ケガレの起源と銅鐸の意味 岩戸神話の読み方と被差別民の起源 餅なし正月の意味と起源

ケガレの起源は射日・招日神話由来の余った危険な太陽であり、それを象徴するのが銅鐸です。銅鐸はアマテラスに置換わりました。

「逆白波」について

2008年07月13日 09時26分48秒 | いろんな疑問について考える
「逆白波」について
『和歌の歴史』(藤田福夫、阿部正路編 桜楓社 昭和47年)に収録されている「和歌と方言」(川本栄一郎)のなかで、川本氏は茂吉の郷里山形県の方言と思われるものは、「啄木鳥(けらつつき)」「南蛮啄木(なんばんけら)」「雨啄木(あまけら)」「逆白波(さかしらなみ)」だけであると述べている。
 しかし、「逆白波」については『散歩の手帖』17号のほっとすぺーす(№49)「茂吉のアマケラ」の中では鳥以外の方言なので、さしたる興味もなく、取り合わないでいた。ところが偶然にもその後、『日本語の世界』第1巻『日本語の成立』(大野晋 中央公論社 昭和55年)の月報を読んでいたら「逆白波」の由来が出てきた。月報は大野晋と丸谷才一による対談で、題は「鴨子と鳧子のことから話ははじまる」。その中から「逆白波」のところだけを紹介する。
 「逆白波」という言葉が出てくるのは茂吉の歌集『白き山』にある「最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも」で、知らなかったが、この歌かなり有名らしい。丸谷の発言では「現代和歌の最高峰ということになっているんですね」という。以下、丸谷の発言、
この歌にはちょっとしたゴシップがあります。疎開で故郷へ帰っていた茂吉が、弟子の結城哀草果と二人で最上川のほとりを散歩していたときに、哀草果が「実は冬の最上川の三角の波を形容するうまい言葉を見つけたんです」と言って、「逆白波」という新語を披露した。するとやや先を歩いていた茂吉が振り向いて、こわい顔をして、「私がその言葉を使って歌を詠むまで、おまえは使ってはならない」と言った(笑)。それで哀草果は、師の言葉を守って、茂吉がこの歌を詠むまで使わなかったんです。つまり、弟子から言葉を一つまきあげたわけですが、(以下略)
ということは、「逆白波」は方言ではなく、結城哀草果の造語ということになる。ただし対談の記事なので出典が書いてない。哀草果の著書にあるのだろうか。それで、なにかヒントはないかととりあえずインターネットで検索してみたら、話がいくらか違ってきた。
 「逆白波」で検索するだけで、茂吉の「最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも」の歌に関して1240件ヒットした。そのなかで、つぎのHPを紹介する。
e:-yamagata.com やまがたの暮らしまるごと応援サイト「い~山形どっとこむ」
の中の「プリズム 最上川に想う」著者は帝京大学教授、小山茂樹氏となっている。
帝京
山形県の生んだ最大の歌人、斎藤茂吉の歌に
 「最上川逆白波のたつまでに ふぶくゆうべとなりにけるかも」
というのがある。この歌が生まれた背景を、茂吉に私淑した板垣家子夫はその著『斎藤茂吉随行記』のなかで、次のように紹介している。
 昭和二十一年二月下旬のある激しく吹雪く日の午後、茂吉が疎開先の大石田(北村山郡大石田町)で最上川にかかる橋を弟子の結城哀草果、板垣家子夫らと渡ったときである。
最上川には鳥海山おろしの強い北風が吹きつけ、川面に白波が立っていた。家子夫はこれを見て、何気なく言った。
「先生、今日は最上川に逆波が立ってえんざいっス (おります)」
 茂吉はこれを聞くと思わず歩みをとめ、家子夫の腕を引っ張るようにして言った。
「君、今何と言った」
「はあ、今言ったながっす。はいっつぁ最上川さ、逆波立っているつて言ったなだっす」
 茂吉はにらむようにして、強く言った。
「君はそれだからいけない。君には言葉を大切にしろと今まで何度も語ったはずだ。君はどうも無造作過ぎる。そうした境地の逆波という言葉は君だけのものだ.....大切な言葉はしまっておいて、決して人に語るべきものではないす」(以下略)

 これによると、「逆白波」ではなく、「逆波」で、しかも言ったのは一緒にはいたが、結城哀草果ではなく板垣家子夫となっている。それにしても、たんに「逆波」だったらふつうに使う言葉ではないのか。なぜ茂吉はこんなに強く反応したのか。それとも「逆波」をいっしょに聞いていた哀草果が後になって手を加えて「逆白波」と創り、茂吉に披露したのか。
 それはともかく、いずれにしても「逆白波」は方言ではないし、茂吉の造語でもないことは確からしい。

奥十山美濃の山 ―「木曽」の語源について―

2008年07月13日 09時21分07秒 | いろんな疑問について考える
奥十山美濃の山
―「木曽」の語源について―
 『万葉集釋注七』(伊藤博 集英社文庫ヘリテージシリーズ 2005年) を読んでいたら、こんな歌に出会った。
№3242 ももきね 美濃の国の 高北の くくりの宮に 日向ひに 行靡闕矣 ありと聞きて 我が行く道の 奥十山 美濃の山 靡けと 人は踏めども かく寄れと 人は突けども 心なき山の 奥十山 美濃の山
 奥十山美濃の山(おきそやま みののやま)というくだりで、もしかすると「木曽」はこの「おきそやま」から出た地名かな、と思った。美濃と木曽では岐阜県と長野県、でも都から来れば美濃の奥に木曽があるからひと続き。地名学のほうではどういっているのだろう。早速手近にあった『新しなの地名考』(信濃毎日新聞社編発行 1975年)をひらくと、「14木曽」(生駒勘七)の項でつぎのように記述している。
「きそ」の語源について「ソは熊襲、蝦夷のソと同じ」(南流別志)「良材の多いところだから木育つの略」(木曽名跡志)「キは生糸、生絹、生酒などの生で、ソは麻の古語であって生苧(きそ)である」(木曽古道記)などの説が、江戸時代に編纂された郷土誌にみられるが、木曽林政史の権威である徳川義親氏やアイヌ語学者の山本直文氏などはアイヌ語説をとり、木曽はキ(大きな禾本科植物)ソ(スプと同じく激流、瀑流)だとして、木曽川の急流にもとづく地名としており、これをとりたい。
