越冬期
ミツバチの話 その13
静岡県清水市にもどるのが10月の末。10日ほど、蜂蜜の充填の手伝いやほかの雑用などで中途半端に過ごしたあと、車で鹿児島へ出発する。
鹿児島では、伊集院町下神殿(しもこどん)という国道3号線ぞいの集落に宿を借りていた。80過ぎのおばあさんがネコ1匹といっしょに住んでいる。といっても、身内のものが近所にいてよく顔を出していた。もう1ヶ所、となりの東市来町湯之元というところにも一軒家を借りていた。湯之元というのは名前のとおり温泉場で、観光地のような派手さはなく、地味な湯治場だった。町なかに共同浴場が隣り合わせに2軒あって、1回75円。1軒は乳白色の温泉、もう1軒は透き通った温泉だった。だから、風呂は毎晩温泉に入れた。
宿では数人ずつ泊まり込んだ。妻帯者も単身で来ているので共同炊事だった。必然的に若い者が担当した。つまりわたしたちだった。自炊をしたのは鹿児島と清水にいるときで、それもいつもという訳でもなかったし、春の採蜜や転地のいそがしい時期には当地が地元の親方の奥さんが賄いをしてくれた。湯之元の宿では近所のおばあさんを賄いに頼んでいた。
着くとさっそく蜂場の草刈がはじまる。春に蜂をおいて、それが出ていった後、使われていた所はいいが、なんにも使われていなかった場所はすごい草やぶになっている。一夏でこうものびるか、というほど旺盛にはびこる。だから、手分けしても草刈だけで数日かかる。
終るとすぐに秋田へ転地していた蜂が大型トラックで到着する。3車までで秋田は終り、つづいて北海道からの第1車がつく。北海道からは全部で11車か12車。期間は11月の下旬から12月の10日ごろまでの2週間くらい。トラックはたいていは中3日で走ってくる。なかには走りっぱなしで、中2日でつく車もある。反対に、つく予定の日に終日待ちぼうけを食って、とうとうつかないときもある。それでも夏場とちがって蜂が死ぬことはまずないので、こちらもあまり心配しない。ただ、来るはずのものがなかなか来ないと予定が立たず、動くに動けず、時間を持て余す。「遅れています、今どこそこを走ってます」などと気を利かせて電話してくるはずもない。今なら携帯電話だが、当時はそんなものだった。
あいてる時間は砂糖袋を切ったりした。餌に使ったあとの空き袋はとっておいて越冬巣箱のふたの内側にかぶせた。あれはクラフト紙だろうか。三重くらいになっているうちの蝋引きの紙は除いて使う。蝋引きは蒸れるということで。これは風除けである。
ふたは転地のときに巣箱の中の風通しをよくするために、内側に網が張ってある。網と天板とは桟をはさんで、隔ててあり、二重構造になっている。側板に窓が空いていて、巣内の熱気があがると左右へ抜けるようになっている。それで冬の寒風をふせぐために砂糖紙をかぶせるのだが、むしろ春先にかぶせるべき、という意見もあった。厳冬期は寒いほうがよく、蜂も蜂球をつくって、静かにしていたほうが消耗がすくない。そして、春先にかぶせれば、より暖かさが加わって、刺激になるという理由だろう。わたしの4年目のときにはそうした親方もいた。
北海道からの蜂が全部到着したころ、今度は種子島送りの蜂の発送がはじまる。越冬蜂場は種子島にも一部あった。フェリーに積み込んで、数回に分けて運ぶ。わたしは島へは80年の越冬のとき、一度だけ渡り、蜂の内検をしてきた。南の島とはいっても、寒い日もあり、低温のため内検を休んだ日もあった。ヤツデの花がちょうど満開で、斜面などの林内にはかなりあるようだった。これがちょっと見慣れない風景だった。となりの屋久島にはいつも雲がかかっていて、裾のほうしか見えなかった。島全体が見えたことは一度もなかった。
