ケガレの起源と銅鐸の意味 岩戸神話の読み方と被差別民の起源 餅なし正月の意味と起源

ケガレの起源は射日・招日神話由来の余った危険な太陽であり、それを象徴するのが銅鐸です。銅鐸はアマテラスに置換わりました。

ケガレの起源と銅鐸の意味37 餅なし正月の意味と起源/小正月の訪問者と餅のゆくえ

2016年10月04日 09時12分46秒 | 日本の歴史と民俗
   第1章 餅なし正月の意味と起源

餅なし正月とは 
 餅なし正月の定義や研究史については『日本民俗学』188号所収の「餅なし正月・再考―複合生業論の試み」(安室知)から引用する((1))。詳細は同書にあたって欲しい。
 安室は餅なし正月の定義として坪井洋文の「正月元日を起点としたある期間に、餅を搗かず食べず供えずという禁忌を継承している家、一族、地域のあること」を引用している。そしてさらに餅なし正月伝承の振幅の大きさを指摘して、
餅なしの期間については、正月の間継続するものと、ある一時期に限られるもの(餅の解禁日が設定されるもの)という区別ができる。神話については、それを伴うものと伴わないものとに区別される。また、規制の内容については餅を搗かない・食べない・供えないという3つの規制要素のそれぞれ選択または組み合わせとなる((2))。

として、同じ餅なし正月でも規制の強いものからゆるいものまで広い幅があることを指摘している。そして餅なし正月は多くの場合、大正月の期間に限られているという。
 さらに安室はこれまでの餅なし正月に注目した研究者の見解として以下のものを紹介している。
 ○柳田国男―餅なし正月を伝承する一族(家)について、「餅は神聖のものなる故に最初から忌んでいたのであろう」。
 ○折口信夫―「祭りの忌みが厳しかった土地で、臼杵を用いず、年越しの夜を起き明かす習いであったため、食物の調整すらはばかられて餅を用いなかったのがもとのおこりではないか」。
 ○千葉徳爾は、雑煮や門松が中世以降の流行であるとして、餅なし正月を同族団の分解による、いわゆる旧家とそれ以降の新参者とを区別する役割を持つこと、つまり旧家側の伝統保持の意識により生み出されたとする見解を示している。
 ○坪井洋文は、稲作民文化と畑作(焼畑)民文化との接触とその葛藤に餅なし正月の起源を求めている。
 ○直江広治は、餅なし正月を稲作に先立つ畑作文化(栽培文化複合)の残存と捉える。
 ○桜田勝徳は、南洋からのタロ芋文化(根栽農耕文化)の伝播にその起源を求めようとした。 
 このように、これまでの関心の多くは餅なし正月の起源に向けられていて、正月における「餅なし」の意味や餅なし正月の機能については十分に解き明かした論考は少ない、と安室は指摘している。

 以上が従来の餅なし正月の研究についてのごく大雑把な把握である。『日本民俗大辞典』の「もちなししょうがつ 餅無し正月」の項も安室が担当しており、ほぼ上記の内容がまとめられている。つづいて安室はさらに坪井の主張する「稲作文化と畑作文化との葛藤に餅なし正月の起源を求める考え方が提出され注目を集めた」が、「しかしその伝承分布をみると、餅無し正月はむしろ平野部などの稲作優先地に多く分布する。つまり餅の禁忌は餅の存在を前提にして成り立つもので、餅無し正月は餅正月の一類型であると考えられる」と反論している。そして最後に「餅無し正月伝承は特別なことを示したものではなく、むしろ庶民生活の実情を儀礼化したもので、建前上公的に進んだ稲作単一化と実際の庶民の複合的な食生活との差が生み出したといえる」という結論になっている。
 安室のいう「餅なし正月は餅正月の一類型である」というのは一面の事実である。確かにそのようにも見えるのである。しかし先走って結論をいえば、反対に「餅正月は餅なし正月の一類型である」というのが私の見方である。
 「餅なし正月」をあつかったものに最近のところでは『「民俗」の創出』(市川秀之)があり「河内の餅なし正月」との章をもうけていくつかの事例を紹介している。そして研究史にもふれているが、ここで特に取り上げるべき新たな見解は出ていない((3))。これまでの研究は上にみるように、どれも餅なし正月という現象の一面の事実をとりあげて憶測したり、このように見えるといっているまでで、結局はこの現象を貫く原理を持たないので、現象全体の姿やその整合性を示せていないのである。

餅はケガレを象徴する
 私はここでまったく別の角度から新しい解釈を提出してみよう。私は「餅なし正月」もやはり射日・招日神話にもとづき、さらに暦の移入による正月の移動がかかわったものであると考えている。『散歩の手帖』25号、26号で考察してきたように、餅とは元来射日・招日神話にもとづく射落とされるべき余った危険な太陽の象徴である。したがってその餅とは地上の世界に害悪をもたらすケガレを象徴したものであった((4))。だからケガレとして始末された餅は新年にはもはや存在する必要がない。存在してはいけないものなのである。それが餅なし正月である。正月に餅がないとはそうしてもたらされた至浄の状態を現わしている。餅はケガレを祓うために機能しているのである。だから餅なし正月とは正月の最も古い姿を残したものなのである。そこで餅と正月の関係、正月における餅とのかかわり方を各地の民俗からふりかえってみようというのが今号の目的である。

餅なしの規制が働くのは
 安室によると、餅なし正月として餅に規制が働くのは、ほとんどの場合新暦の正月三が日に集中しているという。さらに三が日の3日間を通してということはほとんどなく、元旦(元日)にもっとも多く集中する。またさらに1日のうちとくに朝食に(ということは元旦に)特に餅なしの規制が働くとしている((5))。
 元旦とは本来、元日の朝のことである。ということは正月の、新年最初の太陽を迎える朝に餅はあってはならない、ということを意味している。元日の朝、つまり元旦こそもっとも餅をさけなければならない時ということになる。なぜなら、『散歩の手帖』25号「5章 1日の始まりは日没から((6))」 で述べたように、大晦日の日没から夜籠りし、ケガレを餅に託して祓えやられたはずだから、元旦には餅はいらないし、あってはならないはずなのである。これが正月を餅なしにして迎える、いわゆる「餅なし正月」となる理由である。興味深いのは中国少数民族ミャオ族の例である。ミャオ族は「丸餅は辰の日(元旦)は神にささげるもので、家人は決して食べない」という((7))。そして『日本民俗学』174号所収の「餅なし正月と雑煮」では都丸十九一は、古くは餅を雑煮に入れてなかったと説いている((8))。都丸の論文についてはこの章の最後に検討しよう。なぜなら、家々からケガレの餅を取り去るという習俗がかつて広く普及していたことをこれから以下に検証し、その上で都丸の論文を見ていくと雑煮と餅の関係や、正月には餅をさけるものだったことについて理解が進むからである。

