goo blog サービス終了のお知らせ 

ケガレの起源と銅鐸の意味 岩戸神話の読み方と被差別民の起源 餅なし正月の意味と起源

ケガレの起源は射日・招日神話由来の余った危険な太陽であり、それを象徴するのが銅鐸です。銅鐸はアマテラスに置換わりました。

「逆白波」について

2008年07月13日 09時26分48秒 | いろんな疑問について考える
「逆白波」について
『和歌の歴史』(藤田福夫、阿部正路編 桜楓社 昭和47年)に収録されている「和歌と方言」(川本栄一郎)のなかで、川本氏は茂吉の郷里山形県の方言と思われるものは、「啄木鳥(けらつつき)」「南蛮啄木(なんばんけら)」「雨啄木(あまけら)」「逆白波(さかしらなみ)」だけであると述べている。
 しかし、「逆白波」については『散歩の手帖』17号のほっとすぺーす(№49)「茂吉のアマケラ」の中では鳥以外の方言なので、さしたる興味もなく、取り合わないでいた。ところが偶然にもその後、『日本語の世界』第1巻『日本語の成立』(大野晋 中央公論社 昭和55年)の月報を読んでいたら「逆白波」の由来が出てきた。月報は大野晋と丸谷才一による対談で、題は「鴨子と鳧子のことから話ははじまる」。その中から「逆白波」のところだけを紹介する。
 「逆白波」という言葉が出てくるのは茂吉の歌集『白き山』にある「最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも」で、知らなかったが、この歌かなり有名らしい。丸谷の発言では「現代和歌の最高峰ということになっているんですね」という。以下、丸谷の発言、
この歌にはちょっとしたゴシップがあります。疎開で故郷へ帰っていた茂吉が、弟子の結城哀草果と二人で最上川のほとりを散歩していたときに、哀草果が「実は冬の最上川の三角の波を形容するうまい言葉を見つけたんです」と言って、「逆白波」という新語を披露した。するとやや先を歩いていた茂吉が振り向いて、こわい顔をして、「私がその言葉を使って歌を詠むまで、おまえは使ってはならない」と言った(笑)。それで哀草果は、師の言葉を守って、茂吉がこの歌を詠むまで使わなかったんです。つまり、弟子から言葉を一つまきあげたわけですが、(以下略)
ということは、「逆白波」は方言ではなく、結城哀草果の造語ということになる。ただし対談の記事なので出典が書いてない。哀草果の著書にあるのだろうか。それで、なにかヒントはないかととりあえずインターネットで検索してみたら、話がいくらか違ってきた。
 「逆白波」で検索するだけで、茂吉の「最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも」の歌に関して1240件ヒットした。そのなかで、つぎのHPを紹介する。
e:-yamagata.com やまがたの暮らしまるごと応援サイト「い~山形どっとこむ」
の中の「プリズム 最上川に想う」著者は帝京大学教授、小山茂樹氏となっている。
帝京
山形県の生んだ最大の歌人、斎藤茂吉の歌に
 「最上川逆白波のたつまでに ふぶくゆうべとなりにけるかも」
というのがある。この歌が生まれた背景を、茂吉に私淑した板垣家子夫はその著『斎藤茂吉随行記』のなかで、次のように紹介している。
 昭和二十一年二月下旬のある激しく吹雪く日の午後、茂吉が疎開先の大石田(北村山郡大石田町)で最上川にかかる橋を弟子の結城哀草果、板垣家子夫らと渡ったときである。
最上川には鳥海山おろしの強い北風が吹きつけ、川面に白波が立っていた。家子夫はこれを見て、何気なく言った。
「先生、今日は最上川に逆波が立ってえんざいっス (おります)」
 茂吉はこれを聞くと思わず歩みをとめ、家子夫の腕を引っ張るようにして言った。
「君、今何と言った」
「はあ、今言ったながっす。はいっつぁ最上川さ、逆波立っているつて言ったなだっす」
 茂吉はにらむようにして、強く言った。
「君はそれだからいけない。君には言葉を大切にしろと今まで何度も語ったはずだ。君はどうも無造作過ぎる。そうした境地の逆波という言葉は君だけのものだ.....大切な言葉はしまっておいて、決して人に語るべきものではないす」(以下略)

 これによると、「逆白波」ではなく、「逆波」で、しかも言ったのは一緒にはいたが、結城哀草果ではなく板垣家子夫となっている。それにしても、たんに「逆波」だったらふつうに使う言葉ではないのか。なぜ茂吉はこんなに強く反応したのか。それとも「逆波」をいっしょに聞いていた哀草果が後になって手を加えて「逆白波」と創り、茂吉に披露したのか。
 それはともかく、いずれにしても「逆白波」は方言ではないし、茂吉の造語でもないことは確からしい。

奥十山美濃の山 ―「木曽」の語源について―

2008年07月13日 09時21分07秒 | いろんな疑問について考える
奥十山美濃の山
―「木曽」の語源について―
 『万葉集釋注七』(伊藤博 集英社文庫ヘリテージシリーズ 2005年) を読んでいたら、こんな歌に出会った。
№3242 ももきね 美濃の国の 高北の くくりの宮に 日向ひに 行靡闕矣 ありと聞きて 我が行く道の 奥十山 美濃の山 靡けと 人は踏めども かく寄れと 人は突けども 心なき山の 奥十山 美濃の山
 奥十山美濃の山(おきそやま みののやま)というくだりで、もしかすると「木曽」はこの「おきそやま」から出た地名かな、と思った。美濃と木曽では岐阜県と長野県、でも都から来れば美濃の奥に木曽があるからひと続き。地名学のほうではどういっているのだろう。早速手近にあった『新しなの地名考』(信濃毎日新聞社編発行 1975年)をひらくと、「14木曽」(生駒勘七)の項でつぎのように記述している。
「きそ」の語源について「ソは熊襲、蝦夷のソと同じ」(南流別志)「良材の多いところだから木育つの略」(木曽名跡志)「キは生糸、生絹、生酒などの生で、ソは麻の古語であって生苧(きそ)である」(木曽古道記)などの説が、江戸時代に編纂された郷土誌にみられるが、木曽林政史の権威である徳川義親氏やアイヌ語学者の山本直文氏などはアイヌ語説をとり、木曽はキ(大きな禾本科植物)ソ(スプと同じく激流、瀑流)だとして、木曽川の急流にもとづく地名としており、これをとりたい。
 どれも一見して単なるこじつけのようにみえる。特にアイヌ語説にいたっては、キ(禾本)とソ(激流)が単純に結びつくなど、アイヌ語の地名の成り立ちを無視して同音を合わせただけの解にみえる。東北以南にアイヌ語地名が広く分布していることは認められるが、こんな地名解はないだろう。しかも、「これをとりたい」と言っているように、次のページでは「先住民によって「きそ」と名づけられた木曽谷にも~~」ともう決めてかかっている。
それはもういいとして、もしかすると、「木曽」の語源は不明かもしれないと思い、図書館で地名辞典を見た。そうすると『日本歴史地名大系20長野県の地名』(平凡社)では語源についての記載が無く、『角川日本地名大辞典20長野県』(角川書店)では、『大日本地名辞書』(吉田東伍)から次の部分を引用している。
木曽の名義は木麻にて、麻を古語曽と云へる例多し、今も麻を曽と云ふ方俗あり、此曽は元来麻草なれど、木曽と云へばシナノキ(菩提樹)の樹皮より造りたる糸、并に織布を指せる如し。即木曽は信濃(しなぬの)と同じく、樹皮に採りたる織糸に起因せる名歟。
麻のことを古語で曽というからといって、それなら曽は元は草の麻のことだから、木の曽なら木曽だという。つまり木曽とはシナノキからとった糸や織布のことだろう、と言う。だから信濃の語源である「しなぬの」つまりシナノキからつくった布の意と同じく、木の皮から採った織糸というのが「木曽」の語源であるといっている。これもちょっと無理があるのではないか。
 というわけで、自分で考えてみるのだが、もうすでに美濃の奥に木曽があるから「おきそやま」。その頭が落ちて、木曽という地名ができた、という単純な説にすぎない。
 実は「おきそやま」には、「奥十山」と「奥礒山」のふたつの字を当てている。岩波古典文学大系本によって原文をみると、先のは「奥十山」で「おきそやま」、後のは「奥礒山」で「おきそやま」と読んでいる。そして頭注には「奥十山―諸説がある。長野県西筑摩郡の木曽の山(昔は美濃国恵那郡に属す)、滋賀県坂田郡と岐阜県不破郡・池田郡との境の伊吹山、岐阜県多治見市と可児郡姫治村との境の高社山など」と一応木曽の山もあげている。ところが、岩波新日本古典文学大系本になると「所在地未詳」となっている。旧大系本ではどこか特定の山の名前であるらしいと考えているようだが、これは美濃の奥一帯の山々とみたほうがいいと思う。
 「奥十山」は新潮日本古典集成本『萬葉集』でも所在未詳としている。
小学館の日本古典文学全集本『萬葉集』では同じく所在未詳として、「可児郡可児町久々利の東南約2.3kmの浅間山(374m)とする説、多治見市の西にある高社山とする説などがある」と、やはりどこか特定の山を想定している。
 そこで私見を述べると、「奥十山」の「奥」は「沖」と同義。海のかなたも「おき」というが、山の奥を「おき」という表現があるし、現代の方言としても各地で使われている。たとえば、群馬県新潟県の国境にある谷川岳のオキの耳とトマの耳。谷川岳は双耳峰で、南側の峰を手前とみているのか、一般コースの西黒尾根から登っていけば「トマ」つまり「とまくち」の峰がトマの耳。奥がオキの耳になる。谷川岳の南東20kmほどにある上州武尊山の最高峰は沖武尊(おきほたか)という。いちばん奥まったところにあるという意味だろう。
「奥十山」の「十」は三十路、四十路の「ソ」と同じ読みで、たとえば多くの神々を意味する「八十神」(やそかみ)の「ソ」とも同じ。「八十島」「八十隈」という表現もある。とすれば、奥の十の山で、奥に十にも連なる多くの山をなす美濃の山、という意味になる。
 あとの「奥礒山」の「礒」は「磯」に通じる。「礒」は『角川新字源』によると、「石やいわおなどが突き出ているさま」となり、この場合なら奥にあるゴツゴツした険しい山といったところだろう。字を当てるさいに歌の意味を斟酌して「奥十山」「奥礒山」としたと思われる。万葉集の多くの歌は声に出して謡われ、耳で親しんでいたはずだから、漢字ではなく「おきそやま」と聞いていたはずで、最初の「お」は接頭語のように聞こえていただろう。会話のなかで使っているうちに元の意味が薄れ、「おきそのやま」だったり「きそのやま」だったりして、「お」が脱落して「きそ」が残ったと考えられる。
 また、地名辞典に説くように木曽地方は当時、美濃の国に属していたことがわかっている。だから「我が行く道の 奥十山 美濃の山」で意が通じる。

 折口信夫の全集第6巻『萬葉集辞典』では、「お―きそ―やま(大木曽山)信濃国西筑摩郡。木曽川に添うて作つた信濃道の沿道の山」としており、信濃路沿道とかなり範囲を限定した意味に解釈している。これでは、№3242の歌の奥の山々、美濃の山々といった広さが失われる気がする。
 『萬葉集事典』(佐佐木信綱 平凡社 1970年)では、(おきそやま 奥十山・奥礒山 未詳(1)信濃国西筑摩郡大吉祖庄の山。大吉祖は木曽谷の中央以南を指す。(2)「お」は接頭語。単に木曽の山の義。(3)美濃国可児郡久々利村の浅間山を主峰とする一帯の山か)と3つの説を挙げている。(2)の「単に木曽の山の義」でいいと思う。ただ、語源の成り立ちの順序からして、現在の木曽地方もふくめた美濃の山、美濃の奥の山々である奥十山がのちに「きそ」(岐蘇、吉蘇、吉祖、木曽)といわれるようになったわけで、「きそ」という地名よりさきに奥十山という言い方があったはずだ。『万葉集釋注七』(伊藤博)でも№3242の歌はかなり古くから伝承されていたのであろうと推定している。
 さきに取り上げた『大日本地名辞書』(吉田東伍)にしても、「美濃(岐阜)可児郡」の「泳(くくり)宮址」の項で、「奥十山は木曽の山山にて、三野山も此地方の山、何峰となく、広く指したる也」と言っているのだが、奥十が木曽になったとは考えなかったらしい。