 どれも一見して単なるこじつけのようにみえる。特にアイヌ語説にいたっては、キ(禾本)とソ(激流)が単純に結びつくなど、アイヌ語の地名の成り立ちを無視して同音を合わせただけの解にみえる。東北以南にアイヌ語地名が広く分布していることは認められるが、こんな地名解はないだろう。しかも、「これをとりたい」と言っているように、次のページでは「先住民によって「きそ」と名づけられた木曽谷にも~~」ともう決めてかかっている。
それはもういいとして、もしかすると、「木曽」の語源は不明かもしれないと思い、図書館で地名辞典を見た。そうすると『日本歴史地名大系20長野県の地名』(平凡社)では語源についての記載が無く、『角川日本地名大辞典20長野県』(角川書店)では、『大日本地名辞書』(吉田東伍)から次の部分を引用している。
木曽の名義は木麻にて、麻を古語曽と云へる例多し、今も麻を曽と云ふ方俗あり、此曽は元来麻草なれど、木曽と云へばシナノキ(菩提樹)の樹皮より造りたる糸、并に織布を指せる如し。即木曽は信濃(しなぬの)と同じく、樹皮に採りたる織糸に起因せる名歟。
麻のことを古語で曽というからといって、それなら曽は元は草の麻のことだから、木の曽なら木曽だという。つまり木曽とはシナノキからとった糸や織布のことだろう、と言う。だから信濃の語源である「しなぬの」つまりシナノキからつくった布の意と同じく、木の皮から採った織糸というのが「木曽」の語源であるといっている。これもちょっと無理があるのではないか。
 というわけで、自分で考えてみるのだが、もうすでに美濃の奥に木曽があるから「おきそやま」。その頭が落ちて、木曽という地名ができた、という単純な説にすぎない。
 実は「おきそやま」には、「奥十山」と「奥礒山」のふたつの字を当てている。岩波古典文学大系本によって原文をみると、先のは「奥十山」で「おきそやま」、後のは「奥礒山」で「おきそやま」と読んでいる。そして頭注には「奥十山―諸説がある。長野県西筑摩郡の木曽の山(昔は美濃国恵那郡に属す)、滋賀県坂田郡と岐阜県不破郡・池田郡との境の伊吹山、岐阜県多治見市と可児郡姫治村との境の高社山など」と一応木曽の山もあげている。ところが、岩波新日本古典文学大系本になると「所在地未詳」となっている。旧大系本ではどこか特定の山の名前であるらしいと考えているようだが、これは美濃の奥一帯の山々とみたほうがいいと思う。
 「奥十山」は新潮日本古典集成本『萬葉集』でも所在未詳としている。
小学館の日本古典文学全集本『萬葉集』では同じく所在未詳として、「可児郡可児町久々利の東南約2.3kmの浅間山(374m)とする説、多治見市の西にある高社山とする説などがある」と、やはりどこか特定の山を想定している。
 そこで私見を述べると、「奥十山」の「奥」は「沖」と同義。海のかなたも「おき」というが、山の奥を「おき」という表現があるし、現代の方言としても各地で使われている。たとえば、群馬県新潟県の国境にある谷川岳のオキの耳とトマの耳。谷川岳は双耳峰で、南側の峰を手前とみているのか、一般コースの西黒尾根から登っていけば「トマ」つまり「とまくち」の峰がトマの耳。奥がオキの耳になる。谷川岳の南東20kmほどにある上州武尊山の最高峰は沖武尊(おきほたか)という。いちばん奥まったところにあるという意味だろう。
「奥十山」の「十」は三十路、四十路の「ソ」と同じ読みで、たとえば多くの神々を意味する「八十神」(やそかみ)の「ソ」とも同じ。「八十島」「八十隈」という表現もある。とすれば、奥の十の山で、奥に十にも連なる多くの山をなす美濃の山、という意味になる。
 あとの「奥礒山」の「礒」は「磯」に通じる。「礒」は『角川新字源』によると、「石やいわおなどが突き出ているさま」となり、この場合なら奥にあるゴツゴツした険しい山といったところだろう。字を当てるさいに歌の意味を斟酌して「奥十山」「奥礒山」としたと思われる。万葉集の多くの歌は声に出して謡われ、耳で親しんでいたはずだから、漢字ではなく「おきそやま」と聞いていたはずで、最初の「お」は接頭語のように聞こえていただろう。会話のなかで使っているうちに元の意味が薄れ、「おきそのやま」だったり「きそのやま」だったりして、「お」が脱落して「きそ」が残ったと考えられる。
 また、地名辞典に説くように木曽地方は当時、美濃の国に属していたことがわかっている。だから「我が行く道の 奥十山 美濃の山」で意が通じる。

 折口信夫の全集第6巻『萬葉集辞典』では、「お―きそ―やま(大木曽山)信濃国西筑摩郡。木曽川に添うて作つた信濃道の沿道の山」としており、信濃路沿道とかなり範囲を限定した意味に解釈している。これでは、№3242の歌の奥の山々、美濃の山々といった広さが失われる気がする。
 『萬葉集事典』(佐佐木信綱 平凡社 1970年)では、(おきそやま 奥十山・奥礒山 未詳(1)信濃国西筑摩郡大吉祖庄の山。大吉祖は木曽谷の中央以南を指す。(2)「お」は接頭語。単に木曽の山の義。(3)美濃国可児郡久々利村の浅間山を主峰とする一帯の山か)と3つの説を挙げている。(2)の「単に木曽の山の義」でいいと思う。ただ、語源の成り立ちの順序からして、現在の木曽地方もふくめた美濃の山、美濃の奥の山々である奥十山がのちに「きそ」(岐蘇、吉蘇、吉祖、木曽)といわれるようになったわけで、「きそ」という地名よりさきに奥十山という言い方があったはずだ。『万葉集釋注七』(伊藤博)でも№3242の歌はかなり古くから伝承されていたのであろうと推定している。
 さきに取り上げた『大日本地名辞書』(吉田東伍)にしても、「美濃(岐阜)可児郡」の「泳(くくり)宮址」の項で、「奥十山は木曽の山山にて、三野山も此地方の山、何峰となく、広く指したる也」と言っているのだが、奥十が木曽になったとは考えなかったらしい。

因幡の兎は白いのか 後篇

2008年07月13日 09時19分49秒 | いろんな疑問について考える
 そもそもこの「因幡の素兎」の話では、兎が白い必要があるだろうか。古代は白い動物が現われると祥瑞として尊ばれた。「因幡の素兎」も「おおなむちのかみ」、こと大国主命に助けられた兎が、八上比売(やかみひめ)を娶るのは他の兄弟神たちではなく貴方だ、と予言するのだから、その兎はただものではない。だから白いのだと「白兎」説派はいう。
