ケガレの起源と銅鐸の意味 岩戸神話の読み方と被差別民の起源 餅なし正月の意味と起源

ケガレの起源は射日・招日神話由来の余った危険な太陽であり、それを象徴するのが銅鐸です。銅鐸はアマテラスに置換わりました。

ケガレの起源と銅鐸の意味39 小正月の訪問者と餅のゆくえ

2016年10月05日 14時00分14秒 | 日本の歴史と民俗

   引用・参考文献

※ 1)p3 のページ数は冊子版のページ数です。

1) p3 安室知「餅なし正月・再考 複合生業論の試み」『日本民俗学』188号所収、日本民俗学会、1991年。
2) p3 1)に同じ、p52。
3) p5 市川秀之『「民俗」の創出』岩田書院、2013年。
4) p5 木村成生「烏勧請の起源 第1部」「烏勧請の起源 第2部」『個人誌 散歩の手帖』25号、26号、2012年、2013年。
5) p6 1)に同じ、p62。
6) p6 木村成生「烏勧請の起源 第1部」の「5章 1日の始まりは日没から」『個人誌 散歩の手帖』25号、2012年。
7) p6 萩原秀三郎『稲と鳥と太陽の道 日本文化の原点を追う』大修館書店、1996年、p140。
8) p6 都丸十九一「餅なし正月と雑煮」『日本民俗学』174号所収、1988年。
9) p9 文化財保護委員会『無形の民俗資料 記録第6集 正月行事2 島根県・岡山県』1967年、p25-p26。
10) p9 9)に同じ、p76。
11) p9 9)に同じ、p77。
12) p10 新谷尚紀『ケガレからカミへ』木耳社、1987年、p120。
13) p10 柳田国男「浜弓考」『定本柳田国男集』第13巻所収、1976年、p439。
14) p12 坪井洋文『イモと日本人 民俗文化論の課題』未来社、1979年。
15) p12 14)に同じ、p278。
16) p13 1)に同じ、p75。
17) p13 6)に同じ、p40。
18) p14 6)に同じ、p35-p37。
19) p14 6)に同じ、p14。
20) p15 14)に同じ、p166-p187。
21) p16 12)に同じ、p86。
22) p18 12)に同じ、p149。
23) p19 6)に同じ、p20。
24) p21 木村成生「銅鐸 埋められた太陽」『個人誌 散歩の手帖』24号、2011年、p37。
25) p22 14)に同じ、p178。
26) p23 14)に同じ、p128。
27) p25 9)に同じ、p61。
28) p27 8)に同じ。
29) p27 8)に同じ、p78。
30) p28 吉野裕訳『風土記』平凡社ライブラリー、2005年、p288「豊後国風土記」の速見の郡、p323「風土記逸文」の伊奈利の社、鳥部の里に「餅の的」の話があり、p278には白い鳥が餅となる話がのっている。
31) p31 柳田国男「モノモラヒの話」『定本柳田国男集』第14巻所収、1978年、p286。
32) p32 文化財保護委員会『無形の民俗資料 記録 正月行事』全4冊、1966年~1971年。
33) p36 31)に同じ、p288。
34) p40 9)に同じ、p158。
35) p40 6)に同じ、p17-p28。
36) p46 木村成生「烏勧請の起源 第2部」『個人誌 散歩の手帖』26号、p34。
37) p51 12)に同じ、p146。
38) p53 36)に同じ、p14。
39) p54 たとえば次のような報告がある。
東京学芸大学民俗学研究会『茨城県真壁郡大和村本木茂賀中間報告』1970年、P41 「年中行事 正月」に「村で番太(バンタ)いわゆるに棒を持って、もらい人(乞食)がはいり込まない様見廻りを頼んだ。葬式の時には下足番もした。毎日村から米をもらった。正月には、4人位で太鼓をたたいたり、歌を歌って家々をまわり、米・餅などをもらって歩いた」。
奈良県教育委員会『野迫村民俗資料緊急調査報告書』1973年、P84「7章 年中行事」に「七軒コジキといい、日頃体の弱い人は『三年乞食になります。カイいただかしておくれ』といって、谷(橋)を渡らずに七軒の家を廻ってカイをいただいて食べると元気になるという」。カイとは小豆粥や白粥のことである。
楢木範行「日向馬関田の伝承」『日本民俗誌大系第2巻 九州』所収、1975年、角川書店、p26、「年中行事 正月」に「モチクヮンジン 14日の夜は子供たちはそれぞれ羽織など頭から被って誰であるか分からないようにして、家々を餅を貰って歩いた」。
40) p54 7)に同じ、p210。
41) p55 安室知『餅と日本人』雄山閣出版、1999年、p28-p35。
42) p56 31)に同じ、「食物と心臓」p237。
43) p57 折口信夫「国文学の発生(第三稿)」『折口信夫全集』第1巻所収、中央公論社、1995年、p34。
44) p57 『日本国語大辞典』第16巻「はしら・もち 柱餅」年の暮れの餅つきで、最後の一臼の餅を家の大黒柱へ巻きつけておき、正月15日の左義長の火にあぶって食うというもと肥前国長崎地方の風習。
45) p58 31)に同じ、「食物と心臓」p233。
46) p59 43)に同じ、p18。

ケガレの起源と銅鐸の意味38 小正月の訪問者と餅のゆくえ

2016年10月05日 09時27分02秒 | 日本の歴史と民俗
   第2章 小正月の訪問者と餅のゆくえ

小正月の訪問者とは
 前章では「餅なし正月」と名づけられた習俗がなぜ発生したのか、「餅がない」ということは何を意味しているのか、そして正月における餅の意味と機能を見出す作業をした。そのさいに私の設定した推論は、余った危険な太陽を象徴する餅はケガレであり、新年にあってはならないというものであった。餅はケガレの象徴であり、そのケガレを取り去ったすえに正月を迎えるのが「餅なし正月」として観察されるとの結論に達した。であるならば、この問題はさらに正月行事全般を対象として考えなおしてみる必要がある。
 そこでこの章では正月を中心に行なわれる諸々の行事のうち、各地の民俗報告のなかからまず小正月の訪問者について精査していこう。従来の小正月の訪問者についての解釈は6ページ「ナマハゲの本来の目的」の項に『日本民俗大辞典』から引用しているので参照してほしい。
 すでに第1章「餅なし正月の意味と起源」において、小正月に現われるナマハゲやホトホト、遊芸人などについて考えてきた。彼らは家々に祝福を与えると従来は解釈されていた。ところで小正月行事には、これまであまりに当たり前すぎて注目されることがなかったが、実は、家々から餅をもらう、餅を集めてまわる、餅を取り去るという共通した行為がみられるのである。これには柳田が気づいている。「モノモラヒの話」のなかで柳田はつぎのように述べている。
小正月の前の宵に家々の門を叩いて、餅を貰ひあるく行事は全国的で、地方によつてカパカパ・チャセゴ・カセギドリ・カサトリ・ホトホト・トベトベ等、十数種の異名のあることは既に知られて居るが、是にも家々の幸福を主として祝ふものと、訪問者自身の必要の為にするものとがあつて、其堺は犬牙交錯して居る((31))。

として、違いはわかりにくくなっているが、もとはたんなる物乞いばかりではなかったとして、次のような3つの事例を紹介して、今後いろいろな方面から資料をよせれば、餅をもらって歩くこと、餅を集めてまわることが、たんなる物乞いではなかったことが証明できるのではないかと柳田は推察している。
 ○ 石城地方の村ではかなり裕福な旧家であるが、主婦の役目として定期にひとまわりずつ物乞いをして歩かねばならぬ習慣があった。
 ○ 山口県西部に住む或る盲人は、かつて眼病を出雲の一畑薬師に願掛けした。往復は徒歩で少なくとも毎日7回、人の家に立って物乞いをしなければならなかった。
さらに食物ばかりに限らず、
 ○ 陸中と美濃と対馬の3ケ所に七所銕漿(かね)の習わしがあり、女子が初めてお歯黒をするさい、必ず自分の銕漿壺を持って方々の家から貰い集めたものだった。
 これらの事例が餅を貰いあるくことと関係ありと柳田はみているのである。これから紹介する事例12「物もらい」や事例23「15日の粥」事例36「カイツリ」、注39の奈良県における「七軒コジキ」も同じ主旨の習俗であろう。このように「モノモラヒの話」で柳田の抱いた餅についての疑問、つまりなぜ餅を貰い歩くのか、モノモラヒとはそもそも何なのか、吉凶いずれにも餅や赤飯を使うのはなぜかといった疑問、そして57ページにおける折口の疑問はあわせて後で「柳田、折口の提示した餅についての疑問」の項でもう一度あつかう。


訪問者の行為と家の対応
 では『無形の民俗資料 記録 正月行事((32))』(」)全4冊の中から小正月の訪問者が餅や米を持ち去る姿を抽出して、それらがいかに各地で広く普通に行われていたか、いいかえれば、いかに正月を迎えるために欠かせない行為だったかを、まずは明らかにしていこう。それらの行為は「餅なし正月の意味と起源」で明らかにしたように、もとはケガレを運び去って正月を迎えるために行なわれたのであるが、すでにその意味は忘れられているために小正月の行事となって残ったのである。
 ところで紹介する事例のなかで叩く音、こする音、大声、唱え声など、音に関する表現があれば、それらにはアンダーラインをつけておく。これはのちに『散歩の手帖』29号で「反閇(へんばい) 音と地鎮」と題して、反閇について考えるときに使う予定である。ちなみに全55例のうちで36例に何らかの音をともなっていたことが記述されている。内訳は、唱え言葉が18例、大声が3例、歌が1例、音が11例、大きな音が6例である。合計39になるのは、そのうち3例で、音を出す行為がひとつだけではなかったからである。そのほかにもおそらく、音には注意を向けていないために記録に留めなかった例もあったであろう。唱え言葉が18例と、もっとも多かったのは音からの変遷であり、元の意味が忘れられてからの変化の結果であろう。

※ 関係箇所のみ抜き書きしていく。
※ 地名のつぎの1-17などの数字は文献の巻数と記載ページを示す。
※ つづく「男の子」などは餅をもらっていく者を示す。

事例1 鹿児島県肝属郡佐多町外之浦1-17 男の子
フカウチ 1月6日、男の子たちがの家々をまわり、家に上ってとなえ言葉をいってから、床の方や家の間のまわりに用意してきた白米をパラパラとまく。家の主婦は祝ってもらったお礼に子供たちに小餅を2つずつ配る。
事例2 鹿児島県肝属郡佐多町島泊1-18 男の子
フカウチ 1月6日午後3時ごろから、男の子たちが家々をまわり、首につるした袋から籾と粟をとりだして家に向かって投げつけるようにまきちらす。家人が玄関においた餅を入れたバラ(平たい竹ざる)の上から餅をもらって、次の家へ行く。餅はあとで七草粥に入れて食べる。

白米をパラパラまいたり、籾や粟を投げつけるようにまきちらす、という乱暴なやり方をするのは、賽銭や餅投げと同様の意味で、これも『散歩の手帖』28号「供物を投げる、屋根へ上げる」でとりあげるが、ケガレを祓う意味がある。

事例3 鹿児島県肝属郡佐多町瀬戸山1-18 青年
フカウチ 正月3日にフカウチとか千両箱祝いという行事がの青年たちによって行なわれていた。青年は集合して一戸ずつを訪れ、土間でとなえごとをすると餅をくれる。この行事はフカーウチともモツモレ(餅貰い)ともいっていた。
事例4 鹿児島県薩摩郡甑島手打1-41 子供
吉書かき 子供たちが習字のけいこをして(年末年頭にかけて)吉書を持って親戚や先輩のところを訪れ、お年玉や半紙などをもらった。吉書はおいてくるので何枚も書くものだった。
事例5 鹿児島県薩摩郡甑島青瀬1-42 子供
吉書かき 正月1日から2日にかけて男も女も子供はみな吉書を書き、それもぐるぐる巻いたのを何枚も持ち、の家を一軒ずつ訪れ、吉書をおいてくる。すると家の人はその子供をほめて餅をやる。
事例  4、5の吉書かきは一見、小正月の訪問者とは無関係にみえるが、事例5では、餅をやること、親戚や先輩ばかりではなくの家を一軒ずつまわるというところからも、親戚などの縁者に子供の成長を見せるといった親戚間や世間的なつきあいを背景に始まったのではなく、じゅうの家々からケガレを取り去るという本来の意味が変化したものであることを推察させる。
事例6 鹿児島県薩摩郡甑島桑之浦1-42 子供
餅まわり 子供たちは正月1日にの家々をまわり、おめでとうをいい、その家の人は子供に餅を一つずつくれる。江石では1月1日に子供がモツモレ(餅貰い)をする。子供の親類の家をまわって、お年玉や、今年の米でついた餅をもらってくる。
事例7 鹿児島県薩摩郡甑島平良1-48 子供
鬼火 子供がマベノシバの枝を折ってきて年寄りの家を訪れ、イロリで燃やす。マベノシバはパチパチ大きな音をたてて燃える。おそれて鬼が入ってこないという。その家の人は子供に餅をやる。子供たちはもらった餅を持って集まり、野原や庭先で雑煮を煮ていっしょに食べる。
 パチパチ大きな音をたてる、というのが重要で、訪問者が訪れて何らかの行為をし、そのとき多くの事例でなんらかの音を出すことが記述されている。事例1、3のとなえごとも、これから出てくる事例のなかの大声や歌を歌うのも元は、大きな音を出すことに起源があると考えられる。その音の起源については先述したように『散歩の手帖』29号「反閇 音と地鎮」で詳しくとりあげる。
事例8 大分県宇佐郡駅川町1-172 遊芸人
万歳 万歳が元日か2日に来る。新年の挨拶ののち座敷で舞う。舞う家は村内できまっており古い家が多かった。謝礼として米1升とオカサネを与えたので、帰る時はカマスに貰いものを入れて車に積んで帰っていた。
事例9 大分県宇佐郡駅川町1-174 遊芸人、乞食
春駒 春駒のきたこともある。その他、正月にくる物貰いとしては、獅子舞い、猿まわしなど。謝礼として餅や米を与えていたが、乞食にはあん入り餅をやった。

 遊芸人には餅や米、それに対して乞食にはあん入り餅、と区別しているのはなぜか。ここには餡に負わされているケガレの意味が現われていると見たい。あんこ、小豆の意味については『散歩の手帖』の次号で「小豆 ケガレの象徴として」で取りあげる。
事例10 大分県宇佐郡駅川町1-178 子供
モグラ打ち 上拝田ではこの日(14日)子供たちがわらの先をたばねたものを持って各家をまわり、ツボ先の畑をたたきながら「モグラ打ちゃあ14日、アシナサ(明日の朝)お粥お粥」ととなえて餅をもらって歩いたという。
事例11 大分県臼杵市津留1-199 遊芸人
門付け シシ舞い、猿まわし、オカルコブシ(ダルマ)、エベスサマもきた。おさい銭をあげ、鈴を振って踊ってもらったが今は全然やってこない。

 餅が賽銭に変化している。賽銭にケガレを祓う意味がもとはあったことを示している。だから賽銭は投げられるのである。投げることがケガレを祓うことになるについては先述したように28号「供物を投げる、屋根へ上げる」でとりあげる。
事例12 大分県臼杵市津留1-200 乞食
物もらい どこからやってきたかわからないが子供連れの物もらいが「餅を一つ食べさせて下さい」といってきた。

 もとは乞食に餅を与えることでケガレを取り去ってもらう意味があった。「食べさせて下さい」のなかに負っていた役割の痕跡がうかがえる。乞食が餅をもらうことが、かつては当然の行為であった。それが正月行事を担う重要な役回りとして行使されていたのである。そうした、餅をもらい歩くことの意味は31ページで示したように、乞食ばかりではなく一般に普及していたケガレ祓いのための習慣だったのである。柳田の「モノモラヒの話」の最後の附記のなかにも「貰ひ人」としてそうした事例がみえるので引用する。
モラヒビトといふ名は茨城県などに弘く行なわれる。只の憫みを乞ふ窮民以外に、正月の始めにどこからとも知れず、春田打ちなどの祝言を唱へて、米や餅を受けてあるく者も貰ひ人であつた。素より何処の某といふ名は隠さうとするが、斯うして貰ひあるくと農病みをせぬ俗信があるといふ(大間知篤三君報((33)))

事例13 島根県島根半島2-25 遊芸人、被差別民
福俵 昔は特殊民による言寿ぎがあった。男が来て、小さい俵をぽんと投げ込み、「西の蔵に千俵、東の蔵に二千俵、あわせて三千俵どでんどっさり」などというと、中から餅をやった。平坦地ではどこでもあった。その他、大黒舞、箱万才、春駒、猿まわしなども来た。
事例14 島根県島根半島2-26 青年、子供、被差別民
ホトホト 松の内の特殊民による言寿ぎより古型とされる。若連中もしくは子ども組による言寿ぎ。福浦では主として子供が「粟餅いらん、米の餅ごっさい」といいながらほとんど正月中歩いた。千酌ではコトコトという。特殊民の男2人で、1人は扇子と鳴り物1人はささらを持ち、祝ってくると中から餅や金をやった。

 ホトホト、コトコトの名称は音に起源がある。この音には大きな意味がある。前述のように29号「反閇 音と地鎮」で取りあげる。
事例15 島根県島根半島2-26 お化け
ガガマ ホトホトにまで堕する以前の、もっと神聖な形のものが1か所、出雲瀬崎にあって、8日の夜半、青年団長が団員1人をつれ、腰蓑をつけ、団長は獅子頭を持ち、団員はちょうちんを持って先に立ち、81軒の家々を訪問する。ガガマとは総じてこわいもの、お化けなどの意味。

家の者が餅をやるとの記載はないが、次の例からも餅か飯をやっていると考えられる。
小波では旧3月1日恵比須祭りに、神前に供えた飯を頭主が適当ににぎって参った子どもに1人ずつやる風がある。この時1人1人に「ガガマをせい」という。子どもは目をつりあげたり、手で角をこさえたりして、それぞれこわい顔をする。

事例16 岡山県真庭郡新庄村2-63 青年
ホトホト 歳神の棚の飾りでは、箕の中へはオイワイ一重ねを置く。これをホウソウの餅と呼ぶ。この餅を14日夜、ホトホトに来た者に与える。

 付記によると、下町の旦家では、歳神棚のそばに、疱瘡の神をまつり、ホウソウの餅はホトホトに来た厄年のものに与えていた。ほうそうの流行した年に同様のものをつくり、境に立てていたという。ここでも餅には病気であるケガレを負わせて、ホトホトである厄年の青年に持ち去らせていたのである。
事例17 岡山県真庭郡美甘村2-70 被差別民
鉄山では4日ごろ、番太と呼ばれていた人たちがぞうりを持って年賀にまわり、餅や米をもらっていた。明治末ごろのことであった。

 番太とは『日本民俗大辞典』によると、村や町に置かれた番人をさす呼称で、江戸時代の町や村に広く見られ、火の番、盗人の番などの警備を職業としたが、地域・時代によりさまざまという。
事例18 岡山県真庭郡新庄村2-76 遊芸人、男の子、被差別民
遊芸人の来訪 もっともよく来ていたのが大黒で、庭先で祝い歌を歌い、餅や米をもらっていた。また、福俵といって男の子がひもをつけた小さな俵を奥の間へ投げ込んで、数々の祝いことばをならべ、餅・米をやると、引きあげていった。「西のほうからオフク(お福)が年頭のあいさつに参りました。ご主人もよいお年をお取りになられましたか」とお多福の面をかぶって餅をもらって歩くものもいた。その他、猿まわし、ヘイトウ(こじき)などもやってきた。彼らは備中・伯耆などの未解放の人たちが多かったが、第二次大戦後はまったく絶えてしまった。
事例19 岡山県真庭郡新庄村2-77 青年
ホトホト 14日夕刻、厄年の青年たちが蓑と笠をきてやってきて、ホトホトといって戸をたたき、物陰に潜む。持ってきたゼニツナギと箕に供えたオイワイ餅(ほうそうの餅)ととりかえ、祝ってやる。青年たちは何軒もまわり、たくさんの餅を集め氏神で酒宴を開く。このホトホトも信仰心が薄くなり、ヘイトウ(こじき)だという観念が強くなって、30年前ほどから行なわれなくなった。
事例20 岡山県井原市2-87 被差別民
歌い初め オンボウがチバイを着用し、頭には恵比須様の冠をかぶって来て、門口で歌う。それにはお鏡を二重ねやった。

 オンボウは『日本民俗大辞典』によると、火葬・土葬などによる死骸の処理や墓地・火葬場の管理を主たる職業とした者。チバイとは何か、筆者には不明。
事例21 岡山県井原市2-90 子供、大人
ゴリゴリ 14日夜、蓑笠をかぶり、藁馬を重箱にいれて、重箱で縁をゴリゴリと音をだしてこする。子供が3人くらい組んで来るのがふつうだが、おとなでも来るものがあった。家の人が出てきたら縁側の下へ隠れる。餅を2つ、重箱に入れてやった。
事例22 岡山県笠岡市2-101 子供、被差別民
ゴリゴリ 14日の夜はゴリゴリである。夜、子供が重箱を持って縁側でゴリゴリこすって音をさせる。家の人が出てきたら縁の下にかくれる。その間に餅を2ついれてくれる。おとなで来るのはオンボウなどだけであった。
事例23 岡山県笠岡市2-102 大人
15日の粥 15日の粥を他家でもらって子どもに食べさせると夏づけ(暑気あたり)をしないという。「うちの子が夏づけをしていけんけえ、お粥をつかえせえ」といってもらって歩く。大体7軒ぐらいでもらう。

 餅をもらうことが好事をもたらすと理解されているのは後の変化であろう。本来の主旨は、7軒ぐらいもらって歩く、そしてそれらの家々からケガレの餅を取り去るというほうにあったのである。30ページでも餅をもらい歩くことに言及している。
事例24 岡山県笠岡市2-117 子供
お年玉 丸岩では元日の朝、黙って門先きに子どもが立つと、お年玉が与えられる。女の子はしないし、してももらえない。また大浦では、男の子の来ることを喜び、場合によっては、道ばたで遊んでいる子どもの手を引き、招じいれて、餅とか蜜柑などを与えたりもする。

 お年玉が与えられるというのも、もとは餅だったろう。女の子がもらえないのは、女性はケガレとして排除されると考えられていたからである。道で遊んでいる子まで引き入れて、餅を与えるというのも、そうまでしても、ケガレの餅を取り去りたいという、この行事の本来の目的を痕跡としてとどめていることからくる行動なのである。
事例25 岡山県笠岡市2-124 子供
ジョンジョン 14日の晩、栴檀の木で俵の形をつくり、子どもが各戸へ持っていく。「ジョンジョンを持ってきました」とか「初俵を祝うてきました」とかいって持ってくる。もらった家では用意していた白米粉でつくった生の白餅をお礼として与えた。
事例26 岡山県邑久郡牛窓町2-138 乞食
コンガラ様 1年に何度かオドクウ様を清めるといってきていた。人々はこじきと同じような気持ちでもてなした。帰りには小盆に米を盛ったのを与えていたが、正月の月には必ず来ていた。このほか正月に来るほかいびとのたぐいは何もなかったという。

