第2章 小正月の訪問者と餅のゆくえ
小正月の訪問者とは
前章では「餅なし正月」と名づけられた習俗がなぜ発生したのか、「餅がない」ということは何を意味しているのか、そして正月における餅の意味と機能を見出す作業をした。そのさいに私の設定した推論は、余った危険な太陽を象徴する餅はケガレであり、新年にあってはならないというものであった。餅はケガレの象徴であり、そのケガレを取り去ったすえに正月を迎えるのが「餅なし正月」として観察されるとの結論に達した。であるならば、この問題はさらに正月行事全般を対象として考えなおしてみる必要がある。
そこでこの章では正月を中心に行なわれる諸々の行事のうち、各地の民俗報告のなかからまず小正月の訪問者について精査していこう。従来の小正月の訪問者についての解釈は6ページ「ナマハゲの本来の目的」の項に『日本民俗大辞典』から引用しているので参照してほしい。
すでに第1章「餅なし正月の意味と起源」において、小正月に現われるナマハゲやホトホト、遊芸人などについて考えてきた。彼らは家々に祝福を与えると従来は解釈されていた。ところで小正月行事には、これまであまりに当たり前すぎて注目されることがなかったが、実は、家々から餅をもらう、餅を集めてまわる、餅を取り去るという共通した行為がみられるのである。これには柳田が気づいている。「モノモラヒの話」のなかで柳田はつぎのように述べている。
小正月の前の宵に家々の門を叩いて、餅を貰ひあるく行事は全国的で、地方によつてカパカパ・チャセゴ・カセギドリ・カサトリ・ホトホト・トベトベ等、十数種の異名のあることは既に知られて居るが、是にも家々の幸福を主として祝ふものと、訪問者自身の必要の為にするものとがあつて、其堺は犬牙交錯して居る((31))。
として、違いはわかりにくくなっているが、もとはたんなる物乞いばかりではなかったとして、次のような3つの事例を紹介して、今後いろいろな方面から資料をよせれば、餅をもらって歩くこと、餅を集めてまわることが、たんなる物乞いではなかったことが証明できるのではないかと柳田は推察している。
○ 石城地方の村ではかなり裕福な旧家であるが、主婦の役目として定期にひとまわりずつ物乞いをして歩かねばならぬ習慣があった。
○ 山口県西部に住む或る盲人は、かつて眼病を出雲の一畑薬師に願掛けした。往復は徒歩で少なくとも毎日7回、人の家に立って物乞いをしなければならなかった。
さらに食物ばかりに限らず、
○ 陸中と美濃と対馬の3ケ所に七所銕漿(かね)の習わしがあり、女子が初めてお歯黒をするさい、必ず自分の銕漿壺を持って方々の家から貰い集めたものだった。
これらの事例が餅を貰いあるくことと関係ありと柳田はみているのである。これから紹介する事例12「物もらい」や事例23「15日の粥」事例36「カイツリ」、注39の奈良県における「七軒コジキ」も同じ主旨の習俗であろう。このように「モノモラヒの話」で柳田の抱いた餅についての疑問、つまりなぜ餅を貰い歩くのか、モノモラヒとはそもそも何なのか、吉凶いずれにも餅や赤飯を使うのはなぜかといった疑問、そして57ページにおける折口の疑問はあわせて後で「柳田、折口の提示した餅についての疑問」の項でもう一度あつかう。
訪問者の行為と家の対応
では『無形の民俗資料 記録 正月行事((32))』(」)全4冊の中から小正月の訪問者が餅や米を持ち去る姿を抽出して、それらがいかに各地で広く普通に行われていたか、いいかえれば、いかに正月を迎えるために欠かせない行為だったかを、まずは明らかにしていこう。それらの行為は「餅なし正月の意味と起源」で明らかにしたように、もとはケガレを運び去って正月を迎えるために行なわれたのであるが、すでにその意味は忘れられているために小正月の行事となって残ったのである。
ところで紹介する事例のなかで叩く音、こする音、大声、唱え声など、音に関する表現があれば、それらにはアンダーラインをつけておく。これはのちに『散歩の手帖』29号で「反閇(へんばい) 音と地鎮」と題して、反閇について考えるときに使う予定である。ちなみに全55例のうちで36例に何らかの音をともなっていたことが記述されている。内訳は、唱え言葉が18例、大声が3例、歌が1例、音が11例、大きな音が6例である。合計39になるのは、そのうち3例で、音を出す行為がひとつだけではなかったからである。そのほかにもおそらく、音には注意を向けていないために記録に留めなかった例もあったであろう。唱え言葉が18例と、もっとも多かったのは音からの変遷であり、元の意味が忘れられてからの変化の結果であろう。
※ 関係箇所のみ抜き書きしていく。
※ 地名のつぎの1-17などの数字は文献の巻数と記載ページを示す。
※ つづく「男の子」などは餅をもらっていく者を示す。
事例1 鹿児島県肝属郡佐多町外之浦1-17 男の子
フカウチ 1月6日、男の子たちがの家々をまわり、家に上ってとなえ言葉をいってから、床の方や家の間のまわりに用意してきた白米をパラパラとまく。家の主婦は祝ってもらったお礼に子供たちに小餅を2つずつ配る。
事例2 鹿児島県肝属郡佐多町島泊1-18 男の子
フカウチ 1月6日午後3時ごろから、男の子たちが家々をまわり、首につるした袋から籾と粟をとりだして家に向かって投げつけるようにまきちらす。家人が玄関においた餅を入れたバラ(平たい竹ざる)の上から餅をもらって、次の家へ行く。餅はあとで七草粥に入れて食べる。
白米をパラパラまいたり、籾や粟を投げつけるようにまきちらす、という乱暴なやり方をするのは、賽銭や餅投げと同様の意味で、これも『散歩の手帖』28号「供物を投げる、屋根へ上げる」でとりあげるが、ケガレを祓う意味がある。
事例3 鹿児島県肝属郡佐多町瀬戸山1-18 青年
フカウチ 正月3日にフカウチとか千両箱祝いという行事がの青年たちによって行なわれていた。青年は集合して一戸ずつを訪れ、土間でとなえごとをすると餅をくれる。この行事はフカーウチともモツモレ(餅貰い)ともいっていた。
事例4 鹿児島県薩摩郡甑島手打1-41 子供
吉書かき 子供たちが習字のけいこをして(年末年頭にかけて)吉書を持って親戚や先輩のところを訪れ、お年玉や半紙などをもらった。吉書はおいてくるので何枚も書くものだった。
事例5 鹿児島県薩摩郡甑島青瀬1-42 子供
吉書かき 正月1日から2日にかけて男も女も子供はみな吉書を書き、それもぐるぐる巻いたのを何枚も持ち、の家を一軒ずつ訪れ、吉書をおいてくる。すると家の人はその子供をほめて餅をやる。
