ケガレの起源と銅鐸の意味 岩戸神話の読み方と被差別民の起源 餅なし正月の意味と起源

ケガレの起源は射日・招日神話由来の余った危険な太陽であり、それを象徴するのが銅鐸です。銅鐸はアマテラスに置換わりました。

越冬期 ミツバチの話 その13 (完結)

2007年09月28日 14時49分57秒 | 養蜂の話
越冬期
ミツバチの話 その13

 静岡県清水市にもどるのが10月の末。10日ほど、蜂蜜の充填の手伝いやほかの雑用などで中途半端に過ごしたあと、車で鹿児島へ出発する。
 鹿児島では、伊集院町下神殿(しもこどん)という国道3号線ぞいの集落に宿を借りていた。80過ぎのおばあさんがネコ1匹といっしょに住んでいる。といっても、身内のものが近所にいてよく顔を出していた。もう1ヶ所、となりの東市来町湯之元というところにも一軒家を借りていた。湯之元というのは名前のとおり温泉場で、観光地のような派手さはなく、地味な湯治場だった。町なかに共同浴場が隣り合わせに2軒あって、1回75円。1軒は乳白色の温泉、もう1軒は透き通った温泉だった。だから、風呂は毎晩温泉に入れた。
 宿では数人ずつ泊まり込んだ。妻帯者も単身で来ているので共同炊事だった。必然的に若い者が担当した。つまりわたしたちだった。自炊をしたのは鹿児島と清水にいるときで、それもいつもという訳でもなかったし、春の採蜜や転地のいそがしい時期には当地が地元の親方の奥さんが賄いをしてくれた。湯之元の宿では近所のおばあさんを賄いに頼んでいた。
 着くとさっそく蜂場の草刈がはじまる。春に蜂をおいて、それが出ていった後、使われていた所はいいが、なんにも使われていなかった場所はすごい草やぶになっている。一夏でこうものびるか、というほど旺盛にはびこる。だから、手分けしても草刈だけで数日かかる。
 終るとすぐに秋田へ転地していた蜂が大型トラックで到着する。3車までで秋田は終り、つづいて北海道からの第1車がつく。北海道からは全部で11車か12車。期間は11月の下旬から12月の10日ごろまでの2週間くらい。トラックはたいていは中3日で走ってくる。なかには走りっぱなしで、中2日でつく車もある。反対に、つく予定の日に終日待ちぼうけを食って、とうとうつかないときもある。それでも夏場とちがって蜂が死ぬことはまずないので、こちらもあまり心配しない。ただ、来るはずのものがなかなか来ないと予定が立たず、動くに動けず、時間を持て余す。「遅れています、今どこそこを走ってます」などと気を利かせて電話してくるはずもない。今なら携帯電話だが、当時はそんなものだった。
 あいてる時間は砂糖袋を切ったりした。餌に使ったあとの空き袋はとっておいて越冬巣箱のふたの内側にかぶせた。あれはクラフト紙だろうか。三重くらいになっているうちの蝋引きの紙は除いて使う。蝋引きは蒸れるということで。これは風除けである。
 ふたは転地のときに巣箱の中の風通しをよくするために、内側に網が張ってある。網と天板とは桟をはさんで、隔ててあり、二重構造になっている。側板に窓が空いていて、巣内の熱気があがると左右へ抜けるようになっている。それで冬の寒風をふせぐために砂糖紙をかぶせるのだが、むしろ春先にかぶせるべき、という意見もあった。厳冬期は寒いほうがよく、蜂も蜂球をつくって、静かにしていたほうが消耗がすくない。そして、春先にかぶせれば、より暖かさが加わって、刺激になるという理由だろう。わたしの4年目のときにはそうした親方もいた。
 北海道からの蜂が全部到着したころ、今度は種子島送りの蜂の発送がはじまる。越冬蜂場は種子島にも一部あった。フェリーに積み込んで、数回に分けて運ぶ。わたしは島へは80年の越冬のとき、一度だけ渡り、蜂の内検をしてきた。南の島とはいっても、寒い日もあり、低温のため内検を休んだ日もあった。ヤツデの花がちょうど満開で、斜面などの林内にはかなりあるようだった。これがちょっと見慣れない風景だった。となりの屋久島にはいつも雲がかかっていて、裾のほうしか見えなかった。島全体が見えたことは一度もなかった。
 北海道からは、ほかに貨車が1台着いた。積荷はからの巣箱、蜂具、ふとん、私物など。翌シーズンのためのものだ。伊集院の駅へ受け取りにいく。78年の場合で、貨車は北海道から9日かかっている。
 年内の鹿児島での仕事はこれで終り、一度清水市へもどる。年末年始の休みをはさんで、仕事始めは1月10日ごろだった。
 新年になっても、蜂はまだ越冬中だから、新しい年が動き始めたという感じではなかった。やはり、2月の初旬に鹿児島へむけて出発するときがほんとうのシーズン始めだろう。それまでは、清水で巣箱作りや、痛んだ巣箱の修理、巣枠作りなどをした。また、市内のハウスイチゴの農家に受粉用のミツバチを貸し出しているので、蜂の配達や内検をした。しかし、清水にいるあいだは「今はオフ」という気持が強く、いつも次へのつなぎ、待ち時間といった感じで、充実したものではなかった。
 1月下旬になると、いよいよ親方衆もそろってくる。メンバーの新しい組合せも決まる。自分がつく親方、かかわる蜂や蜂場、鹿児島での宿などが、これで決定される。
 2月上旬、鹿児島入り。ここでも最初は巣箱や巣枠作りをしている。蜂場へ行って巣箱にクレオソートを塗ったり、ダニの駆除をしたりもする。蜂の荷造り用のロープ作りもする。暖かい日には、蜂の内検もするようになる。すでに産卵は始まっている。1~2枚の蜂児枠がある。なかには餌切れで全滅している群も出る。最後の一滴を求めて巣房の底までもぐり込み、多くの働き蜂が尻を並べて飢え死にしている光景はいたましい。給餌、合同、蜜蓋切りなどがおこなわれる。貯蜜の蓋を包丁で切ることで、給餌と似たような刺激効果がある。また、蓋を切ることで、古い蜜を餌用に使わせて、巣房内を掃除させ、新年の流蜜にそなえる意味もある。
 次第に蜂にかかわる時間が多くなる。3月中旬、早いところではもうレンゲが咲いている。

秋-越冬準備 ミツバチの話 その12

2007年09月28日 14時48分23秒 | 養蜂の話
秋-越冬準備
ミツバチの話 その12
秋の移り行き
 当時の日記によると、1978年のストーブ初日が9月2日。そんなに早かったのか。採乳の最後、後片付けのころというと、すっかり秋になっている。夏の仕事をむりに秋まで引きずっていたような、採乳を終えてみれば、実は秋だったのだという感じがする。
 9月半ばにはまず大雪山に初雪があり、以後10月にかけて、各地の山から初雪の便りが届く。日高山脈はやや遅れるが、麓からその秋はじめて山の雪を確認する初冠雪は、1978年が10月12日、80年は10月9日、この年大樹町の初雪は10月22日だった。81年の日高の初冠雪は9月29日。大樹町の初霜はというと、78年が9月28日、79年10月22日、80年9月26日。記録してない年もあるが、だいたいこういった経過で、季節は急速に進む。空が青さを増し、カラマツの黄葉が冴えてくるころ、蜂群の集結がはじまる。もう暖かい日の日中しか蜂は飛ばないのだ。
 夏の追われるような仕事からは解放された。越冬までにまだやるべきことはいろいろあるが、時々は時間が空いて気ままに過ごせる。このころになるときのこが気になり出す。目当てはぼりぼり、しめじ、らくようきのこ。ぼりぼりはクリタケのことらしい。しめじはホテイシメジのことで、酒を飲みながらいっしょに食べると悪酔いするという。わたしは飲めないから関係なし。この2種は蜂場のまわりで何ヶ所か採れるところがあった。らくようきのこは落葉きのこ、ハナイグチのことで、カラマツの林内に生える。3種ともいい味が出る。
 シジミ採りに行ったこともある。沿岸に近い蜂場へ給餌に行ったが、少し暑かったので、蜂がかなり飛んでいる。盗蜂がつく恐れがあるので、給餌を夕方にすることにして、近くの生花苗沼へシジミを採りにいった。以前に一度連れて行ってもらったところで要領はわかっていた。同僚とふたりで3㎏くらいとれた。
 蜂場のあいだを行き来する農道には、なぜか秋になるとシマリスが走り出すようになる。車の直前をすばやく横切ってゆく。なぜ秋にそうなるのかわからない。シマリスはエゾリスやホンドリスとちがって樹上よりも地上にいることが多い。
 蜂の巣箱の下は小動物にとっては安全地帯といえる。雨がかからないし、夏じゅう動かさずにいるからだろう。あまり草もはえない。秋になって痛んだ巣箱の取り替えや、荷造りなどで巣箱を動かす。そうするとヘビの脱け殻やネズミの巣があったりする。一度だけマルハナバチの一種の巣が見つかったことがある。これは非常に美しいもので、巣房は黄色みのある淡い褐色をしている。ミツバチよりもだいぶ大柄な巣房で、中の蜜がトロリとたまって光っているさまは小さな蜜壷をいくつも並べたようだ。全体の大きさは手のひらをいっぱいに広げたくらいだった。しばらく眺めたあと、また元どおりに巣箱をもどしておいた。その後は見ないままになってしまった。
 
越冬用の給餌
 越冬期間に一群のミツバチがどのくらい餌の蜜を消費するのか、よくわからない。強勢群は保温力も強いから、エネルギーがより節約できるはずだ。蜂蜜の消費量は相対的に少ないだろう。弱群ほど冷えやすいから、それだけ余計に餌を食って発熱しなければならない。
 越冬用の給餌はすでに採乳の終る時期を待たずに始まっている。というより、いつからとはっきり決まっているわけではない。ある人は働き蜂の作業能力の高いうちに、といっていた。つまり、一升ちかく入るズックの給餌袋に注いだ砂糖水が翌朝にはカラになっている程度にさかんに採って、ただちに熟成して蜜蓋がされる。そうすれば、冬じゅうの餌の品質はいい状態で保てる。9月下旬のうちにはだいたい給餌は終っていた。
 砂糖水の濃さはどのくらいだったろう。砂糖と水の割合はよく覚えていないが、いくらかとろみが出るくらいだった。1対1くらいはあっただろう。大釜に湯をわかして18リットルのポリ缶に何本もまとめて炊いた。
 給餌用の砂糖はふつうの砂糖だが、いつだったかミツバチの飼料用として、安く配布をうけられることになった。養蜂協会の政府への働きかけだったのだろう。そのため他への横流し防止のために、砂が入れられたり、溶かすと真っ青になる色素が加えられたりした。これは一時的なことだったと思う。
 では、平均的に一群あたり何キロぐらいの餌が必要なのか。こういう計算はしたことがなかった。ただ一群の総重量で35~40㎏にする、というのが一応の目安だった。というよりも、かかえてみて「うーん、こんなもんなら大丈夫かな」という経験的な重さを教えられているわけで、それを量ってみれば35㎏から重いもので40㎏になっているということ。いくつか参考に巣箱を荷造りロープでしばって、棹秤で実際に量ってみる。あとはその重さの感覚を覚えてひとつひとつ巣箱をかかえてみる。そんな要領で仕事はすすめられた。
 それにしても、こう砂糖に多く頼るのが現実だとは思わなかった。自然の流蜜だけで蜂が自活し、なお、それでも余ったものを人間がいただくというのが理想だが、それではとても経営にならないようだ。

