ケガレの起源と銅鐸の意味 岩戸神話の読み方と被差別民の起源 餅なし正月の意味と起源

ケガレの起源は射日・招日神話由来の余った危険な太陽であり、それを象徴するのが銅鐸です。銅鐸はアマテラスに置換わりました。

ケガレの起源と銅鐸の意味29 烏勧請の起源 第1部 烏勧請から天岩屋戸神話へ

2016年10月01日 14時18分42秒 | 日本の歴史と民俗
   参考文献

通し番号 1)のつぎの p10 は冊子版のページ数です。

1)p10 桜井徳太郎編『民間信仰辞典』東京堂出版、1980年。
2)p10 萩原秀三郎『稲と鳥と太陽の道』大修館書店、1996年。
3)p10 (2)に同じ、p46~p52。
4)p12 大林太良『稲作の神話』弘文堂、1973年。
5)p12 新谷尚紀『ケガレからカミへ』木耳社、1987年。
6)p13 金田久璋『森の神々と民俗』白水社、1998年、p99~p109。
7)p15 田中真治「岡山県の御鳥喰の事例―とくに玉野市碁石の場合」『日本民俗学』147号、日本民俗学会、1983年。
8)p16 文化財保護委員会『無形の民俗資料記録第6集 正月行事2 島根県・岡山県』1967年、p110、p136。
9)p17 (2)に同じ、p50。
10)p17鈴木正崇「弓神楽と土公祭文―備後の荒神祭祀を中心として」『民俗芸能研究』第3号、民俗芸能学会、1986年。
11)p18高木啓夫「鎮めの舞と招魂と鎮魂と―その同時的背反性呪術」『民俗芸能研究』第4号、民俗芸能学会、1986年。
12)p20志田諄一「東国の底力の源泉-関東」『日本の古代2 列島の地域文化』中央公論社、1986年、p265。
13)p20 内藤戊申「第3章 殷人の日日」『古代殷帝国』みすず書房、1958年、p209。
14)p20 (2)に同じ、p29。
15)p21 萩原秀三郎『鬼の復権』吉川弘文館、2004年、p13。
16)p24 渡部武『画像が語る中国の古代』平凡社、1991年、p50。
17)p24 (2)に同じ、p54。
18)p25 (10)に同じ、p16。
19)p25 諏訪春雄『日本王権神話と中国南方神話』角川選書、2005年、p112。
20)p25 工藤隆『古事記誕生―「日本像」の源流を探る』中公新書、2012年、p197。
21)p26 溝口睦子『アマテラスの誕生―古代王権の源流を探る』岩波新書、2009年、p124。
22)p26 (20)に同じ、p229。
23)p27 『日本書紀』上巻、日本古典文学大系、岩波書店、1969年、p96、頭注4。
24)p27 西郷信綱『古事記の世界』岩波新書、2010年、p62~p64。
25)p28 横上若太郎「荒神かぐらとロックウ神楽」『岡山民俗 50号刊行記念特集号』岡山民俗学会、1962年、p27~p28。
26)p30 三隅治雄「民俗と芸術のあいだ」『日本の古典芸能6 舞踊』平凡社、1970年、p31。
27)p30 池田弥三郎「「舞台」の源流」『日本の古典芸能1 神楽』平凡社、1969年、p277。
28)p30 早川孝太郎『花祭』民俗民芸双書、岩崎美術社、1985年、p108~p113。
29)p31 (15)に同じ、p56~p57。
30)p32 (2)に同じ、p191。
31)p35 倉林正次『天皇の祭りと民の祭り―大嘗祭新論』第一法規、1983年、p205。
32)p37 (2)に同じ、p188。
33)p37 (16)に同じ、p42。
34)p39 (2)に同じ、p33。
35)p39 和田光生「湖北オコナイの成立について―地方霊場寺院と村落寺院の影響」『京都民俗』第6号、京都民俗学談話会、1988年、p20。
36)p40 (2)に同じ、p33。
37)p40 (8)に同じ、p49。
38)p41 『古事記 上代歌謡』日本古典文学全集、小学館、1979年、p81。
39)p42 柳田国男「神道と民俗学」『定本柳田國男集』第10巻、筑摩書房、1976年、p360。
40)p42 (1)に同じ、p164。
41)p44 柳田国男「日本の祭」(39)に同じ、p184。
42)p44 田中元『古代日本人の時間意識―その構造と展開』吉川弘文館、1990年、「はしがき」p4。
43)p45 (41)に同じ、p219。
44)p47 牧民郎「神舞談義 湯之尾神舞龍蔵舞と明水~」『鹿児島民俗』109号、鹿児島民俗学会、1996年、p24。
45)p47 (4)に同じ。
46)p47 (6)に同じ、第2章 若狭の烏勧請。
47)p48 斎藤槻堂『越前若狭の民俗事典』同刊行会、1981年、p225。
48)p49 柳田国男「野鳥雑記」『定本柳田國男集』第22巻、筑摩書房、1976年、p155。
49)p51 萩原法子『熊野の太陽信仰と三本足の烏』戎光祥出版、1999年、p160~p167。
50)p52 (24)に同じ、p78。
51)p53 (42)に同じ、p39。
52)p53 (42)に同じ、p5。
53)p53 鳥越憲三郎『中国正史倭人・倭国伝全釈』中央公論新社、2007年、p178。
54)p54 (2)に同じ、p103。
55)p54 (2)に同じ、p102。
56)p55 (2)に同じ、p54。

ケガレの起源と銅鐸の意味28 烏勧請の起源 第1部 烏勧請から天岩屋戸神話へ

2016年10月01日 13時16分19秒 | 日本の歴史と民俗
   おわりに

強すぎる太陽
 烏勧請とは何か。人とカラスの交流というこの一見他愛のない民俗行事のなかには永い間の日本人の信仰生活の痕跡が隠されている。烏勧請には思いのほか広い民俗信仰の背景があり、歴史としての時間的深さがある。
 オビシャやオコナイなどの弓神事も烏勧請も、どちらも永年の経過のなかで多くは元の意味が失われ、忘れられ、そのため一見不可解な形態を装うものが多い。それでも各地の事例のなかからそれらしき痕跡をひろいだして太陽信仰、なかでも射日・招日神話というキーワードで組み直していくと、かつて盛んだったであろう太陽信仰の様相がおぼろげではあるが、描けるのではないか。いずれの行事にも籠りに相当するものが先にあり、その後に結果としての日の出がくるのである。
 なぜカラスなのか、なぜ餅や団子をカラスに与えるのか。なぜそれを早朝に行なうのか。「はじめに」であげた謎のうち最初の3つについて、これで答が出たと思う。
 太古、カラスは太陽であり、太陽を運ぶ鳥であり、さらに太陽の昇降や鎮静を司る大役を負った鳥だったのである。人々は祭りの夜を徹して日の順調に巡ることを祈り、強すぎる太陽の象徴としての餅や団子を余った太陽として祭りの最後にカラスに与えたのである。それゆえカラスが供物をあがらないことを恐れ、不吉としたのである。
 そこには太陽に対する畏れがあった。太陽はいつでも穏やかに輝く慈しみに満ちた存在であるとは限らない。時には日照り続きで容赦なく大地を干し、作物を枯らし尽くす恐ろしい一面をもっている。特に射日・招日神話を生んだ古代中国の稲作文化発生地帯では、稲にとって日照りは切実な問題であった。射日・招日神話を生んだ背景も強すぎる太陽にあっただろう。それは高緯度地方において、冬至のころの弱い太陽に復活を希求することとは対極をなすものである。『稲と鳥と太陽の道』によると、中国西南部の少数民族では、固有の習俗としての冬至祭祀は現在も行なわれていないという((56))。
 今回は烏勧請のおもに民俗的背景や広がりについて検討してきた。その結果、烏勧請は弓神事と元一体のもので、太陽の順調な巡りを願う祭りの最終段階の行為であること、それが永年の間に切り離されてきたものであり、オコナイ、オビシャ、神楽、烏勧請などが未分化のものもあり、それらを通して日本民俗の中での正当な位置づけができるということを検証してきた。いわば烏勧請の行為の不思議について考えてきた。
 そしてなおも「はじめに」で述べた④の謎が残されている。
④なぜ東日本と西日本で内容がかなり違うのか。

 次回は烏勧請の地域間のちがいが何に由来するのかについて考えてみようと思っている。

ケガレの起源と銅鐸の意味27 烏勧請の起源 第1部 烏勧請から天岩屋戸神話へ

2016年10月01日 13時08分43秒 | 日本の歴史と民俗
  第5章 1日の始まりは日没から

日没から祭りは始まる
 現在は、1日の始まりは午前0時である。しかし昔はそうではなかったという。では1日の始まりはいつかという問題をとおして、祭りにおける夜の意味について考えてみよう。その祭りの夜の意味とは「籠り」の意味である。「籠り」に相当するのは、スサノヲの暴虐からアマテラスの岩屋戸籠りまでであり、神楽における土公祭文であり、島根半島、塩津のオコナイにおける「鯖々の行事」から墨つけ、餅割りまでである。これらはすべて地中の太陽を鎮めて、夜のうちに秩序を与えようとする行為に相当するのであり、その結果が翌早朝、未明に、余った太陽である餅、団子をカラスに与える行事が、現在行なわれている烏勧請なのである。
 弓神事や烏勧請などの祭りが、東北から九州まで広く行なわれるのも、大社でも共同体の小祠などでも行なわれるのも、それだけ太陽の順調なめぐりが切実な願いであり、どこの地においても乞われる対象だったからである。その切実さゆえに、まさに日没から祭りは始まるのである。
 柳田国男の『日本の祭』によると、
我々日本人の昔の1日が、今日の午後6時頃、いはゆる夕日のくだちから始まつて居たことはもう多くの学者が説いて居る。それ故に今なら一昨晩といふところを「きのふのばん」といふ語が全国に残り、又12月晦日の夕飯を、年越とも年取りとも謂つて居るのである。我々の祭の日も其日の境、即ち今なら前日といふ日の夕御饌(ゆうみけ)から始めて、次の朝御饌を以て完成したのであつた。ひるといふ食事は、もとは屋外だけに限られて居たやうである。つまりこの夕から朝までの間の一夜が、我々の祭の大切な部分であつて、主として屋内に於て、庭には庭燎(にはひ)を焚いて奉仕せられたのであつた。夜半の零時を以て1日の境と考へ、又は1日は旭の登るときから、もしくは東の空の白む時から始まるといふ風な考へ方が行はれて、自然に之を2日つづきの式のやうに解する人が多くなつたのは、是も亦大きな変遷であつた((41))。

