ケガレの起源と銅鐸の意味 岩戸神話の読み方と被差別民の起源 餅なし正月の意味と起源

ケガレの起源は射日・招日神話由来の余った危険な太陽であり、それを象徴するのが銅鐸です。銅鐸はアマテラスに置換わりました。

ほっとすぺーす(№53)2007年9月 野鳥が逃げ出す距離

2008年07月13日 09時14分06秒 | ほっとすぺーす野鳥をめぐって
ほっとすぺーす(№53)2007年9月
野鳥が逃げ出す距離
 探鳥をしているとき、気がつかずに鳥を飛び立たせて、「あっ、しまった」と思うことがある。経験上そんなことがよくある鳥は、山や森林なら大型ツグミ類、川ではサギ類、シギ類などがある。なぜ「あっ、しまった」なのかというと、これらの鳥はたいてい飛び立たせると、もう近くにはとどまってくれないからだ。スズメやムクドリくらいまでの小鳥類なら、飛び立ってもあまり遠くまで逃げずにいてくれる場合が多い。かえって見やすい位置に移って、ありがたいことさえある。それに小さい鳥ほど警戒心がうすいのか、あまり逃げないが、中型、大型の鳥ほど一般にこちらを寄せつけたがらない。
そこで飛び立たせてしまう限界の距離は鳥種によってどう違うのかを考えてみよう。この場合、目的の鳥がいて、身を潜めたり、じわじわと近づいてゆくといった特別の状況は考えない。特に注意をはらわずに、でもゆっくり静かに歩いているとする。繁殖中の鳥や人馴れしているらしい鳥の場合も別にする。数字はすべて目測、大雑把なものだが、一応の目安にはなるだろう。
 まずアオサギの場合、こちらが普通に歩いて近づけば、ひらけたところでは50~60mか、それ以上でも逃げる。間に草むらなどがあって、こちらの姿が隠れている場合は20m以内くらいまで近づけるが、じつはこの場合でも草のすき間から覗くと、向うもすでにこちらを警戒していて、つぎのこちらの動き次第ではぱっと飛び立つ。上空を飛んでいるときでも、あまり高くないとき、10数mだろうか、こちらの上空に達した直後「あんたの上なんか物騒で飛べないよ」と言わんばかりに、わざわざ進路をカギの手に変えてギャッと声まで出して飛び去ってゆくことがある。ほかの鳥ではここまであからさまに避けるのを見ることはないのだが、アオサギの場合はよくある。
 ダイサギやコサギはアオサギに比べるといくらかは近づきやすい気がする。ササゴイになると20~30mくらいで逃げることがよくある。
 オオタカやノスリは飛び立ってそれと気づくと、50m以上はあるし、100mくらいあるときもある。カラスも街中のは別にして、河川敷などひらけた環境では50mくらい離れていてもそわそわし出す。双眼鏡をかまえると逃げる。
 中型の鳥では、たとえばキジバトは、山の中で出会うとすぐ逃げる。ふだん開けたところで見るキジバトよりも山中にいるキジバトのほうが人を寄せ付けないという印象がある。ただそれが、同じ個体でも山の中にいるときと、そうでないときとで違いがあるのか、その点はわからない。というのは、山が浅い草花丘陵の場合、開けたところと丘陵の中を行き来するだろうから。もっとも、キジバトは山バトともいうが、そのわりには山中にはあまり入らない。
キジバトといえば、草花丘陵の山道を歩いていて、小さいアップダウンがあり、登り道がせりあがっていてその先の下りが見えないとき、こちらが道を上がっていて、先の下りが見えてきた瞬間に、あわててそこにいたキジバトが逃げ出したことがある。ほんの3~4mで、ふだんならとうに逃げている距離だ。こちらはかなり無造作に歩いていたから、気配でわかりそうなものだが、直前までそのキジバトには人が見えなかったわけで、やはり鳥はおもに目で判断しているのだろう。
アオバトはキジバトよりもずっと警戒心が強い。たいていは遠くに声を聴くだけで、山でも丘陵でも近くで見ることは滅多にない。
ほかに中型の鳥といえばキツツキ類のアオゲラ、アカゲラ、オオアカゲラはやはりあまり近づけない。コゲラなら数mまで近くに来るし、近づける。カッコウ類はどれも相当近寄りにくい。こちらから近寄るというよりも、たまたま近くに来てとまってくれるのを幸運と思うしかない。
バンやオオバンは筆者のフィールドでは釣り人もよく入っているから、人馴れしているかもしれないので、あまりよくわからない。30mくらい離れていてもさっと水面上をひっかいて逃げてしまうこともある。
カイツブリが、繁殖期にはわりあい近距離で見られていたのに、冬場、本流に集まった群のほうへ近づいていくと、まだ50m以上離れていてもいっせいにもぐってしまい、もっと遠くで水面上に顔を出すので、近寄るのがむずかしくて苦労したことがある。それは何年か前、越冬の個体数と夏羽への移行の様子を知るために、数えていたときのことだった。8倍の双眼鏡しか持ち歩かないので、近づかなければならず、鳥には迷惑だったかもしれない。
