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ケガレの起源と銅鐸の意味 岩戸神話の読み方と被差別民の起源 餅なし正月の意味と起源

ケガレの起源は射日・招日神話由来の余った危険な太陽であり、それを象徴するのが銅鐸です。銅鐸はアマテラスに置換わりました。

数コラム(№43)2007年9月  8km  一の谷と鵯越との距離

2008年03月31日 09時14分11秒 | 数コラム
数コラム(№43)2007年9月
8km
一の谷と鵯越との距離
『地域社会からみた「源平合戦」-福原京と生田森・一の谷合戦』(歴史資料ネットワーク編 岩田書院 2007年)から引用していく。源平合戦で名高い鵯越の坂落し。鵯越は一の谷のすぐ背後と思っていたが、その認識は「『平家物語』が創り出した架空の合戦空間」で、実際の鵯越は一の谷から8kmも北東にある。しかも、搦手軍の総大将である義経は鵯越には向かわず、小野、三木、印南野に出て、西から山陽道を通って一の谷を攻め、別働隊が鵯越から攻め込んだのだった。その別働隊の「軍功が搦手軍の総大将である義経の軍功に置き換えられ」たのが真相だという。また鵯越には「坂落し」のイメージのような急峻な坂道もなく、「決して難所ではなく、六甲山の南北を結ぶ幹線道であった」(『兵庫史学』によるとの脚注)というから、ずいぶん印象が違ってくる。
それなら鵯越という地名は春秋の渡りの時、ヒヨドリの群が山を越えていく様子からおこった地名だろうか。鳴き交わしつつ数十羽のヒヨドリが山の起伏に添いながら稜線をすれすれに越えていく情景はめずらしくない。とすれば、鵯越、淡路島、四国という渡りのルートが考えられるかも。

数コラム(№42)2007年7月  40種  長塚節が詠った鳥

2008年03月31日 09時12分46秒 | 数コラム
数コラム(№42)2007年7月
40種
長塚節が詠った鳥
前回と同じく『長塚節全歌集』によった。野鳥で和名が特定できるものは、スズメ、クイナ、ホトトギス、ウグイス、カケス(かし鳥として出る)、ツグミ、フクロウ、モズ、カイツブリ、メジロ、アオジ、ヒバリ、ホオジロ、オオヨシキリ(よしきりとして出る)、ムクドリ、ヒヨドリ、オシドリ、ヤマドリ、ツバメ、ウソ、シジュウカラ、トビ、キジ、カワセミの24種。和名では出てこないが鳥種が推定できるものがトモエガモ(味村として出る万葉集由来の名)、シロハラ(木の葉返しとして出る)、ウミウ(鵜として)、カワラヒワ(唐鶸として)、マヒワ(鶸として)、キジバト(鳩として)の6種。それにカモ、サギなど種を特定できないが、総称として使われているのが、ツル、シギ、カリ、サギ、カラス、カモ、ルリ、タカ、ワシ、カモメの10種。合計40種。
小雀(こがら)、こがらめという名が5件出てくるが小鳥の総称、またはスズメの群として使っているらしい。特に変わった鳥は詠んでいない。鳥網や罠で鳥を獲る歌が5首ある。ほかにニワトリ、カナリヤ、オウム、ドバト、クジャクがあった。

数コラム(№41)2007年5月  185首  長塚節の鳥の歌

2008年03月31日 09時10分44秒 | 数コラム
数コラム(№41)2007年5月
185首
長塚節の鳥の歌
長塚節の歌のなかにはかなり鳥を詠んだものがあるらしいので、『長塚節全歌集』(佐藤佐太郎編 宝文館 昭和26年)を読んでみた。その結果、185首あった。これには野鳥のほかに飼鳥も一部含む。また鳥網、引板など、歌に鳥は出てこないものの関連するものとして取り上げておいた。鳳凰、剥製の鳥というのもある。佐藤佐太郎の編集覚書によると、歌数は長歌を割愛し、本編、補遺合わせて1898首というので、鳥に関する歌はほぼ1割になる。『万葉集』では川口爽郎によると鳥の歌の割合は1割3分、西行の『山家集』(岩波文庫)でも1割なので、多いほうかもしれない。近現代の歌人については調べていないので比較できない。多く詠われている順では、スズメ16首、ホトトギス15首、メジロ12首、モズ9首、ウグイスとオオヨシキリがともに8首、ウソ7首、ニワトリとヒバリがともに6首、ムクドリ5首などとなっている。
伝統的和歌の世界では、春はウグイス、夏ホトトギス、秋はカリ、冬チドリといったところがよく詠まれるようだが、カリは3首、チドリはなし。変わりにスズメ、メジロ、モズなどのごく身近な鳥を詠んでいる。