 このように、古代日本人にとって1日の始まりは日没からだったというのは説としては常識化しているらしい。『古代日本人の時間意識―その構造と展開』によると、1日の始めを夕べとしている現象は世界的に広く見られるという。しかしなぜ1日の始まりが夕べ、つまり日没からなのか、その根拠はわかっていないようだ((42))。
 ところがこれも射日・招日神話で説明できることはすでに明らかであろう。これも結論からいえば、余分な太陽を鎮めて、好ましいひとつの太陽に昇ってもらうために夜中祈るのである。そのために精進潔斎して、供物をささげるなど、できるだけのことをする。それが祭りである。そのための準備は前日の日が沈んだらただちに始まる。つまり日没から、つぎの日の出のための祭りが始まるのである。それで1日は夕日の入りから始まる、と考えると無理がないではないか。
 つぎの朝にどんな太陽が昇ってくれるか、あるいは日照りつづきであれば昇らないでくれるか。これは古代人にとっては切実であった。現代においても、意識することは少ないが、そのことに変わりはない。そのために夜籠りして、できるだけの準備をして祭り、順調に日がよく巡ることを祈る。だから夜の祭りが多いのである。弓神楽などの採物神楽が日没に始まるのもおなじである。
 したがって宵宮といわれる祭の前夜に注目することで、日没から夜をとおして朝に至るまでの過程に祭の本質が見えてくる。その本質とは籠ることである。

籠ることが祭の本体
 『日本の祭』のなかの「物忌と精進」は、祭の前夜を何と呼んでいるか、という問いかけからはじまっている。以下、要約すると、その答として柳田国男はオコモリという言葉をあげている。たとえば八丈島では「今でもコモリといふのが我々の宵宮、即ち祭の前夜のことであつた」という。越後新潟附近、福島県相馬地方、宮城県石巻などはオヨゴモリというのが宵宮のこと。九州ではゴヤゴモリなどという。以前は夜を徹して御社に詰めているものだった。正月15日または7日に行われる御柱の火祭を京都では左義長、九州では鬼の火ともホッケンギョウ、東の方へ来るとサヘノカミ、サエド焼きと呼ぶ。この火祭の柱の根もとや片脇に仮小屋を作り、前の晩に村中の少年がその中で泊り、翌朝に小屋も柱もともに焼くのが普通だった。埼玉県所沢などでは正月7日のこの火祭の前夜をコモリといっていた。
 柳田はこうした各地の「コモリ」を検討して、「つまりは「籠る」といふことが祭の本体だつたのである。即ち本来は酒食を以て神を御もてなし申す間、一同が御前に侍坐することがマツリであつた」という結論にいたる((43))。
 ではなぜ籠らなければならないのか。なぜ籠ることが祭りのなかの最重要なことになるのか。そしてなぜそれが夜なのか。その時の神とは何者なのか。これらの疑問には柳田は答えていない。
 別のところで柳田はこれらのマツリの神について、いったい何者なのかとの疑問をつづっている。42ページの柳田の引用文をもう一度記す。「この小さな村々のコトや日待に於て、弘く国内同胞の御祭り申して居る神様は、果して日本の神道の外か内かといふことであります」。
 これにはすでに答がでている。「御祭り申して居る神様」とは太陽または太陽神である。御柱の火祭りで小屋も柱も焼いてしまうということは、これもやはり暗闇、混乱の象徴である。それを焼くことで、籠った結果としての、余分な太陽を鎮めることにかかわった施設を除き去ることになるのではないか。
 射日・招日神話としての太陽信仰について、これまで烏勧請、オビシャ、オコナイなどの弓神事、さらに天岩屋戸神話や弓神楽、花祭りの反閇をとりあげて、太陽神話の存在やその現代にいたる残存の形を検討してきた。従来これらの神事、行事についての解釈は、一部には太陽信仰との関係に及ぶものもあるが、総じて本質まで掘り下げたものではなかった。ではこれらの神事、行事の本質が射日・招日神話による太陽信仰であることをさらに究明していこう。
 そこで注目すべきことは「籠る」ということである。柳田が結論に至った「籠るということが祭の本体だった」というのは当っているのである。だが、結果として当っているが、その本質やコモリの本来の意味や由来において、柳田はわかっていない。では籠ることの本質とは何か。それはどう出るか、いくつ出るかわからない太陽を鎮めて秩序を与えることである。日の出までにそれをなし終えることが祭りの本質である。
 では何を媒介とすれば太陽に働きかけることが可能なのか。それは鬼神である。「土公祭文」の主人公である五郎王子が鬼神であるのは鬼神こそ春夏秋冬のそれぞれを支配する4人の兄たちに対抗することができるのである。それはとりもなおさず、四季のめぐりに影響力を示し、雨、風、日照りなどの自然災異にも働きかけることができるのである。一方、五郎王子はスサノヲの物語のスサノヲとアメノウズメであり、高天原において太陽であるアマテラスの籠りと復活にかかわるのである。また『鹿児島民俗』109号によると、阿久根神舞鬼神舞では、鬼神が天岩屋戸から日・月を招きだすという((44))。ここでは天岩屋戸神話におけるスサノヲの物語の中のアメノウズメと、鬼神とが入れ替わっている。
そして、花祭りにおける反閇は29ページの「反閇とは何か」で紹介したように、反閇は鬼神に扮して行なうのである。それは何を意味するかといえば、鬼神こそは自然災異に働きかけることができ、さらに地に太陽を鎮めることができると信じられたからである。だから鬼神に通じる祖霊を祭り、正常な死者である天寿を全うして亡くなった先祖を祭るのである。それが祖霊信仰の本質であろう。

烏勧請は早朝に行なわれる
 烏勧請が早朝に行なわれることを検証しておこう。これには大林太良の『稲作の神話』の烏勧請を資料として使う((45))。この各地の烏勧請の例では行事を行なう時間帯についての記述がないものが多いが、全部で160件あるうち36件には記述があった。必ずしも行なう時間帯について留意されてはいないようだ。その内容はほとんど朝方である。各種の資料からの寄せ集めであるから、表現はいろいろである。朝食前、早朝、朝、夜明け、未明、夜12時、朝4時、払暁、午前2時~夜明けまで、という具合で、だいたい早朝、未明に集約されそうだ。烏勧請は早朝、というのは青森から鹿児島におよんでおり、烏勧請の分布域のほぼ全域になる。その中で秋田県で夕方、新潟県で昼すぎ、昼ごろ、晩、山梨県で午後4時~6時というのが例外的にあった。
 ただ大林の資料によると北陸、近畿、中国などで時刻の記載のないところが多かったが、金田久璋の『森の神々と民俗((46))』によると若狭では11件のうち3件は早朝に行なうことが記載されている。時間帯について記載のない地域もおそらく早朝に行なうところが多いものと思う。というのは、時間帯が記述されている例のなかには、朝早いほどよいとか、カラスが鳴きさわぐ前に供えるとされている、などの表現があるからである。ただ、熱田神宮、多賀大社、厳島神社のうち、多賀大社では毎朝7時となっているが、熱田と厳島は日中らしい。
 というわけで、朝方、それも未明から早朝といわれる時間帯ということは、冬の日の出の遅い時期ではいずれにしても暗いうちから行なうということになる。そしてカラスに与えられるのは餅、団子、シトギなど、太陽を象徴するものである。ということはまだ暗いうちに、太陽が昇らないうちに、カラスに太陽を与える、言い返ると、余分な太陽をカラスに管理させるということにならないか。だから太陽が昇る前にそれが行なわれる必要があるのである。その結果として我らの望ましい太陽が昇り、順調な巡りを期待できるということになる。
 『森の神々と民俗』ではさらに「午前6時半、冬の未明の空から時おりあられがはげしく打ちつける。まさしく「アケガラスの渡らん先に」神饌がととのえられ、浜宮の神事であるセンジキ(烏勧請のこと)がいよいよはじまろうとする」との記述がある。「アケガラスが渡らんさきに参らにゃならん」という口碑があるのだという。そして「アケガラスが渡るまえに、先祖を祀るとされるダイジョコに参詣しなければならないという、家訓めいた旧家の伝承は、いわばカラスが鳴きさわぐまえに祭場に詣でて神饌を供えねばならないという具体的な作業を意味していた」という。ダイジョコとは『越前若狭の民俗事典』によると、福井県美浜町新庄では祖霊すなわち先祖神であるという((47))。ここでも祖霊を祭ることが鬼神に働きかけることになるということを示している。
 一般に野鳥は朝が早いが、カラスも未だ明けぬ前から鳴き出す。その鳴きさわぐ前に神饌を供えておかねばならない。太陽としての烏、射日・招日神話で重要な役割をはたす烏、そして太陽を管理するものとしてのカラスが活動を始めるまえにしなければならない。ということは夜のうちに「どうか順調な望ましい太陽が昇ってくださいますように」と祈り、その結果としての払暁に余分なほうの太陽をカラスにゆだね、しかる後、望ましい太陽の出現を待つということになる。

烏勧請は祭りの結果
 夜のうち、ということこそは「籠り」である。烏勧請は「籠り」の結果としての早朝、未明の行事なのである。祭祀が日没から夜をとおして行なわれ、その結果を烏勧請でカラスにゆだね、太陽の出現を待つ。つまり烏勧請とは一夜の祭祀の結果としての行為がのちに独立したものなのである。
 『野鳥雑記』によると、烏勧請が早朝に行なわれることについて柳田は「本来は山の神への供物を、烏が御使に来て持つて行くものと思つたのか、兎に角それが喰ひ残されることを非常に嫌つて、早く御馳走をするために、この日は朝起きの競争をした」と述べている((48))。これはすでに元の意味は不明になっているので、柳田は朝早い理由をこう推察しているのだが、これには、太陽が動き出す前に、というかくれた意味がうかがえる。「喰ひ残されることを非常に嫌つ」たというのは、カラスが餅を食べてくれないとしたら、それは余分な太陽が片づかない、ということは祭りの目的が成就されない。ひいては地上に旱魃などの自然災異がもたらされる恐れがあることを意味したもので、そのような恐ろしい有り様は受け入れがたいから、食い残されることを非常に嫌ったのである。元来の理由はすでに遠い彼方へ忘れ去ったが「恐れ」が痕跡となって伝承されたのであろう。
 では烏勧請が一夜の祭祀の結果としての行為であるなら、その一夜の祭祀とは何か。それが当屋神事、頭屋神事、あるは弓神事といわれるものであり、各地でくりひろげられる神楽である。トンド、ドンドン焼きが日没後や早朝に行なわれるのも同じ理由である。