ナマハゲの本来の目的
 『日本民俗大辞典』下巻「ナマハゲ」によると「年の折り目・年越しの晩に神が来臨して祝福を与える行事。男鹿半島において、12月31日の夜か1月15日の夜に行われる。ムラの若者らが鬼のようなナマハゲ面を被り(略)家々を訪ねる」としている。そして3つの起源説を述べているが、どれも取れない。『日本民俗事典』(大塚民俗学会編)の「なまはげ ナマハゲ」ではもう少し本質にせまる記述がされている。まず「おそろしい鬼の面をかぶり」「家の主人が羽織袴の正装でナマハゲを迎え、酒肴や餅などで鄭重にもてなし、ナマハゲも神棚に礼拝し、祝福の言葉を述べている」。さらに「能登半島のアマメハギという行事は、(略)家々を訪ねて餅を集めて歩く」との記述がみられる。
 これらナマハゲやアマメハギはいわゆる小正月の訪問者と呼ばれている。そこで『日本民俗大辞典』で「小正月の訪問者」を引くと、このような行事は全国的に広く分布しており、中国地方ではコトコト、ホトホト、トヘトヘ、トロヘイ、四国ではカユツリ、徳島県ではオイワイソと呼ばれているという。多くは「ナマハゲのような威圧的な態度はとらない」が、青年や厄年の者が仮装して「農業に関するものを所持して、それと引き換えに餅をもらって歩く」あるいは「家人と一切会わないようにして所持品と餅とを交換するところもある」また「厄年逃れや旱魃を防ぐなどといって訪問者に水をかけたりもする」などの記述が目を引く。
 いずれも仮装した訪問者が現われると、ナマハゲでは餅でもてなしたり、アマメハギは家々を訪れて餅を集めて歩いたり、そのほか訪問者は所持品と交換に餅をもらって歩いたりしている。現われ方や振る舞いは各地各様であるが、みな餅を手に入れて去っていくのである。小正月の訪問者は「初春にやってくるまれびと神の信仰に基づくとされ、農業の予祝儀礼的側面をもつ」(『日本民俗大辞典』)とされているが、本当の目的は家々から餅をもらう、あるいは餅を取り去るということにあるのではないか。
 ではその餅とは何だろうか。何を意味するだろうか。すでに『散歩の手帖』25号、26号で述べているように、これもやはりケガレを負ったとみなされる餅であろう。ナマハゲは年越しの晩に現われるのである。あるいは小正月の15日の晩に現われるのである。小正月の訪問者はいずれも14日の晩か15日の晩に現われる。そしてケガレを負わせた餅を託して去らせ、その結果、至浄の正月を迎えるのである。いずれの場合も正月の前の晩、つまり現在の大晦日の日没から元旦の未明のうちに訪問者は現われて、いずれも餅をもらって、夜が明けないうちに立ち去るのである。それはちょうど、夜が明けないうちに烏勧請のカラスにケガレの餅を与えて、ケガレを運び去らせるのと同じである。そして正月の朝、清浄な元旦を迎えるのである。
 そのように小正月の訪問者にケガレを負わせた餅を託すと考えると、ナマハゲの語源についても納得できるのである。『日本民俗事典』によると、ナマハゲの語源について「ナモミすなわち炉にあたっていると生ずる火斑をはぎとるという意味から出ている」という。ナマハゲと同種の行事をナモミハギ、ナモミタクリと呼ぶところもある。火斑とはヤケドとはちがうのだろうか、私には読み方もよくわからないが、ハグ、タクルとは何かできた皮膚の表面をはぎとる行為であるらしい。また小正月の訪問者をカセドリ、カセギドリと呼ぶところもある。「かせぎどり」については『日本国語大辞典』(小学館)では「稼ぎ取り」の意をあてているが、カセドリはかさぶたとりの意ではないかと想像する。同辞典では「かせ」はかさぶたの意がある。ということは焼けて真っ黒に焦げた餅の皮をはぎとるという意味にならないか。カセギドリももとは同じだったのではないか。つまりナマ、ナモミ、カセ、これらはケガレを象徴するもので、これらのものをはぎとるのがナマハゲであり、ナモミハギ、ナモミタクリであり、カセドリである。したがってナマハゲとはケガレをはぎとるという意味である。そしてナマハゲの行為は餅に託したケガレを運び去ることを意味している。