事例 4、5の吉書かきは一見、小正月の訪問者とは無関係にみえるが、事例5では、餅をやること、親戚や先輩ばかりではなくの家を一軒ずつまわるというところからも、親戚などの縁者に子供の成長を見せるといった親戚間や世間的なつきあいを背景に始まったのではなく、じゅうの家々からケガレを取り去るという本来の意味が変化したものであることを推察させる。
事例6 鹿児島県薩摩郡甑島桑之浦1-42 子供
餅まわり 子供たちは正月1日にの家々をまわり、おめでとうをいい、その家の人は子供に餅を一つずつくれる。江石では1月1日に子供がモツモレ(餅貰い)をする。子供の親類の家をまわって、お年玉や、今年の米でついた餅をもらってくる。
事例7 鹿児島県薩摩郡甑島平良1-48 子供
鬼火 子供がマベノシバの枝を折ってきて年寄りの家を訪れ、イロリで燃やす。マベノシバはパチパチ大きな音をたてて燃える。おそれて鬼が入ってこないという。その家の人は子供に餅をやる。子供たちはもらった餅を持って集まり、野原や庭先で雑煮を煮ていっしょに食べる。
パチパチ大きな音をたてる、というのが重要で、訪問者が訪れて何らかの行為をし、そのとき多くの事例でなんらかの音を出すことが記述されている。事例1、3のとなえごとも、これから出てくる事例のなかの大声や歌を歌うのも元は、大きな音を出すことに起源があると考えられる。その音の起源については先述したように『散歩の手帖』29号「反閇 音と地鎮」で詳しくとりあげる。
事例8 大分県宇佐郡駅川町1-172 遊芸人
万歳 万歳が元日か2日に来る。新年の挨拶ののち座敷で舞う。舞う家は村内できまっており古い家が多かった。謝礼として米1升とオカサネを与えたので、帰る時はカマスに貰いものを入れて車に積んで帰っていた。
事例9 大分県宇佐郡駅川町1-174 遊芸人、乞食
春駒 春駒のきたこともある。その他、正月にくる物貰いとしては、獅子舞い、猿まわしなど。謝礼として餅や米を与えていたが、乞食にはあん入り餅をやった。
遊芸人には餅や米、それに対して乞食にはあん入り餅、と区別しているのはなぜか。ここには餡に負わされているケガレの意味が現われていると見たい。あんこ、小豆の意味については『散歩の手帖』の次号で「小豆 ケガレの象徴として」で取りあげる。
事例10 大分県宇佐郡駅川町1-178 子供
モグラ打ち 上拝田ではこの日(14日)子供たちがわらの先をたばねたものを持って各家をまわり、ツボ先の畑をたたきながら「モグラ打ちゃあ14日、アシナサ(明日の朝)お粥お粥」ととなえて餅をもらって歩いたという。
事例11 大分県臼杵市津留1-199 遊芸人
門付け シシ舞い、猿まわし、オカルコブシ(ダルマ)、エベスサマもきた。おさい銭をあげ、鈴を振って踊ってもらったが今は全然やってこない。
餅が賽銭に変化している。賽銭にケガレを祓う意味がもとはあったことを示している。だから賽銭は投げられるのである。投げることがケガレを祓うことになるについては先述したように28号「供物を投げる、屋根へ上げる」でとりあげる。
事例12 大分県臼杵市津留1-200 乞食
物もらい どこからやってきたかわからないが子供連れの物もらいが「餅を一つ食べさせて下さい」といってきた。
もとは乞食に餅を与えることでケガレを取り去ってもらう意味があった。「食べさせて下さい」のなかに負っていた役割の痕跡がうかがえる。乞食が餅をもらうことが、かつては当然の行為であった。それが正月行事を担う重要な役回りとして行使されていたのである。そうした、餅をもらい歩くことの意味は31ページで示したように、乞食ばかりではなく一般に普及していたケガレ祓いのための習慣だったのである。柳田の「モノモラヒの話」の最後の附記のなかにも「貰ひ人」としてそうした事例がみえるので引用する。
モラヒビトといふ名は茨城県などに弘く行なわれる。只の憫みを乞ふ窮民以外に、正月の始めにどこからとも知れず、春田打ちなどの祝言を唱へて、米や餅を受けてあるく者も貰ひ人であつた。素より何処の某といふ名は隠さうとするが、斯うして貰ひあるくと農病みをせぬ俗信があるといふ(大間知篤三君報((33)))
事例13 島根県島根半島2-25 遊芸人、被差別民
福俵 昔は特殊民による言寿ぎがあった。男が来て、小さい俵をぽんと投げ込み、「西の蔵に千俵、東の蔵に二千俵、あわせて三千俵どでんどっさり」などというと、中から餅をやった。平坦地ではどこでもあった。その他、大黒舞、箱万才、春駒、猿まわしなども来た。
事例14 島根県島根半島2-26 青年、子供、被差別民
ホトホト 松の内の特殊民による言寿ぎより古型とされる。若連中もしくは子ども組による言寿ぎ。福浦では主として子供が「粟餅いらん、米の餅ごっさい」といいながらほとんど正月中歩いた。千酌ではコトコトという。特殊民の男2人で、1人は扇子と鳴り物1人はささらを持ち、祝ってくると中から餅や金をやった。
ホトホト、コトコトの名称は音に起源がある。この音には大きな意味がある。前述のように29号「反閇 音と地鎮」で取りあげる。
事例15 島根県島根半島2-26 お化け
ガガマ ホトホトにまで堕する以前の、もっと神聖な形のものが1か所、出雲瀬崎にあって、8日の夜半、青年団長が団員1人をつれ、腰蓑をつけ、団長は獅子頭を持ち、団員はちょうちんを持って先に立ち、81軒の家々を訪問する。ガガマとは総じてこわいもの、お化けなどの意味。
家の者が餅をやるとの記載はないが、次の例からも餅か飯をやっていると考えられる。
小波では旧3月1日恵比須祭りに、神前に供えた飯を頭主が適当ににぎって参った子どもに1人ずつやる風がある。この時1人1人に「ガガマをせい」という。子どもは目をつりあげたり、手で角をこさえたりして、それぞれこわい顔をする。
事例16 岡山県真庭郡新庄村2-63 青年
ホトホト 歳神の棚の飾りでは、箕の中へはオイワイ一重ねを置く。これをホウソウの餅と呼ぶ。この餅を14日夜、ホトホトに来た者に与える。
付記によると、下町の旦家では、歳神棚のそばに、疱瘡の神をまつり、ホウソウの餅はホトホトに来た厄年のものに与えていた。ほうそうの流行した年に同様のものをつくり、境に立てていたという。ここでも餅には病気であるケガレを負わせて、ホトホトである厄年の青年に持ち去らせていたのである。
事例17 岡山県真庭郡美甘村2-70 被差別民
