ケガレの起源と銅鐸の意味 岩戸神話の読み方と被差別民の起源 餅なし正月の意味と起源

ケガレの起源は射日・招日神話由来の余った危険な太陽であり、それを象徴するのが銅鐸です。銅鐸はアマテラスに置換わりました。

鳥 2007年10月上旬 平井川と多摩川の一部

2007年10月24日 11時04分06秒 | 野鳥の日録
セグロセキレイ S
ハシブトガラス
ウグイス 1羽のC。
ガビチョウ S
ヒヨドリ 渡りあり。
モズ S
エナガ 12羽前後の群がソメイヨシノに。
シジュウカラ
ムクドリ
イカル 40羽前後の群が下流方向へ飛ぶ。
カルガモ
ツバメ
ハシボソガラス
キセキレイ
コジュケイ S
カワセミ
カオグロガビチョウ S
アオサギ
スズメ
クサシギ
コゲラ
オナガ
トビ
キジバト S
ダイサギ
キジ ♀1羽。平井川の河川敷のヤブから飛び立った。
メジロ
バン 2つの池に計4羽。
ホオジロ
コヨシキリ 1羽、草薮でジッジッ。
カワウ

花 2007年10月上旬 平井川と多摩川の一部

2007年10月24日 11時00分40秒 | 植物の日録
サルスベリ 人家の。
ヨモギ
ノコンギク
ヒガンバナ
ヒメジョオン
イヌタデ
ウド
コセンダングサ
ハキダメギク
オシロイバナ
オオニシキソウ
カワラケツメイ
アサガオ
ゴーヤー
チカラシバ
マルバルコウ
アメリカセンダングサ
ハナタデ
ヤブマメ
ミズヒキ
ツリフネソウ
カナムグラ
アオミズ
ミゾソバ
クコ
シラネセンキュウ
ゲンノショウコ
アメリカイヌホオズキ
ハナゾノツクバネウツギ
ヌカキビ
シロザ
キクイモ
ヒヨドリジョウゴ
ヨウシュヤマゴボウ
ススキ
チヂミザサ
ジュズダマ
ムクゲ
スズメノヒエ 堤防の外側斜面。
ナンテンハギ 堤防の外側斜面。
ユウガギク 堤防の外側。
アキカラマツ 堤防の外側斜面。
ニラ
タカサブロウ
タマガヤツリ
ウシハコベ
ツユクサ
ヒメクグ
カワラスガナ
キツネノマゴ
コゴメガヤツリ
イヌガラシ
ヒデリコ
メヒシバ
オオジシバリ
カゼクサ
アカネ
ヤナギタデ
オモダカ
コナギ
ソバ 畑の。
ママコノシリヌグイ
イタドリ
ツルヨシ
カヤツリグサ
アレチウリ
オオバコ
ダンドボロギク
スズメウリ
ヘクソカズラ
アカバナユウゲショウ
セイタカアワダチソウ
コスモス
アキノノゲシ
キンミズヒキ
ムラサキツメクサ
カラスノゴマ
ヤマブキ
ハグロソウ
オニノゲシ
メマツヨイグサ
ヒメムカシヨモギ
ギンミズヒキ
コマツヨイグサ
オオアレチノギク
ベニバナボロギク
シロツメクサ
シラヤマギク
ヒヨドリバナ
ツルボ 花の残り。
チャノキ 人家の。
ハハコグサ
ムシトリナデシコ
ワルナスビ
キヅタ 咲き始め
シマスズメノヒエ
トダシバ
ヒメツルソバ 人家の石垣に。
トキワハゼ
オオオナモミ コースではなかったので見落とした。
ツリガネニンジン
シロノセンダングサ
アキノキリンソウ
オガルカヤ
コシオガマ
ユウガギク
タカトウダイ 返り花か。
ナンテンハギ
アキカラマツ
ワレモコウ
ノアザミ 一株のみに花。
キンモクセイ
イヌコウジュ
カタバミ
コウゾリナ

「松(まつ)雀(め)」とはなにか 長塚節、方言名の鳥の歌

2007年10月21日 20時44分53秒 | いろんな疑問について考える
「松(まつ)雀(め)」とはなにか
長塚節、方言名の鳥の歌

 『長塚節全歌集』(佐藤佐太郎編 宝文館 昭和26年)から、鳥を詠みこんだ歌を見ていき、なかでも方言の鳥の名に注目してみた。ただ、方言なのか、鳥の古名として使ったのかわからない場合もある。節が方言で鳥の歌を詠もうという認識があったかどうか、明確ではない。たぶんそうした意識はなかったのではないかと思う。それというのは、節の作歌時期は明治29年ごろから大正3年までで、鳥学の世界でも、未だ鳥の和名はようやく統一されつつある時代だった。まして、一般のひとにとって学問的に正式であるかないか、などどちらでもいいことであるから、各地、地元地元でいわれていた名前を使っていただけのことであろう。
 しかし、古典にはかなり通じていたであろう節だから、トモエガモを「あぢむら」(あぢの群れ)とかカラスを「大嘘鳥(おおをそからす)」、カイツブリを「にほどり」など、万葉集や平安和歌にでてくる古名も使っている。
 たとえばカケスは「かし鳥」という古名を持つが、『日本鳥類大図鑑』第1巻(清棲幸保 講談社 昭和27年)では、方言としても栃木、静岡、三重、岐阜などの21県で採集されている。ただし茨城県はこのなかに入っていない。しかし、「かしどり」「かしとり」といった呼び方が周辺にあるので、おそらく茨城ではたまたま採集からもれたのだろう。だから古名であり、かなり広く行き渡っている方言でもあるわけで、どちらとも決められない場合がある。
 それはともかくとして、ここでは「松雀」(まつめ、と読む)とはなにか、について考えてみよう。「松雀」が出てくる3首、明治37年、「春季雑咏」と題して、
淡雪の楢の林に散りくれば松(まつ)雀(め)がこゑは寒しこの日は
明治38年、「炭焼くひま」と題して、「春の末より夏のはじめにかけて炭窯のほとりに在りてよめる歌のうち」と注記して、3首めに、
芋植うと人の出で去れば独り居て炭焼く我に松(まつ)雀(め)しき鳴く
明治40年、「四月十日横瀬夜雨氏へはがき」と注記して、
我庭の辛夷(こぶし)の雨にそぼぬれて松(まつ)雀(め)も鳴けど待つに来なかず
 「松雀」とはなにか。まず季節についてみると、最初の歌は春季、淡雪がまだ降るような寒い日もある早春であろう。2首めは「春の末より夏のはじめにかけて」とあるように、早くても晩春であり、この芋はサトイモであるらしい。種芋を植えるのであるから、もう冷え込むようなことはない時期といえる。前後の歌をみると、「棕櫚の樹の花」が咲いていたり、「なるこ百合」の花も咲き、初夏の様子に近い。3首めは辛夷の花だから、サクラの少し前あたり。いずれも節の地元、茨城の平野部のこと。
 そうすると、春先から初夏のころに茨城の平野部にいる鳥で、まつめという方言名を持つ鳥となる。『野鳥の事典』(清棲幸保)の74ページに鳥の歌を紹介するなかに、松雀のことを「コガラまたはヒガラと思われるもの」として、伊藤左千夫の「庭のさき森を小高み長鳴く松(まつ)雀(め)が声に霧晴れむとす」を載せている。しかしコガラもヒガラも山の鳥で関東の平野部では冬に現われる鳥で、しかもあまり多くはない。とくにコガラは冬でもほとんど山を下りない鳥であるし、節のこの3首のように親しげに詠われる存在ではない。かりにどちらかだとしても、もう棕櫚の花が咲くほどの陽気にもなっているのに、冬鳥が詠われるとは考えにくい。
 かといって、「松雀」が夏鳥にしては、まだ淡雪が降るほど寒い日もある時期にも詠われるのでは早すぎるだろう。この時期の夏鳥ではツバメかイワツバメくらいしか考えられない。そうすると、「松雀」は一年中いる鳥、留鳥ということになる。
 清棲の図鑑では、事典とちがってコカワラヒワ(現在の分類ではカワラヒワ)の方言として埼玉県のところに「まつめ」と出ている。「松雀」がカワラヒワなら、節の『全歌集』の108ページにカワラヒワの歌がある。
唐(から)鶸(ひわ)の雨をさびしみ鳴く庭に十もとに足らぬ黍垂れにけり
 この歌は明治38年9月20日、京都の詩仙堂での作歌。「からひわ」となっている。『図説日本鳥名由来辞典』によると「『大和本草 諸品図』のからひはの図はマヒワである」と記載されている。しかしこの節の歌はまだ9月で冬鳥のマヒワが渡ってくるには早すぎる。カワラヒワなら時期も環境的にも一致する。『清棲図鑑』ではコカワラヒワの項にからひわ、ころひわ、と各地で呼ばれていることを示している。カワラヒワは漢字では河原鶸と書かれるが、キリリ、コロロと鳴く声をから、ころ、と聞いたのが、からひわ、ころひわ、となったという説もあり、筆者もそれを支持する。それがよく河原にいるものだからカワラヒワとしたのだろう。
『清棲図鑑』のコカワラヒワの項には、ほかにも岩手県と愛媛県で、かわすずめ、とある。どちらも茨城県から遠すぎるのが気になるが、節の歌にもかわすずめが出てくる。
明治39年の作で「即景」と題して、
鬼怒川の堤の茨咲くなべにかけりついばみ川すずめ啼く
鬼怒川のかはらの雀かはすずめ桑刈るうへに来飛びしき鳴く
 ノイバラが咲き出すのは5月の上中旬、桑刈る、は蚕のえさに桑の葉を刈るのだから、これも初夏から夏で、カワラヒワなら矛盾しない。
 一方、ただの「鶸」を詠った歌につぎの3首がある。
菜の花は咲きのうらべになりしかば莢の膨れを鶸の来て喰ひ
かぶら菜の莢齧む鶸の飛びたちに黄色のつばさあらはれのよき
冬の木の林のなかにいちじろき辛夷の枝にひわ鳴き移る
 この3首の場合はマヒワも考えられる。菜の花は莢のふくれであるから、もうしばらく前から咲いている。かぶら菜もアブラナ科で、やはりダイコンのように春咲く花だろう。そして3首めは冬の景。だからカワラヒワでも矛盾はないが、マヒワも充分考えられる。
 けっきょく、「松雀」も「唐鶸」も「川すずめ」もカワラヒワらしい。「ひわ」だけがマヒワの可能性がある。そうすると、節はわざわざ一種の鳥を3通りに使い分けたのだろうか。「松雀」は松ではないが、樹木との組み合わせ、「川すずめ」は河原を好むカワラヒワらしさを表現するために。それと三十一文字の枠にあわせるためにまつめで3音、からひわで4音、かわすずめで5音と使い分けたと考えられる。

