第3章 弓神楽から天岩屋戸神話へ
弓神楽と土公祭文
先ほど見てきたように岡山市今谷、深田神社の秋の大祭にみられる烏勧請のカラスをオドクウサマという。オドクウサマは漢字をあてると「お土公様」である。では烏でもあるお土公様とはいったい何者か。『日本民俗大辞典』によると、陰陽道由来の土を司る地神を土(ど)公(こう)神(じん)という。地の神、地を鎮める神だという。お土公様と土公神は同じだろうか。もし同じとするなら、烏が地を鎮めるということになる。烏が地に働きかけるなら、十日神話における昇る前の太陽が地中にあることと無関係ではなさそうだ。10ページで紹介した、昔、太陽は10個あり、地中に住み、毎日1つずつ昇り、10日で一旬した、という中国古代の十日神話である。これらのまだ地中にいる太陽に秩序を与えて、ひとつずつ昇らせるのが烏であるとされる。太陽の中には烏が1羽ずついるのである。『稲と鳥と太陽の道』では埼玉県の狭山市入間川の伝説として「昔太陽が二つ出て、人も動物も炎熱に苦しんだので、勅命によって勇士が弓矢で一方の太陽を射たところ、一方の太陽が消えるとともに三本足の烏がどっと大地に落ちた」との話を紹介している((9))。
地を鎮めるということは、地中にある太陽を鎮めることであると考えれば、烏としてのお土公様と地を鎮める神としての土公神とがつながることになる。
そこでみつけたのが『民俗芸能研究』第3号所収の「弓神楽と土公祭文―備後の荒神祭祀を中心として」(鈴木正崇)である((10))。
鈴木は弓神楽について「備後(広島県)では今でも神職があずさ弓の弦を打ち竹で叩いてその音に合わせて長大な祭文を読むことを主体とする祭祀形態が伝えられ、これを一般に弓神楽と称する」という。その弓神楽の中核をなすのが土公祭文で「神座の前に青茣蓙を敷きその上に揺輪(半切り桶)を据え、(略)揺輪の上には弓を結びつけ、神職が2本の打ち竹を両手に持って弦を叩き調子をとりつつ祭文を読誦」する。そして最後に矢を放つという。なかでも莇(あ)原(ぞう)中組というところでは特殊な行事が残っていて、祭祀の終了後、「棚壊し」といって祭壇を滅茶苦茶に壊しひっくり返して、供物をすべてほうり投げると共にそれを奪い合うという。この供物のなかには、祭りの当日に作った土団子もある。土団子はまだぬれてベトベトなので、祭祀の場である奥座敷は泥だらけになるという。これはいったい何を意味しているのか。
これは弓神楽を演じるなかでのことである。烏である土公神の祭文が、弦を打ち竹で叩く音に合わせて読誦される。この時の弓神楽の弓と矢は射日神話の弓と矢を表現していると考えたらどうだろう。そうだとすれば、その弦を打ち竹で叩く行為というのは余分な太陽を射落としていることを意味しているのではないか。そうであるなら、莇原中組の「棚壊し」というのは太陽をみな射落としてしまったあとの暗闇、それによる混乱を表わしているともいえる。土団子で奥座敷が泥だらけというのは、その暗闇と混乱の象徴である。では土公祭文の中身はそれに対応しているだろうか。
それには次の資料を紹介しよう。「鎮めの舞と招魂と鎮魂と―その同時的背反性呪術」(高木啓夫)である((11))。そこで紹介される土佐の神楽の結末にくる「五人五郎」の舞にともなうのが「土公祭文」である。その内容をかいつまんで記していくと、五郎の生まれる前には4人の兄王子がいて、それぞれ春夏秋冬の90日ずつが所領として与えられていた。そして五郎が生まれた時にはすでに90×4=360日というわけで、与えられる分がなかった。五郎は立腹し、4人の兄たちと交渉するが、断られてしまう。そこで五郎王子は4人の兄を相手に3年3ケ月も戦(いくさ)をする。ようやく博士が調停に入り、春夏秋冬の各土用の18日ずつを与えられて和解する。
この4人の兄を相手にした3年3ケ月の戦こそ、弓神楽の中核である、揺輪に結びつけた弓を打ち竹で叩くとする行為に相当するものであり、そのあと「滅茶苦茶に壊される祭壇、土団子が周囲を泥だらけにしてしまう」というのは、その結果を目に見える形として目の前に表現したものである。つまりそれは暗闇と混乱、無秩序な状態を意味し、そして最後に放たれる矢によって混乱は終息にむかうのである。
先に紹介した『民俗芸能研究』第3号の「弓神楽と土公祭文」で読誦される土公祭文の内容も基本的に同じである。こちらは天地を作った盤古大王が4人の王子に日月の所領を配分したが、後で生まれた五郎王子と兄4人とが争いになり、文選博士が仲介に入って納めるというもの。四土用の主としておさまった五郎王子は土公神として祀られる。
高木によると、神楽の演目には共通点があり、演目の順序もほぼ共通している。そうした演目順で神楽を奉納するにはそれなりの理由があったと考えるべきであろう、と述べている。その神楽の演目順とは舞い始めに幣や鈴、榊などを持った採物舞、ついで素面の太刀舞、仮面の舞とつづき、そして結末には「五人五郎」という五行に基づいた演目が来るというものである。石塚尊俊によると、ほかに「将軍」「岩戸」の演目が結末に位置する神楽群があるという。