鉄山では4日ごろ、番太と呼ばれていた人たちがぞうりを持って年賀にまわり、餅や米をもらっていた。明治末ごろのことであった。
番太とは『日本民俗大辞典』によると、村や町に置かれた番人をさす呼称で、江戸時代の町や村に広く見られ、火の番、盗人の番などの警備を職業としたが、地域・時代によりさまざまという。
事例18 岡山県真庭郡新庄村2-76 遊芸人、男の子、被差別民
遊芸人の来訪 もっともよく来ていたのが大黒で、庭先で祝い歌を歌い、餅や米をもらっていた。また、福俵といって男の子がひもをつけた小さな俵を奥の間へ投げ込んで、数々の祝いことばをならべ、餅・米をやると、引きあげていった。「西のほうからオフク(お福)が年頭のあいさつに参りました。ご主人もよいお年をお取りになられましたか」とお多福の面をかぶって餅をもらって歩くものもいた。その他、猿まわし、ヘイトウ(こじき)などもやってきた。彼らは備中・伯耆などの未解放の人たちが多かったが、第二次大戦後はまったく絶えてしまった。
事例19 岡山県真庭郡新庄村2-77 青年
ホトホト 14日夕刻、厄年の青年たちが蓑と笠をきてやってきて、ホトホトといって戸をたたき、物陰に潜む。持ってきたゼニツナギと箕に供えたオイワイ餅(ほうそうの餅)ととりかえ、祝ってやる。青年たちは何軒もまわり、たくさんの餅を集め氏神で酒宴を開く。このホトホトも信仰心が薄くなり、ヘイトウ(こじき)だという観念が強くなって、30年前ほどから行なわれなくなった。
事例20 岡山県井原市2-87 被差別民
歌い初め オンボウがチバイを着用し、頭には恵比須様の冠をかぶって来て、門口で歌う。それにはお鏡を二重ねやった。
オンボウは『日本民俗大辞典』によると、火葬・土葬などによる死骸の処理や墓地・火葬場の管理を主たる職業とした者。チバイとは何か、筆者には不明。
事例21 岡山県井原市2-90 子供、大人
ゴリゴリ 14日夜、蓑笠をかぶり、藁馬を重箱にいれて、重箱で縁をゴリゴリと音をだしてこする。子供が3人くらい組んで来るのがふつうだが、おとなでも来るものがあった。家の人が出てきたら縁側の下へ隠れる。餅を2つ、重箱に入れてやった。
事例22 岡山県笠岡市2-101 子供、被差別民
ゴリゴリ 14日の夜はゴリゴリである。夜、子供が重箱を持って縁側でゴリゴリこすって音をさせる。家の人が出てきたら縁の下にかくれる。その間に餅を2ついれてくれる。おとなで来るのはオンボウなどだけであった。
事例23 岡山県笠岡市2-102 大人
15日の粥 15日の粥を他家でもらって子どもに食べさせると夏づけ(暑気あたり)をしないという。「うちの子が夏づけをしていけんけえ、お粥をつかえせえ」といってもらって歩く。大体7軒ぐらいでもらう。
餅をもらうことが好事をもたらすと理解されているのは後の変化であろう。本来の主旨は、7軒ぐらいもらって歩く、そしてそれらの家々からケガレの餅を取り去るというほうにあったのである。30ページでも餅をもらい歩くことに言及している。
事例24 岡山県笠岡市2-117 子供
お年玉 丸岩では元日の朝、黙って門先きに子どもが立つと、お年玉が与えられる。女の子はしないし、してももらえない。また大浦では、男の子の来ることを喜び、場合によっては、道ばたで遊んでいる子どもの手を引き、招じいれて、餅とか蜜柑などを与えたりもする。
お年玉が与えられるというのも、もとは餅だったろう。女の子がもらえないのは、女性はケガレとして排除されると考えられていたからである。道で遊んでいる子まで引き入れて、餅を与えるというのも、そうまでしても、ケガレの餅を取り去りたいという、この行事の本来の目的を痕跡としてとどめていることからくる行動なのである。
事例25 岡山県笠岡市2-124 子供
ジョンジョン 14日の晩、栴檀の木で俵の形をつくり、子どもが各戸へ持っていく。「ジョンジョンを持ってきました」とか「初俵を祝うてきました」とかいって持ってくる。もらった家では用意していた白米粉でつくった生の白餅をお礼として与えた。
事例26 岡山県邑久郡牛窓町2-138 乞食
コンガラ様 1年に何度かオドクウ様を清めるといってきていた。人々はこじきと同じような気持ちでもてなした。帰りには小盆に米を盛ったのを与えていたが、正月の月には必ず来ていた。このほか正月に来るほかいびとのたぐいは何もなかったという。
『無形の民俗資料 記録第6集 正月行事2 島根県・岡山県』に煤掃き団子は「オドクウ様に一番に供えんとほかの神様が受けとられない((34))」という、と記されているように、オドクウ様は山陽地方では特別の神である。コンガラ様はそのオドクウ様を清めるといっている。つまり小正月の訪問者としてのコンガラ様は清めにくるのである。清められるオドクウ様はケガレていたことになる。ではオドクウ様とは何か。なぜケガレているのか。『散歩の手帖』25号でまとめたように、オドクウ様とはカラス、土公神、土公祭文のなかの五郎王子、スサノヲに関係があり、ケガレを象徴する存在である((35))。
オドクウ様からスサノヲへ
くわしくは『散歩の手帖』25号第3章をご覧いただくとして、オドクウ様がケガレを象徴する存在であること、そして歴史をさかのぼってスサノヲまで結びつくことを、ここでは簡単に振り返っておこう。
25号ではオドクウ様からスサノヲへ向かって、その結びつきを追究していき、両者が関係あることを証明したのであるが、すでにその結論が出ているので、ここではスサノヲからオドクウ様へ降りてくることにしよう。全体を貫くテーマはケガレの担い手がどのように変わったかということである。
まず高天原において、アマテラスが岩屋戸に籠った神話がある。その原因となるスサノヲの暴虐の意味するところというのは、ありとあらゆるケガレを現出させたことである。そのケガレを象徴しているのはスサノヲの暴虐の結果、アマテラスが岩屋戸籠りしてしまい、そのためもたらされた暗黒である。暗黒がケガレの象徴である。つまりスサノヲは太陽を隠したのである。スサノヲは太陽の消長に働きかけることができるのである。スサノヲはケガレを掌握しているといえる。その力は自然災異に働きかけることができる鬼神と同じである。そしてスサノヲは高天原を至浄にして地上に下りて地上世界の神々の始祖となって祭られる。そして荒神はスサノヲの化身とされており、土公神とも習合している。