時鳥と山芋 後編

2007年10月19日 08時40分51秒 | いろんな疑問について考える
ヤマノイモをめぐる民俗
 かつて、あるいは地方によっては現在もそうかもしれないが、ヤマノイモは生活の中でどのように位置づけられていたのか。いくつか紹介してみよう。
○田植えが終わると「おおたを祝う」といって、ヤマノイモを掘ってきてとろろ汁を作り、田の神様に苗一束と一緒に供えお祝いをする。『植物民俗 ものと人間の文化史101』(長澤武 法政大学出版局 2001年)
○南部の五戸地方では、五月五日の前夜祭は大切な籠りの日で、必ず夕食には神にとろろ汁を供へる。とろろ汁は節供に食べなければならなかつたし、また家族が全部家にはいつてから戸口にこのとろろ汁を撒く、長虫(蛇)が家に入らぬようにといふ呪ひでもあつた。即ちこの地方の「戸窓ふさぎ」の行事で、田植に先立つ物忌のお籠りの日であつたのである(民間伝承17の7)『日本文学の民俗学的研究』(三谷栄一 有精堂 昭和51年 419頁)
○長野県北安曇郡神城村では、各戸の田植じまひをタウエジマイといひ、山の芋の芋汁を作り、田の神様に上げて家族も食べるのを習慣とする。(同上)
 『日本文学の民俗学的研究』からは2件だけ引いたが、ほかに田植前後の時期に山芋を掘るという内容を持った昔話を6話紹介し、「かうした山芋掘りを契機とした説話が伝承されるのは、山芋掘り季節に関係して語られたに相違ない。やはり田植前後の物忌籠りや神祭りの夜に物語や昔話が語られ、文学が発生したのである」と述べている。(同上)
 さきに引用した『イモと日本人』の「儀礼食物としての山芋」の分布図の示すところによれば、正月、5月5日、9月13日、その他の日、など予祝儀礼や植付け儀礼のさいにヤマノイモを食べるのは東北地方に集中している。関西、中部、関東にも分布しているが、おもに東北である。それに対して、それらの儀礼の日にサトイモを使う地域は関東から西に分布している。ここにヤマノイモを掘る時期とホトトギスが渡ってくる時期の一致をみる。それについて、『日本文学の民俗学的研究』では上の引用箇所につづいて、「殊に五月の夜、神事や物籠りしてゐる所に、高声で訪れる時鳥にどれほど神秘を感じたことか。その時鳥の昔話に山芋が関係してゐるのは偶然でなく、この昔話の語られる季節を物語つてゐる。一体時鳥が、田植に先立つて、祖霊の訪れる戌亥の隅に祝福をもたらすと信仰されてゐたことは既に述べた通り」であると述べている。
ちょうど、六月一日のむげ節供の日だじょおん。むげ節供じゃな、山から芋ば掘って来て、その山芋ばホクホク煮で神様さあげだもんで。芋の皮を剥ぐ皮剥ぎの日で芋剥ぎの一日でもいってる日で、その六月一日にな、時鳥の妹娘が山がら芋掘ったなば、姉の稼ぎ出でる間、煮でいたなだど。『雀の仇討 萩野才兵衛昔話集』(野村純一、野村敬子編 東北出版企画 昭和51年)
 これはやはり「時鳥と兄弟」のひとつの昔話で、山形県の最上地方に伝わる話の冒頭の部分。むげ節供というのは、『民俗の事典』(岩崎美術社)によると「六月が正月に次ぐ年のあらたまり」で、その6月1日にはこの昔話によると、最上地方ではヤマノイモを掘ってきて煮て食べる習慣があったようだ。『民俗文化』第15号(近畿大学民俗学研究所 2003年)でも野本寛一氏が「イモの民俗誌1」のなかで山形県東田川郡朝日村田麦俣の例を紹介し、「六月一日には、この日は人の皮がむける日だとして自然薯を煮て食べた」という。ただし、この例では「10月半ばに掘って保存しておき」となっているが。
 「イモの民俗誌1」では、サトイモのほかに山で採ってきたヤマノイモやトコロを正月や節供に食べる事例について、新潟、山形、宮城、秋田の例を紹介し、正月や節供に「食べる儀礼が広く存在したことが推察されてくる」と述べている。
 さて実は、ここまで各地の事例などを紹介して、ヤマノイモについて述べてきたが、調べていた途中で、なぜ春にも掘ったのかという疑問にそっくり答えてくれる本に出会ってしまった。「なんだ答えは出ていたのか」とがっかりして、そのままこのテーマはお蔵入りにしていたのだった。
ところが最近になって、たまたま『散歩の手帖』を以前から読んでくださる青森県の方からトコロについての青森県での利用などに関する資料をいただいた。まったく偶然のことだったので驚いた。そして、ヤマノイモやトコロについて調べていたことを、一度は捨てたつもりでいたものを、それなら、せめてヤマノイモだけでも、もう一度まとめ直してみようかという気になった。それでは一度はお蔵入りを決心させたその本のその部分を少し長いが、ご紹介しよう。『昔話の伝播』(福田晃 弘文堂 昭和51年)に所収、「鳥獣草木譚の意義-「時鳥と兄弟」をめぐって」より、その178~179ページ。