北海道からは、ほかに貨車が1台着いた。積荷はからの巣箱、蜂具、ふとん、私物など。翌シーズンのためのものだ。伊集院の駅へ受け取りにいく。78年の場合で、貨車は北海道から9日かかっている。
年内の鹿児島での仕事はこれで終り、一度清水市へもどる。年末年始の休みをはさんで、仕事始めは1月10日ごろだった。
新年になっても、蜂はまだ越冬中だから、新しい年が動き始めたという感じではなかった。やはり、2月の初旬に鹿児島へむけて出発するときがほんとうのシーズン始めだろう。それまでは、清水で巣箱作りや、痛んだ巣箱の修理、巣枠作りなどをした。また、市内のハウスイチゴの農家に受粉用のミツバチを貸し出しているので、蜂の配達や内検をした。しかし、清水にいるあいだは「今はオフ」という気持が強く、いつも次へのつなぎ、待ち時間といった感じで、充実したものではなかった。
1月下旬になると、いよいよ親方衆もそろってくる。メンバーの新しい組合せも決まる。自分がつく親方、かかわる蜂や蜂場、鹿児島での宿などが、これで決定される。
2月上旬、鹿児島入り。ここでも最初は巣箱や巣枠作りをしている。蜂場へ行って巣箱にクレオソートを塗ったり、ダニの駆除をしたりもする。蜂の荷造り用のロープ作りもする。暖かい日には、蜂の内検もするようになる。すでに産卵は始まっている。1~2枚の蜂児枠がある。なかには餌切れで全滅している群も出る。最後の一滴を求めて巣房の底までもぐり込み、多くの働き蜂が尻を並べて飢え死にしている光景はいたましい。給餌、合同、蜜蓋切りなどがおこなわれる。貯蜜の蓋を包丁で切ることで、給餌と似たような刺激効果がある。また、蓋を切ることで、古い蜜を餌用に使わせて、巣房内を掃除させ、新年の流蜜にそなえる意味もある。
次第に蜂にかかわる時間が多くなる。3月中旬、早いところではもうレンゲが咲いている。
ミツバチの話 その13
静岡県清水市にもどるのが10月の末。10日ほど、蜂蜜の充填の手伝いやほかの雑用などで中途半端に過ごしたあと、車で鹿児島へ出発する。
鹿児島では、伊集院町下神殿(しもこどん)という国道3号線ぞいの集落に宿を借りていた。80過ぎのおばあさんがネコ1匹といっしょに住んでいる。といっても、身内のものが近所にいてよく顔を出していた。もう1ヶ所、となりの東市来町湯之元というところにも一軒家を借りていた。湯之元というのは名前のとおり温泉場で、観光地のような派手さはなく、地味な湯治場だった。町なかに共同浴場が隣り合わせに2軒あって、1回75円。1軒は乳白色の温泉、もう1軒は透き通った温泉だった。だから、風呂は毎晩温泉に入れた。
宿では数人ずつ泊まり込んだ。妻帯者も単身で来ているので共同炊事だった。必然的に若い者が担当した。つまりわたしたちだった。自炊をしたのは鹿児島と清水にいるときで、それもいつもという訳でもなかったし、春の採蜜や転地のいそがしい時期には当地が地元の親方の奥さんが賄いをしてくれた。湯之元の宿では近所のおばあさんを賄いに頼んでいた。
着くとさっそく蜂場の草刈がはじまる。春に蜂をおいて、それが出ていった後、使われていた所はいいが、なんにも使われていなかった場所はすごい草やぶになっている。一夏でこうものびるか、というほど旺盛にはびこる。だから、手分けしても草刈だけで数日かかる。
終るとすぐに秋田へ転地していた蜂が大型トラックで到着する。3車までで秋田は終り、つづいて北海道からの第1車がつく。北海道からは全部で11車か12車。期間は11月の下旬から12月の10日ごろまでの2週間くらい。トラックはたいていは中3日で走ってくる。なかには走りっぱなしで、中2日でつく車もある。反対に、つく予定の日に終日待ちぼうけを食って、とうとうつかないときもある。それでも夏場とちがって蜂が死ぬことはまずないので、こちらもあまり心配しない。ただ、来るはずのものがなかなか来ないと予定が立たず、動くに動けず、時間を持て余す。「遅れています、今どこそこを走ってます」などと気を利かせて電話してくるはずもない。今なら携帯電話だが、当時はそんなものだった。
