バリの会や、早急に執筆したい本があったりで、清田さんのコメントへのお答えが、随分、遅くなりました。
以前、清田さんから、私の宗教性についてのお尋ねがありました。
今、ほぼ書き上げた本の中で、内なる宗教について述べているのですが、そのことは、なかなか言葉に成りにくいのです。
「私の心の中で深く流れるのは、仏の慈愛がこの私に向けられていることが体験的に、わかった!」と云う宗教的な得心体験を抜きには語れません。
そのような体験は、内省とか反省とかとは次元が違い、仏に照らされて、我が身の程が解ると云う「絶対的な自己否定」と、地獄に落ちていくしかないという新たな自己の発見から、生まれ変わる私の再生です。
私は、この世は嘘ごと戯言(ざれごと)の固まりであり、仏との関係だけが真実であると心の深いところで思っています。それだから少しだけでも、まともなところを探そうとして、心理臨床家になりました。
だから、私は、この世をどこか深いところで見切っています。
私には、この世でしょせん頼れるのは、臨床的な事実とありのままの私という事実です。このような割り切りが、私の文体や生き方になっていると思います。
仏の私にかけられた願いが解ると、他人への願いなどは雨粒のようなものですが、しかし、この雨粒も仏からいただいたものと思います。
このような私の宗教性に興味を持たれる方は、親鸞聖人の教えを記した「歎異抄」を読まれると良いと思います。
以前、清田さんから、私の宗教性についてのお尋ねがありました。
今、ほぼ書き上げた本の中で、内なる宗教について述べているのですが、そのことは、なかなか言葉に成りにくいのです。
「私の心の中で深く流れるのは、仏の慈愛がこの私に向けられていることが体験的に、わかった!」と云う宗教的な得心体験を抜きには語れません。
そのような体験は、内省とか反省とかとは次元が違い、仏に照らされて、我が身の程が解ると云う「絶対的な自己否定」と、地獄に落ちていくしかないという新たな自己の発見から、生まれ変わる私の再生です。
私は、この世は嘘ごと戯言(ざれごと)の固まりであり、仏との関係だけが真実であると心の深いところで思っています。それだから少しだけでも、まともなところを探そうとして、心理臨床家になりました。
だから、私は、この世をどこか深いところで見切っています。
私には、この世でしょせん頼れるのは、臨床的な事実とありのままの私という事実です。このような割り切りが、私の文体や生き方になっていると思います。
仏の私にかけられた願いが解ると、他人への願いなどは雨粒のようなものですが、しかし、この雨粒も仏からいただいたものと思います。
このような私の宗教性に興味を持たれる方は、親鸞聖人の教えを記した「歎異抄」を読まれると良いと思います。
無限の空間と無限の時間を持つ大宇宙(アミターバ、アミタユース、阿弥陀仏)に満ちるエネルギーは、昔から各国で神、アッラー、空、無、道、ソフィア、ブラフマンなど色々な呼び方をされています。
自分もまた嘆異抄を何度も読み、仏の愛をより感じられるよう祈ると共に、仏の手となり足となり、患者様皆さんや袖振り合う方々に、それぞれの思想・宗教の中で、そのような絶対的な安心感を感じる助けとなるよう、これからも歩んで参ります。
メッセージ頂き、嬉しいです。本当にありがとうございます。