わが家に文鳥がやってきた。ふとしたことから、「文鳥を飼おう!」と思い立ったはいいのだが、今まで小鳥なんて飼ったことはない。
近所のペットショップに行ってみてみると、なかなかよさそうな文鳥が2羽いた。こんなものか、と思って数軒よそをみて回り、やっぱり最初にみた文鳥がいいな、と戻ってみたら、2羽とも売れてしまったらしい。そんなに人気があるのだろうか。
それからしばらく文鳥探しをすることになった。だがあちこちペットショップや小鳥店を回ってみても、なかなかこれ、という文鳥に出会えない。調べたお店をくまなくみても、どうもピン、とくるものがないのである。
すでに名前は決めてあった。「文聞」である。読みは「ぶんぶん」である。まだ雄を飼うのか雌を飼うのかもわからないのに、とにかく名前だけは先に決めてしまったのである。
もしかしたら小鳥も扱っているかもしれない、と、ダメもとで立ち寄ったホームセンターのペットショップに文聞はいた。一目でわかった。これまた先に用意してあったケージを持っていって、親切な店員さんにいろいろと教えていただいて、文聞を迎えることになった。シナモン文鳥である。女の子なのだそうだ。何とも愛らしい。今さらながらに文聞という名前はいかがなものかという気がしてきたが、彼女はやはり文聞なのである。
車を運転するのもいつになく気を遣ったが、何とか無事に自宅に連れて帰った。だがまだどう接していいかもわからない。お店の人の話しでは、育て方によっては手乗りにもなるそうだが、どんなものだろう。写真もまだケージの外から撮るのがやっとである。しばらくはおっかなびっくり付き合っていくことになりそうである。
この間東京に出張した際、日程が土曜日にかかっていたので、半日の代休を取ることになった。年度始めの立て込んでいる時期ゆえ、その日も午前中は仕事をしたが、このままフイにするのも何だと思ったので、ぶらりと出かけることにした。大鰐線に乗ろう。
時間をみると、弘高下発の電車まではまだずいぶん時間があるようだから、始発駅の中央弘前まで歩いていくことにする。少しばかり風があるが、いいお天気だ。
富田大通りを避けて、裏道を行く。吉野町緑地で、奈良美智による「A to Zメモリアルドッグ」の像を眺める。日光が当たってぴかぴかしている。冬場はすっかり雪の色になじんでしまった感があったから、春になって生き生きとしてきたようだ。
緑地から、これから乗る電車を眺める。ここからみると、中三デパートの奇抜なデザインなどもみえて、いかにも都市から出る電車のようにみえる。
弘前昇天教会の脇の道を歩く。ここからは正面に一戸時計店のとんがり屋根と、そして右には昇天教会の鐘という、弘前の時のシンボルが一緒に拝める。
中央弘前駅に着く。窓口で「さっパス」を買う。往復の電車賃と、大鰐の日帰り温泉施設「鰐come」の入浴券、それと200円分のお買い物券が付いて、1,000円也。改札が始まるまで、ベンチに腰掛けてしばし待つ。
発車5分ほど前になると改札が始まる。今日の電車は青い帯を巻いたもの。
去年の12月に1週間ほど「電車通勤」したときには、赤い帯の車両ばかりだったから、ちょっと新鮮だ。まだ出発までいくらか時間があるから、大好きな弘南鉄道のキャラクター、ラッセル君の顔出しを眺める。同行者がいたら、ぜひ顔を出して写真を撮ってもらいたいところだ。
2両編成の電車に乗客は15、6人ほど。思ったよりは乗っているか。それでも弘前学院大前で3、4人下りてしまって、10人ほどになる。途中駅で乗ってくる人はほとんどない。
小栗山のあたりまでは住宅地のなかを進む感じだが、松木平までくると、一気に視界が開けてくる。辺り一面水田とりんご畑になって、「平野」を実感することができる。田んぼでは白鳥(?まだいるのだろうか?)が餌をついばんでいたりする。
津軽大沢では列車の交換がある。車庫には6000系電車が休んでいた。再び青色と赤色の帯をまとっているようである。
義塾高校前を出る。まだ学校が終わる前のようで、高校生が乗り込んでくることもない。石川の高架橋を渡る。ここでJR奥羽線をオーバークロスする。ローカル私鉄がJRの本線を見下ろすというのはちょっと気分がいい。そしてこのコンクリート橋の独特の構造もまたよろしい。
それにしても大鰐線の各駅舎(といっても中央弘前と大鰐以外は無人駅になってしまったが)のデザインは誰の手によるものなのだろう。台形を逆さにしたような、そして石灰色を基調としたデザインは、戦後のものとはいえ、評価に値するものなのではないかと思う。中央弘前駅の評価はかねてからもちろん高いが、沿線を通しての統一感というのもまたよいところだと思う。
いいお天気だが、生憎岩木山の山頂には雲がかかっていてよくみえない。それにすっかり霞んでいる。そのせいかどうかわからないが、花粉症の症状も今日はひどくなってきた。周りにはマスク姿の人は少なくて、僕だけやたらとひどいようである。
あちこちの畑からは煙が上がっている。これもまた春を感じさせる光景である。
大鰐に着く。およそ30分ほどの旅である。大鰐で下車したのは8人ほどだったろうか。
ホームから古びた跨線橋を見上げる。先日訪れた、長野電鉄屋代線の屋代駅の跨線橋を思い出す。
JRの跨線橋との境目には、かつての長距離列車の記憶を残す行き先案内板がある。寝台特急「日本海」が定期列車としての運行を終えた今、金沢・大阪へと直通する列車は、ここ大鰐温泉駅には停車しない。新幹線が開通して、人の流れというものがすっかり変わってしまったのだ。
鰐comeに向かう途中、弘南鉄道のラッセル車(キ105)と凸型の電気機関車(ED221)がみえた。当たり前だが、キャラクターのラッセル君と比べるとずいぶんといかめしい。むしろED221のほうがかわいらしくみえて、こちらもキャラクターになるんじゃないかな、などと思う。
昼から温泉に浸かる。実にいい気分だ。しかも空いている。ただし露天風呂は風が冷たいので、お湯に浸かっていないとたちまち寒くなる。
「さっパス」には電車の時刻表が書いてあるから、それをみて時間まで館内の座敷でくつろぐ。売店でラッセル君の絵はがきと電車のペーパークラフトブックを買う。10分前に出ればゆうゆう間に合う。車内にはランドセルを背負った小学生が5人ほど乗っている。彼ら彼女らにとっても通学列車なのか。
電車はゆっくりと走り出す。どの川も雪融け水で水量が多い。
再び石川高架橋を渡る。いつも間にか雲は晴れて、岩木山のシルエットがはっきりとみえるようになった。
津軽大沢で再び列車の交換がある。この駅も昨年無人駅になってしまった。
先月には大鰐線の存続をめぐって弘前市役所で協議が行われたばかりだ。合理化は限界まで進められている観がある。「青森鉄道むすめ」の平賀ひろこさんは、弘南鉄道のトレインキャストとなっているが、このトレインキャストの乗務さえ、先月末で終わってしまった。