烏勧請の前に「籠り」
 それでは烏勧請の前に「籠り」が結びついている例をみてみよう。
 ふたたび『森の神々と民俗』の若狭の烏勧請からである。若狭の三方町神子神社の烏勧請、センジキでは12月31日、大歳には氏神の長床(バンガラ)に集合して翌朝の烏勧請の準備を確認し、翌年の当屋を選出し、夜には「若い衆も長床にこもり、12時すぎに「めでためでたの若松様よ ホーイや枝も栄えて イヤー葉もしげる おめでたや」「親は百まで子は九十九まで ともに白髪のはえるまで」と餅つき唄の伊勢音頭をうたって村へとおりてくる」という。
 餅つき唄をうたうというのは年の改まりに重要な意味を持つ餅が観念されているのだろう。金田は「いわばこの祝い唄によって新年があけ、言霊の呪力によって初春が予祝されるのであろう」と解釈しているが、本来は餅つき唄が象徴している餅にこそ年の改まり、つまり我らが望む好ましい太陽の出現という重要な意味があったのである。
 この例では「籠り」といっても12時すぎには、つまり元旦の未明には村へ下りてくるとしているので一晩中長床に籠っているのではないようだ。その点で神事の前夜の「籠り」がやや不完全な形で残ったといえるだろう。そして元旦未明の烏勧請となる。
 もうひとつの例をみてみよう。ここでは烏勧請のことを「カラスのオトボンサン」という。高浜町下では、氏神の産霊神社の例祭があり、「10月17日の宮祭り(神嘗祭)には、前夜からホウリとアイヤク、二人の当番が長床にこもり、未明にゴクウサンを社殿前の石の上に供える」というので、ここでは完全に一晩籠っていて、その後烏勧請となる。ゴクウサンは御供さんのことだろう。カラスがゴクウサンを食べると「オトボンサンがあがった」と大声で知らせ、当番は胸をなでおろすという。もしあがらないと、ゴクウをすててもう一度お供えするという。
 同じ高浜町の上瀬では先にもすでにふれたが、1月3日、9月9日、11月9日の年3回、カラスのオトボンサンを行なう。こちらもやはり夜明け前に行なう。神饌をカラスがついばむと、「オトボンサンがあがらっしゃった。参らっしゃれョー」と村中にふれてまわるという。古老の話ではオトボンサンは太陽だということで、オトボンサンがあがると、日の出に向って合掌するという。
 オトボンサンが太陽だということは、カラスが神饌を食べると、その結果として選ばれた望ましい太陽が昇ることができるという意味になるのだろう。烏が、まだ地中にある余分な太陽を食べたから、これで安心してわれらの望んだ太陽が昇ることができる。だから、この「籠り」は非常に大事な意味をもつことになり、それが祭りの本質なのである。
 以上のうち先の2件は烏勧請の前にコモリがある例であり、そして烏と餅と太陽が密接な関係を示す例である。

弓神事も早朝
 弓神事も烏勧請同様、早朝が多い。『熊野の太陽信仰と三本足の烏』によると「早朝から始まる弓神事は今でも多い」としている。卯講ともいい、卯は十二支の卯で東を意味する。時刻は午前6時、冬の朝6時だとまだ日の出前である。的は東方にしつらえる。栃木県では年頭の弓祭を日の出祭と呼ぶ場所が7ヶ所あるという。鳥羽市神島のゲーター祭が元旦の早暁に行なわれるのも古い太陽を落すためであるとされている。ゲーター祭も年の暮れから元旦の早朝に行なわれる。ということは、一晩籠ったあと、結果としての古い太陽をたたき落とすことになる((49))。
 

「籠り」から始まる
 以上見てきたように「籠る」ことが祭の本質である。烏勧請であれ、弓神事であれ、まず「籠る」ことから始まるのが本来の姿だったのだろう。これらの祭はどれも射日・招日神話に源をもつ太陽信仰が元の形である。オコナイは籠ることに主眼をおいた祭であり、オビシャはそのあとの余分な太陽を射落とす祭であり、烏勧請はいらない余った太陽をカラスに始末させる祭である。弓神楽は日没にはじまり、神楽自体が籠りであり、もっとも重要な土公祭文において籠りが象徴され、そして矢が放たれる。いずれの行事にも籠りがあり、その後に結果としての日の出がある。これらの源流にあるのが天岩屋戸神話であり、射日・招日神話である。
 その射日・招日神話を源としている天岩屋戸神話は「岩戸がくれ」とも呼ばれるものだが、西郷信綱が指摘しているように、アマテラスは岩屋戸に「籠る」のであって、記紀ともに「こもる」といっていて「かくる」とはいっていないのである((50))。
 そして太陽は我らの望ましい登場の仕方ばかりをするわけではない。出続ければ旱魃にもなる恐ろしい存在である。『日本民俗大辞典』では雨乞い儀礼をその内容によって12に区分している。その第1番の「村人が山または神社に籠って祈願する」というのが最も古い型かもしれない。なぜなら雨乞いはたんに雨を乞うことではなく、太陽信仰のひとつの変移としての雨乞いと考えられる。つまり良き太陽の出現を願うばかりではなく、強すぎる太陽に遠慮願って、雨を乞うというのも、また太陽への祈願と見ることができるからである。とすれば「籠り」によって祈願されるのは太陽ばかりではない。日照りが続けば太陽よりも雨が乞われるのは当然だから、籠りが雨乞いのための籠りになるのは自然な流れだろう。雨を望むのも太陽の祭祀のうちということになる。やはり前日の太陽が沈んだのを区切りとして、新たな太陽に向かって準備が始まるのである。
 『古代日本人の時間意識―その構造と展開』のなかにつぎのくだりがある。「夜明けと共に鬼や神々は退場しなければならず、それらの仕事もそこで永遠に停止凝固するといわれるような、それだけ重要な時点である「黎明」が、なぜ1日の始めであってならないのであろうか((51))」。著者田中元の疑問はもっともである。現代人の感覚ではそのとおりだろう。しかし射日・招日神話をふまえた太陽信仰でみれば「黎明」は始まりではなく結果なのである。一夜の籠り、祈願、祈祷の末に訪れた結果である。その結果としての太陽がやがて中天に昇り、さらに西へ傾き、没して1日が終る。そう考えれば日没から新しい1日が始まることにも納得がいく。
 1日という単位が何のためにあるかを考える時、人の日常生活のためか、祭りのためか、祭りのために1日があるなら、日没から始まるというのはその意味において合理的といえよう。日没から夜明けまでがいかに重要であるかについては次の例がある。
 同じく『古代日本人の時間意識~』から、『隋書』倭国伝によると、当時の倭国では「薄明の頃に仕事が始められ、太陽が中天に上る以前に仕事を終える」のだという((52))。『中国正史倭人・倭国伝全釈』の鳥越憲三郎訳によると、前後も入れて「倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となし、天未(いま)だ明けざる時出(い)でて政(まつりごと)を聴(き)くに跏趺(かふ)して坐し、日出(い)ずれば便(すなわ)ち理(り)務(む)を停(と)め、云う、我が弟に委(ゆだ)ぬ」。つまり宇宙の主宰者、至高の治者としての兄王は夜が明けないうちに出坐して、太陽としての弟王から政事(まつりごと)を聞く。そして夜が明けると同時に太陽としての弟王に政務のいっさいが委ねられる。隋朝の初代文帝に対し倭国の使者はそう答えているという。役人も日の出とともに登庁し、午前中で執務が終ったという((53))。
 ということは政治といっても政事(まつりごと)より祭事(まつりごと)が中心であったろう当時の倭国政庁にあっては、至高の治者の仕事は未明に行なわれて、日が昇れば終ったのである。夜がいかに重要であったか。祭事の中心はあくまでも夜なのである。
 兄が天、弟が日というかたちは殷人の世界観から来ていると思われる。萩原秀三郎によると「殷人の世界観・宇宙観は、厖大な甲骨文から読みとられているが、殷人が宇宙の支配者と考えた帝には、上帝と下帝とがあり、上帝は天上の諸現象(風・雨・雲・雷・虹……)を、下帝が地中の諸現象(太陽、月の出没、地震……)を統帥していた。面白いのは、地中に住んでいるとみられる太陽や月を地中から出没させる役は、天空を司る神ではなく地中を司る神と考えられていたことである((54))」。この地中を司る神がのちのスサノヲに受けつがれると私は考えている。
 その殷といえば十日神話にもとづく太陽崇拝である。10個の太陽が毎日入れ替わって10日で一旬するという考え方で、同じく萩原は同書で「殷人は毎日毎日、太陽が没してからは、次の太陽が現れてくるまでの闇を畏(おそ)れて、「卜夕(ぼくせき)」を繰り返した」という((55))。まさに祭りの前夜に籠って次の太陽が順調に巡ってくれることを希求し、その結果としての夜明けを待つ、各種の神事から烏勧請までの一連の神事の源ともいえる。
 祭りの一連の行為は籠りから始まる。日没を1日の始めとして籠りに入り、良き太陽の出現のために夜を費やし、その結果としての余分な太陽をカラスに与えて日の出を迎え、そしてさらに日没に至るまでが1日なのである。

