ケガレの起源と銅鐸の意味 岩戸神話の読み方と被差別民の起源 餅なし正月の意味と起源

ケガレの起源は射日・招日神話由来の余った危険な太陽であり、それを象徴するのが銅鐸です。銅鐸はアマテラスに置換わりました。

ケガレの起源と銅鐸の意味46 正月行事にひそむ射日・招日神話1 桶が重要であること

2016年10月28日 09時23分39秒 | 日本の歴史と民俗
   第3章 正月行事にひそむ射日・招日神話
   1 桶が重要であること

ウケフネと桶 
 前章では正月行事の中でのさまざまな場面で、もともとケガレを祓うことを意味する行為があったことを、事例をあげて説明してきた。ではケガレはなぜ祓われなければならないのか。なぜ正月行事にケガレ祓いがこのようにくり返し、念入りにおこなわなければならないのか。それは至浄の正月を迎えるためである。至浄の正月を迎えるとは、我らが望む穏やかなひとつの太陽を迎えることである。つまり、至浄の正月とは至浄の高天原の再現なのである。複数の余った危険な太陽を鎮めて、我らの望むひとつの太陽を迎えるのが、射日・招日神話の、そして高天原における天岩屋戸神話の表現するところである。それを地上にも再現して至浄の正月を作り出そうとするのが正月行事である。正月に行なうから正月行事ではなく、正月を迎えるための行事だったのである。正月行事をそう位置づけると、桶の重要性も自ずと浮かび上ってくる。そして桶あるいは桶と似たようなあつかわれ方をする樽、手桶、臼などが用いられる行事も同じく、天岩屋戸神話、そして射日・招日神話にさかのぼるものであると考えられる。
 桶が重要なのは天岩屋戸神話におけるアメノウズメが踏み鳴らすウケフネに起源があるからである。ウズメはウケフネを踏み鳴らすことによって太陽を鎮め、ひとつの太陽を呼び出したのである。
 ではまず『日本民俗大辞典』から「としおけ 年桶」を引用する。
正月にまつられる年神への供物を入れた桶。三方(さんぽう)に盛って供える形式より古い形式を伝えている。(略)主に兵庫県・岡山県・鳥取県でみられ、さらに島根県にもあり、分布の中心は中国地方の東半分。桶の中には米・餅・串柿・栗・カヤの実などが入れられるが、なかには1年間もうけたお金を入れるという兵庫県宍粟郡波賀町上野のような例もある。(略)これ自体が神聖な祭祀対象になっている例も多い。

 同じく大辞典の「としがみ 年神」にはつぎの記述がみえる。
年神(年桶)を11日まで神棚と同じようにまつり(兵庫県朝来郡朝来町多々良木)、このような年神をトシトクサマ、トシトコサン、正月さまなどとも呼ぶ。オイエ(居間や台所)の年棚に年桶をご神体としてまつる土地が多い。

 桶の重要性はいっているが、なぜ年桶が神聖な祭祀対象だったり、ご神体として祀られたりするのか。それについては大辞典には何も書かれていない。この章では各地の事例を検討し、桶がなぜ重要なのかを考えてみよう。

正月行事で桶がどう使われるか
 では『正月行事』全4冊の中から桶が使われている例を見ていこう。
 事例1 島根県島根半島2-19
棚桶 正月に餅を桶にいれて飾るという地方は、中国地方の東半に広くゆきわたっており、(略)そのうち〔坂浦〕では、現在、はなはだ形式化し、ただ歳飾りの下に置いてあるだけであり、中には、桶の中には何もいれず、この上にお鏡を供えたりしている家さえあるが、それでも、家によっては、これに手を触れることを非常にいやがるむきがある。現にこのたびも、写真を写すためすこしずらそうとし老媼からとても怒られたのであるから、やはりただの桶とは考えていないむきがある。(略)(棚桶の)中には米1升・餅1重ね・永銭などをいれ、まわりをシメで囲って結び、モロモキ(うらじろ)をつけ、今ではこれに伊勢の大麻をさす。疑うべくもない、この棚桶こそ依代である。

 「これに手を触れることを非常にいやがる」とか「すこしずらそうとし老媼からとても怒られた」という年桶である。この事例ひとつとってもたんなる桶ではないことがわかる。記録担当者の石塚尊俊は棚桶は依代であると断定している。
 事例2 岡山県真庭郡新庄村2-60
餅搗き 餅は通常、オオガエ餅、オイワイとよぶ歳桶にいれる2升5合分のお鏡餅二重ねと、ハマ、オイワイとよぶ小さな鏡餅をまずつく。ハマは神棚の数だけと、歳桶にいれる十二重ねをとる。その他、昔は親族と、嫁や婿が親元に年玉として持っていくオイワイをとっていた。