しかし、祥瑞というのはあくまでもそれが稀に出現するケースだからだ。祥瑞の例としては白いカラス、白い鹿、白い猪などがあるが、これらはおそらくアルビノによる色素欠乏の動物が現われたのを捕獲して朝廷に献上したのだろう。
なるほど、因幡では白い兎は稀にしか現われないのは確かだが、逆に言えば稀には現われるということも確かなのだ。それに『古事記』が編纂されたのは現在の奈良である。奈良地方はさきに紹介したように、冬に白い毛になる野兎の南限地帯よりも南にある。しかし、なんといっても当時の都でもあるのだから、各地のさまざまな物資が集まることを思えば、白い兎の毛皮だって珍しくなかっただろうことは想像できる。まして和田山―福知山―綾部の線を東へ辿れば、丹波と若狭の山岳地帯、奈良から数10kmにすぎない。そんなことを考えていたら、白い兎の毛皮が珍しくないことを裏づける記事がたまたまみつかった。
清少納言が兎の毛の筆を好んでいたという書き出しの話が新聞に載っていた。「筆③ 歴史たどれば紀元前?」(安部美香子 朝日新聞 2008年2月22日夕刊)。それによると、現存最古の筆は正倉院にある17本で、8世紀のものだが、聖徳太子の書は7世紀、筆跡の見える土器片なら2~3世紀からあるという。さらに、状況証拠として、紀元前1世紀とされる硯が島根県の田和山遺跡で出土しているのだという。
そこまで遡らなくても、『考古学雑誌』第73巻第2号、「飛鳥時代初期の陶硯―宇治隼上り瓦窯跡出土陶硯を中心として」(杉本宏 1987年)によると、「陶硯を出土した遺跡は南は九州から北は東北に至るまで778遺跡あり、資料総数はおそらく数千個に及ぶであろう。しかし、この膨大な資料の大半は奈良時代以降のもので占められており、飛鳥時代に遡るものはきわめて少ない」と述べている。だから奈良時代初期の『古事記』編纂のころはまだあまり多くはなかったかもしれないが、それらの硯とともに、兎の白い冬毛を使った毛筆が存在したことはまちがいないだろう。それが奈良だけでなく、「南は九州から北は東北に至るまで」ひろく使われていたことも想像できる。
ほかにも用途はいろいろあろうが、毛筆の材料としても、兎の白い毛皮が奈良の都に恒常的に運ばれていたにちがいない。
清少納言の話だから、こちらは京都だが、新潮日本古典集成『枕草子』一本十四をみると、「筆は、冬毛。使ふも、見目もよし。兎(う)の毛。」となっている。兎の純白の冬毛が好まれたことがわかる。というわけで、珍しくもない白い兎では説得力がない。
それでは当時、どんな動物が祥瑞としてあつかわれたのかを見てみよう。ちょうど都合のいい資料がみつかったので、それを利用する。
「祥瑞小考」(村田幸久『生活文化史』12号 日本生活文化史学会 1987年に所収)には、『続日本紀』(延暦16年、797年成立)にしるされている祥瑞を一覧表にまとめている。『続日本紀』は697年(文武1年)から791年(延暦10年)までの編年史である。そのなかから動物に関する祥瑞だけをひろってみると、神馬、八蹄馬、白燕、白烏、赤烏、白鳩、白鹿、黒狐、白雉、白狐、白鴿、霊亀、白亀、白鼠、白雀、亀、蚕?、赤雀があった。
兎も白兎もない。
楽ができたので、ついでに『日本書紀』もみていくことにした。原文ではとても読めないので、『日本書紀 全現代語訳上下』(宇治谷孟訳 講談社学術文庫 1988年)を読んだのだが、祥瑞に現われる動物のなかにやはり白兎はなかった。祥瑞ばかりではないが、一応色で形容した動物をあげておくと、白鹿、白い犬、白鳥、赤い猪、赤馬、白い鵜、白猪、白雉、白雀、白狐、白燕、白馬、白鷹、白鵄(トビ)、赤烏、白い鵐(しとど、ホオジロ科)、朱雀、白い茅鴟(フクロウ)、赤い亀、白い鵞鳥、白い山鶏、白い蝙蝠があった。
結局、神代から奈良時代の終わりごろまでの間、正史のうえでは兎が朝廷に祥瑞として献上されたことはなかったわけだ。それはなぜか。前述したように、白い兎など珍しくないからだ。
しかし、もっと後の時代ではどうなのか。ほんとうに祥瑞の白兎はないのか。『延喜式』(905~927年完成)治部の最初に「祥瑞」の項があり、種類がまとめられている。これは唐の「開元七年令」の祥瑞をほとんど引きうつしたものということで、兎では「飛兎」と「白兎」が載っている。「白兎」は「月の精なり、その年は千歳」だという。だから、白兎が祥瑞としてあつかわれ、歴史書に載っていてもいいわけだ。
『延喜式』までの歴史書をまさか全部みるわけにはいかないし、と躊躇していたところ、『六国史索引』という便利な本がでていることを知った。そのなかの『日本三代実録索引』(六国史索引4 吉川弘文館 1969年)にただ1件だけあった。「白兎 天慶元年五月九日。」さてこの白兎はどこに現われたのか。
新訂増補国史大系の『日本三代実録』後篇をみると、「三代実録巻三十一 陽成天皇」の項に天慶元年五月「九日己酉。大宰府言。肥後国獲白兎一。」と出ていた。肥後の国、熊本県で現われたということは、冬にも白化しないキュウシュウノウサギであるから、これはアルビノにちがいない。九州で白兎なら祥瑞としてあつかわれても納得がいく。
しかし、奈良の都近くには現われなくても、丹後、丹波の山へ行けば、冬には白兎が獲れる。それより北へ行けば、当たり前に存在する。ただ「因幡の素兎」の話はガマの花咲く初夏の話だから、そこへ白兎が現われたのなら、アルビノの白兎ということになる。だから「因幡の素兎」はアルビノだから白いのだといわれれば、屈せざるを得ない。しかし、祥瑞は『古事記』の少なくとも神代篇においては当てはまらない。これについては後で記す。
『野兎の民俗誌』(天野武 岩田書院 2000年)を見ると、各地の聞き取り調査のなかに冬に白くなる兎の比率が記録されているものがある。
それによると、富山県東砺波郡上平村では「100羽中3、4羽程度」白くならない兎がいるという。そこから南東へ山を越えて約50kmはなれた岐阜県大野郡丹生川村では冬に9割程度が白くなるという。丹生川村からさらに両白山地を越えて西南西へ約80kmいった福井県今立郡池田町では白と「夏毛とさほど変わらない毛色」との比率は3対1程度という。
このあまり広くない地域間での冬毛への変化の差は、さきに紹介した「日本の哺乳動物」(朝日稔)にいうところの、「地理的よりも気候的な差」がかなり明確に現われているようだ。それは雪の深さや冬の厳しさを反映しているようにみえる。さらに池田町から西南西へ100km以上いくと兵庫県と京都府の「和田山―福知山―綾部より北では白化し、南では白化しないが、中間には斑もある」という冬毛地帯と夏毛地帯のある程度の幅をもった境界地域となる。