ケガレの起源と銅鐸の意味26 烏勧請の起源 第1部 烏勧請から天岩屋戸神話へ

2016年10月01日 10時25分24秒 | 日本の歴史と民俗
  第4章 オコナイも射日・招日神話を再現する
真夜中に餅を搗く
 オコナイについての従来の解釈は、先に引用したが、もう一度ここに引く。
新年または春の初めに行われる村内安全と豊作祈願の祭り。滋賀県をはじめとする近畿地方を中心に、北陸・山陰の一部にも分布している。他地方で春祈祷、オコト、オビシャなどと称するものとほぼ同じである。(略)供え物として大きな餅花や鏡餅は欠かせないとする所が多い。(略)真夜中に餅を搗いたり、神の膳を供える所も少なくない。(略)
といったものである。ここにはなぜ餅が欠かせないのか、なぜ真夜中に餅を搗いたり、神の膳を供えたりするのかといったことには答えていない。
 オコナイとは行事というほどの意味で、正月行事をさし、頭屋というその年の祭り当番が行事を主宰する。萩原によるとオコナイの中心となるのは鏡餅づくりで、新旧の祭り担当者の交替がこの餅に象徴される。そして「この年頭の行事を通して村の“時間”と“秩序”が入れ替わる。更新されることを意味する」。それがオコナイである((34))。このような鏡餅は日月の餅であり、太陽を象徴する。たとえば鏡餅の核に「日輪さん」と呼ぶ突起を設ける事例を『京都民俗』第6号では紹介している((35))。
 このように餅を搗いたり、神の膳を供えたりするというのは太陽に働きかけているのである。真夜中に餅を搗くとは太陽を形作ることであり、所によってはそれを「日輪さん」とまでいっている。これは何としても我らにとって好ましい太陽あるいはせめて苛烈でない穏やかな太陽を昇らせてくださいという祈りであろう。萩原は「時間」と「秩序」の入れ替わりとしているが、それはオコナイが正月行事として当たり前の年中行事と化したためについた説明であろう。もともとは射日・招日神話の意味する、もっと太陽に対する切実な思いがあっての神事であったろうと想像できる。というのはこの神話の存在理由は冬至の太陽の復活とか年の改まりの説明ではなかったはずだからだ。
 射日・招日神話の意義は我らのこの世界が我らの好ましい環境であるのはこの神話が伝えるごとく、いくつもの太陽がはげしく地上を焦がし、一人の英雄が現われて余分な太陽を射ることによっておさまったという経過があったればこそ、今の穏やかな秩序をもった世界があるのだということを再認識することにある。だから、時間や秩序の更新という単なる1年に1回巡ってくる新年の意味というのは従属的なものであろう。

餅を割る
 神戸市長田区の長田神社の節分行事では、7匹の鬼が神としてかかわり、「餅割り鬼」といって日月の餅を木の大斧をもって割るという。これも太陽の象徴としての餅を割るということで射日神話に基づいている((36))。
 萩原によるとさらに、餅ではないが太陽の象徴をたたき落とすという例もみられる。鳥羽市神島のゲーター祭と近江八幡市馬淵の宮座である。ゲーター祭ではグミの木でつくった直径2mほどの輪に篠竹を突き入れて元旦の早暁の空に高々とさしあげる。「天に二日(じつ)なく、偽の太陽をたたき落す」行事であると地元では伝えているという。
 近江八幡市馬淵の宮座では「5月1日の早暁、馬淵神社の境内で、ご幣をつけた“日鉾”とよばれる円形の鉾を、棒状のご幣でいっせいにたたきこわす」といい、これも太陽を射る行事であるとしている。「偽の太陽をたたき落す」とか「棒状のご幣でいっせいにたたきこわす」などという民俗行事のなかにそうした、いつも穏やかなばかりではない太陽への切実な思いが反映しているように思える。
 もう一つ『無形の民俗資料記録第6集 正月行事2 島根県・岡山県((37))』から紹介すると、島根半島の塩津の例として、オコナイ行事が終り最後に新しい頭屋は大餅を家へ持ち帰ると、旧頭屋と引き継ぎ式を行い、「次いで鎌どりといって、鎌をとって餅を二つに切りそめる。それを後、さらに小さく切って、各戸へ配る」という。これは「餅割り」に相当するものであろうし、したがって射日神話の射日の残存といえるだろう。というのは、このオコナイ行事には餅割りの前に大事な行為が先行するのである。
 その行為とは、新頭が大餅を背負って下がる時、この新頭の顔に大根で墨をつける。墨は周囲にいる者にもつけるから大騒ぎになるという。これは暗闇、混乱を意味し、弓神楽における「棚壊し・土団子」状態と同じもので、土公祭文における五郎王子と兄4人との戦に相当するものである。つまりこれはスサノヲの暴虐によってひきおこされる高天原の混乱、ありとあらゆる禍の現出した状態とも同じであり、その結果もたらされたアマテラスの岩屋戸ごもりによる暗闇までに相当している。だから、そのあと餅が割られているのである。長田神社の「餅割り鬼」も同じである。餅が割られるということは、余分な太陽が射落とされ、混乱は解消へむかうことを意味している。
 さらにこのオコナイ行事をもう一段さかのぼると「鯖々の行事」というのがある。オコナイで集まった寺の本堂には大餅が持ち込まれている。本堂の畳は中央の一部が事前に取り除いてあり、そこの床を、各自が持ち寄った2本ずつの空木の枝を、手に手に持って、強く打つのである。なぜそんなことをするのか。なぜ「鯖々の行事」というのか。『日本民俗大辞典』の下巻「らんじょう 乱声」の項の中で、地元では「大漁のサバを捕獲して飛び跳ねる様子を示しているといい、サバサバと呼んでいる」という。これは「サバサバ」が意味不明になってのちについた理由であろう。

鯖々の行事とは
 鯖々とは「サバエなす」「蠅声なす」から来ているのではないか。
 『古事記 上代歌謡』(小学館日本古典文学全集((38)))によって見ていくと、スサノヲの暴虐のため、アマテラスが岩屋戸ごもりをした結果、高天原も葦原中国も暗闇となってしまった。そして「万(よろず)の神の声は狭蠅(さばへ)なす満ち、万の妖(わざはひ)悉に発(おこ)りき」つまり「そのため大ぜいの神々の騒ぐ声は、五月ごろ湧きさわぐ蠅のように世界に満ち、あらゆる悪い出来事が至るところで起こった」という場面に「サバエなす」はでてくる。
 それと少し前の三貴士分治の神話で、イザナキがスサノヲに、おまえは海原を治めよ、と委任したのに対して、それにさからってスサノヲが激しく泣きさわいだ場面である。その結果「是(ここ)を以(も)ちて悪(あ)しき神の音(おとなひ)、狭蠅(さばへ)如す皆(みな)満ち、万(よろづ)の物の妖(わざはひ)悉に発(おこ)りき」つまり「その結果、禍をもたらす悪神のたてる物音は、五月ごろ湧きさわぐ蠅のようにあたり一面に満ち、さまざまの悪霊による禍が至るところに起こった」となる。つまり狭蠅なす騒々しい喧騒の中で、あらゆる悪い出来事が至るところで起こっている、あるいはさまざまな悪霊による禍が至るところで起こっている。スサノヲの暴虐の場面である。その状態を表現しているのが「鯖々の行事」ではないか。さらに、この空木で床を強く打つという行為は弓神楽における、揺輪に弓を結びつけ、打ち竹で弦を叩く行為に似ている。とすればアメノウズメがウケフネの上でする足踏みの行為でもあるわけだ。
 もう一度順序どおりに言えば「鯖々の行事」はあらゆる禍が充満している状態である。この時世界は暗闇と混乱、さまざまの悪霊による禍に満ちているのである。それを象徴するのが墨つけの行為で、墨は周囲にいる者たちにもつけられて大騒ぎ、大混乱状態である。それでオコナイ行事が終り、新頭屋は大餅を持ち帰り、太陽の象徴である大餅を小さく切り分ける餅割りをする。混乱は終息にむかう。
 これら一連の内容をみても、このオコナイ行事でも天岩屋戸神話を再現しているのであり、複数の太陽に秩序を与えようとしているのである。
 日待ちも太陽信仰であることは各辞典の記述にもみられる。柳田国男は『神道と民俗学』に「この小さな村々のコトや日待ちに於て、弘く国内同胞の御祭り申して居る神様は、果して日本の神道の外か内かといふことであります((39))」との疑問を提示していた。これについての答えが、日待ちについては太陽信仰と出ているほかはどうなのか。答えは神道以前の太陽信仰ということになるだろう。
 墨塗りも『民間信仰辞典((40))』によると、小正月の行事で、墨・鍋墨や炭灰などを互いの顔に塗りつけ会う。災厄をまぬがれ、無病息災のまじないだと考えられている、というがこれも、これまで検討してきた内容にてらして、やはり射日神話の断片を反映している。
 このように烏勧請とオビシャなどの弓神事、オコナイ、そして日待ち、墨塗りも、いずれもお互いに太陽信仰として関係し合っている。そしてこれらの行事は、射日・招日神話にもとづく古代の祭祀から分離していったと考えられる。それを元々束ねていたのが、これまで見てきたように天岩屋戸神話であり、その源としての射日・招日神話である。