さらに弓神楽では土公祭文が読誦されるが、祭文における主人公である五郎王子は4人の兄王子たちと四季の争奪をめぐって3年3ヶ月の戦をする。四季の争奪とは太陽の消長について、いかに影響力を持つかということである。ここではその戦がケガレの象徴である。この時五郎王子は鬼神であるとされる。そして五郎王子こそ太陽の消長に働きかけることができたので、兄王子たちの持つ四季の各部分を奪うことができたのである。つまり五郎王子はスサノヲとも同じということになる。鬼神として四季のめぐりに作用し、働きかけているからである。この五郎王子は陰陽道と結びついて土公神となっている。しかしこの時にはすでに土公神は地を鎮める役割を担うとされている。つまり四季の移り変わりに作用する鬼神としてではなく、ということは太陽の消長についても力はなく、すでに太陽鎮めが忘失されているのである。
そして五郎王子は陰陽道と結びついて土公神となったと考えられる。忘失したゆえに、地中にひしめいているケガレとしての複数の太陽に働きかける太陽鎮めが、たんに見かけ上の地を鎮めているかのようにみられたのである。つまり暗黒であり、戦であったケガレの象徴が「見かけ上の地を鎮めている」かのように変質してわかりにくくなったのである。その土公神は「お土公様」つまりオドクウ様である。これでスサノヲからオドクウ様までつながることになる。そしてオドクウ様とは岡山市今谷ではカラスのことであるという。カラスは再三いうように太陽の運行にかかわり、太陽を鎮めるといわれている。ということはオドクウ様には太陽鎮めの片鱗が残っているのである。太陽を隠すスサノヲの力である。そしてケガレを運び去る烏勧請のカラスでもある。スサノヲからオドクウ様までケガレを象徴する存在としてつながっているのである。天岩屋戸神話のなかのスサノヲの役割はめぐりめぐってオドクウ様とカラスにまで引きつがれているのである。それゆえにオドクウ様はケガレているのである。
事例27 岡山県久米郡福渡町和田南2-165 子ども
カイカイ 子どもたちがカイカイをする。若水をくんだ杓と扇子、小縄を輪にしたものを持ち、自分のこしらえた面をかぶって家々をまわる。そしてホトホト、カイカイといって陰に隠れて見ていると、杓の方に粥、扇子には蜜柑をくれる。
事例28 岡山県岡山市円山2-175 乞食、遊芸人
お飾りまかり 14日、ドンドの餅は食べないで、フェエト(こじき)、猿まわし、人形つかいなど、正月にやってくる人たちにやったものである。
事例29 徳島県阿波郡阿波町3-14 遊芸人
三番叟 元旦の夜明けに来る。その家が繁昌するようにほめる。鼓をたたいて夜が明けることを表現する。1人は鼓を打ちカドホメのことばを2人で掛け合いでいう。家では餅や金を渡してねぎらう。
元旦の夜明けに来るというところに意味がある。鼓をたたくというのは反閇の変化形であろう。地中の太陽を鎮めていたのである。だからこそ太陽が昇るまえに行なうのである。三番叟には足拍子を踏むところがある。三番叟自体に反閇と関係がある。『散歩の手帖』29号「反閇 音と地鎮」でくわしくあつかう。
事例30 徳島県阿波郡阿波町3-16 遊芸人
デコ回シ(箱回シ)人形つかいのこと、村の辻で子どもを集めておこなう。終われば人形つかいは付近の家でお金や餅をもらって消えていく。スッタラ坊、オ福サン、えびすさん、大黒さん、ひょうたん回し、獅子舞、福助、春駒なども来た。
事例31 徳島県阿波郡阿波町3-18 遊芸人
餅つき 女2人か3人が1組となり手桶を中に置き、大きなささらを持って、餅つきのまねをして手桶を打ちながら周囲を回り、伊勢音頭を歌い後に謎かけなどをする。もらった餅はその手桶に入れてつぎへいく。
手桶を持っているのにも、理由がある。『散歩の手帖』28号「桶が重要であること」で取り上げる。
事例32 徳島県麻植郡山川町3-33 子ども、青年
オ祝イソウ 14日昼は、子どもが銭指ス(わらの先をトンボにむすび、一文銭をさすようにしたもの)をたくさんこしらえ、各家にオ祝イソウに回った。「お祝いそうにこーとこと」といって銭指スをあげると、お菓子や米をくれる。夜は若い衆がいろいろのにわか(万才のようなもの)をして回り、餅や米をもらって帰る。
事例33 徳島県麻植郡木屋平村3-41 子ども
オ祝イソウ 旧正月14日に子供たちがわらで細いなわをなって作った銭指スをもって近所の家を回り、「オ祝イソウをお祝いなして」といって、なわの銭指スを渡して小銭、みかん、干し柿、菓子などをもらって歩いた。大人たちは子供がオ祝イソウをもってくると「ことこと突っ張った」とひやかす。子供たちは「こねはずしたけんお祝いなして」とやり返して小銭などをもらって回った。「こねはずしたけん」とは「無理に戸をこじあげたから」という意味である。
コトコトが退化して音をたてることが、建てつけの悪い戸をこじあけることに転化した。それでもコトコトという言い方は伝承されており、もとの意味は忘れられて、重要であることは認識できないはずであるが、音としてのコトコトという言い回しだけは引き継いでいる。
事例34 徳島県麻植郡木屋平村3-41 青年
オ祝イソウ オ祝イソウの夜は、青年たちが数名で組を作り、わらなわで牛の首輪を作る。の富家を回り歩いて「オ祝イソウをお祝いなして」といって牛の首輪を家の中へ投げ込む。投げ込まれた家では、餅などを配ってやるが、その代償として牛の首輪を取り上げようとする。青年たちは取られたら次の家に行けないから、取り付けてあるなわをたぐって引っ張り出し、次の家に行く。
牛の首輪というのは牛の首を象徴したもので、ケガレを表現しているのだろう。牛の首輪を家の者が取り上げようとするが、最終的には取り付けてあるなわをたぐって引っ張り出せるということで、強く張り付いたケガレでもついには取り去ることができ、正月を迎えられるという意味であろう。この事例は10ページで取り上げた柳田の「浜弓考」に記されている被差別民による弓神事へのかかわり方、つまり、弓神事の的を牛の頭の皮でつくったという例との類似を思わせる。どちらもケガレを運び去る行為を現わしている。
事例35 徳島県美馬郡美馬町3-54 遊芸人
門づけ 三番叟は2つの箱を棒でかついできて、1つの箱の中に三番叟(おいべっさんを含む)を入れ、他の箱には道具や、もらった餅などを入れている。農家はこの三番叟は、除厄招福という意味で受けている。
事例36 徳島県美馬郡美馬町3-56 困窮者
