精神療法家 増井武士のブログ・バリ島日本人自殺予防ヴィラオーナー(レンタル可)

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新たなグループ作りの必要性がある時がきているようです。

2019-12-28 20:34:48 | 日記
 私が最近出した「来談者の為の治療的面接とはー心理臨床の質と公認資格を考えるー」の中で、公認心理師の認定方法やそのように認定された公認心理師への懸念を示してきまして。この問題は、日本の心理臨床の質を低下させ、日本の大学心理臨床の教育や教員までにその低下が及ぶ懸念でもあります。
>その後出版の後で、私はこの前のブログ、「只今、煩悶中です」で述べたのは、「公認心理師の試験問題の改正はどこに投稿すれば効果的なのか。」
また、「良識ある日本の心理臨床家を増やすには、ある種のグループ作りが必要になるが、どのようにすれば効果的なのか。」
などについて次々に頭をヨギリ、ゴタゴタしていて考えが纏まらない事を、煩悶していると、略して示しました。
それが、ブログを読む人にいろいろな心配をお掛けしたのだろうと思います。

 しかし、今はもう一人での煩悶する時ではないような気がしますので、ブログにあげている次第です。
 極端な場合、例えば、ユングの研究所で学び、その研修コースを修了し、ユング研究所が認定した資格は、国家認定資格でないと思います。けれど、その資格は、国際的に認められています。
 また、英国の研究所で出すDPMと言う神田橋先生も修得された資格も、国家認定ではないと推定しますが、国際的評価を得ています。
 また、精神分析学会の出す資格も国家認定ではないと推定します。
極端な例を出しましたが、例えば、まず「心理臨床家の向上を目指す会」とか言うグループを作り、広める事です。そして、長い将来には、そのグループが認めた資格が、極めて社会的信頼性が高い資格になるようなグループに発展するというようなシステム作りです。
 そのような作業が必要な時期に来ているような気がしています。公認心理師制度ができ、大量な心理士が生まれ、このままの状況に甘んじていると、心理士に対する社会的地位や評価がどんどん低下して、信頼度さえも落ちていきます。
このような現状が進行しつつあることで、私は心がざわめいているのです。

 我々の仕事の原点に還って、少なくとも、その質を落とさないような心がけは、当然ながらも大事な事と思います。
これは、私達の個人的な問題であるとともに、来談者のための問題でもあります。質の悪い面接のツケは、いつも来談者が支払い続けているからです。
何だか心はざわめいてます。
 最近、自分の世界を小説にする事に熱中しています。
小説と言う形をとらないと、我々の精神療法の仕事は一般の方に伝わりにくいからです。また、小説と言うフィクションでないと、私しか知らない学会や臨床心理士会の実態や現実がたくさん在るからです。

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1 コメント

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Unknown (N)
2019-12-31 14:35:45
最近読んだ文献を思い出しました。以下引用です・・・。
安川(2006)によるとベイトソンとレイヴ&ウェンガーの「学習」に関する捉え方の違いをまとめておくと、レイヴ&ウェンガーは実践共同体への参加の仕方、つまり実践共同体において新参者が古参者から学ぶという過程を「学習」として捉えており、それは必然的に「アイデンティティの変容」にも関わる過程であったといえる。他方、ベイトソンは「自己」概念への問い直しをも伴う、「エピステモロジーの変化」に関わることとして「学習」を捉えようとしていたといえる。これらはともに、「学習」を個人の中の出来事にとどまらない、状況の中において、あるいは<自己+環境>というコミュニケーション・システムにおいての事象として捉えるという意味で、関係論的なアプローチであるということができる(安川由貴子2006日常的実践としての学習理論)。

後者のように個人の覚醒に任せる発想もあれば…前者のようにグループをつくって、職業的アイディンティを学習するという方法もあります。しかしこの論文には続きがあって、学習Ⅲまで想定されている道筋を仮定していたのは後者のみでした。結局のところ、最終的には個人の覚醒や努力・・・でも、その一歩手前までの・・・“滑走路のようなもの”が存在することは文化として大事だと私は思います。
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