 歳桶には鏡餅二重ねを入れる。それと十二重ねのハマといわれる小さな鏡餅を入れる。であれば歳桶はやはり重要である。ハマとは上記によると、小さな鏡餅のことをいう。鏡餅はケガレの太陽であるからハマもケガレの太陽ということになる。そうすると話は横へそれるが、ハマイバ、破魔射場とはケガレの太陽としての餅を射るところとなる。ハマイバについては稿を改めて論じることになる。オイワイである鏡餅を親元へ持っていくのは祖霊信仰にかかわるとの見方は『散歩の手帖』27号の「餅の一方向性」で述べた(「40」)。
 事例3 岡山県真庭郡新庄村2-63
歳神の棚の飾り 歳桶には米1升を底に、その上にオオガエ餅といわれるオイワイとするめ、栗、田作り、昆布、家族の数だけの柿、およびハマと呼ぶ小さなオイワイ十二重ね(閏年十三重ね)をいれ、柴、豆がら、シメのコをつけたシメを張る。

 事例2にもあるように、オオガエ餅とはオイワイであり、鏡餅である。徳島県では小正月の訪問者の行事のことをオイワイソと呼ぶが、これも鏡餅の意味からでているのかもしれない。そしてハマというのは、小さなオイワイである。ということは小さな鏡餅であるから、やはりここでも、ハマとは太陽のことであると再確認できる。事例2でもそうだが、ハマを12個作るとは12ヶ月分であろうから、12ヶ月の太陽の平穏であることへの願いであろう。だから閏年には十三重ねとしている。しかしこれは、太陽の数が複数であったとする射日・招日神話がもとであれば、余った危険な太陽としての12個あるいは10個がもとの形だったであろう。それらの太陽はアメノウズメの踏み鳴らしたウケフネである歳桶にこそ入れられるべきである。柳田の提出しているハマイバ、破魔射場の謎はこれで解けることになる。
 事例4 岡山県笠岡市陸地部2-94
シメ飾り 祝い鉢は年に1回しか使わないが、お鏡(お鏡餅)をいれる桶で、祝い鉢のない家ではハンボウか膳にいれて歳神様に供える。

 事例5 岡山県笠岡市北木島2-107
餅搗き まず鏡餅をつくが〔丸岩〕では、歳桶にいれてまわしながらもむ。

 まわしながら揉むことは、何かここでは特別な仕草なのだろうか。あるいは桶や臼のまわりを叩くことからの変化か。
 事例6 岡山県邑久郡長船町2-150
歳桶 〔八日市〕では、歳神の棚には大飾りをした。歳神にはたらの木、一むかえの餅(一重ねの餅)を月の数だけと、蜜柑、柿、かち栗などを祝いこむ。ただし、歳桶には米はいれなかった。庚申の年に、さいふを縫って歳桶にいれた。金に不自由しないためという。

 財布を歳桶に入れたのはケガレの象徴としての銭を表現しているのだろう。これもケガレ祓いである。50ページでもふれたが、投げられる供物としての銭については、なぜ銭がケガレの象徴であるか、稿を改めて検討する必要がある。

 事例7 岡山県赤磐郡吉井町戸津野、和気郡和気町吉田2-156
歳桶の中にいれるものは米1升、ほんだわら、鏡餅、小餅(月の数だけ)、柿、栗、するめ、えび、さいふなどでこれらのものをいれて歳神祭りに供える。

 事例8 岡山県和気郡吉永町田倉2-158
神棚の片隅(向かって左端)に歳桶をおき、米1升2合(閏年には1升3合)、お鏡一重ねをいれてふたをしておく。

 事例9 三重県志摩郡大王町波切3-145
大みそか お鏡を供える場所は床の前で、ユリという檜材を薄くはいで円形にした曲げ物に、直径7、8寸の物から1尺4、5寸のお鏡をのせる。(略)三方を使う家も増加してきたが、ユリを使うというのがここの古来からの風習である。