その他の仕事
 越冬に入るまでにやっておく仕事は、給餌のほかには、痛んだ巣箱の入れ替え、ダニの駆除、荷造り、そして蜂群の九州送りのための集結場所への移動など。これらは追われるほどの仕事量ではない。
 痛んだ巣箱は毎年、少しずつ取りかえられた。一部隊あたり数10の新箱が割当てられる。それで充分というわけではなかった。足りないぶんは部分的な修理で間に合わせていた。箱づくりは、静岡で用意した材料を貨車で運び、夏場に集中して北海道でつくられた。材はスギの赤み、つまり中のほうの部分がいいといわれた。作業にあたるのは、おもに地元で雇い入れた主婦たちで、外側に防腐材のクレオソートを塗って完成まで仕上げた。蜂をあつかう者は、夏にはその余裕はなかった。冬場と春先の鹿児島では箱づくりや、巣枠づくりもやった。
 巣箱の痛みやすいところは、ハチマキやハカマの角。ハチマキというのは蓋をうけとめる箱の胴の上縁をとりまく細い桟のこと。ハカマは袴で、継箱の下縁で、下の箱の上縁にかぶさる部分。どちらも角のところで、木が重なる部分が腐りやすい。転地のとき、かついだ箱から蜂がもれたり、輸送中の箱から蜂が飛びだしたりするのはたいていこういう所からだった。
 ダニの駆除は春先と秋にした。ミツバチにつくミツバチヘギイタダニのへぎ板というのは薄くはいだ板のことだという。上から見ると1mmあまりの楕円型をした茶色いダニで、ぺちゃんこなので、ミツバチの背中に貼りついたように見える。つやがあるから、案外目立つ。ダニエクロン、ダニカットなどという商品名の駆除剤をつかった。これらは壜入りの液体で、水でうすめたものをタフ片にしみこませて、巣門から挿し入れた。タフというのは、麻よりずっと粗いゴワゴワした袋で、輸入豆類、穀物などの袋に使われて入ってくる。鹿児島では、ためておいてもらったものを、何回か豆腐屋へ買いにいったことがあった。ふだんのタフの使い道は燻煙材料としてである。タフを適当に切って、火をつけて、燻煙器につめる。その煙を蜂に吹きかけて、蜂をおとなしくさせるのだ。
 荷作りについては春の転地の項を参照。9月の半ばから末にかけて行なわれる。
 蜂群の集結は10月の初めごろから半ばにかけて、共同作業で行なわれる。夕方巣門を閉めて、翌朝運び出したり、蜂が飛んでいなければ、日中でも閉めて運べるので、春夏の転地と較べるとらくで、助かる。巣箱は重くなっているが、場所が広いのでふたりで持てる。集結場所には刈り取りの終った牧草地を借りた。
 こうして、鹿児島送りのはじまる11月下旬まで静かに置かれている。人のほうは地元の人は残るが、内地組は荷物をまとめて、ひと足先に南下する。春の移動とちがって、急ぐ旅ではない。仕事関連の荷物と身の回り品を車に積んで、好きなコースで帰っていった。

夏の仕事―採乳その他 ミツバチの話 その11

2007年09月28日 14時47分24秒 | 養蜂の話
夏の仕事―採乳その他
ミツバチの話 その11

夏空はいろいろ
 日蔭がほしくなる夏の昼下がり。蜂場ではミツバチが無数に飛び交って羽音がうなり、その音だけでも眠気にさそわれる。まして昼休みを過ごした身では体がいっそうけだるく、重い。巣箱の横に立ち、前かがみで仕事をしていると、鼻の頭からしたたる汗が面布を濡らす。編成中にみつけた王台をつぶして、面布ごしに中身の王乳をなめる。クラクラした頭がピリッとしたローヤルゼリーの味でいくらかシャキッとなる。あるいはムダ巣に貯めた採れたてのはちみつを巣ごと頬張って、蠟かすを吐き捨てる。気温が高いとこの時期、なんらかの花があり、流蜜している。まだ入りたての蜜は薄くて甘すぎず、舐めごろなのだ。地下タビをはいた足の甲に陽射しが熱い。
 こんな日は蜂に刺されないから面布をしないこともある。それに暑い日があるのは有り難いことで、ひと夏をふりかえれば、この地方、雨や海霧(ガス)のなんと多いことか。
 雨の日の編成替えは蜂の集中攻撃をうける。これは「散歩の手帖」3号「蜂に刺される」で書いた。麦わら帽子の縁から面布の網を伝って雫が落ちていく。目の前の網が水の膜で曇ったようになって、たださえうす暗いのによけい見通しが悪い。帽子のつばから落ちる雫が巣を濡らす。
 夏は一年中でもっとも天気が安定する季節であろう。それでも暑い日、寒い日、雨の日、霧の日、大雨の日、日照りに長雨、台風くずれ、異常低温注意報といろんな日がある。
 南十勝地方は帯広などの内陸部とちがって、夏の気温は低く、日照時間も少ない。これは沖を南下する寒流の影響だ。それによって発生する海霧が陸地へ入ってくると寒いくらいになる。有名な釧路の海霧と同じものだ。だから海に近いほど涼しく、海岸段丘の草原で高山植物のガンコウランやツルコケモモが見られる。花の開花にしても、同じ種類の花が内陸のものより数日遅れる。
 当時の日記を見ると、採乳期間を通じて全体の4~5割の日に、時間の長い短いはあるが、海霧や霧雨の印がついている。この霧のために、変化の多い夏の天候だったという印象になっているのだろう。当然これは蜂の行動にもかなり影響しているように思う。いろいろな花があるから、晴れていればそれなりに流蜜もするし、花粉も運べるからだ。だから、見た目、蜂の量も山手の蜂場のほうが多く、強勢群に見える。しかし、王乳の収量と移虫枠枚数の関係を描いたグラフで見ると、山手と海寄りでは、ほとんど違いがない。影響があるのは、蜂よりもむしろ、蜂屋のほうか。濃い霧が瞬く間に晴れていくときの有り難さ、暖かさ、すがすがしさ。この地上に低く貼りついた、薄っぺらな灰色の霧の上はいつだって、すごい青空なのだ。

採乳シーズンの経過
 人がそろい、ものがそろい、いよいよ採乳シーズンのはじまりにあたり、北海道シリーズの開所式をおこなう。町内の大樹神社の神主を呼んで安全祈願、豊作祈願をしてもらう。そのあと、それぞれのキャンプへ向かって、キャンプ開きとなる。キャンプ開きといっても、それは文字通り冬のあいだの戸締りを解いて、開放するということ。
 ここではかりに採乳シーズンを前期、中期、後期と分けることにしよう。
 前期は採乳群を増やしていって、移虫枠の枚数を限界へ持ってゆくまでの期間。採乳群の編成初日は78年が6月15日、79年6月10日、80年6月11日、81年は静岡でのミカンの採蜜が長引いたのを受けて、6月21日となった。
 とくに弱群でない限り、すべて採乳群にされてゆく。部隊によって蜂群の数がちがうし、作業の遅速もある。だから最大の数まで持っていく時期はまちまちだが、7月中旬にはだいたい作れる蜂はほとんど採乳群になっている。王乳の生産量もそれに比例して上がっていく。
 中期はほぼ使える蜂群全部が採乳群になり、王乳の収量も高水準で安定している期間。移虫枠の枚数はもっとも多いころで、ふたつのキャンプを合計すると600枚前後。片方で250~300枚余りになり、毎日その3分の1が編成替えされていく。移虫枠1枚あたり、つまり採乳群1群あたりで王乳はサンパチで7~8g、ヨンパチで12~13g貯められる。
 後期は移虫枠を同じ枚数だけ維持しても王乳の収量が減っていく期間となる。シーズンの終りを感じて、蜂自身に世代交代の気運が衰えていくものらしい。王椀にはいる王乳の量自体が少なくなるし、移虫した幼虫の受け付けが悪くなって、中に王乳を貯めてないものが多くなる。こういうのをハッカケといっていた。歯が抜けたように見える。
 最盛期にもハッカケは見られるが、それは移虫のさいに虫が痛んだかもしれないし、雨続きで受付が悪くなる場合もある。反対に天気がいいのになぜか個々の蜂群でなく、全体的に受付が悪いこともあった。だから、ハッカケになるのにはいろんな理由があるらしい。ほんとのところはよくわからない。ただ、編成替えの時に出房まぢかの王台を見逃すこともある。そのまま未交尾女王の誕生までいってしまうと、受けつけはグンと悪くなる。移虫枠を上げた時に「わあ~見逃した~」と自分の失敗をなげき(親方だって見落とすが)、未交尾さがしをすることになる。これがすぐ見つかるときと、どうしても見つからずに仕方なくふたをすることもある。
 収量が減ってくるのは8月の中旬過ぎからだった。もともと中1日のサンパチ(3・8)ではひと椀ずつの乳量が少ないので、このころからは中2日のヨンパチ(4・8)だけにしていく。これが9月の10日前後までつづいて、採乳シーズンの終りとなる。終了日は78年が9月7日、79年9月13日、80年9月5日、81年9月8日。継箱の底に釘付けして張っていた隔王板を片っ端からはがす。網目にはムダ巣の蠟や蜂がつけたヤニ(プロポリス)がついているので、熱湯と金ブラシで落とす。この作業は採乳のおばさんたちの最後の仕事だった。あとはキャンプの中を片付けるだけ。
 採乳シーズンには砂糖水の給餌も頻繁にする。流蜜のない時や雨続きのとき刺激に与えられる。こんなに日常的にやるものか、とがっかりした。給餌したあとの採乳量は確かに上がっていることが多かった。自然の流蜜がつねに少しずつあり、王乳の原料となる花粉も順調に入ってくるというのがいちばんいいのだが、そうはうまくいかない。
 反対に流蜜が多すぎて困ることもある。蜂児圏が貯蜜に圧されてしまって、女王の産卵できる場が少なくなってしまうからだ。そうなると幼虫が減って、採乳には不都合なうえに、忙しい中を、さらに採蜜もしなければならない。
 8月下旬になると盗蜂がつきだす。盗蜂については「散歩の手帖」2号でくわしく書いたので参照。記録をみると盗蜂がつきだした日は79年が8月21日、80年と81年が8月20日となっている。ずいぶんその始まり時期が特定されているように見えるがこれはたまたまだろう。78年は7月28日で早すぎる。これは盗蜂ぐせをつけてしまった結果だと思う。つまり編成替えや蜂の内検にあまり時間をかけすぎたからだ。巣箱のふたを開けている時間が長くなると、同じ蜂場内の蜂同士がよその箱の蜜のにおいに誘われて飛んでくる。そんな状況があたりまえになってしまうと、その蜂場は落ち着きなく飛び交う蜂がふえて、すっかり盗蜂ぐせがついてしまう。これは蜂を消耗させることになるだろう。親方の性分で蜂の扱いはいろいろなのだが、どうしても一群一群に時間をかけすぎる、そして、1ヶ所の蜂場で長く蜂にかかわり過ぎるひともいる。体力的に仕事量をこなしきれないという面もあった。管理すべき蜂群が多すぎるとわたしは思っていた。5つの部隊間のバランスということもあるので、あまり蜂群の数と人員に差をつけられないのだろう。これは組織上の問題でもあった。
 8月下旬ころからは給餌も、これまでの刺激用から越冬のためのものになる。一部の山手の蜂場はときには採蜜するぐらい蜜が入るが、それ以外はあまり貯蜜に余裕はない。砂糖水をやらず、自然の蜜で越冬用の餌が間に合うというのが理想だろうが、現実はそうではない。
 8月の末には雄蜂の駆逐がはじまる。あわれ雄蜂は繁殖期がおわると、巣から追い出される。このころになると、巣門のまえで、働き蜂に押しやられながらも、床にしがみついている雄蜂がみられる。巣箱近くの地面で働き蜂に引きずられていく雄蜂もいる。雄蜂のほうがひとまわり大きいが皆、働き蜂にかなわない。どこまで引きずられるのか、どこに捨てられるのか、その先は知らない。
 天敵のスズメバチ類が蜂場に現われるようになるのは8月の中旬からだ。まずアカバチが出てくる。この種の蜂は和名キイロスズメバチとケブカスズメバチの2亜種がいる、というのはこのたび調べ直して知ったこと。そのうち北海道にいるのはケブカスズメバチのほうだという。違うとは思っていなかった。この蜂による被害はたいした事はない。巣門のそばを飛んでミツバチをとらえるが、力はあまりないし、執着も弱い。9月になるとクマバチ(オオスズメバチ)が来る。これは大きくて力もあり、そのうえ強い執着があるので、集中攻撃をうける。狙われた巣箱は全滅させられる。
 でも、天敵といえばいちばん怖いのは、やはりヒグマ。これには毎年多くの蜂がやられている。ヒグマの被害については、別の項で。