カイツリ 14日に来た。小さい重箱と小さい木づちを持ってきて、門口に立ち、重箱を木づちでこんこんとたたいて餅などをもらって歩いた。この物乞いに来る人は、平常は農家の人夫などに雇われている貧しい人であった。このつちをたくさん持っていて、餅などをもらうとその礼として、その家の子供たちに1本ずつ与えた。
31ページで述べている「モノモラヒ」に歩く習俗の残存であろう。
事例37 徳島県三好郡東・西祖谷山村3-65 子供、青年
カイツリ 14日。この日を14日年(どし)といい、カイツリが来る。子供たちや若い者たちがを回り家々の門に立って「カイツリを祝うてっか(祝ってください)」と呼び、きびがらで作った牛鍬の模型、または、わら細工のサス(ゼニサシ)を盆にのせて渡す。家によって白紙、鉛筆、餅などを与えた。
事例38 三重県鳥羽市神島3-100 困窮者
コトオサメ 12月8日、この日、過去1か年のいっさいの災厄をはらい流すことになっている。かやの葉を編んでイッパイ舟をつくる。ヤリマショウ舟ともいう。この舟を持ってすべての家々を回る。舟のかつぎ手は、以前は島の困窮者にやらせた。家々から5円くらいずつご祝儀が出たから、ちょっとした収入になった。しかし家々の災厄を背負わされると感じてやりたがらなかった。改正して当屋2人の総領息子にかつがせることで今日に及んでいる(昭和16¬~17年ころ)。イッパイ舟が家々を回ってくると、米を包んでオヒネリにしたものと、各自の体をなで回したかやの葉2すじ、その2品をイッパイ舟に乗せてやる。オヒネリで山盛りになった舟は海へ流すが、すぐに沈んでしまう。この日一般の家は赤飯をたいて食べる。
これまでの例と比べるとやや内容が変わっているが、訪問者が来てケガレを取り去る形に違いはない。「コトオサメ」の「コト」とは『散歩の手帖』26号「『コトを負う』とは」で述べたようにケガレである((36))。困窮者にやらせたというのは、餅なし正月伝承で、昔、先祖が困窮して餅が搗けなかったという話との類似を感じさせる。餅がないことと、餅を取り去ることとの違いである。その結果として餅のない、ケガレのない正月を迎える。「この日一般の家は赤飯をたいて食べる」のも次号「小豆 ケガレの象徴として」で詳細を扱うが、ケガレの象徴としての赤飯、混ぜ飯であり、それが縁起物に変化したのである。そうまでしてなぜ至浄の正月を望むのか。
事例39 三重県志摩郡大王町船越3-136 船頭
アアタラシ (夜中の)12時になるとアアタラシに出かける。1組4人ずつで、手分けして1軒1軒に、新春のお祝いのことばを述べて回る。各戸でお祝儀として小さなお鏡餅を出したが、今は金銭になった。
アアタラシとはお祝いのことばを述べる際の出だしの「新しき年の始め、とうに幸、じゅうごうけいろく、~~」からきている。
事例40 三重県志摩郡大王町波切3-147 船頭
元旦の名ノリ 名ノリとは当屋が漁師の家々を1軒1軒元旦に回って、今年も大漁でありますようにと祝福のことばをのべて回礼すること。音頭とりの船頭が、大声で「アアタラシキ、としのはじめに、~~」と唱えるが、漁師の荒い声でわれ鐘のようにどなるので、たいへん騒々しい。各戸では名ノリが来るのを待ちうけて、お祝儀を出す。お祝儀はおみき1本、とっくりに酒を入れて出す。それに小さなお鏡餅一重ねというのが普通である。
「荒い声でわれ鐘のようにどなる」というように、これもかつて音を重視していたことから来ていると考えられる。縁をゴリゴリ鳴らすのも、ナマハゲが怒鳴るのも同じである。これらの声や音については、29号「反閇 音と地鎮」のところで詳しく検討する。
事例41 岩手県雫石町4-18 困窮者
年徳神 お年神様は明きの方から来ると老人はいっている。そのお姿は不明瞭で、紙の絵姿を見てぼんやりと想像している。昔は七軒町(こじき長屋の住人)が配って回るものと言い伝えられていた。白米1升を出してお札を受けとる。お札の出所はだれも知らぬ。
事例42 岩手県雫石町4-34 遊芸人
獅子舞 小正月には獅子舞が来る。神社の別当の宅に宿を定め、これぞと思う家に舞い込んで、午後から夜にかけて舞い、人々を楽しませた。供物として白米・麻糸をお供えした。
事例43 岩手県大船渡市立根町4-42 子ども、大人
カシオドリ 小正月15日、夜になると少年たちが馬の鳴(なり)金(がね)を手に下げて騒々しく鳴らして歩く。5~10人ほどで家々を訪問する。あるいはブリキ缶に綱をつけて背負い、うしろの子供が棒でたたく。おとなの群れも別にあった。各家では用意しておいた切り餅を彼らに与える。
ここでも音を出すこと、それもかなり騒々しくすることが求められている。
事例44 岩手県釜石市唐丹町山谷4-53 青年、少年少女
スネカタクリ 15日夜になるとスネカタクリがやってくる。青年たちが鬼面をつけ藁に身を包んで訪問する。山谷では少年少女が行なう。小腰をかがめ、ぶうぶう鼻を鳴らし、刀を出しておどかし台所に上がるまねをする。家の人は餅を袋背負いの子供に渡してやる。子供たちは太鼓・笛に合わせてスネカ踊りを踊る。
事例45 秋田県男鹿半島4-65 青年、子供
ナマハゲ 正月15日夜、鬼の仮面をかぶり、蓑を着ての青年たちが「うおーうおー」という大声を発して現われ、餅または金銭をもらって、次々と家々を訪問する。あとで慰労の宴を開くが、餅などは余るから貧困者に恵贈する。音響を出すために小箱に小石などを入れたものを携帯する場合もある。弱い踏み板だと踏み破った例もあったという。河辺郡ではヤマハギといい、そろばん、馬の鈴を持って異様な音響を発して子供らが歩いた。
ここでも音が強調されている。また「弱い踏み板だと踏み破った例もあったという」というのはたんに荒々しさを強調するあまり、ということではなく、反閇にそのみなもとがあると考えられる。
事例46 秋田県男鹿半島4-69 鬼
セド(柴燈または採燈)正月3日の夜、2升つきぐらいの丸餅の中を凹ませて油をそそぎ、燈心・こよりの類を入れて火をつけて、窓外へ投げる。そして法螺を吹き、鐘をならし、戸板をたたいている間に鬼が来て、その餅を持ち去る。今はそのことはないが、ふしぎに僅かの時間に餅がなくなると土地の人はいっている。
これまで取り上げてきたのは、訪問者が青年や子ども、そしてどこからか巡ってくる遊芸人や被差別民であった。それらの多くは音をたてたり、大声を出したり、なんらかの祝言やとなえごとをいって、お礼に餅などをもらって去っていくというものである。しかしこれらのほかに、例は少ないが、こちらから餅をとどける、あるいは訪問者から餅を受けとるという場合がある。こちらから餅をとどける例としては分家から本家へ、嫁や婿の実家へというものである。さきにその例を7件示す。