 『無形の民俗資料 記録第6集 正月行事2 島根県・岡山県』に煤掃き団子は「オドクウ様に一番に供えんとほかの神様が受けとられない((34))」という、と記されているように、オドクウ様は山陽地方では特別の神である。コンガラ様はそのオドクウ様を清めるといっている。つまり小正月の訪問者としてのコンガラ様は清めにくるのである。清められるオドクウ様はケガレていたことになる。ではオドクウ様とは何か。なぜケガレているのか。『散歩の手帖』25号でまとめたように、オドクウ様とはカラス、土公神、土公祭文のなかの五郎王子、スサノヲに関係があり、ケガレを象徴する存在である((35))。

オドクウ様からスサノヲへ
 くわしくは『散歩の手帖』25号第3章をご覧いただくとして、オドクウ様がケガレを象徴する存在であること、そして歴史をさかのぼってスサノヲまで結びつくことを、ここでは簡単に振り返っておこう。
25号ではオドクウ様からスサノヲへ向かって、その結びつきを追究していき、両者が関係あることを証明したのであるが、すでにその結論が出ているので、ここではスサノヲからオドクウ様へ降りてくることにしよう。全体を貫くテーマはケガレの担い手がどのように変わったかということである。
 まず高天原において、アマテラスが岩屋戸に籠った神話がある。その原因となるスサノヲの暴虐の意味するところというのは、ありとあらゆるケガレを現出させたことである。そのケガレを象徴しているのはスサノヲの暴虐の結果、アマテラスが岩屋戸籠りしてしまい、そのためもたらされた暗黒である。暗黒がケガレの象徴である。つまりスサノヲは太陽を隠したのである。スサノヲは太陽の消長に働きかけることができるのである。スサノヲはケガレを掌握しているといえる。その力は自然災異に働きかけることができる鬼神と同じである。そしてスサノヲは高天原を至浄にして地上に下りて地上世界の神々の始祖となって祭られる。そして荒神はスサノヲの化身とされており、土公神とも習合している。
 さらに弓神楽では土公祭文が読誦されるが、祭文における主人公である五郎王子は4人の兄王子たちと四季の争奪をめぐって3年3ヶ月の戦をする。四季の争奪とは太陽の消長について、いかに影響力を持つかということである。ここではその戦がケガレの象徴である。この時五郎王子は鬼神であるとされる。そして五郎王子こそ太陽の消長に働きかけることができたので、兄王子たちの持つ四季の各部分を奪うことができたのである。つまり五郎王子はスサノヲとも同じということになる。鬼神として四季のめぐりに作用し、働きかけているからである。この五郎王子は陰陽道と結びついて土公神となっている。しかしこの時にはすでに土公神は地を鎮める役割を担うとされている。つまり四季の移り変わりに作用する鬼神としてではなく、ということは太陽の消長についても力はなく、すでに太陽鎮めが忘失されているのである。
 そして五郎王子は陰陽道と結びついて土公神となったと考えられる。忘失したゆえに、地中にひしめいているケガレとしての複数の太陽に働きかける太陽鎮めが、たんに見かけ上の地を鎮めているかのようにみられたのである。つまり暗黒であり、戦であったケガレの象徴が「見かけ上の地を鎮めている」かのように変質してわかりにくくなったのである。その土公神は「お土公様」つまりオドクウ様である。これでスサノヲからオドクウ様までつながることになる。そしてオドクウ様とは岡山市今谷ではカラスのことであるという。カラスは再三いうように太陽の運行にかかわり、太陽を鎮めるといわれている。ということはオドクウ様には太陽鎮めの片鱗が残っているのである。太陽を隠すスサノヲの力である。そしてケガレを運び去る烏勧請のカラスでもある。スサノヲからオドクウ様までケガレを象徴する存在としてつながっているのである。天岩屋戸神話のなかのスサノヲの役割はめぐりめぐってオドクウ様とカラスにまで引きつがれているのである。それゆえにオドクウ様はケガレているのである。

事例27 岡山県久米郡福渡町和田南2-165 子ども
カイカイ 子どもたちがカイカイをする。若水をくんだ杓と扇子、小縄を輪にしたものを持ち、自分のこしらえた面をかぶって家々をまわる。そしてホトホト、カイカイといって陰に隠れて見ていると、杓の方に粥、扇子には蜜柑をくれる。
事例28 岡山県岡山市円山2-175 乞食、遊芸人
お飾りまかり 14日、ドンドの餅は食べないで、フェエト(こじき)、猿まわし、人形つかいなど、正月にやってくる人たちにやったものである。
事例29 徳島県阿波郡阿波町3-14 遊芸人
三番叟 元旦の夜明けに来る。その家が繁昌するようにほめる。鼓をたたいて夜が明けることを表現する。1人は鼓を打ちカドホメのことばを2人で掛け合いでいう。家では餅や金を渡してねぎらう。

 元旦の夜明けに来るというところに意味がある。鼓をたたくというのは反閇の変化形であろう。地中の太陽を鎮めていたのである。だからこそ太陽が昇るまえに行なうのである。三番叟には足拍子を踏むところがある。三番叟自体に反閇と関係がある。『散歩の手帖』29号「反閇 音と地鎮」でくわしくあつかう。
事例30 徳島県阿波郡阿波町3-16 遊芸人
デコ回シ(箱回シ)人形つかいのこと、村の辻で子どもを集めておこなう。終われば人形つかいは付近の家でお金や餅をもらって消えていく。スッタラ坊、オ福サン、えびすさん、大黒さん、ひょうたん回し、獅子舞、福助、春駒なども来た。
事例31 徳島県阿波郡阿波町3-18 遊芸人
餅つき 女2人か3人が1組となり手桶を中に置き、大きなささらを持って、餅つきのまねをして手桶を打ちながら周囲を回り、伊勢音頭を歌い後に謎かけなどをする。もらった餅はその手桶に入れてつぎへいく。
 手桶を持っているのにも、理由がある。『散歩の手帖』28号「桶が重要であること」で取り上げる。
事例32 徳島県麻植郡山川町3-33 子ども、青年
オ祝イソウ 14日昼は、子どもが銭指ス(わらの先をトンボにむすび、一文銭をさすようにしたもの)をたくさんこしらえ、各家にオ祝イソウに回った。「お祝いそうにこーとこと」といって銭指スをあげると、お菓子や米をくれる。夜は若い衆がいろいろのにわか(万才のようなもの)をして回り、餅や米をもらって帰る。
事例33 徳島県麻植郡木屋平村3-41 子ども
オ祝イソウ 旧正月14日に子供たちがわらで細いなわをなって作った銭指スをもって近所の家を回り、「オ祝イソウをお祝いなして」といって、なわの銭指スを渡して小銭、みかん、干し柿、菓子などをもらって歩いた。大人たちは子供がオ祝イソウをもってくると「ことこと突っ張った」とひやかす。子供たちは「こねはずしたけんお祝いなして」とやり返して小銭などをもらって回った。「こねはずしたけん」とは「無理に戸をこじあげたから」という意味である。

 コトコトが退化して音をたてることが、建てつけの悪い戸をこじあけることに転化した。それでもコトコトという言い方は伝承されており、もとの意味は忘れられて、重要であることは認識できないはずであるが、音としてのコトコトという言い回しだけは引き継いでいる。
事例34 徳島県麻植郡木屋平村3-41 青年
オ祝イソウ オ祝イソウの夜は、青年たちが数名で組を作り、わらなわで牛の首輪を作る。の富家を回り歩いて「オ祝イソウをお祝いなして」といって牛の首輪を家の中へ投げ込む。投げ込まれた家では、餅などを配ってやるが、その代償として牛の首輪を取り上げようとする。青年たちは取られたら次の家に行けないから、取り付けてあるなわをたぐって引っ張り出し、次の家に行く。

 牛の首輪というのは牛の首を象徴したもので、ケガレを表現しているのだろう。牛の首輪を家の者が取り上げようとするが、最終的には取り付けてあるなわをたぐって引っ張り出せるということで、強く張り付いたケガレでもついには取り去ることができ、正月を迎えられるという意味であろう。この事例は10ページで取り上げた柳田の「浜弓考」に記されている被差別民による弓神事へのかかわり方、つまり、弓神事の的を牛の頭の皮でつくったという例との類似を思わせる。どちらもケガレを運び去る行為を現わしている。
事例35 徳島県美馬郡美馬町3-54 遊芸人
門づけ 三番叟は2つの箱を棒でかついできて、1つの箱の中に三番叟(おいべっさんを含む)を入れ、他の箱には道具や、もらった餅などを入れている。農家はこの三番叟は、除厄招福という意味で受けている。
事例36 徳島県美馬郡美馬町3-56 困窮者
カイツリ 14日に来た。小さい重箱と小さい木づちを持ってきて、門口に立ち、重箱を木づちでこんこんとたたいて餅などをもらって歩いた。この物乞いに来る人は、平常は農家の人夫などに雇われている貧しい人であった。このつちをたくさん持っていて、餅などをもらうとその礼として、その家の子供たちに1本ずつ与えた。
 31ページで述べている「モノモラヒ」に歩く習俗の残存であろう。
事例37 徳島県三好郡東・西祖谷山村3-65 子供、青年
カイツリ 14日。この日を14日年(どし)といい、カイツリが来る。子供たちや若い者たちがを回り家々の門に立って「カイツリを祝うてっか(祝ってください)」と呼び、きびがらで作った牛鍬の模型、または、わら細工のサス(ゼニサシ)を盆にのせて渡す。家によって白紙、鉛筆、餅などを与えた。
事例38 三重県鳥羽市神島3-100 困窮者
コトオサメ 12月8日、この日、過去1か年のいっさいの災厄をはらい流すことになっている。かやの葉を編んでイッパイ舟をつくる。ヤリマショウ舟ともいう。この舟を持ってすべての家々を回る。舟のかつぎ手は、以前は島の困窮者にやらせた。家々から5円くらいずつご祝儀が出たから、ちょっとした収入になった。しかし家々の災厄を背負わされると感じてやりたがらなかった。改正して当屋2人の総領息子にかつがせることで今日に及んでいる(昭和16¬~17年ころ)。イッパイ舟が家々を回ってくると、米を包んでオヒネリにしたものと、各自の体をなで回したかやの葉2すじ、その2品をイッパイ舟に乗せてやる。オヒネリで山盛りになった舟は海へ流すが、すぐに沈んでしまう。この日一般の家は赤飯をたいて食べる。

 これまでの例と比べるとやや内容が変わっているが、訪問者が来てケガレを取り去る形に違いはない。「コトオサメ」の「コト」とは『散歩の手帖』26号「『コトを負う』とは」で述べたようにケガレである((36))。困窮者にやらせたというのは、餅なし正月伝承で、昔、先祖が困窮して餅が搗けなかったという話との類似を感じさせる。餅がないことと、餅を取り去ることとの違いである。その結果として餅のない、ケガレのない正月を迎える。「この日一般の家は赤飯をたいて食べる」のも次号「小豆 ケガレの象徴として」で詳細を扱うが、ケガレの象徴としての赤飯、混ぜ飯であり、それが縁起物に変化したのである。そうまでしてなぜ至浄の正月を望むのか。
事例39 三重県志摩郡大王町船越3-136 船頭
アアタラシ (夜中の)12時になるとアアタラシに出かける。1組4人ずつで、手分けして1軒1軒に、新春のお祝いのことばを述べて回る。各戸でお祝儀として小さなお鏡餅を出したが、今は金銭になった。

 アアタラシとはお祝いのことばを述べる際の出だしの「新しき年の始め、とうに幸、じゅうごうけいろく、~~」からきている。
事例40 三重県志摩郡大王町波切3-147 船頭
元旦の名ノリ 名ノリとは当屋が漁師の家々を1軒1軒元旦に回って、今年も大漁でありますようにと祝福のことばをのべて回礼すること。音頭とりの船頭が、大声で「アアタラシキ、としのはじめに、~~」と唱えるが、漁師の荒い声でわれ鐘のようにどなるので、たいへん騒々しい。各戸では名ノリが来るのを待ちうけて、お祝儀を出す。お祝儀はおみき1本、とっくりに酒を入れて出す。それに小さなお鏡餅一重ねというのが普通である。

 「荒い声でわれ鐘のようにどなる」というように、これもかつて音を重視していたことから来ていると考えられる。縁をゴリゴリ鳴らすのも、ナマハゲが怒鳴るのも同じである。これらの声や音については、29号「反閇 音と地鎮」のところで詳しく検討する。
事例41 岩手県雫石町4-18 困窮者
年徳神 お年神様は明きの方から来ると老人はいっている。そのお姿は不明瞭で、紙の絵姿を見てぼんやりと想像している。昔は七軒町(こじき長屋の住人)が配って回るものと言い伝えられていた。白米1升を出してお札を受けとる。お札の出所はだれも知らぬ。
事例42 岩手県雫石町4-34 遊芸人
獅子舞 小正月には獅子舞が来る。神社の別当の宅に宿を定め、これぞと思う家に舞い込んで、午後から夜にかけて舞い、人々を楽しませた。供物として白米・麻糸をお供えした。
事例43 岩手県大船渡市立根町4-42 子ども、大人
カシオドリ 小正月15日、夜になると少年たちが馬の鳴(なり)金(がね)を手に下げて騒々しく鳴らして歩く。5~10人ほどで家々を訪問する。あるいはブリキ缶に綱をつけて背負い、うしろの子供が棒でたたく。おとなの群れも別にあった。各家では用意しておいた切り餅を彼らに与える。

 ここでも音を出すこと、それもかなり騒々しくすることが求められている。
事例44 岩手県釜石市唐丹町山谷4-53 青年、少年少女
スネカタクリ 15日夜になるとスネカタクリがやってくる。青年たちが鬼面をつけ藁に身を包んで訪問する。山谷では少年少女が行なう。小腰をかがめ、ぶうぶう鼻を鳴らし、刀を出しておどかし台所に上がるまねをする。家の人は餅を袋背負いの子供に渡してやる。子供たちは太鼓・笛に合わせてスネカ踊りを踊る。
事例45 秋田県男鹿半島4-65 青年、子供
ナマハゲ 正月15日夜、鬼の仮面をかぶり、蓑を着ての青年たちが「うおーうおー」という大声を発して現われ、餅または金銭をもらって、次々と家々を訪問する。あとで慰労の宴を開くが、餅などは余るから貧困者に恵贈する。音響を出すために小箱に小石などを入れたものを携帯する場合もある。弱い踏み板だと踏み破った例もあったという。河辺郡ではヤマハギといい、そろばん、馬の鈴を持って異様な音響を発して子供らが歩いた。
 ここでも音が強調されている。また「弱い踏み板だと踏み破った例もあったという」というのはたんに荒々しさを強調するあまり、ということではなく、反閇にそのみなもとがあると考えられる。
事例46 秋田県男鹿半島4-69 鬼
セド(柴燈または採燈)正月3日の夜、2升つきぐらいの丸餅の中を凹ませて油をそそぎ、燈心・こよりの類を入れて火をつけて、窓外へ投げる。そして法螺を吹き、鐘をならし、戸板をたたいている間に鬼が来て、その餅を持ち去る。今はそのことはないが、ふしぎに僅かの時間に餅がなくなると土地の人はいっている。

 これまで取り上げてきたのは、訪問者が青年や子ども、そしてどこからか巡ってくる遊芸人や被差別民であった。それらの多くは音をたてたり、大声を出したり、なんらかの祝言やとなえごとをいって、お礼に餅などをもらって去っていくというものである。しかしこれらのほかに、例は少ないが、こちらから餅をとどける、あるいは訪問者から餅を受けとるという場合がある。こちらから餅をとどける例としては分家から本家へ、嫁や婿の実家へというものである。さきにその例を7件示す。
事例47 鹿児島県薩摩郡甑島1-40
祝い餅 1升餅を大きくて平たい餅につくりこの餅を祝い餅といって、年取りの日に親の家(分家している時には本家の親、それに妻の実家)に持っていく。本土の薩摩側では広くおこなわれており、これをトシモチ、イエモチなどといっている。嫁にいった娘の多いところでは、この祝い餅を何枚ももらうので食べきれないほどである。

 薩摩側では広く行なわれているということ、そしてトシモチ、イエモチなどと、先祖へつなぐ観念を感じさせる。甑島で「祝い餅」と呼ばれているのは、それを明確に祝いと捉えていることから、薩摩側より新しい変化と考えられる。南九州、沖縄は新しいのである。
事例48 大分県国東町1-153
オセチ 普通正月3日から14日のモチまでの間に、オセチといって親類同士で招いたり招かれたりする。鬼会の夜には他村の親類をオセチに招く家が多い。結婚によって親類になる場合にも、結納のときにオセチを何日にするかは、相談事のなかに入るほど重要視されている。また嫁の里にいくときには、嫁は必ずオスワリ(鏡餅)一重ねを持っていくのがしきたりである。

 里へ、実家へ、本家へというのは、先祖への方向であり、小正月の訪問者がやってくる方向へ逆に餅を持っていくことになる。餅の移動する方向としてみれば、訪問者に持たせるのも、こちらから持っていくのも祖神へさかのぼることに変わりはない。
事例49 大分県宇佐郡駅川町1-167
歳暮 嫁をもらった年の暮れには、嫁の実家に四升餅とか五升餅にそえて、三貫目以上のブリを持っていく。
 中元、歳暮にお世話になった相手にものを贈る習俗の源はこのように里へ実家へ本家へ餅を贈ることにあったのだろう。
事例50 島根県島根半島2-22
年賀 坂浦では分家から本家へ年賀に行く時にはお供えを一重ね持ってゆき、仏壇に供える。
事例51 三重県志摩郡大王町波切3-144、船越3-132
オヤノタル 餅つきのとき、3臼めくらいのときお重ねをつくり、嫁が生家の親へお祝いに持っていくことをオヤノタルヲタテテクという。
船越では昔はオジダル・オバダルといって叔父叔母にもタルモチを贈ったものであったが、今はオヤダルさえもなくなった。
事例52 岩手県雫石町4-20
御年始 橋場では、嫁・婿は縁づいてから3年間は夫婦そろってゴメェアネンゴと称して、鏡餅5枚・塩ざけ(塩鮭)2本・酒2升を持参して御年始に行った。安庭では、1月2日、鏡餅を持って、親戚や非常に親しい知人、非常にお世話になった人などを訪問する。
事例53 岩手県大船渡市4-40
里帰り 嫁いできてから3年ぐらいの間は里帰りをする。里帰りの礼には、鏡餅3升のもの一重ね・魚2匹(メヌケまたはキツジなどの赤い魚)・酒1升を樽にして持参する。

 事例51、53でも樽が出てくる。オヤノタルは親の樽である。昔は樽に入れていったのかもしれない、と記述されている。樽は次号「桶が重要であること」で、詳しくあつかう。そしてなぜ赤い魚なのか。この赤は小豆の赤からの連想であろう。これも次号「小豆 ケガレの象徴として」であつかう。

 そして甑島のトシドンでは訪問者から餅を受けとる形になっている。『無形の民俗資料 記録 正月行事』全4冊の地域報告のなかで訪問者が餅を持ってくるというのはトシドンだけである。
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事例54 鹿児島県薩摩郡甑島1-37
トシドン来訪 大晦日の年取りの晩にトシドンは大きな鬼の面をかぶり、子供のいる家だけを夕方から夜にかけて訪れてくる。入口で「ホイホイ、ガタガタガタ」と声や足音をさせる。家に入ってきて、子供たちをおどしたり、教えたりして、最後にふところから大きなトシモチ(この大きな年餅を食べないと年をとることができないという。まえもって子供の家の人が、トシドンになる人に子供の悪い癖などを教えておき、餅もたのんでおくのである)を出して子供に与える。こうして次々と子供のいる家を訪ねて餅を与えてまわる。瀬々野浦では、カンカンと鉦を打ちながら年の晩に子供の家にやってくる。内川内ではトシドンは鉦をたたき、太鼓を打ってやってくる。

 カッコ内の最後「餅もたのんでおくのである」というのは、餅をあらかじめ家の者がトシドンにあずけておくという意味であろう。つぎの事例55の鬼ドン餅では家の人が庭の草の中などに餅を置いておく、とあるので、同様にこれもやはり、あらかじめトシドンにあずける意であろう。
 新谷尚紀はトシドンが持ってくる餅について、この地域一帯にみられるトシモチの贈答の習俗と、子供たちの餅もらいの行事とが習合したものではないか、とみている((37))。そして、トシドンにいったん手渡された餅はケガレの餅から福の餅へと転換すると解釈している。新谷はケガレを負った餅が一度異界からやってきたものたちに渡るとハラエヤラレて福徳の威力を持つとの解釈を展開しているが、はたしてそうだろうか。
 新谷の『ケガレからカミへ』の「5 ケガレ・ハラヘ・カミ」によると、烏はケガレを背負う鳥であるという。この認識は私と一致する。ケガレの餅という認識も一致する。しかし一致するのはそこまでである。そもそも人間には生きていればケガレがあるが、なぜ日本人にだけケガレが強調されるのか。そしてなぜケガレは祓えやられなければならないという観念を持ったのか。なぜケガレの捨て場所が必要なのか。祓えやられると、なぜたちまち逆転して神になるのか。新谷はケガレから神が誕生するとして、ケガレが神に転換するには、民俗的心意のメカニズムが作動するというが、民俗的心意とは何なのか、そのメカニズムとはどういうものか、明確にしていない。
 新谷は、貴人や乞食にケガレを背負わせていたが、それだけに満足できなくなり、異界のものたちを儀礼的に創出し、彼らにケガレを負わせたと推論している。そのケガレは調節不可能な状態となって威力を持ちつづけるが、その威力が一定の儀礼的な手続きをとると、逆転して福徳の威力あふれるものとなるとしている。こうした考えは各地の民俗事象をみて、破綻のないように組み立てただけである。現在の民俗事象についての理解はこれでいいように見えるが、本質的に誤っている。
 私の考えでは、餅に負わされたケガレの意味と、福の意味とではその間に餅に対する認識が歴史的に変化していった永い時間の経過があり、即座には転換しないのである。餅が福徳の意を獲得するのは時代的にケガレの餅よりものちのことなのである。それはケガレとしての餅の意味が忘れられ、「餅なし正月」の意味が不明になって、餅が神聖な供物とみられることになった結果なのである。トシドンが子供のいる家にだけ来るというのも、のちの新しい変化形であり、だからこそ餅が福の価値としてもたらされるのである。子供のいる家に来るのも、餅が福徳の意味をもつのも、どちらも時代的には新しいのである。トシモチの贈答の習俗自体、餅にケガレを託していると観念されていた時代には、贈答に使うことはあり得なかったはずである。新谷のいうような「ハラエヤラレて福徳の威力を持つ」といった直接の転換はかつてはあり得なかったはずである。したがってトシドンの習俗が、より新しいのは明らかであり、それゆえに福の餅に転換したように見えるのである。
 トシドンや次に述べる鬼ドン餅は、稲作の民俗としては、南九州のものは中部以北の九州より比較的新しいものであることを示している。事例47の甑島の「祝い餅」が薩摩より新しいと考えられるのも、稲作民俗の伝播の方向として本土から島へとするのが流れだからである。思い出すべきは、烏勧請においても、南九州のものは比較的あたらしいということである((38))。稲作文化の伝播経路でいえば鹿児島はそれ以北の西日本の稲作よりも新しく、南西諸島、琉球への稲作伝播はさらにのちであるから、したがって稲作の民俗も九州中部以北の西日本の民俗よりも新しいと考える必要がある。
事例55 鹿児島県薩摩郡甑島1-50
鬼ドン餅 瀬上では、子供たちが6日にほら貝を吹けば、天の上の鬼が餅を投げてくれる。その餅は家の庭の草の中や、木の枝などに引っかかったりしている。実は家の人が餅を紙に包んであちこちにおいてあるのをみつけるのである。これを鬼ドンの餅といい、鬼火で焼いて食べるものだった。
茶之木では、男の子は6日の夕方に、ほら貝を空に向けてブーブーと吹く。すると天にいる鬼は、その大きな音にびっくりして、持っている鬼の餅(鬼ドン餅)をついとり落してしまう。落ちてきた餅は、家のまわりの木に引っかかったり手水鉢のかげにころがったりしている(もちろん親がその場所にかくしておいたのである)。
以上のように『無形の民俗資料 記録 正月行事』全4冊だけでも小正月の訪問者が餅を運び去る例やその変化形が55事例取り出せるのである。このような事例はそのほかの各地の民俗報告からも容易に拾えるであろう((39))。