巣礎挿しと流蜜
 ミツバチの巣枠(巣脾すひ)は何度でも使いまわしが利くが、使っているうちには、だんだん痛んでくる。最初は全面働き蜂房だけのみごとな巣房になっているが、使われているうちに、周辺部が雄蜂の巣房に造り替えられたり、王台に造り替えられて、その王台がつぶされると、傷ついた跡には雄蜂の巣房ができてしまう。人が採蜜などの仕事中に傷つけたりすると、やはりその跡が雄蜂の巣房になる。要するに痛んでくるとは、ほとんどの場合、雄蜂の巣房が多くなるという意味なのだ。
 だから、巣枠は毎年かなりの数を新たに造らせて、補充していく。そのもっとも適した時期が採乳シーズン。新らしい巣礎を張った巣枠を巣脾の列のあいだに挿しておく。巣礎というのは蠟製の薄い板のことで、巣房の底の部分の六角形が表裏ともいちめんに刻印されている。これは蜂具の問屋に売っている。文字通り巣の基礎になる。それをあたらしい巣枠の枠内に貼りつける。
 巣枠の材料も統一規格されたものが問屋で売られている。それを組み立てて、タテ枠をささえにして、あらかじめごく細い針金をピンと張っておく。巣礎はこの針金でささえられる。巣礎の張り方はけっこうむずかしい。まず巣礎を針金に当てて立て、その針金のところにろうそくの炎を近づけて、少しずつ溶かしながら巣礎に針金を埋めてゆく。火の加減がむずかしく、慣れないうちはすぐ巣礎に穴をあけてしまう。
 そうして作った巣枠を蜂にあずけると、流蜜時期には3~4日で8分どおり巣を盛り上げている。巣はその時期におとずれた花の花粉の色をかすかに反映したうすい黄色をしている。しかし薄い蠟細工にすぎないからたいへんもろい。盛り上げるとさっそく産卵に使われるし、流蜜が多ければ貯蜜もされる。蜂児が羽化して出房するたびに、巣房の壁が厚くなり、茶色くなって、しっかりしていく。
 だいたい7月のなかばから天気や流蜜の状況をみて、巣礎を入れた。これは夏の採蜜とも関係がある。まず、天気もよくなって、流蜜もありそうだということで、とりあえず強群に巣礎を挿す。これで蜂がムダ巣を造る余力を巣礎づくりに向けさせる。数日で盛り上げるので、さらに条件がよければ2枚目の巣礎を入れる。蜂量が多い群では、この時期すでに、既存の巣枠だけでは蜂が止まりきれない。あぶれた蜂が巣箱の内壁や蓋のうらにまであふれている。だから、1~2枚巣が増えたくらいでちょうど良くなる。蜂の居場所ができるので、作業中に無為に蜂をつぶしたりする事が少なくなり、作業もしやすくなる。
 とはいっても、流蜜が盛んになると、とてもその程度では追いつかない。あっという間に後手にまわる。蜜は巣の上の方から貯められていくので、継箱がまず重くなる。巣枠の外縁の貯蜜圏が大きく盛り上げられて、急ごしらえに拡張されるからだ。ムダ巣ができて、そこにも貯蜜される。出蜂児(でほうじ)という羽化したあとの空き巣房にも貯蜜される。だから、女王は新たな産卵ができない。こうなると次第に真ん中の蜂児圏まで押されていく。これでは王乳を出す若い蜂が増えなくなる。それは困るので蜜をしぼる。
 夏に採れる蜜というと、北海道ではシナノキがよく知られている。いわゆるボダイジュの蜜として売られる。8月の上旬から中旬に咲くが、流蜜の量は年による差が大きい。シナノキはおもに山手に分布する。80年にはかなり流蜜があって他の部隊で採蜜したところもあったが、その年わたしが通ったのは、生花内沼に近い海寄りの地域だった。これは「おいかまないぬま」とよむが、「おいかまないこ」あるいは生花湖(せいかこ)ともいっていた。だから太い流蜜はなかったものの、8月10日、11日の2日間で150枚の巣礎を挿している。それなりになんらかの蜜が入ったようだ。が、結局4年間ではシナノキの目立った流蜜は経験できなかった。
 それより先、7月の上旬から中旬にかけてドスナラが咲く。この木の和名はハシドイで、北海道ではドスナラという。ライラックに近い種類で、白い花が立ち上がった房状に咲くと意外に木の数が多いことがわかる。帯広市内の街路樹にも使われている。やはり山手に多いのだが、丘陵地帯にも多く見られる。81年には7月17日、19日に採蜜しているが、これはおもにドスナラの蜜と思われる。この年、ドスナラの開花が7月12日、天気がよく、かなり気温も高く暑かったようだ。
 ほかにも夏を通して花が咲きついでいくし、花粉もよく運んでいる。しかし、それぞれ入ってくる蜜がどの種の花の蜜なのか、また花粉なのかなかなか確認できない。特に太い流蜜が期待できる花はないようだった。オオイタドリは気温が上がると流蜜するということを聞いたが、「このところ入っているのがそうらしい」という程度で、目立った流蜜は経験しなかった。

ミツバチの病虫害
 ミツバチにも病気があり害虫がつく。腐蛆(フソ)病といって幼虫が腐る病気。チョーク病という幼虫が白墨のように乾いて固くなる病気。ミツバチヘギイタダニというダニもつく。どれも伝染性や繁殖力が強いという。セイヨウミツバチによる養蜂もほかの農業や畜産同様、残念ながら抗生物質や殺虫剤なしでは成り立たないという面がある。日本国内のかなりの蜂群が腐蛆病の病原菌を持っているといわれる。
 特にこわいのはアメリカ腐蛆病で、蜂量の少ない弱群で出やすい。そのため秋には餌の砂糖水にまぜて薬が投与された。使われたのは抗生物質のオーレオマイシンやサルファ剤のダイメトンソーダだった。これらの薬が投与後どのくらい残留するのか、くわしいことは知らなかったが、一応採蜜する数週間以前までに使用するとされていた。わたしが仕事を辞めた翌年になるが、『ミツバチ科学』3巻2号(玉川大学ミツバチ科学研究所1982年4月)によると、これはテラマイシンの場合だが、投与後だいたい6週間でほぼ分解するという。80年11月28日の日記によると、抗生物質は81年4月から使用禁止になると記されている。
 毎年家畜保健所による腐蛆病の検査もあった。これは春先と夏に決まっていたのか、それとも転地先でかならず一度というような決まりがあったのか、よくわからない。検査で病気がでたら、最悪の場合、その蜂場の蜂全部焼却処分ということになる。
 チョーク病は当時、新しい病気だった。幼虫が発育途中で死んで、チョークのように白くなって固まってしまう。まだ、効果的な対策はなかった。
 ダニも以前はいなかったという。いろんな薬をやるようになってから増えてきたという話を聞いた。ミツバチにも病気があるということは、予備知識としては知っていた。だから決して養蜂が病んだ現代農業の諸相と無縁ではない、ということはある程度承知していた。しかし、生産優先のあまり、薬と病害虫の追いかけっこという歪んだ現状をつくり、生物としてのミツバチを不健康にしているという事実を見せられるにつけ、養蜂よおまえもか、という気がした。

ヒグマの被害
 4年間のうち、4年目以外はみなヒグマの被害を受けた。わたしは3年目のひと夏だけ、海よりの丘陵地帯や原生花園に近い方へ入った以外、3回の夏はクマに縁のある山手の蜂場で仕事をした。クマが出なかったのは最後の年だけだった。といっても、行動の時間帯がちがうから、クマに出会ったことはなかった。3年目の海よりの地域へ入った年にも、予備群を襟裳の山の中に置いて、やはりクマにやられた。
 日高山脈から山続きになっている場所は、低い丘陵でも、人里近くでもクマの行動圏のうちと考えられる。なかでも大樹町と広尾町の境を流れる紋別川沿いに入り、最終人家からもだいぶ奥になる館山という蜂場は毎年クマが出るところだといわれていた。
 1978年、最初の年。さっそく7月30日にクマの被害があった。場所はもっとも山手の館山だった。やられたのは採乳群とは別の、蜂場の奥に置いている小さい巣箱だった。予備の新女王を育てるための交尾箱と呼ばれる小群が2群やられた。それと木の枝についていたのをつかまえておいた分蜂群。やられた群は、箱や巣枠が発見できないのもだいぶあった。紋別川の河原のほうへ持ち去られていったらしい。
 このときのクマはそれから数日のうちに越中、開進という別の2ヵ所の蜂場にも出て、合計7群の蜂がやられた。館山と開進は紋別川の川上と川下、約4km離れている。越中は南側へ丘陵を越えて約4kmのところ。
 最初の被害のあと、早速近くの農家へ出猟を頼んだ。このあたりの農家はハンターが多く、数人で猟仲間ができているのだという。夕方と早朝に蜂場で待ち伏せしたというが、現われない。クマはかわりにハンターのいない蜂場へ出るのだった。8日後の8月7日、クマを仕留めたという連絡が入った。われわれのキャンプがある開進で仕留めたという。仲間の農家で解体するというので、見に行った。
 毛皮が腹側からすっかり開かれていて、シートの上に広げられていた。赤い肉がその中に横たわっていて、毛皮と接する背中の周囲に血のたまりができていた。最初に熊の胆が切り取られたと思う。意外に小さかったような気がする。なぜか、このへんのことは覚えていない。印象的な場面だったはずなのに、ほとんど忘れている。日記によると、身長180cm、体重150kg、5歳ぐらいとなっている。180cmというのはたぶん後ろ足で立たせて、頭までの高さをいっているのだろう。後ろ足で立たせて、前足を横木にかけて直立させ、ハンターたちといっしょに写真に収まっている新聞記事が残っている。肉をすこしもらってきて、晩に寮で煮てもらって食べたが、まずくて一切れしか食えなかった。
 それからいくらも経たない8月22日、開進の近くのとうきび畑にまたクマが出たという。でも、蜂のほうにはその後は被害がなかった。
 1979年、2年目。8月16日、他部隊の尾田という山手のキャンプにクマが出て、数群がやられたという。山手といっても、それより奥にも農家がある。牧草地や畑もあって、割合ひらけた場所なので、非常に意外だった。歴舟川沿いに出てくるらしい。翌日には去年につづいて館山が荒らされていた。採乳群2群がやられ、そのほかに数群が倒されたり、横向きにされたり、手をかけられた跡があった。空き箱に入れておいた蜜枠も荒らされていて、その後に盗蜂がついて蜜がからになっていた。またハンターが入ることになった。尾田の蜂場も2日続きでやられて、村中から数十名の鉄砲打ちが出たらしい。館山に出たのとおなじクマかどうかは不明だった。その後、21日まで館山、開進にも出たが、それきり出なくなった。
 9月になって、尾田方面にはやはり被害があるようだった。採乳はすでに終っているので、予定より早く蜂場を引き払ってしまった。越冬群の転地のための集荷場へ集めてしまったのだ。館山は採乳シーズンのあと、しばらく行けずにいるうちにまた6群がやられた。結局合計15群以上が致命的な被害を受けたことになる。「散歩の手帖」1号の「ヒグマは巣箱をどう運ぶか」は8月20日の開進の採乳群1群の被害状況を書いたものだ。
 1980年には早々と7月3日に館山で捕獲さる、と日記に記されている。捕獲となっているが、生け捕りなのか、仕留めたのか不明。しかし、19日には8kmくらいしか離れていない尾田に近い蜂場にもう出ている。その他、襟裳での被害が10群程度。
 というわけで、3年連続ほぼおなじ地域でヒグマにやられている。捕ると空いたスペースにまたすぐ別の個体が補充されるという繰り返しだった。