山芋を晴の日の食べ物とする所は、そう珍しいことではない。わたくしの故郷会津若松では、「三日とろろう」と言い、正月の三日には、必ず山芋のとろろ飯を食べることが習慣となっていた。これは秋にとった芋を正月まで保存しておくのである。ところで、山の芋、すなわち自然薯は、秋の十月頃に掘るのだが、もう一度、初夏の六月上旬、つまり昔ふうで言うと、旧四月下旬から五月上旬の頃にかけて掘れるものである。丁度、時鳥が悲しく鳴く、田植前の一時期の頃。それだから、時鳥もまた山芋を求めて鳴くという発想が生まれるのだ。その自然薯は山里の生活にとっては、格別な味わいのものである。しかし、あの細長い自然薯掘りはなかなか大変なものであった。そして、それは、たまたま旧五月の上旬、つまり五月節句以後になれば堅くなって食べることができなくなってしまう。それゆえに、節句までには掘っておかねばならない。その生活経験が、自然薯を節句の晴の食べ物とする習俗をつくりあげたのだと思われる。最近、わたくしが歩いた越中も加賀も能登もそうであった。旧五月の節供には、山芋はかならず食膳に添えるものである。南北朝時代に編纂された『神道集』という書物の巻二「熊野権現事」などにも、五月五日に狩師が山芋を掘って山の神に供えて共食するふうが記されている。その習俗は古く広いものだった。当然越後地方にもこの習がおこって久しいことが思われる。そしてこの牧村では、かの時鳥の鳴き声のごとく、「明日節句しょ」とて、節句の前日には山に芋を求めて晴の日を迎えていたのである。

というわけで、ほとんど言い尽くされている。もはや書く必要はなくなった。
 ところで、話はそれるが、引用の冒頭にある「三日とろろう」で思い出すのは、東京オリンピック、マラソン銅メダルの円谷幸吉の遺書だろう。あの哀切きわまる遺書は「三日とろろ」ではじまる。
父上様母上様 三日とろゝ美味しうございました。干し柿もちも美味しうございました。
敏雄兄姉上様、おすし美味しうございました。
勝美兄姉上様、ブドウ酒、リンゴ美味しうございました。
巖兄姉上様、しそめし、南ばんづけ美味しうございました。
喜久造兄姉上様、ブドウ液、養命酒美味しうございました。又いつも洗濯ありがとうございました。
幸造兄姉上様、往復車に便乗さして戴き有難とうございました。モンゴいか美味しうございました。(以下略)
 円谷幸吉が生まれたのは福島県須賀川市。会津若松同様、福島県内では正月にとろろを食べる習慣はひろく行われていたようだ。
筆者の母も子どものころ、群馬県伊勢崎市で、正月に山芋をすって食べる習慣があったという。『俳諧たべもの歳時記(上巻)』(四方山径 八坂書房 1980年)の「しらうお(白魚)-白魚の白さ」の項に正月の「山の芋売」というのがでてくる。
文化年間(1804~18)に、刊行された『市隠月令』によると、
 正月元日、白酒売、宝舟、福神、双六売の声いとめでたし。
 二日、山の芋売、独活、分葱売の声春めきてよし、白魚売は更なり。下谷御徒町辺いとはやし。
と、文化年間の江戸で、正月の振り売りのなかに山の芋売りもあることがわかる。こちらの例では二日、つまり「二日とろろ」ということらしい。「二日とろろ」か「三日とろろ」かは、各地まちまちだが、さきに紹介した『民俗文化』第15号でも、新潟、山形、宮城、秋田の各県にも二日があり、三日があり、「正月三が日のうちに」、という山形県温海町の例もある。
 そのほか、民俗以外でも古典のなかに、冬や春、または初夏にヤマノイモを掘る、あるいは食べる例はいくつも見つかっているのだが、それはもう蛇足になるのでやめておこう。
 時鳥になぜ山芋なのか。もしかしたら昔、山芋は秋ではなく春に掘っていたのかもしれない、というひらめきが今回の研究の動機だったのだが、結局は秋にも掘るし、雪がなければ冬にも、そして春にも初夏にも掘るものだ、ということがわかった。それがどうして秋から冬に掘るもの、という印象になったのか、それはやはり民俗行事の衰退という現実が大きいのか。それと収穫の秋、さつまいも、さといも、などのいも類は秋に掘るので、秋にも掘るヤマノイモもすっかり秋のものになってしまったのか。

時鳥と山芋 前編

2007年10月19日 08時39分30秒 | いろんな疑問について考える
時鳥と山芋
ヤマノイモはいつ掘るか
 以前、「しのび音もらす 夏は来ぬ」と歌われるホトトギスの「しのび音」とは何か、いつからいわれていることなのか不思議に思い、その起源を調べたことがあった。そのおりに、古典文学ばかりでなく、昔話についても目をとおしてみて、ホトトギスの登場する昔話が広く分布することを知った。おもにそれは、昔話研究の方面でいう「時鳥と兄弟」というタイプに分けられる話で、そのうちのたいていの話に山芋が出てくる。
 「時鳥と兄弟」の昔話はホトトギスが渡って来て、さかんに鳴く時期、つまり5、6月の初夏の話と理解できる。でもその時期になぜ山芋を掘るのか。山芋または自然薯、つまりヤマノイモは秋に掘るものと思っていたからだ。それが非常に意外で気になるので、それなら調べてみようと思った。
そしてだんだんわかってきたことは、春から初夏に山芋を掘るというのは東北以南に全国的にあるし、ことに冬に雪に閉ざされてしまう地方での山芋掘りには自明のことらしいということ。それでも一般的にはやはりかなり意外なことではないだろうか。
 そこでまず「時鳥と兄弟」の昔話を載せておこう。代表的な例を示していると思われる『日本昔話事典』(弘文堂 昭和52年)から紹介する。

あるところに2人暮らしの兄弟がいる。兄は病人(または盲人)。弟は毎日山芋を掘りに行き、兄にはよいところを食べさせ、自分は繊維ばかりのまずいところを食べていた。ある日兄は、自分がこんなにうまいのなら、弟はどんなにうまいところを食べたろうと、弟を殺して腹を割いて見ると芋の筋ばかりであった。兄は後悔し悲しみのあまりホトトギスになって「弟恋し」と鳴くようになった。今でも1日に八千八声鳴かないと餌を食べられないため、口から血を吐きながら鳴いている。(以下略)