因幡の兎は白いのか 後篇

2008年07月13日 09時19分49秒 | いろんな疑問について考える
 そもそもこの「因幡の素兎」の話では、兎が白い必要があるだろうか。古代は白い動物が現われると祥瑞として尊ばれた。「因幡の素兎」も「おおなむちのかみ」、こと大国主命に助けられた兎が、八上比売(やかみひめ)を娶るのは他の兄弟神たちではなく貴方だ、と予言するのだから、その兎はただものではない。だから白いのだと「白兎」説派はいう。
しかし、祥瑞というのはあくまでもそれが稀に出現するケースだからだ。祥瑞の例としては白いカラス、白い鹿、白い猪などがあるが、これらはおそらくアルビノによる色素欠乏の動物が現われたのを捕獲して朝廷に献上したのだろう。
なるほど、因幡では白い兎は稀にしか現われないのは確かだが、逆に言えば稀には現われるということも確かなのだ。それに『古事記』が編纂されたのは現在の奈良である。奈良地方はさきに紹介したように、冬に白い毛になる野兎の南限地帯よりも南にある。しかし、なんといっても当時の都でもあるのだから、各地のさまざまな物資が集まることを思えば、白い兎の毛皮だって珍しくなかっただろうことは想像できる。まして和田山―福知山―綾部の線を東へ辿れば、丹波と若狭の山岳地帯、奈良から数10kmにすぎない。そんなことを考えていたら、白い兎の毛皮が珍しくないことを裏づける記事がたまたまみつかった。
清少納言が兎の毛の筆を好んでいたという書き出しの話が新聞に載っていた。「筆③ 歴史たどれば紀元前?」(安部美香子 朝日新聞 2008年2月22日夕刊)。それによると、現存最古の筆は正倉院にある17本で、8世紀のものだが、聖徳太子の書は7世紀、筆跡の見える土器片なら2~3世紀からあるという。さらに、状況証拠として、紀元前1世紀とされる硯が島根県の田和山遺跡で出土しているのだという。
そこまで遡らなくても、『考古学雑誌』第73巻第2号、「飛鳥時代初期の陶硯―宇治隼上り瓦窯跡出土陶硯を中心として」(杉本宏 1987年)によると、「陶硯を出土した遺跡は南は九州から北は東北に至るまで778遺跡あり、資料総数はおそらく数千個に及ぶであろう。しかし、この膨大な資料の大半は奈良時代以降のもので占められており、飛鳥時代に遡るものはきわめて少ない」と述べている。だから奈良時代初期の『古事記』編纂のころはまだあまり多くはなかったかもしれないが、それらの硯とともに、兎の白い冬毛を使った毛筆が存在したことはまちがいないだろう。それが奈良だけでなく、「南は九州から北は東北に至るまで」ひろく使われていたことも想像できる。
ほかにも用途はいろいろあろうが、毛筆の材料としても、兎の白い毛皮が奈良の都に恒常的に運ばれていたにちがいない。
清少納言の話だから、こちらは京都だが、新潮日本古典集成『枕草子』一本十四をみると、「筆は、冬毛。使ふも、見目もよし。兎(う)の毛。」となっている。兎の純白の冬毛が好まれたことがわかる。というわけで、珍しくもない白い兎では説得力がない。
それでは当時、どんな動物が祥瑞としてあつかわれたのかを見てみよう。ちょうど都合のいい資料がみつかったので、それを利用する。
「祥瑞小考」(村田幸久『生活文化史』12号 日本生活文化史学会 1987年に所収)には、『続日本紀』(延暦16年、797年成立)にしるされている祥瑞を一覧表にまとめている。『続日本紀』は697年(文武1年)から791年(延暦10年)までの編年史である。そのなかから動物に関する祥瑞だけをひろってみると、神馬、八蹄馬、白燕、白烏、赤烏、白鳩、白鹿、黒狐、白雉、白狐、白鴿、霊亀、白亀、白鼠、白雀、亀、蚕?、赤雀があった。
兎も白兎もない。
楽ができたので、ついでに『日本書紀』もみていくことにした。原文ではとても読めないので、『日本書紀 全現代語訳上下』(宇治谷孟訳 講談社学術文庫 1988年)を読んだのだが、祥瑞に現われる動物のなかにやはり白兎はなかった。祥瑞ばかりではないが、一応色で形容した動物をあげておくと、白鹿、白い犬、白鳥、赤い猪、赤馬、白い鵜、白猪、白雉、白雀、白狐、白燕、白馬、白鷹、白鵄(トビ)、赤烏、白い鵐(しとど、ホオジロ科)、朱雀、白い茅鴟(フクロウ)、赤い亀、白い鵞鳥、白い山鶏、白い蝙蝠があった。
結局、神代から奈良時代の終わりごろまでの間、正史のうえでは兎が朝廷に祥瑞として献上されたことはなかったわけだ。それはなぜか。前述したように、白い兎など珍しくないからだ。
しかし、もっと後の時代ではどうなのか。ほんとうに祥瑞の白兎はないのか。『延喜式』(905~927年完成)治部の最初に「祥瑞」の項があり、種類がまとめられている。これは唐の「開元七年令」の祥瑞をほとんど引きうつしたものということで、兎では「飛兎」と「白兎」が載っている。「白兎」は「月の精なり、その年は千歳」だという。だから、白兎が祥瑞としてあつかわれ、歴史書に載っていてもいいわけだ。
『延喜式』までの歴史書をまさか全部みるわけにはいかないし、と躊躇していたところ、『六国史索引』という便利な本がでていることを知った。そのなかの『日本三代実録索引』(六国史索引4 吉川弘文館 1969年)にただ1件だけあった。「白兎 天慶元年五月九日。」さてこの白兎はどこに現われたのか。
新訂増補国史大系の『日本三代実録』後篇をみると、「三代実録巻三十一 陽成天皇」の項に天慶元年五月「九日己酉。大宰府言。肥後国獲白兎一。」と出ていた。肥後の国、熊本県で現われたということは、冬にも白化しないキュウシュウノウサギであるから、これはアルビノにちがいない。九州で白兎なら祥瑞としてあつかわれても納得がいく。
しかし、奈良の都近くには現われなくても、丹後、丹波の山へ行けば、冬には白兎が獲れる。それより北へ行けば、当たり前に存在する。ただ「因幡の素兎」の話はガマの花咲く初夏の話だから、そこへ白兎が現われたのなら、アルビノの白兎ということになる。だから「因幡の素兎」はアルビノだから白いのだといわれれば、屈せざるを得ない。しかし、祥瑞は『古事記』の少なくとも神代篇においては当てはまらない。これについては後で記す。
『野兎の民俗誌』(天野武 岩田書院 2000年)を見ると、各地の聞き取り調査のなかに冬に白くなる兎の比率が記録されているものがある。
それによると、富山県東砺波郡上平村では「100羽中3、4羽程度」白くならない兎がいるという。そこから南東へ山を越えて約50kmはなれた岐阜県大野郡丹生川村では冬に9割程度が白くなるという。丹生川村からさらに両白山地を越えて西南西へ約80kmいった福井県今立郡池田町では白と「夏毛とさほど変わらない毛色」との比率は3対1程度という。
このあまり広くない地域間での冬毛への変化の差は、さきに紹介した「日本の哺乳動物」(朝日稔)にいうところの、「地理的よりも気候的な差」がかなり明確に現われているようだ。それは雪の深さや冬の厳しさを反映しているようにみえる。さらに池田町から西南西へ100km以上いくと兵庫県と京都府の「和田山―福知山―綾部より北では白化し、南では白化しないが、中間には斑もある」という冬毛地帯と夏毛地帯のある程度の幅をもった境界地域となる。
そしてそれが山陰地方になると稀に冬毛が現われることがあるという程度になる。しかし奈良の都を中心に全体的にみると、白い兎は平凡な存在でしかない。
 千葉徳爾氏の説く山陰地方の白兎についての民間信仰も、数年に一度の大雪や厳しい冬を白兎に象徴させて、「この冬はことさら寒いから、あるいは雪が多いから警戒せよ」という山仕事への警告の意味が信仰の形をとり、それが「因幡の素兎」の兎神に結びついたとも考えられる。
 さらに、『古事記』のなかには多くの動植物が現れるが、祥瑞とみとめられるできごとは仁徳天皇の条にある雁が卵を産んだ、という話まで出てこない。これは日本で越冬するガン類が産卵したというので、めでたいまえぶれ、吉兆とされた話である。『日本書紀』『続日本紀』には多くの祥瑞が記録されているのとは対照的に『古事記』では少ない。
 そのほかにおもに白だが、動物が色の表現を伴って『古事記』に現われる現象には、つぎの例がある。
オホナムジ(大国主命)の話に赤い猪。赤い猪というのは実は真っ赤に焼けた大岩で、それが山の上から落とされてオオナムジは死んでしまう。
ヤマトタケルの話に白い鹿。ヤマトタケルが東国から都へ帰るとき、足柄で坂の神の化身である白い鹿が現われる。邪気を祓うとされる野蒜を投げつけると、目にあたって鹿は死んでしまう。
ヤマトタケルの話に白い猪。伊吹山の山の神を討ち取りにいき、途中で白い猪に出会う。この猪をヤマトタケルは神の使いだと思い、帰りに殺してやろうと、そのまま登っていったが、実はこれは山の神そのもので、激しい氷雨を降らせてヤマトタケルは衰弱してしまう。
オホハツセワカタケル(雄略天皇)の話に白い犬。この部分は小学館の日本古典文学全集から引用する。「河内にいる若日下部王を妻問いに行く途中、雄略天皇は皇居に似た家造りをもつ志幾の大県主の家を見て怒り、その家を焼き払おうとしたが、大県主は謝罪の品を(これが白い犬)献上して焼かれずにすむ。天皇は手に入れた品を結納として若日下部王に贈った」。
そのほか、ネズミ、ワニ、ヤタガラスは神々を助けてくれたという話になっているが、それらは白くない。つまり白い○○が現われたので、これは祥瑞である、吉兆であるという表現やそういう扱いはひとつもない。それは祥瑞思想が中国由来だからだろう。白い犬というのが求婚に登場するという点で吉兆を現わしているといえると思うが、この話は仁徳天皇から五代あとの話になる。