ローヤルゼリーの生産 ミツバチの話 その10

2007年09月28日 14時45分29秒 | 養蜂の話
ローヤルゼリーの生産
ミツバチの話 その10
王乳生産の原理
 採蜜とともに、養蜂の二本柱となるローヤルゼリーの生産。以下ではローヤルゼリーは王乳と記す。
 女王蜂は幼虫のときから王乳によって育てられ、生涯王乳を食べ続ける。だから王乳を生産するためには、女王をたくさん作ればいい。しかし、1群の蜂にはふつう1匹の女王しか存在できない。若い活力のある女王ほど新たな女王の存在を嫌って、王台をつくらせない。そこで、女王を引き離して、人工的な王台、つまり女王蜂が育つ巣房を用意し、その巣房の底に働き蜂の若齢の幼虫を入れてやる。王乳は若い蜂の体内でつくられて、幼虫のいる巣房や王台に分泌される。なかでも女王蜂のための特別の巣である王台の中には多量に王乳が貯められ、王乳の池の上に幼虫が浮かぶかたちになる。もっとも、王台は逆さ、下を向いて垂れ下がっているのだが。
 人口王台に移虫するのは働き蜂の若齢の幼虫でいい。というのは、女王蜂と働き蜂は同じ卵から生まれるからだ。働き蜂の巣房で少量の王乳によって育てられれば働き蜂、王台の中で多量の王乳によって育てられれば女王蜂となる。
 人工的な王台とは、プラスチック製の小さなお椀で、王椀という。蕎麦猪口のような形をして、口の直径は1㎝あまり。それが1本の棒に25個直列していて、これを移虫棒という。それを2本、巣枠とおなじ大きさに作った木の枠の中に、上下2段にかけて、蜂の群れの真ん中に差し込んでおく。これを移虫枠という。

採乳群の編成
 王乳生産をする蜂は採乳群という。採乳群の2段継ぎになっている巣箱の単箱、つまり下の箱に女王を下ろして、上の継箱との間に隔王板という網を張って女王の行き来を遮断する。隔王板の網目は働き蜂が自由に通れ、ひとまわり大きい女王蜂と雄蜂は通れない大きさになっている。
 巣門は継箱にも開けてあるので、働き蜂は2階からも自由に出入りできる。出入り口には滑走板というテラス状のうすい板が張ってあり、離着陸しやすいようにしてある。巣門は単箱の場合は高さ1cmくらいで幅10数㎝の幅広い切り込みになっている。継箱では直径1.5cmくらいの穴がふたつ開けてあり、採乳時期以外は滑走板をあてて釘を打ちつけて塞いである。女王蜂は交尾して帰ってきたら、もう分蜂しないかぎり外へ出ることはない。
 巣枠の枚数は単箱に6~8枚、継箱には6枚入れる。女王は単箱で産卵させ、蜂児をたくさん作らせる。そこでできた蜂児枠を上にあげて、やがて蜂が育って出房し、空になった巣枠を下におろす。この作業を編成替えといい、1群につき1週間に1度、定期的にやる。それには1ヶ所の蜂場の採乳群を三つにわけて、3分の1ずつ編成替えしていく。編成替えの作業は蜂の箱に向かう時間が長く、巣箱の上げ下げなど、中腰を強いられるのでかなりこたえる。雨でも休めないから、蜂が荒くてもやるしかない。
 この作業の大事なところは、編成替えの際に移虫に適した幼虫の多くそろっている巣枠を上げていくということ。これが、キャンプでの移虫作業の能率を左右する。つまり、産卵力旺盛な女王を多く持てば、おなじ日齢の幼虫が多数まとまるので、1枚の虫枠で移虫に使える虫がたくさん採れて、移虫作業が楽で早くなる。
 継箱のなかは6枚のうち内側の4枚を蜂児枠にするが、そのうち中央の2枚を有蓋蜂児枠、その外側を無蓋の蜂児枠にする。有蓋蜂児枠とは幼虫が育って蛹になり、蓋がされた巣房が多い巣枠のこと。無蓋蜂児枠はおもに卵や若齢の幼虫が多く、巣穴の底に幼虫の横たわっているのがのぞける。蜂児枠は額面蜂児といって、巣面の全体に蜂児圏がひろがった状態のものが望ましい。両端は蜜枠とする。中央は移虫枠を挿すために幅3cmほど空けておく。これで採乳するための蜂群ができた。

採乳の実際
 4ヵ所の蜂場で採乳群から引き上げられた移虫枠と、編成替えによって単箱から選び出された無蓋蜂児枠は、みなキャンプに運び込まれる。このときの無蓋蜂児枠は虫枠といわれて、この巣枠の若齢幼虫が人口王台に移虫される。
 移虫される幼虫の大きさは長さ3mmほど。いわゆるウジ虫の形で、これが中1日蜂にあずけられた末に回収され、えさ用に貯められた王乳と育った幼虫が採集される。基本的にはこの一連の作業が採乳シーズン中くりかえされることになる。
 ただ、ふたつのキャンプで、日々おなじことを交互に繰返していては人間が休めない。それで片方のキャンプで月、水と移虫して、もう一方で火、木と移虫したら金曜日と土曜日にはさらに小さな幼虫を移虫する。そして、中2日おいても、幼虫が育ちすぎないようにしておいて、日曜日の休みを入れる。そのために必要な虫は、長さ1.5mmから2mm程度で太さはこの文章の字の細めのところくらいの小ささ。これはミツバチの卵の大きさといくらも違わない。これくらい若齢の幼虫でないと、中2日おいた末に上げたとき、幼虫が育ちすぎてしまう。つまり王乳が食べられていて目減りしたり、水分がとんでやや固くなっていたりする。そうなると具合が悪いわけだ。
 先の中1日のほうをサンパチ(3・8)といい、後の中2日のほうをヨンパチ(4・8)といっていた。サンパチの虫というし、サンパチといえばその作業の流れ全体をさしていた。なぜそう呼ばれていたか忘れてしまった。時間的にはサンパチはおよそ48時間後に収穫、ヨンパチは72時間後になるのだが。
 仕事は朝5時過ぎから始める。実際の作業の流れは、まず朝一番にたとえばAの蜂場で編成替えして移虫枠と虫枠をあげてキャンプへいく。キャンプに着いたころ、採乳、移虫要員のおばさんたち4人を車に乗せた親方が到着して、すぐに運び込んだ移虫枠からの採乳、移虫作業が始まる。その間にキャンプの採乳群が編成替えされて、虫枠と移虫枠が上げられ、採乳、移虫へまわされる。小屋のなかで1ヶ所の蜂場分の移虫が済んだら、それを持って、Bの蜂場へ行って編成替えをし、虫枠をあげ、移虫枠と新たに移虫された移虫枠を交換する。この交換を「バクリ」という。バクリとは北海道の方言でとりかえっこのこと。そしてすぐキャンプへとんぼがえりする。
 その間にキャンプで新たに移虫のできた移虫枠をさらにCの蜂場へ運び、編成替え、虫枠あげ、移虫枠のバクリをしてキャンプへもどる。こうするとB、Cの2ヵ所で移虫枠の交換ができることになるが、そうスムーズにはなかなかいかない。1ヶ所だけの交換で、もう1ヵ所は編成替え、虫枠あげ、移虫枠あげだけやって、あとで新たに移虫された移虫枠を入れに行くことになる。サンパチの場合はできるだけ長く移虫枠を蜂に持たせて、すこしでも余計に王乳を貯めさせたいので、バクリを増やして、空き時間を減らしたいところだ。この前後でだいたい昼食になる。
 午後はCの蜂場がまだならCとキャンプの採乳群にまず移虫枠が返される。帰りがけにAの蜂場に最後の移虫枠と虫枠が返される。虫枠は使用済みのものから各蜂場の編成替えのときにも新たな虫枠と交換されてゆく。足りないときはキャンプの蜂群から工面するが、これが不足すると、移虫のおばさんたちの仕事も進まなくなる。蜂を管理する者としてはつらい。仕事が全部すんで、宿舎に帰るのはだいたい午後3時前後だった。
 一方、キャンプの小屋のなかのでのおばさんたちの作業はつぎのようになる。まず、移虫枠から移虫棒をはずし、盛り上げた王台の蠟をお湯であたためた包丁で切り落とす。つぎに王椀の表面に浮かぶ幼虫をピンセットで摘まみとり、プラスチックケースに溜めてゆく。これは「ラルバ」(幼虫)と呼ばれていた。王乳はヘラですくい取られて別のプラスチックケースに貯められてゆく。このヘラはアイスクリームやキャンディーに挿してある平たい木の棒が、再利用される。ちょっと削るだけで大きさが合うのだ。そして、クーラーボックスに入れられて、帰ったらポリ袋に詰め替えられて、冷凍保存される。空になった移虫棒は蠟カスなどが掃除されて、つぎの虫が移虫される。
 移虫するにはまず、虫枠を新聞紙にのせて長いほうの両辺の片方を二の腕にあて、もう一方を手のひらでおさえて安定させる。新聞紙をあてないとそこいらじゅう蜜でべたべたになる。王椀の並んだ移虫棒を虫枠のじゃまにならないところに置く。もう一方の手に割り箸を1本もつ。これは先をとがらせて、先端を耳かきよりずっと小さいが、耳かき状にすこし平らにしておく。しかし、ナイフで削っただけのかたい表面では虫に馴染みにくいというか、虫が乗りにくく、ほんのすこし、木の繊維をほぐす感じにする。使っているうちに、なじんでくるが、先端の状態は、こすれたり、水分をふくんで微妙に変化してくるので、時々削りなおす。
 巣房の底に横たわる適度な大きさの幼虫をすくいとり、王椀に1匹ずつ移してゆく。この作業が時間的にも技術的にももっとも中心になるもので、習熟度による差が大きく出る。それは虫の選び方、傷つけないすくい方、いかにそれを早く正確にするかということ。すくいやすさは割り箸のさきの削り方の良し悪しで、ずいぶん違ってくる。当然ベテランと初心者、得手不得手でこなせる仕事量がだいぶちがうので、移虫する棒の数が割当てられて、歩合給がつけられた。4人のうちからひとり班長がえらばれて、移虫棒の本数や仕事の段取りなどの采配をした。
 虫はサンパチよりヨンパチのほうがだいぶ小さいと書いたが、よく見えさえすればヨンパチのほうがすくいやすい。サンパチは虫が大きくなった分やや丸みがついて、ころころした感じになり、わずかのちがいだが箸のさきに乗りにくくなるのだ。移虫については、わたしは体験的にいくらか試みただけで、早くできるまでには至らなかった。
 以上が採乳の仕事の全体的な流れ。日曜日以外、毎日こなさなければならない仕事がかなり多い。ずいぶん時間に追われるし、手間隙のかかる作業のくりかえしである。おまけに雨、風おかまいなしの、待ったなし。はたから見ると牧歌的景観のなかでのんびりしているようだが、実際の仕事は非牧歌的で、当然といえば当然ながら、実利的、功利的で、こんなハズじゃなかったという思いもあった。

春から初夏の南十勝 ミツバチの話 その9

2007年09月28日 14時44分23秒 | 養蜂の話
春から初夏の南十勝
ミツバチの話 その9
 転地養蜂の1年間のうち、もっとも長い滞在となる北海道の南十勝地方。そこでのおもな仕事はローヤルゼリーを生産すること。ローヤルゼリーがどんな環境のなかでどのように生産されるのか、今回から3回にわたって書いていこう。ローヤルゼリーは王乳とも呼ばれ、女王蜂を育てる食べ物として知られる。その王乳を採ることを採乳、またはゼリー採りといっていた。
 蜂蜜の生産は、花があって、蜂が蜜をあつめ、巣に貯められた蜜をしぼるというわかりやすい過程である。それに対して、ローヤルゼリーの生産の仕組みについては言葉の普及しているわりには、一般にはよく知られていないと思う。どちらも充分な準備がもちろん必要だが、採蜜の場合、最後は蜂まかせ、天気まかせ、花まかせという、自然の采配にゆだねるところが大きい。しかし採乳では、採乳技術そのもののほかに、蜂の管理、人使いなど、総合的な力が生産を左右する。
 そこでまず、初夏の南十勝の自然環境もつづりながら、ローヤルゼリーの生産開始までの準備過程をふりかえる。