ホトホトの餅
 小正月の訪問者の例からホトホトについてさらに取り上げてみよう。ホトホトをみていくと餅にケガレを託すという行為がよりはっきりしてくる。ここでは中国地方のホトホトについて『無形の民俗資料 記録第6集 正月行事2 島根県・岡山県』から引用する((9))。「(16)松の内の言寿(ことほ)ぎ」として、戦後は全く絶えたというが、昔は松の内に特殊民による言寿ぎがあり、それより古型で、若連中や子ども組による言寿ぎがあり、それをホトホトとよんでいたという。「粟餅いらん、米の餅ごっさい」といいながら正月中歩いたという。「ごっさい」とは「ください」である。特殊民の男が二人で祝いにくると、やはり家の中から餅や金をやったという。さらにホトホトに堕する以前の例と称して、ガガマを紹介している。ガガマとはこわいもの、お化けの意味で、ある土地では旧3月1日の恵比須祭りに、神前に供えた飯を頭主が適当ににぎって参った子どもにやるという。いずれの場合も餅や飯を与えるのである。
 さらに岡山県の例であるが「遊芸人の来訪」として1月13日以後、大黒などのいろいろな芸人が来て、庭先などで祝い歌を歌ったりして、餅や米をもらったという。福俵、オフク(お福)などの訪問者も餅をもらって歩く。その他、猿まわし、ヘイトウ(こじき)などもきて、記載はないがやはり餅をもらったと考えられる。彼らは備中・伯耆などの未解放の人たちが多かったが、戦後は絶えてしまったという((10))。
 岡山県真庭郡新庄村のホトホトでは、厄年の青年たちが厄落しのために夕刻、簑と笠をきて何軒もまわり、たくさんの餅を集めたというが、信仰心が薄くなり、ヘイトウ(こじき)だという観念が強くなって、30年ほど前から行なわれなくなったという((11))。
 これらの事例になぜ「特殊民」や「ヘイトウ」「こわいもの」「お化け」がかかわってくるのか。これらの人たちもやはり「小正月の訪問者」であり、ケガレを体現しており、餅に託されたケガレを持ち去っていく役目を負っているのである。困窮者や被差別民がケガレの餅を運び去る者としての役割を負っていたのである。いずれも戦後には信仰心が薄くなって、習俗は絶えている。「こじきだという観念が強くなって」行なわれなくなったというのも、ケガレを祓えやるという本来の目的が忘失されて、ケガレを運び去る担い手としての「訪問者」と「こじき」の役目とが結びつかなくなって、こじきや特殊民はたんに汚いもの、遠ざけたいものという存在にされてしまった結果、習俗が絶えたのであろう。解放運動や、人々の人権についての認識の変化も大きいかもしれない。
 これら小正月の訪問者の例は新谷尚紀の『ケガレからカミへ』でも紹介している。そして人々のケガレを背負っていくと解釈している点は私と同じである((12))。しかし、ケガレから福徳へ、民俗心意のメカニズムが作動してたちまち逆転するとの説を展開しているのには同意できない。これについては51ページの「トシドン来訪」のところで取り上げる。

ケガレの除去と被差別民
 柳田国男は「浜弓考」において言寿ぎではないが、特種民がかかわる行事を紹介している((13))。柳田は弓神事の的の問題として「紀州御所村の所謂日出的では、牛の頭の皮で作つた的を、近在の某に毎年納めさせて」いたとか、江州「池寺村正月16日の弓神事の的は、其枝郷の籠屋(多分特種民)に作らせた六目籠へ紙を張つてこしらへる」という例を出して、「而して祭典終つて送つて棄てる目籠と云ひ牛馬の首と云ふものが、果して何を意味して居るかは、猶追々に陳列する材料と比べて見ての後で無ければ、自分は臆断を下すのに躊躇せざるを得ぬのである」との疑問を提示しながら慎重である。2例とも特種民(特殊民)が弓神事の的の制作にかかわった例である。なぜ被差別民に牛の頭の皮で作った的や、六目籠を作らせたのか。弓神事の的はすなわち射落とすべき太陽であり、ケガレを運び去るカラスであり、ケガレの餅を託して運び去る小正月の訪問者と同義である。したがってこれはケガレを祓除(ふつじょ)しようとする行為だからこそケガレを運び去る役目としての被差別民がかかわったのである。ホトホトの餅を運び去ることに多くは被差別民がかかわったのと共通している。ではなぜそれにかわったのが被差別民なのか。
 それは被差別民がヒジリや巫覡(ふげき)など古代の太陽祭祀を執行する存在にまでさかのぼると考えられるからである。それについては『散歩の手帖』29号で詳細に検討する。今号では上のようにケガレの除去に被差別民がかかわる例と似た面をもつ事例について考えてみよう。それは坪井の分類した餅なし正月の由来伝承の7分類のうちの「異邦人虐待」の事例である。それを17ページの「異郷人虐待の分析」の項で紹介し、検討する。また「小正月の訪問者」の事例34にも似た例が見られる。牛の首輪である。いずれもケガレを運び去る行為を現わしていると考えられる。
 ナマハゲばかりが有名であるが、この種の小正月の訪問者の行事は全国的に広く分布している。そしてこれらの、餅を集めて歩いたり、餅をもらって歩くという行為も、たんに正月で餅があるから餅を与えるというのではない。オビシャやオコナイ、弓神事などと同様、射日・招日神話に由来する、余った危険な太陽を射落とすこと、そのケガレの太陽こそ餅であり、罪穢れを託した餅を祓除して、至浄の新年を迎えるのである。そうなると餅が必要なのは、正月の前であり、正月にはすでに必要ではない。それどころか、正月には餅はあってはならないのである。そうして現われたのが餅なし正月である。餅があるということは、正月にケガレを持ち越していることになるのだ。
 つまり「餅なし正月」とはケガレを祓えやって迎えた至浄の正月という状態であり、その状態について、民俗学者たちにつけられた名称である。『日本民俗大辞典』「もちなししょうがつ 餅無し正月」によると「餅無し正月、それ自体をいい表わす民俗語彙はなく、単に家例などとされる場合が多い」と記述されている。このような際立った習俗になぜ名がなかったか、それは、そのような民俗はなかったからである。「餅なし」とは正月を迎えるための前提条件として正月準備の最後の段階に現われる状態にすぎず、そのこと自体に名をつける必要などなかったのである。

