ケガレの起源と銅鐸の意味 岩戸神話の読み方と被差別民の起源 餅なし正月の意味と起源

ケガレの起源は射日・招日神話由来の余った危険な太陽であり、それを象徴するのが銅鐸です。銅鐸はアマテラスに置換わりました。

ケガレの起源と銅鐸の意味42 小豆 ケガレの象徴として

2016年10月08日 10時11分26秒 | 日本の歴史と民俗
   第2章 赤飯その他にみるケガレ

赤飯にみるケガレ 事例7~9
 事例7 これには『森の神々と民俗』で取り上げている烏勧請を引用する。
小浜市平野では、3月10日に桜神社で弓打ちの神事を行ない、そのあと社殿横の田の神社・山神社・天照皇太神社の屋根に赤飯を供える。烏に赤飯をほどこすこの献饌のことを「カラス」と呼んでいる。ビシャがすむと当屋のひきつぎを行なう((23))。

 赤飯には小豆(またはささげ)を使う。だから小豆が負っているケガレの象徴としての民俗的意味を赤飯もそなえているのである。その赤飯を屋根に上げてカラスに与えるとは、ケガレの運び手であるカラスにケガレの象徴である赤飯を差し出すのである。それを屋根に上げるということは、屋根に上げる行為もまたケガレ祓いだからである。屋根に上げる行為については第2章の「2 供物を投げる、屋根に上げる」で検討する。弓打ちの神事自体がケガレ祓いを意味する。
 事例8『イモと日本人』から引用する。
群馬県邑楽郡板倉町海老瀬北、元日の朝暗いうちに分家の者はイッケの本家へ赤飯を持って挨拶に行き、赤飯を先祖様(仏壇)に供えてもらう。本家からはお返しに里芋をもらい、それを持ち帰って煮てから分家の先祖棚に供えたという((24))。

 なぜ元日の朝暗いうちに本家へ行かねばならないか。事例6の団子を夕飯のときに食べること、残しても鶏鳴時より前には食べ終わるべきこと、と同じである。朝、暗いうちにということは太陽が出ないうちに、ケガレの太陽を象徴する米・糯米由来である赤飯、それに混ぜた小豆を始末するという意味である。その始末する先が本家であるのは、本家へ持っていくことが祖神、鬼神への方向性をもつからである。『散歩の手帖』27号第2章の「餅の一方向性」を参照のこと((25))。
 
片品の猿追い祭
 事例9 群馬県片品村花咲の猿追い祭り
各集落から選ばれたサカバン(酒番)、ヒツバン(櫃番)と呼ばれる当番が東西に分かれて拝殿の前で一列に向き合って並び、杓文字で赤飯を投げ合う。赤飯投げが済むと拝殿に上がり、謡がうたわれる。それが終ると、本殿の奥にひそんでいた白装束の猿役が大きな幣束を持って外へ駆け出し、社殿を右回りに3回まわる。ヒツバン、サカバンが猿を追うが絶対に追い越してはならない。猿役は鍛冶屋、山崎の2つの集落にすむ星野姓の家だけに限られる