また、オホハツセワカタケル(雄略天皇)の話の冒頭には「河瀬の舎人を定めたまひき」とあるが、その理由は明らかにしていない。これは頭注にあるように、『日本書紀』雄略天皇条のはじめに「白い鵜が田上川にいるという報告があったので」それを祥瑞として舎人を置いたというものだ。しかし、白い鵜を祥瑞としたことは『古事記』には記していない。
このように、ほぼおなじ時代に書かれた『日本書紀』『続日本紀』は中国の史書を範にしているとされるが、それに対して『古事記』は、特に上巻の神代の巻はもっとも古事記的な部分で、おおいに位置づけがちがう。
これについて、たとえば「古代伝承とその歴史化」(和歌森太郎『民俗文学講座4 古代文芸と民俗』に所収 1971年)では記紀の内容について、「個々の素材というか資料となったものについては、古くからの伝承もあるのではないか、つまりそこには、編纂の当時からみて、やや古いもの、かなり古いもの、すこぶる古いものなど、さまざまにまじっているのではないか」と述べている。もちろん『古事記』の神代の巻は「すこぶる古いもの」ということになる。そして別のところで、「同じく伝承的な要素を含んでいる記紀ではあっても、古事記の方が素朴なものを、つまり政治的に粉飾されないものを多分に盛り込んでいることを感じさせる」と述べている。
また、小学館の日本古典文学全集本の『古事記』下巻、仁賢天皇のところで、頭注につぎのように記している。
仁賢天皇から以下の記事は系譜を中心とした帝紀だけであって、旧辞といわれる物語や歌謡は全く含まれていない。これは『古事記』の編述の方針や態度が、儒教や仏教の大陸文化の洗礼を受けない、もしくはその洗礼の少ない民族本来の原点に復帰しようとする復古的精神によるものであろう。欽明朝以後の絢爛たる仏教文化のことも、推古朝の聖徳太子の偉大な治績のことさえも『古事記』は全く黙殺している。それほどこの書は民族の伝統文化を重んじている。
そのような『古事記』の、そしてなかでも神代の巻に中国の祥瑞思想のあらわれである「白い」兎を持ち込むのはまちがいではないか。
ではなぜヤマトタケルの話の白い鹿、白い猪はいいのか。それは神そのもの、あるいは神の化身は、特別の色、なかでも白い姿で現われるとされるからだ。だから、因幡の兎も白かったなら「白兎」でよかったはずだ。なにも思想大系本の頭注にいうような、「なお「素烏」(白いカラス。文選、両都賦)、「素鶴」(白いツル。王勃詩)、「素狐」「素魚」などのシロは、烏・狐など通常の色と異なるものであり、素魚には祥瑞がある」から「素」を「シロ」と読んでいいという、中国の祥瑞思想を取り入れる必要はなかったはずだ。さきに記したように『古事記』の、特に神代篇にそうした考え方を持ち込むのはまちがいではないか。
しかし、兎は白くなかった。だから「白兎」とせずに「素兎」と記した。
 さらに、もっと「白」兎とせずに「素」兎の漢字を当てたことについて考えてみよう。それには「素」の字がどう読まれた可能性があるか、それがいくとおりの意味に解されるかを考えることになる。
 「素」の読みは「ス」「ソ」「モト」があり、そのほか素人、素魚などの場合の「シロ」がある。まず「ス」と「ソ」について考えてみよう。漢和辞典によると「ス」と読むのは呉音、「ソ」と読むのは漢音だという。
 日本に入ってきた順序では呉音の「ス」が先で、漢音の「ソ」が後になる。『日本古代語と朝鮮語』(大野晋編 毎日新聞社 1975年)によれば、「使っている字音にしても、『古事記』は呉音系の字音で統一してあるのに、『日本書紀』のほうは当時の洛陽、長安の都で使っている北方音にできるだけ切りかえて書いているわけですね」(大野晋)と語っている。
また『書の古代史』(東野治之 岩波書店 1994年)では「万葉仮名で使われる漢字音は、古い時代の例とは違い、だいたい同時代の中国の標準音か、いわゆる呉音で解釈できるものがほとんどである」と説明している。
 そうすると、『古事記』の場合、「素」は「ス」と読むのがふつうということになる。「ス」の兎ではなんとなくしっくりこないが、「ス」の意味は素顔、素肌、素裸の「素」、なにもつけていない、の意になるから、皮を剥がされた「因幡の素兎」の内容に合っている。だから素兎は「スノウサギ」と読むべきだ。といいたいのだが、『古事記』をみているうちに、「ソ」と読む箇所に出会った。
 それは中巻、応神天皇条で、小学館の古典文学全集本の訳文によると「また技術者である朝鮮の鍛冶で名は卓素(たくそ)という者、それに呉出身の織女の西素(さいそ)という者の二人を献上した」という箇所だ。新羅や百済から馬、太刀、鏡、『論語』『千字文』、いろいろな技術者などがもたらされたという内容の部分で、卓素、西素の素はそれらの技術者のもとになったというほどの意味か。とすれば、ここでは漢音の「ソ」、つまり元素、要素、素因、素材などの素であるから、本来の、もとの、まじりっけのない、といった意味で「素」(ソ)が使われていることになる。
 さらに、『古事記』序のなかでも「素」を「ソ」と読む例がある。それは序のはじまりの部分で「太素(たいそ)は杳冥なるも、本教に因りて土を孕み島を産みし時を識り、」(天地万物の初めの時代のことは、奥が深く暗くてはっきりしませんが、遺された本教によって、国土をみごもり島々を生んだ時のことを知り)という箇所があり、ここでは「太素」は天地万物の初め、すべてのおおもと、の意で使っている。
 こうなると「素」の読みは呉音の「ス」ばかりでなく、漢音の「ソ」も『古事記』ではまざって使われていることになる。もっとも『古事記』の序は後世に書かれたとの説もあるが、それは今は置いておくとして、そうすると大野晋氏のいうようには『古事記』は「呉音系の字音で統一」されていないし、「卓素(たくそ)・西素(さいそ)」のように漢音もまざっていることになる。朝日新聞2007年12月15日夕刊の「教科SHOW 中学校の歴史」をたまたま読んでいたら、「平城京」の読みについて「漢字の読み方は、呉音が初めに伝わり、後に漢音が入った。「へいぜい」は漢音だが、「へいじょう」は「じょう」が呉音。この時代は漢音と呉音を交ぜて読むことはなかったことを考えると」という文章に出会った。この時代とは『古事記』『日本書紀』成立の時代である。どうなっているのだろう。
ならば「素兎」は「モトノウサギ」、がいいのではないか、とも思う。「モトノ」は皮を剥がされる前のもとの姿である。
 この「太素」の読みは小学館古典文学全集本とおなじく岩波の古典大系本、新潮社の古典集成本も「たいそ」だが、岩波の思想大系本『古事記』では「太素」の2字で「モト」と読んでいる。ますます「モトノウサギ」と読みたくなる。
 辞書をひくと「素」(ソ)の字には確かに白の意味があることを説明している。たとえば『新明解国語辞典』第五版をひくと①生地のままで、手を加えてない状態。(飾り・着色が無い意。狭義では、白色の意に用いられる)、という説明がある。『広辞苑』第五版では①白色の絹。また、白色。無地。「素絹・素服」、と白色を強調している。『日本国語大辞典』では「①彩色を施してない生地。しろぎぬ。生絹。②白色。白。③かざりけのないこと。(略)」として白色を第二義にしている。
いずれの辞書にも「素」には「白」の意があることを説明している。しかし、ただもう無条件に白いのか、真正に白いのかというとそうではない。手を加えてないから、彩色してないから、生地のままだから、それを白いといっているのだ。それは「素」の本来の意味を反映したその結果としての白で、色として「白い」といっているのではない。『新明解国語辞典』第五版が「狭義では、白色の意に用いられる」というように、本来の意味の延長したさきに副次的に派生した意味で「白い」のだ。
だから、「因幡の素兎」の読みは、編纂当時、裸にされた兎の話だから「スノウサギ」、またはもとの毛にもどった兎の話だから「ソノウサギ」または「モトノウサギ」のいずれかだったのではないか。それが、「素」の字から派生した意味である「白」が冬毛の白いエチゴウサギの白と一致して白い兎のイメージを強くしていき、白い色の持つ神々しさや、祥瑞思想の影響をうけて「因幡の素兎」は白い兎ということになっていったのではないか。
『百分の一科事典 ウサギ』によると日本海側では海上の白波のことを「うさぎ波」と呼び、時化の前兆だという。夏、静かな日本海も冬にはシベリアからの季節風で大荒れになる。「うさぎ波」というのは、この波の白さをエチゴウサギの冬毛の白さにたとえたものだろう。
またおなじく『百分の一科事典 ウサギ』で謡曲『竹生島』では月光が波に映っているさまを「兎も波を走る」と表現するという。そこから生まれた能衣装の紋様に「波兎文」「花兎文」などがあり、どれも白兎になっている。『竹生島』は伝・金春禅竹の作といわれる。禅竹(1405~1468年)は室町時代の能役者・能作者。
江戸時代の日本画にもしばしば兎が登場するが、やはり白兎のほうが好まれるためか、季節はあきらかに冬ではないのに、白兎であったり、茶色の夏毛の兎と共に白兎が描かれていたりする。このように、明治初年の飼い兎の普及を待たずとも、「兎は白がよし」とする認識が古くからひろく共有されていたとみえる。「因幡の素兎」もそうした人々の好みを反映して「白兎」になっていったのではないか。