餅なし正月の分布
 『日本民俗事典』(大塚民俗学会編)によると餅なし正月は、北は青森県から南は鹿児島県に至るまで全国的に100ケ所以上も知られているという。『イモと日本人』でも北海道以外の日本各地から多くの事例を紹介している((14))。これらは一見しただけで餅なし正月が普遍的な習俗、古い時代にはかなり広く普通に行なわれていた民俗であろうことを思わせる。著者の坪井自身もそう判断している。したがって「餅なし」の状態こそ正月を迎えた普通の状態と考えれば納得できるのである。ただ、餅は神聖なもので正月には無くてはならないものという常識に現代は強く支配されているので、餅がない状態が正月に普通であったことが、受け入れ難いのである。このような現代の常識は必ずしも歴史上では常識ではないことは、都丸十九一によってすでに明かにされているのであるが、あまり注目された様子はない。都丸論文の背景にある重要さにも気づかれていない。この章の最後、27ページで都丸論文は検討しよう。
 坪井は『イモと日本人』掲載の「図2 餅以外のものを新年の正式食物とする」という分布図をとりあげて「これによると米から作った餅は必ずしも新年の正式食物として神に供え、人間が食べるのでないことがよくわかると思う。分布もかなり普遍的である((15))」とここでは図の意味を冷静に読みとっている。
 その図は日本地図の青森から鹿児島まで万遍なく餅以外の新年の正式食物の分布が広がっていることを表わしている。さらにいえば安室は長野県内の餅なし正月の分布について「大きな広がりを見せる稲作地の中でもとくに稲作優越地に餅なし正月が多く分布する((16))」としている。ということは、その分布地域は稲が他の作物に優越して中心的作物となっているわけだから、稲に関する文化、民俗伝承も比較的強く継承している地域のはずである。そうしたところに餅を遠ざける習俗がより濃く分布するということは稲作の民俗において、正月に餅を遠ざけることが、実はより本質的な習俗であることを推定させるのである。坪井の「餅以外のものを新年の正式食物とする」という「図2」において、正月に餅が正式食物でないという分布がかなり普遍的なのも、稲作の民俗の中で、正月に餅を食べない、あるいは餅を避けるということがかつては本質的な習俗であったからである。
 また、餅なし正月には東西に変遷を思わせるような差がみられない。これは文化周圏論のように、西日本から東日本へ時間をかけて伝播したわけではないからである。最初から正月には餅はないというのが、正月の定型として稲作民俗の行事に内包されていたからであろう。だからその土地の芋など、北なら山芋、南なら里芋というように、気候や植生からくる地域ごとの差異が儀礼食のちがいとして見られるだけである。というわけで餅にまとわりついている正月になくてはならない神聖な食物という固定した認識を見なおす必要がある。

餅の本来の意味
 餅を、各地に現われる小正月の訪問者に与えるにせよ、カラスに与えるにせよ、オコナイの新頭屋が大餅を引き継ぐにせよ((17))、裸祭りで罪穢れを搗き込んだものと信じられている土餅を儺負人に負わせて追放するにせよ((18))、そうして各種各様のケガレ祓えをやるために餅が使われるのである。これらさまざまな行事のなかでの行為や局面で、共同体から餅を引き剥がそうという力が働いている。白い餅は汚す、色をつける、焼き焦がす、小豆をぬる。あるいは餅を屋根に投げ上げる、使った箸を屋根に上げる。餅を神に扮した青年、子ども、カラス、遊芸人、被差別民などの訪問者に運び去らせるのである。そして新年を迎えたのだから、新年にはもう餅は必要ないのである。若狭の烏勧請ではオトボンサンと呼ばれる太陽を象徴する餅が神饌であり、これをカラスがついばむと正月を迎えることができる((19))。つまりカラスがケガレの餅を取り去って新年になるのである。関東のオビシャでは烏の絵を矢で突き破ったことによってケガレの太陽を始末したことになり、このあと新頭へ引き継がれる、つまり新年を迎えるのである。
 ということは「餅なし」こそが正月の朝の、つまり元旦の本来の姿であり、正月の本質を引き継いだものである。それに対して、餅にケガレを持ち去っていく祓除の力、厄払いの力としての意味を見出し、それがのちに供え物として変遷していったのが、今日一般に普及している餅正月ではないか。餅なし正月が古い時代にはかなり広く普通に行なわれていた民俗だったかのように分布しているのは、まさに正月の本来の姿だったからだと考えられる。5ページで述べたように私の結論を安室の記述をもじった言い方をここにくりかえせば「餅正月は餅なし正月の一類型」なのである。
 ここまで餅が、もとは運び去られるべきケガレの象徴であったことを射日・招日神話にもとづく弓神事や烏勧請、小正月の訪問者などを使って述べてきた。ところで坪井洋文の餅なし正月の資料の中にも餅がもとはケガレの象徴だったことをうかがうことができる。次項では坪井の資料を使って、運び去られるべきケガレの象徴としての餅について、さらに追究してみよう。

餅なし正月の由来伝承にみるケガレ
 坪井は『イモと日本人』 において、餅なし正月の由来を語る伝承を53例しめして、餅なしの起因の違いによりそれらをつぎのように分類している((20))。
困窮の追体験    事例1~7
戦争、落人     事例8~20
異郷人虐待     事例21~28
赤色の儀礼食    事例29~32
餅と死と血     事例33~39
餅搗きと火災    事例40~46
火と禁忌      事例47~53


 ここで気がつくのは、上に分類された項目の内容はすべて具体的なケガレを表現しているということである。正月に餅を食べない理由として、これらの伝承は餅なし正月になった起源はその家の、あるいはその一族の、あるいはその地域の過去におこったとされる出来事に結びつけている。そしてその出来事のどれもがすでに意識されていないし、坪井も気づいていないが、ケガレを出発点としているのである。いずれの伝承も聞き手を納得させるために困窮したとか、戦のためとか、具体的な内容に変容しているが、項目を形成している困窮、戦争、虐待、死、血、火災などはケガレである。つまりその底には餅なしになった起源はすべてケガレであったこと、そしてケガレを負った餅は遠ざけるべきもの、との観念が横たわっているのである。
 新谷尚紀の『ケガレからカミへ』の第4図「ケガレの具体例と特徴」によると、まずケガレは大きく身体、社会、自然の3つに分けられる。そして身体に関するケガレは糞尿・血液・体液・垢・爪・毛髪・怪我・病気・死など。社会に関するケガレは貧困・暴力・犯罪・戦乱など。自然に関するケガレは天変地異・旱魃・風水害・病害虫・飢饉・不漁・不猟など。以上のように示すことができるとしている。そして新谷は「ケガレとは生と対立する死へのイメージを呼びおこすもの」と捉えている((21))。
 上記の7つの項目に分けた53の事例はそのほとんどが新谷が示したケガレの具体例に当てはまるものである。どれもケガレに直結する分類なのである。そのなかでひとつだけわかりにくい分類項目は「赤色の儀礼食」であろう。なぜ色をつけた儀礼食がケガレに分類されるのか。これらの儀礼食の内訳は糯(もち)米(ごめ)に小豆を入れて搗いた餅や、紅で色どりした餅、また芋や人参など野菜を入れて搗いた餅、そして赤飯である。これらは儀礼食であるから、一見するとほかの6つの項目とは相容れない異質な項目のように見える。しかしこれらが白い餅や糯米をわざわざ汚していると見たらどうか。ケガレを象徴させた餅として色をつけたり混ぜ物を入れているのであると。ここでもやはり、備後の弓神楽において祭祀のあと祭場を泥だらけにしてしまう土団子や、尾張大國霊神社の儺追神事における、罪穢れを搗き込んだと信じられている土餅と共通するものを感じさせるのである。色つきや混ぜ物を入れた餅については「赤色の儀礼食の分析」の項で考える。
 ただし、すでに遠い過去に餅に託された意味、つまり餅にケガレを負わせていることは忘れ去られている。それなのに正月に餅はあってはならないという習俗だけが、意味を失っても形として引きつがれたのである。民俗のなかにはそういったものが多い。その形のみ引き継がれたために我らの行為を説明する必要が生じて神話、伝説が新たに生まれたのである。これらの色つきの儀礼食や小豆などをつけた餅については次号で「小豆 ケガレの象徴として」と題して詳述する。