 『日本民俗大辞典』上巻「せきはん 赤飯」(板橋春夫)の項に、祭りの中で赤飯を投げ合うという片品の猿追い祭が紹介されている。これも赤飯がケガレを象徴していることの痕跡と考えられる。群馬県片品村花咲の猿追い祭である。インターネットのweblio辞書の用語解説で片品村の猿追い祭を検索したら、文化庁の国指定文化財等データベースが出てきて、「片品の猿追い祭り」があった。事例9はそれを引用したものである。
 ほかに見た2、3のホームページを合わせるとこの祭りは猿の害をふせぐために始まったということになっており、白い大猿が作物を荒らすので退治するという話もある。最後は猿役が社殿に入って幣束を納めて祭りが終るという。このように、祭りの展開を見たかぎりでは猿の被害よけに起源をもってくるしかないのだろうが、よく見ると、この祭りの中には天岩屋戸神話の構成要素が詰まっている。
 なぜここでも赤飯がケガレを象徴していると考えられるのか。それは色をつけることによってケガレを表わすとともに、赤飯を投げるからでもある。赤飯を投げるのはケガレを祓う行為なのである。餅や米を投げる、撒く、屋根へ放り上げる、賽銭を投げるなどはケガレを祓うことを意味しているのである。ケガレとはカラスが運び去るものである。だからカラスに投げ与えるのである。これについては第2章の「2 供物を投げる、屋根に上げる」でとりあげる。なぜケガレは祓われなければならないか。それはケガレとは余った危険な太陽であり、旱魃、天候不順をもたらすからであり、それらは自然災異としてのケガレだからである。ならばこの祭りも射日・招日神話、それを継承した天岩屋戸神話に起源すると考えられる。

謡が入る意味
 では「片品の猿追い祭り」の一連の行為のどこに天岩屋戸神話が詰まっているだろうか。この祭りの要素を考えると、まず赤飯がある。その赤飯は投げられる。そのあと謡がうたわれる。そして突然猿役が現われて走りまわる。その猿役は追われるのだが、決して追い越されることはない。
 この一連の展開は天岩屋戸神話におけるスサノヲの暴虐によって引き起こされる暗闇と混乱を現わしている。高天原と葦原(あしはらの)中国(なかつくに)はそうしてケガレに満ち満ちた世界となる。そしてアメノウズメの踊り、アマテラスの復活、スサノヲの追放までを猿追い祭りはなぞっているのである。ではその赤飯と謡の意味を追究してみよう。
 ○ 赤飯  ケガレの象徴としての赤飯であり、この場合のケガレとは暗闇がもたらす騒乱、混乱である。
 ○ 赤飯が投げられる  投げられるのはケガレ祓いの行為であるが、それとともに、向き合って双方から投げ合うという動きに騒乱、混乱の状況が表現されている。これは「サバエなす」の状態でもある。
 ○ 謡がうたわれる  謡は次号のテーマ「反閇 音と足踏み」の「音」に相当する。音とは従来の解釈にいうところの神のおとずれを表わす音であり、ホトホト、コトコトなどの訪問者の来訪を告げる音でもあり、それから派生したと思われる声、大声、となえ詞、乱声、サバサバなどである。行事のなかで謡がうたわれる位置をみると、謡はそれらの音と共通の意味を持つと思われる。その音は何に起源するかといえば、アメノウズメの踏み鳴らすウケフネ、つまり桶を踏み鳴らした音である。赤飯、および赤飯投げで展開された騒乱、混乱が高天原の暗闇であり、そこへ登場するのが、アメノウズメのウケ踏み鳴らしである。謡が秘めた意味と、行事の中で謡が現われる頃合いは他の事例とも共通していることがわかる。

 たとえば67ページの第3章の「桶が重要であること」の事例13の「甘酒祭り」では、新旧頭屋の引き継ぎの頭渡しが行なわれたあとに謡がある。新旧頭屋の引き継ぎとは年が改まることである。年が改まるとは、我らの望む新たな太陽が迎えられることである。ということは射日・招日神話では余った危険な太陽が鎮められて、我らの望むひとつの太陽が現われるところである。つまりそれはアメノウズメが踏み鳴らしてアマテラスを呼び出すことを意味する。その踏み鳴らしの音から派生したものは、民俗行事の中にいろいろあるが、そのひとつが謡なのである。
 さらにもうひとつ例を示すと、79ページ第3章「2 射日・招日神話へさかのぼる」の事例12「弓取り式」である。弓取り式が済むと2組に分かれて謡の掛け合いが行なわれる。この弓取り式は射日神話そのものである。ケガレの太陽を射落として、つまり先の例でいえば、新旧頭屋の引き継ぎが終って、ということは赤飯の投げ合いが終って、謡が行なわれるのである。
 いっぽう、謡とはちがうが、『個人誌 散歩の手帖』27号で紹介した「アアタラシ((26))」も新春の祝いことばを述べてまわるのだが、謡と同じ意味づけのようだ。謡の起源もこのあたり、つまりケガレ祓いがすんで新年を迎える境い目に現われる祝言だったかもしれない。
 以上の3つの例にみるように謡は、
① p22 赤飯が投げられたあと。
② p67 新旧頭屋の引き継ぎのあと。
③ p79 弓取り式のあと。