因幡の兎は白いのか 前編

2008年07月13日 09時18分19秒 | いろんな疑問について考える
因幡の兎は白いのか

 早朝散歩をする平井川に、一箇所だけガマの生育地がみつかった。平井川は多摩川の支流で、よく歩く範囲は合流点から遡って草花公園までの3kmであるが、平井川沿いではいまのところこの一か所にしか見つかってない。
 ガマといえば思い出すのは因幡の白兎の話。♪蒲の穂綿にくるまれば、うさぎはもとのしろうさぎ♪ 歌の出だしを思い出せないので『日本唱歌集』(堀内敬三・井上武士編 岩波文庫 1999年)をひらいてみると、曲の題名は「大こくさま」、作詞は石原和三郎となっている。その3番は、
だいこくさま の、いう とおり、
 きれいな みずに、み を あらい、
がま の ほわた に、くるまれば、
 うさぎ は もと の、しろうさぎ。
という歌詞である。
 ところが岩波の日本古典文学大系『古事記』の因幡の白兎のところを見るとすこしちがっていた。「因幡の白兎」は「稲羽の素兎」で、しかも見出しと頭注の「兎」の字には上にノがつかない。変換できる漢字がない。本文の「うさぎ」の字は「菟」の字を使っている。正確にはこれもいくらか違うのだが。
それはともかくとして、唱歌では「蒲の穂綿にくるまれば」とあるが、もともとは蒲の花となっている。しかも、正確には雄花の黄色い花粉なのだという。それは蒲黄(ほおう)といって、昔から漢方でキズを治す薬だという。大国主命は医学的知識をもっていて、それも国を治めるものとしてふさわしい、ということを『古事記』のこの部分は物語っているのだという。おかげで兎は傷が癒えてもとの「素兎」(シロウサギ)になった。
 作詞者の石原和三郎が蒲黄ではなく蒲の穂といったのは、唱歌という性格上、わかりやすさを優先したのだろうか。それとも石原自身、ほぐれて綿状になる蒲の穂と思っていたのかもしれない。筆者もじつはそう思っていた。勘違いしている人も多いのではないか。じっさい蒲といってまず思い浮かぶのはあのチョコレート色をしたソーセージ形の穂だろう。あれが秋になると、ほぐれて白い綿のようになる。
 そこで絵本やインターネットでざっとみたら、因幡の白兎の話では、蒲の穂になっている絵や文章も多いが、ちゃんと蒲の花といっているものもあった。あんがい正確な絵本もあるのだった。
 それもまあいいとして、なぜ白兎なんだろう。ノウサギが白くなるのは冬のはずだ。ガマの花が咲くのは初夏。だからこの時期、兎はすでに夏毛になっているはず。だいいち冬でも、山陰あたりの平野部ではずっと雪におおわれているわけではないだろうから、白くなってしまっては、身を隠す都合上、兎も困るのではないか。
 これについてもいくつか絵本をみてみると、たいていは白兎が描かれており、なかには赤い目をした飼い兎がえがかれているのもある。飼い兎は西洋から入って、明治以後に普及した種類でアルビノつまり突然変異によってできた、色素のない、それで目も赤い兎なのだから、これはおかしい。なかには茶色い夏毛のノウサギが描かれている絵本もあって、正確といえば正確だ。そもそも、山陰地方のノウサギは冬に白い毛になるのだろうか。
 では、ノウサギの生態はどうなっているのだろう。『百分の一科事典 ウサギ』(スタジオ・ニッポニカ編 小学館文庫 1999年)によると、「ニホンノウサギ(ノウサギ)日本のノウサギの野生種。佐渡島、隠岐諸島、本州、四国、九州に分布する。本州の中部以北のものをエチゴウサギ(トウホクノウサギ)、南のものをキュウシュウノウサギとも呼ぶ」としている。白い冬毛になるのがエチゴウサギである。
『全集日本動物誌』第3巻に所収の「日本の哺乳動物」(朝日稔 講談社 1982年)の「ノウサギ」の項によると、冬に白化するかどうかは地理的よりも気候的な差で、「兵庫県、京都府で集めた資料では、和田山―福知山―綾部より北では白化し、南では白化しないが、中間には斑もあるようで、一線を引くわけには行かない。今泉吉典氏はこの境界は2月の平均気温が2度から4度のところとしているが、後に詳しい研究が大津正英氏の手で行われた」と述べ、その大津正英氏の研究を引用しているところによると、温度よりも日照時間だという。「大津氏は照明時間をいろいろにかえた巣箱でノウサギを飼育し、昼の長さが12時間以上あれば白化せず、逆に11時間以下では褐化しないことをつきとめた。つまり、眼から入る光が体内のホルモン機構に作用し、色素形成の酵素作用をコントロールしているとわかった」という。それでも「野生のままでは同じ日照時間でも、寒い地方にいるノウサギは白化し、暖い地方では白化しない。やはり気温にも関係があることを示している」と結論している。
 雪のあるなしについては言及がない。たとえば、日照時間が11時間以下になった寒い地方で、たまたま雪の少ない年にはむやみに毛が白くなってはこまるだろうに。
 さて、「因幡の素兎」はほんとうに白いのか。ことは神話だからなんでもあり、大真面目に考えても仕方がないと思いつつ、実は気になる記述があったので、さらに考えてみることにした。
 気になるというのは、岩波の古典文学大系本の『古事記』の頭注に本居宣長の『古事記伝』から引用して、「此菟の白なりしことは、上文に言わずして、此処にしも俄に素菟と云るは、いささか心得ぬ書きざまなり。故思に、素はもしくは裸の義には非じか。若然もあらば、志呂とは訓まじく、異訓ありなむ。人猶考へてよ。」と、「シロウサギ」と読むことに疑問を呈している。本文の読みでは一応「素菟」を「シロウサギ」とルビをふっている。
 ということは、宣長より以前には『古事記』の訓詁は部分的にしかされていないらしいが、「因幡の素兎」の部分では「素菟」はシロウサギと読んでいたわけか。
 ほかに「素菟」と書いて「シロウサギ」と読む『古事記』の注釈書や訳文はそうとう多いだろうが、つぎのものだけ挙げておく。
新潮日本古典集成本『古事記』をみると、「『古事記』では「しろ」は「白」の字を用いているが、ここのみ、「素」(しろ)の字である。それは「白兎」と書くと月の異名となるので、動物であることを示すために「素菟」と書いたもの。求婚や神事には白い動物を用いた」と説明している。
小学館の日本古典文学全集本では、「『古事記伝』は毛のない裸の兎と解したが、「素」は「素烟」「素石」などのように白色の意もあるので、やはり白兎と解するか」と白兎説を押している。「素」の意味については後でさらに考えることにするが、必ずしも色の白色とおなじ意味での「白」ではないと筆者は考えている。
 『口語訳古事記 神代篇』(三浦佑之訳・注釈 文春文庫 2006年)では「そこで教えのとおりにしたところがの、ウサギの体は元のとおりに白い毛におおわれたのじゃった」として、原文では言ってない「白い毛」という言葉をくわえている。その前、ワニに皮をはがされた箇所でも、「白い皮を裂き剥いでしまった」と、やはり原文にない「白い皮」をおぎなっている。でも、「素」を白い毛であるとする理由は述べていない。
 『古事記注釈』第3巻(西郷信綱 ちくま学芸文庫 2005年)では、岩波の大系本と同じく、さきに紹介した本居宣長の疑問を引用しているが、そのうえで「これはやはりシロウサギと訓む他あるまい。漢字「素」に裸の義は存しない」と断定している。しかし、「素」は素肌、素顔、素裸の「素」なのだから、裸の義そのものではないか。どうして断定してしまうのだろう。辞書にも「(名詞に付いて)①何も加えずありのままの。「¬¬¬―はだ」」(岩波国語辞典第二版)と説明している。
 『ビギナーズ・クラシックス古事記』(武田友宏・角川書店編 角川ソフィア文庫 2006年)では「白兎」としており、兎が白いことについては言及がない。この文庫本のカバーは古代にはいなかったはずの、白い毛に赤い目をした飼い兎が描かれている。
岩波の日本思想大系本では少し長く詳しく、次のように言っている。
『記伝』(『古事記伝』)は「素はもしくは裸の義には非じか」としたが、素には白色の意がある(例、素衣¬¬=白衣、素羽=白羽)ので白い兎と解してよい。「素」は名義抄にシロシの訓がある。なお「素烏」(白いカラス。文選、両都賦)、「素鶴」(白いツル。王勃詩)、「素狐」「素魚」などのシロは、烏・狐など通常の色と異なるものであり、素魚には祥瑞がある。素兎も同じような語構成で、神の使などの瑞獣の意を表わすか。記(『古事記』)の用字法ではシロは「白」で表わされるが、同じシロでも右のような特別な意味を持つために「素」の字を用いたのであろう。
 いくつか見てきたなかでも思想大系本では、複数の例を示して「シロウサギ」と読んでおかしくない証拠であるとしている。ここまで白の根拠付けをしているのだから、やっぱり白でいいのかな、と思ってしまうところだ。白兎に疑問を抱く立場としては分が悪い。しかし、「素」には「名義抄にシロシの訓がある」というが、名義抄、つまり『類聚名義抄』は平安末期の成立というから、その読みを奈良時代初期までさかのぼって当てはめていいかどうか。それに祥瑞についても、中国の思想をうけているから瑞獣は白いとしていいのだろうか。
 さらに、民俗のほうでも、白兎説を説くものがある。『日本史のなかの動物事典』(千葉徳爾他 東京堂出版 1992年)によると、「因幡の素兎」の伝承は、毛色が白いことが重要で、そこに古代人は神秘性を感じ、祥瑞を示すものと考えたのであるとする。そしてさらに
現代でも山陰地方の山間部には、白い兎を山の神の姿もしくはその使者として尊敬する風があり、これを捕えたり殺したりすることを忌む風が残っている。また、その姿を見た者には不吉な事が起こるとして、山の神の祭りの日に山に入ると白兎を見る。もし、それを見ればその人は命を失うとして、山の神の祭日に山に行くことを戒める土地もある。山の神の祭の日に山仕事に行くことを慎むのは全国的に知られた民俗であるが、その日に白兎を見るのがよくないという民間信仰が山陰地方に顕著であるという点は、この地域で野兎の毛色が季節的に変化し、しかもそれが年ごとに必ずしも一定せず、多雪の年と寡雪の年の変動が大きいこの地方として、兎の毛色の変化が冬季は必ず起きると限らない地域であることと無関係ではないように思われる。
と述べている。
たしかに民俗報告のなかにもそれは探し出すことができた。
島根県頓原町の例だが、『志津見の民俗 本文編・資料編』(島根県教育委員会 1990年)の「年中行事」の「山の神の日」の項に、「この日に入山することは禁じられていた。(略)山の神はシロウサギに乗っていると考えられており、この日にはシロウサギを捕ることはもちろん、見ることさえ忌まれていた」との民俗を報告している。
 それに対して、白い兎に疑問を呈している本は少ないが、宣長の『古事記伝』のほかにもあった。「素兎とは裸のウサギの意か、白ウサギの意か、意見が分かれている」とするのは『百分の一科事典 ウサギ』。それと、「「稲羽(因幡)の素兎」は、白い毛の兎ではなく、素裸にされた兎の意であることに、注意してほしい」とは『古事記のことば この国を知る134の神語り』(井上辰雄 遊子館 2007年)である。岩波文庫本の『古事記』も裸の兎として、白兎説もあり、としている。
 しかも、新潮日本古典集成本でも頭注で紹介しているように、兎や他の小動物がワニをだます話は東南アジアにその起源があるというのが、定説になっている。もちろんその地では兎は白くなかったわけだ。ワニももとは実際の爬虫類のワニだった。それが日本列島に話が伝わってきて、そこにはワニがいないので、代わりにサメをワニと呼んだということになっている。
 『古事記』以外にも別の白兎の話が『塵袋』にあると、古典大系本の頭注に紹介している。吉野裕訳『風土記』(平凡社ライブラリー、東洋文庫とも同じ)によると、「風土記逸文」に「白兎(因幡の白兎)」と題して『塵袋』から引用した話が載っている。そのなかでは、「因幡記をみれば」として、兎とワニの話がある。話のはじまりは違うのだが、ワニをだますところからは同じで、これも本文中では白兎とは言っていない。そうすると小見出しの「白兎(因幡の白兎)」というのはいつからついたのか。それを確認する必要があるので、つぎに『塵袋』をひらいた。
『塵袋』は鎌倉時代中期の作といわれる。『塵袋』の影印本である日本古典全集本をみると、小見出しは何もなく、目次ではただワニの数を数えるという意味で「読数」とうたっている。そして、やはり兎が白かったとの記載はない。だから「白兎(因幡の白兎)」という題は吉野裕氏が『風土記』をまとめたさいに、これは因幡の白兎の話だからと、そうつけたものである。
「因幡記」というのは現存していない。吉野裕訳『風土記』の解説によると、「現在風土記が残っているのはわずか五国分である。しかし鎌倉時代ごろまではかなり多くのものが残存していたらしいことは、平安末から鎌倉末にかけて輩出した古典注釈家や歌論家・神道家の著書に「何某風土記に曰く」として引用されていることから察することができる」としている。「因幡記」もそのひとつと考えられるわけだ。そうすると、『古事記』とほぼおなじ時代に因幡の『風土記』があって、そこにも「因幡の素兎」系統の話が伝えられていて、でも、やはり白い兎とは言ってなかった、ということになる。