数コラム(№40)2007年3月  24種  『古事記』にでる鳥

2008年03月31日 09時09分03秒 | 数コラム
数コラム(№40)2007年3月
24種
『古事記』にでる鳥
『萬葉集の鳥』(川口爽郎 北方新社 1982年)の巻末の一覧表によると『古事記』には24種の鳥が出てくる。にほどり、う、さぎ、かり、くぐひ・くび、かも、たか、はやぶさ、うづら、きぎし、たづ、ちどり、しぎ、あめ、そにとり、ひばり、つつ、さざき、ぬえ、しとと、すずめ、からす、かけ・とり、やひろしろちどり。いっぽう『口語訳古事記 人代篇』(三浦佑之訳・注釈 文春文庫 2006年)の巻末、「動植物名索引」では、同一種の異名のものを統一してみると鳥の種類としては23種になる。川口説には「はと」が入っていないが、これは単純ミスらしい。三浦説には川口説にある「たか」と「やひろしろちどり」がない。「たか」は三浦説では「神人名索引」に「ヤマヘノオホタカ」として入れている。「ヤマヘノオホタカ」という鳥取りの男が白鳥を木の国から、諸国を追って追って、ついに越の国で生け捕りにした、という話で、タカがモチーフになっている。川口説はそれを「たか」として入れたらしい。それで合計25種になのだが「やひろしろちどり」は白鳥とも千鳥ともいわれるので、2種は出ているから除いて、計24種。

数コラム(№39)2007年1月  3658巣  野田の鷺山におけるサギ類の営巣数

2008年03月31日 09時07分39秒 | 数コラム
数コラム(№39)2007年1月
3658巣
野田の鷺山におけるサギ類の営巣数
かつて特別天然記念物だった浦和市(現さいたま市)の野田の鷺山。『野田の鷺山』(小杉昭光 朝日新聞社 1980年)によると1964年のサギ類5種、チュウダイサギ、チュウサギ、コサギ、ゴイサギ、アマサギの営巣数は計3658巣。この年から衰退がはじまり、8年後の1972年にはゼロとなり、同じ年にあたらしい鷺山が近くの三室に出来、100の営巣があったものの1978年にはこれも消滅。原因は森林や水田の減少、農薬の大量散布などによる環境汚染だという。
鷺の集団繁殖地は全国でいくつか天然記念物に指定されているが、「特別」がついたのは野田の鷺山だけだという。その理由として著者は三つあげる。①規模が大きい。1haの林に数万羽。②歴史が長い。享保以来の二百数十年間つづいた。③人家に密着している。農家の宅地林。しかし、衰退がはじまってわずか8年、近くに移ったのを入れても14年で消滅してしまった。1964年といえば東京オリンピックの年。高度経済成長まっしぐら、そして大都市近郊。その急速な変貌ぶりを反映している。

数コラム(№38)2006年11月  700羽  ウズラの捕獲数、2004年度

2008年03月31日 09時04分58秒 | 数コラム
数コラム(№38)2006年11月
700羽
ウズラの捕獲数、2004年度
ウズラの卵はスーパーにあるが、自然界のウズラは非常に減っている。筆者は探鳥をはじめて17年。地元でウズラを見たいと思っているが、まだ一度も見たことがない。『暮らしの中の野鳥記』(城野茂門 西日本新聞社 昭和47年)によると、ウズラの猟数は昭和10年に53万羽。それが昭和40年には11万羽に減っている。環境省の鳥獣関係統計によると、1970年代前半から急速に減り、1980年ごろに4万羽、90年ごろに1万羽、2004年には桁がふたつ落ちて、たったの700羽。こんな珍しい鳥をそれでも700羽も獲っているのかよ、おいおいと思うが、ウズラの性質上、探鳥ではなかなか見つかりにくいところが、猟では草叢にひそんでいるのを無理に追い立てるから700羽なのだろう。
環境省のホームページを見ると、鳥獣保護法の一部改正というのがあって、ウズラについては、「1日当たりの捕獲数の上限、5羽」というのを「削除」して「5年間の捕獲禁止」とし、平成19年6月1日より施行となっている。ようやく禁猟になって、まだしかも5年間の限定付き。この遠慮がちな改正はいったいどこに配慮してのことか。

数コラム(№37)2006年9月  70%  アオサギの初年度の死亡率

2008年03月31日 09時03分39秒 | 数コラム
数コラム(№37)2006年9月
70%
アオサギの初年度の死亡率
 野生において、巣立ちした幼鳥が成鳥まで育つことがいかに困難であるか。『生態学とは何か』(D.F.オーエン 市村俊英訳 岩波書店1977年)によると、北米のオオアオサギとイギリスのアオサギでの調査では、初年度の死亡率が70%に達するという。そのうちの多くは巣立って最初の6か月、つまり夏、秋、冬の前半まで、特に夏のあいだに多くの若鳥が死亡する。おそらく魚をうまく捕えられないためだろうという。冬の後半以後の死亡数はぐっと減る。成鳥の死亡数は月による違いはあまりない。
運よく初年度を生き抜いたら、その後、あと3年くらいは生きて、複数回の繁殖ができる。それでも合わせて平均4年程度しか生きられない。こんなに大型の鳥でもその程度なのだ。同書に掲載の年齢別の死亡数グラフをみると、10年、10数年、なかには21年という長寿もあるが、それは稀である。著者はいう「我々は死をとかく高年齢と結びつけて考えているが、これらの結果はいささか衝撃的な事実であろう」。つまり年老いてから死ぬものと思いがちだが、たぶんそれは人間だけ、それも先進諸国といわれる国々の人間だけなのだろう。