そしてそれが山陰地方になると稀に冬毛が現われることがあるという程度になる。しかし奈良の都を中心に全体的にみると、白い兎は平凡な存在でしかない。
 千葉徳爾氏の説く山陰地方の白兎についての民間信仰も、数年に一度の大雪や厳しい冬を白兎に象徴させて、「この冬はことさら寒いから、あるいは雪が多いから警戒せよ」という山仕事への警告の意味が信仰の形をとり、それが「因幡の素兎」の兎神に結びついたとも考えられる。
 さらに、『古事記』のなかには多くの動植物が現れるが、祥瑞とみとめられるできごとは仁徳天皇の条にある雁が卵を産んだ、という話まで出てこない。これは日本で越冬するガン類が産卵したというので、めでたいまえぶれ、吉兆とされた話である。『日本書紀』『続日本紀』には多くの祥瑞が記録されているのとは対照的に『古事記』では少ない。
 そのほかにおもに白だが、動物が色の表現を伴って『古事記』に現われる現象には、つぎの例がある。
オホナムジ(大国主命)の話に赤い猪。赤い猪というのは実は真っ赤に焼けた大岩で、それが山の上から落とされてオオナムジは死んでしまう。
ヤマトタケルの話に白い鹿。ヤマトタケルが東国から都へ帰るとき、足柄で坂の神の化身である白い鹿が現われる。邪気を祓うとされる野蒜を投げつけると、目にあたって鹿は死んでしまう。
ヤマトタケルの話に白い猪。伊吹山の山の神を討ち取りにいき、途中で白い猪に出会う。この猪をヤマトタケルは神の使いだと思い、帰りに殺してやろうと、そのまま登っていったが、実はこれは山の神そのもので、激しい氷雨を降らせてヤマトタケルは衰弱してしまう。
オホハツセワカタケル(雄略天皇)の話に白い犬。この部分は小学館の日本古典文学全集から引用する。「河内にいる若日下部王を妻問いに行く途中、雄略天皇は皇居に似た家造りをもつ志幾の大県主の家を見て怒り、その家を焼き払おうとしたが、大県主は謝罪の品を(これが白い犬)献上して焼かれずにすむ。天皇は手に入れた品を結納として若日下部王に贈った」。
そのほか、ネズミ、ワニ、ヤタガラスは神々を助けてくれたという話になっているが、それらは白くない。つまり白い○○が現われたので、これは祥瑞である、吉兆であるという表現やそういう扱いはひとつもない。それは祥瑞思想が中国由来だからだろう。白い犬というのが求婚に登場するという点で吉兆を現わしているといえると思うが、この話は仁徳天皇から五代あとの話になる。
また、オホハツセワカタケル(雄略天皇)の話の冒頭には「河瀬の舎人を定めたまひき」とあるが、その理由は明らかにしていない。これは頭注にあるように、『日本書紀』雄略天皇条のはじめに「白い鵜が田上川にいるという報告があったので」それを祥瑞として舎人を置いたというものだ。しかし、白い鵜を祥瑞としたことは『古事記』には記していない。
このように、ほぼおなじ時代に書かれた『日本書紀』『続日本紀』は中国の史書を範にしているとされるが、それに対して『古事記』は、特に上巻の神代の巻はもっとも古事記的な部分で、おおいに位置づけがちがう。
これについて、たとえば「古代伝承とその歴史化」(和歌森太郎『民俗文学講座4 古代文芸と民俗』に所収 1971年)では記紀の内容について、「個々の素材というか資料となったものについては、古くからの伝承もあるのではないか、つまりそこには、編纂の当時からみて、やや古いもの、かなり古いもの、すこぶる古いものなど、さまざまにまじっているのではないか」と述べている。もちろん『古事記』の神代の巻は「すこぶる古いもの」ということになる。そして別のところで、「同じく伝承的な要素を含んでいる記紀ではあっても、古事記の方が素朴なものを、つまり政治的に粉飾されないものを多分に盛り込んでいることを感じさせる」と述べている。
また、小学館の日本古典文学全集本の『古事記』下巻、仁賢天皇のところで、頭注につぎのように記している。
仁賢天皇から以下の記事は系譜を中心とした帝紀だけであって、旧辞といわれる物語や歌謡は全く含まれていない。これは『古事記』の編述の方針や態度が、儒教や仏教の大陸文化の洗礼を受けない、もしくはその洗礼の少ない民族本来の原点に復帰しようとする復古的精神によるものであろう。欽明朝以後の絢爛たる仏教文化のことも、推古朝の聖徳太子の偉大な治績のことさえも『古事記』は全く黙殺している。それほどこの書は民族の伝統文化を重んじている。
そのような『古事記』の、そしてなかでも神代の巻に中国の祥瑞思想のあらわれである「白い」兎を持ち込むのはまちがいではないか。
ではなぜヤマトタケルの話の白い鹿、白い猪はいいのか。それは神そのもの、あるいは神の化身は、特別の色、なかでも白い姿で現われるとされるからだ。だから、因幡の兎も白かったなら「白兎」でよかったはずだ。なにも思想大系本の頭注にいうような、「なお「素烏」(白いカラス。文選、両都賦)、「素鶴」(白いツル。王勃詩)、「素狐」「素魚」などのシロは、烏・狐など通常の色と異なるものであり、素魚には祥瑞がある」から「素」を「シロ」と読んでいいという、中国の祥瑞思想を取り入れる必要はなかったはずだ。さきに記したように『古事記』の、特に神代篇にそうした考え方を持ち込むのはまちがいではないか。
しかし、兎は白くなかった。だから「白兎」とせずに「素兎」と記した。
 さらに、もっと「白」兎とせずに「素」兎の漢字を当てたことについて考えてみよう。それには「素」の字がどう読まれた可能性があるか、それがいくとおりの意味に解されるかを考えることになる。
 「素」の読みは「ス」「ソ」「モト」があり、そのほか素人、素魚などの場合の「シロ」がある。まず「ス」と「ソ」について考えてみよう。漢和辞典によると「ス」と読むのは呉音、「ソ」と読むのは漢音だという。
 日本に入ってきた順序では呉音の「ス」が先で、漢音の「ソ」が後になる。『日本古代語と朝鮮語』(大野晋編 毎日新聞社 1975年)によれば、「使っている字音にしても、『古事記』は呉音系の字音で統一してあるのに、『日本書紀』のほうは当時の洛陽、長安の都で使っている北方音にできるだけ切りかえて書いているわけですね」(大野晋)と語っている。