異郷人虐待の分析
 正月に餅は必要ではない、否、あってはならないというのが「餅なし正月」である。それを裏づける証拠として、これまで「餅なしの規制が働く時」「ナマハゲ」「小正月の訪問者」などを取り上げてきた。そこから導きだされる餅の本来の意味、本来餅が負わされている意味は、ケガレをつけて運び去られるという役目であった。それが確認できたと思う。
 もうひとつ、坪井の53事例の中からも、正月に餅があってはならないこと、それは何者かによって運び去られる必要があることの傍証を見つけることができる。坪井の分類のなかの「異郷人虐待」の事例からそれを探ることができる。
 まず事例21から28で異郷人が何をしに現われて、それに対して村人がどう応対し、餅がどうなったかを抜き書きにしてみよう。

事例21 旅僧が餅を所望したが、これは粥だといって断ったらことごとく粥になった。その後、餅を搗いても粥になって餅が搗けないので、餅搗きをしない。旅僧は弘法大師であった。
事例22 大塔宮が大歳の日にこの地を通り、餅を所望したが、餅は春は搗かないと答えたので、その後は餅を搗けば祟りがあるという。
事例23 大塔宮が通ったとき、餅を所望したが与えなかった。のちに村人はその非礼を恥じて正月に餅を搗くことを止めた。
事例24 昔、近くの山で老婆が弓を鳴らしていたとき、の男が邪魔をした。そのためか、その年に搗いた正月の餅がどろどろになって固まらなくなったり、に不幸が起きたので、餅を搗かなくなった。
事例25 正月餅を搗けば杵が飛ぶといって、餅のかわりに団子餅を食べる。
事例26 正月餅を搗いたら、小児がぐずるので親が、そんなにぐずったらおばけにやってしまうぞとおどしたら、本当におばけが現われて、その子をもらうというので、たまげた父親が搗いた餅を投げ与えた。それから節季に餅を搗くと、いつもおばけがやってくるので、餅つきを止めた。
事例27 正月餅を搗いていたら鬼がやってきて、残らず餅をさらって帰った。
つぎはかなり示唆的で重要と思われるのでほぼ全文を引く。
事例28 このへは毎年正月の餅搗きに山姥がきて、各戸の餅搗きを手伝っていた。山姥の搗いた餅は無病息災、家業繁盛をもたらす福餅だった。しかし山姥は身なりが汚く、村人たちは手伝いを断りたく思っていた。その手段として、ある年、餅搗きの日を変更した。これを知らずにきた山姥は、どこの家も餅搗きはすんだと断られ、しかたなく山へ帰ったが、途中で空腹と寒さのために死んでしまった。次の年からは天災や悪疫が相ついで起こり、里人は山姥の祟りと思い、山姥を姥大明神として祠を建てて祀り、正月三が日は餅を断つことを誓った。

 これは愛媛県浮穴郡美川村の事例だが、よく似た話が新谷の『ケガレからカミへ』で高知県香美郡物部村の事例として見られる((22))。

 上記のケガレの種類による7分類のうちの「異郷人虐待」に分類される事例21から28は25をのぞいて弘法大師、大塔宮、老婆、おばけ、鬼、山姥がやってくる。これらはナマハゲなどの小正月の訪問者に通じるものと考えられる。そして餅なし正月の由来を語るなかでは時代の古い型に属すると思われる。その理由は2つある。1つは「異郷人虐待」以外の項目では、たんに餅なしになった直接の理由を語る伝承にすぎず、そもそも正月になぜ餅があってはならないかに結びつく本来の理由が忘失されていること。それに対して「異郷人虐待」では異郷人である異界からの訪問者に餅を与えることで、その家から餅を取り去るという本来の訪問者の役割を反映させているからである。
 そしてもう1つの理由は「異郷人」の内容が弘法大師、大塔宮はともかくとして、老婆、山姥、おばけ、鬼とあるように、これらは祖先神、そして鬼神に通じると思われるからである。鬼神とは『散歩の手帖』25号「鬼神とは何か((23))」で述べたように、祖霊の極まったものであり、自然災異に働きかけることができると考えられているのである。弘法大師も大塔宮も祖先神から変化した存在といえるだろう。戦乱や貧困、火災などを起源としたり、弘法大師、大塔宮などを持ち出しているのは、「餅なし」の説明を具体的にして、聞くものを楽しませたり納得させるための変化と考えられる。したがって餅なしになったのを戦乱や貧困などいかにもありそうなことを理由としているのは新しい形であろう。伝承されていく過程で内容が具体的になっていったり、話が粉飾されていくのである。では異郷人虐待の事例の意味するところをさらに見ていこう。
 事例21、22、23はケガレの餅を訪問者が所望するという形で取り去りにきたのに、断ってしまった事例である。21では旅僧が餅を所望したのに断ってしまった。22では、大塔宮が餅を所望したのに、春は、つまり正月は餅は搗かないといって断ってしまった。23でも大塔宮が餅を所望したのに与えなかった。
 事例24では「老婆が弓を鳴らしていた」という不可解な描写である。ここには射日神話の残存をみることができる。弓を鳴らすというのは、射日神話における余分で危険な太陽、つまりケガレの太陽を射落とすことを象徴している。だからそれはケガレの餅を取り去ることを意味している。老婆というのは28の山姥と同等と考えて差し支えないだろう。老婆も山姥も鬼に通じるものであり、得体の知れない「モノ」であるが、それは病気や貧困、戦、自然災異にまで影響力を持つとされる祖先神の極まった存在である「鬼神」にまで連なる存在である。『日本民俗大辞典』の「小正月の訪問者」からの引用のなかで「厄年逃れや旱魃を防ぐなどといって訪問者に水をかけたりもする」というのも訪問者は鬼であり、自然災異にも影響をもつ鬼神に通じるからである。だからナマハゲは鬼の面をかぶっているのである。その老婆が弓を鳴らしていた時に村の男が邪魔をしたために、ケガレの太陽を射落とせなかった、つまりケガレを取り去ることができなかったことを示している。
 事例26は話をおもしろくするための脚色があるが、27同様、ケガレの餅が取り去られたことを意味している。27では端的に伝承の意義だけを伝えてきたのである。
 事例28は山姥がきて、村の家々の餅搗きを手伝ってくれていた。ということは村人はお礼に餅を山姥に与えていたはずである。それはあとにある、餅つきを断られた山姥が空腹と寒さで死んでしまうという描写で確認できる。村人は汚い山姥を追い払うために餅搗きの日を変えてしまったのである。山姥という訪問者に、それまではケガレの餅を取り去ってもらえていたのに、村人はその仕組みを壊したために、天災や悪疫などの不幸をまねくことになった。
 21から28は、いずれも小正月の訪問者が餅を持ち去ることと同様、餅は異郷人によって持ち去られるべきものだったことが推察できるのである。餅なし正月の由来伝承も、特に異郷人虐待の事例では、これもまた正月には餅はいらない、あるいは餅は持ち去られなければならないことを示す傍証になるであろう。ここに10ページで述べた被差別民の役割との共通性がうかがわれるのである。
 餅なし正月の由来伝承は、このように異郷人虐待の事例21~28に見るように、つきつめると祖先神の極まった存在としての鬼神につながり、鬼神は自然災異に働きかけることができると、かつては信じられていたのである。自然災異に働きかけるとは、強すぎる太陽に働きかけることができることを示している。したがって餅なし正月の由来伝承も小正月の訪問者も目的は同じ、ケガレを託した餅を運び去ることにある。
 つまり、強すぎる太陽に働きかけるとは、さかのぼれば太陽祭祀を司祭することである。その祭祀にたずさわるのがシャーマンであり((24))、巫覡(ふげき)の末裔としての遊芸人や被差別民なるがゆえに、ケガレの運び去りにかかわるのである。これについては『散歩の手帖』29号か30号で詳細に検討する予定である。

