ケガレの起源と銅鐸の意味 岩戸神話の読み方と被差別民の起源 餅なし正月の意味と起源

ケガレの起源は射日・招日神話由来の余った危険な太陽であり、それを象徴するのが銅鐸です。銅鐸はアマテラスに置換わりました。

ケガレの起源と銅鐸の意味45 正月行事にみるケガレ祓いの様相3 墨塗り、煤掃き

2016年10月24日 20時27分39秒 | 日本の歴史と民俗
   3 墨塗り、煤掃き

墨塗りと騒乱、混乱
 『日本民俗大辞典』の「すみぬり 墨塗り」ではまず、婚礼の際に聟や新夫婦に墨を塗るなど、祝いに関係して墨塗りが行なわれる例を5件紹介している。これらはいわば発展型である。それにつづいて紹介している2つの事例を次に示すが、これらは比較的古い形と考えられる。それは年の改まりに関係しているからである。
 ○ 福島県石城郡豊間町(いわき市)では、かつて小正月に若者組の役員の切り替えを行なった際に、墨祝いといって大根に墨をつけたもので若者頭はじめ新役員の額に塗りつけたといい、名誉に感じたという。
 役員の交替になぜ墨が必要なのか。「新役員の額に塗りつけた」というのは、新しい頭屋に塗る墨と同じことであろう。『散歩の手帖』25号において、島根半島の塩津の例として、オコナイ行事が終わり新しい頭屋が大餅を背負って下がる時、この新頭の顔に大根で墨をつけるという場面がある(「36」)。墨は周囲にいる者にもつけるので大騒ぎになるという。57ページの事例8でもあつかう。
 ○ 新潟県東頚城郡松之山村(松之山町)では、小正月の道祖神の火祭のあと、炭と灰を雪泥でこねてまず薬師如来の像に塗り、つぎに旧家の主人につけてから、一年間無事息災であるように厄落としの意味で村人が相互に炭を塗りあって祝ったという。
 墨がなぜ厄落としになるのか、それを村人が塗りあってなぜ祝いになるのか。「すみぬり 墨塗り」の項では最後に「墨塗りには化粧や灰塗りと同様に秩序や人格を更新したり再生したりする意味があるといえる」との解釈を載せている。だが、なぜそのような価値が墨塗りにそなわったのか。どうしてこのような、互いの顔に墨を塗りたくるといった奇妙な習俗が起こり、伝承されてきたのか。それについては言及がない。ところがこれも射日・招日神話で解釈できるのである。
 『日本民俗大辞典』「すみぬり 墨塗り」の項では墨塗りは祝いであり、それをされれば名誉に感じることであり、無事息災であるようにとの厄落としであり、秩序や人格の更新、再生をするものである。このようにいいことばかりである。
 しかし、いいことと見なされるのは歴史的変遷の結果であって、ケガレの象徴としての墨を祓えやったことからきているのであり、だから祝いになる。最初から何の根拠もなく墨を塗られてうれしがるはずがないのである。ではその前に何があったのか。墨は暗黒、暗闇を象徴するのであり、それが祓われたからあとは幸いに転じると考えられたのである。その暗闇、暗黒は射日・招日神話に当てはめれば、余った危険な太陽を射落として、我らの望むひとつの太陽を招きだすまでの闇のことである。そしてまた岩戸籠りの闇とその後にアマテラスを復活させることである。墨塗りによる騒乱、混乱は岩戸籠りによる暗闇、暗黒による騒乱、混乱を意味しているのである。多くの祭りに騒乱状態があるのも、神事のなかにサバサバ、あるいは「鯖」がでてくるのも、同じことである。したがってその後には話の展開として、ケガレの祓われた至浄の世界となることが約束されているのである。そうした経過が込められているから、墨を塗られてうれしいのであり、名誉とも感じ、厄落としとして解釈されることになったのである。では『正月行事』に記されている実際の事例をひいて、検証していこう。
 事例1 大分県東国東郡国東町1-128
雑煮は醤油で味付けをし、椎茸でだしをとり、餅は丸餅をそのまま入れる。そのときトシトコ様に上げるといって、鍋墨をちょっと餅につけたもの1個を入れる。