人とものの準備
 本州中部で梅雨入り間近という時期に、ここ北海道南十勝へやってくると、春はまだはじまったばかりという感じがする。実際、咲いている花を見れば、5月末ではタンポポやエゾエンゴサク、山裾にはまだオオバナノエンレイソウ、ニリンソウなどが咲いている。これらはみな春先の花だ。東京周辺よりひと月半くらい遅い。ニセアカシアはまだ、芽もふいていない。雪こそないが、あたりは緑よりも枯草色のほうが勝る。
 西に延々と連なる日高山脈にはまだ残雪が多く、とくに氷河の跡をとどめるカール(圏谷)には豊富に残っている。このあたりから近くに望む南日高の山なみはすでに、標高1700m以下で、形のいいカールはない。その中で一際豊富に残る雪がカールの位置を示している。これから当分の間、次第に細って行く山の残雪を気にしながら、急速に初夏に向かっていく自然のなかで、採乳の準備にあわただしく過ごすことになる。
 5月末から6月初めにかけて人と蜂がようやく大樹町を中心に集結する。ここでは夏の採乳シーズンを通してほぼ規則的な仕事のパターンをくりかえす。
 大樹町は帯広から南へ50数km、人口7000人あまりの町で、西の境は日高山脈、東は太平洋に洗われる。市街地の真ん中を中部日高に水源をもつ清流、歴舟川(れきふねがわ)が流れる。これから10月の末まで、約5ヶ月間をこの町で過ごす。
 北海道では、町や村でもその中心地を「市街」という。その市街の南のはずれに宿舎がある。食堂や作業場、資材置場なども併設されている。大樹町には親方衆7人のうち3人が住まいをかまえており、北海道シリーズの間は自宅から通う。それ以外のメンバーは親方衆も若手も、みな、この宿舎に入る。それに採乳作業の関係に20人の地元の主婦を雇い入れている。これが5つのグループに分けられる。そのほか箱作りや、巣枠作りなどの木工作業に数人、賄いにひとり、それぞれ雇い入れている。
 5つのグループはなぜか部隊と呼ばれていた。だれがつけた名か、ちょっといかめしい。それぞれは5つの色、つまり青、赤、黄、緑、オレンジという名がつけられて、たとえば青部隊と呼ばれる。ふつうはあお、あか、オレンジなどといっていた。
 各部隊の長はそれぞれの蜂群の責任者で、農事組合法人の組織者だが、経営組織についてはよく知らない。下に配属されるものは毎年組み替えられる。夏ばかりではなく、年間を通じて基本的には部隊長である親方、それに助手がひとりつく。わたしも助手の立場だった。いそがしい時期だけは、なじみの地元の衆、たとえば親方の知合いなどが助っ人にくる。転地や採蜜のときなどがそうだが、採乳シーズンには学生アルバイトも使った。それと、フィリピンからの養蜂技術の研修生も毎年2人ずつ受け入れていた。
 人の組合せは毎年春先のシーズンはじめに発表された。鹿児島では県内にひろく分散しているので、それぞれの担当する蜂場の近くに別れて宿を借りているが、夏場の採乳シーズンは宿舎があって、毎日顔をあわせる。だから各部隊間の競争意識がかなり刺激される。
 蜂場も毎年入れ替えがあった。それは自然環境、要するに蜜源の良し悪しがあるからで、不公平感を調整する必要から、人も蜜源も固定されていなかった。このあたり、農事組合法人の運営のむずかしさがあったと思う。
 採乳では1部隊が8ヶ所の蜂場を持っており、それがさらに4ヶ所ずつに2分されて、この4ヶ所が1日の仕事をおこなううえでのひとまとまりになる。4ヶ所のうちの立地のいいところに小屋が建ててあって、そこをキャンプといっていた。立地とはこの場合まず、道路から入りやすいところ。農地や空き地の草の上や泥道を入っていくので地盤がしっかりしていないとすぐにぬかってしまい、車がスリップして立ち往生することになる。数日雨が続くとつらい。ついで南側がひらけて採光のいいところ。キャンプの小屋は板張り、トタン屋根、5~6坪の小さなもので明りもない。それで南側に大きく窓をとっている。採乳のうちのもっとも肝心な仕事はこまかい作業なので、天気の悪い日には自然光だけではちょっとつらい。そして、できれば他の3ヶ所へ行きやすい、つまり位置的に中心になるのが望ましいがそううまくはいかない。小屋の裏にはトイレが建てられる。地面に穴を掘って板を2枚渡し、トタンで囲って屋根もつける。
 小屋の中には、窓側にくくりつけの作業台、人数ぶんの腰掛。真ん中には大きいテーブル。ここで昼食もとる。仕事には火も使うので、プロパンガスとコンロ、水も必要だし、お茶ぐらいは飲みたい。水は20リットルのポリタンクに宿舎で汲んで車に積んだが何本だったろうか。ほかに採乳作業がはじまると、採集したローヤルゼリーを入れるためのクーラーボックスと中にアイスノンが数個。
 こういったところがだいたい採乳態勢の準備として整えられていく。人とものの準備はこれくらいで、つぎにミツバチの準備について。

採乳群への蜂の準備
 一方蜂のほうは大樹町、その北隣りの忠類村、更別村、それに南隣りの広尾町の一部にひろく分散させている。4町村のいずれも小さい市街を持つほかはほとんで農耕地と丘陵、河川で占められる。寒冷地なので農地の多くは牧草畑とデントコーンの飼料畑で、野菜などの換金作物はない。十勝といえば豆類が有名だが、海に近い大樹町では見かけない。夏は海霧が入るので内陸部よりかなり涼しい。そのためふつうの野菜類や豆類は育たないのだろう。大きく区切られた耕地の境はたいていカラマツの防風林で守られている。なぜ冬に葉を落とすカラマツなんだろう。冬以外の風への備えなのか。飛砂防止か、海に近いところならむしろ防霧林の役割かもしれない。
 採乳用の蜂を置く蜂場は全部で40ヶ所ほどあり、それを5つのグループが8ヶ所ずつ受け持つ。各蜂場の間隔は地形や置き場所の都合で多少遠近はあるが、4km前後離してある。これはミツバチの行動半径が約2kmといわれているからであるが、実際にはやや過密ぎみになっていたと思う。
 ミツバチの巣箱を置くのは農耕地のすみ、カラマツの林内、シラカバの若木の植林地、離農した農家の跡地、原っぱなどで、静岡や鹿児島で置き場所に苦労するのとはずいぶん違う。ひらけていて、平らで、まわりから苦情もなく、車が横づけできて、この仕事の環境として申し分ない。
 さて、先発で北海道入りした人や地元の人たちが大型トラックでつぎつぎに到着する蜂群を受け取る。とりあえず牧草地などを一時的に借りて、そこに全部下ろして、巣門を開けてゆく。長旅で死蜂の多く出た群では巣門を開けても、死蜂が底板につもって出口をふさぎ、蜂が出入りできない場合もあるので、巣門の口だけ掻き出しておく。そのあと、蜂の受け取りの合間を見ながら、決められた蜂場に分散させてゆく。次第に北海道入りの人手が増えていき、各部隊が別れて近距離の転地や蜂の世話がはじまる。
 これからの世話は、内検しながら採乳群作りをするということになる。分蜂採りもこの時期にもっとも多い。
 分蜂とは蜂の巣別れのことで、分封とも書く。ミツバチは春から夏に巣分かれして新たな群れを作っていくので、採蜜と転地のくりかえしで目が行き届かないうちに巣分かれの準備が進んでいる群がある。分蜂は蜂場のまわりの木の枝などにかたまってぶらさがっているので、空の巣箱にふるい込んで巣枠を2~3枚入れておく。こうしておけばそのうち新女王ができて、予備群として使えるようになる。
 内検で見ていくのは死蜂の掃除、ムダ巣の除去、餌が少なければ、砂糖水の給餌、幼虫や産卵圏の大きさ、王台の有無など。
 産卵がさかんにされていれば女王が健在ということになる。王台を作っていないか。王台とは女王の幼虫が入っている巣房のこと。働き蜂とちがって、別あつらえに出来ている。あれば予備の群のための新王にする目的で別の箱に移す。余分の箱がなければつぶす。仕事がいそがしくて、手がまわらなくて、とりあえず分蜂防止のためにつぶすこともある。まず女王が1年目か2年目で若く、産卵力も旺盛なら問題ない。不慮の事故ということはあるが。
 旧王または旧女王といって、個体差がかなりあるのだが、3~4年産卵しつづけると、さすがに産卵力が衰えてくる。そうなると世代交替の機運が増してきてさかんに王台を作るようになる。その中から大きくて形のいい王台をひとつ残してほかのはつぶし、新女王の誕生を待つ。旧王は2~3枚の蜂つきで分けておく。
 新女王が生まれたら、数日すると外へ飛び出して、交尾してくる。これで女王の更新が終了する。ただしその間、つまり王台ができてから交尾してきて産卵を開始するまでの期間、その群の拡大は止まってしまう。これは経営的にもマイナスである。
 そこで、予備群を生かす。鹿児島や静岡で荷造りの際に、転地のさいの危険回避のために多すぎる蜂の群から蜂付き、卵付きでぬいて、寄せ集めてつくった小さい群がある。それらにはたいていこの時期になると交尾のすんだ新女王が出来ている。その産卵力のさかんな群と合同する。こうすればブランクなしに強群を維持、または増強することができる。内検中に未交尾の女王がみつかれば、王籠といって、小さい網籠に未交尾女王を入れて、無王群の中に入れてやるという方法もある。しかし、わざわざ王籠を使わなくても、ゼリーか蜜を体につけて入れてやれば、受け入れてもらえる。産卵のおとろえた旧王はどんどん新王に換えていきたいのは当然だが、新王の予備群がなければ卵から育つのを待つしかない。
 すでに、王の不在期間が永くて弱群になっていれば、その群自体を解消して、他の群に合同してしまう。
 女王の不在期間が永くなり、女王になれる働き蜂の卵や若齢の幼虫もすでに無いと、じつは働き蜂が産卵をはじめる。これを「働産」という。「働蜂産卵」という意味で、働き蜂もじつは雌で、産卵能力がある。針は産卵管が変化したもの。ただし、受精していないので、生まれてくるのは雄ばかりになる。黒々した雄ばかりが巣箱のなかに群れていると、もうその群は滅びたも同然。ふたをあけると、ざわざわという羽音と落ち着きなく動き回る音が湧きあがってくる。手がまわらずに、ここまでしてしまうこともある。
 女王の更新については、いろいろな状況で対応がちがってくる。そしてローヤルゼリーの生産にも密接に関係している。それぞれの状況とその対応はその蜂場全体、また全蜂群の数をどうするかという中で考えることなので、一様ではない。
 要は産卵力のさかんな女王を持つ群を如何に多く持つかが重要で、これがローヤルゼリーの生産をも左右する。
 ミツバチは各群の独立性があり、他の群の個体を排除する性質があるので、不用意に別の群といっしょにすると蜂たちはケンカして、死屍累累ということになる。しかし、自然条件が良く、ミツバチに余裕がある夏場の前半までなら合同は案外たやすい。
 たとえば新王群を持ってきて、合同したい弱群をどかして、その位置に据え置き、弱群の蜂は巣門のそとに振るい落としてやる。落とされた蜂はぞろぞろと行列をつくって、巣門から入ってくる。これで、ほとんど無事に合同できる。
 しかし、8月半ばを過ぎて合同するときは、新聞紙合同というやり方をする。その方法も簡単なもので、まず、合同させたい新王群を置き、上に重ねる継箱との間に新聞紙をかぶせる。そして継箱に無王群の蜂をそっくり移してふたをする。あるいは、受け入れる巣箱のなかに合同する巣枠の枚数ぶんだけ空きをつくり、そこに新聞紙を敷いて周囲もすっかりおおって、蜂が出入りできないようにする。その中に蜂を巣枠ごと入れて、包んでしまう。継箱の出口はふさいであるので、蜂はなんとか外へ出ようと、一生懸命新聞紙を噛みやぶっていく。下の蜂もこんなじゃまなものは早く取り除きたいと思うのか、やはりさかんに齧り、共同の目的に邁進、集中しているうちにケンカせずに混ざり合うということになる。それでだいたいうまく合同できている。なお、新聞紙には一寸釘でプツプツ穴をあけておき、蜂が破くきっかけを得やすいようにしておく。しかし、できるだけ合同は簡単かつ確実な夏のシーズン中に済ませるのがいい。
 こうして、各蜂群が採乳群として使えるように群勢を整えていくことがこの時期の仕事だが、これらの作業は、実際には採乳群づくりと平行して行なわれる。
 また、各業者は飼養できる蜂群の数に制限がある。養蜂協会のなかで、業者間の分布調整会議というのが毎年あり、どの地域に何群までということが決められる。だから人手がある、蜂に余裕があるといって勝手にふやすわけにはいかない。したがって限られた数のなかで、優勢な蜂群を保つことが仕事の効率からいっても経営上のコストからいっても重要になる。このことは、なにも採乳前の時期にかぎったことではない。年間をとおして、蜂群を優勢に保つことが、生産力の向上には欠かせないし、病気や害虫に対する抵抗力という点からも大事だ。
 タンポポの花が終わりエゾニワトコやライラックが咲き出した。山の雪もだいぶ減って、細々と谷筋にのこるくらいになった。これでいよいよ長期にわたるローヤルゼリー採りへ入っていくための準備ができた。