また『書の古代史』(東野治之 岩波書店 1994年)では「万葉仮名で使われる漢字音は、古い時代の例とは違い、だいたい同時代の中国の標準音か、いわゆる呉音で解釈できるものがほとんどである」と説明している。
 そうすると、『古事記』の場合、「素」は「ス」と読むのがふつうということになる。「ス」の兎ではなんとなくしっくりこないが、「ス」の意味は素顔、素肌、素裸の「素」、なにもつけていない、の意になるから、皮を剥がされた「因幡の素兎」の内容に合っている。だから素兎は「スノウサギ」と読むべきだ。といいたいのだが、『古事記』をみているうちに、「ソ」と読む箇所に出会った。
 それは中巻、応神天皇条で、小学館の古典文学全集本の訳文によると「また技術者である朝鮮の鍛冶で名は卓素(たくそ)という者、それに呉出身の織女の西素(さいそ)という者の二人を献上した」という箇所だ。新羅や百済から馬、太刀、鏡、『論語』『千字文』、いろいろな技術者などがもたらされたという内容の部分で、卓素、西素の素はそれらの技術者のもとになったというほどの意味か。とすれば、ここでは漢音の「ソ」、つまり元素、要素、素因、素材などの素であるから、本来の、もとの、まじりっけのない、といった意味で「素」(ソ)が使われていることになる。
 さらに、『古事記』序のなかでも「素」を「ソ」と読む例がある。それは序のはじまりの部分で「太素(たいそ)は杳冥なるも、本教に因りて土を孕み島を産みし時を識り、」(天地万物の初めの時代のことは、奥が深く暗くてはっきりしませんが、遺された本教によって、国土をみごもり島々を生んだ時のことを知り)という箇所があり、ここでは「太素」は天地万物の初め、すべてのおおもと、の意で使っている。
 こうなると「素」の読みは呉音の「ス」ばかりでなく、漢音の「ソ」も『古事記』ではまざって使われていることになる。もっとも『古事記』の序は後世に書かれたとの説もあるが、それは今は置いておくとして、そうすると大野晋氏のいうようには『古事記』は「呉音系の字音で統一」されていないし、「卓素(たくそ)・西素(さいそ)」のように漢音もまざっていることになる。朝日新聞2007年12月15日夕刊の「教科SHOW 中学校の歴史」をたまたま読んでいたら、「平城京」の読みについて「漢字の読み方は、呉音が初めに伝わり、後に漢音が入った。「へいぜい」は漢音だが、「へいじょう」は「じょう」が呉音。この時代は漢音と呉音を交ぜて読むことはなかったことを考えると」という文章に出会った。この時代とは『古事記』『日本書紀』成立の時代である。どうなっているのだろう。
ならば「素兎」は「モトノウサギ」、がいいのではないか、とも思う。「モトノ」は皮を剥がされる前のもとの姿である。
 この「太素」の読みは小学館古典文学全集本とおなじく岩波の古典大系本、新潮社の古典集成本も「たいそ」だが、岩波の思想大系本『古事記』では「太素」の2字で「モト」と読んでいる。ますます「モトノウサギ」と読みたくなる。
 辞書をひくと「素」(ソ)の字には確かに白の意味があることを説明している。たとえば『新明解国語辞典』第五版をひくと①生地のままで、手を加えてない状態。(飾り・着色が無い意。狭義では、白色の意に用いられる)、という説明がある。『広辞苑』第五版では①白色の絹。また、白色。無地。「素絹・素服」、と白色を強調している。『日本国語大辞典』では「①彩色を施してない生地。しろぎぬ。生絹。②白色。白。③かざりけのないこと。(略)」として白色を第二義にしている。
いずれの辞書にも「素」には「白」の意があることを説明している。しかし、ただもう無条件に白いのか、真正に白いのかというとそうではない。手を加えてないから、彩色してないから、生地のままだから、それを白いといっているのだ。それは「素」の本来の意味を反映したその結果としての白で、色として「白い」といっているのではない。『新明解国語辞典』第五版が「狭義では、白色の意に用いられる」というように、本来の意味の延長したさきに副次的に派生した意味で「白い」のだ。
だから、「因幡の素兎」の読みは、編纂当時、裸にされた兎の話だから「スノウサギ」、またはもとの毛にもどった兎の話だから「ソノウサギ」または「モトノウサギ」のいずれかだったのではないか。それが、「素」の字から派生した意味である「白」が冬毛の白いエチゴウサギの白と一致して白い兎のイメージを強くしていき、白い色の持つ神々しさや、祥瑞思想の影響をうけて「因幡の素兎」は白い兎ということになっていったのではないか。
『百分の一科事典 ウサギ』によると日本海側では海上の白波のことを「うさぎ波」と呼び、時化の前兆だという。夏、静かな日本海も冬にはシベリアからの季節風で大荒れになる。「うさぎ波」というのは、この波の白さをエチゴウサギの冬毛の白さにたとえたものだろう。
またおなじく『百分の一科事典 ウサギ』で謡曲『竹生島』では月光が波に映っているさまを「兎も波を走る」と表現するという。そこから生まれた能衣装の紋様に「波兎文」「花兎文」などがあり、どれも白兎になっている。『竹生島』は伝・金春禅竹の作といわれる。禅竹(1405~1468年)は室町時代の能役者・能作者。
江戸時代の日本画にもしばしば兎が登場するが、やはり白兎のほうが好まれるためか、季節はあきらかに冬ではないのに、白兎であったり、茶色の夏毛の兎と共に白兎が描かれていたりする。このように、明治初年の飼い兎の普及を待たずとも、「兎は白がよし」とする認識が古くからひろく共有されていたとみえる。「因幡の素兎」もそうした人々の好みを反映して「白兎」になっていったのではないか。


因幡の兎は白いのか 前編

2008年07月13日 09時18分19秒 | いろんな疑問について考える
因幡の兎は白いのか

 早朝散歩をする平井川に、一箇所だけガマの生育地がみつかった。平井川は多摩川の支流で、よく歩く範囲は合流点から遡って草花公園までの3kmであるが、平井川沿いではいまのところこの一か所にしか見つかってない。
 ガマといえば思い出すのは因幡の白兎の話。♪蒲の穂綿にくるまれば、うさぎはもとのしろうさぎ♪ 歌の出だしを思い出せないので『日本唱歌集』(堀内敬三・井上武士編 岩波文庫 1999年)をひらいてみると、曲の題名は「大こくさま」、作詞は石原和三郎となっている。その3番は、