 以上に取り上げた55の事例のうちに「銭」が出てくる例が事例11、14、29、30、32、33、37、38、39、45の10例あった。ケガレと銭にはなおざりにできない関係があるらしい。これについては、いずれ稿を改めて書くことになろう。

餅の一方向性
 小正月の訪問者が何であるかを分析するのは、正月行事の全般にかかわることなので、今はまだそれにはふれず、餅と正月行事全般との関係を明らかにしてから扱うことにして、ここでは餅の移動する方向性を確認しておこう。餅はなぜ運ばれるのか、どのような方向へ運ばれるのかについて、これまでにもいくらかふれてきたが、ここでまとめておく。
 萩原秀三郎は『稲と鳥と太陽の道』において「男鹿半島のナマハゲは、いつのまにか、逆に丸餅を家々からもらっていくようになった。家々に福を授けたお礼である((40))」としているが、そうではなくナマハゲが餅をもらっていくのが古い型であり、福を授けたお礼ではなく、餅に託した家のケガレを取り去るのが本来の目的なのである。
 なぜなら、家々から餅を運び去る訪問者は青年や子供が扮した神であり、ケガレを取り去る役を負った遊芸人や被差別民である。そして事例47から53に示すように、年始に鏡餅を持っていく先は祖先、祖神、鬼神へ通じる本家や妻の実家なのである。すべて、これらにかかわる餅の向かう方向は現在の人間から祖先神への方向である。なぜ遊芸人や被差別民に餅を託すことが祖先神への方向といえるのか。それは10ページの「ケガレの除去と被差別民」で少しふれたように、ケガレとしての餅は余った危険な太陽であり、その太陽の昇降に働きかけることができるのは鬼神であり、その太陽祭祀を司るのがヒジリやフゲキであり、それらの末裔が遊芸人や被差別民だからである。これらの詳細な検討はこの項の冒頭、小正月の訪問者が何であるか、ということと密接に関係するので『散歩の手帖』29号で行なう。
 餅の向かう方向が逆転しているトシドンの餅や鬼ドン餅は、餅からケガレの意味が落ちて、餅が縁起のよいものとして認識されるようになったからこその変化なのである。餅の向かう方向についてもう少し述べておこう。これに関連して安室に興味深い論考がある((41))。餅の向かう方向性がさらにはっきりするであろう。
 安室は神奈川県三浦半島に残る農民日記『浜浅葉日記』に出てくる餅について、その意義や社会性に注目している。安室は餅が、贈ったり贈られたりしてさかんに家と家の間を行き来していることに気づいたのである。そして餅を贈る行為には3つのパターンがあり、①家で用いるもの、②他家に与えるもの、③他家から与えられるものに分けることができるという。
 そのうち②の他家に与える餅について「餅が贈られる範囲は本家や妻の実家など同族や親族といった同等かそれ以上の家柄のところにとどまらず、出入り職人や小作人またときには被差別民にも及んでいる」という。それに対して③の他家から浜浅葉家へ餅が贈られる場合には「贈る場合と違って、自家より下の階層から餅を貰うことはない」という。そして「餅というのは浜浅葉家からは上も下もなくすべての階層に贈っているのに対して、貰う場合は同等かまたは上の階層に限られている」というのである。そして「浜浅葉家からみて下層に属する小作人や出入り職人、被差別民といった人々からはけっして餅を貰うことはな」いのである。そうした餅の贈答パターンからその家の社会的階層が見えており、村内におけるその家の社会的位置を示すことになるという。
 一見安室のいうように、餅の贈答パターンにはそうした社会的な意味を表わしているようにみえる。しかし餅にそうした価値が与えられているように見えるのは表面的な見え方である。どうしてわざわざ餅で社会的階層の上下など確認する必要があるのか。それは餅に最初から備わっていた属性ではない。なぜ下の階層から餅を貰うことがないのか。餅のもつ社会的な意味という点で考えれば、下層の人々には施しをするもの、逆に下層の者からものを貰うのは沽券にかかわる、といった理由があがるのかもしれない。しかし、その理由は餅が本来もっていたケガレをつけて運び去るという役割からたどるべきである。
 そうすると同族や親族など同等かそれ以上の家柄との間での贈答は交換を前提としたやりとりであるが、下層の人々に餅を与えるのは、ケガレを取り去ってもらう目的で与えていると考えられるのである。それゆえに逆に下層のものから餅を貰うことはけっしてないのである。
 さらに安室が注目しているように「他の家とのやり取りとは違って、本家に対しては、わざわざ『大備』とことわって大きな鏡餅を贈って」おり、この鏡餅は交換という双方向性を持たず、分家である浜浅葉家から本家に一方的に贈られるだけであるという。そうした行為は鏡餅が祖霊祭祀と深くかかわって用いられることを示すものであると安室は推察している。
 これとよく似た例を柳田の記述に見出すことができる。西日本のある田舎だけに限られるらしいというが、「年越には又親の餅と称して、子から老親に鏡餅をすゑることがあり、銕槳(おはぐろ)親・名付親・媒人・取上婆などの沢山の子方を世話した者には其餅が多く集まり、それを又再び孫に与える孫の餅といふものがあつた((42))」という。この例では本家だけではなく、家永続にかかわるさまざまな立場の者にも波及し、その誕生や成長に関与したものにまで鏡餅を贈る習俗がひろがったと解釈できる。
 こうした餅の一方向性は確かに祖霊祭祀にかかわることである。ではなぜそのときに贈られるのが餅なのか。それは餅に託されたケガレ祓いの役割と祖霊へさかのぼることの一方向性のためである。そのケガレとは余った危険な太陽としての餅であり、そうした太陽に働きかけることができるのは祖霊信仰がたどりつく鬼神をおいてほかにはない。それで、祖霊につながる本家にケガレの太陽としての鏡餅を託すのである。だからけっしてそれは逆流することはない。鏡餅はたんなる供え物ではないのである。折口信夫も鏡餅の意味するところに疑問をもち、鏡餅が供え物よりも神に近いものとみている。そこで次に、折口の餅についての見方、そして柳田の抱く餅への疑問について、あわせて検討してみよう。

柳田、折口の提示した餅についての疑問
 折口信夫は鏡餅を供物ではなく神体に近いものと見ている。折口は「国文学の発生(第三稿)」で「私はみたまの飯の飯は、供物(クモツ)と言ふよりも、神霊及び其眷属の霊代(たましろ)だと見ようとするのである。此点に於て、みたまの飯と餅とは同じ意味のものである」とし、だから「我々は、餅を供物と考へて来てゐたが、実はやはり霊代であつたのだ((43))」としている。(下線は原文のまま)
 この折口の「餅は霊代」説には賛成できないが、たんに供物ではないとしている点は認めたい。さらに折口は記して「鏡餅の如きも、神に供へる形式をとつては居ない。大黒柱の根本に此を据ゑて年神の本体とする風、又名高い長崎の柱餅((44))などの伝承を見ると、どうしても供物ではなく、神体に近いものである」として、餅はたんなる正月のお供えではなく神体に近いものである、として餅に負わされているわかりにくさを指摘している。
 餅のわかりにくさという点においては、柳田も鏡餅はなぜ丸いのか、吉凶のどちらにも用いられる餅の多面性、小正月の訪問者が餅をもらい歩くことが全国的であること、沖縄の餅の使い方には本土とはかなりちがいがあることなど、餅が負っている意味のわかりにくさに対してやはり疑問を呈している。このように餅は決してわかりきったものではないのである。この点で柳田、折口の両者は共通の認識をもっていたのである。
 たとえば「赤色の儀礼食」であつかったように、なぜエエモチと悪い餅としてのアカアカモチがあるのか、同じようになぜ吉事の赤飯と凶事の赤飯があるのか。凶事の赤飯の例も全国各地に類例があるし、白い餅に対する色つき餅や餡をつけた餅も全国に例がある。こうした吉と凶のどちらにも餅や糯米が使われるのはなぜか、柳田も疑問にしている((45))。
 柳田は正月に餅が関係あるのはもちろん、その他に村の社の祭典の鏡餅、家の新築の際の棟上の餅、婚礼、誕生の祝いの餅などがあってすでにこれらに餅をつかう共通の理由がわからないとした上で、つづけて「更に四十九餅だの耳塞ぎ餅だのと名づけて、凶事の折にも之を入用として居るのである。沖縄は早く別居した我々の兄弟だが、爰は極端で吉事には餅が無く、正月にも又餅が無い。鬼餅と称する12月8日等、季節々々の先祖祭の時などに、主として此食物は調整せられて居るのである」として、餅をいつ搗くか、何のために搗くかといった質問は、決してわかり切った愚問ではないとしている。
 柳田の関心の持ち方、何を問題とするかといった追究の態度はまことに鋭いものがある。この柳田の抱いた疑問の中には、餅と正月の関係の歴史が凝縮されている。沖縄における餅の特異性もこの歴史の経過のなかで考える必要がある。つまり餅に神聖な価値がつく以前に稲作とともに沖縄へ餅の習俗は伝播したのである。これについては稿を改めて論ずることになろう。

餅のゆくえ
 餅は決してわかりきったものではない。それどころか根本的な問題として、なぜ餅が各種の行事で使われるのか、その時、餅にどんな意味を負わせているのかが探究されなければならない。そのわかりにくい餅をケガレの餅、ケガレを託して運び去る器としての餅と考えると展望が開けるのである。
 「神体に近い」という折口の理解は供物であるというよりも、より本質に近づいたと思う。さらに「神体に近い」と折口が感じるほどの存在としての餅とはいったい何か。それはケガレを託された器としての餅というのが私の理解である。
 折口信夫は「国文学の発生(第三稿)」で「(新嘗の夜に)かうした夜の真のおとづれ人は誰か。其は刈り上げの供を享ける神である。其神に扮した神人である((46))」として、新穀の供えは、神に扮した神人に対して行われるという。「刈り上げの供」「新穀の供え」とは餅や米である。神に扮した神人とは小正月の訪問者である。そうすると小正月の訪問者へ餅を与えるというのは元の形を反映したものであるということになる。折口のいう真のおとづれ人、供えを享ける神、つまり小正月の訪問者にケガレを託した餅をあずける。その餅のゆくえは先祖であり、祖霊であり、そして太陽に働きかけることができるもの、それは祖霊信仰がたどりつく鬼神への方向なのである。

ケガレの起源と銅鐸の意味37 餅なし正月の意味と起源/小正月の訪問者と餅のゆくえ

2016年10月04日 09時12分46秒 | 日本の歴史と民俗
   第1章 餅なし正月の意味と起源

餅なし正月とは 
 餅なし正月の定義や研究史については『日本民俗学』188号所収の「餅なし正月・再考―複合生業論の試み」(安室知)から引用する((1))。詳細は同書にあたって欲しい。
 安室は餅なし正月の定義として坪井洋文の「正月元日を起点としたある期間に、餅を搗かず食べず供えずという禁忌を継承している家、一族、地域のあること」を引用している。そしてさらに餅なし正月伝承の振幅の大きさを指摘して、
餅なしの期間については、正月の間継続するものと、ある一時期に限られるもの(餅の解禁日が設定されるもの)という区別ができる。神話については、それを伴うものと伴わないものとに区別される。また、規制の内容については餅を搗かない・食べない・供えないという3つの規制要素のそれぞれ選択または組み合わせとなる((2))。

として、同じ餅なし正月でも規制の強いものからゆるいものまで広い幅があることを指摘している。そして餅なし正月は多くの場合、大正月の期間に限られているという。
 さらに安室はこれまでの餅なし正月に注目した研究者の見解として以下のものを紹介している。
 ○柳田国男―餅なし正月を伝承する一族(家)について、「餅は神聖のものなる故に最初から忌んでいたのであろう」。
 ○折口信夫―「祭りの忌みが厳しかった土地で、臼杵を用いず、年越しの夜を起き明かす習いであったため、食物の調整すらはばかられて餅を用いなかったのがもとのおこりではないか」。
 ○千葉徳爾は、雑煮や門松が中世以降の流行であるとして、餅なし正月を同族団の分解による、いわゆる旧家とそれ以降の新参者とを区別する役割を持つこと、つまり旧家側の伝統保持の意識により生み出されたとする見解を示している。
 ○坪井洋文は、稲作民文化と畑作(焼畑)民文化との接触とその葛藤に餅なし正月の起源を求めている。
 ○直江広治は、餅なし正月を稲作に先立つ畑作文化(栽培文化複合)の残存と捉える。
 ○桜田勝徳は、南洋からのタロ芋文化(根栽農耕文化)の伝播にその起源を求めようとした。 
 このように、これまでの関心の多くは餅なし正月の起源に向けられていて、正月における「餅なし」の意味や餅なし正月の機能については十分に解き明かした論考は少ない、と安室は指摘している。

 以上が従来の餅なし正月の研究についてのごく大雑把な把握である。『日本民俗大辞典』の「もちなししょうがつ 餅無し正月」の項も安室が担当しており、ほぼ上記の内容がまとめられている。つづいて安室はさらに坪井の主張する「稲作文化と畑作文化との葛藤に餅なし正月の起源を求める考え方が提出され注目を集めた」が、「しかしその伝承分布をみると、餅無し正月はむしろ平野部などの稲作優先地に多く分布する。つまり餅の禁忌は餅の存在を前提にして成り立つもので、餅無し正月は餅正月の一類型であると考えられる」と反論している。そして最後に「餅無し正月伝承は特別なことを示したものではなく、むしろ庶民生活の実情を儀礼化したもので、建前上公的に進んだ稲作単一化と実際の庶民の複合的な食生活との差が生み出したといえる」という結論になっている。
 安室のいう「餅なし正月は餅正月の一類型である」というのは一面の事実である。確かにそのようにも見えるのである。しかし先走って結論をいえば、反対に「餅正月は餅なし正月の一類型である」というのが私の見方である。
 「餅なし正月」をあつかったものに最近のところでは『「民俗」の創出』(市川秀之)があり「河内の餅なし正月」との章をもうけていくつかの事例を紹介している。そして研究史にもふれているが、ここで特に取り上げるべき新たな見解は出ていない((3))。これまでの研究は上にみるように、どれも餅なし正月という現象の一面の事実をとりあげて憶測したり、このように見えるといっているまでで、結局はこの現象を貫く原理を持たないので、現象全体の姿やその整合性を示せていないのである。

餅はケガレを象徴する
 私はここでまったく別の角度から新しい解釈を提出してみよう。私は「餅なし正月」もやはり射日・招日神話にもとづき、さらに暦の移入による正月の移動がかかわったものであると考えている。『散歩の手帖』25号、26号で考察してきたように、餅とは元来射日・招日神話にもとづく射落とされるべき余った危険な太陽の象徴である。したがってその餅とは地上の世界に害悪をもたらすケガレを象徴したものであった((4))。だからケガレとして始末された餅は新年にはもはや存在する必要がない。存在してはいけないものなのである。それが餅なし正月である。正月に餅がないとはそうしてもたらされた至浄の状態を現わしている。餅はケガレを祓うために機能しているのである。だから餅なし正月とは正月の最も古い姿を残したものなのである。そこで餅と正月の関係、正月における餅とのかかわり方を各地の民俗からふりかえってみようというのが今号の目的である。

餅なしの規制が働くのは
 安室によると、餅なし正月として餅に規制が働くのは、ほとんどの場合新暦の正月三が日に集中しているという。さらに三が日の3日間を通してということはほとんどなく、元旦(元日)にもっとも多く集中する。またさらに1日のうちとくに朝食に(ということは元旦に)特に餅なしの規制が働くとしている((5))。
 元旦とは本来、元日の朝のことである。ということは正月の、新年最初の太陽を迎える朝に餅はあってはならない、ということを意味している。元日の朝、つまり元旦こそもっとも餅をさけなければならない時ということになる。なぜなら、『散歩の手帖』25号「5章 1日の始まりは日没から((6))」 で述べたように、大晦日の日没から夜籠りし、ケガレを餅に託して祓えやられたはずだから、元旦には餅はいらないし、あってはならないはずなのである。これが正月を餅なしにして迎える、いわゆる「餅なし正月」となる理由である。興味深いのは中国少数民族ミャオ族の例である。ミャオ族は「丸餅は辰の日(元旦)は神にささげるもので、家人は決して食べない」という((7))。そして『日本民俗学』174号所収の「餅なし正月と雑煮」では都丸十九一は、古くは餅を雑煮に入れてなかったと説いている((8))。都丸の論文についてはこの章の最後に検討しよう。なぜなら、家々からケガレの餅を取り去るという習俗がかつて広く普及していたことをこれから以下に検証し、その上で都丸の論文を見ていくと雑煮と餅の関係や、正月には餅をさけるものだったことについて理解が進むからである。

ナマハゲの本来の目的
 『日本民俗大辞典』下巻「ナマハゲ」によると「年の折り目・年越しの晩に神が来臨して祝福を与える行事。男鹿半島において、12月31日の夜か1月15日の夜に行われる。ムラの若者らが鬼のようなナマハゲ面を被り(略)家々を訪ねる」としている。そして3つの起源説を述べているが、どれも取れない。『日本民俗事典』(大塚民俗学会編)の「なまはげ ナマハゲ」ではもう少し本質にせまる記述がされている。まず「おそろしい鬼の面をかぶり」「家の主人が羽織袴の正装でナマハゲを迎え、酒肴や餅などで鄭重にもてなし、ナマハゲも神棚に礼拝し、祝福の言葉を述べている」。さらに「能登半島のアマメハギという行事は、(略)家々を訪ねて餅を集めて歩く」との記述がみられる。
 これらナマハゲやアマメハギはいわゆる小正月の訪問者と呼ばれている。そこで『日本民俗大辞典』で「小正月の訪問者」を引くと、このような行事は全国的に広く分布しており、中国地方ではコトコト、ホトホト、トヘトヘ、トロヘイ、四国ではカユツリ、徳島県ではオイワイソと呼ばれているという。多くは「ナマハゲのような威圧的な態度はとらない」が、青年や厄年の者が仮装して「農業に関するものを所持して、それと引き換えに餅をもらって歩く」あるいは「家人と一切会わないようにして所持品と餅とを交換するところもある」また「厄年逃れや旱魃を防ぐなどといって訪問者に水をかけたりもする」などの記述が目を引く。
 いずれも仮装した訪問者が現われると、ナマハゲでは餅でもてなしたり、アマメハギは家々を訪れて餅を集めて歩いたり、そのほか訪問者は所持品と交換に餅をもらって歩いたりしている。現われ方や振る舞いは各地各様であるが、みな餅を手に入れて去っていくのである。小正月の訪問者は「初春にやってくるまれびと神の信仰に基づくとされ、農業の予祝儀礼的側面をもつ」(『日本民俗大辞典』)とされているが、本当の目的は家々から餅をもらう、あるいは餅を取り去るということにあるのではないか。
 ではその餅とは何だろうか。何を意味するだろうか。すでに『散歩の手帖』25号、26号で述べているように、これもやはりケガレを負ったとみなされる餅であろう。ナマハゲは年越しの晩に現われるのである。あるいは小正月の15日の晩に現われるのである。小正月の訪問者はいずれも14日の晩か15日の晩に現われる。そしてケガレを負わせた餅を託して去らせ、その結果、至浄の正月を迎えるのである。いずれの場合も正月の前の晩、つまり現在の大晦日の日没から元旦の未明のうちに訪問者は現われて、いずれも餅をもらって、夜が明けないうちに立ち去るのである。それはちょうど、夜が明けないうちに烏勧請のカラスにケガレの餅を与えて、ケガレを運び去らせるのと同じである。そして正月の朝、清浄な元旦を迎えるのである。
 そのように小正月の訪問者にケガレを負わせた餅を託すと考えると、ナマハゲの語源についても納得できるのである。『日本民俗事典』によると、ナマハゲの語源について「ナモミすなわち炉にあたっていると生ずる火斑をはぎとるという意味から出ている」という。ナマハゲと同種の行事をナモミハギ、ナモミタクリと呼ぶところもある。火斑とはヤケドとはちがうのだろうか、私には読み方もよくわからないが、ハグ、タクルとは何かできた皮膚の表面をはぎとる行為であるらしい。また小正月の訪問者をカセドリ、カセギドリと呼ぶところもある。「かせぎどり」については『日本国語大辞典』(小学館)では「稼ぎ取り」の意をあてているが、カセドリはかさぶたとりの意ではないかと想像する。同辞典では「かせ」はかさぶたの意がある。ということは焼けて真っ黒に焦げた餅の皮をはぎとるという意味にならないか。カセギドリももとは同じだったのではないか。つまりナマ、ナモミ、カセ、これらはケガレを象徴するもので、これらのものをはぎとるのがナマハゲであり、ナモミハギ、ナモミタクリであり、カセドリである。したがってナマハゲとはケガレをはぎとるという意味である。そしてナマハゲの行為は餅に託したケガレを運び去ることを意味している。