 そのユリも檜材の曲げ物ということからして、元は桶だったのではないか。さらに樽、手桶、臼も本来は桶だったと考えられる事例を次に3件と小野重朗の採集した例を記す。
 事例10 岩手県大船渡市立根町4-40
里帰り 嫁いできてから3年ぐらいの間は里帰りをする。里帰りの礼には、鏡餅3升のもの一重ね・魚2匹(メヌケ、またはキツジなどの赤い魚)・酒1升を樽にして持参する。

 事例11 徳島県阿波郡阿波町3-18
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strong>餅つき 女2人か3人が1組となり手桶を中に置き、大きなささらを持って、餅つきのまねをして手桶を打ちながら周囲を回り、伊勢音頭を歌い後に謎かけなどをする。もらった餅はその手桶に入れてつぎへいく。

 事例12 三重県志摩郡大王町波切3-144、船越3-132
オヤノタル 餅つきのとき、3臼めくらいのときお重ねをつくり、嫁が生家の親へお祝いに持っていくことをオヤノタルヲタテテクという。
船越では昔はオジダル・オバダルといって叔父叔母にもタルモチを贈ったものであったが、今はオヤダルさえもなくなった。

 事例10、11、12は『散歩の手帖』27号で事例31、51、53として紹介している手桶と樽である。そして今回の事例1は『正月行事』2の島根半島から始まっているが、桶ではなく臼ならば『正月行事』1の中でも登場している。当初は臼の意味に気づかなかった。桶にこそ意味あり、と思っていたのだが、小野重朗の「南九州の正月仕事始め儀礼―山ノ神信仰の展開(「41」)」に出会って、桶が南九州では臼に替わっていることに思い当たり、臼の重要性にここで気づいたのである。臼について詳細は稿を改めてさらに検討を重ねたいが、ここでは臼も桶の役割をしていることだけを小野による次の事例で確認しておきたい。
 ⑦串木野市羽島・海士泊の臼オコシ
旧の大晦日に、臼を洗って、その中に枡に米・餅を入れたものを入れ、ユズリハ・ウラジロもそえて入れ、テギネ2本をその上におき、その上から大きいミを下向きにして被せる。これをウスを寝せるという。正月2日にはこのねせてある臼を起こす。2日は起きるとすぐ男主人が土間に下りて臼に被せたミをどけ、テギネで臼の縁を2つ3つコツコツと叩き、ミをもってふるう真似をする。これらはアキホウに向いて行なう。そして米や餅はだして2日に食べる。これをウスオコシといい、今でもやっている家が多い。
 この行事も永い時間の経過を経て変化や脚色が加わっているが、要は米・餅を桶に相当する臼に入れ、アキホウに向いて臼をコツコツ叩き、そのあと米・餅を出して食べるのである。つまりケガレの太陽を象徴する米・餅をアメノウズメの踏み鳴らしたウケフネに相当する臼に入れて、アキホウといわれる歳徳神のつかさどる方角に向けてコツコツ叩き、つまり「踏みとどろこし」、臼から出してケガレを運び去ることになるのである。そうとう変形はしているが、天岩屋戸神話へさかのぼるのである。これと同じようなウスオコシの行事が南九州のあちこちに点々とみられるとして、小野はほかに6例を紹介している。『正月行事』1でも鹿児島県のところで、 臼起しは大隅半島中央部で非常にさかんだったと報告している(「42」)。
 事例13 埼玉全地区4-121
甘酒祭り 狭山市奥富の梅宮神社の甘酒祭りは、2月11日に行なわれるが、10日は夜宮で、杜氏と呼ばれる頭屋が領主と氏子を招いて甘酒による酒宴を開く。(略)11日の本祭りは、(略)新旧頭屋の引き継ぎの頭渡しが行なわれ、その後は謡となり、神社での祭典は終了する。これについで、昔酒を醸したとき使った大樽がみこし形に飾られ、これをかついで中を夜ふけまでねり歩く。この祭りに特定の祈願はなく、五穀豊穣の祈願と考えている。