神楽の演目順がほぼ決まっているのは、最後に秩序が回復される必要があるからだろう。高木の疑問とする神楽の演目順はなぜどれもほぼ共通しているのか、についての答えは、暗闇、混乱があり、最後には弓によって終息へむかうという順番になる必要があるからである。
結末に「五人五郎」が来るにしても「将軍」や「岩戸」の演目が来るにしても、いずれも混乱や暗闇がくる。「五人五郎」では戦による混乱があり、「将軍」では太陽も月も鬼が呑み込んでしまうという暗闇の場面があり、「岩戸」でもアマテラスがこもって世界は暗闇になる。これらは射日神話の射落とされた複数の太陽、その結果がもたらす暗闇や混乱と同じ意味をもっている。つまり土公祭文の中身の3年3ケ月の戦、五郎王子と兄4人との争いは弓神楽の場では棚壊しの混乱、土団子に象徴される暗闇とやはり対応していることになる。
ところで五郎と4人の兄たちとの戦の場面は「四天ノ舞」といい、兄たちと戦う五郎の姿はこの時、鬼神(きしん)であるという。つまり「土公祭文」の主人公である五郎王子は鬼神である。
鬼神とは何か
志田諄一の「東国の底力の源泉-関東」には、「殷・周時代には、災禍不祥は鬼神(きじん)(死者の霊魂・祖霊)のなすところと考えられていた。病気をはじめ自然的災異も、豊作・凶作も、戦争の勝敗も、すべてが鬼神の支配するものと考えていたのである」との記述が見られる。そうした考え方は稲作の伝来とともに日本列島にもたらされたようである、と述べている((12))。
同じ意味のことを『古代殷帝国』では「古代人にとっては、すべてのわざわいは神や死霊のなすわざ(・・)だった」と述べている((13))。『稲と鳥と太陽の道』では『魏志』東夷伝「韓伝」馬韓条から、馬韓の地では「五月に種を播き終わると鬼神を祭る」との記録を紹介している((14))。それは秋の収穫後にも行なわれる。春に鬼神を祭ることによって自然災害を除け、豊作がもたらされることを願う。収穫後には豊作だったら感謝を、凶作で終わったら改めて鬼神をなごませることにより、災禍の少なからんことを願わずにはおれないだろう。当時馬韓の地はすでに稲作の穀倉地帯で、鬼神は稲作の神であり、中国では「鬼神」は「祖霊」に等しいという。
五郎王子が鬼神であるというところの鬼神(きしん)が、そのまま馬韓や殷・周の鬼神(きじん)と同じとは断言できないが、古代中国から伝えられてきたものと考えることには無理はないだろう。射日・招日神話の伝播にしろ、太陽信仰、五行説、その他稲作をめぐる数々の民俗が伝播していることからも、それは納得できる。なお、「きしん」と「きじん」の読みについては、それぞれの参考文献に従ったまでで、確定したものではないようだ。
五郎王子が戦うことになった4人の兄たちが、春夏秋冬をそれぞれ担当していたという設定もうなずける。なぜなら五郎は春夏秋冬の分け方に異議をとなえているわけで、そこへ働きかけて変更をせまっているということは、鬼神でもある五郎は季節の巡りのあり方に影響力を示すという意味である。さらには雨、風、日照りなど自然災異の有無までも、鬼神の力が及ぶということを象徴しているのだろう。殷・周時代には自然的災異も、豊作凶作も鬼神が支配したという考え方を反映している。その鬼神は「祖霊」であるという。萩原秀三郎の『鬼の復権』によると、非業の死ではなく、天寿を全うして亡くなった正常死者が祖霊であり、鬼神になるという((15))。だから先祖を祀るのである。
自然災異に働きかけるという点では鬼神は烏とも共通している。なぜなら烏は太陽を運び、その運行が寒暖降雨を左右し旱魃などを調整することになるからである。
五郎王子はスサノヲ
高木はさらにつづけて、この鬼神でもある五郎王子は神話における三貴子の分治、すなわちアマテラスには高天原を、ツクヨミには夜の食(おす)国(くに)を、そしてスサノヲには海原を治めさせるとする話のなかのスサノヲであるという。しかしスサノヲはそれを拒んで激しく泣きわめき、山も川も海もすっかり枯れ干してしまうほどで「その結果、禍(わざわい)をもたらす悪神のたてる物音は、5月ごろ湧きさわぐ蠅のようにあたり一面に満ち、さまざまの悪霊による禍が至るところに起こった」という(『古事記』小学館日本古典文学全集)。高木は、五郎王子はこのスサノヲと同じ位置づけであるという。
ここまでは、私も同意できる。しかしここからはだいぶ違ってくる。
高木の解釈では「その結果として須佐男命が神せられ、五郎王子が土用を治めることになったわけである。世に災厄暗黒をもたらした者、須佐男命は望みどおりに黄泉の国に赴き、五郎王子が4人の王子と同じく所領を与えられて、天下に平和が訪れることは、神楽の鎮め(・・)の意図する所からも極めて重要視されなければならない」となっている。だいぶ違ってくるというのは、この「鎮め」の解釈である。