 森の大型ツグミ類といえばアカハラ、シロハラ、トラツグミ、クロツグミ、マミジロなどだが、こちらよりさきに気づかれて、遠くへ飛んでしまうことがよくある。これらは小鳥類より近づきにくい。それは、カラ類のようにたえず鳴いて早めに存在が知れる、ということがないので居場所がわからないからだ。ただ比較的ひらけた環境で越冬生活をするツグミはやや近づきやすい。
 ツグミで興味深いのは、日の出前のまだ薄明のとき、多摩川の堤防の道を自転車で走っていると、路上に下りているツグミがいて、自転車がすぐ前、それはもう2~3mのところまで近づいて、あわやひいてしまうと思うところで、ようやく逃げ出すことだ。それがどうもモタモタしていて、なんだかよく見えていないように感じられる。ツグミは夜間に渡る鳥だというから暗くても見えるはずだし、だいいちまだうす暗いのに路上に出ているということは、すでに塒を離れて、たぶん採餌しているのだろうから、見えているだろうに、なんで直前まで逃げず、あわてて「おっとっと」となるのか、わからない。
 同じことはアオジでもよく経験している。草花丘陵の浅間岳の登り口から、まだうす暗い山道を歩き出すと、もうアオジが路上に出ている。まだアオジの色もわからない、黒いかたまりくらいにしか見えない暗さだ。こちらが進む先々であわてたように飛び立つが、それは足元からたった1mくらいしか離れていない。極端な話、踏んづけてしまいそうだ。明るい時間帯ではこうした経験はない。
カラ類でもそういう経験はしたことがないが、もっとも身近に来て、親しい存在はやはりカラ類だろう。
 なかにはぎりぎりまで逃げないで、ヤブにひそむのを得意とする鳥もいる。そこで、
つぎのテーマは、ぎりぎりまで逃げない
 よほど自分の保護色に自信があるらしい。

ほっとすぺーす(№52)2007年7月 影こんこんと溯り

2007年10月13日 14時29分08秒 | ほっとすぺーす野鳥をめぐって
ほっとすぺーす(№52)2007年7月
影こんこんと溯り
 また俳句からはじまる。
  翡翠(かわせみ)の影こんこんと溯り  川端茅舎
 カワセミの句としてこの句はかなり有名らしい。歳時記にも載っている。が、この句について、カワセミが川の上を上流へむかって飛んでいるので、その影がいっしょにさかのぼっていく、と解釈するひとが案外多いかもしれない。『鳥のうた-詩歌探鳥記』(八木雄二 平凡社 1998年)の215ページでもそう解釈している。しかし「ちょっとそれはちがうんじゃないか」と思うので、試みにインターネットでこの句を検索してみた。その結果、作品自体の紹介はかなりあったが、解釈までしてみせているホームページはひとつしか見つからなかった。というか、疲れるのでいくつか見ただけでやめたのだが、そのうちではひとつしか見つからなかった。ネットの探索は憔悴する。そこでもカワセミは飛んでいるらしい。飛んでいるとも止まっているとも言ってないのだが、そもそも止まっているという解釈は前提にないらしい。
しかし、あっという間に一直線に飛ぶカワセミを見続けることなんかできない。ましてその影なんて探しているうちに、当のカワセミはいなくなってしまう。飛んでいるカワセミを「こんこんと」などと表現できるものではない。
 だから、茅舎のカワセミは止まっている。水面に張りだした木の枝か草の茎か、あるいは水底に打たれた杭かもしれない。そこにカワセミは止まっている。水面に映ったカワセミの影を茅舎はみつめている。すると、視線は流れ下る方向へ引っ張られていく。それをなおカワセミの影にとどめようとすると、カワセミの影は反対に溯っていくように見える。そこを断定的に「溯り」と言い切ったのだ。それで「こんこん」という表現になるのだろう。この句の核心は「こんこん」のところにあるにちがいない。
 『日本国語大辞典』で「こんこん」を引いてみる。献献、懇悃、昏昏、惛惛、滾滾、渾渾、混混、懇懇、悃悃。酒を何度もくみかわすこと。ねんごろなこと。おろかなさま。うつらうつら。深く眠っているさま。水など液体が盛んに流れて尽きないさま。泉が尽きることなく湧き出るさま。物事の尽きないさま。入り乱れるさま。親切に繰り返し言うさま。雨や雪、あられなどの降るさま。
それぞれ意味が違い、使う場面も違う。しかし、おなじ場でその動作や状態が繰り返される、という共通した意味をふくんでいる。それが「こんこん」の本質らしい。それは水平方向への時間の経過や移動を意味しない。むしろ、定位置での若干の上下運動の反復を感じさせる。