ホトホトの餅
 小正月の訪問者の例からホトホトについてさらに取り上げてみよう。ホトホトをみていくと餅にケガレを託すという行為がよりはっきりしてくる。ここでは中国地方のホトホトについて『無形の民俗資料 記録第6集 正月行事2 島根県・岡山県』から引用する((9))。「(16)松の内の言寿(ことほ)ぎ」として、戦後は全く絶えたというが、昔は松の内に特殊民による言寿ぎがあり、それより古型で、若連中や子ども組による言寿ぎがあり、それをホトホトとよんでいたという。「粟餅いらん、米の餅ごっさい」といいながら正月中歩いたという。「ごっさい」とは「ください」である。特殊民の男が二人で祝いにくると、やはり家の中から餅や金をやったという。さらにホトホトに堕する以前の例と称して、ガガマを紹介している。ガガマとはこわいもの、お化けの意味で、ある土地では旧3月1日の恵比須祭りに、神前に供えた飯を頭主が適当ににぎって参った子どもにやるという。いずれの場合も餅や飯を与えるのである。
 さらに岡山県の例であるが「遊芸人の来訪」として1月13日以後、大黒などのいろいろな芸人が来て、庭先などで祝い歌を歌ったりして、餅や米をもらったという。福俵、オフク(お福)などの訪問者も餅をもらって歩く。その他、猿まわし、ヘイトウ(こじき)などもきて、記載はないがやはり餅をもらったと考えられる。彼らは備中・伯耆などの未解放の人たちが多かったが、戦後は絶えてしまったという((10))。
 岡山県真庭郡新庄村のホトホトでは、厄年の青年たちが厄落しのために夕刻、簑と笠をきて何軒もまわり、たくさんの餅を集めたというが、信仰心が薄くなり、ヘイトウ(こじき)だという観念が強くなって、30年ほど前から行なわれなくなったという((11))。
 これらの事例になぜ「特殊民」や「ヘイトウ」「こわいもの」「お化け」がかかわってくるのか。これらの人たちもやはり「小正月の訪問者」であり、ケガレを体現しており、餅に託されたケガレを持ち去っていく役目を負っているのである。困窮者や被差別民がケガレの餅を運び去る者としての役割を負っていたのである。いずれも戦後には信仰心が薄くなって、習俗は絶えている。「こじきだという観念が強くなって」行なわれなくなったというのも、ケガレを祓えやるという本来の目的が忘失されて、ケガレを運び去る担い手としての「訪問者」と「こじき」の役目とが結びつかなくなって、こじきや特殊民はたんに汚いもの、遠ざけたいものという存在にされてしまった結果、習俗が絶えたのであろう。解放運動や、人々の人権についての認識の変化も大きいかもしれない。
 これら小正月の訪問者の例は新谷尚紀の『ケガレからカミへ』でも紹介している。そして人々のケガレを背負っていくと解釈している点は私と同じである((12))。しかし、ケガレから福徳へ、民俗心意のメカニズムが作動してたちまち逆転するとの説を展開しているのには同意できない。これについては51ページの「トシドン来訪」のところで取り上げる。

ケガレの除去と被差別民
 柳田国男は「浜弓考」において言寿ぎではないが、特種民がかかわる行事を紹介している((13))。柳田は弓神事の的の問題として「紀州御所村の所謂日出的では、牛の頭の皮で作つた的を、近在の某に毎年納めさせて」いたとか、江州「池寺村正月16日の弓神事の的は、其枝郷の籠屋(多分特種民)に作らせた六目籠へ紙を張つてこしらへる」という例を出して、「而して祭典終つて送つて棄てる目籠と云ひ牛馬の首と云ふものが、果して何を意味して居るかは、猶追々に陳列する材料と比べて見ての後で無ければ、自分は臆断を下すのに躊躇せざるを得ぬのである」との疑問を提示しながら慎重である。2例とも特種民(特殊民)が弓神事の的の制作にかかわった例である。なぜ被差別民に牛の頭の皮で作った的や、六目籠を作らせたのか。弓神事の的はすなわち射落とすべき太陽であり、ケガレを運び去るカラスであり、ケガレの餅を託して運び去る小正月の訪問者と同義である。したがってこれはケガレを祓除(ふつじょ)しようとする行為だからこそケガレを運び去る役目としての被差別民がかかわったのである。ホトホトの餅を運び去ることに多くは被差別民がかかわったのと共通している。ではなぜそれにかわったのが被差別民なのか。
 それは被差別民がヒジリや巫覡(ふげき)など古代の太陽祭祀を執行する存在にまでさかのぼると考えられるからである。それについては『散歩の手帖』29号で詳細に検討する。今号では上のようにケガレの除去に被差別民がかかわる例と似た面をもつ事例について考えてみよう。それは坪井の分類した餅なし正月の由来伝承の7分類のうちの「異邦人虐待」の事例である。それを17ページの「異郷人虐待の分析」の項で紹介し、検討する。また「小正月の訪問者」の事例34にも似た例が見られる。牛の首輪である。いずれもケガレを運び去る行為を現わしていると考えられる。
 ナマハゲばかりが有名であるが、この種の小正月の訪問者の行事は全国的に広く分布している。そしてこれらの、餅を集めて歩いたり、餅をもらって歩くという行為も、たんに正月で餅があるから餅を与えるというのではない。オビシャやオコナイ、弓神事などと同様、射日・招日神話に由来する、余った危険な太陽を射落とすこと、そのケガレの太陽こそ餅であり、罪穢れを託した餅を祓除して、至浄の新年を迎えるのである。そうなると餅が必要なのは、正月の前であり、正月にはすでに必要ではない。それどころか、正月には餅はあってはならないのである。そうして現われたのが餅なし正月である。餅があるということは、正月にケガレを持ち越していることになるのだ。
 つまり「餅なし正月」とはケガレを祓えやって迎えた至浄の正月という状態であり、その状態について、民俗学者たちにつけられた名称である。『日本民俗大辞典』「もちなししょうがつ 餅無し正月」によると「餅無し正月、それ自体をいい表わす民俗語彙はなく、単に家例などとされる場合が多い」と記述されている。このような際立った習俗になぜ名がなかったか、それは、そのような民俗はなかったからである。「餅なし」とは正月を迎えるための前提条件として正月準備の最後の段階に現われる状態にすぎず、そのこと自体に名をつける必要などなかったのである。

餅なし正月の分布
 『日本民俗事典』(大塚民俗学会編)によると餅なし正月は、北は青森県から南は鹿児島県に至るまで全国的に100ケ所以上も知られているという。『イモと日本人』でも北海道以外の日本各地から多くの事例を紹介している((14))。これらは一見しただけで餅なし正月が普遍的な習俗、古い時代にはかなり広く普通に行なわれていた民俗であろうことを思わせる。著者の坪井自身もそう判断している。したがって「餅なし」の状態こそ正月を迎えた普通の状態と考えれば納得できるのである。ただ、餅は神聖なもので正月には無くてはならないものという常識に現代は強く支配されているので、餅がない状態が正月に普通であったことが、受け入れ難いのである。このような現代の常識は必ずしも歴史上では常識ではないことは、都丸十九一によってすでに明かにされているのであるが、あまり注目された様子はない。都丸論文の背景にある重要さにも気づかれていない。この章の最後、27ページで都丸論文は検討しよう。
 坪井は『イモと日本人』掲載の「図2 餅以外のものを新年の正式食物とする」という分布図をとりあげて「これによると米から作った餅は必ずしも新年の正式食物として神に供え、人間が食べるのでないことがよくわかると思う。分布もかなり普遍的である((15))」とここでは図の意味を冷静に読みとっている。
 その図は日本地図の青森から鹿児島まで万遍なく餅以外の新年の正式食物の分布が広がっていることを表わしている。さらにいえば安室は長野県内の餅なし正月の分布について「大きな広がりを見せる稲作地の中でもとくに稲作優越地に餅なし正月が多く分布する((16))」としている。ということは、その分布地域は稲が他の作物に優越して中心的作物となっているわけだから、稲に関する文化、民俗伝承も比較的強く継承している地域のはずである。そうしたところに餅を遠ざける習俗がより濃く分布するということは稲作の民俗において、正月に餅を遠ざけることが、実はより本質的な習俗であることを推定させるのである。坪井の「餅以外のものを新年の正式食物とする」という「図2」において、正月に餅が正式食物でないという分布がかなり普遍的なのも、稲作の民俗の中で、正月に餅を食べない、あるいは餅を避けるということがかつては本質的な習俗であったからである。
 また、餅なし正月には東西に変遷を思わせるような差がみられない。これは文化周圏論のように、西日本から東日本へ時間をかけて伝播したわけではないからである。最初から正月には餅はないというのが、正月の定型として稲作民俗の行事に内包されていたからであろう。だからその土地の芋など、北なら山芋、南なら里芋というように、気候や植生からくる地域ごとの差異が儀礼食のちがいとして見られるだけである。というわけで餅にまとわりついている正月になくてはならない神聖な食物という固定した認識を見なおす必要がある。

餅の本来の意味
 餅を、各地に現われる小正月の訪問者に与えるにせよ、カラスに与えるにせよ、オコナイの新頭屋が大餅を引き継ぐにせよ((17))、裸祭りで罪穢れを搗き込んだものと信じられている土餅を儺負人に負わせて追放するにせよ((18))、そうして各種各様のケガレ祓えをやるために餅が使われるのである。これらさまざまな行事のなかでの行為や局面で、共同体から餅を引き剥がそうという力が働いている。白い餅は汚す、色をつける、焼き焦がす、小豆をぬる。あるいは餅を屋根に投げ上げる、使った箸を屋根に上げる。餅を神に扮した青年、子ども、カラス、遊芸人、被差別民などの訪問者に運び去らせるのである。そして新年を迎えたのだから、新年にはもう餅は必要ないのである。若狭の烏勧請ではオトボンサンと呼ばれる太陽を象徴する餅が神饌であり、これをカラスがついばむと正月を迎えることができる((19))。つまりカラスがケガレの餅を取り去って新年になるのである。関東のオビシャでは烏の絵を矢で突き破ったことによってケガレの太陽を始末したことになり、このあと新頭へ引き継がれる、つまり新年を迎えるのである。
 ということは「餅なし」こそが正月の朝の、つまり元旦の本来の姿であり、正月の本質を引き継いだものである。それに対して、餅にケガレを持ち去っていく祓除の力、厄払いの力としての意味を見出し、それがのちに供え物として変遷していったのが、今日一般に普及している餅正月ではないか。餅なし正月が古い時代にはかなり広く普通に行なわれていた民俗だったかのように分布しているのは、まさに正月の本来の姿だったからだと考えられる。5ページで述べたように私の結論を安室の記述をもじった言い方をここにくりかえせば「餅正月は餅なし正月の一類型」なのである。
 ここまで餅が、もとは運び去られるべきケガレの象徴であったことを射日・招日神話にもとづく弓神事や烏勧請、小正月の訪問者などを使って述べてきた。ところで坪井洋文の餅なし正月の資料の中にも餅がもとはケガレの象徴だったことをうかがうことができる。次項では坪井の資料を使って、運び去られるべきケガレの象徴としての餅について、さらに追究してみよう。

餅なし正月の由来伝承にみるケガレ
 坪井は『イモと日本人』 において、餅なし正月の由来を語る伝承を53例しめして、餅なしの起因の違いによりそれらをつぎのように分類している((20))。
困窮の追体験    事例1~7
戦争、落人     事例8~20
異郷人虐待     事例21~28
赤色の儀礼食    事例29~32
餅と死と血     事例33~39
餅搗きと火災    事例40~46
火と禁忌      事例47~53


 ここで気がつくのは、上に分類された項目の内容はすべて具体的なケガレを表現しているということである。正月に餅を食べない理由として、これらの伝承は餅なし正月になった起源はその家の、あるいはその一族の、あるいはその地域の過去におこったとされる出来事に結びつけている。そしてその出来事のどれもがすでに意識されていないし、坪井も気づいていないが、ケガレを出発点としているのである。いずれの伝承も聞き手を納得させるために困窮したとか、戦のためとか、具体的な内容に変容しているが、項目を形成している困窮、戦争、虐待、死、血、火災などはケガレである。つまりその底には餅なしになった起源はすべてケガレであったこと、そしてケガレを負った餅は遠ざけるべきもの、との観念が横たわっているのである。
 新谷尚紀の『ケガレからカミへ』の第4図「ケガレの具体例と特徴」によると、まずケガレは大きく身体、社会、自然の3つに分けられる。そして身体に関するケガレは糞尿・血液・体液・垢・爪・毛髪・怪我・病気・死など。社会に関するケガレは貧困・暴力・犯罪・戦乱など。自然に関するケガレは天変地異・旱魃・風水害・病害虫・飢饉・不漁・不猟など。以上のように示すことができるとしている。そして新谷は「ケガレとは生と対立する死へのイメージを呼びおこすもの」と捉えている((21))。
 上記の7つの項目に分けた53の事例はそのほとんどが新谷が示したケガレの具体例に当てはまるものである。どれもケガレに直結する分類なのである。そのなかでひとつだけわかりにくい分類項目は「赤色の儀礼食」であろう。なぜ色をつけた儀礼食がケガレに分類されるのか。これらの儀礼食の内訳は糯(もち)米(ごめ)に小豆を入れて搗いた餅や、紅で色どりした餅、また芋や人参など野菜を入れて搗いた餅、そして赤飯である。これらは儀礼食であるから、一見するとほかの6つの項目とは相容れない異質な項目のように見える。しかしこれらが白い餅や糯米をわざわざ汚していると見たらどうか。ケガレを象徴させた餅として色をつけたり混ぜ物を入れているのであると。ここでもやはり、備後の弓神楽において祭祀のあと祭場を泥だらけにしてしまう土団子や、尾張大國霊神社の儺追神事における、罪穢れを搗き込んだと信じられている土餅と共通するものを感じさせるのである。色つきや混ぜ物を入れた餅については「赤色の儀礼食の分析」の項で考える。
 ただし、すでに遠い過去に餅に託された意味、つまり餅にケガレを負わせていることは忘れ去られている。それなのに正月に餅はあってはならないという習俗だけが、意味を失っても形として引きつがれたのである。民俗のなかにはそういったものが多い。その形のみ引き継がれたために我らの行為を説明する必要が生じて神話、伝説が新たに生まれたのである。これらの色つきの儀礼食や小豆などをつけた餅については次号で「小豆 ケガレの象徴として」と題して詳述する。

異郷人虐待の分析
 正月に餅は必要ではない、否、あってはならないというのが「餅なし正月」である。それを裏づける証拠として、これまで「餅なしの規制が働く時」「ナマハゲ」「小正月の訪問者」などを取り上げてきた。そこから導きだされる餅の本来の意味、本来餅が負わされている意味は、ケガレをつけて運び去られるという役目であった。それが確認できたと思う。
 もうひとつ、坪井の53事例の中からも、正月に餅があってはならないこと、それは何者かによって運び去られる必要があることの傍証を見つけることができる。坪井の分類のなかの「異郷人虐待」の事例からそれを探ることができる。
 まず事例21から28で異郷人が何をしに現われて、それに対して村人がどう応対し、餅がどうなったかを抜き書きにしてみよう。

事例21 旅僧が餅を所望したが、これは粥だといって断ったらことごとく粥になった。その後、餅を搗いても粥になって餅が搗けないので、餅搗きをしない。旅僧は弘法大師であった。
事例22 大塔宮が大歳の日にこの地を通り、餅を所望したが、餅は春は搗かないと答えたので、その後は餅を搗けば祟りがあるという。
事例23 大塔宮が通ったとき、餅を所望したが与えなかった。のちに村人はその非礼を恥じて正月に餅を搗くことを止めた。
事例24 昔、近くの山で老婆が弓を鳴らしていたとき、の男が邪魔をした。そのためか、その年に搗いた正月の餅がどろどろになって固まらなくなったり、に不幸が起きたので、餅を搗かなくなった。
事例25 正月餅を搗けば杵が飛ぶといって、餅のかわりに団子餅を食べる。
事例26 正月餅を搗いたら、小児がぐずるので親が、そんなにぐずったらおばけにやってしまうぞとおどしたら、本当におばけが現われて、その子をもらうというので、たまげた父親が搗いた餅を投げ与えた。それから節季に餅を搗くと、いつもおばけがやってくるので、餅つきを止めた。
事例27 正月餅を搗いていたら鬼がやってきて、残らず餅をさらって帰った。
つぎはかなり示唆的で重要と思われるのでほぼ全文を引く。
事例28 このへは毎年正月の餅搗きに山姥がきて、各戸の餅搗きを手伝っていた。山姥の搗いた餅は無病息災、家業繁盛をもたらす福餅だった。しかし山姥は身なりが汚く、村人たちは手伝いを断りたく思っていた。その手段として、ある年、餅搗きの日を変更した。これを知らずにきた山姥は、どこの家も餅搗きはすんだと断られ、しかたなく山へ帰ったが、途中で空腹と寒さのために死んでしまった。次の年からは天災や悪疫が相ついで起こり、里人は山姥の祟りと思い、山姥を姥大明神として祠を建てて祀り、正月三が日は餅を断つことを誓った。

 これは愛媛県浮穴郡美川村の事例だが、よく似た話が新谷の『ケガレからカミへ』で高知県香美郡物部村の事例として見られる((22))。

 上記のケガレの種類による7分類のうちの「異郷人虐待」に分類される事例21から28は25をのぞいて弘法大師、大塔宮、老婆、おばけ、鬼、山姥がやってくる。これらはナマハゲなどの小正月の訪問者に通じるものと考えられる。そして餅なし正月の由来を語るなかでは時代の古い型に属すると思われる。その理由は2つある。1つは「異郷人虐待」以外の項目では、たんに餅なしになった直接の理由を語る伝承にすぎず、そもそも正月になぜ餅があってはならないかに結びつく本来の理由が忘失されていること。それに対して「異郷人虐待」では異郷人である異界からの訪問者に餅を与えることで、その家から餅を取り去るという本来の訪問者の役割を反映させているからである。
 そしてもう1つの理由は「異郷人」の内容が弘法大師、大塔宮はともかくとして、老婆、山姥、おばけ、鬼とあるように、これらは祖先神、そして鬼神に通じると思われるからである。鬼神とは『散歩の手帖』25号「鬼神とは何か((23))」で述べたように、祖霊の極まったものであり、自然災異に働きかけることができると考えられているのである。弘法大師も大塔宮も祖先神から変化した存在といえるだろう。戦乱や貧困、火災などを起源としたり、弘法大師、大塔宮などを持ち出しているのは、「餅なし」の説明を具体的にして、聞くものを楽しませたり納得させるための変化と考えられる。したがって餅なしになったのを戦乱や貧困などいかにもありそうなことを理由としているのは新しい形であろう。伝承されていく過程で内容が具体的になっていったり、話が粉飾されていくのである。では異郷人虐待の事例の意味するところをさらに見ていこう。
 事例21、22、23はケガレの餅を訪問者が所望するという形で取り去りにきたのに、断ってしまった事例である。21では旅僧が餅を所望したのに断ってしまった。22では、大塔宮が餅を所望したのに、春は、つまり正月は餅は搗かないといって断ってしまった。23でも大塔宮が餅を所望したのに与えなかった。
 事例24では「老婆が弓を鳴らしていた」という不可解な描写である。ここには射日神話の残存をみることができる。弓を鳴らすというのは、射日神話における余分で危険な太陽、つまりケガレの太陽を射落とすことを象徴している。だからそれはケガレの餅を取り去ることを意味している。老婆というのは28の山姥と同等と考えて差し支えないだろう。老婆も山姥も鬼に通じるものであり、得体の知れない「モノ」であるが、それは病気や貧困、戦、自然災異にまで影響力を持つとされる祖先神の極まった存在である「鬼神」にまで連なる存在である。『日本民俗大辞典』の「小正月の訪問者」からの引用のなかで「厄年逃れや旱魃を防ぐなどといって訪問者に水をかけたりもする」というのも訪問者は鬼であり、自然災異にも影響をもつ鬼神に通じるからである。だからナマハゲは鬼の面をかぶっているのである。その老婆が弓を鳴らしていた時に村の男が邪魔をしたために、ケガレの太陽を射落とせなかった、つまりケガレを取り去ることができなかったことを示している。
 事例26は話をおもしろくするための脚色があるが、27同様、ケガレの餅が取り去られたことを意味している。27では端的に伝承の意義だけを伝えてきたのである。
 事例28は山姥がきて、村の家々の餅搗きを手伝ってくれていた。ということは村人はお礼に餅を山姥に与えていたはずである。それはあとにある、餅つきを断られた山姥が空腹と寒さで死んでしまうという描写で確認できる。村人は汚い山姥を追い払うために餅搗きの日を変えてしまったのである。山姥という訪問者に、それまではケガレの餅を取り去ってもらえていたのに、村人はその仕組みを壊したために、天災や悪疫などの不幸をまねくことになった。
 21から28は、いずれも小正月の訪問者が餅を持ち去ることと同様、餅は異郷人によって持ち去られるべきものだったことが推察できるのである。餅なし正月の由来伝承も、特に異郷人虐待の事例では、これもまた正月には餅はいらない、あるいは餅は持ち去られなければならないことを示す傍証になるであろう。ここに10ページで述べた被差別民の役割との共通性がうかがわれるのである。
 餅なし正月の由来伝承は、このように異郷人虐待の事例21~28に見るように、つきつめると祖先神の極まった存在としての鬼神につながり、鬼神は自然災異に働きかけることができると、かつては信じられていたのである。自然災異に働きかけるとは、強すぎる太陽に働きかけることができることを示している。したがって餅なし正月の由来伝承も小正月の訪問者も目的は同じ、ケガレを託した餅を運び去ることにある。
 つまり、強すぎる太陽に働きかけるとは、さかのぼれば太陽祭祀を司祭することである。その祭祀にたずさわるのがシャーマンであり((24))、巫覡(ふげき)の末裔としての遊芸人や被差別民なるがゆえに、ケガレの運び去りにかかわるのである。これについては『散歩の手帖』29号か30号で詳細に検討する予定である。