このように神楽の意図するところは「鎮め」であり、神話の天岩屋戸の話についても「鎮め」で解釈するのが普通らしい。その例として高木はさらに本田安次の「(天岩屋戸神話は)招魂、鎮魂の御祈祷であったと考えられる」という説と、上田正昭の「太陽の衰微を象徴する神話であった。そこで、内部生命力を充実し、日の神の活力を復活させる呪法がなされるのである。宇気を踏みとどろかす天鈿女命の神がかりは、その活力を振動させることであり、他面邪悪なタマを鎮圧する反閇(へんばい)であった」との説を紹介している。このほかの諸論文も本質的に同様だとしている。しかし、定説となっている「鎮め」の解釈ははたして正しいだろうか。この弓神楽と天岩屋戸神話を射日・招日神話で読み解くと、すでに先ほどから述べているように、ちがった様相が見えてくる。整理してみよう。
まず烏はオドクウサマである。オドクウサマは「お土公様」である。お土公様は『日本民俗大辞典』にいうところの土公神であれば、地を鎮める神とされている。ただし、これは私のみるところ、見かけの解釈である。そしてお土公様は土公祭文と関係があるらしい。土公祭文の主人公は五郎王子である。五郎王子は4人の兄と戦って混乱を引き起こすのである。その五郎王子は鬼神であり、スサノヲと同じ位置づけである。そして最後に矢が放たれる。この矢は射日神話の矢に相当する。
土団子、棚壊し状態とは暗闇、混乱の現出である。そしてスサノヲの暴虐と五郎王子の戦もこれらと同位のものであり、暗闇、混乱を意味している。そうすると「五人五郎」の演目で4人の兄を相手に3年3ケ月も戦をするというのは、土団子・棚壊し状態に相当し、さらにスサノヲの暴虐に相当する箇所である。そして射日・招日神話の、10個の太陽が一度に空に昇り、旱魃、地上の疲弊をもたらしたすえに射落とされて暗闇となる状態でもある。
この暗闇、混乱とは天岩屋戸神話においては、スサノヲの暴虐から、アマテラスが岩屋戸に籠ってしまった場面までである。これによって高天原や葦原中国は暗闇になり、諸々の災いが生じたのである。そうするとアメノウズメが登場してウケフネの上で踊るのは、これによってアマテラスを誘い出すわけだが、それは射日・招日神話では余分な太陽を鎮めて、それとともに籠ってしまった太陽を招きだすことである。土公祭文ではアメノウズメの踊りは現われないかわりに五行の影響で、文選博士によって秩序が回復される。
高木啓夫によると「石塚尊俊によると、ほかに将軍、岩戸の演目が結末に位置する神楽群があるという」と紹介したが、将軍の舞の場合には必ず「弓ノ舞」を伴うという。そして「弓はツケブタと称する箱状のものの上に横に立てて固定する。これをブチ竹でたたくのであるが、ツケブタを単に弓を固定する台だとしてしまえば何のこともないが、天岩屋戸の故事の「汗(う)気(け)伏せて、踏みとどろこし、神懸りし」た伏せた容器だとすれば、極めて重要な意味を持っていることになる」と述べている。
つまり「ツケブタ」も『民俗芸能研究』第3号の「弓神楽と土公祭文―備後~」の揺輪(半切り桶)もウズメがその上で踊るウケフネであり、弦を鳴らすこととは矢を放つ象徴であり、それによって太陽を射落として旱魃をふせぎ、ひいては豊作をもたらすことを意味している。したがってその意味において揺輪、ツケブタは「極めて重要な意味」を持っているのである。
これは弓神楽の弓の本質に通じるもので、なぜ弓でなければならないのか、なぜ弓神楽というものが存在するのかを明らかにしているのである。これによってウズメの踊りの元来の意味するところもはっきりしてくる。ウズメの踊りの「鎮め」とは余分な太陽を鎮めて、地中にあるうちに太陽に秩序を与えることだったのである。
この弓の弦をたたく行為、つまり「鳴弦」について渡部武が中国古代の射日神話を現わす画像石について解説するなかで、次のように述べている((16))。「害獣を追払い、病気や目に見えない物怪を退散させる「鳴弦」(わが国の「弦打ち」に相当)という儀礼であるといわれているが、これも瑞祥を表わす射日神話の末路の姿であろう」として、弦を打つ、とは射日神話の痕跡をとどめたものであるとしている。「鳴弦」が中国において射日神話の変化型、つまり「末路の姿」であるように、伝播した日本にもこのように射日神話の変化型、末路の姿があり、弓神楽として現代まで伝えられているのである。
なぜスサノヲは暴れ、ウズメは踊るのか
このように神楽からさかのぼって天岩屋戸神話をみると、この神話の本来の意味するところが見えてくる。スサノヲはなぜ暴れるのか。イザナキにそむいたスサノヲが、その暴虐によって世界を暗黒と混乱に落し入れたというのは、10個の太陽の出現による旱魃と地上の疲弊を表現したものであり、それを射落とした後の暗闇がアマテラスの岩屋戸ごもりである。そしてウズメはなぜ踊るのか。アメノウズメの踊りは地下にもぐったいくつもの太陽を鎮めて、つまり地を鎮めて、逃げてしまった残りのひとつの太陽を招くことなのである。
つまり射日神話は『稲と鳥と太陽の道』では欠落しているとしているが、単に欠落したのではなく、スサノヲの物語にすりかわったのである((17))。