 この昔話は東北から九州まで、広く分布している。各地で少しずつ違いはあるし、省略や変化の激しい場合もある。それらについて言及する力は筆者にはもとより無い。が気になるのは、あくまでもホトトギスと山芋、つまり自然薯、植物和名でいうヤマノイモとの関係である。なぜホトトギスの話に山芋なのか。どうして初夏を告げるホトトギスに秋を連想させる山芋なのか、というささやかな疑問である。
 調べ始めて感じたことは、もしかしたら昔、山芋は秋ではなく春に掘っていたのかもしれない、という疑問だった。秋に掘ってあたりまえと思っていたものが、もし春に掘っていたとしたら、そこには何か意味がなければならない。そしてなぜ秋に掘ることに変わったのか。
 そもそも春に掘った山芋はうまいのか。民俗としての山芋の位置づけはどうなっているのか。そういった疑問が出てくるが、まず植物としての山芋、つまりヤマノイモの生態を、おもにその掘る時期について見ていこう。
 『原色牧野植物大図鑑』(北隆館 昭和61年)のヤマノイモ(ジネンジョウ)の項ではつぎのように解説している。

本州・四国・九州・琉球、および台湾、朝鮮、中国の温帯から暖帯に分布し、山野に普通にはえるつる性の多年草。根は秋から夏にのびる。茎は春からのびる。花は夏、雌雄異株で雄花の花序は立ち、雌花の方は垂れ下がる。肉質根は白く軟らかく、晩秋に掘り採り、すりおろして食用とする。また球芽も食べられる。和名は山にある芋の意。

 「根は秋から夏にのびる」ということは冬を通して伸び続けるということだろうか。なのに「晩秋に掘り採り」というのは、まだ伸び盛りに掘ってしまうことにならないか。
 そのヤマノイモの芋について『山渓ハンディ図鑑1 野に咲く花』(山と渓谷社 2003年)にはもっと詳しく記述している。晩秋に掘って食用にする、というのは同じだが、さらに、

このいわゆるイモは、形態上は根だが、発生上は根とも茎ともつかないので、担根体と呼ばれる。多数のひげ根のうち1個だけ肥厚してイモをつくるが、これがどんどん生長していくわけではなく、春に古いイモの先端に別の新しいイモができ、新しいイモが古いイモから養分を吸収して大きくなる。つまり毎年より大きな新しいイモをつくるわけである。

 だから、大きく育ったイモを「何年もの」などというが、複数年かけてひとつのイモがだんだんに大きくなるわけではないのだった。
 このことも相当意外だったので、なんとか実物で確認できないものかと思ったが、道具がないと実際に山で掘るのはたいへんそうだ。躊躇していたら、間のいいことに、すっかり住宅地になってしまった筆者の身の回りで、奇跡的に残っている自宅横の畑にヤマノイモが栽培されている。それで秋に収穫しているときに、掘っている現場を見せていただいた。
 すると、穴を掘った断面に、育った新しいイモと、養分を新しいイモに取られた古いイモが並んで立っているところが見られた。掘り出された古いイモはしなびて縦じわが深くくい込んでいる。表面はかたくゴムのような弾力があり、すっかり痩せて食べられそうもない。
 しかし、牧野の「根は秋から夏にのびる」というよりも、やはり春に新しいイモができて生長していくのだろう。だから、秋に掘ったとき、新しいイモとそれに養分を取られた古いイモが並んで立っていることになる。
 もっと山芋についてくわしい本をということで、山芋の栽培の手引書を見つけてきた。『新特産シリーズ ジネンジョ-ウイルスフリー種いもで安定生産 上手な売り方と美味しい食べ方』(飯田孝則 農文協 2004年)。この中からイモの生長の特徴に関する部分をかいつまんで紹介する。

○イモは毎年少しずつ肥大していくのではなく、一年ごとに新しいイモへと更新していく。
○(種子が)春に芽を出す。この株が無事に生育すれば、一年で数グラムほどのイモができる。次の年には、これが種イモとなって新たに少し大きなイモに更新される。毎年更新を繰り返しながら、数年後には立派なイモができる。
○イモの肥大は9月以降急速に進むので、この時期に肥料が効くような肥培管理が必要になる。
○(図3-4から)収穫は11月半ばから2月いっぱい(本文によると、あるいは3月まで)。
○地域や標高などによって差はあるが、3月下旬以降に地温が上昇して芽が動き出し、貯蔵養分が分解され品質が低下するので、この時期までには掘り上げる。

 どうやら春から秋にかけてはゆっくり生長し、秋9月以降急速に大きくなるらしい。牧野のいう「根は秋から夏にのびる」というのはこのことを言っているのだろうか。
 北国や雪国では芽の動き出しは、早い地方よりひと月かそれ以上おくれることだろう。新しいイモの生長がはじまると品質が落ちるというが、そうするとホトトギスが鳴きだすのは日本の南から北へ5月の半ばから末にかけてだから、南のほうではすっかり芽が出て品質は低下し始めているかもしれないが、北国や雪国ではまだ食べごろだろう。そして、「時鳥と兄弟」の昔話は『日本昔話事典』などによると全国から300話の報告があるというが、特に東北地方に密度が高いようだ。これは『イモと日本人』(坪井洋文 未来社 1979年)279ページの図3にある「儀礼食物としての山芋」の分布とかなり重なるように見える。
 「七月の二本芋」という言葉があるという。『資料日本植物文化誌』(有岡利幸 八坂書房 2005年)によると、「里の人たちが七月の二本芋とよぶように、七月ごろには新しい芋と古い芋との両方を掘り採ることができる。古い芋は養分が新しい芋に移っており、新しい芋のほうは未熟なので、食べても新旧のどちらの芋も美味くない」という。どの地方で言われている言葉なのか、記載がない。これによると、7月にはさすがにイモはまずいが、それまでは、つまりホトトギスが鳴きだしたころはまだ食べごろといえるかもしれない。だから、「時鳥と兄弟」でホトトギスが渡ってくる時期にヤマノイモを掘るというのは、特に北国や雪国で冬の間イモを掘れない地方では、当然のことということになる。
 ヤマノイモの生態の面から春や初夏にもイモを掘ることの合理性が確認できたので、つぎに民俗の面からヤマノイモを掘る時期について調べてみよう。