赤色の儀礼食の分析
 つぎに餅なし正月には白い餅はいけないが、色つき餅ならいいという例がある。事例29から32「赤色の儀礼食」である。その中から事例29について考えてみよう。
 事例29、福島県相馬地方では、糯(もち)米(ごめ)に少量の小豆を入れて搗いたものをアカアカモチ(赤々餅)といって正月三が日に用いた。また白い餅に餡をつけたものもアカアカモチといって、やはり三が日に用いた。糯米だけで搗いた白い餅はエエモチといい正月には食べぬという。エエモチとは良い餅の意だろう。白い餅は良い餅であるならば赤い餅は悪い餅ということになる。現在赤い餅、色のついた餅に悪い餅という認識があるかどうかわからないが、白い餅ならエエモチという言い方に色つきの餅は悪い餅、つまりケガレのある、取り去らなければならない餅という、かつての認識の跡が残っていると考えられる。
 しかもエエモチといわれる白い餅は正月には食べぬという。したがってこれも坪井の分類したとおり「餅なし正月」である。しかし「エエモチ」と呼ばれているということは、伝承としてのケガレをつけて運び去られるという「餅なし正月」は引きつがれているが、その意味を忘失しているので、呼び名はすでに縁起がよいものとしての餅「エエモチ」になっているのである。しかし一方で、正月に餅を使うことが普及している。そこにやはり色をつけることの意味が忘失しているアカアカモチ、つまり色をつけたり、小豆の餡を餅につけたりしてケガレを現わしていたことが忘れられて、逆にその色合いから縁起のよいものと解釈されるようになったアカアカモチが、正月に用いられるようになった。事例29はこのように解釈できるのではないか。これで赤色の儀礼食もやはり7分類に納めるべきケガレにその起源があると判断できるのである。
 事例30では、小豆のほかに蜀黍、芋、人参などの野菜を入れたり、紅で彩ったりするという。事例31、32では餅を搗かずに赤飯を炊いている。
 凶事の赤飯という例もある。『日本民俗大辞典』(上) 「せきはん 赤飯」(板橋春夫)の項に「群馬県の一部では現在でも葬式当日の念仏に際して赤飯が用いられる。凶事の赤飯の例は、北は青森県から南は熊本県まで、全国各地に類例があり、吉事の赤飯と区別するために黒豆を入れたり、赤色に染めないなどの事例がみられる」と記述されている。全国各地に類例があるということは、これも餅なし正月の餅と同じで、取り去るべきケガレの餅¬¬=糯米として機能していたと考えられる。そうするとやはり、色つき餅や赤飯もケガレを象徴すると理解することで7分類のひとつとして含まれていることに、納得できるのである。
 坪井は『イモと日本人』で小豆を用いた雑煮、粥、汁の類が儀礼食として広く認められるとしている。しかし小豆が「餅とどのような関係にあるのかは、残念ながら報告された資料では判断しかねる((25))」として、それ以上は考えをすすめていない。
 坪井の抽出した餅なし正月の由来を語る全53事例の全体をみると、糯米または米に小豆やヨモギを入れて搗いて、白い餅ではなくしている例が13例みられる。それ以外の、里芋やうどんなど、米と糯米以外で用意した儀礼食が15例ある。合計28例あり、全体の半分を占める。これらの色つき餅や里芋、うどんなどは、たんなる白い餅の代わりではなく、米の不足を補うためでもなく、白い餅をケガレとして祓えやっていたものと同じく色をつけたり混ぜ物をしたりしてケガレを表現したものであり、または餅なしの代わりとしての里芋やうどんである。ところが色をつけたり混ぜ物をすることの意味もすでに忘れられた結果、その色取りから縁起のよいものとして認識されるようになった色つき餅であると考えるべきだろう。つまりこの場合の「餅なし」とは「白い餅」を拒否することであって、ケガレとしての意味づけが忘れられた色つき餅や、里芋、うどんなどを使うのである。さらにおもしろい例を坪井は紹介している。餅ではなく「芋なし正月」の事例である。

「芋なし正月」を生む心理
 坪井の『イモと日本人』における前提となる問題意識は「正月に餅以外のものをなぜ重要とするのか((26))」ということである。しかし、その重要である対象を里芋としたのは坪井の思い入れの強さであって、実際には里芋が特に重要だったわけではない。それは餅をはずすことが正月の本来の姿であれば、祝うべき正月に餅以外の何らかの儀礼食をすえる必要があるからであって、それが芋などの畑作物だっただけである。芋類に特別の地位を与える必要はなかったのである。だから芋以外にも儀礼食として、赤飯、団子、うどんなども使われているのである。
 さらに餅どころか、坪井とすれば不本意な事実であるが、里芋を食べない、避けるといった、まるで「餅なし正月」の里芋版といった事例を坪井は紹介している。『イモと日本人』のなかの事例71~77である。宮城、福島、群馬、埼玉、八丈島からの資料を坪井はその例としてあげている。坪井はこれらの事例について、心意の底に何が潜んでいるか注意をひく資料であるとして、これらの里芋に対する厳しい禁忌は里芋の霊質に対する畏敬であり、霊質に対する神聖観があってのことであろうとしている。
 しかしこのように、理解不能の事象に出会うと、霊とか神聖とかいう言葉を持ち出して済ませるのは、民俗研究者の悪いクセではないか。むしろ正月には餅という肝心な祝いの品は避けるものであるという、餅なしの家例をもつ家の意識が、儀礼食としての里芋にまで反映している、その結果ではないか。餅に対して働いた意識と同じ心理が里芋を避けるという行動を呼んだのではないか。

小正月から大正月へ
 3ページで安室の論考を引用したなかで紹介したように、大正月にだけ「餅なし」が現われる。それは、より古いとされる小正月から、正月には餅がない、あるいはあってはならないといういわば正月を迎えるための行事の結果だけが、元旦(朔旦)正月へ移ったからである。正月が移動したことによって、結果としての餅のない状態だけが大正月へ移ったのである。したがって依然として正月を迎える行事、つまり小正月の行事には餅をともなうのである。
 小正月行事であった場合には、夜を徹して餅搗きから餅の祓えやり、そして新年を迎えるまで一連の行為でケガレの餅が祓えやられる。一連の行為とは種々の訪問者やオコナイ、オビシャ、弓神事、トンド焼き、鳥追いなどの数々の正月行事といわれるもので、その中でケガレを託した餅が祓えやられるのである。しかし、朔旦正月にして1月1日に正月をもってくると、餅のない元日の朝の状態がいきなり現われることになった。つまり、より古い時代の正月ならばするはずの数々の正月を迎えるための、いいかえれば、ケガレを祓えやるための行事は小正月に置いていかれたのである。一連の行為をそっくりそのまま全部大正月の前へ持ってくるという意識はすでになかったのである。なぜなら、正月を迎えるための行事に込められていた、餅に託してケガレを祓うという意味をすでに忘失していたからである。そのため結果としての餅のない状態だけが大正月へ移り、いきなり「大正月」では元旦を迎えることとなったのである。
 以上のように「元旦には餅はない」あるいは「正月には餅はあってはならない」という結果の状態だけを移したのが「餅なし正月」である。それにもかかわらず餅なしにいたった由来、神話をなかには伴っている場合があるというのは、なぜか。それはつぎのように考えられる。
 「餅なし」を伝承している家や一族がある一方で、正月に餅を供える、食べるという習慣が次第に普及定着していった。そして正月が朔旦に移った時に、その古い習慣である「餅なし」を伝承していた家では朔旦正月に「餅がない」という状態が、普及定着していく「餅正月」のなかで次第に際立つことになった。しかしそれらの「餅なし正月」の家でも、すでに餅に負わせている本来の意味、すなわち餅にケガレをつけて運び去らせるという意味は忘失している。しかし正月には餅は避けなければならないという伝承だけは持ち続けている。そうなるとなぜ餅があってはならないのか、何らかの説明が新たにつけられる必要が生じる。そして困窮したとか戦で餅をつくことができなかったなどの伝説、神話が生まれたのである。だから小正月には餅なしに至った伝説、神話は例外的にしかないのである((27))。
 では「餅なし正月」が出現した過程をもう一度おさらいしておこう。正月行事の一式をそっくり小正月から朔旦へ移していれば「餅なし」の状態もそのまま移行したはずであり、それなら、「餅なし正月」などという言われ方もなかっただろう。ところが、ケガレを餅に託して取り去ることに重点がおかれた小正月の行事のいろいろが、すでにそれらの行事の本来の意味が忘れさられていたために、小正月に置いていかれたままになったのである。それで結果として餅のない状態だけが朔旦へ移った。これが餅なし正月といわれるものである。同時に正月に餅を飾り、餅を食べる習慣がしだいに普及してきており、そうした習慣をもつ家や一族は、朔旦へ移ったさいにも餅をともなっており、餅正月として定着してきていた。そして「餅なし」の家例をもつ家のなかには、もっともらしい由来、神話、伝説が必要になったのである。
 以上のように、暦の移入によって正月が移動し、それによって朔旦正月に「餅なし」という形で現われたのが「餅なし正月」である。安室が「餅なし正月は多くの場合、大正月の期間に限られている」というのはそうした事情を反映しているのである。しかし、はたして「餅なし正月」は大正月に限られたものだろうか。すでにふれたように、実は小正月のさまざまな行事はほとんど正月を「餅なし」状態にするために行われているのである。たとえば訪問者に餅を託してケガレを祓い、はじめて新年が迎えられる、あるいは餅を食べられることになるという具合にである。餅を焼くことに解禁日があるなどの例もある。小正月もこの意味で「餅なし正月」の状態を作り出しているのである。つまり「餅なし」とは正月を迎えるための前提条件なのである。
 したがって正月の行事と餅との関係については改めて精査する必要がある。次章からその作業をおこなうが、その前にここで都丸十九一の「餅なし正月と雑煮」について検討しておこう。なぜならこの中に、もとは餅がケガレをつけて除去されるものであったことを推察させる痕跡があり、そして餅が雑煮に入り込んでいく過程が垣間見えるからである。

雑煮に餅が入るまで
 都丸十九一の「餅なし正月と雑煮((28))」から、まず結論だけを紹介すると、雑煮に餅が入るようになるのは、都丸による諸文献渉猟の結果では、近世になってからであるという。さらに民俗事象から考えても、かつては餅中心の雑煮の食習はなかったのではないかと結論づけている。
 では、餅がもとはケガレを託して祓えやったものであった痕跡についてみていこう。都丸は『松屋会記』の永禄4年(1561年)の記事までの古記類には雑煮に餅が入っていることは確認できなかったという。そして、
 ○ 一般的には、餅は下戸の食べるものとされている。
 ○ 「酒客には迷惑な場合もあるから便宜上雑煮に食べ方なるものが定められ、上置の飾物だけを食べて餅には箸をつけなくてもよ」い作法もできたとある(平凡社『大百科事典』ゾーニの項)。
 ○ これをも参考に考えると、餅そのものは、宴席にふさわしいものとはいえないのである((29))。
という結論に達している。
 さらに群馬県新田郡尾島町世良田の長楽寺所蔵の『長楽寺永禄日記』には草餅や焼餅などはしばしば登場するし、善哉のように非儀礼食のなかにも登場するが、「雑煮のことを数多く記している記事の前後に全く餅のことを記してないのも不思議なことで」あると述べている。
 このように餅は下戸の食べ物であるとか、酒客には迷惑であるとか、宴席にふさわしくないなどとする、餅に対する態度や、ふだんの食べ方の中には餅が入っている状況などから、餅を尊い供物とは見ていない態度が伺われるのである。
 さらに都丸は「かつては餅中心の雑煮の食習はなかったのではないかと思う」と記し、積極的に餅を拒否して全くうけ入れようとしない家例として自らの都丸イッケ(一家)の例をあげ、大正月中の餅をきびしく禁忌していたという。そのほか各地の例として、いろいろの伝説を伴って餅を拒否している、正式の日や正式の食事から餅を外そうとしている、餅を正月の神供としない、神に内緒で餅を食べていたなどの例を紹介している。
 また、新田郡新田町の例として、雑煮を作り、餅を入れる前に正月棚や太神宮さまに供え、そのあとその汁に餅を入れて雑煮にして食べたという例、餅入りの雑煮は作るが、その中から餅を抜いて他の材料だけをオシラキに盛って正月棚や太神宮様に供える例、などを紹介している。
 これらの事例から推察すると、餅は、かつては柳田のいう、また一般にもそう認識されているような神聖なものではなく、尊いものでもなく、むしろ餅を避けていた、少なくともかつては公式な儀礼からは遠ざけられていたのではないか。そうした名残りが感じられるのである。そこに、餅にはもとケガレをつけて運び去る役目があったことの痕跡が認められるのである。
 しかし一方で、風土記に「餅の的」という例がある((30))。風土記においてすでに白い餅、白い鳥伝承で餅は福であった、かのように解釈されている。文献上では古く風土記の時代からすでに「餅は福」だったのである。つまり風土記の時代にはすでに福の餅とケガレの餅は並立していたのである。公的には福、民間に埋もれた古俗としてはケガレの一面を残し、永い間並立していたらしいと考えられるのである。「餅の的」伝説については稿を改めて論じることになろう。それら、福の餅と表面からは隠されたケガレの餅としての面、その両面が餅の意味のわかりにくさとなっており、柳田、折口の抱いた疑問ともなっている。これについては57ページ「柳田、折口の提示した餅についての疑問」でもあつかう。民俗には古い形をよく残す場合がある。「餅の的」の話は、ケガレの餅という意識がなくなってから変形しているのである。そのため福の餅あるいは神聖な餅を的にすることは、餅を粗末にしているという意味になる。しかしその餅がなぜ白い鳥になるのだろうか?
 餅が雑煮に入り込んでくるのは近世になってからである。1603年(慶長8年)刊行の『日葡辞書』、そして1643年(寛永20年)の奥書のある『料理物語』には餅入りの雑煮が出てくるという。これ以後は餅が雑煮の主体となり、広く普及して常識化するに至ったのではないかと都丸は考察している。そして『日本民俗大辞典』の「ぞうに 雑煮」で都丸は「餅が入らない正月の羹と、来客へのもてなしである雑煮・烹(ほう)雑(そう)とが16世紀後半に結びついて現在の雑煮ができたのであり、餅無し正月の伝承もこれ以後の成立になる」とまとめている。
 以上、これらの例によって、かつては「餅のない正月」あるいは雑煮に餅を入れないのが普通だったことが裏づけられるのである。
 次章では小正月の行事のなかで、さまざまな訪問者によって、いかに餅を取り除いてもらうか、どのように餅を運び去ってもらうか、などの隠された目的をその習俗のなかにさぐっていこう。

ケガレの起源と銅鐸の意味36 餅なし正月の意味と起源/小正月の訪問者と餅のゆくえ

2016年10月04日 09時03分18秒 | 日本の歴史と民俗
   餅なし正月の意味と起源

   小正月の訪問者と餅のゆくえ


 正月の習俗の奥底を秘かに貫流するケガレというヤッカイな代物。「しろもの 代物」とは岩波国語辞典によると「それによって、ある行為をし、その対象となるもの」だそうです。今号は餅の意外な話になっていますので、よく噛んでください。くれぐれも喉につかえませんように! なお、先行する多くの研究者の成果に負っておりますが、文中ではすべて敬称を省略いたしました。

   目次

第1章 餅なし正月の意味と起源

餅なし正月とは/餅はケガレを象徴する/餅なしの規制が働くのは/ナマハゲの本来の目的/ホトホトの餅/ケガレの除去と被差別民/餅なし正月の分布/餅の本来の意味/餅なし正月の由来伝承にみるケガレ/異郷人虐待の分析/赤色の儀礼食の分析/「芋なし正月」を生む心理/小正月から大正月へ/雑煮に餅が入るまで

第2章 小正月の訪問者と餅のゆくえ

小正月の訪問者とは/訪問者の行為と家の対応/オドクウ様からスサノヲへ/餅の一方向性/柳田、折口の提示した餅についての疑問/餅のゆくえ

引用・参考文献

ケガレの起源と銅鐸の意味35 烏勧請の起源 第2部 烏勧請にみる西日本と東日本

2016年10月03日 15時17分10秒 | 日本の歴史と民俗
   引用・参考文献

1) p4 萩原秀三郎『稲と鳥と太陽の道―日本文化の原点を追う』大修館書店、1996年、p46~p53。
2) p5 木村成生「烏勧請の起源 第1部」『個人誌 散歩の手帖』25号、2012年。
3) p6 新谷尚紀『ケガレからカミへ』木耳社、1987年、p46~p52。
4) p6 大林太良『稲作の神話』弘文堂、1973年。
5) p6 田中宣一『祀りを乞う神々』吉川弘文館、2005年、p144註1。
6) p11 田中真治「岡山県の御鳥喰の事例―とくに玉野市碁石の場合」『日本民俗学』147号所収、1983年。
7) p11 金田久璋『森の神々と民俗』白水社、1998年。
8) p12 4)に同じ、p263~p264。
9) p12 6)に同じ、p24。
10) p12 3)に同じ、p62~p63。
11) p12 7)に同じ、p115。
12) p12 4)に同じ、p263。
13) p13 4)に同じ、p261。
14) p13 赤坂憲雄『東西/南北考―いくつもの日本へ』岩波新書、2000年、p114。
15) p14 網野善彦『東と西の語る日本の歴史』そしえて文庫7、そしえて、1982年、p146~p150。
16) p16 2)に同じ、p49。
17) p19 14)に同じ、p114~p126。
18) p20 吉野裕子『山の神 易・五行と日本の原始蛇信仰』講談社学術文庫、2008年、p204。吉野は、日本の北から南まで「カラス祭り」(烏勧請)が一律の設定で行われていることについて「この一致の背後には、何か非常に重要で、動かすことのできないこの行事の意図するところ、つまりテーマが潜んでいるように思われる」と記し、烏勧請の重要性に関心をよせている。しかし、太陽とカラスの関係や射日神話まで言及しているが、その考察は陰陽五行説にひきつけたもので、賛成できない。
19) p21 4)に同じ、p293。
20) p21 14)に同じ、p66~p126。
21) p22 14)に同じ、p102~p114。
22) p24 14)に同じ、p161。
23) p25 1)に同じ、p223。
24) p25 上田正昭「神楽の命脈」『日本の古典芸能1 神楽 古代の歌舞とまつり』所収、平凡社、1969年、p27。
25) p25 24)に同じ、p42。
26) p25 1)に同じ、p29。
27) p25 萩原秀三郎『鬼の復権』吉川弘文館、2004年、p59。
28) p26 折口信夫「大嘗祭の本義」『折口信夫全集』第3巻所収、中央公論社、1995年、p173~p175。
29) p26 長島要一「W・ブラムセンの情熱―『和洋対暦表』と古代日本」『図書』岩波書店、2010年11月号。この中でブラムセンは中国の暦法を導入する以前、日本では初代神武から16代仁徳までの天皇の寿命が長いことに注目し、「神話的な存在だから長命だったのだろう」などとは考えずに、春分と秋分を起点にそれぞれ「一年」として「一年二年説」をとなえている。
また柳田国男は『新たなる太陽』(定本13巻p286)で4月15日を「新年と言はぬまでも、重い一つの境目であつたことが無かつたとも言はえぬ」と述べている。
30) p27 6)に同じ、p25。
31) p31 3)に同じ、p62。
32) p34 2)に同じ、「3章 弓神楽から天岩屋戸神話へ」
33) p34 3)に同じ、p86。
34) p35 和歌森太郎『民俗歳時記』民俗民芸双書、岩崎美術社、1977年(ほるぷ版)p58。
35) p39 2)に同じ、「5章 1日の始まりは日没から」。
36) p39 吉野裕訳『風土記』平凡社ライブラリー、2005年、p19。
37) p41 2)に同じ、p24~p26。
38) p42 2)に同じ、p35。
39) p42 2)に同じ、p18。

ケガレの起源と銅鐸の意味34 烏勧請の起源 第2部 烏勧請にみる西日本と東日本

2016年10月03日 15時15分10秒 | 日本の歴史と民俗
   おわりに

 ここまで烏勧請の西日本と東日本におけるちがいについて考えてきた。そのちがいは西の弥生社会に対する東の縄文的要素を色濃く残した社会とのちがいに由来するものであった。なかでもケガレ観の有無によるちがいが大きく影響したものである。そのため烏勧請は東日本へ伝播する過程で西日本の弥生社会の特徴であるケガレ観が伝わらないことによって変質し、ケガレの有無を問うものから厄払いや占いへと移行したのであった。さらにコト八日の行事を通してみても烏勧請の変化を裏づけることができた。このような西から東への移行にともなう変化は暦の移入による正月の移動からもうかがえるのであった。
 これまで餅についても多少ふれてきたが、「餅なし正月」も実はケガレ観と暦の移入による正月の移動にかかわるものであると考えられる。さらに、いったい正月をはじめとする年中行事にとって、餅とは何なのか、総合的にとらえる必要がある。次号では「餅なし正月」をはじめとして正月にとって餅とは何なのかについて考える。

ケガレの起源と銅鐸の意味33 烏勧請の起源 第2部 烏勧請にみる西日本と東日本

2016年10月03日 14時57分10秒 | 日本の歴史と民俗
   第2章 コト八日の成り立ち

コト八日の定説
 まずはコト八日とはどんな行事なのかを『日本民俗大辞典』から引用しておこう。大辞典の「ことようか コト八日」から抜粋すると、
2月8日と12月8日の行事。中部地方以東では両日にほぼ同様の行事が行なわれるが、西日本では12月8日に集中している。(略)この両日が物忌を要する特別な日として強く意識されていたことは確かである。コト八日とは各地で各種の神や妖怪の来訪が伝えられており、疫病神の到来を恐れる伝承は東日本の広い範囲にみられる。(略)厄神送りの習俗もみられる。愛知県北設楽郡では2月、6月、12月8日にヨウカオクリといってコトの神の藁人形を村境まで送る。(略)

 以下、各地のさまざまな例が紹介されて、それぞれちがった様相をみせている。そして結局最後に、「コト八日の習俗は多様かつ複雑な様相を呈しており、その位置づけについては、コトの神の性格や、団子や目籠などの行事物や標示物など、さらに多方面からの詳細な検討が必要であろう」として、何であるかをひとくくりにできない複雑さと多様さを前にして、結論を留保している。『日本民俗事典』(大塚民俗学会編)『民間信仰辞典』(桜井徳太郎編)もほぼ似た主旨の内容である。結局コト八日とはなんだかよくわかっていないということである。

コト八日の烏勧請
 ではコト八日に行なわれる烏勧請にはどのような特徴があるのだろうか。『日本民俗大辞典』の同じく「コト八日」の項目のなかで愛媛県の例として、2月8日に「イモや魚の混ぜ飯を藁苞(わらづと)に入れ、カヤの箸を添えて屋根に上げる。これを鳥((とり))がくわえていくと幸いであるという。同様の行事は西日本各地でみられるが、多くは2月・3月の春事として行なわれており、2月8日の行事との習合が考えられる」としている。これはコト八日と烏勧請が結びついている例である。
 烏勧請とコト八日が結びついている例は『日本民俗大辞典』の「からすかんじょう 烏勧請」による解説では、3つの類型のうち第3のタイプとして説明している。それは「春と秋のコト八日の行事の中で行なわれているもので、餅や団子を吊るしておいたり置いておいたりして烏(からす)に食わせ、それによって厄払いとか疫病神送りをする、東北の一部と中国・四国の一部とに限られた特徴的な分布がみられる」とするものである。
 では、新谷尚紀の『ケガレからカミへ』の第5図「御鳥喰習俗の事例一覧」からコト八日に烏勧請をする例を拾いだしてまとめておこう。




整理番号   月日       主体     目的             
青森7 3月8日       家ごと  
秋田1 3月9日 10月9日  〃
山形1 2月8日       〃     吉凶予知・厄神除け
〃 2 2月8日 12月8日  〃
〃 3 2月8日       〃     厄払い
〃 4      12月8日  〃
宮城2 2月8日 12月8日  〃
〃 3      12月8日  〃     神様が京にのぼる
〃 4      12月8日  〃     古い神を送る
〃 5      12月8日  〃
〃 6 2月8日 12月8日  〃     厄神除け
茨城16 2月8日       〃     山の神へ供える
〃 17 2月8日       〃  大黒様がかせぎに出る
愛媛2 2月8日       〃     食べれば家は幸い
〃 3 2月8日       〃 
岡山3 2月8日       〃     食べるとよい
鳥取2 3月         〃    烏にコトを負ってもらう