ミカンの花咲くころ ミツバチの話 その8

2007年09月28日 14時42分25秒 | 養蜂の話
ミカンの花咲くころ
ミツバチの話 その8
 人の移動はおもにカーフェリーによった。それぞれ使用の車に身の回り品や仕事の道具などを積んで、乗り合せていく。採蜜から蜂の送り出し、そして、転地先では直ちにミカンの採蜜。当分の間は息をつく間もないような日程が続くので、フェリーに乗って寝て行けるのは有難かった。船は鹿児島の谷山港を出て志布志、高知に寄り、大阪南港に入る。あとは高速道を静岡県の清水まで走る。清水は本拠地で、蜂蜜の充填、加工施設、事務所、そして宿舎もある。
 
ミカンの採蜜
 清水に滞在するのは、5月中旬から6月上旬だが、年によってかなり長短があった。それはミカンの花に裏年と表年があるということも関係あるのだが、個人レベルの動きではさまざまだった。人のやりくりの関係で最後まで留まったり、そうそうに北海道へわたって蜂の受け入れ態勢を整えるという役割の人もある。
 蜂場は全部清水市内だったか、一部静岡市にかかっていたかもしれない。市街地をとりかこんでいる周辺部のミカン山にもうけられた。日本平の中腹から興津川をすこしさかのぼった山間部までの間だった。
 わたしの場合は、1978年は11日間、79年は4日間、80年にも11日間、81年が29日間ミカンの時期の清水に滞在している。このうち78年と80年はミカンの裏年で蜜も不作の年、79年はまずまずだったらしい。
 81年は豊作で、蜂蜜の収量も多かった。この年の場合、採蜜は5月20日から6月8日まであり、ミカンの蜂蜜の収量は1群あたり8升4合となっている。つまり何回か繰返して採蜜するのだが、合計が蜂の箱1箱あたり約15リットル、重量で約20kgとれた計算になる。1群あたり一斗缶1本を超えた蜂場もあった。この年わたしは先発で5月19日に清水入りし、北海道送りの蜂の最終車まで留まった。清水を発ったのは6月17日であった。
 しかし不作の年は暇だから、変わりに巣箱づくりをやったりしている。採蜜どころか砂糖水を給餌している年もある。鹿児島で蜜をしぼって、蜂量は多いにもかかわらず、あまり餌のない状態で清水入りしている。だからミカンで流蜜がなければたちまち餌不足になる。80年には北海道への積み出しまえに給餌している。
 ミカン山というくらいだから、ミカン畑はほとんど山にある。平地にもわずかにあって、そういうところでは、蜂の箱も置きやすいし、仕事もしやすい。山の場合はかなりの急傾斜地にもある。そのうえ、ミカンの木は農作業がしやすいように樹高を低く剪定してあるので、枝がじゃまして歩きにくい。人の背とあまりちがわないところから枝が張っている。そこへもってきて、ミカンの木は枝が硬く、つんつんしている。面布という蜂をよけるメッシュのこまかい網を顔にかぶっているので、余計ひっかかりやすい。おまけにミカンの木には刺がある。
 と、思いつつなぜか刺の記憶があまりはっきりしない。確かにミカン畑のなかを歩き回って仕事をしていて、刺にひっかかった覚えがあるのだが、刺のない木もあったような気がする。そこで『原色牧野植物大図鑑』をひらいてみると、ウンシュウミカン、つまり温州みかんには「枝にとげなし」となっている。ほかにミカンでは、ユズ、スダチ、ナツミカンなどには刺があるという。そうするとナツミカン系の木で刺にひっかかったのだろうか。いまさらになってどのミカンの木にも刺があるというわけではないということを知った。
 この時期の天気は梅雨入り直前で、湿気が多く、ミカン山での仕事は快適とはいえない。仕事の内容も、荷解き、採蜜、荷造り、集荷、積み込み、おまけに給餌があったりする。短い期間にいろいろな仕事が集中して落ち着ける時がない。時間的にも早朝の採蜜、夜中のトラック積み込みなど不規則になる。だからミカンのころのことを振りかえると、あまりいい印象はない。
 興津川のアユがこのころ解禁になる。川のすぐわきの低い段丘の上に蜂場があって、そこで採蜜の仕事をしていると、釣り人ののんびりした様子がやけにうらやましかった。早く北海道へ行って落ち着きたい、というのがこの時期の皆の一致した気持だったと思う。
 そんな清水での滞在もあっという間に終り、つぎへの移動がはじまる。蜂の一部は秋田県へ向かうが、大部分は北海道、十勝地方南部の大樹町とその周辺へ行く。人の方は東京~苫小牧間のカーフェリーを使う。東京へは途中までは高速道を行き、ちょっとはずれて実家へ立ち寄っていく。当時の日記をみると、4年目だけは一晩泊まっている。東京港の有明埠頭は夜中に発つ。翌日は1日海の上で、そのつぎの日の早朝苫小牧港に入る。樽前山のゆるやかな山体、広く裾野をひく姿が正面に大きい。

春の転地 ミツバチの話 その7

2007年09月24日 20時29分27秒 | 養蜂の話
春の転地
ミツバチの話 その7
 蜂の入った巣箱をほかの土地に移動させることを転地という。転地というと転地療養ということばが連想されるのではないか。わたしもはじめてこのことばを聞いたとき、結核患者などの「転地療養」がすぐ頭に浮かんだことを覚えている。確かに気候のいいところへ花を求めて行くのだから、転地療養みたいな……、とも思う。しかし、そのための準備、段取り、そして実際に移動するということはたいへんなエネルギーのいる、またリスクの大きい仕事だ。なかでも、春の、といっても実際には初夏の、暑い日には人もたいへんだが、蜂にとっては文字通り命がけの体験になる。では、おもに鹿児島から蜂を送り出す時の転地、その一部始終を。

転地の時期
 5月の連休明けとともに転地の準備がはじまる。わたしが従事したのは農事組合法人組織の団体なので、蜂の全群数は少ない時期でも3000群もあった。それを7つのグループで分担していた。蜂群の分担の内訳は大小いろいろだし、共同作業の平等化などの配慮はどうはかられていたのか、その工夫なんかについてはわかりにくい面があった。それはともかく、転地という人手のいる、また時期の集中した作業には事前の打ち合わせが必要だった。それはすでに4月末には済んでいる。
 ところで咲き初めにピンク色だったレンゲの花は受粉が終ると赤黒くなる。だから採蜜のおわりころのレンゲ田を眺めると全体に赤みが濃くなって一見まだ花盛りのように見える。これは言われて気づいたことだった。花の赤さにちがいがあって、その色でまだしぼれるかどうかわかるのだった。場所によっても花の持ちがちがい、ほかよりも遅くまで採蜜ができるところがある。微気候や耕地の管理によるのだろうか。そういうところでは、転地にそなえて蜂の箱の荷造りをする一方で、まだ採蜜もするし、抜きしぼりといってそれぞれの群から数枚だけ巣枠を取り出して採蜜することもある。
 転地の時期は5月の連休明けから2週間くらいの間で、その2~3日まえから荷造りが始まる。転地先は静岡県清水市、秋田県内、北海道南十勝などである。

蜂の分割
 転地でもっとも大事なことは、蜂を安全に目的地にとどけること。すべての作業はそのことを念頭におこなわれるはずだ。なかでも最も大切なのは暑さ対策である。この時期は真夏並みの陽気にぶつかる可能性もある。蜂は本来暑さ寒さにはかなり強く、蜂自身が温度調節をするので、いつも、巣の内部を適温にたもつことができる。しかし、輸送中の、巣箱を積み上げた状態ではそうはいかない。風通しが悪いうえに、外へ出られない状態が長時間つづく。走行中の振動も蜂を興奮させるだろう。蜂の密度が濃いところへ、陽気が暑すぎて巣箱内の温度が上がると、最悪の場合、蒸殺といって、要するに蒸し殺しになって全滅することもある。暑さのために蜂が騒いでパニックになり、そのためさらに温度が上がり蠟でできた巣も溶けて、阿鼻叫喚、焦熱地獄の様相を呈するらしいが、実際の状況は見たことがないのでわからない。
 わたしのいた4年間にはトラック1車(250群前後)全滅ということはなかったが、そのうちの数群から10数群に全滅がでることはありがちだった。輸送中が雨ならありがたいが、そうでなければトラックにはできる限り走りつづけてたえず風が入るように注文をつけておく。しかし、養蜂業者がトラックに同乗することはなかった。
 したがって、少しでも危険を回避するために、事前に蜂の分割をする。あらかじめ蜂の量を減らし巣枠の数も減らして空間を作っておく。採蜜のとき、たいていの群は単箱に6枚、継箱に9枚の巣が入っているので、そこから蜂がついたまま2枚くらい取り分ける。それで単箱に5枚、継箱に8枚が平均的な巣枠の枚数になる。こうして複数の群から寄せ集めた巣枠で新たに一群をつくり、かならずその中に卵か、ごく初期の幼虫のいる巣枠を入れておく。そうするといずれ、王台をつくって新たな女王のいる一群ができる。あれば王台を入れておくのが一番いいのだが。その王様づくりの話しはまた別の時に。
 一群あたりの蜂の量を減らしておくとはいっても静岡県清水市行きは、着けばすぐにミカンの花盛りである。集蜜力を考えれば、できるだけ一群あたりの蜂の数を減らさずに強群のまま送り出したい。そこで、半継ぎ箱というのを使う。半継ぎの箱というのは周囲は継箱とおなじ大きさで、高さ、つまり深さがその半分に作ってある。継箱のさらにその上にのせて、それからふたをする。これで箱半分だけ余計に空間ができるわけで、蜂の密度が下がり安全性が高くなる。しかし、大きくなるし重くもなる。これを蜂場からトラックまで肩にかつぐのだから、うれしい人はあまりいなかった。非力なわたしなどには好きになれないシロモノだった。

荷造りの仕方
 蜂の巣箱はすべて木と釘でできている。中の巣も木製で、釘と金具で組まれている。巣枠の上辺の両端は巣箱の内側の桟にかかっている。荷造りのさいは、巣枠の両端に釘を打って桟に固定する。釘を打つまえに巣枠をバールでしっかり片側に寄せて、巣がゆるまないようにする。そしていちばん外側の巣枠2枚の両端を釘付けするだけである。これには一寸釘を使う。8~9枚巣枠が並んでいても外側の2枚しかとめない。これでもよほどタテに振動させたり、巣箱を落としたりしないかぎり、中の巣が桟からはずれることはない。これには、蜂がつくる蠟とヤニで巣枠が箱の桟にくっつきやすくなっているということもある程度貢献している。実際、冬でなくても気温の低い日には、巣枠はヤニで箱の桟に接着された状態で、バールでこじりおこさないとはがれない。
 釘で巣枠を打ちつけたら、巣箱にはロープがかけられる。ふつうの採蜜群はみな2段の継箱なので、2段のままロープでしばる。ロープはあらかじめ長さを調整して、一方の端を折り返して輪をつくり、先端を編みこんだものがつくってある。ロープの一方で巣箱をひと巻きして、その先を輪にとおしてしぼりあげて縛る。こうして、あとは運び出されるばかりとなる。