だから萩原のいうとおり、この神話を冬至の太陽の復活神話と解釈してはならない。それではスサノヲの暴虐が説明できないのである。もっと苛烈な背景を想定しなければならないはずである。毎年必ずやって来る太陽の弱まりとその回復という、静かに規則的に変化していく冬至前後の太陽では、乱暴なスサノヲの行状と釣り合いがとれない。高天原も葦原中国も世界のすべてを巻き込んだ暗黒、恐れ、あらゆる災いを現出させたスサノヲの暴虐を鎮めて、世界の秩序を回復させるのは射日、そして招日神話としての太陽のよみがえりこそふさわしいのではないか。
そしてアメノウズメが足ふみとどろこす意味は鎮魂の呪術とか邪悪なタマを鎮圧する反閇とされるが、その鎮魂とは、鎮圧とは何を鎮めることであるか。ウケフネを踏みつけて地下の悪霊をおさえる呪術であるように解釈するのは、もとの意味を見失ったからである。つまり鎮魂とは地下にひしめいている多くの太陽を鎮めることである。
そして土公祭文は「この部分は元来は神楽というよりも神事であるとも考えられており」という鈴木正崇の指摘は当っている((18))。もとはオコナイやオビシャなどのように太陽信仰をめぐる神事だったのだろう。土公祭文は烏勧請、弓神事、オコナイなどの祭りの前の「籠り」に相当するのである。それで土公神は本来の意味が亡失されたために、地を鎮める神といわれるのである。そして「籠り」では、地上に疲弊をもたらす余分な太陽を鎮め、翌朝昇るべき我らの望ましき太陽を祈願しているのである。「籠り」については第5章で詳述する。
天岩屋戸神話の解釈をめぐっては諏訪春雄((19))が5つを、工藤隆((20))が7つを示して、つぎのようにまとめている。諏訪は、
①アマテラスは大嘗祭の準備中に穢れにふれた。
②日神であるアマテラスの日蝕神話である。
③日神であるアマテラスの冬至神話である。
④生命力の回復を祈願する鎮魂祭である。
⑤大祓えの儀礼の性格をもつ。
そして工藤は、
①日食神話。
②冬至の祭儀の起源神話。
③神祇令(じんぎりょう)の鎮魂(たまふり)祭の起源神話。
④神祇令祭祀全体の起源神話。
⑤天照大神(アマテラス)の死の神話。
⑥邪馬台(やまと(たい))国の卑弥呼の死と壱(い)与(よ)(または台(と)与(よ))の登場の神話化したもの。
⑦少数民族の太陽神話の流入したもの。
以上であるが、その中でスサノヲの暴虐を説明できるものはあるだろうか。これらの解釈はアマテラスの岩屋戸ごもりと再登場の意味をめぐって考察されるばかりで、なぜスサノヲの暴虐がその前に来るのか、スサノヲとは何なのかについては考えられていないのではないか。それについて溝口睦子は「明治以来多くの研究があり、暴風神説・大祓儀礼の神話化説・トリックスター説等々、さまざまなスサノヲ論が」あるが、それらはスサノヲを丸ごと捉えているとはいえず「善悪未分の宇宙的スケールの英雄神」と考えているという((21))。次の項でスサノヲについてさらに考える。
ただひとつ工藤の『古事記の誕生』から上に引用したうちの⑦の中に実は射日神話に、わずかに触れる箇所があった((22))。第5章のなかの「アメノイワヤト神話の最古層」という小見出しで、射日神話の要素は長江流域の少数民族の神話が<古代の古代>に日本列島に流れ込んだが、その後脱落したのだろう、としてその上で「もしかすると、(複数の太陽、複数の月を)支格阿(ちゅくあ)龍(ろ)が矢で射落とすという行為は、スサノヲの場合はアマテラス(太陽)の神事(ニイナメ)の妨害というように変換されているのかもしれない」と推察されている。神事への妨害だから、私の考察とは違うのだが、スサノヲの行動の意味について、それを射日神話に関係づけてみたところは注目されてよい。ではなぜそれがスサノヲなのか。
スサノヲの神格
射日・招日神話のうちの射日神話の部分の置き換えとしてスサノヲの暴虐の場面があった。ここにおけるスサノヲの役割は高天原を追放されることによって高天原を至浄にし、地上に降りて地上世界の神々の始祖となって祭られることである。その結果として地上の人間世界に平穏をもたらすことである。スサノヲは地上世界にとっては有難い神なのである。
そのスサノヲは、実は最初から地上、あるいは地中といってもいいが、「地」に親和する神格を持っていたのである。
『日本書紀』日本古典文学大系本の頭注によると、三貴士の分治におけるアマテラスとツクヨミとスサノヲがそれぞれどこを治めよと命じられているかについてまとめている((23))。それには古事記と日本書紀本文と一書第一、一書第六、一書第十一の計5つの伝承がある。そしてスサノヲが治めよと命じられるのは古事記では海原を、紀の本文と一書第一では根の国を、一書第六では天下(あめのした)を、一書第十一では滄海(あをうな)原(はら)を治めよといわれている。そして古事記では海原をというところを、紀の一書第六では天下をというところを、スサノヲはそれに答えて根の国へ行きたいというのである。