赤色の儀礼食の分析
 つぎに餅なし正月には白い餅はいけないが、色つき餅ならいいという例がある。事例29から32「赤色の儀礼食」である。その中から事例29について考えてみよう。
 事例29、福島県相馬地方では、糯(もち)米(ごめ)に少量の小豆を入れて搗いたものをアカアカモチ(赤々餅)といって正月三が日に用いた。また白い餅に餡をつけたものもアカアカモチといって、やはり三が日に用いた。糯米だけで搗いた白い餅はエエモチといい正月には食べぬという。エエモチとは良い餅の意だろう。白い餅は良い餅であるならば赤い餅は悪い餅ということになる。現在赤い餅、色のついた餅に悪い餅という認識があるかどうかわからないが、白い餅ならエエモチという言い方に色つきの餅は悪い餅、つまりケガレのある、取り去らなければならない餅という、かつての認識の跡が残っていると考えられる。
 しかもエエモチといわれる白い餅は正月には食べぬという。したがってこれも坪井の分類したとおり「餅なし正月」である。しかし「エエモチ」と呼ばれているということは、伝承としてのケガレをつけて運び去られるという「餅なし正月」は引きつがれているが、その意味を忘失しているので、呼び名はすでに縁起がよいものとしての餅「エエモチ」になっているのである。しかし一方で、正月に餅を使うことが普及している。そこにやはり色をつけることの意味が忘失しているアカアカモチ、つまり色をつけたり、小豆の餡を餅につけたりしてケガレを現わしていたことが忘れられて、逆にその色合いから縁起のよいものと解釈されるようになったアカアカモチが、正月に用いられるようになった。事例29はこのように解釈できるのではないか。これで赤色の儀礼食もやはり7分類に納めるべきケガレにその起源があると判断できるのである。
 事例30では、小豆のほかに蜀黍、芋、人参などの野菜を入れたり、紅で彩ったりするという。事例31、32では餅を搗かずに赤飯を炊いている。
 凶事の赤飯という例もある。『日本民俗大辞典』(上) 「せきはん 赤飯」(板橋春夫)の項に「群馬県の一部では現在でも葬式当日の念仏に際して赤飯が用いられる。凶事の赤飯の例は、北は青森県から南は熊本県まで、全国各地に類例があり、吉事の赤飯と区別するために黒豆を入れたり、赤色に染めないなどの事例がみられる」と記述されている。全国各地に類例があるということは、これも餅なし正月の餅と同じで、取り去るべきケガレの餅¬¬=糯米として機能していたと考えられる。そうするとやはり、色つき餅や赤飯もケガレを象徴すると理解することで7分類のひとつとして含まれていることに、納得できるのである。
 坪井は『イモと日本人』で小豆を用いた雑煮、粥、汁の類が儀礼食として広く認められるとしている。しかし小豆が「餅とどのような関係にあるのかは、残念ながら報告された資料では判断しかねる((25))」として、それ以上は考えをすすめていない。
 坪井の抽出した餅なし正月の由来を語る全53事例の全体をみると、糯米または米に小豆やヨモギを入れて搗いて、白い餅ではなくしている例が13例みられる。それ以外の、里芋やうどんなど、米と糯米以外で用意した儀礼食が15例ある。合計28例あり、全体の半分を占める。これらの色つき餅や里芋、うどんなどは、たんなる白い餅の代わりではなく、米の不足を補うためでもなく、白い餅をケガレとして祓えやっていたものと同じく色をつけたり混ぜ物をしたりしてケガレを表現したものであり、または餅なしの代わりとしての里芋やうどんである。ところが色をつけたり混ぜ物をすることの意味もすでに忘れられた結果、その色取りから縁起のよいものとして認識されるようになった色つき餅であると考えるべきだろう。つまりこの場合の「餅なし」とは「白い餅」を拒否することであって、ケガレとしての意味づけが忘れられた色つき餅や、里芋、うどんなどを使うのである。さらにおもしろい例を坪井は紹介している。餅ではなく「芋なし正月」の事例である。