先だっての2つの路線廃止もあって、ローカル私鉄のあり方はますます厳しいものとなってきているように思える。残すには乗るしかないのだが、僕とてごくごくたまにの乗客に過ぎない。ただ、かつてここに路線があった、と過去の記憶として聞くのならともかく、今ここにあるものならば、どうにかできないものか。すでに多くの人が叡智を集めて考えていることはわかっているけれど、自分なりに考えていきたいと思う。
中央弘前駅に着いて、ルネスアベニューを抜け、名曲&喫茶ひまわりでコーヒーを飲み、しばし読書する。電車に乗り、コーヒーを飲む、というのは、もちろんJR弘前駅でだってできる。だがこちらにある趣には遠く及ばない。ターミナルとしての魅力なら、中央弘前も負けないものを持っていると思うのだ。
須坂駅に戻ってきた。跨線橋の上に人だかりがある。到着する列車を撮影しようという人々のようだ。遠くから踏切の音が聞こえてきたので、まもなく到着のようだ。長いこと須坂駅構内に留置されている2代目OSカー10系と、屋代線の電車が並ぶ瞬間を待つ。
改札口からホームに下りて、あちこち見て回る。ある程度近代化されてはいるものの、随所に古びた感じが残っている。
乗り込む電車は、先ほどと同じ編成のようだ。それにしてもこんなにきれいな電車だったっけ?と思う。弘南電車で見慣れている、元東急のステンレスカーよりもはるかに美しい。デザイン的にもよくできた電車だったのだな、と思う。
最後尾の、運転席直後の場所に陣取る。ここから前面展望ならぬ後面展望を楽しもうと思う。一応ワンマン電車ではあるが、たくさんのお客さんをさばくための乗務員は乗車している。ただしこちらの運転席のほうに入ることはなさそうだ。
列車が動き出す。須坂を後にして、しばらくはまっすぐな線路を進んでいく。この独特の架線柱が並ぶ眺めもなかなかいいものである。
時折、車両のあちこちに目を向けてみる。ドアに手を挟まれないよう注意を促すステッカーの男の子の涙も、何だか今日は違った意味での涙のようにみえてきた。
信濃川田では、元成田エクスプレスの「スノーモンキー」2100系とすれ違った。普段ならこの線を走ることはまずない車両である。これまた廃線景気によるものらしい。左に並ぶ、小布施から移動してきた古い車両たちの行く末も気になるところである。
いくつかのトンネルを通過する。今まで意識したことはなかったが、馬蹄形の石積みのトンネルで、これがまた歴史を感じさせる。
しっかり景色を目に焼き付けておこう、と意気込んでいた往路と比べると、復路はただぼんやりと風景を眺める感じで進んでいく。それでもふと駅舎に目をやったりすると、子どもたちの書いた惜別の絵が飾ってあったりして、感傷的な気分になる。
どんな小さな駅でも人の乗り降りがあり、カメラを向けて見送られる。今まで廃線になる直前の電車に乗りに行くということがほとんどなかったから(その意味でこの2ヶ月は僕にとっては異例のこと続きだ)、何とも新鮮な経験である。
線路はやがてしなの鉄道の線路と併走して、屋代駅に到着する。
跨線橋には、4月1日から屋代線に代わって走り出すバスのPRポスターが掲出されている。廃線の寂しさとは対照的に、こちらは明るい雰囲気作りに満ちている。バス転換の成否というのは、そう時間を置かずに明らかになろう。
跨線橋を渡って、改札口に向かう。オンボロの跨線橋はどうなるのだろう。
改札口を出て、しばらく待合室のなかをうろつく。こちらの時刻表も運賃表も、まもなく過去のものとなる。
廃線は残念なことだが、話しを聞くところによれば、自治体も会社もいろいろと策を講じての結果だそうだから、仕方のないところなのだろう。盛大な見送りのなかで、ゆっくりと往復を楽しめたことは、とてもよかったと思う。そして、身近なところで頑張っている路線の今後というものについても、思いをめぐらせる。どうしたら活かし続けることができるだろうか。
須坂に到着したのはちょうどお昼ごろで、すっかりお腹も空いた。お昼ご飯を食べるところは予め決めてある。冷たい風が吹くなかを、5分ほど歩く。
古びたショッピングセンターの2階にある、「かねき」という洋食屋さんに入る。地元をよく知る人からの情報なので、おいしいに違いない。いろいろなオムライスメニューに迷ったが、結局スタンダードなオムライスを注文した。
ほどなくして出されたオムライスをみて、びっくりする。想像していたのよりもずっと大きい。これで普通サイズである。隣で注文をしていた高校生らしき若者は、こぞって大盛を注文していたが、それはどれほど大きなものなのだろう。
そして味も大変よろしい。懐かしい、正統派のオムライスだ。ケチャップライスの甘みもちょうどよい。たいそうな量ではあるが、食はどんどん進む。あっという間に平らげてしまった。これで520円とは安い。
お腹もいっぱいになったので、駅でもらった観光地図を手に歩き出す。駅にはあんなに人が大勢いたのに、街を歩く人はほとんどいない。空は明るくなってきた。
まずは墨坂神社をみる。参道に大きな石橋がある。向こう側には立派な拝殿がでんと構えている。ひょうたん池をぐるっと迂回してお参りする。
食べること以外、何の下調べもせずに歩いているが、どうやらいろいろと近代建築がありそうだ。神社の先の十字路を曲がると、ほう、と思わせる街並みに出会う。
ガイドマップにも、「蔵造り」が謳ってあったが、観光地然とした感じではなく、ごくごく自然に守られてきたという印象だ。ますます楽しくなってきた。
街中には、いくつかの小路があって、そのひとつ、「浮世小路」に入ってみる。「浮世亭」という料亭がある。かつての花街の跡(いや、まだまだ現役だ)らしい。往時は相当に栄えたところなのだろう。
ここが花街だったことを物語るように、銭湯もあった。今も営業しているのだろうか?名前もまた粋である。
浮世小路から少し歩くと、旧上高井郡役所の建物に行き着く。1917年築の擬洋風建築である。長らく地方事務所、保健所として使用されてきたものを、2007年から地域交流施設としてリニューアルオープンさせたものだそうだ。耐震補強もきちんとしているそうで、近代建築の活用法として素晴らしい。
昔山形で調査をしていたときに、たびたび旧郡役所の建物をみてきたが、それらと比べても遜色のない規模とデザインの建物である。こういった建物を活かしていく自治体はすごいなあ、と思う。
ここまで来て、そういえば昨年11月の「弘前景観まちづくりシンポジウム」のなかで、須坂市の事例が紹介されていたのを思い出した。地域でしっかりと景観計画を作って、その保持に努めているところだということを忘れてしまっていた。ならばここまで歩いてきた街並みの美しさにも納得する。