じつは筆者にも似た経験がある。日差しを受けてできたカワセミの陰が出水の濁流に映って、小刻みに震えながらぐんぐん溯っていく。双眼鏡でその陰を見ていると、スピード感があって、ちょっとめまいを感じるような経験だった。
今回のテーマを考えながら、このごろ散歩コースにしている平井川沿いを、ときどき水面を見ながら、ものの影をカワセミに見立てて確かめるようにして歩いた。そして4つの場合が考えられることに気づいた。
まず、流れに映った姿が上流へ向かうように見える。つぎに流れではなく、さざなみの波紋に対して反対方向へ向かうように見える。ただしさざなみの波紋の場合は、波がすこし荒くなると水面に映ったカワセミの姿はくずれてしまう。それと3、4番目にはカワセミの姿が鏡のように映るのではなく、日差しを受けたカワセミの陰が水面に映り、それが上流へ向かう、またはさざなみの波紋に対して反対方向へ向かう。さざなみの場合は流れのほとんどない淵か、あるいは池かもしれない。
この茅舎の句について、俳句の世界ではどう解釈されているのか。たぶん少なからぬ俳人、文学者が解釈、解説をしているだろう。その中からこの本ならこの句についてなにか言っているだろうと『川端茅舎 鑑賞と批評』(小室善弘 昭和51年)をさがして取り寄せてみた。そしてやっぱりカワセミはとまっているという解釈をしているのが確認できた。
では、この句はいつ、どこで出来た句なのか。それがわかれば、考えられる4つのうちのどの場合を詠んだ句なのかがわかるかもしれない。
『川端茅舎 鑑賞と批評』によると、この句は『ホトトギス』昭和8年8月号の雑詠欄に載ったというもので、そうすると詠まれたのはたぶんその少し前の初夏のころか。カワセミは留鳥であるが季語では夏だから、5、6月ころ夏の風物として詠んだのだろう。
では、場所はどこか。おなじく『川端茅舎 鑑賞と批評』にある付録の年譜によると、昭和3年4月に大森区桐里町273番地に、異母兄で画家の川端龍子が建ててくれた家に移ったという。昭和5年(33歳)ころから病気がちになり、昭和6年11月から7年2月まで脊椎カリエスで入院する。その後ときおり小康を得ることもあったが、昭和16年、44歳で没するまで病気との闘いだったという。
このカワセミの句ができた昭和8年は『川端茅舎 鑑賞と批評』によると茅舎の日常はつぎのようであった。
病弱者の常として、茅舎の行動範囲がひどく限られたものであったことは、たしかである。昭和十二年に書かれた「自句自解」(昭12・10『俳句研究』)の末尾にも、「以上一年の句作の縄張は僕の庭と本門寺山と市野倉の弁天池」とある。ここで茅舎が一年と言っているのは、昭和八年八月から九年七月までを指す。
ということは、このカワセミの句はこの一年間の直前だったと考えられる。だから行動範囲もおそらく「僕の庭と本門寺山と市野倉の弁天池」とほぼ同じだったろう。小室氏は川の流れとしているが、このカワセミの句は弁天池だった可能性が高い。
現在の大田区大森のあたりを手元の地図でみてみると、池上本門寺があり、その1kmほど東には兄の龍子記念館がある。インターネットのグーグルマップで縮尺をあげると、本門寺のすぐ東隣に「桐里保育園」というのがみつかった。しかし市野倉も弁天池もそれらしい地名は見当たらない。桐里町という地名で検索をかけたら桐里町貝塚という表示が桐里保育園のすぐ北に現われた。それは本門寺のすぐ東を示している。市野倉で検索したら、保育園から300mほど東南東にある長勝寺を示した。弁天池で検索したら、まったく無関係の場所へ飛んでしまった。ということは市野倉の弁天池というのは長勝寺の境内にあったのかもしれない。
そこでさらに細かい地図はないかと、さがしたら、『東京都大田区勢要覧 昭和29年度』というのがあり、片面は詳細な地図になっている。見ると池上本門寺の東に隣接している地域の北半分が桐里町、南半分が市野倉町と記載されている。弁天池は出ていなかった。そして『大田区の文化財第17集 大田区の近代文化財』(大田区教育委員会 昭和56年)によると、「四 史跡」のところに「川端茅舎の旧居と句碑」というのがあった。それによると茅舎の旧居は現在のところ番地では池上1-5-7で、『東京都大田区勢要覧 昭和29年度』の地図と重ねるとだいたい桐里町と市野倉町の町境あたりになる。
さらに『史誌第6号』(大田区史編纂委員会編 1976年)所収の「日蓮宗の稲荷信仰」のなかの池上本門寺略図をみると、東に隣接する本門寺公園のなかに弁天池という池がある。ということは茅舎の行動圏には本門寺境内の池と本門寺公園の弁天池と市野倉の弁天池の、あわせて3つの池があるわけだ。