「芋なし正月」を生む心理
 坪井の『イモと日本人』における前提となる問題意識は「正月に餅以外のものをなぜ重要とするのか((26))」ということである。しかし、その重要である対象を里芋としたのは坪井の思い入れの強さであって、実際には里芋が特に重要だったわけではない。それは餅をはずすことが正月の本来の姿であれば、祝うべき正月に餅以外の何らかの儀礼食をすえる必要があるからであって、それが芋などの畑作物だっただけである。芋類に特別の地位を与える必要はなかったのである。だから芋以外にも儀礼食として、赤飯、団子、うどんなども使われているのである。
 さらに餅どころか、坪井とすれば不本意な事実であるが、里芋を食べない、避けるといった、まるで「餅なし正月」の里芋版といった事例を坪井は紹介している。『イモと日本人』のなかの事例71~77である。宮城、福島、群馬、埼玉、八丈島からの資料を坪井はその例としてあげている。坪井はこれらの事例について、心意の底に何が潜んでいるか注意をひく資料であるとして、これらの里芋に対する厳しい禁忌は里芋の霊質に対する畏敬であり、霊質に対する神聖観があってのことであろうとしている。
 しかしこのように、理解不能の事象に出会うと、霊とか神聖とかいう言葉を持ち出して済ませるのは、民俗研究者の悪いクセではないか。むしろ正月には餅という肝心な祝いの品は避けるものであるという、餅なしの家例をもつ家の意識が、儀礼食としての里芋にまで反映している、その結果ではないか。餅に対して働いた意識と同じ心理が里芋を避けるという行動を呼んだのではないか。

小正月から大正月へ
 3ページで安室の論考を引用したなかで紹介したように、大正月にだけ「餅なし」が現われる。それは、より古いとされる小正月から、正月には餅がない、あるいはあってはならないといういわば正月を迎えるための行事の結果だけが、元旦(朔旦)正月へ移ったからである。正月が移動したことによって、結果としての餅のない状態だけが大正月へ移ったのである。したがって依然として正月を迎える行事、つまり小正月の行事には餅をともなうのである。
 小正月行事であった場合には、夜を徹して餅搗きから餅の祓えやり、そして新年を迎えるまで一連の行為でケガレの餅が祓えやられる。一連の行為とは種々の訪問者やオコナイ、オビシャ、弓神事、トンド焼き、鳥追いなどの数々の正月行事といわれるもので、その中でケガレを託した餅が祓えやられるのである。しかし、朔旦正月にして1月1日に正月をもってくると、餅のない元日の朝の状態がいきなり現われることになった。つまり、より古い時代の正月ならばするはずの数々の正月を迎えるための、いいかえれば、ケガレを祓えやるための行事は小正月に置いていかれたのである。一連の行為をそっくりそのまま全部大正月の前へ持ってくるという意識はすでになかったのである。なぜなら、正月を迎えるための行事に込められていた、餅に託してケガレを祓うという意味をすでに忘失していたからである。そのため結果としての餅のない状態だけが大正月へ移り、いきなり「大正月」では元旦を迎えることとなったのである。
 以上のように「元旦には餅はない」あるいは「正月には餅はあってはならない」という結果の状態だけを移したのが「餅なし正月」である。それにもかかわらず餅なしにいたった由来、神話をなかには伴っている場合があるというのは、なぜか。それはつぎのように考えられる。
 「餅なし」を伝承している家や一族がある一方で、正月に餅を供える、食べるという習慣が次第に普及定着していった。そして正月が朔旦に移った時に、その古い習慣である「餅なし」を伝承していた家では朔旦正月に「餅がない」という状態が、普及定着していく「餅正月」のなかで次第に際立つことになった。しかしそれらの「餅なし正月」の家でも、すでに餅に負わせている本来の意味、すなわち餅にケガレをつけて運び去らせるという意味は忘失している。しかし正月には餅は避けなければならないという伝承だけは持ち続けている。そうなるとなぜ餅があってはならないのか、何らかの説明が新たにつけられる必要が生じる。そして困窮したとか戦で餅をつくことができなかったなどの伝説、神話が生まれたのである。だから小正月には餅なしに至った伝説、神話は例外的にしかないのである((27))。
 では「餅なし正月」が出現した過程をもう一度おさらいしておこう。正月行事の一式をそっくり小正月から朔旦へ移していれば「餅なし」の状態もそのまま移行したはずであり、それなら、「餅なし正月」などという言われ方もなかっただろう。ところが、ケガレを餅に託して取り去ることに重点がおかれた小正月の行事のいろいろが、すでにそれらの行事の本来の意味が忘れさられていたために、小正月に置いていかれたままになったのである。それで結果として餅のない状態だけが朔旦へ移った。これが餅なし正月といわれるものである。同時に正月に餅を飾り、餅を食べる習慣がしだいに普及してきており、そうした習慣をもつ家や一族は、朔旦へ移ったさいにも餅をともなっており、餅正月として定着してきていた。そして「餅なし」の家例をもつ家のなかには、もっともらしい由来、神話、伝説が必要になったのである。
 以上のように、暦の移入によって正月が移動し、それによって朔旦正月に「餅なし」という形で現われたのが「餅なし正月」である。安室が「餅なし正月は多くの場合、大正月の期間に限られている」というのはそうした事情を反映しているのである。しかし、はたして「餅なし正月」は大正月に限られたものだろうか。すでにふれたように、実は小正月のさまざまな行事はほとんど正月を「餅なし」状態にするために行われているのである。たとえば訪問者に餅を託してケガレを祓い、はじめて新年が迎えられる、あるいは餅を食べられることになるという具合にである。餅を焼くことに解禁日があるなどの例もある。小正月もこの意味で「餅なし正月」の状態を作り出しているのである。つまり「餅なし」とは正月を迎えるための前提条件なのである。
 したがって正月の行事と餅との関係については改めて精査する必要がある。次章からその作業をおこなうが、その前にここで都丸十九一の「餅なし正月と雑煮」について検討しておこう。なぜならこの中に、もとは餅がケガレをつけて除去されるものであったことを推察させる痕跡があり、そして餅が雑煮に入り込んでいく過程が垣間見えるからである。