また西郷信綱はスサノヲがいかなる神であるかについて、「亡き母イザナミのいる根の堅州国と深い関係をもっている」と述べ、さらにスサノヲはもともと根の国の住人であり、その根の国は海の端で海坂を降りていったところにあると空想されていたので、古事記では海原とあるように、海原の印象ともきりはなせないのであるとしている((24))。
このようにスサノヲはもともと天の下、根の国、根の堅州国というふうに大地、地、地中と表現される地上に親和性をもった神格だったのである。
地上に降りたスサノヲはヤマタノオロチ退治をしてクシナダヒメと結婚し、出雲系の神々の始祖となる。そして荒神信仰では荒神はスサノヲの化身とされるし、農業の神としてスサノヲは尊ばれる((25))。
『日本民俗大辞典』「荒神神楽」によると、荒神は火の神や竈神・作神・牛馬の神、地霊の様相を持つ土公神とも習合しているという。ということは荒神はスサノヲの化身であるから、ここで土公神とスサノヲが結びつくわけである。そして土公神はオドクウサマであり、烏であるから、烏とスサノヲも結びつくことになる。
烏とスサノヲが同じといえば、あっけにとられるかもしれないが、これまでたどってきたことを振りかえれば、両者には共通点が見いだせる。諸々の禍を運び去ることと、地を司るということである。
まず烏は射日神話で射落とされた余分な太陽を始末する役割がある。旱魃をもたらす危険な太陽の象徴である餅や団子をカラスに与えるのである。だからカラスに餅や団子を食べてもらえないとケガレありとして、祭りができない、あるいは祭りが終われない。天上でそれに相当するのがスサノヲの物語である。スサノヲは高天原でケガレともいうべき諸々の禍を充満させ、さらにアメノウズメの半裸の姿による踊りをきっかけとして再びアマテラスを呼びもどして、高天原を至浄の世界にして追放されるのである。以後、アマテラスは至浄の高天原で太陽神として輝き続けられる。
もうひとつの共通点は、両者とも地を司る、地に働きかける役割を持っていることである。烏は地をとおして太陽の昇降を司り、スサノヲは地上世界の神として、地上のさまざまな神と習合して地上の世界に平穏をもたらす。
スサノヲの地上世界でのそうした役割はなぜ与えられたのか。それは高天原における諸々の禍の現出による混乱とアマテラスを籠らせる力、つまりは射日・招日神話における余分で危険な太陽の出現とそのすべてを始末して世界を暗闇にまでしてしまう力である。その太陽の昇降は、地中にある間に秩序づけられ、それによって旱魃などの自然災異を調整することが期待される。それがスサノヲの地に働きかける役割である。
地上に降りたスサノヲが慈悲深い出雲系の神々の始祖となるのは、太陽を隠す力があるからである。太陽が現れることはいつでも歓迎されるわけではないのである。その力こそ地中にある太陽へ働きかけて、旱魃をふせぐと期待されるからだ。それは「地」に関係の深いスサノヲだから与えられた役割であり、それこそがスサノヲに期待されるのである。つまり地上世界におけるスサノヲの役割とは高天原で見せたように太陽を籠らせる力であり、自然災異に働きかける力なのである。とりもなおさず、それは鬼神の力でもある。
そこで反閇がなぜ重要視されるのか、その意味が明らかになってくる。
反閇とは何か
反閇(へんばい)とは何か、なぜ重要視されるのか。それについて考える前に『日本民俗大辞典』から「へんばい 反閇」を引いてみよう。
邪気を払う呪術的足踏み。(略)元来陰陽道における呪法の一つであって(略)天皇や貴人の外出に際して邪気を払い、その安泰を祈って行われる足踏みで、(略)折口信夫によれば(略)日本にも古来から、力足を踏んで悪いものを踏み鎮める所作があったという。(略)悪鬼鎮圧の反閇の力は恐ろしいほどのものがあり、花祭における榊鬼役が反閇を踏んだ新菰は焼き捨てるか、川に流し去るという。(略)
折口が日本にも古来からあったという「力足を踏んで悪いものを踏み鎮める所作」というのが、花祭のなかの反閇や、天岩屋戸神話におけるアメノウズメの踊りのことだろう。それについて三隅治雄は次のように述べている。
「反閇」は大地を踏みつけて地下に跳梁する悪霊をおさえ、代わりに正気をよびさまそうとする呪術である。中国から伝来した呪禁術(じゅごんじゅつ)の一種というが、このなかには、前述の、天鈿女命が「ウケ踏みとどろかして」行なったという鎮魂の呪術なども含まれていると見ていい。この反閇は、いまもヘンベなどとよばれて、愛知県の山村の祭などに登場するが、それは、鬼神に扮した者が爪先きをあげて左右にくねらせ、トンとおろすといった乱拍子そっくりの技法で、悪霊鎮送のまじないだとされている((26))。
このように花祭においても最重要の儀式のなかで反閇を行なうのは鬼神なのである。そして反閇の重要さについて池田弥三郎は愛知県下の霜月神楽「花祭」では、「そのもっとも肝要な段階において、もっとも重い役である榊鬼が「反閇」を行なう」と述べている。池田はここでは反閇がなぜ重要かということは述べていない。ただ、直に大地で行なわないで新しい菰をしいたり、所によっては菰の上にさらに白紙をおいたりして、その上で反閇をするのは、それほど神聖な儀式だからだと、地元ではいわれていると池田は記している((27))。