 28ページの第1章の事例11と同じである。鍋墨はケガレの象徴で、餅はケガレをつけて運び去る役目があるから、そうして小正月の訪問者であるトシコト様に上げるのである。
 事例2 大分県東国東郡国東町1-153
(正月11日)この日はスミヌリといって油ズミを大根にぬりつけ、の道を通る人にモンテイが顔に塗りつけてまわった。たくさんの人の顔に塗るほど、五穀が豊にみのるといって喜ばれた。

 モンテイとは若者のことである。ここでは墨塗りは五穀豊穣と解釈されている。
 事例3 島根県島根半島2-45
15日の朝、青年団一同、三社神社に集まり、前夜拝殿に安置しておいた神輿を祠にうつす。終わって御宿に帰り、大餅を小さく地下中へ配れるように切る。その1個と剣先の神札1枚ずつとを若い者をして配らせるが、配る者は化粧をし、墨を塗って出る。それが行った先でまた墨をつけられるというようなことがあって、帰ってくる時には真っ黒になっている。

 黒くなればなるほど喜ばしいということになる。次は歩射行事なので、少し長くなる。要約で紹介する。
事例4 三重県鳥羽市神島3-123
八幡の弓祭り 歩射が立願者によって行なわれる。立願の射手は12人以上おり道者という。あらかじめ乾燥させて、用意されていた松の割り木がある。それを束ねて作ったたいまつに火をつけて214段の高い石段を、爺とよばれる当屋2人と道者たち、その付き添い人などが行列をつくって登っていく。石段を登りつめた八代神社には高い石垣があり、点火したたいまつを両側に組んでおく。神社にはしとぎでつくったオシロモチとタカラモノと呼ばれる供物が供えられる。儀式がすむとたいまつを持ち、石段をユトリバまで降りてくる。ユトリバは石段の登り口、鳥居のわきにあり、語源は弓取り場か、あるいは昔アラダチという巫女が三河から来て湯立てをした跡ともいわれている。島の人々が石段の所で待機していて、たいまつの燃えさしを手のひらでこすって、「お祝い申す」といいながら、当屋の爺さんの顔にすみを塗る。すみを黒々と塗られると爺さんは「大漁大漁」と叫ぶ。このときタカラモノもまき、子供らが拾いあいをする。これらのあと歩射が行なわれる。的と射手との間にたいまつが燃えている。この火を越えて弓を射る。当屋がまず2本矢を射る。つづいて年長の道者から順次2本ずつ射て歩射は終わる。この日はどこの家でも、サバの形にごはんをこしらえて、神棚にお供えする。

 歩射は射日・招日神話が元である(「37」)。したがって前半の長々とした要約は後世の演出、儀式化にともなってついたもので「当屋の爺さんの顔にすみを塗る」ところからがこの行事の本質である。顔に墨を塗るのは、高天原の暗闇、騒乱、混乱であり、「大漁大漁」と叫ぶのはすでに墨塗りがケガレ祓いであったことが忘失されて、ケガレが祓われたならあとは好事となるからである。だから同時にタカラモノと呼ばれる供物もまかれる。供物をまくのも「2 供物を投げる、屋根に上げる」で述べたようにケガレ祓いである。そしてこの事例の本旨としての歩射が行なわれる。的と射手の間にはたいまつの火がある。この火は太陽を象徴しているのだろう。太陽信仰としての歩射、射日・招日神話であるが、太陽は片鱗も見えない。この日はどこの家でもサバの形にごはんをこしらえるというのは騒乱、混乱の象徴としてのサバである。騒乱、混乱とは古事記の天岩屋戸神話におけるアマテラスの岩戸ごもりによる暗闇、混乱の状態を表現した「サバえなす」(狭蠅なす)である(「38」)。サバが魚のサバになったのは、もとの意味が忘れられて身近な言葉としての鯖に結びついたのである。サバについては稿を改めて論ずる必要がある。
 事例5 岩手県大船渡市立根町4-41
墨付け 15日、午後になると竹串に差した大根に鍋墨をつけて、寺参りの帰りなどの通行人の顔に墨付けをする。行なうのは若者たちで、厄年の者は墨をつけると災厄を免かれるという。