民俗知識としてのヤマノイモの掘り時期
 秋になると他の木々にさきがけてヤマノイモの黄葉が目立つようになる。山芋掘りの秋が来た、というわけで「さあ掘れ」といわんばかりに、明るい林内に日差しを受けた黄色い葉の連なりが、こんなにもあったかと思うほど、あちらこちらに現われる。そのころになると筆者のフィールドの草花丘陵にも山芋掘りの人がやってくる。筆者は掘ったことはないのだが、そうした人の話では、実際に掘るとなると、そこが掘りやすい地面かどうかで、手間のかかり方がだいぶ違う。どこでも掘ればいいというわけではなさそうだ。
 いっぽう、春に掘る例ではどうか。
差別用語として使うにはばかられるが、「五月のめくらいも」ということばがある。「五月の山の芋は盲でも掘ることが出来るほどよく見つかる。山の芋は五月に掘り取るべきものである」(『定本柳田国男集』第21巻「なぞとことわざ」140頁)という。同じことわざが『故事ことわざ辞典』(鈴木棠三他編 東京堂出版)にもあるが、どの地方のことわざか、どちらも言及していない。
おなじ柳田国男の『定本』26巻「日本の昔話」に「時鳥の兄弟」がある。すじは冒頭に掲げた『日本昔話事典』による話とほぼ同じなので、略すが、「毎年五月になると山に行つて沢山の山の薯を掘つて来て、煮て一番おいしいところを兄さんに食べさせました」そして弟を疑って、弟の腹を裂いて、後悔した兄が時鳥になり、「だから今でも山の薯を掘る時節になると鳴いて方々を飛びまはります」としてホトトギスの聞きなし、「おとゝ恋し 掘つて煮て食はそ 弟こひし 薯ほつて食はそ」という越中の昔話を紹介している。
 春に掘るという例では、ほかに「ホトトギスが鳴くと山の芋が芽を出す」(伯耆東伯郡)とか「カッコウが鳴くと山芋のつるが出る」(越後東蒲原郡)から、どこを掘ればいいかすぐわかるというわけだ。これは川口孫治郎の『自然暦』(日新書院 昭和18年)にでている。
 筆者の体験では、それほどヤマノイモの芽は判りやすいものではない。みつける眼がないと言われればそうなのだろうが、芽出しごろのヤマノイモとオニドコロはよく似ている。ただしオニドコロのほうが出る時期が早い。これまで草花丘陵ではヤマノイモ科はヤマノイモ、オニドコロ、ヒメドコロの3種を確認している。ヒメドコロがいちばん芽出しが早く、姿も全体にほっそりしているので区別しやすい。
ヤマノイモとオニドコロ、両者の大きな違いは、ヤマノイモの葉が対生なのに対してオニドコロでは互生になるのだが、芽出しのころはヤマノイモの葉も互生というか、対ではなく、1枚ずつで出てくる。この時期、オニドコロはすでにかなり生長しているから、間違えるほうがいけないのか。ちなみに開花時期では当地の場合ヤマノイモが7月下旬ころから、オニドコロは7月上旬ころから、ヒメドコロは6月下旬ころからで、目出し時期のちがいと平行して少しずつずれがある。
葉の形も両者いくらか違うのだが、これも若い芽ではそれぞれの特徴が未だはっきり出ていない。ただ、それよりも、すでにこの時期春先の、草のいっせいの芽生え時期が終わり、地上はだいたい緑の草ぐさにおおわれている。そのなかで、後発のヤマノイモの芽をさがすのは、見なくてもわかるというほど簡単ではない。
ヤマノイモについては、日本最古の農書といわれる『清良記-親民鑑月集』(近藤出版社昭和45年)にも記述がある。その中から収穫する月を取り上げてゆくと、9月から2月となり、新暦ならだいたい10月から3月になるからほぼ現在の農業手引書と一致する。ついでにやはり山から掘り出すトコロについても調べたら、同じく9月から2月だった。
 熊本県阿蘇町ではヤマノイモは11月から5月までの間に掘る。これは『資料日本植物文化誌』(有岡利幸 八坂書房2005年)にあるのだが、『聞き書き熊本の食事』からの引用だという。
 たまたまラジオを聴いていて、ヤマノイモを5月に掘るという話をひろった。2006年5月21日、日曜日の午後、NHK第一「サンデージョッキー」で、出演していた歌手の松原のぶえが、子どものころだったから自分は行かなかったが、「5月にじねんじょを掘る」という話をしていた。松原のぶえは大分県下毛郡耶馬渓町、現在は中津市、の出身で、だから九州でも、もうすっかり草木の芽も伸びたであろう時期に、まだヤマノイモを掘るのだということを知った。これなら「時鳥と兄弟」の昔話が東北以南の全国的に通用したわけだ。
 地上部がすっかり枯れてしまっても、ヤマノイモの場所がわかるように、秋に根元に麦を蒔いておき、冬から春先まで青々とした麦を目印に掘る、という岡山県の例が『里山2-ものと人間の文化史』(有岡利幸 法政大学出版局 2004年)に紹介されている。
 春に掘る例をとりあげてきたが、ヤマノイモは春に掘るというよりも、秋の終りから春まで、あるいは初夏まで掘るということになるだろう。少なくとも、山芋掘りは秋、という思い込みは改めなければならない。
 しかし、現実には秋に掘る場合が圧倒的に多いのではないか。これまで春に掘る例をいくつか挙げてきたが、これらはようやく見つけた例で、それ以外は秋に掘るとするものばかりだった。現在の状況を知ろうと、インターネットで調べてみたが、掘る時期は秋から初冬、年末といったところで、つまり、黄葉した葉が落ちないうち、目印があるうちということか。わざわざ麦まで蒔いて気長に待とうとか、春に芽が出れば場所がわかる、といったのんびりかまえている時代ではないのだろう。というか、そもそも秋以外に掘ることを想定していない様子にみえる。
 では、なぜ秋掘るものになってしまったのか。どうして以前は春や初夏にも掘っていたのか。なぜ時鳥の昔話に山芋でなければならないのか。そのへんをさらに各地の民俗から追ってみよう。