ケガレの起源と銅鐸の意味25 烏勧請の起源 第1部 烏勧請から天岩屋戸神話へ

2016年10月01日 10時02分08秒 | 日本の歴史と民俗
   第3章 弓神楽から天岩屋戸神話

弓神楽と土公祭文
 先ほど見てきたように岡山市今谷、深田神社の秋の大祭にみられる烏勧請のカラスをオドクウサマという。オドクウサマは漢字をあてると「お土公様」である。では烏でもあるお土公様とはいったい何者か。『日本民俗大辞典』によると、陰陽道由来の土を司る地神を土(ど)公(こう)神(じん)という。地の神、地を鎮める神だという。お土公様と土公神は同じだろうか。もし同じとするなら、烏が地を鎮めるということになる。烏が地に働きかけるなら、十日神話における昇る前の太陽が地中にあることと無関係ではなさそうだ。10ページで紹介した、昔、太陽は10個あり、地中に住み、毎日1つずつ昇り、10日で一旬した、という中国古代の十日神話である。これらのまだ地中にいる太陽に秩序を与えて、ひとつずつ昇らせるのが烏であるとされる。太陽の中には烏が1羽ずついるのである。『稲と鳥と太陽の道』では埼玉県の狭山市入間川の伝説として「昔太陽が二つ出て、人も動物も炎熱に苦しんだので、勅命によって勇士が弓矢で一方の太陽を射たところ、一方の太陽が消えるとともに三本足の烏がどっと大地に落ちた」との話を紹介している((9))。
 地を鎮めるということは、地中にある太陽を鎮めることであると考えれば、烏としてのお土公様と地を鎮める神としての土公神とがつながることになる。
 そこでみつけたのが『民俗芸能研究』第3号所収の「弓神楽と土公祭文―備後の荒神祭祀を中心として」(鈴木正崇)である((10))。
 鈴木は弓神楽について「備後(広島県)では今でも神職があずさ弓の弦を打ち竹で叩いてその音に合わせて長大な祭文を読むことを主体とする祭祀形態が伝えられ、これを一般に弓神楽と称する」という。その弓神楽の中核をなすのが土公祭文で「神座の前に青茣蓙を敷きその上に揺輪(半切り桶)を据え、(略)揺輪の上には弓を結びつけ、神職が2本の打ち竹を両手に持って弦を叩き調子をとりつつ祭文を読誦」する。そして最後に矢を放つという。なかでも莇(あ)原(ぞう)中組というところでは特殊な行事が残っていて、祭祀の終了後、「棚壊し」といって祭壇を滅茶苦茶に壊しひっくり返して、供物をすべてほうり投げると共にそれを奪い合うという。この供物のなかには、祭りの当日に作った土団子もある。土団子はまだぬれてベトベトなので、祭祀の場である奥座敷は泥だらけになるという。これはいったい何を意味しているのか。
 これは弓神楽を演じるなかでのことである。烏である土公神の祭文が、弦を打ち竹で叩く音に合わせて読誦される。この時の弓神楽の弓と矢は射日神話の弓と矢を表現していると考えたらどうだろう。そうだとすれば、その弦を打ち竹で叩く行為というのは余分な太陽を射落としていることを意味しているのではないか。そうであるなら、莇原中組の「棚壊し」というのは太陽をみな射落としてしまったあとの暗闇、それによる混乱を表わしているともいえる。土団子で奥座敷が泥だらけというのは、その暗闇と混乱の象徴である。では土公祭文の中身はそれに対応しているだろうか。
 それには次の資料を紹介しよう。「鎮めの舞と招魂と鎮魂と―その同時的背反性呪術」(高木啓夫)である((11))。そこで紹介される土佐の神楽の結末にくる「五人五郎」の舞にともなうのが「土公祭文」である。その内容をかいつまんで記していくと、五郎の生まれる前には4人の兄王子がいて、それぞれ春夏秋冬の90日ずつが所領として与えられていた。そして五郎が生まれた時にはすでに90×4=360日というわけで、与えられる分がなかった。五郎は立腹し、4人の兄たちと交渉するが、断られてしまう。そこで五郎王子は4人の兄を相手に3年3ケ月も戦(いくさ)をする。ようやく博士が調停に入り、春夏秋冬の各土用の18日ずつを与えられて和解する。
 この4人の兄を相手にした3年3ケ月の戦こそ、弓神楽の中核である、揺輪に結びつけた弓を打ち竹で叩くとする行為に相当するものであり、そのあと「滅茶苦茶に壊される祭壇、土団子が周囲を泥だらけにしてしまう」というのは、その結果を目に見える形として目の前に表現したものである。つまりそれは暗闇と混乱、無秩序な状態を意味し、そして最後に放たれる矢によって混乱は終息にむかうのである。
 先に紹介した『民俗芸能研究』第3号の「弓神楽と土公祭文」で読誦される土公祭文の内容も基本的に同じである。こちらは天地を作った盤古大王が4人の王子に日月の所領を配分したが、後で生まれた五郎王子と兄4人とが争いになり、文選博士が仲介に入って納めるというもの。四土用の主としておさまった五郎王子は土公神として祀られる。
 高木によると、神楽の演目には共通点があり、演目の順序もほぼ共通している。そうした演目順で神楽を奉納するにはそれなりの理由があったと考えるべきであろう、と述べている。その神楽の演目順とは舞い始めに幣や鈴、榊などを持った採物舞、ついで素面の太刀舞、仮面の舞とつづき、そして結末には「五人五郎」という五行に基づいた演目が来るというものである。石塚尊俊によると、ほかに「将軍」「岩戸」の演目が結末に位置する神楽群があるという。
 神楽の演目順がほぼ決まっているのは、最後に秩序が回復される必要があるからだろう。高木の疑問とする神楽の演目順はなぜどれもほぼ共通しているのか、についての答えは、暗闇、混乱があり、最後には弓によって終息へむかうという順番になる必要があるからである。
 結末に「五人五郎」が来るにしても「将軍」や「岩戸」の演目が来るにしても、いずれも混乱や暗闇がくる。「五人五郎」では戦による混乱があり、「将軍」では太陽も月も鬼が呑み込んでしまうという暗闇の場面があり、「岩戸」でもアマテラスがこもって世界は暗闇になる。これらは射日神話の射落とされた複数の太陽、その結果がもたらす暗闇や混乱と同じ意味をもっている。つまり土公祭文の中身の3年3ケ月の戦、五郎王子と兄4人との争いは弓神楽の場では棚壊しの混乱、土団子に象徴される暗闇とやはり対応していることになる。
 ところで五郎と4人の兄たちとの戦の場面は「四天ノ舞」といい、兄たちと戦う五郎の姿はこの時、鬼神(きしん)であるという。つまり「土公祭文」の主人公である五郎王子は鬼神である。

鬼神とは何か
 志田諄一の「東国の底力の源泉-関東」には、「殷・周時代には、災禍不祥は鬼神(きじん)(死者の霊魂・祖霊)のなすところと考えられていた。病気をはじめ自然的災異も、豊作・凶作も、戦争の勝敗も、すべてが鬼神の支配するものと考えていたのである」との記述が見られる。そうした考え方は稲作の伝来とともに日本列島にもたらされたようである、と述べている((12))。
 同じ意味のことを『古代殷帝国』では「古代人にとっては、すべてのわざわいは神や死霊のなすわざ(・・)だった」と述べている((13))。『稲と鳥と太陽の道』では『魏志』東夷伝「韓伝」馬韓条から、馬韓の地では「五月に種を播き終わると鬼神を祭る」との記録を紹介している((14))。それは秋の収穫後にも行なわれる。春に鬼神を祭ることによって自然災害を除け、豊作がもたらされることを願う。収穫後には豊作だったら感謝を、凶作で終わったら改めて鬼神をなごませることにより、災禍の少なからんことを願わずにはおれないだろう。当時馬韓の地はすでに稲作の穀倉地帯で、鬼神は稲作の神であり、中国では「鬼神」は「祖霊」に等しいという。
 五郎王子が鬼神であるというところの鬼神(きしん)が、そのまま馬韓や殷・周の鬼神(きじん)と同じとは断言できないが、古代中国から伝えられてきたものと考えることには無理はないだろう。射日・招日神話の伝播にしろ、太陽信仰、五行説、その他稲作をめぐる数々の民俗が伝播していることからも、それは納得できる。なお、「きしん」と「きじん」の読みについては、それぞれの参考文献に従ったまでで、確定したものではないようだ。
 五郎王子が戦うことになった4人の兄たちが、春夏秋冬をそれぞれ担当していたという設定もうなずける。なぜなら五郎は春夏秋冬の分け方に異議をとなえているわけで、そこへ働きかけて変更をせまっているということは、鬼神でもある五郎は季節の巡りのあり方に影響力を示すという意味である。さらには雨、風、日照りなど自然災異の有無までも、鬼神の力が及ぶということを象徴しているのだろう。殷・周時代には自然的災異も、豊作凶作も鬼神が支配したという考え方を反映している。その鬼神は「祖霊」であるという。萩原秀三郎の『鬼の復権』によると、非業の死ではなく、天寿を全うして亡くなった正常死者が祖霊であり、鬼神になるという((15))。だから先祖を祀るのである。
 自然災異に働きかけるという点では鬼神は烏とも共通している。なぜなら烏は太陽を運び、その運行が寒暖降雨を左右し旱魃などを調整することになるからである。