駅まで戻る道は、ますます楽しくなる。望楼(?)の付いた薬局なんていうのも珍しい。
「銀座通り」「中央通り」という、ますますかつての繁栄を伝えるような名前の通りを歩く。この通り一帯も蔵造りの景観が整っている。歩道は石畳だったりする。
呉服店の堂々たる看板の書体に目を瞠り、昭和初期のものと思われる教会建築にも出会う。
日本基督教団須坂教会は1933年築
かつての繁華街の終わり(というより、正しくはこちらが入口)には、3階建ての蔵のまち観光交流センターがある。明治中期の堂々たる建物がでんと構えている。
お向かいにある須坂市クラシック美術館は、旧牧新七邸。こちらも明治中期の建築なのだそうだ。
いやはや、すごいもんだ。実は、当地をよく知る人からは、「何もない」と聞かされていたのだ。とんでもない。時間をかけて歩けば、まだまだいろいろな建物に出会えそうである。地元の人々にとっては、(謙遜も込めての)「何もない」ところでも、ここは素晴らしい街である。屋代線に乗った、この線があったおかげで訪問できたことを感謝しなければならない。またじっくりと歩いてみたい。そのときには、屋代線を使って来ることができないのが残念だ。
お彼岸の休みを利用して、長野に行くことにした。早起きして、始発の次の奥羽線列車に乗る。3両編成の電車は空いていて、ゆったりと座ることができた。新青森で乗り継いだ新幹線はE5系使用の「はやて」。こちらは結構混んでいる。車内の暖かさにつられて眠りこける。
目が覚めたのは大宮に近づいたころ。長野新幹線との接続はすごぶるよい。ぼんやりと車窓の景色を眺める。高崎を出たあたりから、ぐーんとカーブしていって、何となく遠心力を感じるような気がするのは(全く気のせいかもしれないけれど)長野新幹線ならではだ。
上田でしなの鉄道の電車に乗り換える。何の変哲もないセミクロスシートでも、朝方乗った奥羽線の701系電車よりはずっと豪華な感じがする。
屋代駅に到着する。いったん改札を出て、窓口で須坂行きの硬券切符を求める。前には10人ほどの列ができている。再び改札口で鋏を入れてもらって階段を昇る。このあたりからすっかり「鉄」な雰囲気があふれている。
ひなびた跨線橋を渡り、屋代線のホームに下りる。
ホームでは電車が出発を待っていた。2両編成の3500系電車は、赤い帯やらステッカーやらをはがされて、かつて日比谷線を走っていた当時の姿になっている。
すでに座席は埋まっていて、立ち客もたくさんだ。出発まで、ホームのあちこちにカメラを向ける。屋代駅は、しなの鉄道側は小ぎれいになっているが、屋代線ホームにはいかにも昭和な味わいが存分に残っている。
電車に乗り込む。東京の通勤電車のような混み具合だ。何とか吊革につかまって、車窓の風景を眺める。
途中駅はひなびた感じのところが多い。ホームの駅名板なんて、褪色して読むのもやっとという感じである。
でもどの駅のホームにも鉄道ファンがたくさんいる。そしてちょっと背の高い建物(多くは学校)があるな、と思って目をやると、窓のところに「ありがとう!屋代線」といったメッセージが貼ってある。
川に近づくと、視界が開ける。まだ雪を戴いた山もみえてくる。
松代城の城門がみえてくると松代に着く。こちらでは乗客の入れ替わりが結構ある。
ホームの雰囲気といい、駅舎のたたずまいといい、ローカル私鉄の駅のなかでも、屈指の趣のある松代である。途中下車してみたいが、先を急ぐことにする。
信濃川田の駅舎もなかなかいい感じである。長野電鉄の駅舎には、「標準設計」というものがあるのだろうか、様式が似ているところもある。
綿内を出て、列車が動き出したところで、コンクリート造の変電所の建物を撮る。ディスプレイを覗かずに、カメラだけ向けたので、えらく傾いてしまった。1926年築のものだそうだ。無装飾なコンクリート建築であっても、壁の色合いなんかに独特の味を感じさせる。
須坂に到着する。ホームの上にたくさん人が待っている。下り立って、車庫のほうをみやると、1000系ゆけむりと、2000系が休んでいた。今日は平日ということもあって、2000系はお休みのようだ。僕はこの電車には一度乗ったきりだ。
須坂駅の改札で、乗車券に無効印を押してもらう。このきっぷはずっと財布に入れておこう。
もう間もなく、この路線図もいっそう寂しいものとなりそうだ。
すぐには屋代に引き返さず、須坂の街を歩いてみることにする。
十和田市駅のバスターミナルのプラットホームに下り立つ。まずは道路の側に出て、ホームに停まっている電車を撮影する。
今日の昼食は2回。それも駅そばと決めている。バスのプラットホームとつながっているコンコースにあるそば屋さんで玉子そばを食べる。
2階の電車の出札窓口に行く。間もなく電車が出る時間だが、待つ人はそう多くはない。
電車が出発したのを見計らって、記念切符を買う。「鉄道むすめ」の青森版ができたらしく、こちらまでついでに買ってしまった。三沢までの乗車券も、窓口で硬券のものを売ってもらった。
出札窓口の戸が閉まると、静まりかえった感じになる。
十和田市駅に背を向けて歩き出す。ショッピングセンターと一体化した駅というのは、いろいろと可能性があったようにも思うが、それさえも思うに任せないような現実というものが立ちはだかったのだろう。
十和田の中心市街地を歩くことにした。こちらは次年度に向けた「下見」の意味合いもある。十和田市を訪れるのは、昨年の11月に、地域生活演習という1泊の野外授業に同行させてもらって以来だ。そのときの印象が面白かったので、今年はより深く勉強したいと思う。
天気は晴れてきたが、相変わらず風が冷たい。稲荷神社の大きな鳥居を見ながら進む。
十和田市の中心街は、立派なアーケードがあって、碁盤の目のような通りの配置になっている。こんなところも北海道に似ている。シャッターの下りているお店も多いが、一方で再開発で新たに店舗がオープンしたところもある。
電車の時間を勘案しながら、行けるところまで行って引き返す。駅までは行きとは違ったルートをたどる。途中で趣のある教会に出くわした。
あとで調べてみたら、1932年築、しかも宇都宮のカトリック松が峰教会や神田のカトリック教会を設計した、マックス・ヒンデルによるものとのこと。外壁などがきれいになっているので、ぱっと見ただけでは気づかなかったが、すごいものがあるのだなあ。
再び十和田市駅に戻ってきた。同好の士と思しき人が10人ほど。思ったほど多くはない。出発まではしばらく時間があるので、切符に鋏を入れてもらい、跨線橋を渡り、ホームに出て電車の写真を撮る。
(レールは中心市街地とは反対の方向を向いて途切れている)