事例47 鹿児島県薩摩郡甑島1-40
祝い餅 1升餅を大きくて平たい餅につくりこの餅を祝い餅といって、年取りの日に親の家(分家している時には本家の親、それに妻の実家)に持っていく。本土の薩摩側では広くおこなわれており、これをトシモチ、イエモチなどといっている。嫁にいった娘の多いところでは、この祝い餅を何枚ももらうので食べきれないほどである。
薩摩側では広く行なわれているということ、そしてトシモチ、イエモチなどと、先祖へつなぐ観念を感じさせる。甑島で「祝い餅」と呼ばれているのは、それを明確に祝いと捉えていることから、薩摩側より新しい変化と考えられる。南九州、沖縄は新しいのである。
事例48 大分県国東町1-153
オセチ 普通正月3日から14日のモチまでの間に、オセチといって親類同士で招いたり招かれたりする。鬼会の夜には他村の親類をオセチに招く家が多い。結婚によって親類になる場合にも、結納のときにオセチを何日にするかは、相談事のなかに入るほど重要視されている。また嫁の里にいくときには、嫁は必ずオスワリ(鏡餅)一重ねを持っていくのがしきたりである。
里へ、実家へ、本家へというのは、先祖への方向であり、小正月の訪問者がやってくる方向へ逆に餅を持っていくことになる。餅の移動する方向としてみれば、訪問者に持たせるのも、こちらから持っていくのも祖神へさかのぼることに変わりはない。
事例49 大分県宇佐郡駅川町1-167
歳暮 嫁をもらった年の暮れには、嫁の実家に四升餅とか五升餅にそえて、三貫目以上のブリを持っていく。
中元、歳暮にお世話になった相手にものを贈る習俗の源はこのように里へ実家へ本家へ餅を贈ることにあったのだろう。
事例50 島根県島根半島2-22
年賀 坂浦では分家から本家へ年賀に行く時にはお供えを一重ね持ってゆき、仏壇に供える。
事例51 三重県志摩郡大王町波切3-144、船越3-132
オヤノタル 餅つきのとき、3臼めくらいのときお重ねをつくり、嫁が生家の親へお祝いに持っていくことをオヤノタルヲタテテクという。
船越では昔はオジダル・オバダルといって叔父叔母にもタルモチを贈ったものであったが、今はオヤダルさえもなくなった。
事例52 岩手県雫石町4-20
御年始 橋場では、嫁・婿は縁づいてから3年間は夫婦そろってゴメェアネンゴと称して、鏡餅5枚・塩ざけ(塩鮭)2本・酒2升を持参して御年始に行った。安庭では、1月2日、鏡餅を持って、親戚や非常に親しい知人、非常にお世話になった人などを訪問する。
事例53 岩手県大船渡市4-40
里帰り 嫁いできてから3年ぐらいの間は里帰りをする。里帰りの礼には、鏡餅3升のもの一重ね・魚2匹(メヌケまたはキツジなどの赤い魚)・酒1升を樽にして持参する。
事例51、53でも樽が出てくる。オヤノタルは親の樽である。昔は樽に入れていったのかもしれない、と記述されている。樽は次号「桶が重要であること」で、詳しくあつかう。そしてなぜ赤い魚なのか。この赤は小豆の赤からの連想であろう。これも次号「小豆 ケガレの象徴として」であつかう。
そして甑島のトシドンでは訪問者から餅を受けとる形になっている。『無形の民俗資料 記録 正月行事』全4冊の地域報告のなかで訪問者が餅を持ってくるというのはトシドンだけである。
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事例54 鹿児島県薩摩郡甑島1-37
トシドン来訪 大晦日の年取りの晩にトシドンは大きな鬼の面をかぶり、子供のいる家だけを夕方から夜にかけて訪れてくる。入口で「ホイホイ、ガタガタガタ」と声や足音をさせる。家に入ってきて、子供たちをおどしたり、教えたりして、最後にふところから大きなトシモチ(この大きな年餅を食べないと年をとることができないという。まえもって子供の家の人が、トシドンになる人に子供の悪い癖などを教えておき、餅もたのんでおくのである)を出して子供に与える。こうして次々と子供のいる家を訪ねて餅を与えてまわる。瀬々野浦では、カンカンと鉦を打ちながら年の晩に子供の家にやってくる。内川内ではトシドンは鉦をたたき、太鼓を打ってやってくる。
カッコ内の最後「餅もたのんでおくのである」というのは、餅をあらかじめ家の者がトシドンにあずけておくという意味であろう。つぎの事例55の鬼ドン餅では家の人が庭の草の中などに餅を置いておく、とあるので、同様にこれもやはり、あらかじめトシドンにあずける意であろう。
新谷尚紀はトシドンが持ってくる餅について、この地域一帯にみられるトシモチの贈答の習俗と、子供たちの餅もらいの行事とが習合したものではないか、とみている((37))。そして、トシドンにいったん手渡された餅はケガレの餅から福の餅へと転換すると解釈している。新谷はケガレを負った餅が一度異界からやってきたものたちに渡るとハラエヤラレて福徳の威力を持つとの解釈を展開しているが、はたしてそうだろうか。
新谷の『ケガレからカミへ』の「5 ケガレ・ハラヘ・カミ」によると、烏はケガレを背負う鳥であるという。この認識は私と一致する。ケガレの餅という認識も一致する。しかし一致するのはそこまでである。そもそも人間には生きていればケガレがあるが、なぜ日本人にだけケガレが強調されるのか。そしてなぜケガレは祓えやられなければならないという観念を持ったのか。なぜケガレの捨て場所が必要なのか。祓えやられると、なぜたちまち逆転して神になるのか。新谷はケガレから神が誕生するとして、ケガレが神に転換するには、民俗的心意のメカニズムが作動するというが、民俗的心意とは何なのか、そのメカニズムとはどういうものか、明確にしていない。
新谷は、貴人や乞食にケガレを背負わせていたが、それだけに満足できなくなり、異界のものたちを儀礼的に創出し、彼らにケガレを負わせたと推論している。そのケガレは調節不可能な状態となって威力を持ちつづけるが、その威力が一定の儀礼的な手続きをとると、逆転して福徳の威力あふれるものとなるとしている。こうした考えは各地の民俗事象をみて、破綻のないように組み立てただけである。現在の民俗事象についての理解はこれでいいように見えるが、本質的に誤っている。