つまり茅舎のこの時期の行動圏は本門寺から茅舎の自宅、そして長勝寺付近にあったらしい弁天池までのわずか東西500mの範囲内ということになる。この中には川らしい川はない。ただ本門寺の西を北から南下して南縁を東進し、東京湾にそそぐ呑川という小さい川があるが、これまで調べたことからして圏外になるだろう。
 茅舎は本門寺境内の池かどちらかの弁天池のほとりでカワセミをじっとみつめていて、この句を得たにちがいない。茅舎はカワセミを数mの距離から、やや俯瞰する感じに見ている。水面に映るカワセミの影を見る。池だから流れはない。わずかに風があり、さざなみが起きる。波紋がこちらへ寄せてくる。なおも茅舎はカワセミを凝視する。すると揺れながらカワセミの影が先へ先へと遡っていく。
 ところで、小室氏は解釈の最後に「影」はカワセミの姿そのものだったかもしれない、と述べている。それもあり得ると思う。「影」は物の姿、形そのものを現す場合もある。小室氏にもどちらとも特定できなかったところをみると、この句の茅舎による自句自解はない、ということだろうか。
 ひとつおもしろそうな論文をネットでみつけたのだが、本文が出てないので読んでいない。
「カワセミは飛んでいるのか? 川端茅舎句「翡翠の影こんこんと溯り」の語用論的分析」
高本條治著 上越教育大学研究紀要vol.14  №2
 茅舎とカワセミの距離はかなり近かったと思う。一般に小さい鳥ほど近寄りやすい。そこで、
つぎのテーマは、野鳥が逃げ出す距離
カワセミは近づけるがアオサギはすぐ逃げる


ほっとすぺーす(№51)2007年5月 アオサギはどこに立つか

2007年10月13日 14時28分01秒 | ほっとすぺーす野鳥をめぐって
ほっとすぺーす(№51)2007年5月
アオサギはどこに立つか
 川の中に立つアオサギはいつも同じような深さにいる気がするのだが、実際にはどうなのだろう。 アオサギの立ち姿といえば、つぎの句が浮かぶ。
  夕風や水青鷺の脛(はぎ)をうつ   蕪村
 この句もアオサギの立ち姿が印象的であるからこそ、名句といわれるのだろう。脛(はぎ)はすねのことだから、くるぶしのすこし上あたりを川の流れにひたして、アオサギはじっと立っている。いかにも涼味満点の句。ただし、それは人にたとえれば、ということで、じつは鳥のすねに見える位置は人とおなじ言い方をすれば、足の甲にあたる。鳥はつま先立ちしているわけだ。鳥の場合はその部分を跗蹠(ふしょ)という。夕風や水青鷺の跗蹠をうつ。こういうのを駄句というのだろう。
 いま考えたいのはそんなことではなく、アオサギは川の中のどんなところに、どの深さに立つのかということ。
 その疑問について、一応答えてくれる文献があったのだが、北海道の十勝川流域の観察記録なので、筆者の観察や、蕪村の作句の下敷きになったのはたぶん関西方面のアオサギかと思うので、いくらか様子がちがう。つまり特殊事情がふたつある。ひとつは北海道の川に多いサケを採っているということ、もうひとつはザリガニを採っていることだ。それを念頭においた上で『Strix』Vol.24 (日本野鳥の会 2006年)の 「河川におけるアオサギの採餌場所と餌内容の季節変化」(南保亜哉児・松田佳奈子)をみていこう。
 調査地は十勝川流域を採餌場にしている繁殖期のアオサギで、帯広市と幕別町に2つのコロニーがある。繁殖期を、育雛前期(5月上旬~中旬)、育雛後期(5月下旬~6月中旬)、巣立ち期(6月下旬~7月中旬)の3つに分けて、それぞれの時期に、採餌場所と餌内容を調査したという。
 アオサギは育雛前期にはおもにサケ属の幼魚を早瀬で採り、育雛後期にはウグイ属を平瀬で採るという。早瀬と平瀬とどうちがうのか、ちょっとわかりにくかったが、それを説明してくれる本があった。
 『地図を読む 自然景観の読み方9』(五百沢智也 岩波書店 1991年)の148ページに川の姿の模式図があり、川の中流で、流れにしたがって淵、平瀬、早瀬と移っていく図がある。深い淵から水があふれ出してゆっくりと流れるところが平瀬、その流れがより急になって次の淵にむかって流れ下るところが早瀬だという。いわれてみればなるほど川はそのように流れていたか。
 したがって、平瀬も早瀬も川の浅いところで、アオサギはそういう場所で魚を採っていたわけだ。
それを水深で見ていくと、十勝川流域の調査では水深の利用割合では、育雛前期での60パーセントが水深10cm以内の早瀬で、そこではサケ属の幼魚が集団で流下しているという。育雛後期でも40パーセントは水深10cm以内の浅い平瀬で、この時期はウグイ属魚類の繁殖期で、産卵場となっている平瀬でアオサギは採餌しているという。