前のほうの座席に座って、車窓風景を車内から撮る。11月に来たときには、朝早くに乗りに行った。でもそのときには朝食の時間までに宿に帰らなければならなかったから、十和田市から古里まで乗って、そこから十和田市へと引き返したのだった。だから全線乗り通すのは今日が初めてである。
(写真が傾いているのではなくて、電車が傾いてホームに停車する)
七百ではカメラを持った乗客が数人下車した。側線に停まっている車両群も魅力的だが、ここは先を急ぐことにして、車内から無理な角度でカメラを向ける。凸型の電気機関車も魅力的だが、一番見たかったのは、緑色の東急からやってきた電車である。
車窓の風景には大きな変化はない。道路が併走していて、これなら車との競争も厳しかろう。社名には「観光」とあるけれど、電車そのものには観光的要素は乏しい。もっとも、大曲を出て、広大な古牧温泉の敷地内を走るあたりはなかなか楽しい。
三沢駅に到着した。ホームのたたずまいも駅名板も、何ともいい感じである。
さて、今日二度目の駅そばである。こちらは三沢の駅そばと同じ経営で、メニューもほとんど同じである。だがお店の趣はこちらのほうがずっとある。
今度はスペシャルそばを食べた。
天ぷら・玉子・山菜が載っている。それに青のりもかかっている。十和田市のほうでも青のりがかかっていたから、全メニューにかかっているのだろう。
駅舎を出て、道路のほうから眺めてみる。コンクリートの飾りっ気のない建物だが、それはそれで味わいがある。年月を経ての汚れもまたある意味装飾だ。
これが最初で最後の、通しでの乗車機会だ。来年度に十和田市を訪れるときには、もうこのルートでの移動というのはできなくなる(代替バスはもちろん走るのだが)。
このような形で地方鉄道の終焉を見ていると、やはり弘前のことも気になってくる。一時はLRTへの注目などで、鉄道の存在意義が見直されてきたように思っていたけれど、そうした流れは全国共通のものではないし、またいささか退潮気味でもあるように思う。
青い森鉄道の列車を待つ。なぜか青い森鉄道と十和田観光電鉄の接続もあまりよろしくなかった。この時間帯はまずまずである。701系電車ではなく、大湊からやってきた、「快速しもきた」のディーゼルカーに乗る。やっぱりボックスシートはいい。
雲の流れが速い。太陽はあっという間に西に傾いている。堂々たるかつての東北本線の複線区間を、キハ101が快走する。エンジン音も心地いい。
列車は定刻通りに八戸駅のホームにすべり込んだ。1時間半弱で移動できるところを6時間かけてやってきた。たった一度きりのぜいたくな旅である。
八戸に行くことになった。新幹線を使えば、弘前から1時間ちょっとで行くことができる。前に行ったときにはまだ新青森まで開業していなかったから、在来線で海を眺めたりしながら行った。近くなったのはありがたいが、ちょっと味気ない。寄り道をして行くことにした。
新青森の次の駅、七戸十和田で下車する。駅舎は堂々たる立派なものだが、時間が時間のせいか、構内は閑散としている。駅前には大きなショッピングセンターがでんと構えている。
野辺地からやってくるバスを待つ。時刻を過ぎてもなかなかやってこない。観光向けのツアーバスがさっそうと走っていくのがちょっと恨めしく思えたりもする。
定刻より15分ほど遅れてバスがやってきた。目的のバス停は笊田川久保というところなのだが、バス路線図にはなぜか同じバス停名が2回登場する。どうなっているのかわからないが、まあ何とかなるだろう。
バスは「北海道的」な風景のなかを走る。最初の笊田川久保で下りる。何となくこっちだろう、という方向に歩いてみる。ああ、あった、旧南部縦貫鉄道七戸駅はこちらで間違いないようだ。
道路の反対側には大きな空き店舗があった。そのたたずまいからして、新幹線駅のほうに移ったショッピングセンターの跡地だとすぐにわかった。雪の量はそれほどでもないが、風が冷たい。そこにきてこんな光景に出くわすと、ますます寒い気分になる。
旧七戸駅の駅舎は、思ったよりも大きなものだった。旧南部縦貫鉄道の本社屋でもあり、現在も南部縦貫株式会社のオフィスが入っている。
南部縦貫鉄道は、一度は乗ってみたかった路線である。だがかなわぬうちに廃止になってしまった。弘前からなら、そのうちゴールデンウィークの一般公開などで見られるだろう、と思っていたら、そのうち時間が経ってしまった。七戸町観光協会が駅舎と機関庫を公開しているのを知っていたのだけれど、それもこの3月いっぱいと聞いて、行かなくては!と思ったのである。
右手の駅の入口から入ってみると、観光協会の方が迎えてくださった。早速機関庫のほうに案内していただく。歩きながら、3月いっぱいで終わるんですよね?と尋ねてみると、思いのほか見学者が多く、4月以降も引き続き見学できるとのこと。それはうれしい。
機関庫は思ったよりも小ぶりの建物で、そのなかに車両がびっしりと詰まっている。もともと小学校の建物の廃材を利用して造ったものなのだそうだ。
戸を開けてもらい、中に入る。写真では何度も見た、丸っこくてかわいらしい印象のレールバスも、間近で見ると堂々たる存在感である。保存されている方々が丁寧に整備されているのだろう、塗装なども実にきれいだ。
庫内をぐるぐると歩き回って、思い思いの角度から写真を撮る。ひんやりとした空気が気持ちいい。
動態保存車両だけでなく、静態保存の機関車などもある。職員さんがひとつひとつについて、経歴や性能などを説明してくださった。
大型のキハ104は、いろいろ立ち位置を変えてみても、到底全体を撮ることはできない。失礼ながらお顔だけを撮らせてもらう。
キハ101とキハ102が並んでいる姿、これが一番美しい眺めだと思う。雲が切れたのか、外から光が差し込んできた。
かつてのホームも保存されているのだが、雪が深くて行くことができない。この辺はまた雪が融けたらじっくり眺めてみたい。
切符売り場だったと思しき場所には、様々なグッズが並んでいて、購買意欲をそそられる。某帆布店のデザインにも似たトートバッグやら下敷きやらを買う。
見学を終えてバス時刻を確認すると、まだまだ時間があるようだ。ならば七戸十和田駅に写真があった近代建築を見ておきたい。職員の方に場所を尋ねると、「ちょっと時間がかかりますよ」といいながら、手書きの地図をささっと書いて、詳しく説明をしてくれた。こんなご親切がとてもありがたい。お礼を述べて、外に出る。
書いてもらった地図は実にわかりやすく、迷うことなく目的地にたどり着けた。旧七戸郵便局。1928年の建築である。登録有形文化財にもなっていて、塗装の剥げ落ちなども目立つが(これはこの地の気候ゆえ仕方のないところだろう)、正面の4本の柱の存在感もあって、堂々たるものである。洋館だけれど、破風のあたりには和風のテイストもあって、そこには〒マークがしっかりと入っているのもいい。公開はされていないようで、正面の入口の部分には個人の表札が掲げられていた。
