ほぼいつもどおりに起き、いつもどおりに大学へ。途中コンビニに寄って『週刊プロレス』を買おうと思ったが、置いていない。こちらでは『ビッグコミックスピリッツ』は東京と同じく月曜日に買うことができるが、『週プロ』はなぜか遅い。土曜日になって買えることさえある。同じ雑誌でも流通パターンが違うのだろうか。
木曜日は授業が4コマ目しかないので、比較的時間に余裕がある。つい滞ってしまったメールへの返信をいくつか書く。基礎ゼミナールの第1回のミニレポート(連絡用のメーリングリストを作成するためにアドレスを教えてもらうという意味もある)もまとまって届く。送る側はさほど気にしないのかもしれないが、僕だったらちゃんと届いたかどうも気になるので、受領確認の簡単なメールを送る。
昼食は今日も学部の玄関で売っている弁当(チキンカツカレー丼)とサラダ。Youtubeで「カノッサの屈辱2007」を観ながら食べる。「カノッサの屈辱」は大好きで、毎週欠かさず観ていた。映画「バブルへGO!!」の上映に合わせた「~2007」は青森でも放送したらしいが、見逃してしまった。教授役が昨年亡くなった仲谷昇から伊武雅刀に変わっていたが、仰々しいノリと強引なこじつけは相変わらず、楽しかった。十分現在でも通用する番組である。
今日唯一の授業は学部の演習。パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』をテキストにする。「常識」のあり方を考えてもらうパフォーマンスとして、サングラスをかけて教室に行ったが、3人の履修者は4年生で、しかも先日の履修相談を手伝ってくれたりした学生もいて、笑いのネタとしては、完全にスベった。スベったところで、どのタイミングでサングラスを外すかがポイントだったが、「なぜ教室でサングラスをかけた人間が異質にみえるのか」を解説する段になってようやく外す。サングラスが果たしている多様な役割(意味作用)については、さすが4年生。いろいろと意見を出してくれて、なかなか面白かった。
僕も入れて4人ならば、わざわざ広い教室を使うこともない。研究室に移動して、テキストの説明などを行う。文献報告のスケジュール決めなどもささっとやってくれるあたり、これまた4年生ならではである。
夕方は少しのんびりする。研究室にY先生がやってきて、しばし雑談。そうこうするうちに6時になり、地域生活専攻の新入生歓迎会に顔を出す。新入生の自己紹介を聞いていて、ちょっと気になったのは「とにかく資格をたくさん取りたい」という人が多かったことだ。反対に「○○学を勉強してみたい」という学生はほとんどいなかった。
もちろん、資格を取ること、それを目標に頑張っていくことはとてもいいと思う。ただ、それが学習の第一の動機づけだとしたら、ちょっと寂しい気もする。それこそ資格を身につけるのなら、わざわざ大学に来るよりも専門学校に通ったほうが効率的だろう。その点大学というのは何かとムダな部分が多いのだ。僕としては、そうしたムダ(たとえば、キャンパスのベンチに腰掛けてぼーっとする時間などもそうだ)こそが大学の魅力だと思っている。ところが、学生さんのニーズはそこにはない(多少はあるだろうが、少なくとも一番ではない)。モラトリアム的な学生生活は現在でももちろん可能だが、どうもそれをよしとしない風潮が、大学側にも学生さんにも共有されているようだ。その狭間でおろおろしているのが、僕のような教員なのかもしれない。今や学生が堂々と「教員にサービス業としての意識が足りない」といい、それを大学当局が大っぴらに公開するというご時世なのだ。
現在の学生が昔の学生より本を読まなくなった、高校時代に学んでおくべき知識が欠けている、といった指摘はおそらくは事実だろう。しかしながら、何かに追われながら学習するといった切迫感のようなものは、以前よりはるかに高まっているように思う。そこの部分を勘案しないで過去と現在を対比するというのはアンフェアな気がする。