以上の事例1~5は墨塗り行為であるが比較的おとなしい事例である。
 事例6 鹿児島県薩摩郡甑島1-58
耳引き節句 〔手打の浜〕以前は15日に外の通りを歩いていると、二才組(青年組)の連中が顔にヘグロ(灰墨で鍋墨のこと)を塗って誰かわからないようにし、道の角などから現われて耳をひっぱった。ひとびとは耳を引っぱらせぬように、鳥打帽を深くかぶって歩いたりした。なんのためにこんなことをするのかわからないが、耳を引っぱってもらった方が健康上よいという話をきかされたことがあった。

 顔に鍋墨を塗って外へ出ていくのは〔手打の浜〕だけしか記載がない。他のでは耳を引っぱる習俗はあるが墨はつけないらしい。耳引き節句の行事自体、下甑村だけのものだという。
 墨をつけるにしても、つけないにしても、いきなり通りかかりの者が耳を引っぱる、誰でもよい、道の角から現われていきなり引っぱる、など尋常ではない。もちろんこうした行事のあることを誰もが承知の上でのことであるのだが、それでもひとしきり騒ぎになるのは当然だろう。その騒ぎを起こすことが目的なのである。前日にはハラミゼックといってケズリカケを花のようにつけた棒を持って男の子が女の子や若い嫁のいる家を訪ねて、その棒で女の子や嫁を突いたり騒いだりするという。14日15日を合わせて考えるべきものだろう。なぜなら墨を使う例は1件にすぎないが、14日のハラミゼックには土地を突くという行為が含まれるからだ。2ページ手前に次の事例がある。
〔瀬尾〕「花嫁をだせだせといいながら、ケズリカケで地べたをついてまわる」。
〔青瀬〕「ケズリカケをもって、『ハラミダセ、ハラミダセ』といいながら、の家々の庭の上を突いてまわる」。
〔里の園下〕「嫁出セ ハラミダセ 嫁女出セ ハラミダセといいながら、家々をまわってその庭の土地を突いてまわっていた」。
 家々をまわって土地を突いてまわるというのが古い形であろう。これは地に働きかけているのである。地に働きかけるについては『個人誌 散歩の手帖』29号「反閇 音と足踏み」で詳述するが、地に働きかけるとは太陽を鎮めることであり、アメノウズメの「ウケを伏し踏みとどろこし」の行為であり、天岩屋戸神話におけるスサノヲの暴虐からアメノウズメの「ウケを伏し踏みとどろこし」に相当し、騒乱、混乱を表している。女の子や若い嫁を追いかけて騒ぎをおこすのも、耳を引っぱるのも騒乱、混乱の象徴であり、墨を顔に塗って出るのもそうである。それらは土地を突くことにより、地に働きかける行為が元であり、地に働きかけるとは反閇であり、太陽鎮めである。
 事例7 島根県島根半島2-39
餅搗き 11日の朝から、神輿飾りと並行して御歳徳神の餅搗きをはじめる。(略)2升甑で7、8斗もつくから終わりは4時か5時ごろになる。その間、つくほどに、やがて餅のつけっこが始まる。サシ(長さ6尺くらいの手杵)についた餅を、そこらにいる者にやにわにつける。そのため、つく者、こねる者、みな青年団に入団した時につくった絣の筒袖を着ているが、見る見るうちにそれが餅だらけになってしまう。かくして最後に、化粧をした役員が、しゃもじを持って臼のまわりをまわり、餅搗きを終わる。この餅搗きが終わった夜、皆が寝しずまったころを見はからって、青年団の委員長が、神輿の中に神札を1体そっといれる。