「松(まつ)雀(め)」とはなにか 長塚節、方言名の鳥の歌

2007年10月21日 20時44分53秒 | いろんな疑問について考える
「松(まつ)雀(め)」とはなにか
長塚節、方言名の鳥の歌

 『長塚節全歌集』(佐藤佐太郎編 宝文館 昭和26年)から、鳥を詠みこんだ歌を見ていき、なかでも方言の鳥の名に注目してみた。ただ、方言なのか、鳥の古名として使ったのかわからない場合もある。節が方言で鳥の歌を詠もうという認識があったかどうか、明確ではない。たぶんそうした意識はなかったのではないかと思う。それというのは、節の作歌時期は明治29年ごろから大正3年までで、鳥学の世界でも、未だ鳥の和名はようやく統一されつつある時代だった。まして、一般のひとにとって学問的に正式であるかないか、などどちらでもいいことであるから、各地、地元地元でいわれていた名前を使っていただけのことであろう。
 しかし、古典にはかなり通じていたであろう節だから、トモエガモを「あぢむら」(あぢの群れ)とかカラスを「大嘘鳥(おおをそからす)」、カイツブリを「にほどり」など、万葉集や平安和歌にでてくる古名も使っている。
 たとえばカケスは「かし鳥」という古名を持つが、『日本鳥類大図鑑』第1巻(清棲幸保 講談社 昭和27年)では、方言としても栃木、静岡、三重、岐阜などの21県で採集されている。ただし茨城県はこのなかに入っていない。しかし、「かしどり」「かしとり」といった呼び方が周辺にあるので、おそらく茨城ではたまたま採集からもれたのだろう。だから古名であり、かなり広く行き渡っている方言でもあるわけで、どちらとも決められない場合がある。
 それはともかくとして、ここでは「松雀」(まつめ、と読む)とはなにか、について考えてみよう。「松雀」が出てくる3首、明治37年、「春季雑咏」と題して、
淡雪の楢の林に散りくれば松(まつ)雀(め)がこゑは寒しこの日は
明治38年、「炭焼くひま」と題して、「春の末より夏のはじめにかけて炭窯のほとりに在りてよめる歌のうち」と注記して、3首めに、
芋植うと人の出で去れば独り居て炭焼く我に松(まつ)雀(め)しき鳴く
明治40年、「四月十日横瀬夜雨氏へはがき」と注記して、
我庭の辛夷(こぶし)の雨にそぼぬれて松(まつ)雀(め)も鳴けど待つに来なかず
 「松雀」とはなにか。まず季節についてみると、最初の歌は春季、淡雪がまだ降るような寒い日もある早春であろう。2首めは「春の末より夏のはじめにかけて」とあるように、早くても晩春であり、この芋はサトイモであるらしい。種芋を植えるのであるから、もう冷え込むようなことはない時期といえる。前後の歌をみると、「棕櫚の樹の花」が咲いていたり、「なるこ百合」の花も咲き、初夏の様子に近い。3首めは辛夷の花だから、サクラの少し前あたり。いずれも節の地元、茨城の平野部のこと。
 そうすると、春先から初夏のころに茨城の平野部にいる鳥で、まつめという方言名を持つ鳥となる。『野鳥の事典』(清棲幸保)の74ページに鳥の歌を紹介するなかに、松雀のことを「コガラまたはヒガラと思われるもの」として、伊藤左千夫の「庭のさき森を小高み長鳴く松(まつ)雀(め)が声に霧晴れむとす」を載せている。しかしコガラもヒガラも山の鳥で関東の平野部では冬に現われる鳥で、しかもあまり多くはない。とくにコガラは冬でもほとんど山を下りない鳥であるし、節のこの3首のように親しげに詠われる存在ではない。かりにどちらかだとしても、もう棕櫚の花が咲くほどの陽気にもなっているのに、冬鳥が詠われるとは考えにくい。
 かといって、「松雀」が夏鳥にしては、まだ淡雪が降るほど寒い日もある時期にも詠われるのでは早すぎるだろう。この時期の夏鳥ではツバメかイワツバメくらいしか考えられない。そうすると、「松雀」は一年中いる鳥、留鳥ということになる。
 清棲の図鑑では、事典とちがってコカワラヒワ(現在の分類ではカワラヒワ)の方言として埼玉県のところに「まつめ」と出ている。「松雀」がカワラヒワなら、節の『全歌集』の108ページにカワラヒワの歌がある。
唐(から)鶸(ひわ)の雨をさびしみ鳴く庭に十もとに足らぬ黍垂れにけり
 この歌は明治38年9月20日、京都の詩仙堂での作歌。「からひわ」となっている。『図説日本鳥名由来辞典』によると「『大和本草 諸品図』のからひはの図はマヒワである」と記載されている。しかしこの節の歌はまだ9月で冬鳥のマヒワが渡ってくるには早すぎる。カワラヒワなら時期も環境的にも一致する。『清棲図鑑』ではコカワラヒワの項にからひわ、ころひわ、と各地で呼ばれていることを示している。カワラヒワは漢字では河原鶸と書かれるが、キリリ、コロロと鳴く声をから、ころ、と聞いたのが、からひわ、ころひわ、となったという説もあり、筆者もそれを支持する。それがよく河原にいるものだからカワラヒワとしたのだろう。
『清棲図鑑』のコカワラヒワの項には、ほかにも岩手県と愛媛県で、かわすずめ、とある。どちらも茨城県から遠すぎるのが気になるが、節の歌にもかわすずめが出てくる。
明治39年の作で「即景」と題して、
鬼怒川の堤の茨咲くなべにかけりついばみ川すずめ啼く
鬼怒川のかはらの雀かはすずめ桑刈るうへに来飛びしき鳴く
 ノイバラが咲き出すのは5月の上中旬、桑刈る、は蚕のえさに桑の葉を刈るのだから、これも初夏から夏で、カワラヒワなら矛盾しない。
 一方、ただの「鶸」を詠った歌につぎの3首がある。
菜の花は咲きのうらべになりしかば莢の膨れを鶸の来て喰ひ
かぶら菜の莢齧む鶸の飛びたちに黄色のつばさあらはれのよき
冬の木の林のなかにいちじろき辛夷の枝にひわ鳴き移る
 この3首の場合はマヒワも考えられる。菜の花は莢のふくれであるから、もうしばらく前から咲いている。かぶら菜もアブラナ科で、やはりダイコンのように春咲く花だろう。そして3首めは冬の景。だからカワラヒワでも矛盾はないが、マヒワも充分考えられる。
 けっきょく、「松雀」も「唐鶸」も「川すずめ」もカワラヒワらしい。「ひわ」だけがマヒワの可能性がある。そうすると、節はわざわざ一種の鳥を3通りに使い分けたのだろうか。「松雀」は松ではないが、樹木との組み合わせ、「川すずめ」は河原を好むカワラヒワらしさを表現するために。それと三十一文字の枠にあわせるためにまつめで3音、からひわで4音、かわすずめで5音と使い分けたと考えられる。

時鳥と山芋 後編

2007年10月19日 08時40分51秒 | いろんな疑問について考える
ヤマノイモをめぐる民俗
 かつて、あるいは地方によっては現在もそうかもしれないが、ヤマノイモは生活の中でどのように位置づけられていたのか。いくつか紹介してみよう。
○田植えが終わると「おおたを祝う」といって、ヤマノイモを掘ってきてとろろ汁を作り、田の神様に苗一束と一緒に供えお祝いをする。『植物民俗 ものと人間の文化史101』(長澤武 法政大学出版局 2001年)
○南部の五戸地方では、五月五日の前夜祭は大切な籠りの日で、必ず夕食には神にとろろ汁を供へる。とろろ汁は節供に食べなければならなかつたし、また家族が全部家にはいつてから戸口にこのとろろ汁を撒く、長虫(蛇)が家に入らぬようにといふ呪ひでもあつた。即ちこの地方の「戸窓ふさぎ」の行事で、田植に先立つ物忌のお籠りの日であつたのである(民間伝承17の7)『日本文学の民俗学的研究』(三谷栄一 有精堂 昭和51年 419頁)
○長野県北安曇郡神城村では、各戸の田植じまひをタウエジマイといひ、山の芋の芋汁を作り、田の神様に上げて家族も食べるのを習慣とする。(同上)
 『日本文学の民俗学的研究』からは2件だけ引いたが、ほかに田植前後の時期に山芋を掘るという内容を持った昔話を6話紹介し、「かうした山芋掘りを契機とした説話が伝承されるのは、山芋掘り季節に関係して語られたに相違ない。やはり田植前後の物忌籠りや神祭りの夜に物語や昔話が語られ、文学が発生したのである」と述べている。(同上)
 さきに引用した『イモと日本人』の「儀礼食物としての山芋」の分布図の示すところによれば、正月、5月5日、9月13日、その他の日、など予祝儀礼や植付け儀礼のさいにヤマノイモを食べるのは東北地方に集中している。関西、中部、関東にも分布しているが、おもに東北である。それに対して、それらの儀礼の日にサトイモを使う地域は関東から西に分布している。ここにヤマノイモを掘る時期とホトトギスが渡ってくる時期の一致をみる。それについて、『日本文学の民俗学的研究』では上の引用箇所につづいて、「殊に五月の夜、神事や物籠りしてゐる所に、高声で訪れる時鳥にどれほど神秘を感じたことか。その時鳥の昔話に山芋が関係してゐるのは偶然でなく、この昔話の語られる季節を物語つてゐる。一体時鳥が、田植に先立つて、祖霊の訪れる戌亥の隅に祝福をもたらすと信仰されてゐたことは既に述べた通り」であると述べている。
ちょうど、六月一日のむげ節供の日だじょおん。むげ節供じゃな、山から芋ば掘って来て、その山芋ばホクホク煮で神様さあげだもんで。芋の皮を剥ぐ皮剥ぎの日で芋剥ぎの一日でもいってる日で、その六月一日にな、時鳥の妹娘が山がら芋掘ったなば、姉の稼ぎ出でる間、煮でいたなだど。『雀の仇討 萩野才兵衛昔話集』(野村純一、野村敬子編 東北出版企画 昭和51年)
 これはやはり「時鳥と兄弟」のひとつの昔話で、山形県の最上地方に伝わる話の冒頭の部分。むげ節供というのは、『民俗の事典』(岩崎美術社)によると「六月が正月に次ぐ年のあらたまり」で、その6月1日にはこの昔話によると、最上地方ではヤマノイモを掘ってきて煮て食べる習慣があったようだ。『民俗文化』第15号(近畿大学民俗学研究所 2003年)でも野本寛一氏が「イモの民俗誌1」のなかで山形県東田川郡朝日村田麦俣の例を紹介し、「六月一日には、この日は人の皮がむける日だとして自然薯を煮て食べた」という。ただし、この例では「10月半ばに掘って保存しておき」となっているが。
 「イモの民俗誌1」では、サトイモのほかに山で採ってきたヤマノイモやトコロを正月や節供に食べる事例について、新潟、山形、宮城、秋田の例を紹介し、正月や節供に「食べる儀礼が広く存在したことが推察されてくる」と述べている。
 さて実は、ここまで各地の事例などを紹介して、ヤマノイモについて述べてきたが、調べていた途中で、なぜ春にも掘ったのかという疑問にそっくり答えてくれる本に出会ってしまった。「なんだ答えは出ていたのか」とがっかりして、そのままこのテーマはお蔵入りにしていたのだった。
ところが最近になって、たまたま『散歩の手帖』を以前から読んでくださる青森県の方からトコロについての青森県での利用などに関する資料をいただいた。まったく偶然のことだったので驚いた。そして、ヤマノイモやトコロについて調べていたことを、一度は捨てたつもりでいたものを、それなら、せめてヤマノイモだけでも、もう一度まとめ直してみようかという気になった。それでは一度はお蔵入りを決心させたその本のその部分を少し長いが、ご紹介しよう。『昔話の伝播』(福田晃 弘文堂 昭和51年)に所収、「鳥獣草木譚の意義-「時鳥と兄弟」をめぐって」より、その178~179ページ。