早川孝太郎の『花祭』によると反閇が見られるのは、行事次第の最後の方に行なわれる「しずめ」祭りにおいてである。最重要の儀式とされる「しずめ」祭りは「「しずめ」のへんべ(反閇)または龍王の舞いともいい、行事をつうじて、最重要の儀式と考えられ、その次第は禰宜以外にはなにごとも関与できぬとして、厳重な秘伝となっている」と早川は述べている((28))。しかし、それでなぜ重要なのかについては特にふれていない。
そして「しずめ」祭りの意味は、行事の終りにあるところから、神上げと考えられ、興奮した神々の心をしずめて、それぞれのかえるべき位置へ返すことだという。さらに祭場をもとの屋敷なり建物にもどすことである、とも考えているという。興奮した神々の心を鎮めるとか、祭場に使った屋敷や建物をもとにもどすとか、このような理由をもって、だから最重要の儀式なのであるとはとても思えない。
なのに反閇がはじまると「このとき一たん散会した見物もあらためて参列するのであるが、その光景は森厳緊張の極で、信仰はまださかんなりの感をしみじみ感じさせられる」という緊張感に満ちた真剣な場として認識されているのである。このように反閇については祭りのなかでの最重要の儀式と位置づけられているわりには、その解釈ははっきりしないし、その理由からはあまり重要さはうかがえないのである。単なる行事の終りとか神々を帰るべき位置へかえすというよりも、反閇にはこの祭りの本質的にして本来の目的がこめられているとみるべきであろう。
これまでの解釈をふりかえってみると、反閇とは、邪気を払う呪術的足踏みである、邪悪なものを踏み鎮めること、地下に跳梁する悪霊をおさえ、代わりに正気をよびさますこと、神の心をしずめてもとの位置へかえすこと、などとなっている。
ところで萩原秀三郎は『鬼の復権』において反閇には一般にいわれている、悪霊を足踏みの儀礼的所作によって踏み鎮めるというよりも、本来は、地霊に対する表敬行為であったとみている。つまり邪悪な霊を踏み鎮めるだけではなく、踏み興して、地に鎮まる神を呼び興し、称(たた)え安らぎ鎮めることだという。その結果、地霊は豊穣をもたらすので、本来は悪霊ではなかった、としている((29))。
そうすると反閇には二つの目的があることになる。さきの三隅の解釈の中にある、悪霊をおさえて代わりに正気をよびさます、というのと共通しているが萩原は、邪悪な霊を踏み鎮めて、それとともに地霊を呼び興して称えることであり、その結果、地霊が豊穣をもたらすというのである。そしてアメノウズメが「ウケ踏みとどろこして」行なった鎮魂の呪術も反閇と同じものであると考えられている。
ということは私が先に提出したウズメの「踏みとどろこし」についての新しい解釈と重なるのである。ウズメが鎮めるのは余った危険な太陽であり、一方で望ましい太陽を招くことであった。それゆえに「ウケ踏みとどろこし」は重要な儀式であった。
つまり反閇とは、地霊を鎮めるとか、邪悪な霊を踏み鎮めるとかいうのではなく、射日・招日神話における余分で危険な太陽を鎮めて、我らが望む好ましい太陽の昇降を期待するということが本来の目的だったのではないか。それゆえに反閇は重要視され、鬼神に扮したものが行なうのである。その理由が忘れ去られたのちもこの儀式が重要であるということだけは代々引き継がれて現在におよんだということではないか。「しずめ」祭りは太陽鎮めであり、「森厳緊張の極」といった異様な緊張感に満たされるというのもそうした始原の感覚を伝えているためではないか。
以上が烏とお土公様、そして弓神楽における土公祭文の意味と、さらに天岩屋戸神話におけるスサノヲとアメノウズメの物語の意味と花祭の反閇とのそれぞれの共通点である。お土公様は現在では『日本民俗大辞典』にあるように、地の神、地を鎮める神と解釈されている。それはかつて地中の太陽に働きかけていたのだが、すでにその行為の意味が忘れられて、地を鎮めるという見かけの行為として伝えられたのであろう。
鎮魂とは太陽を鎮めること
地を鎮めるとは、地中にある太陽を鎮めることであるとの結論を得た。ではさらに別の角度から「鎮魂」と太陽とのかかわりを探ってみよう。
鎮魂は古代にあってはタマフリ、タマシズメと呼ばれた。萩原秀三郎によると「日」は「霊」であり、「魂」であり、現れる形は異なるが、同じ働きをもつ生産霊であったという((30))。つまりは日と霊と魂とは同じ意味である。『時代別国語大辞典 上代編』で「たま 霊」をひくと、「霊魂。神霊。人間の魂や自然物、特定の器物に宿る霊。また、それらから遊離して人間にとりついたりして、さまざまな不思議な働きをなす超自然的な力。(以下略)」となっている。これによると、霊と魂とはどちらも「たま」である。さらに「ひ」をひくと「ひ 霊」と見出しにあり、「ひ」は「霊」であり「霊」を「ひ」と読んでいる。そして解釈は「霊力。威力を有する超自然的な力」としており、「太陽の日(ひ)と関係があろう」と推定している。