ほっとすぺーす(№52)2007年7月 影こんこんと溯り

2007年10月13日 14時29分08秒 | ほっとすぺーす野鳥をめぐって
ほっとすぺーす(№52)2007年7月
影こんこんと溯り
 また俳句からはじまる。
  翡翠(かわせみ)の影こんこんと溯り  川端茅舎
 カワセミの句としてこの句はかなり有名らしい。歳時記にも載っている。が、この句について、カワセミが川の上を上流へむかって飛んでいるので、その影がいっしょにさかのぼっていく、と解釈するひとが案外多いかもしれない。『鳥のうた-詩歌探鳥記』(八木雄二 平凡社 1998年)の215ページでもそう解釈している。しかし「ちょっとそれはちがうんじゃないか」と思うので、試みにインターネットでこの句を検索してみた。その結果、作品自体の紹介はかなりあったが、解釈までしてみせているホームページはひとつしか見つからなかった。というか、疲れるのでいくつか見ただけでやめたのだが、そのうちではひとつしか見つからなかった。ネットの探索は憔悴する。そこでもカワセミは飛んでいるらしい。飛んでいるとも止まっているとも言ってないのだが、そもそも止まっているという解釈は前提にないらしい。
しかし、あっという間に一直線に飛ぶカワセミを見続けることなんかできない。ましてその影なんて探しているうちに、当のカワセミはいなくなってしまう。飛んでいるカワセミを「こんこんと」などと表現できるものではない。
 だから、茅舎のカワセミは止まっている。水面に張りだした木の枝か草の茎か、あるいは水底に打たれた杭かもしれない。そこにカワセミは止まっている。水面に映ったカワセミの影を茅舎はみつめている。すると、視線は流れ下る方向へ引っ張られていく。それをなおカワセミの影にとどめようとすると、カワセミの影は反対に溯っていくように見える。そこを断定的に「溯り」と言い切ったのだ。それで「こんこん」という表現になるのだろう。この句の核心は「こんこん」のところにあるにちがいない。
 『日本国語大辞典』で「こんこん」を引いてみる。献献、懇悃、昏昏、惛惛、滾滾、渾渾、混混、懇懇、悃悃。酒を何度もくみかわすこと。ねんごろなこと。おろかなさま。うつらうつら。深く眠っているさま。水など液体が盛んに流れて尽きないさま。泉が尽きることなく湧き出るさま。物事の尽きないさま。入り乱れるさま。親切に繰り返し言うさま。雨や雪、あられなどの降るさま。
それぞれ意味が違い、使う場面も違う。しかし、おなじ場でその動作や状態が繰り返される、という共通した意味をふくんでいる。それが「こんこん」の本質らしい。それは水平方向への時間の経過や移動を意味しない。むしろ、定位置での若干の上下運動の反復を感じさせる。
じつは筆者にも似た経験がある。日差しを受けてできたカワセミの陰が出水の濁流に映って、小刻みに震えながらぐんぐん溯っていく。双眼鏡でその陰を見ていると、スピード感があって、ちょっとめまいを感じるような経験だった。
今回のテーマを考えながら、このごろ散歩コースにしている平井川沿いを、ときどき水面を見ながら、ものの影をカワセミに見立てて確かめるようにして歩いた。そして4つの場合が考えられることに気づいた。
まず、流れに映った姿が上流へ向かうように見える。つぎに流れではなく、さざなみの波紋に対して反対方向へ向かうように見える。ただしさざなみの波紋の場合は、波がすこし荒くなると水面に映ったカワセミの姿はくずれてしまう。それと3、4番目にはカワセミの姿が鏡のように映るのではなく、日差しを受けたカワセミの陰が水面に映り、それが上流へ向かう、またはさざなみの波紋に対して反対方向へ向かう。さざなみの場合は流れのほとんどない淵か、あるいは池かもしれない。
この茅舎の句について、俳句の世界ではどう解釈されているのか。たぶん少なからぬ俳人、文学者が解釈、解説をしているだろう。その中からこの本ならこの句についてなにか言っているだろうと『川端茅舎 鑑賞と批評』(小室善弘 昭和51年)をさがして取り寄せてみた。そしてやっぱりカワセミはとまっているという解釈をしているのが確認できた。
では、この句はいつ、どこで出来た句なのか。それがわかれば、考えられる4つのうちのどの場合を詠んだ句なのかがわかるかもしれない。
『川端茅舎 鑑賞と批評』によると、この句は『ホトトギス』昭和8年8月号の雑詠欄に載ったというもので、そうすると詠まれたのはたぶんその少し前の初夏のころか。カワセミは留鳥であるが季語では夏だから、5、6月ころ夏の風物として詠んだのだろう。
では、場所はどこか。おなじく『川端茅舎 鑑賞と批評』にある付録の年譜によると、昭和3年4月に大森区桐里町273番地に、異母兄で画家の川端龍子が建ててくれた家に移ったという。昭和5年(33歳)ころから病気がちになり、昭和6年11月から7年2月まで脊椎カリエスで入院する。その後ときおり小康を得ることもあったが、昭和16年、44歳で没するまで病気との闘いだったという。
このカワセミの句ができた昭和8年は『川端茅舎 鑑賞と批評』によると茅舎の日常はつぎのようであった。
病弱者の常として、茅舎の行動範囲がひどく限られたものであったことは、たしかである。昭和十二年に書かれた「自句自解」(昭12・10『俳句研究』)の末尾にも、「以上一年の句作の縄張は僕の庭と本門寺山と市野倉の弁天池」とある。ここで茅舎が一年と言っているのは、昭和八年八月から九年七月までを指す。
ということは、このカワセミの句はこの一年間の直前だったと考えられる。だから行動範囲もおそらく「僕の庭と本門寺山と市野倉の弁天池」とほぼ同じだったろう。小室氏は川の流れとしているが、このカワセミの句は弁天池だった可能性が高い。
現在の大田区大森のあたりを手元の地図でみてみると、池上本門寺があり、その1kmほど東には兄の龍子記念館がある。インターネットのグーグルマップで縮尺をあげると、本門寺のすぐ東隣に「桐里保育園」というのがみつかった。しかし市野倉も弁天池もそれらしい地名は見当たらない。桐里町という地名で検索をかけたら桐里町貝塚という表示が桐里保育園のすぐ北に現われた。それは本門寺のすぐ東を示している。市野倉で検索したら、保育園から300mほど東南東にある長勝寺を示した。弁天池で検索したら、まったく無関係の場所へ飛んでしまった。ということは市野倉の弁天池というのは長勝寺の境内にあったのかもしれない。
そこでさらに細かい地図はないかと、さがしたら、『東京都大田区勢要覧 昭和29年度』というのがあり、片面は詳細な地図になっている。見ると池上本門寺の東に隣接している地域の北半分が桐里町、南半分が市野倉町と記載されている。弁天池は出ていなかった。そして『大田区の文化財第17集 大田区の近代文化財』(大田区教育委員会 昭和56年)によると、「四 史跡」のところに「川端茅舎の旧居と句碑」というのがあった。それによると茅舎の旧居は現在のところ番地では池上1-5-7で、『東京都大田区勢要覧 昭和29年度』の地図と重ねるとだいたい桐里町と市野倉町の町境あたりになる。
さらに『史誌第6号』(大田区史編纂委員会編 1976年)所収の「日蓮宗の稲荷信仰」のなかの池上本門寺略図をみると、東に隣接する本門寺公園のなかに弁天池という池がある。ということは茅舎の行動圏には本門寺境内の池と本門寺公園の弁天池と市野倉の弁天池の、あわせて3つの池があるわけだ。
つまり茅舎のこの時期の行動圏は本門寺から茅舎の自宅、そして長勝寺付近にあったらしい弁天池までのわずか東西500mの範囲内ということになる。この中には川らしい川はない。ただ本門寺の西を北から南下して南縁を東進し、東京湾にそそぐ呑川という小さい川があるが、これまで調べたことからして圏外になるだろう。
 茅舎は本門寺境内の池かどちらかの弁天池のほとりでカワセミをじっとみつめていて、この句を得たにちがいない。茅舎はカワセミを数mの距離から、やや俯瞰する感じに見ている。水面に映るカワセミの影を見る。池だから流れはない。わずかに風があり、さざなみが起きる。波紋がこちらへ寄せてくる。なおも茅舎はカワセミを凝視する。すると揺れながらカワセミの影が先へ先へと遡っていく。
 ところで、小室氏は解釈の最後に「影」はカワセミの姿そのものだったかもしれない、と述べている。それもあり得ると思う。「影」は物の姿、形そのものを現す場合もある。小室氏にもどちらとも特定できなかったところをみると、この句の茅舎による自句自解はない、ということだろうか。
 ひとつおもしろそうな論文をネットでみつけたのだが、本文が出てないので読んでいない。
「カワセミは飛んでいるのか? 川端茅舎句「翡翠の影こんこんと溯り」の語用論的分析」
高本條治著 上越教育大学研究紀要vol.14  №2
 茅舎とカワセミの距離はかなり近かったと思う。一般に小さい鳥ほど近寄りやすい。そこで、
つぎのテーマは、野鳥が逃げ出す距離
カワセミは近づけるがアオサギはすぐ逃げる