数コラム(№36)2006年7月  1,200頭  2004年、対馬のイノシシ捕獲数

2008年03月31日 08時58分37秒 | 数コラム
数コラム(№36)2006年7月
1,200頭
2004年、対馬のイノシシ捕獲数
 長崎新聞web版、2005年7月20日によると、対馬ではイノシシによる農作物被害が深刻化しており、2004年度のイノシシの捕獲頭数は1,200頭となり、前年の4倍にもなっているが、被害は減少していないという。
 さて、このイノシシの始め、元祖はなんだろう。8万頭余を駆除して全滅させたはずの対馬だが、柳田国男『孤猿随筆』中の「対州の猪」によると、殲滅作戦から数10年後にできた「津島記事」という書に「此島南端の豆酘郷(つつごう)の條には、産物として野猪を挙げ、稀々には今でも居ると書いてある」とのこと。柳田によると、対馬にはシゲという大小数多くの霊地があり、凡俗の立入りを禁じていた。今でも残っているほどの永年の崇敬の場所だったので、そういったところでは、畏れて見落しがあったのではないか、としている。
 また、イノシシはあのかっこうでも、案外泳ぎはうまいらしく、まれには対馬に漂着することがあるらしいという。「対州の猪」には2、3そういった例を紹介し、「今度(柳田が訪れる半月前のこと)の猪は朝鮮から、渡つて来たらうと土地の者は謂つて」いると記す。

数コラム(№35)2006年5月  8万頭  対馬で駆除されたイノシシの数

2008年03月31日 08時56分59秒 | 数コラム
数コラム(№35)2006年5月
8万頭
対馬で駆除されたイノシシの数
 1700年(元禄13)対馬藩は、イノシシによる農作物被害が著しいため、殲滅に着手。「全島を9区に分け、毎年冬期に1区ずつ猪を全滅する作戦で、この年に島の北端から始めて順次南下し、宝永6年(1709年)に島の南端に達して目的を遂げた。殺害した猪は8万頭余、人夫延23万人と猟犬延21780頭を要したという。」(『日本博物誌年表』磯野直秀 平凡社 2002年)。生類憐み令(1687年~1709年)時代の最中だった。
 『生類をめぐる政治』(塚本学 平凡社 1983年)によると、「生類憐み政策を、その時代の批判文献に依拠して、戯画化し、したがって非社会的・非歴史的に解釈すると、ひとより鳥獣を大事にした政策といわれたりする。それは正しくないと考える。農耕を妨げる鳥獣を、追い、殺すこと自体が禁止されたわけではなかった」という。
 ところで、全滅作戦の最後に「牝牡5組ばかりの猪鹿を舟に載せて、生きながら之を絶影島に放たしめたといふ話が伝はつて居る」という。これは柳田国男『孤猿随筆』の「対州の猪」による。絶影島は韓国釜山にあり現在は影島という。

数コラム(№34)2006年3月  262万枚  10年間で輸出されたイタチの皮の数

2008年03月31日 08時55分16秒 | 数コラム
数コラム(№34)2006年3月
262万枚
10年間で輸出されたイタチの皮の数
 前回と同じく『歴史と民俗16 神奈川大学日本常民文化研究所論集16』(平凡社 2000年)に収録の「現代のマタギ」(田口洋美)から要約。
 大正2年から大正11年の10年間で、イタチの皮が欧米向けに262万枚輸出された。欧米での需要の増大があってのことだが、市場があれば商人が動く、猟師も動くということか。まだ猟友会も、毛皮収集の組織もなかったころだ。
 それでもすでに、「軍は明治半ばから銃器や弾薬の民間払い下げを行って、狩猟を奨励していったんです。陸軍の兵器廠が1回で民間に払い下げた村田銃は、6000挺から8000挺」にもなって、「市場偏重型の狩猟」時代の下地はできていた。
イタチの皮262万枚、1年平均26万枚はどうやって捕獲されたのか、銃ばかりなのか、罠にもよるのか、わからないが、これだけの数を生み出した当時の日本列島の自然の豊かさが想像される。イタチには相当なダメージがあったのだろうが、いずれ始まる高度経済成長による自然環境の改変、破壊とは比較にならないだろう。