だいこくさま の、いう とおり、
 きれいな みずに、み を あらい、
がま の ほわた に、くるまれば、
 うさぎ は もと の、しろうさぎ。
という歌詞である。
 ところが岩波の日本古典文学大系『古事記』の因幡の白兎のところを見るとすこしちがっていた。「因幡の白兎」は「稲羽の素兎」で、しかも見出しと頭注の「兎」の字には上にノがつかない。変換できる漢字がない。本文の「うさぎ」の字は「菟」の字を使っている。正確にはこれもいくらか違うのだが。
それはともかくとして、唱歌では「蒲の穂綿にくるまれば」とあるが、もともとは蒲の花となっている。しかも、正確には雄花の黄色い花粉なのだという。それは蒲黄(ほおう)といって、昔から漢方でキズを治す薬だという。大国主命は医学的知識をもっていて、それも国を治めるものとしてふさわしい、ということを『古事記』のこの部分は物語っているのだという。おかげで兎は傷が癒えてもとの「素兎」(シロウサギ)になった。
 作詞者の石原和三郎が蒲黄ではなく蒲の穂といったのは、唱歌という性格上、わかりやすさを優先したのだろうか。それとも石原自身、ほぐれて綿状になる蒲の穂と思っていたのかもしれない。筆者もじつはそう思っていた。勘違いしている人も多いのではないか。じっさい蒲といってまず思い浮かぶのはあのチョコレート色をしたソーセージ形の穂だろう。あれが秋になると、ほぐれて白い綿のようになる。
 そこで絵本やインターネットでざっとみたら、因幡の白兎の話では、蒲の穂になっている絵や文章も多いが、ちゃんと蒲の花といっているものもあった。あんがい正確な絵本もあるのだった。
 それもまあいいとして、なぜ白兎なんだろう。ノウサギが白くなるのは冬のはずだ。ガマの花が咲くのは初夏。だからこの時期、兎はすでに夏毛になっているはず。だいいち冬でも、山陰あたりの平野部ではずっと雪におおわれているわけではないだろうから、白くなってしまっては、身を隠す都合上、兎も困るのではないか。
 これについてもいくつか絵本をみてみると、たいていは白兎が描かれており、なかには赤い目をした飼い兎がえがかれているのもある。飼い兎は西洋から入って、明治以後に普及した種類でアルビノつまり突然変異によってできた、色素のない、それで目も赤い兎なのだから、これはおかしい。なかには茶色い夏毛のノウサギが描かれている絵本もあって、正確といえば正確だ。そもそも、山陰地方のノウサギは冬に白い毛になるのだろうか。
 では、ノウサギの生態はどうなっているのだろう。『百分の一科事典 ウサギ』(スタジオ・ニッポニカ編 小学館文庫 1999年)によると、「ニホンノウサギ(ノウサギ)日本のノウサギの野生種。佐渡島、隠岐諸島、本州、四国、九州に分布する。本州の中部以北のものをエチゴウサギ(トウホクノウサギ)、南のものをキュウシュウノウサギとも呼ぶ」としている。白い冬毛になるのがエチゴウサギである。
『全集日本動物誌』第3巻に所収の「日本の哺乳動物」(朝日稔 講談社 1982年)の「ノウサギ」の項によると、冬に白化するかどうかは地理的よりも気候的な差で、「兵庫県、京都府で集めた資料では、和田山―福知山―綾部より北では白化し、南では白化しないが、中間には斑もあるようで、一線を引くわけには行かない。今泉吉典氏はこの境界は2月の平均気温が2度から4度のところとしているが、後に詳しい研究が大津正英氏の手で行われた」と述べ、その大津正英氏の研究を引用しているところによると、温度よりも日照時間だという。「大津氏は照明時間をいろいろにかえた巣箱でノウサギを飼育し、昼の長さが12時間以上あれば白化せず、逆に11時間以下では褐化しないことをつきとめた。つまり、眼から入る光が体内のホルモン機構に作用し、色素形成の酵素作用をコントロールしているとわかった」という。それでも「野生のままでは同じ日照時間でも、寒い地方にいるノウサギは白化し、暖い地方では白化しない。やはり気温にも関係があることを示している」と結論している。
 雪のあるなしについては言及がない。たとえば、日照時間が11時間以下になった寒い地方で、たまたま雪の少ない年にはむやみに毛が白くなってはこまるだろうに。
 さて、「因幡の素兎」はほんとうに白いのか。ことは神話だからなんでもあり、大真面目に考えても仕方がないと思いつつ、実は気になる記述があったので、さらに考えてみることにした。
 気になるというのは、岩波の古典文学大系本の『古事記』の頭注に本居宣長の『古事記伝』から引用して、「此菟の白なりしことは、上文に言わずして、此処にしも俄に素菟と云るは、いささか心得ぬ書きざまなり。故思に、素はもしくは裸の義には非じか。若然もあらば、志呂とは訓まじく、異訓ありなむ。人猶考へてよ。」と、「シロウサギ」と読むことに疑問を呈している。本文の読みでは一応「素菟」を「シロウサギ」とルビをふっている。
 ということは、宣長より以前には『古事記』の訓詁は部分的にしかされていないらしいが、「因幡の素兎」の部分では「素菟」はシロウサギと読んでいたわけか。
 ほかに「素菟」と書いて「シロウサギ」と読む『古事記』の注釈書や訳文はそうとう多いだろうが、つぎのものだけ挙げておく。
新潮日本古典集成本『古事記』をみると、「『古事記』では「しろ」は「白」の字を用いているが、ここのみ、「素」(しろ)の字である。それは「白兎」と書くと月の異名となるので、動物であることを示すために「素菟」と書いたもの。求婚や神事には白い動物を用いた」と説明している。
小学館の日本古典文学全集本では、「『古事記伝』は毛のない裸の兎と解したが、「素」は「素烟」「素石」などのように白色の意もあるので、やはり白兎と解するか」と白兎説を押している。「素」の意味については後でさらに考えることにするが、必ずしも色の白色とおなじ意味での「白」ではないと筆者は考えている。
 『口語訳古事記 神代篇』(三浦佑之訳・注釈 文春文庫 2006年)では「そこで教えのとおりにしたところがの、ウサギの体は元のとおりに白い毛におおわれたのじゃった」として、原文では言ってない「白い毛」という言葉をくわえている。その前、ワニに皮をはがされた箇所でも、「白い皮を裂き剥いでしまった」と、やはり原文にない「白い皮」をおぎなっている。でも、「素」を白い毛であるとする理由は述べていない。