〔坂浦〕では、(略)つき終わると、ここでは餅のつけっこなどはないが、そのかわり頭屋の主人を臼の中にいれてつくまねをし、次にトンド総代、次に氏神頭、次に明神(恵比須)頭を同様にし、最後には餅もみ連中をだれもかれもいれてつくまねをする。したがって、ここでも着物は餅だらけになるが、こうしてついた餅は絶対に鼠がかまぬと信じられている。
〔諸喰〕では、15日の朝、トンドがすむと各自燃えさしをとって
潮水につけ、それを氏神に持って参って本社の戸につける。その後直会があるが、この折にはお互いに顔に墨をつける。
 事例7もかなり騒乱、混乱をきたすことになる。ただしそれは墨によるのは諸喰だけで、前の2ヶ所は餅のつけっこである。墨でなくても、餅は再三述べているように、ケガレの象徴であり、ケガレをつけて運ぶものであるから、行事における意味は墨と同じである。「最後に、化粧をした役員が、しゃもじを持って臼のまわりをまわり」というところの「化粧」とは元は墨だったかもしれない。「臼のまわりをまわり」というのは、臼は桶からの変化、アメノウズメがウケフネをふみとどろこしたことに相当するのであろう。「寝しずまったころ」とは複数のケガレとしての余った危険な太陽が鎮まった状態であり、「神輿の中に神札を1体そっといれる」とは我らにとって望ましき太陽を選んだものとみなすことにほかならない。太陽信仰そのものの痕跡である。ひとつひとつの行為は一見、何の為にあるのか、何を意味するのか、そもそもこれらの行為に意味など格別になさそうにも見えるが、こうして射日・招日神話が変遷したものであるとしてとらえれば、行事の中でのそれぞれの行為に納得できるのである。
 事例8 島根県島根半島2-49
オコナイ (オコナイの行事が終わり)やがて新頭、つまりこれからの頭屋が、大餅を背負って下がるが、その時、この新頭の顔に大根で墨をつける。墨はついでにそこらにいる者にもつけるから大騒ぎになる。新頭宅では、持って帰ると、これをトコの前の筵の上に安置し、旧頭宅へ持ちまわりの小宮を迎えにゆく。旧頭も同時に来たり、大餅の前で盃をして引継ぎ式を行ない、次いで鎌どりといって、鎌をとって餅を2つに切りそめる。それを後、さらに小さく切り、各戸へ配る。

 周囲のだれかれとなく墨をつけ合うから大騒ぎになるのは当然であるし、それをねらっている。引継ぎ式というのは旧頭から新頭へ役が替わるわけで、年が改まることを意味する。餅を小さく切って各戸へ配るのは、各家々からケガレの餅を運び去ることからの変化である。すでに元の行事の意味が忘失されているので、各戸へ配るのは餅が縁起のいいものと理解されるようになってから変化した行為である。行事に含まれるそれぞれの内容が、元の射日・招日神話の順序どおりではなくなっているのは、本質が忘れられたためである。それにもかかわらず、説明はすでにできなくなっていても、昔から大事とされていたとして伝承されるのである。
 事例9 三重県鳥羽市神島3-122
万歳 長ったらしい万歳がめでたく終了すると、赤ずきんの才蔵は、入り口に立って見物している娘さんの所へ飛んでいって顔に墨をつける。この墨をつけられると縁起がよいといってだれも怒らないのであるが、それでも皆逃げ出すのである。