ほっとすぺーす(№51)2007年5月 アオサギはどこに立つか

2007年10月13日 14時28分01秒 | ほっとすぺーす野鳥をめぐって
ほっとすぺーす(№51)2007年5月
アオサギはどこに立つか
 川の中に立つアオサギはいつも同じような深さにいる気がするのだが、実際にはどうなのだろう。 アオサギの立ち姿といえば、つぎの句が浮かぶ。
  夕風や水青鷺の脛(はぎ)をうつ   蕪村
 この句もアオサギの立ち姿が印象的であるからこそ、名句といわれるのだろう。脛(はぎ)はすねのことだから、くるぶしのすこし上あたりを川の流れにひたして、アオサギはじっと立っている。いかにも涼味満点の句。ただし、それは人にたとえれば、ということで、じつは鳥のすねに見える位置は人とおなじ言い方をすれば、足の甲にあたる。鳥はつま先立ちしているわけだ。鳥の場合はその部分を跗蹠(ふしょ)という。夕風や水青鷺の跗蹠をうつ。こういうのを駄句というのだろう。
 いま考えたいのはそんなことではなく、アオサギは川の中のどんなところに、どの深さに立つのかということ。
 その疑問について、一応答えてくれる文献があったのだが、北海道の十勝川流域の観察記録なので、筆者の観察や、蕪村の作句の下敷きになったのはたぶん関西方面のアオサギかと思うので、いくらか様子がちがう。つまり特殊事情がふたつある。ひとつは北海道の川に多いサケを採っているということ、もうひとつはザリガニを採っていることだ。それを念頭においた上で『Strix』Vol.24 (日本野鳥の会 2006年)の 「河川におけるアオサギの採餌場所と餌内容の季節変化」(南保亜哉児・松田佳奈子)をみていこう。
 調査地は十勝川流域を採餌場にしている繁殖期のアオサギで、帯広市と幕別町に2つのコロニーがある。繁殖期を、育雛前期(5月上旬~中旬)、育雛後期(5月下旬~6月中旬)、巣立ち期(6月下旬~7月中旬)の3つに分けて、それぞれの時期に、採餌場所と餌内容を調査したという。
 アオサギは育雛前期にはおもにサケ属の幼魚を早瀬で採り、育雛後期にはウグイ属を平瀬で採るという。早瀬と平瀬とどうちがうのか、ちょっとわかりにくかったが、それを説明してくれる本があった。
 『地図を読む 自然景観の読み方9』(五百沢智也 岩波書店 1991年)の148ページに川の姿の模式図があり、川の中流で、流れにしたがって淵、平瀬、早瀬と移っていく図がある。深い淵から水があふれ出してゆっくりと流れるところが平瀬、その流れがより急になって次の淵にむかって流れ下るところが早瀬だという。いわれてみればなるほど川はそのように流れていたか。
 したがって、平瀬も早瀬も川の浅いところで、アオサギはそういう場所で魚を採っていたわけだ。
それを水深で見ていくと、十勝川流域の調査では水深の利用割合では、育雛前期での60パーセントが水深10cm以内の早瀬で、そこではサケ属の幼魚が集団で流下しているという。育雛後期でも40パーセントは水深10cm以内の浅い平瀬で、この時期はウグイ属魚類の繁殖期で、産卵場となっている平瀬でアオサギは採餌しているという。
ただし、巣立ち期になると、水深10cm以内の利用はやはり30パーセントともっとも多いのだが、50~60cmの淵も20数パーセントの利用となる。ここではアオサギは外来種のウチダザリガニを多く利用するそうで、ザリガニ類の好む淵へ、水深でいえば50~60cmのところでも、よく入るようになるという。この点は十勝川のアオサギと筆者や蕪村のアオサギとはかなりちがう。淵に入ってザリガニをとるアオサギというのは見たことがないから。ただ十勝川の場合でも、この調査以前の1990年代の調査ではウチダザリガニは収集されていない、ということでザリガニ類の多食というのはごく最近の傾向らしい。これは北米原産の外来種であるウチダザリガニの増加によるという。だからザリガニを多食するというのは特殊な採餌生態なのだろう。
ちょっと古いイギリスの例になるが、『生態学とは何か』(D.F.オーエン 市村俊英訳 岩波書店 1977年)という本で、アオサギの個体群の研究に関する部分があり、そのなかでアオサギの採餌場の環境について記している。
主に浅い水辺から嘴で捕えた魚を食べて生きている。淡水魚も海水魚を食べるが、とりわけ淡水域に生活し、海水魚を食べるのは比較的まれである。(略)本質的には魚喰いで、その生活様式のほとんどすべてが魚を捕えるのに適応している。アオサギは魚を求めて潜水することはできないし、泳ぐこともほとんどしないので、餌場となる水辺は歩くのに十分浅く、魚が見えるようによく澄んでいなければならない
というわけで、巣立ち期でも元来は、すねのあたりを濡らしながら涼やかに魚を採餌していたということでいいらしい。やっぱり「水青鷺の脛(はぎ)をうつ」という情景がいちばんアオサギらしい。資料は古いが、『原色野鳥ガイド』上巻(石沢慈鳥 誠文堂新光社 昭和25年)によると、アオサギの跗蹠の長さは155mm。たいていの場合、アオサギは人の感覚でいえば、すねのあたりを「涼しげに」水にひたして、立っていることになる。
もうひとつの特殊事情であるサケについて。十勝川流域では育雛前期に多くのサケの幼魚を採っている。その時期にサケに依存していることと、アオサギのコロニーの分布と関係がありそうにもみえる。それというのは、最近は全国的であるが、アオサギのコロニーは以前は北海道と北日本の特に日本海側に多かったとされること。『日本のサケ その文化誌と漁 NHKブックス』(市川健夫 日本放送出版協会 昭和52年)によると、サケ属の分布が、やはり北日本に多く、太平洋側ではだいたい利根川まで、日本海側では中国地方までおよぶものの、おもに北陸までであったという。
しかし、十勝川流域でのアオサギの育雛に多くのサケの幼魚が貢献していることはまちがいないが、その他の北日本や北陸でのアオサギのコロニーもサケが大きくかかわっているかどうか、それを裏付ける資料はないようだ。それに近年のアオサギ繁殖地の増加はサケとは無関係だろう。
川のなかに立ってじっと川面をみつめるのがアオサギなら、こちらは岸辺の木の枝からじっと川面をみつめているカワセミ。そこで
つぎのテーマは、影こんこんと溯り
 カワセミは飛んでいるか、とまっているか。