 つまり①ではケガレが祓われたあと、これで年が改まる。②では頭屋が引き継がれたあと、これも年が改まる。③では弓取り式は日没後に行なわれる。これも夜が明ければ新たな太陽を迎え、年が改まることになる。
 いずれも年の改まりの境い目に謡がうたわれることになっている。わずか3件と少ないが、ここに何か意味を見出すとしたら、年の改まりに謡を置いているということなのである。その境い目とはアメノウズメの「ウケ踏みとどろこし」によってアマテラスを呼び出す、つまり年が改まる境い目である。ということは謡はウズメがウケフネを踏み鳴らした音に起源するのである。だから能の翁では反閇と謡が重要なのである。これははたして飛躍しすぎた考えだろうか。38ページ事例7であつかう「元旦の名ノリ」も同じ位置づけであり、一種の謡であるかもしれない。
 そしてなぜ猿なのか、それは猿女の君、アメノウズメへの連想である。これは尾張大國霊神社の裸祭を連想させる。猿は裸祭りにおける神男(しんおとこ)、神男はスサノヲである。裸祭りでは神男が境内から追い出されることによってケガレが祓われ、新年を迎えられる。これはケガレを高天原から追放する行為を模したものである。だからスサノヲと神男と猿役は同じである。追放されていくスサノヲは絶対に追い越してはならない。だから猿役も追い越してはならないのである。神男とスサノヲの関連については『散歩の手帖』25号に詳述している((27))。
 つまり赤飯投げはケガレ祓いであり、それはケガレの太陽を鎮めることである。片品の猿追い祭りとは天岩屋戸神話の再現なのである。いきなり猿役が飛び出してくるというのは、サバエなす状態、つまり高天原を暗闇と混乱に落し入れた状態を表わしている。この混乱状態こそ多くの祭りや神事の中で演出される騒乱や混乱、突然の場面転換の源と考えられる。そのあとアメノウズメがアマテラスという太陽を呼び出し、スサノヲは追放される。このスサノヲが猿役に相当する。スサノヲの追放はケガレを運び去ることを意味する。だから猿追い祭りでは、追放されるスサノヲとしての猿役を決して追い越してはならないのである。ではどうして猿なのかといえば、射日神話にのっとった太陽祭祀である鎮魂祭に奉仕したのは猿女君であり、猿女君の祖神はアメノウズメである。これらの連想が猿を呼び出したのであろう。天岩屋戸神話の構成要素が猿追い祭りには垣間見えるのである。『日本民俗大辞典』「せきはん 赤飯」の項ではさらに埼玉県児玉郡神泉村の飯台行事、赤飯を境内所狭しと投げ散らすという事例を紹介している。

雑煮、七草粥、五目飯、混ぜ飯などにみるケガレ 事例10~19
 これまで小豆、餡、赤飯を例にそれらが元はケガレを象徴するものだったことを検証してきた。さらに同じことは雑煮、雑炊、七草粥、シモツカレ、煤掃き団子、まぜ飯、五目飯などについても言えるのである。ふたたび『正月行事』から引用してゆく。
 事例10 鹿児島県薩摩郡甑島1-48
〔平良〕子供たちはこの神社(愛宕神社と水神社)のまわりから、マベノシバのはえている枝を折ってきて年寄りの人のいる家を訪れ、そこのイロリで持ってきたマベノシバを燃してまわる。マベノシバはパチパチと大きい音をたてて燃えるので、この音をおそれて鬼が入ってこないという。その家の人は子供に餅をやる。子供たちはこのようにしてもらった餅を持って集まり、自分たちだけで野原や庭先などで雑煮を煮ていっしょに食べる。
〔青瀬〕海岸にたくさんはえているダテク(ダチクのことで、大きなススキのようなもの)を切って集めてたくと、パンパンと音がする。これで鬼を追いはらうという。