どこか山形県酒田市の旧割烹小幡(映画「おくりびと」のNKエージェントの建物)を思わせるようなところがあって、そんな風に活用されたら面白いだろうな、などと考えた。
まだバスまで時間があったので、七戸の商店街を歩いてみる。車が何台か通る以外、歩く人はほとんどない。でもところどころ歴史を感じさせるお店などもあって、街並みとしてはなかなか面白い。
今度のバスは時間通りにやってきた。乗ってみて、笊田川久保バス停を2度経由する理由がわかった。七戸の中心部をバスはぐるりと一周する。その入口と出口がこのバス停であったのだ。
バスには高校生がどんどん乗り込んでくる。見晴らしのいい風景のなかを快走する。十和田市駅で下車する。さて、ここで次のお目当てに乗り継ぐ。でもその前に腹ごしらえをしておくことにする。
年末年始に帰省して、いったん弘前に戻り、それから1週間と置かずに東京に帰ってきた。目的の場所は国会図書館。普段は別の用事とからめて立ち寄ることが多いのだが、今回は純粋にここでの資料収集のためだけにやってきた。
昨年暮れの、年内最終の開館日にもここを訪れている。年明けには大々的なシステムのリニューアルがされる旨、告知されていた。さて、どんなところが変わったのだろう。
前日の晩に東京に着いて、開館時間に合わせて図書館に向かう。地下鉄代をケチって、有楽町から歩いていく。法務省の赤れんがの建物とか、国会議事堂なんかを眺めるのは、ちょっとした東京見物の趣がある。
本館の入口からは入れず、新館の入口のほうに誘導される。これまで持っていた利用者カードと引き替えに、新しいカードを手渡された。これをゲートでかざしてそのまま入館する。以前のように入館用のカードを発行してもらうことはなくなった。
端末のカードリーダーにカードを置くと、検索機能なんかが利用できるようになるのは以前と変わらない。もっともOPACの画面なんかもすっかり一新した。そして、割と重宝していたオンライン複写の依頼ができなくなった。これはちょっと不便。雑誌論文の複写なんかはほとんどオンラインで済ませていたから、現物を請求するのが億劫に感じられる。
そして視覚的な面での最も大きな変化は、かつての入館カードの番号を表示する大きな電光掲示板が消えたことだ。資料の到着状況は、確認用の端末に利用者カードを突っ込んでみるとわかるようになっている。便利は便利だが、ちょっと寂しい。
端末は混雑していて、空席を見つけるのも結構大変だ。周りでは利用者の方が挙手をして、係の人を呼んでいる。それに応えてひとつひとつ丁寧に説明をしている姿には頭が下がる。
2年くらい前からだろうか、マイクロフィッシュの資料の多くが閲覧できなくなって、不便な思いをした。それがすっかりデジタル化が進んで、端末の画面で閲覧できるようになった。もともと一部の端末ではできたのだけれど、今は館内の全端末でそれができるようになった。しかもプリントアウトの指定もできる。しかもオートフォーカスでピントが調整される。以前のように、コマごとに微妙にピントを調整しながら目を凝らしていたマイクロフィッシュのころと比べると、隔世の感がある。それでも拡大・縮小や画面サイズの調整なんかは、まだまだ使いこなせない。これは通い詰めるしかないな。
「近代デジタルライブラリー」の整備も進んで、研究室でもたくさんの資料が閲覧・複写できるようになった。ただ僕の研究に必要な資料は、「館内限定」のものが多く、やはり直接出向く必要がある。
プリントアウトをオーダーしてからの待ち時間も、コピーと比べると格段に短くなった。以前だったら、複写依頼をかけておいて、待ち時間にコーヒーを飲んだり食事をしに行っていたのだが、今はそんなに時間がかからない。これまた便利。
それでも国会図書館でのひそかな楽しみは食事である。3日間通う間、こむぎっ子のラーメンやら国会丼やらを堪能した。とくにこむぎっ子の醤油ラーメンは、これだけを目的にでも行きたいくらいの僕好みの味だ。
食事をして、目の疲れも少しほぐれたところで端末に向かう。デジタル化された雑誌などは、検索機能も充実している。ただ、雑誌の目次を手当たり次第に眺め、そこから掘り出し物を発見する、といった楽しみは薄らいだかもしれない。もっとも、学生の時分のような時間の余裕がないことを考えると、やっぱり技術の進化はありがたい。
退館しようとゲートのところに行くと、長蛇の列ができていた。システムの不具合で入れなくなってしまったらしい。このあたり、まだまだいろいろ大変そうだ。でも僕にとっては、ますます楽しい場所になってきた。時間さえあったら、そして研究しようというモチベーションが十分なときには(体調が今ひとつすぐれないときに図書館に行くと、無為にだらだらしてしまうことが多いのだ)、どこよりも行きたい場所、それが国会図書館である。
地下鉄には何の恨みもないけれど、今回は極力利用しないようにした。帰りは四ッ谷まで歩いてみる。旧グランドプリンスホテル赤坂の新館を見上げる。こんな巨大な建物がなくなるということ自体、信じられない。近代建築がなくなるのとはまた異なった感慨を抱く。
東京から弘前に戻る日、少し早く実家を出たので、新幹線の時間まで余裕ができた。東京駅前の丸善で時間をつぶそうかとも思ったが、ふと思い立って、中野から地下鉄東西線に乗った。
九段下で半蔵門線に乗り換えて、神保町で下車する。そこから古本屋街を歩く。何軒か覗いてみたが、欲しい本がネットで容易に買えるようになってから、しっかりと棚を睨んで掘り出し物を探そうというモチベーションがかなり下がってしまった。あんまりよろしくないことである。
それはこちらに立ち寄った目的が、古本ではなかったこともある。昨年末から取り壊しが始まった九段下ビル(今川小路共同建築)を見ようと思ったのである。ちょっと前に見に行ったと思っていたのだが、どうやらそのちょっと前というのはこの日のことで、もうずいぶん前のことになる。
てっきり更地になってしまったのだろう、と思っていたら、白い鉄板の向こう側には、まだいくらか残存部分があるようだった。
といっても、今となってはもはや見る影もない。前日に訪れた豪徳寺の「明菓堂」の跡も同じように鉄板で覆われていたから、この白いやつが何とも憎らしく思えてくる。
僕が大学院に入って、この界隈が街歩きのエリアになってきたころ(学部時代はまず滅多にこっちに来ることはなかった)には、竹平寮(憲兵司令部竹平下士官官舎)があった。今の千代田区役所の場所である。それからもうずいぶん時間が経っているのだから、建物の入れ替わりがあるのは当然といえば当然だけれど、九段下ビルがなくなってみると、あるべきものがそこにないという、空虚な感じがしてならない。