ただし、巣立ち期になると、水深10cm以内の利用はやはり30パーセントともっとも多いのだが、50~60cmの淵も20数パーセントの利用となる。ここではアオサギは外来種のウチダザリガニを多く利用するそうで、ザリガニ類の好む淵へ、水深でいえば50~60cmのところでも、よく入るようになるという。この点は十勝川のアオサギと筆者や蕪村のアオサギとはかなりちがう。淵に入ってザリガニをとるアオサギというのは見たことがないから。ただ十勝川の場合でも、この調査以前の1990年代の調査ではウチダザリガニは収集されていない、ということでザリガニ類の多食というのはごく最近の傾向らしい。これは北米原産の外来種であるウチダザリガニの増加によるという。だからザリガニを多食するというのは特殊な採餌生態なのだろう。
ちょっと古いイギリスの例になるが、『生態学とは何か』(D.F.オーエン 市村俊英訳 岩波書店 1977年)という本で、アオサギの個体群の研究に関する部分があり、そのなかでアオサギの採餌場の環境について記している。
主に浅い水辺から嘴で捕えた魚を食べて生きている。淡水魚も海水魚を食べるが、とりわけ淡水域に生活し、海水魚を食べるのは比較的まれである。(略)本質的には魚喰いで、その生活様式のほとんどすべてが魚を捕えるのに適応している。アオサギは魚を求めて潜水することはできないし、泳ぐこともほとんどしないので、餌場となる水辺は歩くのに十分浅く、魚が見えるようによく澄んでいなければならない
というわけで、巣立ち期でも元来は、すねのあたりを濡らしながら涼やかに魚を採餌していたということでいいらしい。やっぱり「水青鷺の脛(はぎ)をうつ」という情景がいちばんアオサギらしい。資料は古いが、『原色野鳥ガイド』上巻(石沢慈鳥 誠文堂新光社 昭和25年)によると、アオサギの跗蹠の長さは155mm。たいていの場合、アオサギは人の感覚でいえば、すねのあたりを「涼しげに」水にひたして、立っていることになる。
もうひとつの特殊事情であるサケについて。十勝川流域では育雛前期に多くのサケの幼魚を採っている。その時期にサケに依存していることと、アオサギのコロニーの分布と関係がありそうにもみえる。それというのは、最近は全国的であるが、アオサギのコロニーは以前は北海道と北日本の特に日本海側に多かったとされること。『日本のサケ その文化誌と漁 NHKブックス』(市川健夫 日本放送出版協会 昭和52年)によると、サケ属の分布が、やはり北日本に多く、太平洋側ではだいたい利根川まで、日本海側では中国地方までおよぶものの、おもに北陸までであったという。
しかし、十勝川流域でのアオサギの育雛に多くのサケの幼魚が貢献していることはまちがいないが、その他の北日本や北陸でのアオサギのコロニーもサケが大きくかかわっているかどうか、それを裏付ける資料はないようだ。それに近年のアオサギ繁殖地の増加はサケとは無関係だろう。
川のなかに立ってじっと川面をみつめるのがアオサギなら、こちらは岸辺の木の枝からじっと川面をみつめているカワセミ。そこで
つぎのテーマは、影こんこんと溯り
 カワセミは飛んでいるか、とまっているか。

ほっとすぺーす(№50)2007年3月 羽黒山の白鷺

2007年10月13日 14時26分05秒 | ほっとすぺーす野鳥をめぐって
ほっとすぺーす(№50)2007年3月
羽黒山の白鷺
 茂吉一行が見た白鷺はアオサギだったらしい。最初、白鷺類の日本における分布はどうだ、とか、コサギやチュウサギが東北南部までだとか、中部までだとか、2、3の図鑑を見ながら考えていたのだが、そうか、山形の本をまず見るべきかと思いついて、このところ世話になっている『山形県の野鳥』(山形県生活環境部自然保護課 昭和49年)を見たら、羽黒山のコロニーが載っていた。拍子抜けした。なんだ、それなりに有名なところだったのか。そうすると、茂吉は見つけたのではなく、案内人か地元の人に教えられたのか。あるいは「二十四日羽黒山参拝。参道一昨年の如く寂けし」と前書があるくらいだから、すでに何度か来ていて、知っていたのか。
それはともかく、『山形県の野鳥』のアオサギの項には「羽黒町羽黒山神社境内にゴイサギと混じり繁殖しているが最近はその数も減っている」と記載されている。そうするとコサギ、ダイサギ、チュウサギではないらしいが、その確認が欲しい。そしてゴイサギかアオサギか、それが昭和5年にどうだったか、がわかればいいことになる。
 とりあえず『歌集たかはら』から茂吉の白鷺7首を記しておこう。