私の考えでは、餅に負わされたケガレの意味と、福の意味とではその間に餅に対する認識が歴史的に変化していった永い時間の経過があり、即座には転換しないのである。餅が福徳の意を獲得するのは時代的にケガレの餅よりものちのことなのである。それはケガレとしての餅の意味が忘れられ、「餅なし正月」の意味が不明になって、餅が神聖な供物とみられることになった結果なのである。トシドンが子供のいる家にだけ来るというのも、のちの新しい変化形であり、だからこそ餅が福の価値としてもたらされるのである。子供のいる家に来るのも、餅が福徳の意味をもつのも、どちらも時代的には新しいのである。トシモチの贈答の習俗自体、餅にケガレを託していると観念されていた時代には、贈答に使うことはあり得なかったはずである。新谷のいうような「ハラエヤラレて福徳の威力を持つ」といった直接の転換はかつてはあり得なかったはずである。したがってトシドンの習俗が、より新しいのは明らかであり、それゆえに福の餅に転換したように見えるのである。
トシドンや次に述べる鬼ドン餅は、稲作の民俗としては、南九州のものは中部以北の九州より比較的新しいものであることを示している。事例47の甑島の「祝い餅」が薩摩より新しいと考えられるのも、稲作民俗の伝播の方向として本土から島へとするのが流れだからである。思い出すべきは、烏勧請においても、南九州のものは比較的あたらしいということである((38))。稲作文化の伝播経路でいえば鹿児島はそれ以北の西日本の稲作よりも新しく、南西諸島、琉球への稲作伝播はさらにのちであるから、したがって稲作の民俗も九州中部以北の西日本の民俗よりも新しいと考える必要がある。
事例55 鹿児島県薩摩郡甑島1-50
鬼ドン餅 瀬上では、子供たちが6日にほら貝を吹けば、天の上の鬼が餅を投げてくれる。その餅は家の庭の草の中や、木の枝などに引っかかったりしている。実は家の人が餅を紙に包んであちこちにおいてあるのをみつけるのである。これを鬼ドンの餅といい、鬼火で焼いて食べるものだった。
茶之木では、男の子は6日の夕方に、ほら貝を空に向けてブーブーと吹く。すると天にいる鬼は、その大きな音にびっくりして、持っている鬼の餅(鬼ドン餅)をついとり落してしまう。落ちてきた餅は、家のまわりの木に引っかかったり手水鉢のかげにころがったりしている(もちろん親がその場所にかくしておいたのである)。
以上のように『無形の民俗資料 記録 正月行事』全4冊だけでも小正月の訪問者が餅を運び去る例やその変化形が55事例取り出せるのである。このような事例はそのほかの各地の民俗報告からも容易に拾えるであろう((39))。
以上に取り上げた55の事例のうちに「銭」が出てくる例が事例11、14、29、30、32、33、37、38、39、45の10例あった。ケガレと銭にはなおざりにできない関係があるらしい。これについては、いずれ稿を改めて書くことになろう。
餅の一方向性
小正月の訪問者が何であるかを分析するのは、正月行事の全般にかかわることなので、今はまだそれにはふれず、餅と正月行事全般との関係を明らかにしてから扱うことにして、ここでは餅の移動する方向性を確認しておこう。餅はなぜ運ばれるのか、どのような方向へ運ばれるのかについて、これまでにもいくらかふれてきたが、ここでまとめておく。
萩原秀三郎は『稲と鳥と太陽の道』において「男鹿半島のナマハゲは、いつのまにか、逆に丸餅を家々からもらっていくようになった。家々に福を授けたお礼である((40))」としているが、そうではなくナマハゲが餅をもらっていくのが古い型であり、福を授けたお礼ではなく、餅に託した家のケガレを取り去るのが本来の目的なのである。
なぜなら、家々から餅を運び去る訪問者は青年や子供が扮した神であり、ケガレを取り去る役を負った遊芸人や被差別民である。そして事例47から53に示すように、年始に鏡餅を持っていく先は祖先、祖神、鬼神へ通じる本家や妻の実家なのである。すべて、これらにかかわる餅の向かう方向は現在の人間から祖先神への方向である。なぜ遊芸人や被差別民に餅を託すことが祖先神への方向といえるのか。それは10ページの「ケガレの除去と被差別民」で少しふれたように、ケガレとしての餅は余った危険な太陽であり、その太陽の昇降に働きかけることができるのは鬼神であり、その太陽祭祀を司るのがヒジリやフゲキであり、それらの末裔が遊芸人や被差別民だからである。これらの詳細な検討はこの項の冒頭、小正月の訪問者が何であるか、ということと密接に関係するので『散歩の手帖』29号で行なう。
餅の向かう方向が逆転しているトシドンの餅や鬼ドン餅は、餅からケガレの意味が落ちて、餅が縁起のよいものとして認識されるようになったからこその変化なのである。餅の向かう方向についてもう少し述べておこう。これに関連して安室に興味深い論考がある((41))。餅の向かう方向性がさらにはっきりするであろう。
安室は神奈川県三浦半島に残る農民日記『浜浅葉日記』に出てくる餅について、その意義や社会性に注目している。安室は餅が、贈ったり贈られたりしてさかんに家と家の間を行き来していることに気づいたのである。そして餅を贈る行為には3つのパターンがあり、①家で用いるもの、②他家に与えるもの、③他家から与えられるものに分けることができるという。
そのうち②の他家に与える餅について「餅が贈られる範囲は本家や妻の実家など同族や親族といった同等かそれ以上の家柄のところにとどまらず、出入り職人や小作人またときには被差別民にも及んでいる」という。それに対して③の他家から浜浅葉家へ餅が贈られる場合には「贈る場合と違って、自家より下の階層から餅を貰うことはない」という。そして「餅というのは浜浅葉家からは上も下もなくすべての階層に贈っているのに対して、貰う場合は同等かまたは上の階層に限られている」というのである。そして「浜浅葉家からみて下層に属する小作人や出入り職人、被差別民といった人々からはけっして餅を貰うことはな」いのである。そうした餅の贈答パターンからその家の社会的階層が見えており、村内におけるその家の社会的位置を示すことになるという。
一見安室のいうように、餅の贈答パターンにはそうした社会的な意味を表わしているようにみえる。しかし餅にそうした価値が与えられているように見えるのは表面的な見え方である。どうしてわざわざ餅で社会的階層の上下など確認する必要があるのか。それは餅に最初から備わっていた属性ではない。なぜ下の階層から餅を貰うことがないのか。餅のもつ社会的な意味という点で考えれば、下層の人々には施しをするもの、逆に下層の者からものを貰うのは沽券にかかわる、といった理由があがるのかもしれない。しかし、その理由は餅が本来もっていたケガレをつけて運び去るという役割からたどるべきである。