九段会館のほうに行く。昨年の震災で天井が崩落し、以後廃業・閉館した。おかげでひっそりとたたずんでいる。九段下ビルなどと比べれば、そうそう簡単に取り壊されることはないものと思っていたが、この建物の今後も予断を許さないのかもしれない。何より、ここで命を失われた方がいるという事実は大きく、重い。
東京のなかでも、九段は昭和の記憶というものを鮮明に遺している場所のように思っていたのだけれど、それもまた、不確実なものになっていくようである。東西線で大手町に出て、丸善で本を物色してから、オアゾの前に出る。東京駅の駅舎を見上げる。復原工事は着々と進んでいるようで、天井のドームがピカピカに輝いている。東京中央郵便局の旧庁舎の外壁も、何とかそこに踏みとどまっている。こちらも修復後はすっかりきれいになるに違いない。その一方で、くすんだ色の昭和のほうは、ますます失われていくようだ。
先日、帰京した。年末年始にかけて、それから1週間後にも帰っているから、久しぶりというわけでもない。渋谷に用事があって、それが済んだ後、夕方に観る舞台「ハムレット」まで時間があったので、久々にバスに乗ることにした。
渋谷駅西口のバスターミナルに向かう。いろいろな方面に路線が出ているから、少し迷う。東急バスもいいが、今日は小田急バスに乗ろう。バス停からの眺めは、昔とあまり変わらない。東急東横店に、地下鉄銀座線の電車が吸い込まれていき、様々なバスが顔を並べている。
もっとも、東急の看板の頭越しには渋谷ヒカリエが顔を覗かせている。ついこの間、「ブラタモリ」で建築現場を見たような気がしたが、もう完成なのだなあ。
5分ほど待つと、「渋54」系統の経堂駅行きのバスがやってきた。この路線には一度も乗ったことがない。他の路線と重複する区間もあまりないから、楽しみだ。
渋谷駅を出て、しばらく246号を走り、道玄坂上を過ぎてから、駒場に向かって進む。窓の外には、蜜柑だか橙だかがなっているのが見える。
梅ヶ丘の駅前で4分ほど停車する。僕の記憶にある駅の姿と違って、高架化が成った後のこの駅はきれいさっぱりしている。
松原を過ぎて、次の六所神社前で下車した。世田谷線の線路に沿って歩く。以前祖母と伯母が住んでいたアパートや、仕事場にしていた小さな一軒家が残っていた。この辺はあんまり変化がないようだ。
山下の商店街を歩く。よく人形焼きを買った「明菓堂」はどうなっているだろう?と思って行ってみると、建物はすっかり撤去されて、更地になっていた。もう以前から人形焼きは売っていなかったけれど、こうして跡形もなくなってしまうと、すっかり過去のものになってしまったのだな、と思う。
気を取り直して、豪徳寺駅と山下駅とを結ぶ路地に入る。こちらは中華料理の「満来」も健在だ。もうずっと昔からある本屋さんで、『文藝春秋』2月号を買う。この本屋さんは、ちゃんと奥行きがあるのだが、ほとんどのお客さんは店頭の雑誌を買うのが主のようで、お店の人も入口のところで応対している。奥の本は何だかずっと昔から同じもののような気がする。
山下駅にある、「たまでんカフェ」に立ち寄る。以前はドトールコーヒーが入っていた場所だが、現在は「NPO法人まちこらぼ」が運営している。昔の写真パネルなどが展示してあって、玉電ファンにはうれしい。玉電カレンダーと開業100周年記念の写真集を買う。
山下駅のホームに立つと、貼り紙が目に留まった。なんと、せたまる回数券が廃止になるのか。確か初めて大学で教えるようになったのとほぼ同じ時期に売り出されて、早速買ったのだった。偶然だが、今日1回乗車すると、残額がほぼゼロになる。デポジット分は来月以降払い戻してもらえるようだが、せっかくだから記念に手元に取っておくことにしよう。
世田谷線に乗る。坂を下って山下駅に到着する様子は昔と変わらない。
上町や松陰神社前で途中下車したくなる衝動を抑えて、終点三軒茶屋まで乗車する。
駅前からすぐ近くの目青不動にお参りする。
不動堂には、秘仏のお不動様が鎮座しているようだが、お参りできるのは前立ちのお不動さんとのこと。
不動堂の左手には教学院がある。高いビルのすぐ足元に、こんな場所があるというのは何とも不思議な感じだ。
お不動さんの旧参道を歩いて、街のほうに出る。以前はここに釣り堀があったはずだが、と思っていたら、ちゃんと建物は残っていた。バーになっているようだが、姿は昔のままだし、「鯉・金魚」という文字が残っているのもまた憎い。
世田谷通りを渡って、エコー仲見世商店街を見て回る。うなぎの「花菱」には休業の貼り紙がしてあった。またこちらの鰻を食べてみたい。あの2階の小さなお座敷で。
三軒茶屋に来たときには必ず訪れる場所へ。2つの映画館は健在である。時間があれば、座り心地のすこぶる悪いイスに座って映画を観たいのだが、今日は時間がない。それでも、これらの映画館は、建物を眺めるだけで、どこか安心できる。ああ、まだあるのだな、と思えることで、記憶の街がそのままであることにほっとするのだ。
三軒茶屋シネマの屋上からは、相変わらずバッティングの音が聞こえて、ごちゃごちゃっとした街のなかに、キャロットタワーが1本、にょきっと伸びている。
キャロットタワーの展望台に上ってみる。空は全体的に曇っていて、合間から陽が差している。
それでも結構遠くまで眺めることができる。横浜方面はランドマークがいろいろあるからわかりやすい。こんなお天気ということもあって、どこか蜃気楼のようにも見える。
駒沢給水塔を望む。三軒茶屋までは来ることがあっても、なかなか間近で見ることができない。ただただ健在を喜ぶばかり。
今度は足元のほうに目を凝らす。三軒茶屋中央劇場は、上から見ると蒲鉾形の屋根をしている。それがまたいかにも映画館らしくていい。
世田谷線の線路をたどっていく。
線路は途中から建物の陰に隠れてしまうけれども、下高井戸の方向はわかっている。かつて教えに行っていた日大文理学部のキャンパスが目印になる。
エレベーター前の窓は、新宿方面を望める場所である。歩き回った場所よりも、こちらのほうがよっぽど変化していないように思える。俯瞰するだけでは見えない変化がいろいろとあるのだなあ、としみじみ思う。
帰京するとき、なぜいつも世田谷に足が向くかというに、何かが存在し続けていることを確認して安堵し、失われた何かに郷愁を感じるためなのだろうと思う。かつてこの街には、人の縁もあった。それもそのうちすっかり遠い過去のものになっていくのだろう。それでもまた、時々はこの界隈を訪れたくなるのだろう。
鉄道のブログでもないくせに、電車のことばかり書いている。それくらい、電車に乗る日々というのは僕にとって新鮮であったのだ。