やはり萩原のいうように「日」と「霊」と「魂」とはどれも同じということになる。そうすると「タマフリ」「タマシズメ」とは「魂振(たまふり)り」「魂(たま)鎮(しずめ)」であると同時(どうじ)に「日振(たまふ)り」「日(たま)鎮(しずめ)」でもあり「日(ひ)を振る」「日(ひ)を鎮める」、つまり太陽を鎮めるということになる。そんなのは言葉遊びだといわれるかもしれない。そこで鎮魂つまり、タマフリ、タマシズメとは太陽を鎮めることである、ということについてさらに追究してみよう。ここに至ると大嘗祭の起源も明らかになってくる。
大嘗祭と鎮魂祭について
ここでは大嘗祭を例にして考えてみる。そこからもう少し鎮魂と太陽との関係が見えてくる。
大嘗祭と新嘗祭とは両者の間に本質的なちがいはない、とされるので、大嘗祭をみていく。大嘗祭は『日本民俗大辞典』倉林正次の『天皇の祭りと民の祭り』などによると、11月下(しも)の卯の日が祭日で、卯の日が3回あれば中の卯の日に行なうという。その前日、寅の日に鎮魂祭はあり、祭りは夕方に始まる。なぜ卯の日なのか。
方位では卯は東である。だから卯の日に大嘗祭を行なうとは、新しい太陽をむかえる、つまり太陽の子孫としての新天皇を迎える日としてふさわしい。その前日に鎮魂祭があり、太陽を鎮めるのである。タマフリ、タマシズメとはしいていえばタマシズメが複数の太陽を鎮めることであり、タマフリが鎮めた中からひとつの太陽をふるい起こすことではないか。
鎮魂祭は夕方にはじまる。そして余分な太陽は鎮められて、世界は秩序を回復するのである。これが鎮魂祭の真の意味だとすれば、ここに大嘗祭と鎮魂祭の前後の関係が射日・招日神話の関係と同じであることになる。しかも鎮魂祭は夕方からはじまる。おそらく日没を期してはじまるのである。それは新たな1日は日没から始まるからである。「1日の始まり」については第5章「1日の始まりは日没から」で詳述する。
さらにいえば、鎮魂祭を終えて、次の日の晩、大嘗祭の前に、廻(かい)立(りゅう)殿で天皇は沐浴して身を清める。そして悠(ゆ)紀(き)殿の儀となり、そのあともう一度廻立殿で天皇は沐浴潔斎して主基(すき)殿の儀となる。これは殷の十日神話における、西の地へ没した太陽が地中を通過するさい、水中でほとぼりを冷ますとされる話を思い出させる。そののち新たな太陽によみがえるのであるから、廻立殿での沐浴は太陽の子孫とされる天皇にそれと同じ意味を付与するのではないか。この点でも太陽神話と符合している。
結局、大嘗祭と呼ばれる鎮魂の儀、廻立殿の儀、大嘗祭の悠紀、主基の儀は射日・招日神話をもととする太陽信仰の変化型である。鎮魂祭が夕方から始まるのも、大嘗祭の終了まで一部始終が夜間に行なわれるのも「籠り」に相当する。そして祭りが終わると大嘗祭のために設営された大嘗宮である悠紀殿、主基殿それに廻立殿はみな直ちに取り片づけられる習わしであるという。これは18ページで紹介した莇(あ)原(ぞう)中組で行なわれる弓神楽での、祭祀の終りに「棚壊し」という祭壇を壊し土団子で祭場は泥だらけにしてしまう行為に相当するであろう。さらに左義長、トンド、ドンドン焼きで作った仮小屋を子どもたちが籠ったあとには、火祭りの終りに焼いてしまうこととも共通している。
これは自然災異をもたらすかもしれない余った太陽は、暗闇と混乱、あらゆる禍を象徴するものであるから、その太陽を鎮めるために築かれた施設である火祭りの仮小屋、弓神楽の祭壇、大嘗祭の設営物などを除き去ることに、祓いとしての意味があるのだろう。
だから鎮魂祭と大嘗祭とは元来直結していたものである。これについては、射日・招日神話まで視野に入れたものではないが、つぎのように倉林正次の見解もおなじである((31))。
このマトコオフフスマの中に籠っておられる状態は、天照大神が石屋戸の中におられるのと同じことである。天の石屋戸の前では鎮魂の祭りが営まれた。大嘗宮のマトコオフフスマに籠っておられる天皇有資格者に対して、鎮魂の祭りが行われるはずである。しかもそれは、天の石屋戸の場合と同様、猿女伝来の鎮魂法であった。こうした意味において、鎮魂祭と大嘗宮神祭りとは元来直結して行われたものであった。
そんなことを考えていたら、たまたま次のようなラジオ番組が耳に入った。
尾張大國霊神社の儺追神事
「~餅を土の中に埋める~」とのラジオの語りが耳に入った。2012年2月5日(日)朝6時40分、NHKラジオ第一「日曜朝いちばん」という番組で「音にあいたい」というコーナーであった。そこから耳を傾けたが、どこの何神社か、先に言っていたと思うが、もう最後には言ってくれなかった。気になるので、NHKへ電話で問い合わせたところ、稲沢市の国府宮(こうのみや)はだか祭であるとのこと。早速インターネットで調べたら、尾張大國(おおくに)霊(たま)神社の儺追(なおい)神事(しんじ)に行き当たった。