そうすると同族や親族など同等かそれ以上の家柄との間での贈答は交換を前提としたやりとりであるが、下層の人々に餅を与えるのは、ケガレを取り去ってもらう目的で与えていると考えられるのである。それゆえに逆に下層のものから餅を貰うことはけっしてないのである。
さらに安室が注目しているように「他の家とのやり取りとは違って、本家に対しては、わざわざ『大備』とことわって大きな鏡餅を贈って」おり、この鏡餅は交換という双方向性を持たず、分家である浜浅葉家から本家に一方的に贈られるだけであるという。そうした行為は鏡餅が祖霊祭祀と深くかかわって用いられることを示すものであると安室は推察している。
これとよく似た例を柳田の記述に見出すことができる。西日本のある田舎だけに限られるらしいというが、「年越には又親の餅と称して、子から老親に鏡餅をすゑることがあり、銕槳(おはぐろ)親・名付親・媒人・取上婆などの沢山の子方を世話した者には其餅が多く集まり、それを又再び孫に与える孫の餅といふものがあつた((42))」という。この例では本家だけではなく、家永続にかかわるさまざまな立場の者にも波及し、その誕生や成長に関与したものにまで鏡餅を贈る習俗がひろがったと解釈できる。
こうした餅の一方向性は確かに祖霊祭祀にかかわることである。ではなぜそのときに贈られるのが餅なのか。それは餅に託されたケガレ祓いの役割と祖霊へさかのぼることの一方向性のためである。そのケガレとは余った危険な太陽としての餅であり、そうした太陽に働きかけることができるのは祖霊信仰がたどりつく鬼神をおいてほかにはない。それで、祖霊につながる本家にケガレの太陽としての鏡餅を託すのである。だからけっしてそれは逆流することはない。鏡餅はたんなる供え物ではないのである。折口信夫も鏡餅の意味するところに疑問をもち、鏡餅が供え物よりも神に近いものとみている。そこで次に、折口の餅についての見方、そして柳田の抱く餅への疑問について、あわせて検討してみよう。
柳田、折口の提示した餅についての疑問
折口信夫は鏡餅を供物ではなく神体に近いものと見ている。折口は「国文学の発生(第三稿)」で「私はみたまの飯の飯は、供物(クモツ)と言ふよりも、神霊及び其眷属の霊代(たましろ)だと見ようとするのである。此点に於て、みたまの飯と餅とは同じ意味のものである」とし、だから「我々は、餅を供物と考へて来てゐたが、実はやはり霊代であつたのだ((43))」としている。(下線は原文のまま)
この折口の「餅は霊代」説には賛成できないが、たんに供物ではないとしている点は認めたい。さらに折口は記して「鏡餅の如きも、神に供へる形式をとつては居ない。大黒柱の根本に此を据ゑて年神の本体とする風、又名高い長崎の柱餅((44))などの伝承を見ると、どうしても供物ではなく、神体に近いものである」として、餅はたんなる正月のお供えではなく神体に近いものである、として餅に負わされているわかりにくさを指摘している。
餅のわかりにくさという点においては、柳田も鏡餅はなぜ丸いのか、吉凶のどちらにも用いられる餅の多面性、小正月の訪問者が餅をもらい歩くことが全国的であること、沖縄の餅の使い方には本土とはかなりちがいがあることなど、餅が負っている意味のわかりにくさに対してやはり疑問を呈している。このように餅は決してわかりきったものではないのである。この点で柳田、折口の両者は共通の認識をもっていたのである。
たとえば「赤色の儀礼食」であつかったように、なぜエエモチと悪い餅としてのアカアカモチがあるのか、同じようになぜ吉事の赤飯と凶事の赤飯があるのか。凶事の赤飯の例も全国各地に類例があるし、白い餅に対する色つき餅や餡をつけた餅も全国に例がある。こうした吉と凶のどちらにも餅や糯米が使われるのはなぜか、柳田も疑問にしている((45))。
柳田は正月に餅が関係あるのはもちろん、その他に村の社の祭典の鏡餅、家の新築の際の棟上の餅、婚礼、誕生の祝いの餅などがあってすでにこれらに餅をつかう共通の理由がわからないとした上で、つづけて「更に四十九餅だの耳塞ぎ餅だのと名づけて、凶事の折にも之を入用として居るのである。沖縄は早く別居した我々の兄弟だが、爰は極端で吉事には餅が無く、正月にも又餅が無い。鬼餅と称する12月8日等、季節々々の先祖祭の時などに、主として此食物は調整せられて居るのである」として、餅をいつ搗くか、何のために搗くかといった質問は、決してわかり切った愚問ではないとしている。
柳田の関心の持ち方、何を問題とするかといった追究の態度はまことに鋭いものがある。この柳田の抱いた疑問の中には、餅と正月の関係の歴史が凝縮されている。沖縄における餅の特異性もこの歴史の経過のなかで考える必要がある。つまり餅に神聖な価値がつく以前に稲作とともに沖縄へ餅の習俗は伝播したのである。これについては稿を改めて論ずることになろう。
餅のゆくえ
餅は決してわかりきったものではない。それどころか根本的な問題として、なぜ餅が各種の行事で使われるのか、その時、餅にどんな意味を負わせているのかが探究されなければならない。そのわかりにくい餅をケガレの餅、ケガレを託して運び去る器としての餅と考えると展望が開けるのである。
「神体に近い」という折口の理解は供物であるというよりも、より本質に近づいたと思う。さらに「神体に近い」と折口が感じるほどの存在としての餅とはいったい何か。それはケガレを託された器としての餅というのが私の理解である。
折口信夫は「国文学の発生(第三稿)」で「(新嘗の夜に)かうした夜の真のおとづれ人は誰か。其は刈り上げの供を享ける神である。其神に扮した神人である((46))」として、新穀の供えは、神に扮した神人に対して行われるという。「刈り上げの供」「新穀の供え」とは餅や米である。神に扮した神人とは小正月の訪問者である。そうすると小正月の訪問者へ餅を与えるというのは元の形を反映したものであるということになる。折口のいう真のおとづれ人、供えを享ける神、つまり小正月の訪問者にケガレを託した餅をあずける。その餅のゆくえは先祖であり、祖霊であり、そして太陽に働きかけることができるもの、それは祖霊信仰がたどりつく鬼神への方向なのである。