山芋を晴の日の食べ物とする所は、そう珍しいことではない。わたくしの故郷会津若松では、「三日とろろう」と言い、正月の三日には、必ず山芋のとろろ飯を食べることが習慣となっていた。これは秋にとった芋を正月まで保存しておくのである。ところで、山の芋、すなわち自然薯は、秋の十月頃に掘るのだが、もう一度、初夏の六月上旬、つまり昔ふうで言うと、旧四月下旬から五月上旬の頃にかけて掘れるものである。丁度、時鳥が悲しく鳴く、田植前の一時期の頃。それだから、時鳥もまた山芋を求めて鳴くという発想が生まれるのだ。その自然薯は山里の生活にとっては、格別な味わいのものである。しかし、あの細長い自然薯掘りはなかなか大変なものであった。そして、それは、たまたま旧五月の上旬、つまり五月節句以後になれば堅くなって食べることができなくなってしまう。それゆえに、節句までには掘っておかねばならない。その生活経験が、自然薯を節句の晴の食べ物とする習俗をつくりあげたのだと思われる。最近、わたくしが歩いた越中も加賀も能登もそうであった。旧五月の節供には、山芋はかならず食膳に添えるものである。南北朝時代に編纂された『神道集』という書物の巻二「熊野権現事」などにも、五月五日に狩師が山芋を掘って山の神に供えて共食するふうが記されている。その習俗は古く広いものだった。当然越後地方にもこの習がおこって久しいことが思われる。そしてこの牧村では、かの時鳥の鳴き声のごとく、「明日節句しょ」とて、節句の前日には山に芋を求めて晴の日を迎えていたのである。

というわけで、ほとんど言い尽くされている。もはや書く必要はなくなった。
 ところで、話はそれるが、引用の冒頭にある「三日とろろう」で思い出すのは、東京オリンピック、マラソン銅メダルの円谷幸吉の遺書だろう。あの哀切きわまる遺書は「三日とろろ」ではじまる。
父上様母上様 三日とろゝ美味しうございました。干し柿もちも美味しうございました。
敏雄兄姉上様、おすし美味しうございました。
勝美兄姉上様、ブドウ酒、リンゴ美味しうございました。
巖兄姉上様、しそめし、南ばんづけ美味しうございました。
喜久造兄姉上様、ブドウ液、養命酒美味しうございました。又いつも洗濯ありがとうございました。
幸造兄姉上様、往復車に便乗さして戴き有難とうございました。モンゴいか美味しうございました。(以下略)
 円谷幸吉が生まれたのは福島県須賀川市。会津若松同様、福島県内では正月にとろろを食べる習慣はひろく行われていたようだ。
筆者の母も子どものころ、群馬県伊勢崎市で、正月に山芋をすって食べる習慣があったという。『俳諧たべもの歳時記(上巻)』(四方山径 八坂書房 1980年)の「しらうお(白魚)-白魚の白さ」の項に正月の「山の芋売」というのがでてくる。
文化年間(1804~18)に、刊行された『市隠月令』によると、
 正月元日、白酒売、宝舟、福神、双六売の声いとめでたし。
 二日、山の芋売、独活、分葱売の声春めきてよし、白魚売は更なり。下谷御徒町辺いとはやし。
と、文化年間の江戸で、正月の振り売りのなかに山の芋売りもあることがわかる。こちらの例では二日、つまり「二日とろろ」ということらしい。「二日とろろ」か「三日とろろ」かは、各地まちまちだが、さきに紹介した『民俗文化』第15号でも、新潟、山形、宮城、秋田の各県にも二日があり、三日があり、「正月三が日のうちに」、という山形県温海町の例もある。
 そのほか、民俗以外でも古典のなかに、冬や春、または初夏にヤマノイモを掘る、あるいは食べる例はいくつも見つかっているのだが、それはもう蛇足になるのでやめておこう。
 時鳥になぜ山芋なのか。もしかしたら昔、山芋は秋ではなく春に掘っていたのかもしれない、というひらめきが今回の研究の動機だったのだが、結局は秋にも掘るし、雪がなければ冬にも、そして春にも初夏にも掘るものだ、ということがわかった。それがどうして秋から冬に掘るもの、という印象になったのか、それはやはり民俗行事の衰退という現実が大きいのか。それと収穫の秋、さつまいも、さといも、などのいも類は秋に掘るので、秋にも掘るヤマノイモもすっかり秋のものになってしまったのか。

時鳥と山芋 前編

2007年10月19日 08時39分30秒 | いろんな疑問について考える
時鳥と山芋
ヤマノイモはいつ掘るか
 以前、「しのび音もらす 夏は来ぬ」と歌われるホトトギスの「しのび音」とは何か、いつからいわれていることなのか不思議に思い、その起源を調べたことがあった。そのおりに、古典文学ばかりでなく、昔話についても目をとおしてみて、ホトトギスの登場する昔話が広く分布することを知った。おもにそれは、昔話研究の方面でいう「時鳥と兄弟」というタイプに分けられる話で、そのうちのたいていの話に山芋が出てくる。
 「時鳥と兄弟」の昔話はホトトギスが渡って来て、さかんに鳴く時期、つまり5、6月の初夏の話と理解できる。でもその時期になぜ山芋を掘るのか。山芋または自然薯、つまりヤマノイモは秋に掘るものと思っていたからだ。それが非常に意外で気になるので、それなら調べてみようと思った。
そしてだんだんわかってきたことは、春から初夏に山芋を掘るというのは東北以南に全国的にあるし、ことに冬に雪に閉ざされてしまう地方での山芋掘りには自明のことらしいということ。それでも一般的にはやはりかなり意外なことではないだろうか。
 そこでまず「時鳥と兄弟」の昔話を載せておこう。代表的な例を示していると思われる『日本昔話事典』(弘文堂 昭和52年)から紹介する。

あるところに2人暮らしの兄弟がいる。兄は病人(または盲人)。弟は毎日山芋を掘りに行き、兄にはよいところを食べさせ、自分は繊維ばかりのまずいところを食べていた。ある日兄は、自分がこんなにうまいのなら、弟はどんなにうまいところを食べたろうと、弟を殺して腹を割いて見ると芋の筋ばかりであった。兄は後悔し悲しみのあまりホトトギスになって「弟恋し」と鳴くようになった。今でも1日に八千八声鳴かないと餌を食べられないため、口から血を吐きながら鳴いている。(以下略)

 この昔話は東北から九州まで、広く分布している。各地で少しずつ違いはあるし、省略や変化の激しい場合もある。それらについて言及する力は筆者にはもとより無い。が気になるのは、あくまでもホトトギスと山芋、つまり自然薯、植物和名でいうヤマノイモとの関係である。なぜホトトギスの話に山芋なのか。どうして初夏を告げるホトトギスに秋を連想させる山芋なのか、というささやかな疑問である。
 調べ始めて感じたことは、もしかしたら昔、山芋は秋ではなく春に掘っていたのかもしれない、という疑問だった。秋に掘ってあたりまえと思っていたものが、もし春に掘っていたとしたら、そこには何か意味がなければならない。そしてなぜ秋に掘ることに変わったのか。
 そもそも春に掘った山芋はうまいのか。民俗としての山芋の位置づけはどうなっているのか。そういった疑問が出てくるが、まず植物としての山芋、つまりヤマノイモの生態を、おもにその掘る時期について見ていこう。
 『原色牧野植物大図鑑』(北隆館 昭和61年)のヤマノイモ(ジネンジョウ)の項ではつぎのように解説している。

本州・四国・九州・琉球、および台湾、朝鮮、中国の温帯から暖帯に分布し、山野に普通にはえるつる性の多年草。根は秋から夏にのびる。茎は春からのびる。花は夏、雌雄異株で雄花の花序は立ち、雌花の方は垂れ下がる。肉質根は白く軟らかく、晩秋に掘り採り、すりおろして食用とする。また球芽も食べられる。和名は山にある芋の意。

 「根は秋から夏にのびる」ということは冬を通して伸び続けるということだろうか。なのに「晩秋に掘り採り」というのは、まだ伸び盛りに掘ってしまうことにならないか。
 そのヤマノイモの芋について『山渓ハンディ図鑑1 野に咲く花』(山と渓谷社 2003年)にはもっと詳しく記述している。晩秋に掘って食用にする、というのは同じだが、さらに、

このいわゆるイモは、形態上は根だが、発生上は根とも茎ともつかないので、担根体と呼ばれる。多数のひげ根のうち1個だけ肥厚してイモをつくるが、これがどんどん生長していくわけではなく、春に古いイモの先端に別の新しいイモができ、新しいイモが古いイモから養分を吸収して大きくなる。つまり毎年より大きな新しいイモをつくるわけである。

 だから、大きく育ったイモを「何年もの」などというが、複数年かけてひとつのイモがだんだんに大きくなるわけではないのだった。
 このことも相当意外だったので、なんとか実物で確認できないものかと思ったが、道具がないと実際に山で掘るのはたいへんそうだ。躊躇していたら、間のいいことに、すっかり住宅地になってしまった筆者の身の回りで、奇跡的に残っている自宅横の畑にヤマノイモが栽培されている。それで秋に収穫しているときに、掘っている現場を見せていただいた。
 すると、穴を掘った断面に、育った新しいイモと、養分を新しいイモに取られた古いイモが並んで立っているところが見られた。掘り出された古いイモはしなびて縦じわが深くくい込んでいる。表面はかたくゴムのような弾力があり、すっかり痩せて食べられそうもない。
 しかし、牧野の「根は秋から夏にのびる」というよりも、やはり春に新しいイモができて生長していくのだろう。だから、秋に掘ったとき、新しいイモとそれに養分を取られた古いイモが並んで立っていることになる。
 もっと山芋についてくわしい本をということで、山芋の栽培の手引書を見つけてきた。『新特産シリーズ ジネンジョ-ウイルスフリー種いもで安定生産 上手な売り方と美味しい食べ方』(飯田孝則 農文協 2004年)。この中からイモの生長の特徴に関する部分をかいつまんで紹介する。

○イモは毎年少しずつ肥大していくのではなく、一年ごとに新しいイモへと更新していく。
○(種子が)春に芽を出す。この株が無事に生育すれば、一年で数グラムほどのイモができる。次の年には、これが種イモとなって新たに少し大きなイモに更新される。毎年更新を繰り返しながら、数年後には立派なイモができる。
○イモの肥大は9月以降急速に進むので、この時期に肥料が効くような肥培管理が必要になる。
○(図3-4から)収穫は11月半ばから2月いっぱい(本文によると、あるいは3月まで)。
○地域や標高などによって差はあるが、3月下旬以降に地温が上昇して芽が動き出し、貯蔵養分が分解され品質が低下するので、この時期までには掘り上げる。

 どうやら春から秋にかけてはゆっくり生長し、秋9月以降急速に大きくなるらしい。牧野のいう「根は秋から夏にのびる」というのはこのことを言っているのだろうか。
 北国や雪国では芽の動き出しは、早い地方よりひと月かそれ以上おくれることだろう。新しいイモの生長がはじまると品質が落ちるというが、そうするとホトトギスが鳴きだすのは日本の南から北へ5月の半ばから末にかけてだから、南のほうではすっかり芽が出て品質は低下し始めているかもしれないが、北国や雪国ではまだ食べごろだろう。そして、「時鳥と兄弟」の昔話は『日本昔話事典』などによると全国から300話の報告があるというが、特に東北地方に密度が高いようだ。これは『イモと日本人』(坪井洋文 未来社 1979年)279ページの図3にある「儀礼食物としての山芋」の分布とかなり重なるように見える。
 「七月の二本芋」という言葉があるという。『資料日本植物文化誌』(有岡利幸 八坂書房 2005年)によると、「里の人たちが七月の二本芋とよぶように、七月ごろには新しい芋と古い芋との両方を掘り採ることができる。古い芋は養分が新しい芋に移っており、新しい芋のほうは未熟なので、食べても新旧のどちらの芋も美味くない」という。どの地方で言われている言葉なのか、記載がない。これによると、7月にはさすがにイモはまずいが、それまでは、つまりホトトギスが鳴きだしたころはまだ食べごろといえるかもしれない。だから、「時鳥と兄弟」でホトトギスが渡ってくる時期にヤマノイモを掘るというのは、特に北国や雪国で冬の間イモを掘れない地方では、当然のことということになる。
 ヤマノイモの生態の面から春や初夏にもイモを掘ることの合理性が確認できたので、つぎに民俗の面からヤマノイモを掘る時期について調べてみよう。