五郎王子はスサノヲ
 高木はさらにつづけて、この鬼神でもある五郎王子は神話における三貴子の分治、すなわちアマテラスには高天原を、ツクヨミには夜の食(おす)国(くに)を、そしてスサノヲには海原を治めさせるとする話のなかのスサノヲであるという。しかしスサノヲはそれを拒んで激しく泣きわめき、山も川も海もすっかり枯れ干してしまうほどで「その結果、禍(わざわい)をもたらす悪神のたてる物音は、5月ごろ湧きさわぐ蠅のようにあたり一面に満ち、さまざまの悪霊による禍が至るところに起こった」という(『古事記』小学館日本古典文学全集)。高木は、五郎王子はこのスサノヲと同じ位置づけであるという。
 ここまでは、私も同意できる。しかしここからはだいぶ違ってくる。
 高木の解釈では「その結果として須佐男命が神せられ、五郎王子が土用を治めることになったわけである。世に災厄暗黒をもたらした者、須佐男命は望みどおりに黄泉の国に赴き、五郎王子が4人の王子と同じく所領を与えられて、天下に平和が訪れることは、神楽の鎮め(・・)の意図する所からも極めて重要視されなければならない」となっている。だいぶ違ってくるというのは、この「鎮め」の解釈である。
 このように神楽の意図するところは「鎮め」であり、神話の天岩屋戸の話についても「鎮め」で解釈するのが普通らしい。その例として高木はさらに本田安次の「(天岩屋戸神話は)招魂、鎮魂の御祈祷であったと考えられる」という説と、上田正昭の「太陽の衰微を象徴する神話であった。そこで、内部生命力を充実し、日の神の活力を復活させる呪法がなされるのである。宇気を踏みとどろかす天鈿女命の神がかりは、その活力を振動させることであり、他面邪悪なタマを鎮圧する反閇(へんばい)であった」との説を紹介している。このほかの諸論文も本質的に同様だとしている。しかし、定説となっている「鎮め」の解釈ははたして正しいだろうか。この弓神楽と天岩屋戸神話を射日・招日神話で読み解くと、すでに先ほどから述べているように、ちがった様相が見えてくる。整理してみよう。
 まず烏はオドクウサマである。オドクウサマは「お土公様」である。お土公様は『日本民俗大辞典』にいうところの土公神であれば、地を鎮める神とされている。ただし、これは私のみるところ、見かけの解釈である。そしてお土公様は土公祭文と関係があるらしい。土公祭文の主人公は五郎王子である。五郎王子は4人の兄と戦って混乱を引き起こすのである。その五郎王子は鬼神であり、スサノヲと同じ位置づけである。そして最後に矢が放たれる。この矢は射日神話の矢に相当する。
 土団子、棚壊し状態とは暗闇、混乱の現出である。そしてスサノヲの暴虐と五郎王子の戦もこれらと同位のものであり、暗闇、混乱を意味している。そうすると「五人五郎」の演目で4人の兄を相手に3年3ケ月も戦をするというのは、土団子・棚壊し状態に相当し、さらにスサノヲの暴虐に相当する箇所である。そして射日・招日神話の、10個の太陽が一度に空に昇り、旱魃、地上の疲弊をもたらしたすえに射落とされて暗闇となる状態でもある。
 この暗闇、混乱とは天岩屋戸神話においては、スサノヲの暴虐から、アマテラスが岩屋戸に籠ってしまった場面までである。これによって高天原や葦原中国は暗闇になり、諸々の災いが生じたのである。そうするとアメノウズメが登場してウケフネの上で踊るのは、これによってアマテラスを誘い出すわけだが、それは射日・招日神話では余分な太陽を鎮めて、それとともに籠ってしまった太陽を招きだすことである。土公祭文ではアメノウズメの踊りは現われないかわりに五行の影響で、文選博士によって秩序が回復される。
 高木啓夫によると「石塚尊俊によると、ほかに将軍、岩戸の演目が結末に位置する神楽群があるという」と紹介したが、将軍の舞の場合には必ず「弓ノ舞」を伴うという。そして「弓はツケブタと称する箱状のものの上に横に立てて固定する。これをブチ竹でたたくのであるが、ツケブタを単に弓を固定する台だとしてしまえば何のこともないが、天岩屋戸の故事の「汗(う)気(け)伏せて、踏みとどろこし、神懸りし」た伏せた容器だとすれば、極めて重要な意味を持っていることになる」と述べている。
 つまり「ツケブタ」も『民俗芸能研究』第3号の「弓神楽と土公祭文―備後~」の揺輪(半切り桶)もウズメがその上で踊るウケフネであり、弦を鳴らすこととは矢を放つ象徴であり、それによって太陽を射落として旱魃をふせぎ、ひいては豊作をもたらすことを意味している。したがってその意味において揺輪、ツケブタは「極めて重要な意味」を持っているのである。
 これは弓神楽の弓の本質に通じるもので、なぜ弓でなければならないのか、なぜ弓神楽というものが存在するのかを明らかにしているのである。これによってウズメの踊りの元来の意味するところもはっきりしてくる。ウズメの踊りの「鎮め」とは余分な太陽を鎮めて、地中にあるうちに太陽に秩序を与えることだったのである。
 この弓の弦をたたく行為、つまり「鳴弦」について渡部武が中国古代の射日神話を現わす画像石について解説するなかで、次のように述べている((16))。「害獣を追払い、病気や目に見えない物怪を退散させる「鳴弦」(わが国の「弦打ち」に相当)という儀礼であるといわれているが、これも瑞祥を表わす射日神話の末路の姿であろう」として、弦を打つ、とは射日神話の痕跡をとどめたものであるとしている。「鳴弦」が中国において射日神話の変化型、つまり「末路の姿」であるように、伝播した日本にもこのように射日神話の変化型、末路の姿があり、弓神楽として現代まで伝えられているのである。

なぜスサノヲは暴れ、ウズメは踊るのか
 このように神楽からさかのぼって天岩屋戸神話をみると、この神話の本来の意味するところが見えてくる。スサノヲはなぜ暴れるのか。イザナキにそむいたスサノヲが、その暴虐によって世界を暗黒と混乱に落し入れたというのは、10個の太陽の出現による旱魃と地上の疲弊を表現したものであり、それを射落とした後の暗闇がアマテラスの岩屋戸ごもりである。そしてウズメはなぜ踊るのか。アメノウズメの踊りは地下にもぐったいくつもの太陽を鎮めて、つまり地を鎮めて、逃げてしまった残りのひとつの太陽を招くことなのである。
 つまり射日神話は『稲と鳥と太陽の道』では欠落しているとしているが、単に欠落したのではなく、スサノヲの物語にすりかわったのである((17))。
 だから萩原のいうとおり、この神話を冬至の太陽の復活神話と解釈してはならない。それではスサノヲの暴虐が説明できないのである。もっと苛烈な背景を想定しなければならないはずである。毎年必ずやって来る太陽の弱まりとその回復という、静かに規則的に変化していく冬至前後の太陽では、乱暴なスサノヲの行状と釣り合いがとれない。高天原も葦原中国も世界のすべてを巻き込んだ暗黒、恐れ、あらゆる災いを現出させたスサノヲの暴虐を鎮めて、世界の秩序を回復させるのは射日、そして招日神話としての太陽のよみがえりこそふさわしいのではないか。
 そしてアメノウズメが足ふみとどろこす意味は鎮魂の呪術とか邪悪なタマを鎮圧する反閇とされるが、その鎮魂とは、鎮圧とは何を鎮めることであるか。ウケフネを踏みつけて地下の悪霊をおさえる呪術であるように解釈するのは、もとの意味を見失ったからである。つまり鎮魂とは地下にひしめいている多くの太陽を鎮めることである。
 そして土公祭文は「この部分は元来は神楽というよりも神事であるとも考えられており」という鈴木正崇の指摘は当っている((18))。もとはオコナイやオビシャなどのように太陽信仰をめぐる神事だったのだろう。土公祭文は烏勧請、弓神事、オコナイなどの祭りの前の「籠り」に相当するのである。それで土公神は本来の意味が亡失されたために、地を鎮める神といわれるのである。そして「籠り」では、地上に疲弊をもたらす余分な太陽を鎮め、翌朝昇るべき我らの望ましき太陽を祈願しているのである。「籠り」については第5章で詳述する。
 天岩屋戸神話の解釈をめぐっては諏訪春雄((19))が5つを、工藤隆((20))が7つを示して、つぎのようにまとめている。諏訪は、
①アマテラスは大嘗祭の準備中に穢れにふれた。
②日神であるアマテラスの日蝕神話である。
③日神であるアマテラスの冬至神話である。
④生命力の回復を祈願する鎮魂祭である。
⑤大祓えの儀礼の性格をもつ。

そして工藤は、
①日食神話。
②冬至の祭儀の起源神話。
③神祇令(じんぎりょう)の鎮魂(たまふり)祭の起源神話。
④神祇令祭祀全体の起源神話。
⑤天照大神(アマテラス)の死の神話。
⑥邪馬台(やまと(たい))国の卑弥呼の死と壱(い)与(よ)(または台(と)与(よ))の登場の神話化したもの。
⑦少数民族の太陽神話の流入したもの。

 以上であるが、その中でスサノヲの暴虐を説明できるものはあるだろうか。これらの解釈はアマテラスの岩屋戸ごもりと再登場の意味をめぐって考察されるばかりで、なぜスサノヲの暴虐がその前に来るのか、スサノヲとは何なのかについては考えられていないのではないか。それについて溝口睦子は「明治以来多くの研究があり、暴風神説・大祓儀礼の神話化説・トリックスター説等々、さまざまなスサノヲ論が」あるが、それらはスサノヲを丸ごと捉えているとはいえず「善悪未分の宇宙的スケールの英雄神」と考えているという((21))。次の項でスサノヲについてさらに考える。
 ただひとつ工藤の『古事記の誕生』から上に引用したうちの⑦の中に実は射日神話に、わずかに触れる箇所があった((22))。第5章のなかの「アメノイワヤト神話の最古層」という小見出しで、射日神話の要素は長江流域の少数民族の神話が<古代の古代>に日本列島に流れ込んだが、その後脱落したのだろう、としてその上で「もしかすると、(複数の太陽、複数の月を)支格阿(ちゅくあ)龍(ろ)が矢で射落とすという行為は、スサノヲの場合はアマテラス(太陽)の神事(ニイナメ)の妨害というように変換されているのかもしれない」と推察されている。神事への妨害だから、私の考察とは違うのだが、スサノヲの行動の意味について、それを射日神話に関係づけてみたところは注目されてよい。ではなぜそれがスサノヲなのか。