 事例6~9は1~5に比べて墨塗りによってさらにわざわざ騒乱、混乱状態を引きだそうとしている例であるが、1~5に比してはっきりした違いがあるわけではない。いずれの場合でも墨塗りとは騒ぎを引きおこすことが目的なのである。その騒乱、混乱は多くの祭りのクライマックスにみる喧騒、騒乱状態と共通するものであることは、稿を改めて追究することにする。「サバサバ」「鯖」もこれに関係してくる。柳田に「鯖といふ魚の信仰上の地位は、詳かに調べて見る必要があるのだが、今までは誰も手を着けて居なかつた(「39」)」との指摘がある。

煤掃き、煤払い
 煤掃き、煤払いの日に米由来の食物が作られるのも、やはりケガレ祓いから来ているのである。『正月行事』全4冊の中から9ヶ所の事例を紹介しておく。
 事例10 島根県島根半島2-19
煤払いの日には団子をつくって神棚に供える。

 事例11 岡山県真庭郡新庄村2-59
終わると煤掃き団子をつくって、トコ(床)と神棚に供える。〔二橋〕の清川家では、焼き餅であった。〔田中〕の内田家では、煤掃き粥をつくって供えていた。〔川上村〕では、柴迎えに切ってきた空木の木で煤払いをした後、台所の上の天井に上げておき、去年上げておいた木をおろして、煤掃き団子をつくるたき物にしていた。

「空木の木で煤払いをした」というのは、空木の木で叩くことによってケガレの太陽を鎮めたという意味である。空木の木はサバサバで使われる木である。事例11の少し前、『正月行事』2の49ページでは、島根半島のオコナイを紹介しているが、そのオコナイの中で行なわれる鯖々の行事では寺の本堂の床を空木の木でたたく。空木は卯の木であり、卯は東を意味する。つまりアメノウズメの「踏みとどろこし」に相当し、太陽を鎮め、まねく意味がある。
 事例12 岡山県井原市2-82
煤掃きをすますと、「ごみ(すす)がよくのどをとおるように」とか、「のどのごみをさろうてしまう」とかいって米の粉の団子をつくり、味噌の団子汁をして夕食どきに食べた。

 煤掃きと団子のつながりがわからなくなった後の付会である。
事例13 岡山県笠岡市2-93
煤掃き団子(煤取り団子ともいう)といって、白米をひいて、周囲5寸ぐらいの団子をつくる。

 事例14 岡山県笠岡市2-105
昔から煤取り団子をつくって近所へ配り合ったり、神仏にお供えし、夕食に食べる。
〔金風呂〕では、そば粉でつくるともいう。また、小麦粉の団子に、ささげあんをまぶしたりもする。
〔真鍋島〕掃除が終わると白米の粉で団子をつくり、生のまま屋内の神仏にお供えし、夕食にはそれをいれて、雑煮(団子汁)をつくって食べる。

 事例15 岡山県邑久郡牛窓町2-149
〔千手〕では、25日に煤掃きをし、煤掃き団子をつくる。

 事例16 岩手県雫石町4-11
12月27日、皆そろって早起きをし、アサザノコ(朝早く起き、朝食前に食事をすること)といって、かねて用意しておいたオハラミマンジュウを食べてすす掃きに取りかかる。

 オハラミマンジュウは(お孕みまんじゅう)で、小豆が中に入っているという。
 事例17 岩手県雫石町4-13
すす掃き 去る14日の阿弥陀様の日に作った火を通さない生の餅のオヒトネなるものを、主婦が炉の灰の中に埋めて蒸し焼きに焼き上がるようにしてくれているので、昼近くにはふっくらと焼き上がったものを家内中ですこしずつ分けあって食べる。

 事例18 岩手県大船渡市立根町4-38
ススオロシ ススオロシの祝いごとは、膳にお神酒・白飯、またはススリダンゴを盛りオカミの神棚に供え、家内中でも食べて祝う。供える神様は、特になんの神様ということはない。

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