民俗知識としてのヤマノイモの掘り時期
 秋になると他の木々にさきがけてヤマノイモの黄葉が目立つようになる。山芋掘りの秋が来た、というわけで「さあ掘れ」といわんばかりに、明るい林内に日差しを受けた黄色い葉の連なりが、こんなにもあったかと思うほど、あちらこちらに現われる。そのころになると筆者のフィールドの草花丘陵にも山芋掘りの人がやってくる。筆者は掘ったことはないのだが、そうした人の話では、実際に掘るとなると、そこが掘りやすい地面かどうかで、手間のかかり方がだいぶ違う。どこでも掘ればいいというわけではなさそうだ。
 いっぽう、春に掘る例ではどうか。
差別用語として使うにはばかられるが、「五月のめくらいも」ということばがある。「五月の山の芋は盲でも掘ることが出来るほどよく見つかる。山の芋は五月に掘り取るべきものである」(『定本柳田国男集』第21巻「なぞとことわざ」140頁)という。同じことわざが『故事ことわざ辞典』(鈴木棠三他編 東京堂出版)にもあるが、どの地方のことわざか、どちらも言及していない。
おなじ柳田国男の『定本』26巻「日本の昔話」に「時鳥の兄弟」がある。すじは冒頭に掲げた『日本昔話事典』による話とほぼ同じなので、略すが、「毎年五月になると山に行つて沢山の山の薯を掘つて来て、煮て一番おいしいところを兄さんに食べさせました」そして弟を疑って、弟の腹を裂いて、後悔した兄が時鳥になり、「だから今でも山の薯を掘る時節になると鳴いて方々を飛びまはります」としてホトトギスの聞きなし、「おとゝ恋し 掘つて煮て食はそ 弟こひし 薯ほつて食はそ」という越中の昔話を紹介している。
 春に掘るという例では、ほかに「ホトトギスが鳴くと山の芋が芽を出す」(伯耆東伯郡)とか「カッコウが鳴くと山芋のつるが出る」(越後東蒲原郡)から、どこを掘ればいいかすぐわかるというわけだ。これは川口孫治郎の『自然暦』(日新書院 昭和18年)にでている。
 筆者の体験では、それほどヤマノイモの芽は判りやすいものではない。みつける眼がないと言われればそうなのだろうが、芽出しごろのヤマノイモとオニドコロはよく似ている。ただしオニドコロのほうが出る時期が早い。これまで草花丘陵ではヤマノイモ科はヤマノイモ、オニドコロ、ヒメドコロの3種を確認している。ヒメドコロがいちばん芽出しが早く、姿も全体にほっそりしているので区別しやすい。
ヤマノイモとオニドコロ、両者の大きな違いは、ヤマノイモの葉が対生なのに対してオニドコロでは互生になるのだが、芽出しのころはヤマノイモの葉も互生というか、対ではなく、1枚ずつで出てくる。この時期、オニドコロはすでにかなり生長しているから、間違えるほうがいけないのか。ちなみに開花時期では当地の場合ヤマノイモが7月下旬ころから、オニドコロは7月上旬ころから、ヒメドコロは6月下旬ころからで、目出し時期のちがいと平行して少しずつずれがある。
葉の形も両者いくらか違うのだが、これも若い芽ではそれぞれの特徴が未だはっきり出ていない。ただ、それよりも、すでにこの時期春先の、草のいっせいの芽生え時期が終わり、地上はだいたい緑の草ぐさにおおわれている。そのなかで、後発のヤマノイモの芽をさがすのは、見なくてもわかるというほど簡単ではない。
ヤマノイモについては、日本最古の農書といわれる『清良記-親民鑑月集』(近藤出版社昭和45年)にも記述がある。その中から収穫する月を取り上げてゆくと、9月から2月となり、新暦ならだいたい10月から3月になるからほぼ現在の農業手引書と一致する。ついでにやはり山から掘り出すトコロについても調べたら、同じく9月から2月だった。
 熊本県阿蘇町ではヤマノイモは11月から5月までの間に掘る。これは『資料日本植物文化誌』(有岡利幸 八坂書房2005年)にあるのだが、『聞き書き熊本の食事』からの引用だという。
 たまたまラジオを聴いていて、ヤマノイモを5月に掘るという話をひろった。2006年5月21日、日曜日の午後、NHK第一「サンデージョッキー」で、出演していた歌手の松原のぶえが、子どものころだったから自分は行かなかったが、「5月にじねんじょを掘る」という話をしていた。松原のぶえは大分県下毛郡耶馬渓町、現在は中津市、の出身で、だから九州でも、もうすっかり草木の芽も伸びたであろう時期に、まだヤマノイモを掘るのだということを知った。これなら「時鳥と兄弟」の昔話が東北以南の全国的に通用したわけだ。
 地上部がすっかり枯れてしまっても、ヤマノイモの場所がわかるように、秋に根元に麦を蒔いておき、冬から春先まで青々とした麦を目印に掘る、という岡山県の例が『里山2-ものと人間の文化史』(有岡利幸 法政大学出版局 2004年)に紹介されている。
 春に掘る例をとりあげてきたが、ヤマノイモは春に掘るというよりも、秋の終りから春まで、あるいは初夏まで掘るということになるだろう。少なくとも、山芋掘りは秋、という思い込みは改めなければならない。
 しかし、現実には秋に掘る場合が圧倒的に多いのではないか。これまで春に掘る例をいくつか挙げてきたが、これらはようやく見つけた例で、それ以外は秋に掘るとするものばかりだった。現在の状況を知ろうと、インターネットで調べてみたが、掘る時期は秋から初冬、年末といったところで、つまり、黄葉した葉が落ちないうち、目印があるうちということか。わざわざ麦まで蒔いて気長に待とうとか、春に芽が出れば場所がわかる、といったのんびりかまえている時代ではないのだろう。というか、そもそも秋以外に掘ることを想定していない様子にみえる。
 では、なぜ秋掘るものになってしまったのか。どうして以前は春や初夏にも掘っていたのか。なぜ時鳥の昔話に山芋でなければならないのか。そのへんをさらに各地の民俗から追ってみよう。


俳句のヒヨドリ

2007年09月24日 20時33分24秒 | いろんな疑問について考える
俳句のヒヨドリ
2001年8月4日

 奥多摩支部報「多摩の鳥」の特集でヒヨドリを取り上げることになった。それで以前から少しずつヒヨドリを詠んだ俳句を集めていたので、この機会に俳句のなかでヒヨドリがどう詠われているのかについてまとめてみることにした。これまでに66句が集まっている。まだまだ調べればあるが、一応これで傾向はつかめるだろう。
 そのまえに、なぜヒヨドリの俳句を集めることになったのか。それはたまたま読んでいた歳時記にヒヨドリの渡りを詠んだ句のあることに気づいたからだった。「俳人はよく見ている、よく自然に気づいているもんだ」とその時思ったのがきっかけだった。ただ、その句がどれだったのか、もう忘れている。
 66句の内容を大雑把に分けてみると、その声に気づいて、あるいは声に感じて詠んだものが25句、ヒヨドリの来ている植物、花、実などとの関係や連想を詠んだものが17句、渡りを詠んだものが8句、その他に16句となった。では、それぞれの俳句をみていこう。

ヒヨドリの渡り
鵯わたる空に起伏のあるごとく    中村明子
鵯の雲や渡りて日和山        各務支考
鵯渡り青つづらふじ実を垂りぬ    山谷春潮
海の鵯環る一樹を岬もてり     加倉井秋を
鵯海をわたらむとして木に射たる   山口誓子
裏佐世保ひよどりの鳴きわたりけり    巨江
鵯や霜の梢に鳴渡り         広瀬惟然
飛び鳴きの鵯や山川晴るゝ空    松根東洋城

 東洋城の句は渡りを詠んだものではないかもしれないが、山川晴るゝ空、というところがヒヨドリの秋の渡りの景によく合っているので、渡りということにした。加倉井秋をと山口誓子は海に出るヒヨドリを詠んでいるが、どこで詠んだ句だろう。もしかすると伊良湖岬かもしれない。そうすると支考の日和山というのもどこの日和山か気になるところだ。和船の時代、安全な航海のためには観天望気が欠かせなかった。その日和見をするのが日和山だから、全国各地にある。

ヒヨドリと植物
鵯や昼の朝顔花細し         正岡子規
樟多き田辺の町や鵯の秋         三山
椎の木や枝移りする鵯を見る     高浜虚子
鵯の南天につく小庭かな         泉石
鵯のこぼし去りたる実の赤き     与謝蕪村
鵯や紅玉紫玉食みこぼし       川端茅舎
ひよどりのかぶりてにぐ迯る椿かな      正秀
鵯こぼれ椿落ちしに非ざりし     高浜虚子
鵯が来てほたりと椿枝しなふ     高浜虚子
鵯来るや少くなりし花椿       高浜虚子
鵯の言葉わかりて椿落つ      阿波野青畝
わらはべ童のごとく鵯居る椿かな     阿波野青畝
鵯の矢を右往左往よ椿谷      阿波野青畝
椿に来る鵯にも会はず朝寝して    石田波郷
梅もどき日に日に鵯が実をこぼす    須美礼
鵯なくや山茶花のしべ蕋きいろなる      南草
柚照るやその葉がくれに鵯群れて   山谷春潮
ひよの来て鬨の声張る蜜柑山    久保田秋耕(伊万里市)朝日俳壇
鵯の声松籟松を離れ澄む       川端茅舎
鵯谺高杉の穂を逆落し        川端茅舎

 登場した植物は11種類で、朝顔、楠、椎の木、南天、椿、梅もどき、山茶花、柚、蜜柑、松、杉となった。なかでも椿が8句あって、ヒヨドリとの相性のよさ、縁の強さを示している。気がついたのは楠、椎の木、南天、椿、山茶花、柚、蜜柑はみな常緑広葉樹だということ。南天は秋から冬に紅葉するが葉は落ちない。
 わからないのは最初の正岡子規「鵯や昼の朝顔花細し」。朝顔は秋の季語だから朝顔とヒヨドリでどちらも秋でいいのだが、実際には朝顔は夏の花だし、ヒヨドリは秋になって、9月の末か10月はじめにやってくる。今でこそヒヨドリは留鳥だが、子規のころの明治なら冬鳥だったはずだ。でも、特集でヒヨドリのことを調べていて、まったく夏場に平野部で見られなかったわけでもなかったようなので、たまたまいたヒヨドリを子規が詠んだと解釈すればいいのだろうか。しかし、わざわざそんなヒヨドリと朝顔を取りあわせたりするだろうか。もっとも、朝顔だってけっこう秋になっても、いつまでも咲いている。こんな句があった。
  朝顔のつひ終の一花は誰も知らず     福田蓼汀
咲き終わりころの朝顔など、もうだれも見ていない。形をうしなって支柱にだらしなくからみついて、葉はすでに黄ばんだものもある。それでもせっせと朝な朝な咲いているのに気づいたことがあるが、でも最後の一花はどうだったか。

ヒヨドリの声を詠む
 ヒヨドリの声を詠んだ句は22句あり、「ヒヨドリと植物」の中にも、声を詠んだのがあるので、その中の3句を入れて25句になる。これらをさて、どう並べてみようか、と考える。声の種類を分けながら詠んでいくと、絶叫だの、けたたましだの、声の強さ、激しさを表現している句がある。そこで、声の大きさ、強さという珍妙な基準で並べてみることにした。もちろん客観的なものさしなどないから、筆者の感覚による独断である。