 『古事記注釈』第3巻(西郷信綱 ちくま学芸文庫 2005年)では、岩波の大系本と同じく、さきに紹介した本居宣長の疑問を引用しているが、そのうえで「これはやはりシロウサギと訓む他あるまい。漢字「素」に裸の義は存しない」と断定している。しかし、「素」は素肌、素顔、素裸の「素」なのだから、裸の義そのものではないか。どうして断定してしまうのだろう。辞書にも「(名詞に付いて)①何も加えずありのままの。「¬¬¬―はだ」」(岩波国語辞典第二版)と説明している。
 『ビギナーズ・クラシックス古事記』(武田友宏・角川書店編 角川ソフィア文庫 2006年)では「白兎」としており、兎が白いことについては言及がない。この文庫本のカバーは古代にはいなかったはずの、白い毛に赤い目をした飼い兎が描かれている。
岩波の日本思想大系本では少し長く詳しく、次のように言っている。
『記伝』(『古事記伝』)は「素はもしくは裸の義には非じか」としたが、素には白色の意がある(例、素衣¬¬=白衣、素羽=白羽)ので白い兎と解してよい。「素」は名義抄にシロシの訓がある。なお「素烏」(白いカラス。文選、両都賦)、「素鶴」(白いツル。王勃詩)、「素狐」「素魚」などのシロは、烏・狐など通常の色と異なるものであり、素魚には祥瑞がある。素兎も同じような語構成で、神の使などの瑞獣の意を表わすか。記(『古事記』)の用字法ではシロは「白」で表わされるが、同じシロでも右のような特別な意味を持つために「素」の字を用いたのであろう。
 いくつか見てきたなかでも思想大系本では、複数の例を示して「シロウサギ」と読んでおかしくない証拠であるとしている。ここまで白の根拠付けをしているのだから、やっぱり白でいいのかな、と思ってしまうところだ。白兎に疑問を抱く立場としては分が悪い。しかし、「素」には「名義抄にシロシの訓がある」というが、名義抄、つまり『類聚名義抄』は平安末期の成立というから、その読みを奈良時代初期までさかのぼって当てはめていいかどうか。それに祥瑞についても、中国の思想をうけているから瑞獣は白いとしていいのだろうか。
 さらに、民俗のほうでも、白兎説を説くものがある。『日本史のなかの動物事典』(千葉徳爾他 東京堂出版 1992年)によると、「因幡の素兎」の伝承は、毛色が白いことが重要で、そこに古代人は神秘性を感じ、祥瑞を示すものと考えたのであるとする。そしてさらに
現代でも山陰地方の山間部には、白い兎を山の神の姿もしくはその使者として尊敬する風があり、これを捕えたり殺したりすることを忌む風が残っている。また、その姿を見た者には不吉な事が起こるとして、山の神の祭りの日に山に入ると白兎を見る。もし、それを見ればその人は命を失うとして、山の神の祭日に山に行くことを戒める土地もある。山の神の祭の日に山仕事に行くことを慎むのは全国的に知られた民俗であるが、その日に白兎を見るのがよくないという民間信仰が山陰地方に顕著であるという点は、この地域で野兎の毛色が季節的に変化し、しかもそれが年ごとに必ずしも一定せず、多雪の年と寡雪の年の変動が大きいこの地方として、兎の毛色の変化が冬季は必ず起きると限らない地域であることと無関係ではないように思われる。
と述べている。
たしかに民俗報告のなかにもそれは探し出すことができた。
島根県頓原町の例だが、『志津見の民俗 本文編・資料編』(島根県教育委員会 1990年)の「年中行事」の「山の神の日」の項に、「この日に入山することは禁じられていた。(略)山の神はシロウサギに乗っていると考えられており、この日にはシロウサギを捕ることはもちろん、見ることさえ忌まれていた」との民俗を報告している。
 それに対して、白い兎に疑問を呈している本は少ないが、宣長の『古事記伝』のほかにもあった。「素兎とは裸のウサギの意か、白ウサギの意か、意見が分かれている」とするのは『百分の一科事典 ウサギ』。それと、「「稲羽(因幡)の素兎」は、白い毛の兎ではなく、素裸にされた兎の意であることに、注意してほしい」とは『古事記のことば この国を知る134の神語り』(井上辰雄 遊子館 2007年)である。岩波文庫本の『古事記』も裸の兎として、白兎説もあり、としている。
 しかも、新潮日本古典集成本でも頭注で紹介しているように、兎や他の小動物がワニをだます話は東南アジアにその起源があるというのが、定説になっている。もちろんその地では兎は白くなかったわけだ。ワニももとは実際の爬虫類のワニだった。それが日本列島に話が伝わってきて、そこにはワニがいないので、代わりにサメをワニと呼んだということになっている。
 『古事記』以外にも別の白兎の話が『塵袋』にあると、古典大系本の頭注に紹介している。吉野裕訳『風土記』(平凡社ライブラリー、東洋文庫とも同じ)によると、「風土記逸文」に「白兎(因幡の白兎)」と題して『塵袋』から引用した話が載っている。そのなかでは、「因幡記をみれば」として、兎とワニの話がある。話のはじまりは違うのだが、ワニをだますところからは同じで、これも本文中では白兎とは言っていない。そうすると小見出しの「白兎(因幡の白兎)」というのはいつからついたのか。それを確認する必要があるので、つぎに『塵袋』をひらいた。
『塵袋』は鎌倉時代中期の作といわれる。『塵袋』の影印本である日本古典全集本をみると、小見出しは何もなく、目次ではただワニの数を数えるという意味で「読数」とうたっている。そして、やはり兎が白かったとの記載はない。だから「白兎(因幡の白兎)」という題は吉野裕氏が『風土記』をまとめたさいに、これは因幡の白兎の話だからと、そうつけたものである。
「因幡記」というのは現存していない。吉野裕訳『風土記』の解説によると、「現在風土記が残っているのはわずか五国分である。しかし鎌倉時代ごろまではかなり多くのものが残存していたらしいことは、平安末から鎌倉末にかけて輩出した古典注釈家や歌論家・神道家の著書に「何某風土記に曰く」として引用されていることから察することができる」としている。「因幡記」もそのひとつと考えられるわけだ。そうすると、『古事記』とほぼおなじ時代に因幡の『風土記』があって、そこにも「因幡の素兎」系統の話が伝えられていて、でも、やはり白い兎とは言ってなかった、ということになる。

ほっとすぺーす(№53)2007年9月 野鳥が逃げ出す距離