そんな通勤も、とりあえずは今日が最終日である。いつもの場所から、てくてくと歩いていく。冷え込みはそこそこ厳しいが、雪もすっかり融けて、爽やかな朝である。土手町通りも、まだ車通勤のピーク時間前なのか、通る車は少ない。
昇天教会の脇の坂を下って、駅の前に出る。教会の扉には、しっかりとクリスマスリースが掛かっている。
例によって、大鰐からの電車の到着前にホームに出て、電車を待つ。今日はお天気がいいせいか、雪の日と比べると高校生の姿も少ないような気がする。ピークの日の7割くらいだろうか。しかも通学定期券を持っている生徒がほとんどである。雪の日だと、券売機できっぷを買っている高校生も多い。ということは、今日のような日に乗っている人数が「固定客」ということなのだろう。
数日前には、真っ白な雪の上に見えた吉井酒造の赤煉瓦倉庫も、今日は緑の芝生越しに見える。
最終日ということで、運転席の後ろに「かぶりつき」で立つ。曇ったガラス窓越しに、前面展望を楽しむことにした。
出発前。
ほんの一瞬だけ見える、最勝院の五重塔。
弘高下駅に到着。
弘前学院大前へ。大急ぎで駅前に自転車を停め、ホームに駆け上がる高校生が見える。2人ともちゃんと間に合ったようだ。
去りゆく電車を見送る。
今日はまだ下り電車を待つお客さんの姿は見えない。
中央弘前-弘前学院大前の区間は、距離1.9km、所要時間4分である。待ち時間を含めても、鉄道空間で過ごすのは、10分から15分といったところだろう。それでも僕には何だかとても貴重な時間のように思えた。好きな者にとっての価値、といってしまえばそれまでだが、電車には、他の移動手段にはなに何かがあるように思える。それを実感させてくれた、10日間であった。
連日朝の通勤・通学時間帯の電車に乗っていたら、そのうちにラッシュアワー後の電車の様子も気になってきた。
幸い、少し遅出でも問題のない日がやってきた。ゆっくりと自宅を出て、土手町通りを歩いて、開店したばかりの紀伊國屋書店に立ち寄る。店内のお客さんもまだまばらである。ひとめぐりして、気になった2冊を買った。
・松葉一清監修『復興建築の東京地図』(別冊太陽 太陽の地図帖10)、平凡社。
・『東京人』2012年1月号(特集:軍都東京の昭和)、都市出版。
10時を過ぎているから、ルネスアベニューを通って中央弘前駅前に下りる。雪はあらかた融けてしまった。
まだ出発まで時間があるので、駅舎の周りをうろついてみる。
大鰐からの電車から降りてきたお客さんは15人ほどであった。その人たちがはけてしまって、待合室はがらんとしている。朝はまだ開いていない、たい焼き屋さんも営業している。クリーム入りのたい焼きを買い、ベンチに腰掛けてお茶とともに楽しむ。同じく構内にあるラーメン屋さんも気になるのだが、こちらはまだ一度も入ったことがない。
改札開始となって、ホームに上がる。ひそやかにラッセル君の顔出しがあった。ラッセル君は、駅員姿と横綱姿の2パターンあるが、僕が好きなのは後者のほうである。
朝とは違い、ホームはひっそりとしている。電車も心なしか寂しそうである。
お客さんは1両目に5人ほど、2両目には1人もいない。
クリスマスの飾り付けを眺めて回る。ツリーのないところにはリースが掛けてある。
吊革の持ち手は赤く、葉っぱのついたりんごの形になっている。1両にひとつだけ、ハート型のものがある。
いろいろと装いを新たにしている電車ではあるが、少しばかり目を凝らすと、まだまだ古を思い起こさせるものもあれこれ残っている。
昼間の電車には、トレインキャストという女性乗務員が乗っていて、料金の収受などを受け持っている。肩から提げたカバンが、いかにも車掌さんらしくて好ましい。2両目から乗ってきて、運転席直後の定位置に向かいながら、乗客に「おはようございます」と声をかけている。
乗客5人で中央弘前を出発する。弘高下で、2人乗車。そして弘前学院前では5人が下車した。そのまま乗っていくのは2人である。乗務員2人で、乗客2人。朝の混雑ぶりからは想像がつかない、厳しい状況というものが窺われた。終点まで乗り通すお客さんがいない、なんていうこともあるのかもしれない。
弘前学院大前のホームの屋根には、行灯型の行先表示灯がある。今となっては、「かいそく」の文字の部分に灯りが点くことはないのであろう。少しばかりしんみりした気持ちになって、職場へと向かった。
市内某所から歩いて15分ほど、中央弘前駅までの道のりもすっかり慣れたものとなった。
中央弘前駅前の横断歩道を渡るのだが、ひっきりなしに車が往来していて、わずかな隙をみて大急ぎで渡らねばならない。
こちら弘前のドライバーの多く(推定95%以上)は、横断待ちをしている歩行者を通してくれるなどという心性を持ち合わせてはいないのである。今朝などは、ものすごいスピードで走ってきた車から怒鳴られた。寒い朝なのにわざわざ窓を開けて、ご苦労なことである。
弘前のドライバーのマナーの悪さは、地元ではつとに有名である。だが、これは青森県全体に当てはまるものではないらしい。弘前においてはことのほか悪いのだそうだ。
大鰐からの電車もまだ到着しておらず、いくらか時間が早いためか、待合室はまだがらんとしている。ストーブを囲むようにして置かれているベンチに腰掛ける人も少ない。
改札は大鰐からの下り列車が到着する少し前に始まる。一番乗りでホームに出る。お客さんを満載した電車が到着した。改札口に向かって、下車した乗客が足早に歩いていく。
雪の日とあって、高校生の乗客数も多い。そして3つある扉のうちの真ん中(普段から開閉しない)のところにはクリスマスツリーが置かれていた。
いち早く乗り込んだので、窓枠や扉を額縁に見立てて、雪景色を楽しんでみる。
弘前学院大前で下車する。大鰐へと向かう列車を見送る。
ホームのスロープを下りる。雪で真っ白だ。滑らないように気を配りながら、恐る恐る歩く。
駅舎のなかには、列車のヘッドマークと同じデザインのポスターが貼られている。ほう、こんなイベントがあるのか。何だか楽しそうだ。先日の新里駅のイベントといい、いろいろな趣向が凝らされているようだ。
駅から大学に行くまでの道のりは、ちょっと厄介である。途中、直角のカーブを4度通らねばならない。歩いていると、車がぎりぎりまで迫ってくる。かなり怖い思いをする。通称「バカヤローカーブ」。由来を調べてみると、ああ、そういうことだったのか。もっとも、他の由来説もいろいろあるようではある。
それにしても「迷惑な歩行者」、とあるが、どう考えても車中心の論理である。迷惑なのは車のほうじゃないか。偶然か、必然か、電車に乗る前の出来事と、このカーブの名前の由来とが、やけに符合してしまうのである。
12月4日は東北新幹線新青森駅開業から1周年である。各地で記念イベントが開催されたのだが、僕もそのひとつ、それも割とささやかに開かれたイベントに行ってきた。