ほっとすぺーす(№50)2007年3月 羽黒山の白鷺

2007年10月13日 14時26分05秒 | ほっとすぺーす野鳥をめぐって
ほっとすぺーす(№50)2007年3月
羽黒山の白鷺
 茂吉一行が見た白鷺はアオサギだったらしい。最初、白鷺類の日本における分布はどうだ、とか、コサギやチュウサギが東北南部までだとか、中部までだとか、2、3の図鑑を見ながら考えていたのだが、そうか、山形の本をまず見るべきかと思いついて、このところ世話になっている『山形県の野鳥』(山形県生活環境部自然保護課 昭和49年)を見たら、羽黒山のコロニーが載っていた。拍子抜けした。なんだ、それなりに有名なところだったのか。そうすると、茂吉は見つけたのではなく、案内人か地元の人に教えられたのか。あるいは「二十四日羽黒山参拝。参道一昨年の如く寂けし」と前書があるくらいだから、すでに何度か来ていて、知っていたのか。
それはともかく、『山形県の野鳥』のアオサギの項には「羽黒町羽黒山神社境内にゴイサギと混じり繁殖しているが最近はその数も減っている」と記載されている。そうするとコサギ、ダイサギ、チュウサギではないらしいが、その確認が欲しい。そしてゴイサギかアオサギか、それが昭和5年にどうだったか、がわかればいいことになる。
 とりあえず『歌集たかはら』から茂吉の白鷺7首を記しておこう。
雪解時より霜ふるころに至るまで大杉のうへの白鷺のこゑ
羽黒山杉の木立に巣ごもれば日もすがら聞こゆ杉の上の鷺
大杉のうへに巣くへる白鷺の杉の秀(ほ)に立つを見れば清(きよ)しも
たふとくも見ゆる白鷺この山の杉のうへにして卵を生みつ
雲うごく杉の上より白鷺の羽ばたきの音ここに聞こゆる
山の上にむらだつ杉の梢より子をはぐくみて白鷺啼くも
羽黒山の高杉の秀(ほ)を仰ぎつつわが聞きて居る鷺の子のこゑ
 場所の確認ができる資料がもう一つみつかったので、紹介しておこう。『日本鳥学会誌』43巻2号(1994年)に「繁殖期におけるアオサギのエサと採餌場利用」(佐原雄二・作山宗樹・出町 玄)という論文があり、日本地図上に羽黒山のコロニーを記載している。「日本国内のアオサギのコロニーは北日本に多く、本州ではその多くが日本海側に位置しているとされてきた(日本野鳥の会1978)」ともある。しかし昭和5年当時を示す資料は見つかっていない。
 そして、羽黒山の白鷺の種類はなにか。それがアオサギであることの確認をしていこう。
 まず、『山形県の野鳥』によると、羽黒山のコロニーで繁殖しているのはゴイサギ、チュウサギ、アオサギの3種となっている。しかしゴイサギの白いところは腹面だけだし、幼鳥では全身だいたい茶色で星のような白点があるだけ。それに姿かたちも白鷺類とはだいぶ違うので、ふつうは白鷺には入れないだろう。チュウサギは白鷺類だが、『鳥類繁殖地図調査1978』(日本野鳥の会1980年)のチュウサギの項によると、「今まで白鷺類の繁殖地の北限は宮城県桃生郡河北町であったが、今調査では山形県でも繁殖が確認され、新しい北限となった」とされ、以前は繁殖していなかったことがわかる。しかし昭和5年というとだいぶ古い話だから、資料がないだけで可能性は否定できない。現在ではチュウサギは少ないが、以前は白鷺類のなかでもっとも多かったといわれているのだから。
アオサギは姿かたちが白鷺類と同じであるし、色もグレーの濃淡ではあるが、全体的には白っぽい。他の白鷺類と行動をともにしていることもあるので、白鷺の仲間として歌に詠んでも違和感がなさそうだ。そうするとチュウサギも捨てきれないが、アオサギがいちばん可能性が大きい。
 ところで、茂吉の歌からは「杉の秀」とか「杉の梢より」とか「高杉の秀」というように、大杉の天辺あるいは梢近くに白鷺がとまっている様子がうかがえる。こうしたとまり方をする、あるいは梢近くに巣をかまえるサギという点から見てみよう。
 『日本鳥学会誌』41巻2号(1993年)の「サギ類6種のコロニー内における営巣場所選択」(安藤義範)は、島根県松江市のスギ、クリ、アカマツの3種が優占する二次林にあるコローでの調査である。ここではアカマツが平均樹高9.8mで最も高いという。そして「ダイサギは営巣数の100%、アオサギは90%がアカマツに営巣していた」と記している。「ダイサギ、アオサギは平均営巣木樹高、平均営巣高ともに高い傾向を示し、(略)高木の樹頂部に営巣する傾向が強かった」としている。ほかにゴイサギでも高い場所を選ぶ傾向が強かった、とあるが、「一般に低い位置を選択する報告が多い」とも記している。そしてチュウサギについては、「ゴイサギ、チュウサギ、アマサギが樹頂部から少し下の辺りにかけての場所を主に利用している」という。チュウサギの巣の位置については、『野田の鷺山』(小林昭光 朝日新聞社 1980年)では「渡来の遅いチュウサギやアマサギは、まだ巣の作られていない樹木や竹林のすきまをさがしては、そこに割り込んでいくような形で巣をかける」と述べている。
 したがって樹上の営巣位置という点では、ダイサギも考えられるが、『山形県の野鳥』の羽黒山の記録にはダイサギは現われない。いくつかの図鑑の記載によっても、ダイサギの営巣地は中部日本以南で、『鳥類繁殖地図調査1978』では関東までの西日本の平野部で、九州南部、東北以北では繁殖例がないという。 
日本野鳥の会和歌山県支部報『いっぴつ啓上』54号(1995年)の「紀ノ川のコサギその3」(溝本政行)によると、「船戸山古墳を構成する樹木は、主にアラカシやシイ、クスノキなどの雑木で、アオサギやダイサギは、主に上部を巣に利用していた。コサギは、雑木林の下部を主な巣として利用していた。ゴイサギは、船戸山古墳の北側にある竹林に多く巣をつくっていた」と述べている。
 日本野鳥の会神奈川支部の『神奈川の鳥』2、3、4からアオサギが止まる樹種を見ていくと、マツ、モミ、スギ、クロマツ、ヒノキ、ケヤキ、ほかに常緑広葉樹林、屋敷林、神社の木、自然林とあるが、高木を選んで止まることがうかがえる。
 筆者の観察でも、アオサギは丘陵の中腹にあるモミの高木の天辺と麓のやはりモミの木の天辺を好みの休み場にしている。ダイサギ、コサギは川近くのヤナギなどの梢に止まることはあるが、水辺から離れた木に下りているのを見ることはほとんどない。
 というわけで、アオサギは樹種を選ばないものの、そのあたりでもっとも高い木を選んで止まる、あるいは営巣する傾向があるということになる。羽黒山の白鷺はアオサギ、と結論しよう。
 さて、なおもアオサギの立ち位置にこだわっていく。そこで、
つぎのテーマは、アオサギはどこに立つか
 川の中にひとり立ち続けるアオサギ。なぜそこにいるのか。


9月下旬の野鳥 平井川と多摩川の一部

2007年10月08日 21時00分55秒 | 野鳥の日録
カオグロガビチョウ S
セグロセキレイ S
ヒヨドリ 幼鳥も。
トビ
キジバト S
ガビチョウ S
ハシブトガラス
シジュウカラ
モズ S 高鳴き。
カワウ 1羽上流へ飛ぶ。
スズメ
カイツブリ 2羽多西橋上流100mに。
キセキレイ
ハシボソガラス
カルガモ
アオサギ
ダイサギ
カワセミ
ドバト
メジロ
コゲラ
カワラヒワ
オナガ
バン 3羽。
ウグイス S 草叢のなかで弱々しく鳴く声が聞こえる。

9月下旬の花 平井川と多摩川の一部

2007年10月08日 20時54分50秒 | 植物の日録
ヒガンバナ
メヒシバ
ツユクサ
ツルボ
カタバミ
ヒメジョオン
イヌタデ
ヒメムカシヨモギ
キクイモ
ウド
カナムグラ
ヨモギ
ハキダメギク
ハルノノゲシ
カゼクサ
タカサブロウ
メマツヨイグサ
アサガオ
オシロイバナ
カワラケツメイ
オオニシキソウ
ニラ
ゴーヤー
ナス
アレチウリ
ミズヒキ
ハナタデ
チヂミザサ
チカラシバ
ツリフネソウ
アオミズ
クコ
ススキ
ギンミズヒキ
ママコノシリヌグイ
イタドリ
マルバルコウ
ヌカキビ
ヘクソカズラ
コセンダングサ
ヒヨドリジョウゴ
クズ
アキノノゲシ
クサギ 花の残り。
アオジソ 畑の。
オクラ 畑の。
センニンソウ
コゴメガヤツリ
オオバコ
カラスウリ 花の残り。
アカネ
ヤマブキ 返り花
イヌガラシ
スズメノヒエ
コナギ
ヒメクグ
ヒデリコ
タマガヤツリ
ヒメジソ ●イヌコウジュのまちがい。
エノコログサ
アメリカセンダングサ
ミゾソバ
シラネセンキュウ
ヤブマメ
イラクサ
クサノオウ 花の残り。
ダンドボロギク
サルスベリ
スズメウリ 実もできている。
コニシキソウ
ヤブミョウガ 花の残り。
ジュズダマ 実もできている。
ムラサキツメクサ
アカバナユウゲショウ
オオイヌタデ
ノアズキ 実もできている。
メドハギ
アブラススキ
カラスノゴマ
ハグロソウ
キツネノマゴ
ヌスビトハギ
キンミズヒキ
ヒヨドリバナ
シラヤマギク
フシグロセンノウ
ノダケ
ノコンギク
セイヨウタンポポ
ハナゾノツクバネウツギ
ムクゲ 人家の。
ムシトリナデシコ
ツルヨシ 咲き始め
ソクズ 花の残り。
ワルナスビ
カタバミ
ブタナ
アオツヅラフジ
トダシバ
ヒロハホウキギク
ツリガネニンジン
ノコンギク
アキノエノコログサ
コシオガマ
シロノセンダングサ
ゲンノショウコ
アキノキリンソウ
オガルカヤ
ナルコビエ
ユウガギク
ナンテンハギ 堤防の外側斜面。