夕食が中途半端なものだったので、10時過ぎにI先生、F先生、Y先生と大学の前にある「チャコール」に行く。I先生の恋愛論を興味深く拝聴した。こういうガス抜きの機会のありがたみが、だんだんわかってきた。必ずしもよいことではないのだろうが。
木曜日は授業が4コマ目しかないので、比較的時間に余裕がある。つい滞ってしまったメールへの返信をいくつか書く。基礎ゼミナールの第1回のミニレポート(連絡用のメーリングリストを作成するためにアドレスを教えてもらうという意味もある)もまとまって届く。送る側はさほど気にしないのかもしれないが、僕だったらちゃんと届いたかどうも気になるので、受領確認の簡単なメールを送る。
昼食は今日も学部の玄関で売っている弁当(チキンカツカレー丼)とサラダ。Youtubeで「カノッサの屈辱2007」を観ながら食べる。「カノッサの屈辱」は大好きで、毎週欠かさず観ていた。映画「バブルへGO!!」の上映に合わせた「~2007」は青森でも放送したらしいが、見逃してしまった。教授役が昨年亡くなった仲谷昇から伊武雅刀に変わっていたが、仰々しいノリと強引なこじつけは相変わらず、楽しかった。十分現在でも通用する番組である。
今日唯一の授業は学部の演習。パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』をテキストにする。「常識」のあり方を考えてもらうパフォーマンスとして、サングラスをかけて教室に行ったが、3人の履修者は4年生で、しかも先日の履修相談を手伝ってくれたりした学生もいて、笑いのネタとしては、完全にスベった。スベったところで、どのタイミングでサングラスを外すかがポイントだったが、「なぜ教室でサングラスをかけた人間が異質にみえるのか」を解説する段になってようやく外す。サングラスが果たしている多様な役割(意味作用)については、さすが4年生。いろいろと意見を出してくれて、なかなか面白かった。
僕も入れて4人ならば、わざわざ広い教室を使うこともない。研究室に移動して、テキストの説明などを行う。文献報告のスケジュール決めなどもささっとやってくれるあたり、これまた4年生ならではである。
夕方は少しのんびりする。研究室にY先生がやってきて、しばし雑談。そうこうするうちに6時になり、地域生活専攻の新入生歓迎会に顔を出す。新入生の自己紹介を聞いていて、ちょっと気になったのは「とにかく資格をたくさん取りたい」という人が多かったことだ。反対に「○○学を勉強してみたい」という学生はほとんどいなかった。
もちろん、資格を取ること、それを目標に頑張っていくことはとてもいいと思う。ただ、それが学習の第一の動機づけだとしたら、ちょっと寂しい気もする。それこそ資格を身につけるのなら、わざわざ大学に来るよりも専門学校に通ったほうが効率的だろう。その点大学というのは何かとムダな部分が多いのだ。僕としては、そうしたムダ(たとえば、キャンパスのベンチに腰掛けてぼーっとする時間などもそうだ)こそが大学の魅力だと思っている。ところが、学生さんのニーズはそこにはない(多少はあるだろうが、少なくとも一番ではない)。モラトリアム的な学生生活は現在でももちろん可能だが、どうもそれをよしとしない風潮が、大学側にも学生さんにも共有されているようだ。その狭間でおろおろしているのが、僕のような教員なのかもしれない。今や学生が堂々と「教員にサービス業としての意識が足りない」といい、それを大学当局が大っぴらに公開するというご時世なのだ。
現在の学生が昔の学生より本を読まなくなった、高校時代に学んでおくべき知識が欠けている、といった指摘はおそらくは事実だろう。しかしながら、何かに追われながら学習するといった切迫感のようなものは、以前よりはるかに高まっているように思う。そこの部分を勘案しないで過去と現在を対比するというのはアンフェアな気がする。
夕食が中途半端なものだったので、10時過ぎにI先生、F先生、Y先生と大学の前にある「チャコール」に行く。I先生の恋愛論を興味深く拝聴した。こういうガス抜きの機会のありがたみが、だんだんわかってきた。必ずしもよいことではないのだろうが。