2008年07月13日 09時14分06秒 | ほっとすぺーす野鳥をめぐって
ほっとすぺーす(№53)2007年9月
野鳥が逃げ出す距離
 探鳥をしているとき、気がつかずに鳥を飛び立たせて、「あっ、しまった」と思うことがある。経験上そんなことがよくある鳥は、山や森林なら大型ツグミ類、川ではサギ類、シギ類などがある。なぜ「あっ、しまった」なのかというと、これらの鳥はたいてい飛び立たせると、もう近くにはとどまってくれないからだ。スズメやムクドリくらいまでの小鳥類なら、飛び立ってもあまり遠くまで逃げずにいてくれる場合が多い。かえって見やすい位置に移って、ありがたいことさえある。それに小さい鳥ほど警戒心がうすいのか、あまり逃げないが、中型、大型の鳥ほど一般にこちらを寄せつけたがらない。
そこで飛び立たせてしまう限界の距離は鳥種によってどう違うのかを考えてみよう。この場合、目的の鳥がいて、身を潜めたり、じわじわと近づいてゆくといった特別の状況は考えない。特に注意をはらわずに、でもゆっくり静かに歩いているとする。繁殖中の鳥や人馴れしているらしい鳥の場合も別にする。数字はすべて目測、大雑把なものだが、一応の目安にはなるだろう。
 まずアオサギの場合、こちらが普通に歩いて近づけば、ひらけたところでは50~60mか、それ以上でも逃げる。間に草むらなどがあって、こちらの姿が隠れている場合は20m以内くらいまで近づけるが、じつはこの場合でも草のすき間から覗くと、向うもすでにこちらを警戒していて、つぎのこちらの動き次第ではぱっと飛び立つ。上空を飛んでいるときでも、あまり高くないとき、10数mだろうか、こちらの上空に達した直後「あんたの上なんか物騒で飛べないよ」と言わんばかりに、わざわざ進路をカギの手に変えてギャッと声まで出して飛び去ってゆくことがある。ほかの鳥ではここまであからさまに避けるのを見ることはないのだが、アオサギの場合はよくある。
 ダイサギやコサギはアオサギに比べるといくらかは近づきやすい気がする。ササゴイになると20~30mくらいで逃げることがよくある。
 オオタカやノスリは飛び立ってそれと気づくと、50m以上はあるし、100mくらいあるときもある。カラスも街中のは別にして、河川敷などひらけた環境では50mくらい離れていてもそわそわし出す。双眼鏡をかまえると逃げる。
 中型の鳥では、たとえばキジバトは、山の中で出会うとすぐ逃げる。ふだん開けたところで見るキジバトよりも山中にいるキジバトのほうが人を寄せ付けないという印象がある。ただそれが、同じ個体でも山の中にいるときと、そうでないときとで違いがあるのか、その点はわからない。というのは、山が浅い草花丘陵の場合、開けたところと丘陵の中を行き来するだろうから。もっとも、キジバトは山バトともいうが、そのわりには山中にはあまり入らない。
キジバトといえば、草花丘陵の山道を歩いていて、小さいアップダウンがあり、登り道がせりあがっていてその先の下りが見えないとき、こちらが道を上がっていて、先の下りが見えてきた瞬間に、あわててそこにいたキジバトが逃げ出したことがある。ほんの3~4mで、ふだんならとうに逃げている距離だ。こちらはかなり無造作に歩いていたから、気配でわかりそうなものだが、直前までそのキジバトには人が見えなかったわけで、やはり鳥はおもに目で判断しているのだろう。
アオバトはキジバトよりもずっと警戒心が強い。たいていは遠くに声を聴くだけで、山でも丘陵でも近くで見ることは滅多にない。
ほかに中型の鳥といえばキツツキ類のアオゲラ、アカゲラ、オオアカゲラはやはりあまり近づけない。コゲラなら数mまで近くに来るし、近づける。カッコウ類はどれも相当近寄りにくい。こちらから近寄るというよりも、たまたま近くに来てとまってくれるのを幸運と思うしかない。
バンやオオバンは筆者のフィールドでは釣り人もよく入っているから、人馴れしているかもしれないので、あまりよくわからない。30mくらい離れていてもさっと水面上をひっかいて逃げてしまうこともある。
カイツブリが、繁殖期にはわりあい近距離で見られていたのに、冬場、本流に集まった群のほうへ近づいていくと、まだ50m以上離れていてもいっせいにもぐってしまい、もっと遠くで水面上に顔を出すので、近寄るのがむずかしくて苦労したことがある。それは何年か前、越冬の個体数と夏羽への移行の様子を知るために、数えていたときのことだった。8倍の双眼鏡しか持ち歩かないので、近づかなければならず、鳥には迷惑だったかもしれない。
 森の大型ツグミ類といえばアカハラ、シロハラ、トラツグミ、クロツグミ、マミジロなどだが、こちらよりさきに気づかれて、遠くへ飛んでしまうことがよくある。これらは小鳥類より近づきにくい。それは、カラ類のようにたえず鳴いて早めに存在が知れる、ということがないので居場所がわからないからだ。ただ比較的ひらけた環境で越冬生活をするツグミはやや近づきやすい。
 ツグミで興味深いのは、日の出前のまだ薄明のとき、多摩川の堤防の道を自転車で走っていると、路上に下りているツグミがいて、自転車がすぐ前、それはもう2~3mのところまで近づいて、あわやひいてしまうと思うところで、ようやく逃げ出すことだ。それがどうもモタモタしていて、なんだかよく見えていないように感じられる。ツグミは夜間に渡る鳥だというから暗くても見えるはずだし、だいいちまだうす暗いのに路上に出ているということは、すでに塒を離れて、たぶん採餌しているのだろうから、見えているだろうに、なんで直前まで逃げず、あわてて「おっとっと」となるのか、わからない。
 同じことはアオジでもよく経験している。草花丘陵の浅間岳の登り口から、まだうす暗い山道を歩き出すと、もうアオジが路上に出ている。まだアオジの色もわからない、黒いかたまりくらいにしか見えない暗さだ。こちらが進む先々であわてたように飛び立つが、それは足元からたった1mくらいしか離れていない。極端な話、踏んづけてしまいそうだ。明るい時間帯ではこうした経験はない。
カラ類でもそういう経験はしたことがないが、もっとも身近に来て、親しい存在はやはりカラ類だろう。
 なかにはぎりぎりまで逃げないで、ヤブにひそむのを得意とする鳥もいる。そこで、
つぎのテーマは、ぎりぎりまで逃げない
 よほど自分の保護色に自信があるらしい。