県名につづく数字は「御鳥喰習俗の事例一覧」での整理番号。秋田1はコト八日とはしていないが、第6図「御鳥喰習俗の諸類型」ではコト八日に分類されている。鳥取2の「3月」は「大林」によると「3月コトノ日」となっている。

 以上がコト八日に行なわれる烏勧請である。合計17例が示されており、内訳は東日本13例、西日本4例である。新谷はこれについて次のような解釈をしている((31)。())
 ○ コト八日の行事は、厄神送りとか厄払い的な意味をもつ場合が多いが、そこでもやはりそれぞれのコト八日の目的にそった意味づけがなされている。
 ○ コト八日の行事における烏は、それが何らかの神の使いであるとは観念されていない。
 ○ 烏にコトを負ってもらうといったり、厄神送りなどといっているように、厄払いの確認というような意味を持っており、むしろ葬送儀礼における魂送りというのに近いものである。
 つまりカラスは厄払いをしてくれる者という役割として登場するので、ことさら神だったり神の使いだったりする必要はない。厄払いという役割がはっきりしているのである。
 コト八日の行事は『日本民俗大辞典』で「中部地方以東では両日にほぼ同様の行事が行なわれる」としているように、2月8日の例が7件、さらに3月も2件あり、合わせれば9件。そして12月8日に行なう例は秋田の10月9日を入れれば8件上っており、その中で両方行なうのが4件ある。「両日にほぼ同様の行事が行なわれる」といわれるようにコト八日に烏勧請が習合した場合でも東日本では2月、12月の両方で行なう例が少なくない。それに対して西日本では3月の1件を含めて2月8日の例が4件で12月はひとつもない。この東西の違いは何を意味しているのか。
 そして上にまとめた東西の合計17例はすべて各家ごとの烏勧請であり、神社、小祠で行なうものはひとつもない。烏勧請が習合していないコト八日の場合も、ほとんどは各家ごとに行なうようである。『日本民俗大辞典』によれば、たとえば妖怪を防ぐために各家で目籠を高く掲げたり、ヒイラギを戸口に刺したり、グミの木を囲炉裏で燃やすなどの魔除けは、それぞれの家ごとで行なう。
 しかし愛知県北設楽郡の2月、6月、12月の各8日に行なわれるヨウカオクリはコトの神の藁人形を村境まで送るというもので、これは共同体の行事である。さらに長野県、群馬県では2月8日の行事が道祖神祭となっている例もあり、これも共同体によるものである。
 そうすると家ごとのコト八日や烏勧請が習合しているコト八日では魔除けであったり厄除けであったりして、共同体のコト八日では厄神を村境まで祓えやる行事だったり、燃やして祓えやる行事だったりすることになる。これらの違いは何を意味しているのか。
 ひっかかるのはコト八日に行なわれる烏勧請はすべて各家ごとであるという事実である。家ごとで行なわれる烏勧請は共同体で行なうものよりも新しいということは19ページですでに述べた。そしてカラスに餅をなんとしても食べてもらおうと強く強いる西日本型よりも、吉凶や作占いをする東日本型のほうが新しいということもすでに指摘した。コト八日に行なう烏勧請には、山形1の「吉凶予知」ひとつを除いて厄神除け、厄払い、食べれば家は幸いなどとするように、食べてもらえるとその結果として、状況の好転が期待できるといった方向に行事の意味が理解されている。このようなコト八日における烏勧請の行為は古い型である西日本の共同体の烏勧請と、新しい型である東日本型の家ごとによる烏勧請との中間型、移行型といえないだろうか。コト八日の烏勧請が家ごとであること、2月と12月両方であることも、中間型、移行型であることを示唆している。さらに検討していこう。

「コトを負う」とは
 餅や団子をカラスに食べてもらうことによって、厄払いや疫病神送り、あるいはコトを負ってもらうことができるというのがコト八日における烏勧請の目的である。
 ではなぜ厄払いや厄神除けが烏勧請によってできるのか。その理由は「烏にコトを負ってもらう」という鳥取2の事例にさぐることができる。
 コトをカラスに負わせるとは何か。コトとは『民間信仰辞典』によれば行事、祭事、斎事である。『日本民俗大辞典』(上)では「歳時の折目の意味。折目には多く神祭が行なわれるのでコトは祭事(神事)の意味を含み、(略)関東から東北地方にかけて年中行事や休み日をカミゴトという地域がある。(略)ジンジ(神事)といった場合は神社での神祭をさしている」という。ということは、正月行事をはじめ、年中行事として行われる行事はみなコトである。そのコトをカラスに負ってもらうというが、「行事」をカラスに負ってもらうというのでは意味をなさない。そして実際にするのは餅や団子をカラスに与えることである。ということは、餅や団子が負っている意味こそがコトの本質であり、その本質をカラスに負わせるということになる。
 そして射日・招日神話にもとづく弓神事や烏勧請で解釈すると、オビシャやオコナイなどの弓神事も烏勧請も、余った危険な太陽を始末して穏やかなひとつの太陽を迎えることが目的である。その余った危険な太陽を象徴するものがオビシャでは烏の的であり、オコナイでは新頭へ引き継いで餅割りされる餅であり、烏勧請ではカラスに与える餅や団子である。つまり年中行事、祭事、斎事をコトといっているのは、たんに神事(かみごと)というところを省略したから事(こと)なのではなく、「負ってもらうべきコト」を始末する行事である、ということがもとの意味であり、コトである餅や団子にケガレである危険な太陽を託して祓えやるのが「コト」の真の目的なのである。「コトを負う」とはそういう意味である。
 餅や団子とは余った危険な太陽であり、世界を暗黒と混乱におとしいれるものであり、罪穢れのすべてを搗き込んだ土餅である((32)。())つまりケガレの象徴である。そのような重い意味を含んだコトをカラスに負ってもらい、厄払いするのがコト八日における烏勧請の目的である。
 ここで何がケガレにあたるかを確認しておこう。ケガレとは新谷尚紀の『ケガレからカミへ((33)』())によれば、身体にまつわる糞尿、血液、体液、垢、爪、毛髪、怪我、病気、死などである。そればかりではなく社会にまつわる貧困、暴力、犯罪、戦乱など、そして天変地異や旱魃、風水害、病害虫、飢饉、不漁、不猟などの自然災異もケガレである。余った危険な太陽もケガレなのである。
 コトが従来いわれているような歳時の折り目という表面的な意味ではなく、ケガレにまつわる意味であることは「コトの箸オサメ」という習俗を見ても裏づけられる。和歌森太郎の『民俗歳時記((34)』())によると「コトの箸オサメ」とは正月の祝いの膳に使った箸をコトノ箸といい、いろいろと春ゴトの食事に用いて、そのあと各戸の屋根の上にワラで結んで放り上げておくという慣行である。ワラ縄で軒の下につるしておくところもあるという。なぜそんなことをするのか、和歌森は言及していない。イカリゴトともいうが、その語意はあきらかでないとしている。これを行なう前に、五目飯をたいて、箸の使い納めをするという。和歌森の記述は以上である。祝いの膳に使った箸をなぜそのように払い捨てるように始末するのか。それはつまり、現在では正月の祝いの膳ということになっているが、源はそうではなかったのである。正月の祝いの膳とはケガレの膳だったのである。
 それゆえに最後に五目飯をたいて箸を使い納めにするというのは、五目飯にケガレとしての混ぜ飯の役目を負わせているからであろう。これについては「『イノチゴイ』とは何か」でもう一度取り上げる。イカリゴトのイカリというのもケガレを負っていることと無関係ではないだろう。
 箸を屋根にほうり上げるというのは烏勧請でカラスに餅などの供物を与えることを連想させる。それというのも最後に五目飯をたいて箸の使い納めをするからである。五目飯とは混ぜ飯であり、ケガレを負わせた餅と同義であると考えられる。ケガレを負わせて祓えやるべきコトに使用されたケガレの箸であり、だからこそ、その使い納めにケガレを象徴する混ぜ飯である五目飯に使い、最後に屋根に上げてカラスにケガレを運び去ってもらうというのが「コトの箸納め」のもとの意味ではなかったか。
 餅や団子をカラスに運び去ってもらうことが余った危険な太陽を始末することであり、それがとりもなおさずケガレを取り去ることになるというのが烏勧請の目的である。烏勧請で浄穢の確認をするとかケガレの有無を問うというが、カラスに餅や団子を運び去ってもらうことでケガレが取り去られたことが確認され、祭りが進められ、終われるのである。その餅や団子とは余った危険な太陽を象徴させたものである。
 またコト八日には烏勧請ではなく、人形送りをするところもある。三河、遠州のコト八日では藁などで素朴な人形を作って、悪霊を送り出す目的で人形送りをする。『日本民俗大辞典』(下)「にんぎょうおくり 人形送り」によると、人間の身体を模した人形(ひとがた)を何らかの霊や魂の依代として、村境や川や海などに送り出す呪術的行事があるという。また「形代送り」といって罪や穢れを形代(かたしろ)に託して送る行事もある。
 つまり、人形や形代にコトを託して村境へ送るにしても、烏勧請でカラスに穢れであるコトを負わせるにしても、コトを祓えやって厄払いしようとする目的は同じである。これはコト八日以外の烏勧請にも、弓神事にも通じている。起源は射日・招日神話で、旱魃をもたらす危険な太陽を祓えやることである。

コト八日の位置づけ
 そこでコト八日の位置づけについて考えてみよう。カラスに負わせるコトとは餅や団子である。餅や団子とは余った危険な太陽である。つまりコトはケガレた太陽である。しかし、西日本型の烏勧請とはちがって、コト八日ではすでに浄穢の確認をしようとする意識は見あたらない。そうはせずに祓えやることによって厄払いをしている。つまり西日本型の本来の烏勧請よりも新しいのである。そしてまだ占いには移行していない。コト八日の烏勧請を執行するのは家ごとである。家ごとで行なわれる烏勧請はすでに述べたように東日本型、新しい型である。つまりコト八日における烏勧請とは烏勧請の西日本型から東日本型への移行途中に相当すると考えられる。人形送りや疫病神送りなど共同体によるコト八日が村境や川、海へ祓えやるというのも、未だ共同体の行事としてなら、ケガレの排除としての性格をいぜん保っており、それがコト送りとして行なわれることを示している。そして家ごとのコト八日になったものは厄払いの行事に変化したのである。
 このように、東への伝播にともなって変化していった経過をコト八日の烏勧請にみることができるのである。この伝播にともなう変化は西と東におけるコト八日の執行する時期のちがいからもうかがうことができる。

コト八日の行なわれる時期
 『日本民俗大辞典』によると、コト八日をいつ行なうかについて、西日本では12月8日に集中しており、中部地方以東では12月8日と2月8日の両日に行なわれるという。「新谷」のデータにみるコト八日に習合した烏勧請の場合も同じで、12月8日が4件、両日が4件、2月8日が5件となっている。しかし西日本でも、コト八日と烏勧請が習合している場合には、愛媛、岡山、鳥取の4件にみるように2月8日である。コト八日は西日本では12月8日に集中するとされているのに、烏勧請が習合すると2月8日なのである。ということはコト八日が烏勧請と習合するのは後の変化であり、東日本の2月8日への変化同様、各家ごとに移行してからのタイプと考えられる。烏勧請が東日本へ伝播する過程で共同体から家ごとへ、浄穢の確認やケガレの有無を問うことから占いへと変化したように、コト八日は東日本へ移行するにともなって変化していったのである。その過程が12月8日から2月8日への移行に表われているのではないだろうか。そして12月8日から2月8日へ移行したのは暦の移入による正月の移動後であろう。
 このような私の考え方にもとづいて『日本民俗大辞典』の「コト八日」の解説をみていくと、いくつか訂正や追加が可能になる。いずれも射日・招日神話による解釈に沿って大辞典の解説を読んでいくと、いくつかの点でコト八日がなぜそうなっているのか、謎が解けたり理解が進んだりするのである。

『日本民俗大辞典』の「コト八日」を読み直す
 P636 中段6行目「コトを1年の行事と解釈するか、正月を中心とした祭祀期間と考えるか二つの解釈があり」。
 これはどちらでもない。2月8日と12月8日のコトは1年の始めと終りでもないし、正月の祭祀期間の始めと終りでもない。暦の移入によって正月が移動した結果である。コトとは厄を払う行事であり、そのもとはケガレを祓うことであり、そのケガレとは余った危険な太陽である。そして起源は、望ましい穏やかな太陽の出現を願う射日・招日神話の祭りであり、稲の収穫後の新嘗祭つまり本来の正月を迎える祭りであって、正月にする祭りではない。それが共同体による浄穢の確認から本来の信仰がうすれて各家の行事となるにつれ、簡略化して厄払いへ移行したものである。ということは本来の正月である収穫後の秋の行事が、暦の移入にともなって正月が後ろへずれて、その結果12月から2月へ移ったと考えられる。西日本では12月8日に集中しているのに反して、中部地方以東で12月8日、2月8日の両方または2月8日のみコト八日を行なうのは暦移入後に伝播したからであることを示しており、つまり官暦が普及したあとに伝播したということを示している。コトの日も古くは正月を迎えるための行事だった時代があったのであろう。

 中段10行目 「この両日が物忌を要する特別な日として強く意識されていたことは確かである」。
 12月8日も2月8日も特別な日であったと認識されているのは、その日が籠りの日だからである。つまり正月を迎えるための行事である。1日は日没から始まり、日没後から籠りをして余った危険な太陽を始末し、その末に新しい太陽が昇る朝を迎えるのである((35)。())この日没からの一連の手続きが祭りの本質だったと考えられる。そして籠りは物忌にあたる。「物忌を要する特別な日」というのは新嘗の祭りのさいに物忌することに通じ、新嘗の祭りはすなわち新年を迎える祭りである。
 「常陸国風土記」に新嘗の祭りで諱忌(ものいみ)しているという場面がある。『風土記((36)』())によって見ていく。祖(みおや)の神(かみの)尊(みこと)(母神)が(神子)神たちのところをめぐって駿河の富士の岳(やま)についた時には日が暮れていた。一夜の宿りを頼んだところ、富士の神は、いま新嘗の祭りをして家中のものが諱忌(ものいみ)しているのでお泊りいただくことはできない、と答えている。
 このように新嘗の祭りに際して諱忌するのが忌籠りである。『日本民俗大辞典』の「ものいみ」によると「神事そのものが忌籠りであって、別火し沐浴して一切の不浄を退け、徹夜して神に仕えるという物忌の形式を」とるという。つまりコト八日が「物忌を要する特別な日」というのは新嘗の神事に由来するからであり、射日・招日神話によって新たな太陽を迎えることに由来する、それゆえに特別な日だったのである。
 富士と筑波の話にはもうひとつ重要な点がある。祖の神尊はなぜ富士の岳を冬も夏も寒くすることができるのか。祖の神尊は母神であり、つまり祖先神に通じる神である。その神が、おまえの親なのに泊めてくれないのか、と富士の神を恨んで、それではと「冬も夏も雪が降り霜がおり、寒さ冷たさがつぎつぎに襲いかかり、人民(ひとびと)は登らず、酒も食べ物も捧げる者も無かろう」といって、以来富士山には年中雪があるという由来譚になっている。祖の神尊は祖先神であるから、やがて鬼神になる。鬼神は自然災異に働きかけることができる、というのが祖霊信仰であると筆者は考えている。そうした自然災異に働きかけるのは祖先神であるという考え方が『常陸風土記』のなかに残っているのである。

 中段12行目 「事八日には各地で各種の神や妖怪の来訪が伝えられており、疫病神の到来を恐れる伝承は東日本の広い範囲にみられる」。
 なぜ各種の神や妖怪が現れるということになったのか。「コト」の意味が何だかわからなくなったために、負のイメージの伝承が神や妖怪になったのではないか。あとで述べる八日吹きで天候が荒れるというのと共通していると思われる。
 射日・招日神話で9つの太陽が射落とされて、残ったひとつも隠れてしまって暗闇と混乱がもたらされた。その暗闇と混乱の結果が、やがて神や妖怪の出現を連想させることになったのではないか。東日本ではそれがさらに疫病神になっているというのは、東日本への伝播の途中で祓えやるべき対象に変化したからではないか。それはコト八日に習合している烏勧請がおもに厄神除け、厄払いを目的としていることと並行している。

 中段20行目 「厄神送りの習俗もみられる。愛知県北設楽郡では2月、6月、12月8日にヨウカオクリといってコトの神の藁人形を村境まで送る」。
 「コトの神」とはいうが、コトとは余った危険な太陽であり、コトとはケガレの象徴である。しかし西日本型とちがってここではすでに浄穢の確認へのこだわりはない。それでもまだすべてが家ごとの行事になったのではなく、共同体の行事として残っている点は西日本の伝統を引き継いでいる。コトの主旨はケガレとしての余った危険な太陽だから、それは何としても境界へ祓えやらなければならない。共同体で行う意味は境界へ祓えやることがおもな目的として存在しているからで、各家ごとの行事になれば、その家から外へ、あるいは敷地の外へ厄払いすればすむと見なされただろう。藁人形を村境まで送るという行為は共同体の行事であり、それだけケガレ祓いの祭りとしての本来の神事の意味を残しているといえる。

 下段7行目 「12月8日は八日吹きで天候が荒れるとするところが西日本各地にあるが、これも事八日に神の出現があることを示すものといえよう」。
 天候が荒れるというのも、神や妖怪が来訪するとか、疫病神の到来というように、不穏な状況や混乱への不安を連想させるものであるらしい。荒れるといえば高天原におけるスサノヲの暴虐の話に結びつくことを考える必要がある。そうすると、スサノヲの暴虐とは射日・招日神話における、すべての太陽を射落とした時の暗闇と混乱である((37)。())天候が荒れるというのはそれを象徴しているのではないか。それを象徴する場面の痕跡が東日本ではなく、稲作先進地の西日本各地にあるというのは示唆的である。2月8日ではなく12月8日であるということからしても、東日本へ移行してからの新しい変化型ではなく、西日本の古い段階の話だからだといえる。コト八日に神の出現があるというのは、天候が荒れることの本来の意味が不明になってから後の変化であろう。

「イノチゴイ」とは何か
 下段10行 「愛媛県では2月8日をイノチゴイ(命乞い)と称し、イモや魚の混ぜ飯を藁苞(わらづと)に入れ、カヤの箸を添えて屋根に上げる。これを鳥((とり))がくわえていくと幸いであるという」。
 「イモや魚の混ぜ飯」を作るというのは白い飯を汚す必要があるということではないか。唐突であるが「餅なし正月」におけるケガレの餅、つまり色つき餅に相当するものである。しかし今はそれについて述べる段階ではない。「餅なし正月」については次号で「餅なし正月の意味と起源」として詳細に取り上げる。混ぜ飯、色つき餅は尾張大國霊神社の裸祭りで使う土餅、あらゆる罪穢れを搗き込んだとされる黒い土餅((38)や())、広島県御調郡(みつぎぐん)久井町(くいちょう)の莇(あ)原(ぞう)中組の弓神楽における泥だらけの土団(()子(39))を思い出させる。こちらの場合は餅ではなく混ぜ飯だが、餅にかわってケガレの象徴としての飯を作ったものではないか。混ぜ飯を屋根に上げて鳥(とり)に食われることを幸いとするというのも、ここはカラスではないが、烏勧請の主旨が生きているといえる。ケガレの餅ならぬケガレの混ぜ飯である。そう解釈するとなぜ「イノチゴイ」なのか、その意味もはっきりしてくる。「イノチゴイ」は、この行為によってカラスが食べてくれれば危険な太陽が始末されて天候温暖、稲は豊作、したがってわれらの命は救われるということになるからである。確かに「命乞い」の行為なのである。カラスに命乞いである。草餅や彼岸のぼた餅など、わざわざ白い餅にヨモギを搗き込んだり、小豆の餡で真っ黒にするというのも、もとは餅を汚すことによりケガレとしての太陽を象徴させたのではないか。これらの、白い餅でないことの意味や小豆に込められた意味なども探究する必要がある。これらは次号の餅と正月の関係のなかで詳細に取り上げる。
 このように見てくると、コト八日の行事は重要である。それは西日本では浄穢の確認にこだわりの見られた烏勧請が、東日本に伝播してケガレを問わなくなって占いに変化したように、コト八日も東日本型に移行する過程で内容が変わったのである。その変化とは共同体の行事としてコト八日が行なわれる例では、境界へのケガレの排除としての性格を保っており、家ごとの行事になると厄払いになるというものである。

ケガレの起源と銅鐸の意味32 烏勧請の起源 第2部 烏勧請にみる西日本と東日本

2016年10月02日 20時37分05秒 | 日本の歴史と民俗
   第1章 烏勧請の西日本型、東日本型

東西の境
 まず具体的に東西で、烏勧請の何がどう違うのかを検討する。そしてそれぞれの疑問点を表出させてみよう。さらにそれらの東西のちがいが何に由来するのかを検討していく。その前提として東西の境をどこで線引きするか。これには烏勧請の地域的な特徴の差を考慮して設けることにした。その特徴の差というのは、ひとつは家ごとの烏勧請が多い東日本と、家ごともあるが神社、小祠で行なう例も多い西日本との境、もうひとつは「カラスが餅を食べぬと穢れあり」というように浄穢の確認をすることの多い西日本と、それが少ない東日本との境という二つを目安とした。この二つが烏勧請における東西のちがいを際立たせているからである。
 もとにした資料は新谷尚紀の『ケガレからカミ(()へ(3))』の第5図「御鳥喰(おとぐい)習俗の事例一覧」である。さらに大林太良の『稲作の神話((4)』())を参考にした。両者の資料は同一のものが3分の2ほどある。以下「新谷」「大林」と表記する。「新谷」の全157件のうち109件は「大林」にも載っている。48件は「新谷」のみに載っている。「大林」では全175件で66件が「大林」のみに載っている。「新谷」の刊行は1987年、「大林」は1973年であるから、新しいものではないが、全国的な傾向の把握には両者で充分との判断が最近の研究書『祀りを乞う神々((5))』でも下されているので、それで良しとした。
 その結果、福井県、滋賀県、愛知県から西を西日本、新潟県、山梨県、静岡県から東を東日本とした。ただし境界上の長野、岐阜、富山、石川の4県については「新谷」には資料が載っていない。「大林」には5件載っているが、明確に神社、小祠の行事とするものはなく、浄穢の確認についても記載がないので、これらの地域は東に入ると判断できる。そして「新谷」「大林」の両者の資料にみる特徴はほぼ共通しているので、錯綜をさけるため、ここで検討する資料としてはすでに一覧としてまとまっている「新谷」のものを中心とし、「大林」のものは参考として取り扱う。
 「新谷」の資料数は全部で157件、それを上記のように設定した境界で東西に分けると、西日本が44件、東日本が113件である。ただし鹿児島県の7件はすべて東日本へ入れている。鹿児島県における烏勧請の特徴は東日本のそれとよく似ているのである。これについてはあとで述べるが「西日本」の範囲を限定するうえでも鹿児島県のあつかいは重要である。鹿児島県では7件のうち5件が家ごとに烏勧請を行ない、2件は記載がない。家ごとで烏勧請をすることが多いのは後で述べるように東日本の特徴である。「大林」でも鹿児島県については、明らかに共同体の行事というのはない。同じ分け方で「大林」では西日本57件、東日本118件である。
 件数では一見東日本が多く、いかにも烏勧請は東日本で盛んであるように見えるが、抽出したデータは統一した烏勧請のための全国調査ではないし、個別のさまざまな、目的を異にした調査から取り出した結果なので、件数が多いからといって単純に東が盛んとは決められない。なかにはある地域で広く烏勧請が行なわれている場合「県下一帯」という表記もあり、これも資料数としては1件である。また東日本では家ごとの行事なので、調査された対象が数の上で多くなったという面もあるかもしれない。