雪解時より霜ふるころに至るまで大杉のうへの白鷺のこゑ
羽黒山杉の木立に巣ごもれば日もすがら聞こゆ杉の上の鷺
大杉のうへに巣くへる白鷺の杉の秀(ほ)に立つを見れば清(きよ)しも
たふとくも見ゆる白鷺この山の杉のうへにして卵を生みつ
雲うごく杉の上より白鷺の羽ばたきの音ここに聞こゆる
山の上にむらだつ杉の梢より子をはぐくみて白鷺啼くも
羽黒山の高杉の秀(ほ)を仰ぎつつわが聞きて居る鷺の子のこゑ
 場所の確認ができる資料がもう一つみつかったので、紹介しておこう。『日本鳥学会誌』43巻2号(1994年)に「繁殖期におけるアオサギのエサと採餌場利用」(佐原雄二・作山宗樹・出町 玄)という論文があり、日本地図上に羽黒山のコロニーを記載している。「日本国内のアオサギのコロニーは北日本に多く、本州ではその多くが日本海側に位置しているとされてきた(日本野鳥の会1978)」ともある。しかし昭和5年当時を示す資料は見つかっていない。
 そして、羽黒山の白鷺の種類はなにか。それがアオサギであることの確認をしていこう。
 まず、『山形県の野鳥』によると、羽黒山のコロニーで繁殖しているのはゴイサギ、チュウサギ、アオサギの3種となっている。しかしゴイサギの白いところは腹面だけだし、幼鳥では全身だいたい茶色で星のような白点があるだけ。それに姿かたちも白鷺類とはだいぶ違うので、ふつうは白鷺には入れないだろう。チュウサギは白鷺類だが、『鳥類繁殖地図調査1978』(日本野鳥の会1980年)のチュウサギの項によると、「今まで白鷺類の繁殖地の北限は宮城県桃生郡河北町であったが、今調査では山形県でも繁殖が確認され、新しい北限となった」とされ、以前は繁殖していなかったことがわかる。しかし昭和5年というとだいぶ古い話だから、資料がないだけで可能性は否定できない。現在ではチュウサギは少ないが、以前は白鷺類のなかでもっとも多かったといわれているのだから。
アオサギは姿かたちが白鷺類と同じであるし、色もグレーの濃淡ではあるが、全体的には白っぽい。他の白鷺類と行動をともにしていることもあるので、白鷺の仲間として歌に詠んでも違和感がなさそうだ。そうするとチュウサギも捨てきれないが、アオサギがいちばん可能性が大きい。
 ところで、茂吉の歌からは「杉の秀」とか「杉の梢より」とか「高杉の秀」というように、大杉の天辺あるいは梢近くに白鷺がとまっている様子がうかがえる。こうしたとまり方をする、あるいは梢近くに巣をかまえるサギという点から見てみよう。
 『日本鳥学会誌』41巻2号(1993年)の「サギ類6種のコロニー内における営巣場所選択」(安藤義範)は、島根県松江市のスギ、クリ、アカマツの3種が優占する二次林にあるコローでの調査である。ここではアカマツが平均樹高9.8mで最も高いという。そして「ダイサギは営巣数の100%、アオサギは90%がアカマツに営巣していた」と記している。「ダイサギ、アオサギは平均営巣木樹高、平均営巣高ともに高い傾向を示し、(略)高木の樹頂部に営巣する傾向が強かった」としている。ほかにゴイサギでも高い場所を選ぶ傾向が強かった、とあるが、「一般に低い位置を選択する報告が多い」とも記している。そしてチュウサギについては、「ゴイサギ、チュウサギ、アマサギが樹頂部から少し下の辺りにかけての場所を主に利用している」という。チュウサギの巣の位置については、『野田の鷺山』(小林昭光 朝日新聞社 1980年)では「渡来の遅いチュウサギやアマサギは、まだ巣の作られていない樹木や竹林のすきまをさがしては、そこに割り込んでいくような形で巣をかける」と述べている。
 したがって樹上の営巣位置という点では、ダイサギも考えられるが、『山形県の野鳥』の羽黒山の記録にはダイサギは現われない。いくつかの図鑑の記載によっても、ダイサギの営巣地は中部日本以南で、『鳥類繁殖地図調査1978』では関東までの西日本の平野部で、九州南部、東北以北では繁殖例がないという。 
日本野鳥の会和歌山県支部報『いっぴつ啓上』54号(1995年)の「紀ノ川のコサギその3」(溝本政行)によると、「船戸山古墳を構成する樹木は、主にアラカシやシイ、クスノキなどの雑木で、アオサギやダイサギは、主に上部を巣に利用していた。コサギは、雑木林の下部を主な巣として利用していた。ゴイサギは、船戸山古墳の北側にある竹林に多く巣をつくっていた」と述べている。
 日本野鳥の会神奈川支部の『神奈川の鳥』2、3、4からアオサギが止まる樹種を見ていくと、マツ、モミ、スギ、クロマツ、ヒノキ、ケヤキ、ほかに常緑広葉樹林、屋敷林、神社の木、自然林とあるが、高木を選んで止まることがうかがえる。