雑煮に餅が入るまで
 都丸十九一の「餅なし正月と雑煮((28))」から、まず結論だけを紹介すると、雑煮に餅が入るようになるのは、都丸による諸文献渉猟の結果では、近世になってからであるという。さらに民俗事象から考えても、かつては餅中心の雑煮の食習はなかったのではないかと結論づけている。
 では、餅がもとはケガレを託して祓えやったものであった痕跡についてみていこう。都丸は『松屋会記』の永禄4年(1561年)の記事までの古記類には雑煮に餅が入っていることは確認できなかったという。そして、
 ○ 一般的には、餅は下戸の食べるものとされている。
 ○ 「酒客には迷惑な場合もあるから便宜上雑煮に食べ方なるものが定められ、上置の飾物だけを食べて餅には箸をつけなくてもよ」い作法もできたとある(平凡社『大百科事典』ゾーニの項)。
 ○ これをも参考に考えると、餅そのものは、宴席にふさわしいものとはいえないのである((29))。
という結論に達している。
 さらに群馬県新田郡尾島町世良田の長楽寺所蔵の『長楽寺永禄日記』には草餅や焼餅などはしばしば登場するし、善哉のように非儀礼食のなかにも登場するが、「雑煮のことを数多く記している記事の前後に全く餅のことを記してないのも不思議なことで」あると述べている。
 このように餅は下戸の食べ物であるとか、酒客には迷惑であるとか、宴席にふさわしくないなどとする、餅に対する態度や、ふだんの食べ方の中には餅が入っている状況などから、餅を尊い供物とは見ていない態度が伺われるのである。
 さらに都丸は「かつては餅中心の雑煮の食習はなかったのではないかと思う」と記し、積極的に餅を拒否して全くうけ入れようとしない家例として自らの都丸イッケ(一家)の例をあげ、大正月中の餅をきびしく禁忌していたという。そのほか各地の例として、いろいろの伝説を伴って餅を拒否している、正式の日や正式の食事から餅を外そうとしている、餅を正月の神供としない、神に内緒で餅を食べていたなどの例を紹介している。
 また、新田郡新田町の例として、雑煮を作り、餅を入れる前に正月棚や太神宮さまに供え、そのあとその汁に餅を入れて雑煮にして食べたという例、餅入りの雑煮は作るが、その中から餅を抜いて他の材料だけをオシラキに盛って正月棚や太神宮様に供える例、などを紹介している。
 これらの事例から推察すると、餅は、かつては柳田のいう、また一般にもそう認識されているような神聖なものではなく、尊いものでもなく、むしろ餅を避けていた、少なくともかつては公式な儀礼からは遠ざけられていたのではないか。そうした名残りが感じられるのである。そこに、餅にはもとケガレをつけて運び去る役目があったことの痕跡が認められるのである。
 しかし一方で、風土記に「餅の的」という例がある((30))。風土記においてすでに白い餅、白い鳥伝承で餅は福であった、かのように解釈されている。文献上では古く風土記の時代からすでに「餅は福」だったのである。つまり風土記の時代にはすでに福の餅とケガレの餅は並立していたのである。公的には福、民間に埋もれた古俗としてはケガレの一面を残し、永い間並立していたらしいと考えられるのである。「餅の的」伝説については稿を改めて論じることになろう。それら、福の餅と表面からは隠されたケガレの餅としての面、その両面が餅の意味のわかりにくさとなっており、柳田、折口の抱いた疑問ともなっている。これについては57ページ「柳田、折口の提示した餅についての疑問」でもあつかう。民俗には古い形をよく残す場合がある。「餅の的」の話は、ケガレの餅という意識がなくなってから変形しているのである。そのため福の餅あるいは神聖な餅を的にすることは、餅を粗末にしているという意味になる。しかしその餅がなぜ白い鳥になるのだろうか?
 餅が雑煮に入り込んでくるのは近世になってからである。1603年(慶長8年)刊行の『日葡辞書』、そして1643年(寛永20年)の奥書のある『料理物語』には餅入りの雑煮が出てくるという。これ以後は餅が雑煮の主体となり、広く普及して常識化するに至ったのではないかと都丸は考察している。そして『日本民俗大辞典』の「ぞうに 雑煮」で都丸は「餅が入らない正月の羹と、来客へのもてなしである雑煮・烹(ほう)雑(そう)とが16世紀後半に結びついて現在の雑煮ができたのであり、餅無し正月の伝承もこれ以後の成立になる」とまとめている。
 以上、これらの例によって、かつては「餅のない正月」あるいは雑煮に餅を入れないのが普通だったことが裏づけられるのである。
 次章では小正月の行事のなかで、さまざまな訪問者によって、いかに餅を取り除いてもらうか、どのように餅を運び去ってもらうか、などの隠された目的をその習俗のなかにさぐっていこう。

ケガレの起源と銅鐸の意味36 餅なし正月の意味と起源/小正月の訪問者と餅のゆくえ

2016年10月04日 09時03分18秒 | 日本の歴史と民俗
   餅なし正月の意味と起源

   小正月の訪問者と餅のゆくえ


 正月の習俗の奥底を秘かに貫流するケガレというヤッカイな代物。「しろもの 代物」とは岩波国語辞典によると「それによって、ある行為をし、その対象となるもの」だそうです。今号は餅の意外な話になっていますので、よく噛んでください。くれぐれも喉につかえませんように! なお、先行する多くの研究者の成果に負っておりますが、文中ではすべて敬称を省略いたしました。

   目次

第1章 餅なし正月の意味と起源

餅なし正月とは/餅はケガレを象徴する/餅なしの規制が働くのは/ナマハゲの本来の目的/ホトホトの餅/ケガレの除去と被差別民/餅なし正月の分布/餅の本来の意味/餅なし正月の由来伝承にみるケガレ/異郷人虐待の分析/赤色の儀礼食の分析/「芋なし正月」を生む心理/小正月から大正月へ/雑煮に餅が入るまで

第2章 小正月の訪問者と餅のゆくえ

小正月の訪問者とは/訪問者の行為と家の対応/オドクウ様からスサノヲへ/餅の一方向性/柳田、折口の提示した餅についての疑問/餅のゆくえ

引用・参考文献