東西の特徴的な違い
 全157件の資料から引き出される東西の特徴的な違いは以下のようである。


    西日本 44件             東日本 113件
(ア)共同体による烏勧請 28件      共同体による 4件
   家ごとによる烏勧請 14件      家ごとによる 106件
(イ)カラスが何であるか明確ではない   カラスは山の神または山の神の使い、北東北で8件
(ウ)浄穢の確認をする 9件       浄穢の確認をする 2件                           
(エ)吉凶占いをする 5件        吉凶占い、作占いをする 36件
(オ)カラスに供物を食べることを強く強(し)いる 強くは強いない
(カ)執行日が正月もあるが春秋も多い   正月が圧倒的に多い

 (ア)から(カ)までの特徴をさらにくわしく見ていき、それぞれにまつわる疑問点をとりだしていこう。
 (ア)西日本は全44件のうち、神社、小祠など共同体で行なう烏勧請が28件。それに対して東日本では全113件のうち共同体で行なうのは4件にすぎない。家ごとで行なうのは西日本が14件、東日本が106件である(調査項目にデータの未記載もあるので合計は157にはならない)。したがって西日本では家ごとで行なう地域もあるが、東日本との比較ということでは、共同体で行なう行事という特徴がはっきりしている。なぜ西は共同体で行ない、東は家ごとで行なうのか。
 (イ)青森、秋田、岩手の北東北では、カラスは山の神または山の神の使いとするところが3県の総件数32件のうち8件あり、田の神の1件を含めると計9件になる。他の地域では山の神またはその使いという例は見られない。南東北から関東、中部ではカラスが何であるかについて記述がない。そして西日本では八幡様の使い、熊野権現の使い、あるいは神の使いやミサキというのもあるが、多くはカラスがなんであるか記述がなく、明確ではない。ただし「大林」では山の神は北東北で7件のほかに、山形、福島、茨城と、やや広い範囲にも見られ、神奈川、静岡、兵庫、鹿児島にも各1件ずつある。しかし北東北以外では地域的なまとまりは見られない。なぜ北東北や関東以北ではカラスは山の神や山の神の使いなのか。そしてなぜ関東や中部以西の西日本ではカラスは何であるか明確でないのか。
 (ウ)浄穢の確認や不浄を忌むとするのが西日本では9件、東日本では2件。西日本9件のうちには、各家ごとが1件、家ごとか共同体かどちらか不明なのが1件あるが、それ以外の7件は神社、小祠などの共同体で行なう烏勧請のなかで浄穢の確認をする。共同体で行なう烏勧請のうち時期別のうちわけは春が2件、秋が4件、正月が1件。なぜ烏勧請で浄穢、ケガレの有無を問うのか。なぜそれが西日本で顕著なのか。なぜ秋が多いのか。なお、「大林」によると浄穢の確認をするのは西日本が5件、東日本が1件である。
 (エ)東日本は吉凶占い、作占いをするのが36件、西日本では5件(表現が統一されていないので、このほかにも該当するものもあるようだが、「吉凶」「占い」の文字を使ったデータのみ採用した)。「大林」では東日本が32件、西日本が7件である。なぜ東日本では吉凶占い、作占いを盛んにするのか。
 (オ)西日本で、カラスに供物を食べることを強く強いる傾向がある。カラスが食べてくれないと祭りが始められない、進められない、あるいは終われないなどとして、食べてくれるまで繰り返したり、やり直すなどとしている例がある。ケガレがあると食べないとされるので、(ウ)の浄穢の確認をすることと関連する。東日本では比較的に強いることが弱い傾向がある。カラスが食べるか食べないかで占いをするところが多いので、あまりこだわらない。裏をかえせば、こだわらないから占いへ移行していったともいえる。なぜ西日本では食べてくれないと、行事が進められないとしてこだわるのか。
 (カ)西日本では共同体で行なわれる烏勧請28件のうち、正月行事にふくまれるのが7件、正月以外が19件。19件の内訳は、1月から4月の春が8件、9月から12月の秋が10件。3月から11月の間に不定期なのが1件で、これは厳島神社である(時期の記載がない資料と、年に複数回行なうところがあるので、合計は28にならない)。大きな傾向としては、正月もあるが、春と秋、とくに秋の行事としての位置づけがやや強い。これは(ウ)の浄穢の確認にみられる傾向と似ている。ただし家ごとの烏勧請になると正月7件、春6件で、正月が盛んになり秋はひとつもない。東日本では全体の8割が正月に行なわれる。なぜ西日本では共同体で行なわれる烏勧請は春秋、特に秋なのか。それが家ごとになるとなぜ秋にひとつもないのか。そしてなぜ東日本では正月なのか。
 以上が烏勧請における東西のそれぞれの特徴であり、そこから浮かびあがってくる謎である。これらの謎をもう一度列記する。
 (ア)なぜ西日本は共同体、東日本は家ごとなのか。
 (イ)なぜ関東以北、とくに北東北ではカラスは山の神や山の神の使いなのか。それに対して、なぜ関東や中部以西の西日本ではカラスは何であるか明確でないのか。
 (ウ)なぜ烏勧請で浄穢、ケガレの有無を問うのか。なぜそれが西日本で顕著なのか。なぜ秋が多いのか。
 (エ)なぜ東日本では吉凶占い、作占いを盛んにするのか。
 (オ)なぜ食べてくれないと、行事が進められないのか。なぜその傾向が西日本で強いのか。
 (カ)なぜ西日本では共同体による烏勧請は春秋、特に秋なのか。そしてなぜ家ごとになると秋がひとつもないのか。なぜ東日本では正月に行うのか。

従来の解釈
 カラスを饗応するという共通した目的をもつ行事でありながら、なぜ東西に以上のようなちがいがあるのか。なぜそのような特徴になっているのか、そしてどのように変遷したのか。これらの謎について従来の解釈は、文化周圏論によるものである。つまり、家ごとに行なう烏勧請が東北地方から南九州まで広く分布し、しかも東北地方に多く、鹿児島にも分布することから、これを最も古い型と判断した。そして神社や共同体の頭屋組織によるものが近畿地方を中心として、愛知県や中国地方にみえることから、これを新しい型としてとらえている。
 烏勧請の変遷を論じたものには『稲作の神話』(大林太良)、『日本民俗学』147号「岡山県の御鳥喰の事例((6))」(田中真治)、『ケガレからカミへ』(新谷尚紀)、『森の神々と民俗((7))』(金田久璋)、『祀りを乞う神々』(田中宣一)などがある。これらは内容に多少変化はあるものの基本的には文化周圏論で解釈している。これはもと一般のカラスに供していたものが、次第に様式化し、体系化していって、共同体や神社の行事に発展したととらえる、いわばカラスの発展進化説である。たとえば文化周圏論を最初に烏勧請に適用したと思われる大林は、勧請をうける相手が人間の子供であるのは日本の中央部に分布が集中しているので、これは新しいとしている。また、神社仏閣で行なわれる烏勧請も西日本の中心から拡がったと思われるとして、これも新しい型としている。そして大林はいう。
結局あとに残ったのがこの形式(一般のカラス)である。その分布は北は青森から南は鹿児島にまで及ぶ最も広い分布をしていること、また日本の中央部の文化の中心から離れた両端の地方においては、殆ど例外なしにこの形が行なわれていること、最後に、この勧請を受ける烏がしばしば山の神あるいは農作神としての性格を示すことから見て、この形式を最も古い基本的なものと見ることができる((8)。())

として、文化周圏論による解釈を有効なものとしている。この見方をのちの研究者たちも踏襲しており、田中真治は、各家型→小祠型→神社小祠併存型→神社型への発展説を解き((9))、新谷尚紀は、神秘をまとった鳥としての烏が様式化され、体系化され次第に「立身出世」していったものである((10))というもので、いずれも烏勧請の文化周圏論による発展進化説である。金田久璋では、新谷の『ケガレからカミへ』から上の箇所を引用し、さらに『祀りを乞う神々』の論説もふまえ、周圏論的な構造が認められるとし、「村落共同体における神社や小祠を主体とした宮座組織の当屋行事以前に、家ごとにカラスに焼米や餅を与えて豊作を祈る予祝行事が行われていた((11))」と解釈している。なぜ米や餅を焼くかについては次号で餅と正月の関係のなかで述べる予定だが、これには見過ごせない意味がある。
 これらの文化周圏論からは、さきに列記した東西の特徴的な6つの違いはおおむね説明できるかのようである。特に(ア)(イ)(ウ)(オ)については周圏論によくあてはまるように見える。しかし(エ)と(カ)についてはどうだろうか。東日本の作占いは占いをすることの少ない西日本よりも古いだろうか。西日本の神社などの烏勧請ではなぜ秋の行事になっている例が多いのか。あるいはなぜ、時期がはっきりしないのか。それに対してなぜ東日本では西日本と同じように秋にしないのか。なぜ東日本では正月、小正月に行うのか。そしてなぜ、大林によれば中世に始まった((12))という西日本の社寺による烏勧請では春秋の時期に行なうのか。大林は「この形式を最も古い基本的なもの」として北東北における一般のカラスへの烏勧請を見ているが、この特徴のなかには東日本全般にみられる特徴としての占いを盛んにするとか、おもに烏勧請を正月に行なうという内容を伴っている。これらの特徴はほんとうに古い形式だろうか。
 もし仮に大林らの見方が正しいとすれば、では北東北、南九州の烏勧請はいつから始まったのか。大林がいうように中世から社寺による烏勧請が始まったなら中世以前にすでに北東北から鹿児島までとはいわないまでも、一般のカラスによる家ごとの烏勧請が中世よりも古くから広く定着していたことが前提になる。それでは稲作とともにあるはずの烏勧請が、稲作の普及より先に北東北まで伝播していたことになってしまうのではないか。
 烏勧請が稲作とともにあるはずであるとの認識は大林も同じである。大林はカラスに与えられるものがほとんど全く米またはその加工品(焼米、餅)であることや、全国的であり、大部分農耕儀礼としてあることなどから、烏勧請は水稲耕作文化に属していたとの認識を示している((13)。())烏勧請は稲作ととものある。それにもかかわらず、稲作の普及よりも先に広く早くに烏勧請が伝播していたことにしないと、大林らの周圏論は成り立たないのである。

西の水田、東の畠作
 赤坂憲雄は稲作の東北地方における普及のおくれについてつぎのように述べている。
稲作農耕はすでに早く、最北端の青森まで到達しているが、それは東北が稲作農耕社会となったことを意味するわけではない。縄文以来の、採集・狩猟や雑穀農耕を複合的に組み合わせた生業のうえに、あらたな農耕の技術として稲作を取り入れたのである。気候変動につれて、稲作前線は南へ後退し、定着ははるか後代に遅れる。東日本の多くの地域では、依然として、台地での畑作を中心とした、縄文的な伝統の強い農耕文化が営まれていたのである。もうひとつの弥生文化であった((14))。

 そしてこのような東西の農耕社会の違いについて、その状況が古代にとどまらなかったことは網野善彦の『東と西の語る日本の歴史』によっても明らかである。
 網野は中世における諸国の年貢品目を整理して、西国においても年貢の品目は多様ではあるが、それでも米が主要な年貢であった。それに対して、越中、美濃、尾張以東の東国では、絹・糸・布・綿など主に繊維製品であることを明らかにしている。そして「この明瞭な東西の違いの背景に、東国と西国の自然条件の違いにもとづく農業・非農業的な、また水田・非水田的な生産のあり方の大きな相違があったことは、推測して間違いなかろう」とし、東国の畠作優位、西国の水田優位というちがいは、おそらく弥生時代にまでさかのぼることができると述べている((15))。

東日本の烏勧請は新しい
 赤坂の見方にしても、網野の説く年貢品目における東西のちがいにしても、中世以前に東日本や東北に稲作が普及していたとみることはできない。したがって烏勧請が中世以前に東日本に、とりわけ東北地方まで普及していたとみることもできない。
 烏勧請は確かに東へ北へ南へ、文化周圏論にいう周辺部へ伝播したのである。しかし東北地方へ普及したのは中世以後であった。しかも一般のカラスから神社仏閣での烏勧請へという発展進化とは反対の経過をたどったのである。西日本では共同体による烏勧請から神社仏閣に引き継がれたものがあり、一方東日本では家ごとという、いわば単純矮小化の方向へ変化したのである。それをこれから明らかにしていこう。
 それには順序としてまず、従来いわれているような、東北地方や南九州の一般のカラスによる烏勧請は古い型ではなく新しいものであるということ。なぜそういえるのかについて3つの点をあげて説明する。その説明がなされたあとに、烏勧請をめぐる(ア)から(カ)の謎はすべて解決できるだろう。その3つの答とは次のものである。
 第1に烏勧請では、浄穢の確認より占いをする方が新しいということ。
 第2にカラスに餅を食べることを強く強いないのはケガレの観念がうすいか、そもそもないからであること。西日本では稲作文化における信仰上のカラスの役割がその祭祀のなかに組み込まれていたが、東日本にはそれがないため烏勧請の本質的な要素が伝播しなかったということ。これについては項を改めて「カラスの役割」とそれ以降の項で述べる。
 第3に、東日本で正月に烏勧請をする例が多いのは暦の移入によって正月が動いた後に烏勧請が伝播したからであること。これについては「暦の移入と正月の移動」で述べる。
 以上の3点を解き明かすことによって、東日本と南九州の烏勧請は西日本のよりも新しいことを明らかにする。その結果として(ア)から(カ)の答がでてくるはずである。ではまず第1の占いをする方が新しいということについて考えてみよう。

吉凶占い、作占いの方が新しい
 まずは『日本民俗事典』(大塚民俗学会編)の「ゆみしんじ 弓神事」をふりかえってみる。「烏勧請の起源」第1部8ページと同じものである。
弓で的を射ることによって、神意のいかにあるかを占う神事。馬で駆けながら射る流鏑馬と歩射すなわち「かち弓」の2種がある。流鏑馬の方は騎手が3本の矢を携え、忌竹に挟んで立てた3個の方形の的(まと)板をつぎつぎに射て、当ったかどうかによって神意のあるところを察しようとする形が多い。(略)流鏑馬の盛行は武士の世、鎌倉時代に入ってからとみてよいであろう。これに対して庶民の間では馬を用いない歩射がふつうであり、この方が、流鏑馬よりは一段と古風なものと思われる。(略)これに2通りの方式がある。一つは的を射あてることに主眼をおくもので、的に鬼という字を書いたものが多い。射られた的は魔除けになるといって争って持ち帰る。年頭の祭りに際して弓の行事によって一年中の平穏な生活を確保しようとした点がうかがえる。もう一つの方式は、氏子集団を幾つかの組に分け、それぞれ代表選手を出して互いに技をきそい、的を射あてた数によって勝負を決する種類のものである。(略)的射の行事は、しだいにこれを祭りの余興のごとく解する土地が多くなってきているが、元来は神意を卜占しようとする意図に発したものであることがうかがえる。

 上記のように流鏑馬より歩射のほうが古く、歩射には2通りあり、一つは的を射ることに主眼をおくもの、もう一つは的を射当てる技を競うというものである。この二つのうちでは、しだいに的射が祭りの余興のようになっていったが、元来は神意を卜占しようとしたものであった、との解釈になっている。つまり的射の競技よりも的射による卜占のほうが古いという解釈である。それはそのとおりであろう。しかし卜占よりもさらに古い形がある。『日本民俗大辞典』の「ゆみしんじ 弓神事」(萩原法子)によると、実際の歩射の行事では神意を卜占するよりも、的は必ず射当てるべきものとする例が圧倒的に多いという。
 それは「的は必ず射当てるべきもの」とされる弓神事は、射日神話に源があるからである。余分で危険な太陽はどうしても射落とさなければならない。だから卜占よりもさらに古くは太陽の象徴としての的は「必ず射当てるべきもの」だったのである。そして烏勧請では餅は必ず食べさせるべきものである。その餅とは太陽を象徴するから、つまりは弓神事と烏勧請とは源は同じである。射日・招日神話にもとづいた祭祀の後裔が弓神事などの正月行事であり、烏勧請はそれらの祭祀の末尾が独立したものである。これについては「烏勧請の起源 第1部」を参照された(()い(16))。つまり稲作文化における共同体の行事であり、必ず射当てるべきとされる的は太陽であり、必ずカラスに食べられるべき餅も太陽である。射日・招日神話にもとづいた祭祀としての弓神事、烏勧請である。
 さらに別の角度からも占いをすることより、とにかく射当てなければならないとするほうがどうして古いかを考えてみよう。的は必ず射当てる、餅は必ずカラスに食われなければならない、というのは弓神事と烏勧請の本質ともいうべきものである。それに対して占いをするということは、太陽は必ず始末しなければならないだけの理由がすでに忘れられたか、弱まってあいまいになっているのである。だから占いに移行できたということであり、もはや信仰の核が弱まったことを意味している。その神事の本来の意味である余分で危険な太陽の除去が伝わらなかったから、あるいは忘れられたから占いに移行できたのである。
 だからこそ本来の目的を差し置いて、弓神事では吉凶占いや作占いに移ることができるし、のちには興味に流れたり、人を楽しませる方向へ発展し、的射の競技や流鏑馬にも移行できたのである。「必ず射当てなければならない」という認識が強かったうちは、最初に弓射ではずしても、はずれのままということはあり得ないし、当たりはずれで占いをするという意識は入る余地がなかっただろう。必ず的は破られなければならなかった、そして余った危険な太陽は除去されなければならなかったのである。一方烏勧請では必ず餅や団子はカラスに食べてもらわなければならなかったし、その認識が弱くなったから、食べることを強く強いなくなったのである。弓神事、烏勧請ともその観念が薄れたから占いに移行できたのである。
 そうすると(エ)の吉凶占いが西日本で5件、東日本では30件あるというのは、東日本が新しく変化した形であることを意味している。「新谷」によると、周圏論でいえば最も古いとされる北東北にも吉凶占いは6件あがっている。した がって最も古いと見られていた北東北の烏勧請も実は西日本の烏勧請より新しいことを示している。
 つぎに2つ目の答えとして、カラスに餅を食わせることを東日本では強く強いないというのは、それを強く強いることの意味が失われたからである。信仰の核であった、余った危険な太陽である餅を、カラスにどうしても運び去ってもらいたいとする烏勧請の本来の目的が、東日本へ伝播していく過程で意味が失われた、もしくは軽視されたから、食べることを強く強いなくなったのである。つまり東日本の烏勧請はのちの変化型なのである。
ではなぜ烏勧請の本質は東日本へ伝播しなかったのか。その答はカラスの役割における東西のちがいの中にうかがうことができる。

カラスの役割
 北東北でカラスが山の神、または山の神の使いと考えられているのは、カラスのもとの意味が伝わらなかったからである。「余分で危険な太陽を始末」するというカラスの役割を最早失っているのである。だから一方、西日本では太陽を象徴し、太陽の運行にかかわるとされるカラスの役目は表面からは見えなくなっているが、その本質を内に秘めているのでカラスがなんであるかについていう必要が無い。「新谷」の資料では空白が多い。神の使いというのが4件、ミサキとあるのが2件あるが、これらは東日本で山の神の使いなどになったように、カラスの本来の意味がうすれてから、カラスが何らかの存在としないと納得できなくなってからついた役割であろう。
 ではなぜ東日本へ、とくに東北へは「余分で危険な太陽の始末」という烏勧請の本来の目的が伝播しなかったのか。なぜ神事の本来の意味が失われて吉凶占いや作占いになったのか。それは赤坂憲雄がいうように「穢れをめぐる観念やイデオロギーにおいて、東北が西日本とはまるで異質な世界だった」からである。赤坂は『東西/南北考』の第5章「穢れの民族史」の冒頭でつぎのように記している。
穢れとは何か。人の死にまつわる穢れがあり、女性の月経・出産にかかわる穢れがあり、そして、獣の肉や皮革処理がもたらす穢れがある。そうした穢れの観念や禁忌の群れが、複雑に絡まりあいながら、西日本を中心として、被差別という名の差別のシステムを産み落としてきた。東北の中世には、あるいは、北海道のアイヌや沖縄の島々には、被差別は存在しない。穢れのタブーをもって、人が人を差別する制度そのものが見いだされない((17)。())

 だから西日本で浄穢の確認やケガレの有無を問い、カラスが餅や団子を運び去ってくれればケガレが祓われて祭りを進められるといった、カラスに負わせていた役割は中世の東北では通用しなかったのである。しかも東日本は王や国家をつくった西日本に対して、クニを形成しない人々の地域であった。それについても、さらに赤坂の『東西/南北考』から引用する。
 本州中部の東西を分ける「ボカシの地帯」から西では、弥生文化としての「稲作農耕社会が急速に広がり、金属器の製作や使用が行なわれるようになる。階級が分化し、権力を握る者が現われ、やがて群小のクニが並び立って争う時代がはじまる。その国生みの時代を経て、瑞穂の国を統べる王である『天皇』が登場し、ついに『日本』という国号をいただく古代律令国家が生成を遂げる」。それに対して東日本、特に東北では、稲作農耕の定着ははるかに遅れた。「政治的な社会の形成については、古墳の存在がひとつの指標となるが、東北の北側には古墳そのものがない地域が広がっている。古代東北の、のちにエミシと呼ばれる縄文の末裔たちが、部族連合の域を越えて、ついに国家を造ることがなかったことは、いかにも象徴的である」とし、「国家に抗する社会」が根強く存在しつづけたのである。そして古代東北は「王や国家を避けがたく産み落とした西日本の、稲作農耕を支配のシステムの根幹に据えた社会」のようにはならなかったのである。
 その結果、東日本へは共同体の祭りとしてではなく、ケガレの有無にこだわるものでもなく、おもに家ごとでばらばらに行なう行事として烏勧請は伝播した。つまり大林のいう、一般のカラスを対象とした烏勧請である。したがって一般のカラスによる家ごとの烏勧請は古い型ではなく、のちに変化した型なのである。
 縄文文化を色濃く引き継いでいる東日本にはもともと稲作文化のなかの要素としての射日・招日神話も、アマテラスをめぐる天岩屋戸神話も普及していなかった。ということはそもそも神話をとおして育まれたカラスの信仰上の役割についての認識もなかったのである。そしてのちになって稲作文化が東日本にも伝播してくる。その中にはカラスを伴う太陽信仰も含まれていたのである。しかし、その伝播の過程においては、共同体の祭祀としての烏勧請を含んだ太陽信仰の本質は、すでに失われていた。東日本はケガレの観念をもたない社会だったからである。そうすると余った危険な太陽を始末するとされるカラスを何者として認識したらいいのか。ただのカラスでは受け入れがたいのである。単なるカラスに餅はやれない。カラスに何らかの意味づけをしなければ、烏勧請の習俗を受容するわけにはいかなかったのであろう。それが占いを授けてくれる存在となり、さらに北東北では山の神、あるいは山の神の使いということになったのではないか。占いへ移行した理由は前述したが、ではカラスと山の神はなぜ結びつくの(()か(18))。それはカラスが余った危険な太陽としての餅をくわえて、山と里の間を行き交うからである。山の神や山の神の使いとしてのカラス、あるいはナマハゲやホトホトなどの小正月の訪問者、さらにいえば山姥もケガレとしての余った危険な太陽を象徴する餅を運び去る者として存在している。これらの異界からの訪問者とケガレの関係については次号「餅なし正月の意味と起源」で言及する。
 いっぽう西日本にはもともと稲作文化にともなう信仰のなかでカラスの役割があった。それは十日神話、射日・招日神話としての太陽信仰のなかのカラスであり、カラスは太陽を運ぶ、太陽を象徴する鳥だった。だからカラスが改めて何らかの神や神の使いと考える必要はなかったし、カラスのままで余った危険な太陽を運び去る役目を果たしてくれればそれでよかったのである。