人のする絶叫なるを鵯もせる   相生垣瓜人
鵯のけたたましさはいつも不意   名越夜潮(広島市)朝日俳壇
鵯啼いてゐしとのみ他は想起せず  安住 敦
鵯の声ばかり也箱根山       正岡子規
鵯谺高杉の穂を逆落し       川端茅舎
ひよの来て鬨の声張る蜜柑山   久保田秋耕(伊万里市)朝日俳壇
鵯鳴いて山の静けさはじまりぬ     寒子
庭にゐる鵯山へ返事かな       みづほ
暮れてゆくひととき鵯の声の中     富治
鵯の声松籟松を離れ澄む      川端茅舎
この林泉の大きしづけさに鵯のこゑ   鬼灯
鵯の大きな口に鳴きにけり     星野立子
我なりを見かけて鵯のなくらしき  正岡子規
山葡萄含みて憩へば鵯鳴けり      遷子
このあしたまぶしき雪に鵯の声    悌二郎
大菩薩嶺ひよどり鳴ける朝は見ゆ 水原秋桜子
霜晴れの朝の目覚めに鵯の声      蕉影
鵯鳴いて時間できざむ朝始まる  星川木葛子
海荒れて見ゆる木の間や鵯の声     一轉
鵯鳴けり目から疲れてくる時刻   渡辺禎子
鵯なくは人のまがきか雪ふかし     皓二
鵯鳴くは紅葉の風のあなたなる    由多花
裏住のうら淋しさよ鵯の声       青々
鵯のことばここでは分り法隆寺   森 澄雄
鵯来鳴き水も落葉をうかべけり  水原秋桜子

その他のヒヨドリ俳句
  ほかに16句あるので、紹介だけしておこう。

水浴びし鵯すでに天翔ける     山口誓子
ひよが来た目白が来たと老夫婦   武内歌子(津市)朝日俳壇
霜凪ぎのそのしづけさを鵯ゆき来   悌二郎
林泉の雪鵯来て跡をとどめたり    たか女
黒潮の沖透くまゝに鵯の木々     まもる
鵯のしきりに来る日遠海鳴り    中村苑子
鵯の木の間伝ひて現れず      高浜虚子
鵯の来てとまる枝きまりをり    高浜虚子
鵯に立別れゆく行脚坊         正秀
彼岸会の鵯一羽来て二羽となる   角川照子
枯山のひよどり翔けて日の真空  百合山羽公
鵯もとまり惑ふか風の色      広瀬惟然
立冬や窓搏つて透く鵯の羽根    石田波郷
鵯の遊び仕事の山路かな        浪花
鵯や赤子の頬を吸ふ時に      榎本其角
鵯に急かれじんぐりを打つ童らか 村上しゆら

 いろいろ自分勝手に分けたり寄せたりしてきた。つまり、こんなことができるだけの材料がヒヨドリにはあるということか。それだけヒヨドリは身近な鳥なのだ。同じ身近な鳥でも、ムクドリだとまた少しちがう俳句になりそうだ。たとえば、よく群れる鳥だから群れをどんなふうに詠んでいるか、などということを考えるのかもしれない。カラスやスズメも俳人の注目する点はヒヨドリ、ムクドリとまたちがうはずだ。それぞれの鳥の特徴や目立ちやすさ、季節との関係などによって、集めた句をどう鑑賞するかがちがってきそうだ。鳥ごとにそんなことをやってみるのも、おもしろいかもしれない。


タテじまとヨコじま

2007年09月24日 16時34分28秒 | いろんな疑問について考える
タテじまとヨコじま

イシダイのしまはタテかヨコか
 岩波書店の『図書』2001年6月号に言語学者の柴田武氏が「魚のタテとヨコ」と題して寄稿されている。国語辞書での魚のしまについて、辞書によってタテじまとしたりヨコじまとしたり、おなじしまなのに記述がちがうのだということを取り上げたものだ。柴田氏は『新明解国語辞典』の編集委員会代表をつとめている。
 以下、引用しながら話をすすめよう。
 柴田氏は、日本語についての説明のしかたはその辞書の個性であるが、「説明の材料になっている事実の認定はもちろん同じでなければならない。しかし、現実にはそうでないことがある。例えば、一定の状態をある辞書はタテと認め、ある辞書はヨコと認める」。そういう例として「イシダイのしま」をとりあげる。
 イシダイはほとんどの辞書が見出し語として説明しているという。磯釣りの魚として人気があるせいらしい。例えば、『新明解国語辞典第五版』では、
南日本に多い硬骨魚。青灰色で七本の縦じまが有る。食用。[シマダイは若い時の称](以下略)
となっている。『図書』掲載の写真を見ると、背中から腹へ太い7本のしまがあり、それは頭を左に、尾を右にした横向きの姿に対して、「タテじま」になっている。
 ところが、『広辞苑』をはじめ、多くの辞書はイシダイのしまについては「ヨコじま」または「横帯」なのだという。そこで『広辞苑』を見てみたら、実際「横帯」となっていた。『広辞苑』には絵が出てないので、「横帯」というとたとえば本の左右方向へ引かれた帯という意味に読める。そうすると、魚の頭から尾のほうへしまがあるということになる。これは誤解されやすい表現だ。だから、この場合『新明解国語辞典』のほうが適切な表現かと感じられる。
 なのに、なぜ、多くの辞書は「ヨコじま」または「横帯」なのか。柴田氏は考えを進める。さらに『図書』から引用すると、

漁師や釣師などその道の人は、魚はタテに立てて見るものだという。『日本の海水魚』(山と渓谷社)という、私のようなしろうとのことも考えた学術的な出版物にも、「横帯」を説明して、「体の背側から腹側に走る帯状の斑紋をいう」とする。そして、その理由を説明して、「頭を上に、尾部を下にして魚体を立てた場合」としている。だから、シマダイ(イシダイのこと)はヨコじまである。
 
  『新明解国語辞典』のようにタテとしたのは、他に1冊、『学研新国語辞典』しかないのだという。そうすると多くの辞書が魚の見方を心得て記述しているのか、「いや、専門書の記述をそのまま写し取ったか、先行の辞書を無批判に引き写したのかもしれない」と柴田氏は推測する。

キアシシギのヨコじま
 なぜ、わたしがタテヨコにこだわったか。それは以前、鳥の図鑑を見ていて「おやっ」と思ったことがあったからだ。
 それはキアシシギのヨコじまについてである。キアシシギの夏羽では、横斑が首から胸、さらに脇へと一様に並んでいる。他のシギ、チドリ類同様、胸から尾部にかけては体が水平に近くなるので、首では横だったしまは胸では次第に斜めに立ってきて、脇腹ではついに垂直に立ってしまう。だから、横斑といっても、図鑑を見ている人の目には、垂直方向のしまになる。それで、「おやっ」と思ったのだった。しかしすぐに、これは鳥自身の体から見れば、腹や脇を横切っているのだから横斑なんだ、と納得した。
 図鑑ではこの脇の部分のしまをキアシシギの識別点として、かならず指摘するが、そのさい、「脇の横斑」などと表現する。クイナ、オオクイナ、ヤンバルクイナなど、脇や腹にしまが有るものについての記述は、手元にある数種類の鳥の図鑑はどれも、横斑、つまり、横方向のしまと表現している。
 そこで、魚の場合にもどると、魚体を立てて見るというのは、頭から尾の方向がタテなんだ、という認識をとっているのだろう。
 つまり、『新明解国語辞典』は対象をみる人の立場でタテヨコをいい、ほかのたいていの辞書は対象物そのものの頭から尾へという方向性をもとにしている、ということになる。わたしも当然、そうでなければならない、と思った。
 『新明解』の解釈でいくと、例えばシマウマのしまの描写はどうなるのだろう、と引いてみたら「黒の縞」としか書いてなかった。例えばヘビなんかの場合はどうだろう。もし輪切り状にしまのあるヘビがいたら、『新明解』はタテじまというのだろうか。例えば囚人服を着た人が立っていればヨコじまで、寝たらタテじまというのか。いぜんとしてヨコじまだろう。やはり『新明解』の解釈はおかしい。
 もし、イシダイが自分の体を見て(たぶん見えないと思うが)、ふとぶとと腹を横切っているしまを見て「なかなか見事なタテじまよのお」と思うか。もし、シマヘビが振り向いて、目下から遠ざかるしまを見て「ざんしんなヨコじまよねえ」と思うか。もし、寝そべった囚人が自分のシャツを見て「このタテじま、どうにかならんかなあ」と思うか。もし、阪神タイガースの選手が外野でさぼって、寝転んで「このヨコじまが好きやねん」と思うか。
 ここはやっぱり、その本人自身から見て、わが身を横切るしまをヨコじまといわなければならない。と、ここまで考えて、いや、そうでもないかと思った。
 例えば電車の場合はどうだろう。車体の屋根から下りてきて、床まで何本も平行に筋が描いてあれば、タテじまというだろう。車でも飛行機でも、車体、機体に輪切り状に線が引いてあればタテじまだろう。なぜだろう。生き物じゃないからか。生き物でなくても、前へ進むとか、上へあがるとか方向性がある。さあ、どうしよう。
 柴田氏は最初のところで言っている。「タテとヨコは、転換することが簡単にできるから、どちらにせよ、どういう条件でのタテか。どういう条件でのヨコかを説明しておかなくてはならない」。それはそうなのだが……。


1枚の古い絵はがきから-景観の変貌について-

2007年09月24日 16時33分07秒 | いろんな疑問について考える
1枚の古い絵はがきから
-景観の変貌について-
木村成生
2001年8月
 知人からとどいた暑中見舞は古い絵はがきだった。鹿児島の風景写真で、「(鹿児島風景)磯の夕ぐれ Iso Kagoshima」とキャプションがはいっている。昭和の初期のものだろうか。青インクの単色で、写真の輪郭は横長の楕円、縁はぼかしてある。鹿児島湾内の岸近くから市内のはずれにある磯庭園を写したもので、近景中央に帆掛け舟が波静かな水面に浮かび、遠景に今は史跡公園になっている磯庭園の建物がみえる。
 後ろの山をみて、ハッとした。庭園の裏山は山というより低い丘なのだが、その稜線の木立はまばらで、背後の空が透けて見えたからだ。磯庭園の裏山は、現在鬱蒼とした照葉樹林で、山のスカイラインを描く木立のすきまに空がみえるはずはない。ここに限らず、鹿児島の植生は照葉樹林で、それは1980年前後、わたしが養蜂時代に見慣れていた風景だった。
 絵はがきの写真にみる稜線の木はマツのようにみえる。どの木もだいたい直立しているようで、短い枝が水平に張っている。広葉樹のような樹形の丸みはない。海沿いなので、おそらくクロマツではないか。
 アカマツやクロマツは地味のやせた土壌に育つといわれる。成長も早い。かつては有用樹として、広葉樹をきった後に植林もしたという。しかし、燃料革命、農林業の変化など、人と山とのかかわりの変化で、人が山へ入ることが減り、林相が本来の自然植生に返りつつあるという。多くの所でそういった現象は見られる。
 わたしがふだん鳥を見て歩く草花丘陵でも林内の低木層は常緑広葉樹がかなり目立っている。それはヒサカキ、シロダモ、アラカシ、シラカシ、アセビなどで、ヒサカキが特に多いようだ。かつてはアカマツが相当あったと思われるが、現在ではほとんどない。残っているアカマツもたいていは樹勢がおとろえている。立ち枯れのままのもある。
 現在、鹿児島の自然景観の基底をなす照葉樹林も数10年から100年前後むかしにはそうではなかったわけで、これは驚きだった。
 近年、日本の温暖な地方では急速に照葉樹林化がすすんでいるといわれる。『マツとシイ-森の栄枯盛衰-』(岩波書店)という本を最近読んだ。鎌倉や三浦半島、京都などを例に日本の森はいま急速に、原生自然の植生に返りつつあるということを実証している。