弘南鉄道弘南線の新里駅構内に、蒸気機関車8620形が設置された。もともとは鰺ヶ沢町役場の裏手に展示されていたのだが、海に面したところで、潮風による腐食が著しいためにこちらに移ってきたとのこと。新里駅は、開業以来の駅舎を改装したばかりだ。以前の古びた感じはなくなったが、形は昔のままである。
田んぼの脇に車を停めて、会場へと向かう。強い雨に強い風。いささか残念な気候である。にもかかわらず、思っていた以上の人出である。鉄道マニアの方もおられたようだが、それ以上に地域のおじちゃんおばちゃん、それから子どもたちの姿が目立った。
蒸気機関車の運転台にも上がれるようになっていて、汽笛の紐を引いて音を出すことができる。カマには発煙筒が入れられて、煙が出るような演出もされている。僕も列に並んで、ボーッ、と鳴らしてみた。なかなかの迫力。
機関車の隣には、わざわざ弘南名物のラッセル車が運ばれてきていた。鄙びた無人駅が、この日は鉄道テーマパーク然としている。
突然、「先生こんにちは」と声をかけられた。振り向くと、昨年お世話になった鰺ヶ沢町役場の方である。鰺ヶ沢からの移設ということで、こちらまで足を運ばれたのだそうだ。こうやって結びつきが生まれるのもまたうれしいことである。
狭い駅舎には、雨風を避けるために人がひしめいていた。そんななか、弘南鉄道のゆるキャラ、ラッセル君と、もう一人、ん?お名前は何というのだろう、キャラクターが記念撮影に応じている(後に平川市碇ヶ関地区のキャラクター、たけっこくんと判明)。
そうこうするうちに弘前からの電車が到着した。周りの人々は、小旗を手にして何やら歓迎ムードである。すると降りてきたのは弘前市長とたか丸くんだ。弘前駅での記念イベントからそのまま移動してきたのだろう。市長さんはともかくとして、たか丸くんの電車移動というのはすごいことだ。しかも普通の営業列車だから、お客さんはびっくりしたことだろう。
3体のゆるキャラたちは、互いに抱擁?し合った後、仲よくステージへと向かっていった。
ますます強くなる雨風に退散することにしたのだが、イベントはその後も盛り上がったようである。こぢんまりとしているけれど、なかなか素敵なイベントだった。弘南鉄道はとっても頑張っている。にわか利用者としても、ますます応援したくなる。
青森県立美術館で開催されている「今和次郎 採集講義」展を見に行った。個人的に1回、それからゼミの有志を募って1回。
今和次郎が弘前出身の人だと知ったのは、弘前に来てからのことである。もっとも、若いうちに東京に出て、それから戻ることはなかったから、これまでさほどクローズアップされることはなかったのかもしれない(とはいえ郷土雑誌などではたびたび特集が組まれていた)。
受付で入場券を買う。ここでは地方自治法制定60周年を記念して発行された500円の記念硬貨を両替してくれる。合掌土偶があしらわれた、なかなか素敵なデザインである。
展覧会場に入る。民俗学者柳田国男、建築家佐藤功一らとの、白茅会の活動の一環としての民家調査。おそらくそれほど時間をかけずにさっと描いたと思われる民家のスケッチに見入る。建物の細かな特徴を見逃さない、鋭い眼力が、やさしいタッチのスケッチから伝わってくる。
郷倉建設への取り組みを紹介する展示室では、往時を知る人々への聞き取り調査のビデオが流れていた。われわれが鯵ヶ沢町で行ってきた調査と趣旨が似ていて、そのときのことを思い出した。数少なくなった郷倉に宿る記憶というものが実にうまく引き出されたインタビューだった。
兄和次郎の考現学研究をサポートした画家、今純三の絵画を眺めてから、いよいよ考現学の展示へと進む。震災復興のさなかでのバラック装飾社の活動に始まり、様々な「採集」へと進む。ここではイラストを用いての集計結果もさることながら、観察用のメモやペーパーの作り方が参考になった。どうしてもアウトプットの面白さのほうに目を奪われてしまうのだけれど、観察結果を要領よく記録していくための方法論というものも実によくできている。
様々な習作群のなかには、荒唐無稽なものもある。「社会調査」という観点からすれば、おおよそその問題意識とは何ぞや?と問いただしたくなるものもある。だが、これらはあくまで考現学であるのだからして、そこを追及するのは野暮というものなのかもしれない。それにしても「欧米紳士淑女以外」なんていうネーミングセンスにも頭が下がる。
意匠家としての今、建築家としての今の作品も、楽しさにあふれている。割と近いところに今が手がけた家が現存していることも初めて知った。
生涯を紹介した映像を見る。そこにすべてが集約されているわけではもちろんないが、一緒に見学した学生ともども、「何だか幸せそうだなあ」という感想を持った。研究のなかに、あるいは研究を通じて、幸福を見いだせたのだとしたら、こんなに素晴らしいことはないだろう。
最後の展示室は生活学に関わるものである。生活設計の思想から生活病理へ、そして服飾へ、という、今の晩年に至る思考の流れをたどる。個人的には、「開拓婦人の一日」と題して、開拓地の女性の生活時間を描いた図が面白かった。この人も開拓地に関心を寄せていたのかと思うと、何だか励みになった。
割とゆっくり眺めていったら、両日とも2時間ほどを要していた。内容的に大満足である。1点1点をじっくり見られたのもうれしい。
せっかく青森市まで出てきたのだ。ならば向かうべき場所はひとつである。これまた両日とも、「シュトラウス」に行く。店内ははやクリスマスの装飾である。
初日は、寒かったこともあって、ミルヒラーム・シュトゥルーデルという温かいデザートを食べた。人肌よりもう少し温まったクリームのなかに、柔らかなケーキが鎮座在している。甘すぎず、実にやさしい味である。残念なのは、ドリンクがセットになっていることだ。コーヒーか紅茶が付いてきて、どちらかを選ぶしかない。普通のコーヒーももちろんおいしいのだが、ここはやはり差額を払ってでもウィーンコーヒーと一緒に楽しみたいところである。
上は栗をふんだんに使ったデザート(マローニ・パラチンケン)、下がミルヒラーム・シュトゥルーデル。いずれも日・祝日限定のデザートである。
2日目は、学生たちともどもザッハートルテを注文した。僕が勧めたからなのだが、果たして彼ら彼女らの口に合うのか、いささか心配ではあった。もっともこちらのザッハートルテは、本場のものから思えば甘さ控えめである。僕はアインシュペーナーともども、生クリームをたっぷりと味わう。みんなにも喜んでもらえたようだ。
自宅には、ザッハートルテとカシスケーキをひとつずつ、おみやげに買って帰った。「シュトラウス」の看板商品のひとつのカシスケーキの上品な甘酸っぱさもまた絶品であった。年内にもう一度くらい行ってみたくなる。