への危惧感でもありました。
果たして心理臨床家としての資格とは何か?、誰がどう決めるのか?、という基本的な問題について私なりの所感を纏めました。
今回は、その原稿の冒頭だけですが、ブログで二回に分けて紹介したいと思います。
そのような気持ちに至ったのは、試験結果に一喜一憂する前に、もっと考えなければいけない重要な課題が随分たくさんあるからです。
この課題は、極めて心理臨床における根本的な問題をたくさんはらんでいるからです。


1)はじめに

 本書は、国家資格たる公認心理師の批判や反対の為のものではありません。おそらくその資格は、ある社会的要請や行政的な時代的判断があったものと推定します。
不登校やイジメや子どもや若者の自殺をはじめ、うつ病などの精神疾患、引きこもりなどの社会的問題による国家的配慮からそのケアや発生予防的見地からの資格設定とも思われます。
現在、社会全体的に考えて、不登校や引きこもりなどについての大切な対応(1)(2)など、まだ行き届いていないのです。そして、その専門的対応などの市民権はまだ充分獲得されていないので、その説明に大わらわな状況をみれば、納得いく制度でしょう。

 国家資格としての公認心理師の資格試験は、心理臨床の場において、重要な能力と現場からの要請に応えられる能力の査定にふさわしいものであることは言うまでもない事です。
もし仮に、資格試験が現場の要請に対応しないものなら、暫定的にでも現場に役立つ能力の為の試験 に変容する必要があります。
本書はそのような資格制度についての反対論でなく、むしろ、資格を巡る基本的な問題を深めて、はたして、心の専門家と言う言葉があるなら、その資格とは、
一体、何なのか?
それを誰が決めるのか?
そして、どのように決めるのが資格にふさわしいのか?
といった、私の昔からの疑問についての、私なりの現時点での結論めいた考えについて論述した物です。

もちろん、大半の心理臨床家の人達は、日々、来談者のために真摯に仕事をされています。ただ、本書では、時として必要ならば、一部の否定的な実態を、ある意味、拡大して取り上げ、細かく分析しています。そして私は、その否定的な側面を描く弊害を、横目でしっかり観ながら、その対応がセットになるように、私なりのバランスをもって書き綴っています。
極めて大事な事は、本書のすべての努力は心理臨床家の質の向上とその恩恵を受ける来談者のためのものです。