スサノヲの神格
 射日・招日神話のうちの射日神話の部分の置き換えとしてスサノヲの暴虐の場面があった。ここにおけるスサノヲの役割は高天原を追放されることによって高天原を至浄にし、地上に降りて地上世界の神々の始祖となって祭られることである。その結果として地上の人間世界に平穏をもたらすことである。スサノヲは地上世界にとっては有難い神なのである。
 そのスサノヲは、実は最初から地上、あるいは地中といってもいいが、「地」に親和する神格を持っていたのである。
 『日本書紀』日本古典文学大系本の頭注によると、三貴士の分治におけるアマテラスとツクヨミとスサノヲがそれぞれどこを治めよと命じられているかについてまとめている((23))。それには古事記と日本書紀本文と一書第一、一書第六、一書第十一の計5つの伝承がある。そしてスサノヲが治めよと命じられるのは古事記では海原を、紀の本文と一書第一では根の国を、一書第六では天下(あめのした)を、一書第十一では滄海(あをうな)原(はら)を治めよといわれている。そして古事記では海原をというところを、紀の一書第六では天下をというところを、スサノヲはそれに答えて根の国へ行きたいというのである。
 また西郷信綱はスサノヲがいかなる神であるかについて、「亡き母イザナミのいる根の堅州国と深い関係をもっている」と述べ、さらにスサノヲはもともと根の国の住人であり、その根の国は海の端で海坂を降りていったところにあると空想されていたので、古事記では海原とあるように、海原の印象ともきりはなせないのであるとしている((24))。
 このようにスサノヲはもともと天の下、根の国、根の堅州国というふうに大地、地、地中と表現される地上に親和性をもった神格だったのである。
 地上に降りたスサノヲはヤマタノオロチ退治をしてクシナダヒメと結婚し、出雲系の神々の始祖となる。そして荒神信仰では荒神はスサノヲの化身とされるし、農業の神としてスサノヲは尊ばれる((25))。
 『日本民俗大辞典』「荒神神楽」によると、荒神は火の神や竈神・作神・牛馬の神、地霊の様相を持つ土公神とも習合しているという。ということは荒神はスサノヲの化身であるから、ここで土公神とスサノヲが結びつくわけである。そして土公神はオドクウサマであり、烏であるから、烏とスサノヲも結びつくことになる。
 烏とスサノヲが同じといえば、あっけにとられるかもしれないが、これまでたどってきたことを振りかえれば、両者には共通点が見いだせる。諸々の禍を運び去ることと、地を司るということである。
 まず烏は射日神話で射落とされた余分な太陽を始末する役割がある。旱魃をもたらす危険な太陽の象徴である餅や団子をカラスに与えるのである。だからカラスに餅や団子を食べてもらえないとケガレありとして、祭りができない、あるいは祭りが終われない。天上でそれに相当するのがスサノヲの物語である。スサノヲは高天原でケガレともいうべき諸々の禍を充満させ、さらにアメノウズメの半裸の姿による踊りをきっかけとして再びアマテラスを呼びもどして、高天原を至浄の世界にして追放されるのである。以後、アマテラスは至浄の高天原で太陽神として輝き続けられる。
 もうひとつの共通点は、両者とも地を司る、地に働きかける役割を持っていることである。烏は地をとおして太陽の昇降を司り、スサノヲは地上世界の神として、地上のさまざまな神と習合して地上の世界に平穏をもたらす。
 スサノヲの地上世界でのそうした役割はなぜ与えられたのか。それは高天原における諸々の禍の現出による混乱とアマテラスを籠らせる力、つまりは射日・招日神話における余分で危険な太陽の出現とそのすべてを始末して世界を暗闇にまでしてしまう力である。その太陽の昇降は、地中にある間に秩序づけられ、それによって旱魃などの自然災異を調整することが期待される。それがスサノヲの地に働きかける役割である。
 地上に降りたスサノヲが慈悲深い出雲系の神々の始祖となるのは、太陽を隠す力があるからである。太陽が現れることはいつでも歓迎されるわけではないのである。その力こそ地中にある太陽へ働きかけて、旱魃をふせぐと期待されるからだ。それは「地」に関係の深いスサノヲだから与えられた役割であり、それこそがスサノヲに期待されるのである。つまり地上世界におけるスサノヲの役割とは高天原で見せたように太陽を籠らせる力であり、自然災異に働きかける力なのである。とりもなおさず、それは鬼神の力でもある。
 そこで反閇がなぜ重要視されるのか、その意味が明らかになってくる。

反閇とは何か
 反閇(へんばい)とは何か、なぜ重要視されるのか。それについて考える前に『日本民俗大辞典』から「へんばい 反閇」を引いてみよう。
邪気を払う呪術的足踏み。(略)元来陰陽道における呪法の一つであって(略)天皇や貴人の外出に際して邪気を払い、その安泰を祈って行われる足踏みで、(略)折口信夫によれば(略)日本にも古来から、力足を踏んで悪いものを踏み鎮める所作があったという。(略)悪鬼鎮圧の反閇の力は恐ろしいほどのものがあり、花祭における榊鬼役が反閇を踏んだ新菰は焼き捨てるか、川に流し去るという。(略)

 折口が日本にも古来からあったという「力足を踏んで悪いものを踏み鎮める所作」というのが、花祭のなかの反閇や、天岩屋戸神話におけるアメノウズメの踊りのことだろう。それについて三隅治雄は次のように述べている。
「反閇」は大地を踏みつけて地下に跳梁する悪霊をおさえ、代わりに正気をよびさまそうとする呪術である。中国から伝来した呪禁術(じゅごんじゅつ)の一種というが、このなかには、前述の、天鈿女命が「ウケ踏みとどろかして」行なったという鎮魂の呪術なども含まれていると見ていい。この反閇は、いまもヘンベなどとよばれて、愛知県の山村の祭などに登場するが、それは、鬼神に扮した者が爪先きをあげて左右にくねらせ、トンとおろすといった乱拍子そっくりの技法で、悪霊鎮送のまじないだとされている((26))。

 このように花祭においても最重要の儀式のなかで反閇を行なうのは鬼神なのである。そして反閇の重要さについて池田弥三郎は愛知県下の霜月神楽「花祭」では、「そのもっとも肝要な段階において、もっとも重い役である榊鬼が「反閇」を行なう」と述べている。池田はここでは反閇がなぜ重要かということは述べていない。ただ、直に大地で行なわないで新しい菰をしいたり、所によっては菰の上にさらに白紙をおいたりして、その上で反閇をするのは、それほど神聖な儀式だからだと、地元ではいわれていると池田は記している((27))。
 早川孝太郎の『花祭』によると反閇が見られるのは、行事次第の最後の方に行なわれる「しずめ」祭りにおいてである。最重要の儀式とされる「しずめ」祭りは「「しずめ」のへんべ(反閇)または龍王の舞いともいい、行事をつうじて、最重要の儀式と考えられ、その次第は禰宜以外にはなにごとも関与できぬとして、厳重な秘伝となっている」と早川は述べている((28))。しかし、それでなぜ重要なのかについては特にふれていない。
 そして「しずめ」祭りの意味は、行事の終りにあるところから、神上げと考えられ、興奮した神々の心をしずめて、それぞれのかえるべき位置へ返すことだという。さらに祭場をもとの屋敷なり建物にもどすことである、とも考えているという。興奮した神々の心を鎮めるとか、祭場に使った屋敷や建物をもとにもどすとか、このような理由をもって、だから最重要の儀式なのであるとはとても思えない。
 なのに反閇がはじまると「このとき一たん散会した見物もあらためて参列するのであるが、その光景は森厳緊張の極で、信仰はまださかんなりの感をしみじみ感じさせられる」という緊張感に満ちた真剣な場として認識されているのである。このように反閇については祭りのなかでの最重要の儀式と位置づけられているわりには、その解釈ははっきりしないし、その理由からはあまり重要さはうかがえないのである。単なる行事の終りとか神々を帰るべき位置へかえすというよりも、反閇にはこの祭りの本質的にして本来の目的がこめられているとみるべきであろう。
 これまでの解釈をふりかえってみると、反閇とは、邪気を払う呪術的足踏みである、邪悪なものを踏み鎮めること、地下に跳梁する悪霊をおさえ、代わりに正気をよびさますこと、神の心をしずめてもとの位置へかえすこと、などとなっている。
 ところで萩原秀三郎は『鬼の復権』において反閇には一般にいわれている、悪霊を足踏みの儀礼的所作によって踏み鎮めるというよりも、本来は、地霊に対する表敬行為であったとみている。つまり邪悪な霊を踏み鎮めるだけではなく、踏み興して、地に鎮まる神を呼び興し、称(たた)え安らぎ鎮めることだという。その結果、地霊は豊穣をもたらすので、本来は悪霊ではなかった、としている((29))。
 そうすると反閇には二つの目的があることになる。さきの三隅の解釈の中にある、悪霊をおさえて代わりに正気をよびさます、というのと共通しているが萩原は、邪悪な霊を踏み鎮めて、それとともに地霊を呼び興して称えることであり、その結果、地霊が豊穣をもたらすというのである。そしてアメノウズメが「ウケ踏みとどろこして」行なった鎮魂の呪術も反閇と同じものであると考えられている。
 ということは私が先に提出したウズメの「踏みとどろこし」についての新しい解釈と重なるのである。ウズメが鎮めるのは余った危険な太陽であり、一方で望ましい太陽を招くことであった。それゆえに「ウケ踏みとどろこし」は重要な儀式であった。
 つまり反閇とは、地霊を鎮めるとか、邪悪な霊を踏み鎮めるとかいうのではなく、射日・招日神話における余分で危険な太陽を鎮めて、我らが望む好ましい太陽の昇降を期待するということが本来の目的だったのではないか。それゆえに反閇は重要視され、鬼神に扮したものが行なうのである。その理由が忘れ去られたのちもこの儀式が重要であるということだけは代々引き継がれて現在におよんだということではないか。「しずめ」祭りは太陽鎮めであり、「森厳緊張の極」といった異様な緊張感に満たされるというのもそうした始原の感覚を伝えているためではないか。
 以上が烏とお土公様、そして弓神楽における土公祭文の意味と、さらに天岩屋戸神話におけるスサノヲとアメノウズメの物語の意味と花祭の反閇とのそれぞれの共通点である。お土公様は現在では『日本民俗大辞典』にあるように、地の神、地を鎮める神と解釈されている。それはかつて地中の太陽に働きかけていたのだが、すでにその行為の意味が忘れられて、地を鎮めるという見かけの行為として伝えられたのであろう。

鎮魂とは太陽を鎮めること
 地を鎮めるとは、地中にある太陽を鎮めることであるとの結論を得た。ではさらに別の角度から「鎮魂」と太陽とのかかわりを探ってみよう。
 鎮魂は古代にあってはタマフリ、タマシズメと呼ばれた。萩原秀三郎によると「日」は「霊」であり、「魂」であり、現れる形は異なるが、同じ働きをもつ生産霊であったという((30))。つまりは日と霊と魂とは同じ意味である。『時代別国語大辞典 上代編』で「たま 霊」をひくと、「霊魂。神霊。人間の魂や自然物、特定の器物に宿る霊。また、それらから遊離して人間にとりついたりして、さまざまな不思議な働きをなす超自然的な力。(以下略)」となっている。これによると、霊と魂とはどちらも「たま」である。さらに「ひ」をひくと「ひ 霊」と見出しにあり、「ひ」は「霊」であり「霊」を「ひ」と読んでいる。そして解釈は「霊力。威力を有する超自然的な力」としており、「太陽の日(ひ)と関係があろう」と推定している。
 やはり萩原のいうように「日」と「霊」と「魂」とはどれも同じということになる。そうすると「タマフリ」「タマシズメ」とは「魂振(たまふり)り」「魂(たま)鎮(しずめ)」であると同時(どうじ)に「日振(たまふ)り」「日(たま)鎮(しずめ)」でもあり「日(ひ)を振る」「日(ひ)を鎮める」、つまり太陽を鎮めるということになる。そんなのは言葉遊びだといわれるかもしれない。そこで鎮魂つまり、タマフリ、タマシズメとは太陽を鎮めることである、ということについてさらに追究してみよう。ここに至ると大嘗祭の起源も明らかになってくる。