弥生の社会と縄文の社会
 それでは、烏勧請における東西のちがいが何に由来するのか。地域的なちがいや特徴をどう解釈したらいいのか。それはすでに明らかであるが、弥生社会と縄文社会の違いとしてとらえるべきであるというのが、私の立場である。
 「烏勧請の起源 第1部」で考察してきたように、烏勧請は稲作文化の一要素であり、太陽の順調な巡りを願う祭りの最終段階の行為である。したがって弥生時代の稲作をめぐる祭りにその起源があると推定できる。烏勧請が弥生時代に遡ると推定するのは大林の考え方でもあ(()る(19))。ただし『稲作の神話』に収録の「穂落(ほおとし)神(がみ)」にみる根拠の希薄な穂落し神伝承をその起源とするのではなく、稲作農耕文化とともにある射日・招日神話に起源を求めるべきである。ということは烏勧請の起源となる祭りの、弥生時代における分布は稲作先進地帯である西日本にとどまり、稲作の伝播より先に烏勧請が伝播していくことはないはずである。
 であるならば、烏勧請の東西におけるちがいをどう解釈するか。それは弥生文化圏と縄文文化圏とのちがいが反映していると見るべきである。
 赤坂憲雄は『東西/南北考』において、西日本と東日本のちがいについて次の指摘をしている((20)。())
 ①東日本と西日本の方言の差異について、その境界線は中部日本にあり、大野晋の研究によれば縄文弥生までさかのぼると推測できる。
 ②年中行事において、西日本には官暦に準拠したものが多く、東日本では官暦をあまり重視していないものが多い。
 ③小山修三の縄文時代の人口についての試算によると、列島の人口がもっとも多かった縄文中期の終りに、北海道と南西諸島を除く列島全体に26万人がいて、そのうち東日本に23万人、西日本には3万人程度で、縄文時代の早期から晩期まで人口は東日本に圧倒的に多かった。
 ④王や国家をつくった西日本と、「国家に抗する社会」であり、クニを形成しない人々の東日本。
 ⑤穢れをめぐる観念やイデオロギーにおいて、東北が西日本とはまるで異質な世界だった。
 以上のように西日本と東日本との差を描き出している。東西の境は比較する材料によってちがうので、中部日本のかなり幅をもたせた地域、「ボカシの地帯」を境にしている。そして西日本と東日本のちがいは①から⑤に示したように、方言やアクセントがちがい、年中行事にちがいが見られ、人口差も大きくちがい、クニを形成する社会とそうでない社会、そしてケガレの観念をもつ社会とそうでない社会、というようにさまざまな点で差異がみとめられる。さらにもうひとつの「ボカシの地帯」を南九州に設定している。このふたつの「ボカシの地帯」にはさまれた西日本が弥生時代以後「稲作農耕を基盤とする社会へと巨大な変貌を遂げていった」のである。鹿児島県の烏勧請のデータを東日本に含めたのは、この南九州に設定したもうひとつの「ボカシの地帯」の存在ゆえである。このふたつの「ボカシの地帯」を境にした西日本と東日本は6ページ「東西の境」で私が設定した、烏勧請における鹿児島県を東日本にふくんだ東西の境とほぼ重なるのである。そして赤坂は弥生時代における日本列島の地域的な特徴をつぎのようにまとめている((21)。())
 まず考古学の藤本強の『もう二つの日本文化』という著作による北の文化・中の文化・南の文化というとらえ方を用いている。「北の文化」とは北海道の文化、「中の文化」とは弥生時代以後の本州・四国・九州の文化、「南の文化」とは南島の文化である。「中の文化」にだけ藤本が弥生時代以後という限定をつけたのは、この「中の文化」地帯だけが、もう一度引用するが「稲作農耕を基盤とする社会へと巨大な変貌を遂げていったからである」という。赤坂はさらに「中の文化」を西側と東側にわけている。その境界はさきほどの中部日本の「ボカシの地帯」である。そして「中の文化」の西側では「弥生の訪れとともに、稲作農耕社会が急速に広がり、金属器の製作や使用が行なわれるようになる。階級が分化し、権力を握る者が現われ、やがて群小のクニが並び立って争う時代がはじまる」としている。
 一方、中部日本にある東西の相接する「ボカシの地帯」をはさんで東側はどうであったか。赤坂は東日本については13ページにも引用したように、つぎのようにいう。
稲作農耕はすでに早く、最北端の青森まで到達しているが、それは東北が稲作農耕社会となったことを意味するわけではない。縄文以来の、採集・狩猟や雑穀農耕を複合的に組み合わせた生業のうえに、あらたな農耕の技術として稲作を取り入れたのである。気候変動につれて、稲作前線は南へ後退し、定着ははるか後代に遅れる。東日本の多くの地域では、依然として、台地での畑作を中心とした、縄文的な伝統の強い農耕文化が営まれていたのである。もうひとつの弥生文化であった。

 以上が弥生時代の西日本と東日本の文化状況であったとしている。赤坂はこのような西日本と東日本のちがいは縄文以来の採集・狩猟文化のうえに、稲作の渡来・伝播が弥生以降にかぶさり、さらに国家を背負った均質の時間を強いる官暦が広がっていったことに起因しているものであるとしている。
 これらの東西のちがいの中でも特に烏勧請についてはケガレの観念のちがいと官暦の広がり方の違いが大きくかかわっていると考えられるので、この点に焦点をあててみよう。

ケガレをめぐる観念の西と東
 烏勧請は弥生の稲作農耕文化に伴う太陽信仰を起源としていた。その烏勧請が、西日本の稲作先進地帯に強い関係性を示しているのは当然である。そして烏勧請がその本質を保ったままでは東日本や東北地方まで伝播しなかったのも、これだけの東西の文化的ちがいがあることを考えれば、またそれも当然だったのである。つまり烏勧請の起源をふくむ稲作の祭祀は、始め、稲作の普及にともなって、南九州をのぞく西日本に共同体の行事として行なわれていた。その主体は頭屋組織の原型と呼べるものであろう。当初から共同体の行事であり、大林らの主張する一般のカラスを相手にした家ごとの行事ではなかったのである。そして東日本へ伝播したのはずっと後のことであった。
 その東日本はケガレの観念が大きくちがっていた。そこには西日本にみられるようなケガレと差別をめぐる社会構造はなかったのである。赤坂によれば「穢れの観念やそこに生起する差別の現象は、(略)おそらく、弥生以降の、畿内を中心とする西日本の種族=文化が必要とし、それゆれに、固有に分泌した社会的な制度で((22)」())あった。だからこそ烏勧請が伝播していく過程では、カラスに負わせた意味はあいまいになり、すでに信仰の本質は衰退して変質していき、変質した結果として吉凶占いや作占いをするものになっていた。本来の信仰の核が弱まってからのちに、稲作の北進とともに伝播していったのである。しかし北日本はクニを形成しない人々の社会であり、そもそも稲作を基盤とした社会でもないから烏勧請の行事は共同体として受け入れられることはなく、家ごとの行事となった。
 そして最後に3つ目の答として、烏勧請の行事の執行日が西日本では正月もあるが春秋、特に秋が多い。それに対して東日本では圧倒的に正月である。なぜこのようなちがいがあるか。これには次の「暦の移入と正月の移動」で検討する。

暦の移入と正月の移動
 西日本の烏勧請に春秋型が多いのは、重要な節目は春の播種期と秋の収穫期だからである。官暦移入以前の生産暦の時代には収穫終了時が新年だった。萩原秀三郎の『稲と鳥と太陽の道』によると、「正月はいく度も来る」との見出しで、
稲作民にとっての時間の折り目は刈り入れにあり、南島を別にすれば本来アキマツリのころに正月を設定すべきものと思われる。したがって、大正月にしろ、小正月にしろ漢土からの暦法が伝来した後のことで、もともとあった民間の正月行事をこちらにずらして重ね合わせた結果、重層的な構造になったものと思う((23)。())

として、本来の正月は秋の稲の収穫後だったとしている。暦法の伝来以前の一年間の区切りについては、上田正昭も次のようにいっている。
暦法が人々の智識となる以前から、はるの種まきと、あきの刈り上げが、一年の大切な節とされていたことは、3世紀のわが国土のありさまを描いた『魏志』の裴(はい)松之(しょうし)の注にもうかがえる。「その俗、正歳四時を知らず、ただし春耕し秋収むるを記して年紀となす」とあるのが参考になろう((24)。())

 同じく上田によると『魏志』東夷伝韓の条には、春の種まきのさいに鬼神をまつって歌舞飲酒したことが記載されているし、また秋の収穫の後でも同じようなまつりをして、大木に鈴鼓をかけたことが記述されている((25)」())として、朝鮮半島にも春と秋を大切な節とする稲作の祭りがあったことを紹介している。これは『稲と鳥と太陽の道』で萩原も引用し、中国江南の稲作発生地帯へさかのぼる鳥竿信仰と稲作儀礼と祖霊信仰が習合した習俗であるとしている((26)。())この「魏志」に記された鬼神の祭りこそ、列島の正月を迎える祭り、烏勧請の源も含まれると考えられる祭であろう。
 さらに萩原は『鬼の復権((27)』())で「日本の稲の原郷・中国江南のミャオ族の固有の正月とは、稲の刈り入れ後に迎えられる。正月は刈り入れの早い北部から始まり、刈り入れの遅い南部で終わる」として、もとの正月は中国江南の稲作文化地帯に起源し稲の刈り入れとともに行なうとしている。
 ということは、列島に稲作文化がもたらされた時代、それとともに入ってきた稲作儀礼である正月の行事、つまり1年の改まりという重要な区切りは秋の収穫後であったはずだ。稲作先進地である西日本で神社・小祠などの共同体による烏勧請が秋に多いのは、正月を迎える行事が本来秋の収穫後だったからである。それは大林がいうような、一般のカラスを相手にしていたものが、中世になって共同体や社寺の行事に発展したのではなく、それよりはるかに古くから、つまり弥生時代から秋の収穫後に共同体で行なっていた祭りである。それが大嘗祭、新嘗祭のもとでもある。折口信夫もつぎのようにいっている。「穀物は、一年に一度稔るのである。其報告をするのは、自ら一年の終りである。即、祭りを行ふ事が、一年の終りを意味する事になる。此報告祭が、一番大切な行事である。此信仰の行事を、大嘗祭(オホムベマツリ)と言ふのである。(略)古代ではすべて、大嘗であつて、新嘗・大嘗の区別は、無かつたのである((28)」())と記している。
 その、本来なら秋であった正月をずらす、新年の時をずらすことになったのはのちの漢土からの暦法の伝来によってであった。
 だから稲作がいち早く普及した西日本一帯には、稲をめぐる儀礼もひろまったはずである。そこでは1年の区切りは春の播種期と秋の収穫期とであり、特に秋は年の改まりでもあった。あるいは1年は2年だったかもしれない((29)。())
 10ページの(カ)で記したように、西日本で神社や小祠など、共同体によって行なわれる烏勧請が28件あるうち、現在の正月に行なわれるのが7件、春に行なわれるのが1~4月で8件、秋に行なわれるのが9~12月で10件ある。厳島神社の3~11月の間というのを加えると正月以外の時期が19件である。秋としての位置づけがやや強いのである。
 比較のために東日本の同じく共同体の例をあげておくと、全部で4件で、うち2件は宮城県での御鳥喰神事で1月5日と、栃木県での粥懸祭で1月14日となっており、あとの2件は神奈川県での小祠によるもので1月17日と10月17日の山の神祭、もうひとつは1月18日の山の神講となっている。つまり10月17日の山の神祭以外はすべて1月の行事である。これは東日本への烏勧請の伝播が暦の移入後であり、正月が1月に移ったあとだったことを示す結果と考えられる。これが3つ目の答である。
 このようにもともと烏勧請は春・秋の行事だったと推定できるのである。それが東日本へ伝播したのは、暦の移入による正月の移動がおこってからであり、もともとは春秋重視の節による行事だったことを物語っている。古代の痕跡ばかりを持ち出さなくても、現在の民俗のなかにも、正月がもとは秋だったなごりを見ることができる。たとえば「岡山県の御鳥喰の事例-とくに玉野市碁石の場合」によると、岡山市今谷の深田神社では秋の大祭の時「お供えの膳を本殿の屋根に上げておき、オドクウサマと呼ぶからすがきてそれを食べると、見張りの者の知らせの太鼓によって『オドクウサマがあがられておめでとうございます』とあいさつをし、それで当屋の責任が終る」という((30)。())ということはその年の当屋の役目はそれで終るわけだから、年が変っていいわけで、すなわちもとは秋の祭りが年の改まりだったことを示している。

まとめ
 以上のように3つの観点から考えることによって、東日本の烏勧請は西日本のそれよりも新しいということが証明できたと思う。その結論をふまえて(ア)から(カ)をみていくと、それらの謎について次のように答をまとめることができる。
 烏勧請はもと稲作先進地帯である西日本で共同体による祭りだった。それは射日・招日神話にもとづく祭りのなかのひとつの要素であった。東日本とくに東北地方まで稲作が定着したのはずっと遅れて、おそらく中世以後である。それは網野善彦の中世の年貢品目についての考察でも明らかである。したがって稲作文化の一要素である烏勧請も東日本や東北地方へは稲作とともに、遅れて伝播したのである。ところが東日本はケガレ観をもたない社会である。ケガレ観をもたないということは、西日本にあったカラスの役割である浄穢の確認やケガレの有無をカラスで確認し、カラスにケガレを負わせることによって祭りを進められるとする考え方が伝わらないということである。しかもクニを形成しない人々の地域である。そのため烏勧請はその本質である、ケガレとしての余った危険な太陽の象徴である餅を除去する行為はそのままでは伝播しなかった。変質して作占いや厄払いなどへ変化した。そして祭りの主体も共同体から家ごとへと変わったのである。カラスがケガレを負うものであり、余った危険な太陽とはケガレである、ということについては次章の中の「「コトを負う」とは」でさらに述べる。
 またカラスは稲作文化のなかで太陽の象徴であり、太陽を運ぶ鳥ともされており、余った危険な太陽を運び去る役割があった。しかし稲作文化の及ばなかった東日本では信仰上のカラスの役割としての認識はなく、そのため烏勧請の本質が伝播しなかったのである。代わって北東北ではカラスは山の神、または山の神の使いとされた。それは何らかの役目を見出さずには、信仰の対象としてのカラスを受け入れにくいからであろう。それがなぜ山の神や山の神の使いになったのか。それはカラスが山と里の間を行き交うからである。これはおそらく余分で危険な太陽を始末するおもな場所としての山と結びついたのではないか。太陽は山の端から出て山の端に沈む。あるいは海、山の果てから出て海、山の果てに沈む。太陽は山の端、海の果てなどの境界に鎮まるのである。そうした境界へ太陽を運ぶのはカラスなのである。
 そして中世以降の伝播であればすでに暦法の移入からも久しく、もとは秋の収穫後であった年の改まりも後ろへ移動し、それにともなって東日本では烏勧請はおもに現在の正月の行事となったのである。
 では正月の移動による民俗変化を別の角度から、さらに検討してみよう。正月の移動が烏勧請の変質に反映している例として、次に「コト八日」を取りあげたい。コト八日が何であるかも、烏勧請における東西のちがいと暦の移入による正月の移動で解くことができる。

ケガレの起源と銅鐸の意味31 烏勧請の起源 第2部 烏勧請にみる西日本と東日本

2016年10月02日 09時30分14秒 | 日本の歴史と民俗
   烏勧請の起源 第2部

   烏勧請にみる西日本と東日本


   はじめに
烏勧請とは
 烏勧請については『日本民俗大辞典』の「からすかんじょう 烏勧請」から要約する。これは「烏勧請の起源」第1部に載せた要約と同じである。
正月行事や事八日、収穫儀礼などで烏に餅や団子などを食べさせる行事。家ごとの年中行事として行われるものと神社の神事として行われるものがある。後者は御鳥喰(おとぐい)神事(しんじ)、鳥喰(とりばみ)神事(しんじ)などといわれ、広島県厳島神社、滋賀県多賀大社、愛知県熱田神宮など西日本各地の神社に伝えられていた。前者の家ごとの年中行事として行われているものは、東北から九州まで全国各地に伝えられていた。各地の事例を整理すると、第一のタイプ、正月の山入りの際に行われるもので、行事の理由は厄病除け、災難除け、吉凶判断、分布は東北地方北部。第二のタイプ、正月の鍬入れの際に行われるもので、田んぼに早稲・中稲・晩稲と餅や米を3カ所並べて置いて烏がどれを先に啄むかによって作占いをする、分布は北関東に濃密。第三のタイプ、春と秋の事八日の行事の中で行われているもので厄払い、疫病神送り、東北の一部と中国・四国とに限られた特徴的な分布。第四のタイプ、秋の収穫儀礼で鳥の害を除けるとか、田の神への供物、九州にみられる。供物はいずれのタイプも餅、米、団子、まれにイモである。

 さらに、今回も考察を進めるうえで、その基点ともいうべき射日神話、それにつづく招日神話を萩原秀三郎の『稲と鳥と太陽の道』から再録してお(()く(1))。萩原によると射日・招日神話とは旱魃をもたらす余分な太陽を射落として順調な日の巡りを回復させるという中国古代の天地創世神話のなかの一話で、北アメリカ東部から北方ユーラシア、東南アジア、インドのアッサムにいたるまで広く分布し、日本列島にも伝播したものである。
昔、太陽は10個あり、地中に住み、地中で湯浴(ゆあ)みしていた。東の果ての湯谷(とうこく)の上に巨大な扶桑の木があり、10個の太陽は湯谷の扶桑をつぎつぎ昇って、一日(いちじつ)ずつその梢から天空へと旅立ち、西の果ての蒙谷に沈み、地の下(水中)をもぐってほとぼりをさまし、再び湯谷に帰っていた。
太陽にはそれぞれ烏(はじめ二足、後に陰陽五行思想の影響で奇数を聖数とすることから三足に)が住んでいて、樹上から飛び立っていた。あるとき、10個の太陽が一度に空を駆けめぐった。大地の草木は、みるみる焼け焦げ大変なことになった。弓の名手・羿(げい)が太陽の中にいる烏を九羽まで射落とし、地上の人々は焼死を免れた。(『山海経』『淮南子』ほか)

 そして射日神話のあとには、招日神話という太陽を招く話がつづく。『稲と鳥と太陽の道』からさらに要約する。この神話には多くの異伝があるが、貴州省に伝わる昔話によると、9つまで射落とされた兄太陽たちをみて末っ子の太陽はこわくなり山のむこうへ逃げてしまった。地上は真っ暗になり、人間たちはほとほと困ってしまった。シシやアカウシに呼んでもらったがうまくいかず、続いて頼まれたオンドリが発声の練習を重ねたすえ、その美声で末っ子太陽に呼びかけてようやく太陽がもどってきた、という話である。
すでに第1部の「はじめに」で述べたように烏(からす)勧請(かんじょう)にまつわる謎はおもに次の4点である。
①なぜカラスなのか。
②なぜ餅や団子を与えるのか。
③なぜ早朝に行なうのか。
④なぜ西日本と東日本で内容が違うのか。

 このうちの①②③については「烏勧請の起源 第1(()部(2))」で解いた。つまり、太古、稲作農耕文化にともなう射日・招日神話において、カラスは太陽であり、太陽を運ぶ鳥であり、さらに太陽の昇降や鎮静を司る大役を負った鳥だったのである。人々は祭りの夜を徹して日の順調に巡ることを祈り、強すぎる太陽の象徴としての餅や団子を余った太陽として、日が昇るまえに、祭りの最後にカラスに与えたのである。餅や団子は太陽の象徴、それも強すぎる太陽、余った危険な太陽の象徴なのである。したがって烏勧請でカラスに餅や団子を与えるというのはカラスに危険な太陽を運び去ってもらうという意味なのである。
 そして今回は④について考えていく。④烏勧請はなぜ西日本、東日本とで内容が違うのか。なぜ東日本では家ごとの烏勧請が多く、西日本では神社、小祠などの行事として行なうことが多いのか。なぜ西日本ではケガレの有無を問い、東日本では占いにこだわるのか。
 「烏勧請」と総称されるが、その中身は地域により、また家ごとか共同体の祭事かによっても内容が違う。これらのちがいや違いに至った由来について合理的な説明はつけられるだろうか。第1部では「射日・招日神話」というキーワードで烏勧請の謎を解いてきた。今回は「西日本、東日本」というキーワードで考えていこう。

ケガレの起源と銅鐸の意味30 烏勧請の起源 第2部 烏勧請にみる西日本と東日本

2016年10月02日 09時20分37秒 | 日本の歴史と民俗
    烏勧請の起源 第2部
    烏勧請にみる西日本と東日本



 古代史シリーズ第3弾。烏勧請という民俗事象をとおして、そこに秘められている日本文化の本質にせまります。おなじ烏勧請でありながら、各地に見られる習俗はかなり違います。その違いは何を意味しているのか。それが解明された先にはさらに大きな潮流が垣間見えてきます。



   目次
はじめに
 烏勧請とは

第1章 烏勧請の西日本型、東日本型
  東西の境/東西の特徴的な違い/従来の解釈/西の水田、東の畠作/東日本の烏勧請は新しい/吉凶占い、作占いの方が新しい/カラスの役割/弥生の社会と縄文の社会/ケガレをめぐる観念の西と東/暦の移入と正月の移動/まとめ

第2章 コト八日の成り立ち
  コト八日の定説/コト八日の烏勧請/「コトを負う」とは/コト八日の位置づけ/コト八日の行なわれる時期/『日本民俗大辞典』の「コト八日」を読み直す/「イノチゴイ」とは何か

おわりに

引用・参考文献