 筆者の観察でも、アオサギは丘陵の中腹にあるモミの高木の天辺と麓のやはりモミの木の天辺を好みの休み場にしている。ダイサギ、コサギは川近くのヤナギなどの梢に止まることはあるが、水辺から離れた木に下りているのを見ることはほとんどない。
 というわけで、アオサギは樹種を選ばないものの、そのあたりでもっとも高い木を選んで止まる、あるいは営巣する傾向があるということになる。羽黒山の白鷺はアオサギ、と結論しよう。
 さて、なおもアオサギの立ち位置にこだわっていく。そこで、
つぎのテーマは、アオサギはどこに立つか
 川の中にひとり立ち続けるアオサギ。なぜそこにいるのか。


ほっとすぺーす(№49)2007年1月 茂吉のアマケラ

2007年06月04日 10時46分45秒 | ほっとすぺーす野鳥をめぐって
ほっとすぺーす(№49)2007年1月
茂吉のアマケラ
 『和歌の歴史』(藤田福夫、阿部正路編 桜楓社 昭和47年)という本があり、収録されている「和歌と方言」(川本栄一郎)というのに目を通していたら、斎藤茂吉の歌は「ざっと数えただけでも16500首の多きに達しているが、方言らしきものは、次に掲げる十語あまりにすぎない」として、そのなかで、郷里山形県の方言と思われるものは、「啄木鳥(けらつつき)」「南蛮啄木(なんばんけら)」「雨啄木(あまけら)」「逆白波(さかしらなみ)」だけであると述べている。
 啄木鳥はけらつつきという。「逆白波」については知らない。おかしいのは「南蛮啄木」と「雨啄木」で、これはアカショウビンの方言だ。川本氏はきつつきのことだとしている。「啄木」の漢字を当てているからきつつきとしたのだろうが、茂吉の歌集がそうなっているのだろうか。とすれば、川本氏のまちがいというより、茂吉自身のまちがいということになる。これは原典の『歌集たかはら』で確認する必要がある。
  早速インターネットで手に入れて、目次であたりをつけて出ていそうなところをさがしていったら、「南蛮啄木」がでてきた。それにつづいて「雨啄木」も、そして前をみたら関連の歌がもう一首。ではその3首、
この山にあやしきこゑに啼く鳥は嘴(くちばし)赤し飛びゆける見ゆ
くれなゐの嘴(はし)もつゆゑにこの鳥を南蛮(なんばん)啄木(けら)と山びと云へり
山こえて庄内領に入るときはこの鳥を雨(あま)啄木(けら)と名づけゐるとぞ
 昭和5年7月に、茂吉の後記によると「長男茂太が15歳になったのを機として」出羽三山を参拝したときに詠んだ歌だという。確かに茂吉自身が啄木、つまりきつつきという意味の漢字を使っている。しかしこの鳥がキツツキ科の一種ではなく、カワセミ科のアカショウビンであることは、この3首の内容からもわかる。
 茂吉は実際にこの鳥を見たわけで、その嘴は赤かったという。この地方で見られるキツツキ類はアオゲラ、アカゲラ、オオアカゲラ、コゲラの4種で、どれも嘴は赤くない。その他のキツツキ類にも赤い嘴の鳥はいない。それに対してアカショウビンは赤い大きな嘴をしている。じつは全身が赤茶色なのだが、嘴が特徴的に大きいので、茂吉にはとくに印象的だったとみえて、この歌になったのだろう。「あやしきこゑ」にしても、キツツキ類のどれも似たようなケッケッケッやコゲラのギーッでは合わないし、アオゲラのピョーと鳴く声もあやしい感じとはちがう。
 『日本鳥類生態学資料』(川口孫治郎 巣林書房 昭和12年)のアカショウビンの項にちゃんと答えが出ていた。各地の方言を伝えるなかに、「アマケロ 羽前庄内」「ナンバンゲラ 羽前東田川郡、村山郡辺の名。赤いケラ即ち啄木鳥類と誤認しているのである」。ナンバンは唐辛子の異称。
 そうすると、茂吉のまちがいというより、鳥の名をおしえた「山びと」の誤認かもしれない。もっともキョロロロローと鳴いて雨を呼ぶといわれるこの鳥にして、ついた名がアマケロであるから、そのケロがケラに変化しただけで、「山びと」は必ずしもキツツキ類と誤認していたとは言い切れない。茂吉がかってにケラと聞いたからキツツキ類と思っただけかもしれない。さらに言えば、川口孫治郎にしても、ケラと言っているからというだけで「キツツキ類と誤認している」とは言えないだろう。川口が方言採集の段階でどこまで確認したのかはわからないが。
 『歌集たかはら』を読んでみると、このときの総勢4人のうち、3人は茂吉と茂太と上山から加わる高橋四郎兵衛で、登山口の岩根沢から案内人がひとり加わることになっている。西川町大字岩根沢は月山の登山口のひとつで、宿坊集落であるらしく、一行はそのうちの十善坊に泊まる。「山びと」とはここの案内人であろうか。でなければ、つぎの泊まりの小屋、つまりアカショウビンを見た月山山中の笹小屋の小屋番かもしれない。どちらかであれば、アカショウビンをキツツキ類だと誤認しているとも考えにくい。これはやはり茂吉のまちがいではないか。