 ダテクとはダンチクのことであろう。図鑑によるとイネ科ダンチク属で、暖地の海岸に群生することが多いという((28))。マベノシバばかりではなく、大きい音を出すことに意味があることはこれからもわかる。ほかに多くの集落ではほら貝を吹く。大きな音を出すことの意味はいずれも鬼を追いはらうこととされているが、一方、上甑村では鬼が餅を投げてよこす、餅を落としてくれるといった伝承になっている。このように対応のちがう鬼とはなんであるか。大きな音とは何か、といった疑問は『散歩の手帖』29号「反閇 音と足踏み」で詳述する。
 ところで事例10のどこがケガレを現わしているのかについて考えなければならない。餅をもらう子供たちは小正月の訪問者であり、ケガレを負った餅を運び去る役目である。野原や庭先で、その餅を入れて雑煮を作るのはなぜか。なぜわざわざ野原や庭先なのか。それは境界を想定してのことだろう。子供たちという小正月の訪問者がケガレの餅を境界で祓えやるのである。この行為にケガレを祓う意味が残存している。カラスが山という境界へケガレの餅を運び去るのと同じである。境界でケガレを祓う行為は、事例15と40ページ第2章の「1 餅を焼く意味」の事例9でもふれている。
 事例11 大分県東国東郡国東町1-128 元日
トシトコ様は年徳様で大黒天の像である。家の座敷か広間に、明きの方に向けてトシトコ棚を作り、一升枡の中に像を入れてまつる。できるだけ黒いと縁起がいいといい、掃除をしない。(雑煮には)餅は丸餅をそのまま入れる。そのときトシトコ様に上げるといって、鍋墨をちょっと餅につけたもの1個を入れる。
 ここでは鍋墨がケガレの象徴である。それをケガレを運び去る役目のある餅に負わせてトシトコ様に上げる。そのためトシトコ様もできるだけ黒い方がいいといわれるのである。鍋墨については第2章「3 墨塗り、煤掃き」で取り上げる。トシトコ様は年徳様であり、小正月の訪問者である。したがってケガレを運び去る役目である。一升枡の中に像を入れるというのは、一升枡が桶からの変化として使われているのだろう。桶とはアメノウズメがそれに乗って踏み鳴らす「ウケフネ」である。桶については第3章の「1 桶が重要であること」で取り上げる。つまり鍋墨をつけた餅を雑煮に入れてトシトコ様に供えるとは、墨、餅、雑煮、小正月の訪問者、これらすべてはケガレ祓いを担う要素でできているのである。

「雑煮」の名の由来
 事例12 大分県東国東郡国東町1-129
正月4日の朝は、正月の食べ残しをすべて入れた雑炊を作り、トシトコ様に供えてから家族で食べる。

 トシトコ様に供えてというのは、事例11と同様ケガレをトシトコ様に負ってもらうことのなごりであろう。食べ残しをすべて入れるというところにケガレの象徴をみることができる。要するに混ぜ飯、五目飯とも同じく、雑炊雑煮もいろいろなものを混ぜたり搗きこんだりして、ケガレの象徴を作ることなのである。シモツカレも同じである。シモツカレについては稲荷信仰と密接な関係があるので、稿を改めてとりあげる。そこで思い至るのは10ページ、柳田が疑問(12)でいぶかしがっている「雑煮」という正月らしくない名称である。「雑煮」とは食べ残しをすべて入れたり、いろいろなものを混ぜたり搗き込んだりして、ケガレの象徴を作ったことから出ているのであろう。