巣箱の集結
 蜂場は鹿児島県内の各地にあったが、わたしが関係した場所はおもに県の北西側にあった。町でいうと伊集院町、東市来町、樋脇町、川内市といったところ。輸送計画にしたがって、蜂場から運び出して臨時に借りた空き地に集結させる。空き地は大型トラックが横付けしやすい国道3号線のわきが選ばれた。しかし、国道脇で巣箱を一時的とはいえ、250群もの数を並べるのだ。巣箱の間隔だって最低でも1m近くは欲しい。さらに大型トラックまではいれるところとなると、簡単には見つからない。あのころはそこまで心配する立場になかったが、いつもおなじ場所というわけではなかったことを思うと場所探しにはかなり苦労があったと思われる。
 適当な場所がなく、あまり遠くまで運んで集結させるのもたいへんということで、国道わきで車から車へ積み替えということもあった。ふだん仕事で使っているトラックは1トン車か2トン車なので、蜂場から運び出しては大型トラックに横付けして積み替え、また別の蜂場へ取りに行くという作業になった。これでは、積み終わるまでに非常に時間がかかる。それが全部夜の作業になる。もちろん日中は蜂が飛び出しているからだ。
 蜂場から蜂を運び出すには、まず巣門をしめる必要がある。日中は蜂が出ているからしめられない。雨の日は蜂が飛ばないから、いくらか早めに作業ができそうなものだが、この時期、雨でも気温はかなり高いことが多いから小雨程度では案外蜂は飛んでいる。やはり、日没を待つことになる。気温が高いと夜になっても、巣門の外で蜂がかたまっている。夕涼みしているようだ。燻煙器で煙を吹きかけては、蜂をひっこませたり、じょうろで水をかけたりして、なんとか蜂に巣箱の中に入ってもらって、巣門をしめる。蜂は煙をかけられるとおとなしくなる。燻煙器はだから養蜂にはかかせない道具。燻煙器の話はまた別の時にするとして。
 巣門をしめた巣箱から直ちに運び出す。ロープを握り、箱の底に手をかけて一気に肩へ担ぎ上げる。鹿児島からの転地は餌が少なくて、軽いからこれができるが、秋の北海道から越冬地へ送りだす時は翌春までの餌にする蜜で重いから、ふたりで運ぶことが多かった。もっとも、鹿児島は狭い場所が多いから、ひとりでないと歩けない。軽いとは言っても、暗い、足元の悪い田んぼの畦道や休耕田みたいなところばかり歩くので非常に神経を使う。明りは車のライトを向けておくだけだから、横から一部を照らすだけの闇ばかり強調されるような心もとなさ。それでもだれもケガなどしないのは、気が張っているからだろうか。
 ときには、まだ巣門が閉められていない巣箱をうっかり担ぎ出すこともある。暗いなかでは蜂の動きもわからないので、巣門が空いていても刺されるまでわからなかったりする。なかには、箱が痛んでいたり腐っていたりして、漏れ出た蜂が箱の周囲にたかっていることもある。
 こうして、各地の蜂場から集結場所に大型トラック1車分の巣箱が集まってくる。

大型トラックへ積み込み
 日が暮れかかってくると、蜂の飛び方が少なくなってくる。日の永い時期だから、蜂が飛ばなくなるまでの時間が待ち遠しい。
 大型トラックには最大255群の巣箱を積んだ。計算してみると、巣門の方を進行方向に向けて、横5列にならべ、3段に積み上げるので、これで15群。それが255群となると最後尾までで17列ということになる。荷台の最前部の壁にぴったりつけてしまうと風が通らないので、垂木数本を井桁に組んだものを最初に立て掛けておく。巣箱は巣門の戸を下ろすと、その蔭は網を張った窓になっていて、移動中にはその窓から風が入るように作ってある。荷台のあおりは低いほうがいい。そういうトラックを指定するのだが、そうでない時はあおりをはずしてもらうこともあった。
 積み終わると、当て板を最上段の巣箱の外縁にならべて、ロープで締め上げていく。当て板は長さ数m、幅10数cmほどの2枚の板を平行にならべて、2、3ヶ所で平たいゴムを釘で打ちつけて固定したもので、自転車の古タイヤなどを切って使っていた。これで数列の巣箱が一度に締められる。
 こうして荷造りがすべて終ると、直ちに出発してもらう。この作業が約2週間、連夜にわたってトラックが送り出される。採蜜から始まったあわただしい時期はまだまだ続く。

ロウ炊き ミツバチの話 その6

2007年09月24日 16時41分23秒 | 養蜂の話
蠟炊き
ミツバチの話 その6

 養蜂の生産物は蜂蜜やローヤルゼリーばかりではない。ほかに副産物として、蜜蠟、蜂の子、巣蜜などを製品化することもできる。蜂の子とは蜂の幼虫を佃煮にしたもの、巣蜜とは10cm四方くらいの枠に巣をつくらせてそこに蜜をためさせ、蜜蓋をさせたもの。巣ごと食べることができる。といっても、蠟分が口に残って多少滓っぽいのだが。わたしの従事した農事組合法人では蜜蠟は採っていたが、蜂の子と巣蜜は生産していなかった。
 そこで今回は蜜蠟(みつろう)の生産について話を進める。生産とはいっても、積極的に働きかけていくのではない。生産物としての位置付けはあくまでも副次的なものだった。でも養蜂業一般についてそう言いきれるかどうかわからない。蜜蠟の価格や販売ルート、産業面での利用状況などもわからない。価格については1kg1000円で問屋に渡すと聞いたが、正確なところはどうなのか、どの程度変動があるのかなど、当時、関心もなかった。ここでは、生産現場に限って述べていこう。というわけで、題名も「蠟炊き」となった。
 
ムダ巣
 養蜂の現場からの立場でいうと、つまり、蜂の管理という点からいうと、蜜蠟をたくさん収穫するというのは、決してすぐれた管理とはいえない。どうしてかと言うと、管理不充分の場合に多くのムダ巣がかかり、その結果として蜜蠟が手に入るからだ。
 蜜蠟の多くは流蜜のさかんな時期に取れる。それは既成の巣枠以外のところに、ミツバチが勝手につくった巣を、採蜜や蜂の手入れのときにはがしとったものだからだ。そんな巣をムダ巣といった。ムダ巣を多くかけるというのは、つまり、養蜂家の管理が蜂の勢力や蜜源になる花の状況の変化に追いついていないということになる。蜂はさかんな流蜜に対して、あてがわれた巣枠だけでは間に合わなくなって、巣枠の横や下縁に巣を作り足すのだ。
 しかし、そうはいっても500群(箱)からの蜂を2~3人で見ていて、そう適正な管理ができるというわけにはいかない。その結果ムダ巣を作らせることになる。ムダ巣はほとんどの場合、雄蜂用の巣房になっている。だから、つぶすことは惜しくない。たまに、働き蜂用の巣房をつくることもある。これは女王蜂の産卵力が旺盛で空き巣が足りないという状態の時と考えられる。その働き蜂用の巣房に卵はおろか、もう幼虫もかなり育っていたということもある。予備群として、新女王の養成を目的に分けた小群をそのまま、忙しさにかまけてほったらかしておいた時などにこんなことがおこる。しかし、木の枠にはまっていない巣は以後使うことはできない。ムダ巣はほとんどの場合、雄蜂用の巣房になってしまう。これは新しい巣枠の作り方の話をするときに。
 さて、ムダ巣は要するにミツバチの活動が活発であり、花がつぎつぎに咲いて生活条件もいいという証拠である。それは採蜜の時期やローヤルゼリーがさかんに採れる時期ということになる。

ムダ巣あつめ
 大きいムダ巣は継箱の巣枠の下縁から垂れさがる場合が多い。継箱に巣が9枚並べてあって、単箱の巣がそれより2~3枚少ないと、下の箱の中のには巣の少ないぶんの空間ができる。そこへ蜂は必要を感じるとせっせと新しい巣を上の巣枠から増築することになる。採蜜やそのほか、蜂の手入れのときには、ムダ巣があるのにそのまま継箱をはずすと下ろした時に蜂をつぶしてしまう。だからまず、ムダ巣を作っていないかどうかを確認する。あれば最初にこそげとって、巣門の前に置いておく。たかっている蜂はすぐに巣箱に入ってくる。すでに蜜や花粉が貯蔵されているときは、巣箱内の底におく。これらムダ巣は作業の終りや、時間の空いた時に集められる。
 「散歩の手帖」5号の挿絵「採蜜風景-分離器の周辺」には、いちばん左に2段継ぎの巣箱があり、ふたがあけてある。ここには巣枠を分離器に入れる前に小さいムダ巣や蜜蓋(みつぶた)を切った切りくずが入れられる。蜜蓋というのは巣房に貯えた蜜に蠟で蓋をしたもの。蜜は余分な水分を蒸発させて熟成されると蜂が蠟で密封する。こうすると長期間の保存が利く。この蓋は包丁で切ってやらないと分離器に入れてまわしても蜜は出てこない。
 蜜をしぼりとってしまうと、今度は「雄蜂切り」(ゆうほうぎり)をする。雄蜂は生産養蜂にはまったく無用で、さなぎの状態のときに目に付くと包丁で巣房のふたを切って、中のさなぎをはじき出してしまう。かわいそうなようだが、雄蜂は無駄飯食いなのだ。もちろん新女王の交尾のためには雄蜂は必要だが、それはとくに考えなくても巣枠の周辺部にできる雄蜂房から出る雄蜂でじゅうぶん間に合う。これについては、巣枠作りの話の時にまたするとして。
 こうして集めたムダ巣が麻袋にためられていく。袋がいくつもたまったところで、暇をみて「蠟炊き」をする。
 
蠟炊き
 用意するものは、ドラム缶、水、燃料、ひしゃく、製蠟器、麻袋、からの一斗缶といったところ。ドラム缶は半分に輪切りにしたもので、切口に近い円周の両端に取っ手を溶接してある。
 蠟炊きは鹿児島でレンゲの採蜜のころに数回やる。ほかの花の時期にも、静岡や北海道でもやるのだが、その時期には人手があったので、自分で実際に経験したのは鹿児島だけだった。
 作業場のうらに空き地があって、そこには半切りのドラム缶とかまどがあった。かまどといっても、たんにブロックを数個置いただけのもの。石も使っていたかもしれない。ドラム缶に水を入れて、まずお湯をつくる。燃焼器具などは使った覚えはないから、燃料は古材や木っ端だったのだろう。何を燃やしたのか、なぜか思い出せないが木屑はいくらでもあったはずだ。お湯がそうとう熱くなってきたら、ムダ巣を入れる。気がはやってぬるいうちからムダ巣を入れるとなかなか溶けないし、水温も下がるので、かえって時間がかかることになる。
 水とムダ巣の量の比率などということは特にない。ドラム缶の半分くらいまで水を入れただろうか。あとは入るだけムダ巣を投げ入れて、あふれない程度にまで入れた。もっとも、ムダ巣のかたまりを入れると、最初は溶けずに浮いているわけで、上へはみだして、山になっている。湯が熱ければどんどん溶けていく。棒でつついたり、ひしゃくでかきまわしたりして、かたまりをほぐしてやる。
 ムダ巣は非常に臭い。巣自体は臭くはないが、ムダ巣に産みこまれた雄蜂の幼虫やさなぎが腐るからだ。生ごみのにおいに近いか。それを湯に入れて温めるのだから、相当臭い。まあ、それも最初のうちで、すぐ感じなくなるのだが。
 すっかり溶けたら、いよいよ、主役の登場。養蜂で数少ない器械のうちのひとつ、製蠟器という便利な道具がある(カット参照)。それを台の上にのせて、下の出口には一斗缶を置く。製蠟器に麻袋を入れて、溶けた蠟を幼虫の死骸などの不純物もろともひしゃくで汲んで入れていく。最初は威勢良く流れ出て、一斗缶にすぐいっぱいになる。いっぱいになったら缶をかえていく。だんだん不純物が多くなって、通りが悪くなる。そこで、製蠟器の口に附属の器具をかませて、ハンドルで締め上げていく。すっかり水分を締め出したら、麻袋をとりだし反転させて、なかにつまっている幼虫の死骸などをふるい落とす。これを数回くりかえすとドラム缶がからになる。
 こうして一斗缶にためたまま放置しておく。蠟分は水より軽いので、温度が下がれば分離して上で四角くかたまる。あとは手のあいた時に一斗缶をひっくり返し、水をぬぐう。かたまった蠟の下面には、つまり水との境界線にはかたまりそこなったグズグズの蠟カスがついているので、それをけずり落とす。これで蜜蠟のできあがり。
 レンゲの時期の蜜蠟はオレンジががったクリームイエローで、美しい。それは元の巣の色でもある。採った巣を日にさらしすぎていたり、日が経ったままにしていると、脱色して蜜蠟の色も悪くなる。くすんだ黄色やにごった白になる。でも成分は変わらないのだろう。
 当時の手帖をみると、1980年の場合は合計127kgの蠟を生産している。ムダ巣採集のもとになった蜂の群数は1000群前後だと思う。