あいてる時間は砂糖袋を切ったりした。餌に使ったあとの空き袋はとっておいて越冬巣箱のふたの内側にかぶせた。あれはクラフト紙だろうか。三重くらいになっているうちの蝋引きの紙は除いて使う。蝋引きは蒸れるということで。これは風除けである。
ふたは転地のときに巣箱の中の風通しをよくするために、内側に網が張ってある。網と天板とは桟をはさんで、隔ててあり、二重構造になっている。側板に窓が空いていて、巣内の熱気があがると左右へ抜けるようになっている。それで冬の寒風をふせぐために砂糖紙をかぶせるのだが、むしろ春先にかぶせるべき、という意見もあった。厳冬期は寒いほうがよく、蜂も蜂球をつくって、静かにしていたほうが消耗がすくない。そして、春先にかぶせれば、より暖かさが加わって、刺激になるという理由だろう。わたしの4年目のときにはそうした親方もいた。
北海道からの蜂が全部到着したころ、今度は種子島送りの蜂の発送がはじまる。越冬蜂場は種子島にも一部あった。フェリーに積み込んで、数回に分けて運ぶ。わたしは島へは80年の越冬のとき、一度だけ渡り、蜂の内検をしてきた。南の島とはいっても、寒い日もあり、低温のため内検を休んだ日もあった。ヤツデの花がちょうど満開で、斜面などの林内にはかなりあるようだった。これがちょっと見慣れない風景だった。となりの屋久島にはいつも雲がかかっていて、裾のほうしか見えなかった。島全体が見えたことは一度もなかった。
北海道からは、ほかに貨車が1台着いた。積荷はからの巣箱、蜂具、ふとん、私物など。翌シーズンのためのものだ。伊集院の駅へ受け取りにいく。78年の場合で、貨車は北海道から9日かかっている。
年内の鹿児島での仕事はこれで終り、一度清水市へもどる。年末年始の休みをはさんで、仕事始めは1月10日ごろだった。
新年になっても、蜂はまだ越冬中だから、新しい年が動き始めたという感じではなかった。やはり、2月の初旬に鹿児島へむけて出発するときがほんとうのシーズン始めだろう。それまでは、清水で巣箱作りや、痛んだ巣箱の修理、巣枠作りなどをした。また、市内のハウスイチゴの農家に受粉用のミツバチを貸し出しているので、蜂の配達や内検をした。しかし、清水にいるあいだは「今はオフ」という気持が強く、いつも次へのつなぎ、待ち時間といった感じで、充実したものではなかった。
1月下旬になると、いよいよ親方衆もそろってくる。メンバーの新しい組合せも決まる。自分がつく親方、かかわる蜂や蜂場、鹿児島での宿などが、これで決定される。
2月上旬、鹿児島入り。ここでも最初は巣箱や巣枠作りをしている。蜂場へ行って巣箱にクレオソートを塗ったり、ダニの駆除をしたりもする。蜂の荷造り用のロープ作りもする。暖かい日には、蜂の内検もするようになる。すでに産卵は始まっている。1~2枚の蜂児枠がある。なかには餌切れで全滅している群も出る。最後の一滴を求めて巣房の底までもぐり込み、多くの働き蜂が尻を並べて飢え死にしている光景はいたましい。給餌、合同、蜜蓋切りなどがおこなわれる。貯蜜の蓋を包丁で切ることで、給餌と似たような刺激効果がある。また、蓋を切ることで、古い蜜を餌用に使わせて、巣房内を掃除させ、新年の流蜜にそなえる意味もある。
次第に蜂にかかわる時間が多くなる。3月中旬、早いところではもうレンゲが咲いている。