 事例13 鹿児島県肝属郡佐多町1-19 若菜打ち 
〔外之浦〕6日の夜、7日の夜明けに、七草雑炊に入れる若菜(多くは菜っ葉で、芹をつんできたり、ゴボウなども加えることがある)をまな板の上におき、すりこぎを持ってまな板をコンコンたたきながらとなえごとをする。(一部省略)

 6日の夜、7日の夜明けというのは、これも年とりの晩で、この時七草雑炊を作るというのはケガレを祓うのである。まな板をコンコンたたくのは叩いて出す音に意味があるからである。その音は反閇に通じると考えられる。反閇とはケガレの太陽を鎮める行為である。この行事は必ずまな板をコンコンたたく、この音をともなうのである。たんに雑炊に入れる菜をまな板できざむ音から出たのではない。反閇については『散歩の手帖』29号「反閇 音と足踏み」で詳しくあつかう。
 事例14 鹿児島県肝属郡佐多町(伊座敷の町では)1-20七草雑炊
7日の朝は七草を入れて、七草粥にあたるナナトコズシ(七草雑炊)を作って食べる。その年7歳になった男の子、女の子を持つ家では、子供の7つ祝いを盛大に行なう。7歳になった子供は晴着をきて、膳に椀をのせたものを持って近くの7軒の家をまわって七草雑炊を少しずつもらう。その家の人は子供に7歳になった祝いをいって、自家の七草雑炊をその食器に入れてやる。7所の雑炊をもらうからナナトコズーシというわけである。

 7軒の家をまわってケガレの象徴である雑炊をもらって歩く。つまりこれは祝いといっているが、それは餅に聖性を認め神供とされるようになって後の変化であり、それから子どもの行事となったのである。もとは村の家々からケガレを運び去り、至浄の正月を迎えるための行事なのである。これは柳田の説く「モノモラヒ」の行為に通じる。つまりケガレを集めて歩く小正月の訪問者からの変化型である。モノモラヒについては『散歩の手帖』27号でとりあげた。柳田の「モノモラヒの話」には、古くは餅を貰い歩いたとの習俗があり、それが何を意味し、なぜそうするのかと柳田は疑問を呈している(「29」)。

境界へ行って餅や雑炊を食べる

 事例15 鹿児島県薩摩郡甑島1-51 七日節句
〔瀬尾〕7日には女の子は思い思いに何人かずつ集まって磯にでて、小さいかまどを石で作る。そして流木を集めてまきにし、小さい鍋に七草の野菜と米とを入れて七草雑炊を炊いて、お互いに磯で食べて遊んだ。

 ここでは七草雑炊を磯で食べることに意味がある。事例10の「野原や庭先など」で雑煮を食べるのと同じく、境界へ行ってケガレを祓う行為の残存である。甑島の他の集落の例では、
 ○ 磯端でかまどを作り米を洗って七草を入れ、ナナトコゾースイを作り
 ○ たんぼの中で餅を煮て
 ○ 海岸や野原、空屋敷などに集まって雑炊を炊く
 ○ 山の近くや海辺にいき、弁当を持ってきて食べ、また自分たちでもご飯を炊いて
などと、いずれもわざわざ野外の特定の場所へ行って雑炊や餅、飯などを食べる。その場所とは磯、磯端、たんぼ、海岸、野原、空屋敷、山の近く、海辺と漠然としているように見えるが、これらは境界としての意味づけがされていると考えられる。子供のことだからあまり遠くへやることにはならなかったが、海岸、山の近くなど生活圏の外縁まで行って米または糯米由来の食物、つまりケガレの象徴としての食物を持ち寄ってケガレ祓いすることを意味しているのである。