蜜をしぼる ミツバチの話 その5

2007年09月22日 19時25分06秒 | 養蜂の話
蜜をしぼる
ミツバチの話 その5

 いよいよ、蜜をしぼる時期がきた。はちみつといえばレンゲ、レンゲといえばはちみつ。レンゲの蜜は代表的なはちみつとして知られている。
 今回ははちみつの実際のしぼり方を具体的に記述していこう。しぼるといっても、ほんとにしぼりとるわけではない。分離器という器械をつかって、巣の中の蜜を遠心力ではねとばして底にたまった蜜を容器にあつめるということをする。だから巣は何度でも再利用できる。
 それでは1枚の巣が巣箱からでて、また巣箱へもどってくるまでを順に説明していこう。

巣をとりだす
 巣の外周の大きさは縦約48cm横約23cmの長方形で外周は木の枠でできている。両面に六角形の巣穴がびっしり並ぶ。この板状の巣のことを巣脾(すひ)というが、いつもは巣枠といっていた。この巣枠がひとつの箱に9枚ならんで入っている。中心に近い場所の巣枠ほどふつうは蜂児圏が広いので蜜の入る量は少ない。蜂児圏というのは蜂の子の育児領域で、巣枠の中心部から周囲にむかって卵からさなぎまでのいろんな成長段階の蜂児が同心円状になって広がっている。蜂児圏の外縁には花粉の貯蔵圏があるので、蜜のはいる巣穴はさらにその外側で実際にはおもに巣枠の上縁というわけである。順調に育児が経過している巣枠はそのさまざまな段階の育児圏、それと花粉圏、貯蜜圏とが楕円状の美しい縞模様を織り成している。外側の巣枠ほど育児圏は小さくなるので貯蜜できる範囲が大きくひろがり、もっとも外側ではふつう蜜枠といって両面の全体が貯蜜でおおわれる。
 さて、たいていの蜂群は箱を2段重ねにしてある。下の箱を単箱、上の箱を継箱という。蜂の群勢によって箱を継ぎ足していくから継箱という。しかし、移動養蜂ではまず3段継ぐことはないだろう。半継という箱もあるが、これは蜂のトラック輸送のさいに巣箱のなかに空間をつくってやる時に使うが、それはまた転地のときのはなし。
 巣枠はこの時期、ふつうの巣箱では継箱に9枚入っている。まず、巣枠を片方へすこし寄せてわずかの空間をつくる。そうしないでいきなり巣枠を引き上げると、密集している蜂をこすって傷つけてしまうからだ。そこから巣枠を1枚引き上げる。左右の角を持ってすばやく上下に振り、蜂をふるい落とす。ところが蜜がたくさん入って重いとなかなか蜂が落ちない。ベテランはその点、見事に蜂を一気に落とす。つぎつぎに巣枠をとりだして巣箱の外に立てかけていく。出し終わったらふたをしておく。となりの巣箱へ移動し、以後おなじ作業をくりかえす。
 巣をぬきとられた蜂たちはいるべき場所を失って巣箱の中や巣門の前で一時、右往左往しているが、残された単箱の巣枠や、箱の内壁に幾重にも重なりあって次第に落ち着いていく。
 箱の外へ立てかけられた巣枠は、つぎの人によってブラシで残りの蜂が払い落とされる。巣門の前でその作業をする。落ちた蜂はみんな巣箱の中へ入っていく。あらぬ方向へ行くものはひとつもない。ブラシは専用の蜂ブラシで、腰はあるがやわらかい。材質は馬の毛らしい。何回か使ううちに蜜にまみれて、こわくなっていく。そのまま使いつづけるとこすられた蜂がおこるので、時々水で洗う。すばやく蜂をすっかり落としたら、またつかないうちに巣枠はただちに分離器のところへ運ばれる。これにかぎらず、蜂の仕事は万事すばやくこなして、蜂に余計な負担がかからぬように、そして蜂自身の仕事のじゃまにならないように心がける。

分離器
 養蜂で使う器具のなかで唯一器械らしい器械。といっても、構造はごくかんたん。真ん中に心棒があって、それを軸にして放射状に骨組がひろがっている。ちょうど傘をひらいて、上にささずにひっくり返して腹を見せているような感じ。それが直径70cmくらいのドラム缶状の容器にはいっている。放射状の骨組の数は九つで、つまり9枚の巣枠がはいる。その骨組のひとつひとつがカゴになっていて、巣枠が1枚ずつタテに入るようになっている。巣枠の上縁が立てた時に外側へ向くようにいれる。(2ページの絵参照)
 というのは、ミツバチの巣のひとつひとつの巣穴は水平ではなく、15度くらい上向きになっていて、中身がこぼれにくくできていいる。だから、巣枠を90度立てて上縁を外へ向ければ巣穴も外向きになって、回転させれば遠心力で中の蜜が飛び出していく。
 ハンドルをにぎり最初はゆっくりまわしていく。数回まわすと腕がとらえていた巣枠の重さが回転力に乗り移って、軽く感じられるようになる。まもなく蜜がとびだし、分離器のかべにあたる音、というか降りかかる音がしてくる。シャーーーーーという音のなかにニチャニチャニチャニチャニチャという粘度のある音がまじる。音のかげんで蜜の濃さが感じられる。うすい時はビシャビシャビシャビシャと水っぽい音になる。そういうのはシャブ蜜といっていた。
 うすい蜜はまだ蜂が運んできて間がないわけで、熟成されていない。蜂をふるい落とすさいにいっしょに飛び散ってしまうほど水っぽい。天気のいい日中に採蜜をすればさかんに蜂が蜜を運んでいる最中なのでそういう蜜がまじる。目的の蜜は巣枠に貯えられて濃くなっているので、多少うすいところが混じってもさしつかえない。
 数回転のうちにその蜜のあたる音もしなくなって、ブレーキレバーを軽く引く。急発進、急ブレーキは車とおなじでよろしくない。巣にむりな力がかかって、最悪のばあい破れてしまう。古い巣は巣房の壁が厚くなっているのでしっかりしているが、あたらしい巣は紙よりよわい。うすい蝋片の細工物なのだから。何回もその巣から蜂が育っていくにつれて巣の壁も厚くしっかりしていく。巣の作り方や変化の話はまた別の機会にして。
 しぼりきった巣枠はただちに巣箱にもどされる。だが、元のおなじ巣箱に返されるわけではない。仕事の流れを切らさないようにするために、最初の数群の箱から巣枠を抜き出すとその箱は最後までカラにしておく。といっても継箱がカラになるだけで、下の箱(単箱)には巣枠が数枚はいっている。巣枠が運ばれて、分離器で蜜を抜かれ、ふたたびもどってきたら、振り手がさかんに巣枠を振るい出している数箱目のところへ持っていき、その箱から巣はもどされる。こうして、作業行程をながれている巣枠の枚数が1ヶ所にとどこおらないように、または、あるところばかり手がすかないように、調整しながら作業がすすむ。
 巣枠はどの蜂群に返されてもさしつかえない。成蜂は自分の群を識別して他を排除するが幼虫や卵はかまわず受け入れる。だから、この際に蜂の少ない群には蜂児圏の大きい巣枠を入れてやったり、産卵がさかんで蜂児圏ばかりの群には蜜枠をよけいに入れたりする。もっとも、羽化してまもない若い成蜂や、流蜜のさかんな自然条件のいい時期ならかなり鷹揚に他の群の蜂でも巣門に振り落としてやれば受け入れてしまう。
 こうして、50群前後の蜜が採りきって、最初の群に巣枠がかえされて終わりになる。この間1時間あまり。
 レンゲの採蜜時期は4月中旬から5月の連休明けくらいまで。花が咲いていても連休のうちに田が耕起されてしまうところが多い。兼業農家が勤めの休みの間に農作業をすることが多いからだ。

鹿児島の春 ミツバチの話 その4

2007年09月20日 15時11分26秒 | 養蜂の話
鹿児島の春

 3月もなかばを過ぎると、さすがに鹿児島はあたたかい。レンゲの花も沿岸部のはやいところから開花の便りがとどくようになる。そのころはまだ、ミツバチの数は多くない。養蜂家はこの時期を建勢期といって、働けるハチの数をふやすための季節と位置付けている。
 わたしの行っていたのは、越冬期は鹿児島県薩摩半島の一帯で、特に半島の南部で、北部よりもいっそう温暖なようだった。レンゲの採蜜のときは、半島の基部から北部にかけての地域に移動した。町でいうと、川内市、樋脇町、市来町、東市来町、伊集院町といったところ。国道3号線の周辺地域にあたる。地図で見ると、平野が広がっているようにみえるが、実際には低い丘陵地帯が多い。いわゆるシラス台地で、谷あいにレンゲ田があり、台地の上は畑やスギなどの林地になっている。すでに減反政策がはじまって数年たっていたし、離農も進んでいるから、休耕田にスギの苗木が植えられているところもよく見られた。げんにハチを置いている場所が休耕田のスギの苗畑や、離農した農家のあとの空き地だったりもした。
 3月ならすでに菜の花は満開だが、隔世の感があるくらいむかしに比べると少なくなっている。というのはベテランの言うことで、わたしはそのむかしの風景は知らない。よくポスターなどに見られるいちめんの菜の花畑とその先の開聞岳の優美なコニーデ型の取り合わせの写真は、言ってみれば観光土産の上げ底や額縁みたいなもので、写っているところにしか菜の花はないのだった。そして、多くは大根畑と茶畑だった。だから、むかしは菜の花の蜜も搾ったというが、すでにわずかにハチのえさ程度にしかならないのだった。あれからもう20年あまりたつ、現在はどういう景観になっているのだろう。それはともかく。
 数kmずづ離れた蜂場に40~50群(箱)の蜂が前年の秋から越冬している。すでに女王蜂の産卵は旺盛で、この春生まれの若蜂もつぎつぎ巣房のふたを食い破ってあらわれる。
 天気のいい、風のないおだやかな日には、若いハチたちが巣からでて、自分の巣の位置をおぼえるための定位飛行をしているのが見られる。皆、巣門のほうを向いて空中にただようように、川の中の藻がゆれるようにゆるやかに上下し、左右しながら静かに羽音をたてている。こうして、今飛んでいるハチたちと、さらに、これから生まれてくるハチたちがレンゲの花の蜜を集めてくることになる。
 4月の初旬になるといよいよ、最初の蜜をいつ搾ろうかという予感、予想がはじまる。期待が次第にふくらむ。今年のレンゲの花はどうか、天気はどうか、気温は上がるだろうか。人の手配は出来ているか、道具や容器の準備にぬかりはないか。
 蜂場の行き帰りに、回り道をして各地のレンゲの開花状態をみてくる。早い田はすでに満開にちかいところもあるし、まだちらほらといったところもある。ちょうどサクラの咲きはじめと同じことで、けっこうばらつきがある。それも数日のうちにはすっかり咲きそろって、一面のレンゲ田がひろがる。とはいっても、ひろい平野に見渡すかぎりというわけではない。
 平野部の田はさすがにレンゲが一面に咲き誇っている場所もあり、きっとむかしはそんな景観があたりまえのように広がっていたのだろう。
 一方、周囲の山々は低く、針葉樹の植林か照葉樹林なので、冬から春へ季節が移ってもほとんど変化が見られない。冬には木の葉が落ちる地方から行ったものには物足りない。いつのまにか春、いつのまにか気温が上がっているというはっきりしない春の訪れだった。だから、レンゲの花が咲きそろうと、まだまだと思っていたのに、いきなり春のど真ん中におかれたような気持ちだった。
 そしていよいよ4月なかば。小型トラックに遠心分離機や空の一斗缶、そのほか採蜜に必要なもろもろの小道具を積みこんで、蜂場へむかうのだった。これから5月の連休明けまでがレンゲの採蜜シーズン、引き続いて転地というミツバチと人の大移動があり、6月に北海道へ落ち着くまであわただしく、気の抜けない日々が続く。