以下、同神社のホームページから紹介する。神事の一部始終ははぶくが、この神事の核心部分は、中心的役割を担う儺負人(なおいにん)を選定し、神男(しんおとこ)とも呼ばれるその儺負人に「ありとあらゆる罪穢れを搗き込んだものと信じられ」ている土(つち)餅(もち)を負わせて追放するというものである。土餅は前年の同神事の時に、儺負人を境外に追い出す時に投げつけた桃と柳の小枝でできた礫(つぶて)で、その礫を焼いた灰を餅に包み、外にも真っ黒に灰をぬったものである。この餅は旧正月11日早朝につくられる。
はだか祭は、文面からすると13日らしい。午後に行なわれ「はだかの群集に揉まれ触れられ人々の厄災を一身に受けた」神男が儺追殿に入って終了する。その晩、日が変わって、真夜中午前3時、儺負人(神男)は土餅を背負わされ、礫に追い立てられ境外へ追い出される。儺負人は途中で土餅を捨て、この餅は神職によって埋められることにより、世に生じた罪穢悪鬼を土中に還し、国土の平穏が現出される、というものである。
ホームページによるとこの部分が「儺追神事の本義であり、称徳天皇の御世より現代に至るまで最も神聖視され重要視されています」となっている。
そして17日には的射神事という儺追関連の最後の神事がある。「山・谷・星」の的を設け、桑の弓にうつぎの矢をつがえて的を射て、魔を祓うという。「山・谷・星」の意味はなんだろう。なぜ桑の弓なのか。なぜうつぎの矢なのか。うつぎは次の章のなかで「鯖々の行事」でも使われる木である。
この儺追神事については『日本民俗大辞典』で「ちんそうじゅじゅつ 鎮送呪術」と「ひとみごくう 人身御供」の項で紹介している。しかし、最後に弓を射るということ、儺負人に象徴される暗闇と混乱、「ありとあらゆる罪穢れを搗き込んだ」土餅など、高天原でスサノヲが引き起こしたありとあらゆる禍に相当するもので、土餅は弓神楽における「棚壊し」と土団子であり、やはり射日・招日神話を起源とするものであろう。
ラジオから耳に入った「餅を土の中に埋める」という箇所が、つまり太陽を土に埋めることである。それも「ありとあらゆる罪穢れを搗き込んだ」土餅である太陽、これは射日神話では射落とされた余分な太陽であり、旱魃をもたらす邪悪な太陽である。そうすると儺負人は余分な太陽を運ぶ烏であり、高天原から追放されるスサノヲである。だから儺負人は土餅を背負って境外へ出て、土餅を捨て、その餅が埋められるのである。邪悪な太陽が地に鎮められることが重要なのである。一連の神事を象徴して最後に的射神事が行なわれる。したがって儺追神事もまた射日神話を再現したものである。この的射神事をさらに少し遠いところから見直してみよう。
桑樹と射日神話
さきほどの桑の弓、うつぎの矢、についてはやはり『稲と鳥と太陽の道』に示唆してくれるものがあった。まずそれを引用する((32))。
甘粛省嘉峪関の魏晋墓より出土した採桑画像磚では、鳴弦の動作をする子供が採桑場面に描かれている。一般に先立ち后妃が自ら桑を摘む儀式を躬桑礼という。こうした桑の木の下での弓の儀礼について、渡部武氏は「射日神話の末路の姿であろう」としている。桑樹は、射日神話と本来切り離せないものであったと思う。
「桑の木の下での弓の儀礼」とか採桑場面で「鳴弦の動作をする」というのはただちに儺追神事最後の的射神事における桑の弓や、弓神楽のなかで、揺輪の上に結びつけた弓の弦を叩きながら土公祭文を読誦する場面との関係を思わせる。その渡部武の書というのは『画像が語る中国の古代』で、射日神話を表現している画像石がいくつも図版で紹介されている。それらの画像とその解説もさることながら、射日神話の元の十日神話についての記述のなかに興味深い内容があった。それは「十干十二支」のいわゆる干支の呼称についてである((33))。
「干支」とはもとは「幹枝」で甲・乙・丙・丁・戊・己・康・辛・壬・癸の十干は10の幹、ということは幹であるが、扶桑の木は1本だから、大木の大枝という意味だろうか。十日神話ではこの大枝である「幹」に「甲・乙・丙~」の10個の太陽が懸かることになる。そして「十二支」の寅・卯は枝であるという。「枝とは月の霊なり」というのがわからないが、とにかく十二支の子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥は12の枝ということらしい。その中の卯は方向が東、卯の枝といえばこれはうつぎの枝だから、つまり儺追神事最後の的射神事で行なわれる、桑の弓にうつぎの矢をつがえて的を射るということは、扶桑の大枝にかかる太陽を射落とすということになるだろう。
その的の「山・谷・星」というのは世界を意味しているのだろうか。山・谷・星の組み合わせというのはちょっと例がないような気がするが……、もしかりに山が高天原に通じ、谷が地上で葦原中国を意味し、星が夜の食国ということなら、世界のすべてが、ということになる。その「山・谷・星」の的を射るとは世界が暗闇になるということを意味しており、射日の結果を示すのではないか。