 事例16 鹿児島県薩摩郡甑島1-52 ナナトコ雑炊
正月7日、7歳になった男の子も女の子も晴着を着て、近くの7軒の家の七草雑炊をもらってまわり、それを食べる。この粥のことを7戸からもらうのでナナトコ雑炊といっている。

事例14と同じ「モノモラヒ」に通じる習俗である。
 事例17 鹿児島県大島郡三島村1-111 十五日
〔竹島〕この日の朝の汁には必ず貝をいれ、野菜は大根、豆腐など5種から10種までのものを、みな賽の目切りに切って入れなければならないとされている。またこの朝飯に使う箸は、絶対に桑の箸でないといけない。そしてかりに他家に客にいっても、また自家に客がきても、桑の枝の曲ったなりに削られた箸でなければ、この日の朝食は食べないこととされている。

 粥とも雑炊ともいってないが、材料をみな賽の目に切って入れるとなっているので、粥や雑炊とほぼ同じものを想定していいだろう。それを桑の箸で食べなければならないとされている。桑の木は『散歩の手帖』25号の「桑樹と射日神話」の項で述べたように射日神話とは切り離せない木である。尾張大國霊神社の儺追神事の最後、的射神事における桑の弓でもある(「30」)。ケガレとしての余った危険な太陽を射落とすための桑の弓である。その伝承が広く存在していたことを感じさせる桑の箸なのである。

五目飯を食べる意味
 事例18 岡山県邑久郡牛窓町2-149
〔千手〕では、餅搗きの日はきまっていないが、暮れがおしつまってからつくことが多い。(略)餅搗きのあと、五目飯を食うのが親睦でもあった。しかし、これも67~8年前のことである。

 ここで五目飯というのは何気ないように見えるが、五目飯と決っていたというからには、たんなる親睦に食べるもの、ではすまないだろう。もとに五目飯と決めた意味、理由があったはずである。それは粥、赤飯、雑煮、雑炊などと同じであろう。つまり、飯や餅に他の食材を混ぜたり搗き込んだりしてケガレを表現していたといういきさつである。それゆえの五目飯とみるべきであろう。それはこれまでの17の事例が示している。先述したがシモツカレもそうである。シモツカレについては稿を改めて、稲荷社の起源との関係でくわしくとりあげる予定である。
 『日本民俗大辞典』上巻「ごもくめし 五目飯」では「混ぜご飯はもともと、日常の食事の補いにすぎなかった」「多くの農山村では節米が唱えられ、それぞれの土地で収穫される畑作物で米の足りない分を補うという食べ方が工夫されていた」として、五目飯は白米飯が足りないための補いとの解釈である。そうした面は現実問題としてあったであろう。しかし古くから粥や赤飯、雑炊など、飯になんらかの混ぜ物を入れる食物が年中行事や儀式と結びつき、それを食べる日がたとえば元日、4日、5日、6日、7日、小正月などというように決っていたのはこれまでの事例が示している。そうした慣習を考えると、たんに米が足りないからとか、日常の食事の補いという理解ではすまないのである。

日待ち
 事例19 岡山県和気郡和気町吉田2-163
(正月の)5日夜から6日朝にかけてお日待ちをしていた。終戦までは村中の男が子どもまで全員寄り合っていた。今は1軒から1人出る。5日の夜は夜通し起きて話をし日の出を拝む。混ぜ飯をして食べていた。費用はお日待ち用のたんぼがあり、それから出していた。