大嘗祭と鎮魂祭について
 ここでは大嘗祭を例にして考えてみる。そこからもう少し鎮魂と太陽との関係が見えてくる。
 大嘗祭と新嘗祭とは両者の間に本質的なちがいはない、とされるので、大嘗祭をみていく。大嘗祭は『日本民俗大辞典』倉林正次の『天皇の祭りと民の祭り』などによると、11月下(しも)の卯の日が祭日で、卯の日が3回あれば中の卯の日に行なうという。その前日、寅の日に鎮魂祭はあり、祭りは夕方に始まる。なぜ卯の日なのか。
 方位では卯は東である。だから卯の日に大嘗祭を行なうとは、新しい太陽をむかえる、つまり太陽の子孫としての新天皇を迎える日としてふさわしい。その前日に鎮魂祭があり、太陽を鎮めるのである。タマフリ、タマシズメとはしいていえばタマシズメが複数の太陽を鎮めることであり、タマフリが鎮めた中からひとつの太陽をふるい起こすことではないか。
 鎮魂祭は夕方にはじまる。そして余分な太陽は鎮められて、世界は秩序を回復するのである。これが鎮魂祭の真の意味だとすれば、ここに大嘗祭と鎮魂祭の前後の関係が射日・招日神話の関係と同じであることになる。しかも鎮魂祭は夕方からはじまる。おそらく日没を期してはじまるのである。それは新たな1日は日没から始まるからである。「1日の始まり」については第5章「1日の始まりは日没から」で詳述する。
 さらにいえば、鎮魂祭を終えて、次の日の晩、大嘗祭の前に、廻(かい)立(りゅう)殿で天皇は沐浴して身を清める。そして悠(ゆ)紀(き)殿の儀となり、そのあともう一度廻立殿で天皇は沐浴潔斎して主基(すき)殿の儀となる。これは殷の十日神話における、西の地へ没した太陽が地中を通過するさい、水中でほとぼりを冷ますとされる話を思い出させる。そののち新たな太陽によみがえるのであるから、廻立殿での沐浴は太陽の子孫とされる天皇にそれと同じ意味を付与するのではないか。この点でも太陽神話と符合している。
 結局、大嘗祭と呼ばれる鎮魂の儀、廻立殿の儀、大嘗祭の悠紀、主基の儀は射日・招日神話をもととする太陽信仰の変化型である。鎮魂祭が夕方から始まるのも、大嘗祭の終了まで一部始終が夜間に行なわれるのも「籠り」に相当する。そして祭りが終わると大嘗祭のために設営された大嘗宮である悠紀殿、主基殿それに廻立殿はみな直ちに取り片づけられる習わしであるという。これは18ページで紹介した莇(あ)原(ぞう)中組で行なわれる弓神楽での、祭祀の終りに「棚壊し」という祭壇を壊し土団子で祭場は泥だらけにしてしまう行為に相当するであろう。さらに左義長、トンド、ドンドン焼きで作った仮小屋を子どもたちが籠ったあとには、火祭りの終りに焼いてしまうこととも共通している。
 これは自然災異をもたらすかもしれない余った太陽は、暗闇と混乱、あらゆる禍を象徴するものであるから、その太陽を鎮めるために築かれた施設である火祭りの仮小屋、弓神楽の祭壇、大嘗祭の設営物などを除き去ることに、祓いとしての意味があるのだろう。
 だから鎮魂祭と大嘗祭とは元来直結していたものである。これについては、射日・招日神話まで視野に入れたものではないが、つぎのように倉林正次の見解もおなじである((31))。
このマトコオフフスマの中に籠っておられる状態は、天照大神が石屋戸の中におられるのと同じことである。天の石屋戸の前では鎮魂の祭りが営まれた。大嘗宮のマトコオフフスマに籠っておられる天皇有資格者に対して、鎮魂の祭りが行われるはずである。しかもそれは、天の石屋戸の場合と同様、猿女伝来の鎮魂法であった。こうした意味において、鎮魂祭と大嘗宮神祭りとは元来直結して行われたものであった。

 そんなことを考えていたら、たまたま次のようなラジオ番組が耳に入った。

尾張大國霊神社の儺追神事
 「~餅を土の中に埋める~」とのラジオの語りが耳に入った。2012年2月5日(日)朝6時40分、NHKラジオ第一「日曜朝いちばん」という番組で「音にあいたい」というコーナーであった。そこから耳を傾けたが、どこの何神社か、先に言っていたと思うが、もう最後には言ってくれなかった。気になるので、NHKへ電話で問い合わせたところ、稲沢市の国府宮(こうのみや)はだか祭であるとのこと。早速インターネットで調べたら、尾張大國(おおくに)霊(たま)神社の儺追(なおい)神事(しんじ)に行き当たった。
 以下、同神社のホームページから紹介する。神事の一部始終ははぶくが、この神事の核心部分は、中心的役割を担う儺負人(なおいにん)を選定し、神男(しんおとこ)とも呼ばれるその儺負人に「ありとあらゆる罪穢れを搗き込んだものと信じられ」ている土(つち)餅(もち)を負わせて追放するというものである。土餅は前年の同神事の時に、儺負人を境外に追い出す時に投げつけた桃と柳の小枝でできた礫(つぶて)で、その礫を焼いた灰を餅に包み、外にも真っ黒に灰をぬったものである。この餅は旧正月11日早朝につくられる。
 はだか祭は、文面からすると13日らしい。午後に行なわれ「はだかの群集に揉まれ触れられ人々の厄災を一身に受けた」神男が儺追殿に入って終了する。その晩、日が変わって、真夜中午前3時、儺負人(神男)は土餅を背負わされ、礫に追い立てられ境外へ追い出される。儺負人は途中で土餅を捨て、この餅は神職によって埋められることにより、世に生じた罪穢悪鬼を土中に還し、国土の平穏が現出される、というものである。
 ホームページによるとこの部分が「儺追神事の本義であり、称徳天皇の御世より現代に至るまで最も神聖視され重要視されています」となっている。
 そして17日には的射神事という儺追関連の最後の神事がある。「山・谷・星」の的を設け、桑の弓にうつぎの矢をつがえて的を射て、魔を祓うという。「山・谷・星」の意味はなんだろう。なぜ桑の弓なのか。なぜうつぎの矢なのか。うつぎは次の章のなかで「鯖々の行事」でも使われる木である。
 この儺追神事については『日本民俗大辞典』で「ちんそうじゅじゅつ 鎮送呪術」と「ひとみごくう 人身御供」の項で紹介している。しかし、最後に弓を射るということ、儺負人に象徴される暗闇と混乱、「ありとあらゆる罪穢れを搗き込んだ」土餅など、高天原でスサノヲが引き起こしたありとあらゆる禍に相当するもので、土餅は弓神楽における「棚壊し」と土団子であり、やはり射日・招日神話を起源とするものであろう。
 ラジオから耳に入った「餅を土の中に埋める」という箇所が、つまり太陽を土に埋めることである。それも「ありとあらゆる罪穢れを搗き込んだ」土餅である太陽、これは射日神話では射落とされた余分な太陽であり、旱魃をもたらす邪悪な太陽である。そうすると儺負人は余分な太陽を運ぶ烏であり、高天原から追放されるスサノヲである。だから儺負人は土餅を背負って境外へ出て、土餅を捨て、その餅が埋められるのである。邪悪な太陽が地に鎮められることが重要なのである。一連の神事を象徴して最後に的射神事が行なわれる。したがって儺追神事もまた射日神話を再現したものである。この的射神事をさらに少し遠いところから見直してみよう。

桑樹と射日神話
 さきほどの桑の弓、うつぎの矢、についてはやはり『稲と鳥と太陽の道』に示唆してくれるものがあった。まずそれを引用する((32))。
甘粛省嘉峪関の魏晋墓より出土した採桑画像磚では、鳴弦の動作をする子供が採桑場面に描かれている。一般に先立ち后妃が自ら桑を摘む儀式を躬桑礼という。こうした桑の木の下での弓の儀礼について、渡部武氏は「射日神話の末路の姿であろう」としている。桑樹は、射日神話と本来切り離せないものであったと思う。

 「桑の木の下での弓の儀礼」とか採桑場面で「鳴弦の動作をする」というのはただちに儺追神事最後の的射神事における桑の弓や、弓神楽のなかで、揺輪の上に結びつけた弓の弦を叩きながら土公祭文を読誦する場面との関係を思わせる。その渡部武の書というのは『画像が語る中国の古代』で、射日神話を表現している画像石がいくつも図版で紹介されている。それらの画像とその解説もさることながら、射日神話の元の十日神話についての記述のなかに興味深い内容があった。それは「十干十二支」のいわゆる干支の呼称についてである((33))。
 「干支」とはもとは「幹枝」で甲・乙・丙・丁・戊・己・康・辛・壬・癸の十干は10の幹、ということは幹であるが、扶桑の木は1本だから、大木の大枝という意味だろうか。十日神話ではこの大枝である「幹」に「甲・乙・丙~」の10個の太陽が懸かることになる。そして「十二支」の寅・卯は枝であるという。「枝とは月の霊なり」というのがわからないが、とにかく十二支の子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥は12の枝ということらしい。その中の卯は方向が東、卯の枝といえばこれはうつぎの枝だから、つまり儺追神事最後の的射神事で行なわれる、桑の弓にうつぎの矢をつがえて的を射るということは、扶桑の大枝にかかる太陽を射落とすということになるだろう。
 その的の「山・谷・星」というのは世界を意味しているのだろうか。山・谷・星の組み合わせというのはちょっと例がないような気がするが……、もしかりに山が高天原に通じ、谷が地上で葦原中国を意味し、星が夜の食国ということなら、世界のすべてが、ということになる。その「山・谷・星」の的を射るとは世界が暗闇になるということを意味しており、射日の結果を示すのではないか。