 「新旧頭屋の引き継ぎの頭渡し」というのは新年を迎えるという意味である。大樽をかついで「中を夜ふけまでねり歩く」のはケガレとしての余った危険な太陽がかつては入ったと見なされたであろう樽であり、その太陽を夜を徹して鎮めているのである。甘酒は粥、雑炊、シモツカレと同義であり、これもケガレを意味している。つまりこの祭りもオビシャ、オコナイなどと同様、新年を迎える行事である。甘酒祭りになったのは後の変化だろう。粥、雑炊、シモツカレとの甘酒の見た目の類似、そして樽が使われていたことによる酒の醸造との共通性が甘酒をみちびいたのであろう。
 このように年桶、歳桶、棚桶などの桶、さらに手桶、樽、臼、これら正月飾りに使われる桶が重要であること、桶がアメノウズメの踏み鳴らしたウケフネに起源があることが明かになったと思う。この桶は正月飾りばかりではなく、弓神楽の場でも重要な役割を負っている。『散歩の手帖』25号の「3章 弓神楽から天岩屋戸神話へ」で紹介した、広島県に伝わる弓神楽である(「43」)。
 弓神楽の中核をなす土公祭文では、神座の前に揺り輪(半切り桶)を据え、その上に弓を結びつけて、神職が打ち竹を持って弦を叩きながら祭文を読誦する。その揺り輪、半切り桶こそアメノウズメの踏み鳴らしたウケフネであり、したがって弦を叩くのはケガレの太陽を鎮めて、望ましきひとつの太陽を呼び出そうとする行為である。
 その揺り輪であるが、滋賀県の湖北ではオカワのことを「ユリワ」と呼ぶところもあるという。「ユリワ」とは事例9の「ユリ」、檜材の曲げ物という「ユリ」に相当するだろう。そしてオカワは『日本民俗大辞典』「オカワ」によると「供物として大きい丸餅を調整する際に、形状を固定成形するために用いる円形の枠」である。そして湖北地方ではオカワは重要視されており、「おこないの最後に成形した餅からオカワを取り外し、縄を巻いて整えて、次の頭屋宅の床の間や座敷の正面に飾り、翌年のおこないまでまつっておく。翌年のおこないは飾ってあるオカワを取り外すことから始まる。オカワが頭屋から頭屋へと永続的に継承され、おこないでまつる神仏を象徴するものとなっている」という。このように広島県の弓神楽で使われる揺り輪と同じ名をもつ湖北の「ユリワ」とも呼ばれるオカワは供物としての丸餅の成形に使われる円形の枠である。また年々引きつがれる象徴的な存在でもある。つまりオカワもまた桶と同じ意味をもつものであり、ウケフネにさかのぼるのである。

桶に何を入れたか
 つぎに、これらの紹介した13の事例から、桶、樽、手桶、臼の中に何を入れているか、振りかえってみよう。その内訳は以下のようである。
鏡餅7件、 餅5件、 米4件、 財布・銭3件、 その他3件。
その他の内訳は蜜柑、柿、赤い魚、栗、ほんだわら、である。
 これらの内訳は、実はケガレの象徴である。その他のなかの蜜柑、柿、赤い魚は小豆の赤に通じると考えられる。桶とこれらの内容物との組合せはこれまで述べてきたように、ケガレ祓いと密接な関係があることは察せられるであろう。
 では何の桶なのか。なぜ重要なのかと問えば、すでに述べたように、天岩屋戸神話の中で桶とは何であったかを振り返ればいいのである。この桶はアメノウズメがそれに乗って踏み鳴らしてケガレの太陽を鎮め、望ましきひとつの太陽、つまりアマテラスを呼び出そうとしたウケフネである。だからケガレの太陽としての鏡餅や餅、米を入れるし、やはりケガレを象徴する銭、それと関係の深い財布、それに赤い魚、蜜柑、柿など小豆の赤色からの連想としての赤い食べ物も同じく桶に入れるのである。ほんだわらや栗はのちの変遷であろう。
 『散歩の手帖』27号でも引用したように、折口は鏡餅を供物ではなく神体に近いものと見ている(「44」)。神体に近いとは妙な言い方である。そして『日本民俗大辞典』「としがみ 年神」によれば「年桶をご神体としてまつる土地が多い」という。歳桶はそれほど重要とされていたのである。それはケガレの太陽としての鏡餅が入れられるから重要なのである。折口のいう神体に近いものという鏡餅である。そして起源が天岩屋戸神話にさかのぼり、アメノウズメの踏み鳴らすウケフネに相当するから重要なのである。しかしなぜ重要なのかがわからなかったために折口は「神体に近いもの」という妙な言い方に留めざるを得なかったのである。
 正月行事の数々が桶ひとつを取り上げても、天岩屋戸神話とつながることが理解されたと思う。そして天岩屋戸神話とはもとは射日・招日神話である。というわけで次は、射日・招日神話に直接さかのぼる正月行事について考えてみよう。