 ここでもケガレの象徴という意味を負った混ぜ飯なのである。日待ちはかつては重要な行事であった。『日本民俗大辞典』「ひまち 日待」の項によると、日待ちの特徴として、
 ○ 一夜眠らずに籠りして明かすこと。
 ○ 日の出を拝して祈ること。
 ○ いくつかの禁忌を伴うこと。
  日待ちに出席する者は出席前に必ず風呂に入らなければならない。
  庚申の夜は男女同衾(どうきん)をしてはならない。
  日待ちの日には仕事をせずに休み、精進料理を食べること。
などの決まりがあり、年始にあたっての大事な行事とされている。それはかつては村中の男が大人から子どもまで全員出席するものだったこと、日待ちにかかる費用を捻出するために専用のたんぼがあったということからも、いかに大事にされていたか推察される。それは日待ちがかつて新年を迎える行事だったからであろう。日待ちとは太陽を待つことである。一夜籠ったすえに日の出を拝む。そしてケガレを負ったとみなされる混ぜ飯を食べるところにケガレの太陽を祓った痕跡がある。たんに白米飯が足りないための補いではないのである。日待ちとはこれもまた射日・招日神話の残存なのである。射日・招日神話の残存については第3章でも取り上げる。

その他にみるケガレの象徴
 『日本民俗大辞典』(下巻)「だんご 団子」の項に「滋賀県愛知郡愛東町では祭礼の宵宮にヨミヤダンゴと呼ぶヨモギ入りの餅を作る」との記述がある。これもケガレの象徴と思われるヨモギ入りの餅である。しかも祭りの宵宮に作られる。宵宮とは『日本民俗大辞典』「よみや 宵宮」によれば、本来は神霊の降臨を仰ぐ祭りの中心であったと考えられている。「神霊の降臨を仰ぐ」という解釈には同意できないが、それはともかくとしても、祭りの本質が宵宮にあることはまちがいない。したがって祭りの本来の意味からすると、宵宮が中心なのである。それについては『散歩の手帖』25号第5章「1日の始まりは日没から(「31」)」で述べた。なぜその宵宮に団子を作るのか。それは団子がケガレの太陽の象徴だからである。射日・招日神話における余った危険な太陽がここでは宵宮の団子なのである。飯に混ぜ物をすること、団子や餅に餡をつけること、ヨモギを搗き込むことも、ケガレを象徴させるのである。
 そしてすでに『散歩の手帖』26号で取り上げた「コトノ箸オサメ」と「イノチゴイ」を振り返ってみよう。「コトノ箸オサメ」とは正月の祝いの膳に使った箸をコトノ箸といい、使ったあと屋根の上に放り上げておくという慣行である。そして「イノチゴイ」とは愛媛県に伝わる習俗で、2月8日にイモや魚の混ぜ飯を藁苞に入れ、カヤの箸を添えて屋根に上げるというもので、鳥(とり)がくわえていくと幸いとしている。これらもまたケガレを祓えやる行事であることはすでに述べている(「32」)。「イノチゴイ」の行事に作るイモや魚の混ぜ飯もケガレの象徴である。それらに用いた箸もケガレをおびるからケガレ祓いの行為として「屋根に上げる」のである。屋根に上げることについては、第2章の「2 供物を投げる、屋根に上げる」でもあつかう。
 赤い鯛を使うことについては『散歩の手帖』27号「小正月の訪問者と餅のゆくえ」で事例53として紹介しているが、もともと「赤色の儀礼食」からきている。『正月行事』4、大船渡市の「里帰りの礼には、鏡餅3升のもの一重ね・魚2匹(メヌケ、またはキツジなどの赤い魚)・酒1升を樽にして持参する」というもので、ケガレを象徴する赤色としての魚なのである(「33」)。
 以上のように、小豆も餅その他の米由来の食物もケガレの象徴であり、正月行事のなかでそれらケガレの象徴がさまざまに展開していくのであることが理解されたと思う。柳田の提示した小豆についての疑問にもほぼ答えは出たであろう。ただしそれらのケガレは現実にはケガレとして意識されていないのである。したがって、行事の中で明確に祓われることはない。そこで次章では、明確ではない祓いの行為が行事のなかでどのようなふるまいとして残存しているのか、いくつかの具体的な行動に沿ってケガレ祓いの様相をみていこう。

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