 茂吉一行はその後、羽黒山を参拝する。そこで大杉の上に白鷺が巣を営んでいるところに出会い、7首の歌を詠む。そこで、
つぎのテーマは、羽黒山の白鷺
 この白鷺の種類はなんだろう。

ほっとすぺーす(№48)2006年11月 トラツグミの方言名

2007年06月04日 10時45分15秒 | ほっとすぺーす野鳥をめぐって
ほっとすぺーす(№48)2006年11月
トラツグミの方言名
 ここで使う全国の鳥の方言資料は『日本鳥類大図鑑』(清棲幸保 講談社 昭和27年)による。これらの方言資料がどのように集められたのかわからないが、トラツグミの場合、全部で137件ある方言名がほぼ全国的に採集されていることからして、かなり信頼度は高いと思われる。資料が無いのは茨城、東京、石川、三重、京都、香川、徳島、長崎の8都県で、これはたまたま資料が得られなかったということだろう。その代わり伊豆大島、八丈島、種子島が入っていて、行政区分にこだわらず、方言の分布状況に即した対応をしている。
ツグミ類のツグミ、シロハラ、アカハラ、クロツグミがそれぞれ100件前後であるのに対して、トラツグミの137件は、この数字だけで見てもツグミ類のうちでもっとも親しい存在、といえるかもしれない。
137件を便宜上いくつかの型に分類することにした。つぐみ型、しない型、ちょうま型、ひょーどり型、うそ型、じごくどり型、ぬえ型、しぎ型、採餌型、その他、の10分類である。
最初のつぐみ型、しない型、ちょうま型の3型はどれもツグミの別名、方言が基盤になっていて、たとえば、とらつご、みやましない、ゆきちょうま、という具合にトラツグミの形態上、あるいは生態上の特徴になる語をつけて表わしている。
あとのしぎ型、採餌型、その他をさきにいうと、しぎ型は、ぶたしぎ、ひよしぎ、ひるしぎ、の3件。なぜ「しぎ」なのかわからない。もしかするとヤマシギ類との類似でついた名かもしれない。ひよしぎはひょーどり型にも入れておいた。採餌型には、ごみかき、しばかき、このはがえし、しばさがし、しばほり、の5件があり、どれも地上で虫を探すトラツグミの習性に基づいている。その他はどこにも入れようがない名で、やまうずら、のぎどり、やけのがち、やぶきじ、などがある。
そしてあいだの4型は鳴き声から来ている。ひょーどり型はトラツグミの声を直接表わした名で、たとえばひょーどり、この型はじつは4件しかなかった。うそ型は5件で、たとえば、神奈川県でおそんどり、口笛を吹くのをうそを吹くというのから来ているので、「ヒー」「ヒョー」と鳴くトラツグミの声を間接的に表わしている。じごくどり型は8件、たとえば、福島県のしびとよばり、岐阜県のめいどのとり、なんていうのがある。これもやはりトラツグミの無気味な声からの連想によると考えられる。そして、ぬえ型が14件。ぬえ、にょえす、ぬえじない、ぬえ、などがある。ぬえじないはしない型にも入れている。これも声に由来するとみるしかない。怪しげな声、伝説上の怪物の声、その声が鵺に似ているといわれることが前提になっている。この4型の合計が31件。137件のうちの31件だから、あまり多いとは言えないか。
興味深いのは声からの命名のうち、ひょーどり型、うそ型、じごくどり型の17件は、鹿児島が1件とんでいるほかは、岐阜県より東、そして北に分布していること。それに対してぬえ型は北海道に一つとんでいるが、あとは栃木、富山より南、西で四国の高知まで、なかでも近畿に集中していること。ただし京都にはない。しかし、前回ほっとすぺーすの『台記』の例や伝説など、京都ではぬえと呼ばれていたことは明らかだ。都周辺には「ぬえ」が根強く残っているらしい。
というわけで、2回にわたってトラツグミについて考えてきた。各地域でみると留鳥か、冬鳥か、あるいは夏鳥か、けっこう微妙な問題になるが、日本全体としてみれば、北海道で夏鳥とする以外は留鳥となる。そしてけっこう身近な野鳥である。であった、とするべきか。
10分類にしたうちで、圧倒的に多いのはやはりつぐみ型で、68件ある。とらつむ、とらつぐめ、とらつくし、など、「とら~」というのが全国的に散らばって15件あり、それでトラツグミという和名になったらしい。『図説日本鳥名由来辞典』によると、明治時代の鳥類目録にはヌエジナイとトラツグミが併記されていて、トラツグミに統一されたのは大正になってからだという。なぜ「ぬえ」というか、残念ながらその語源はわからないそうだ。
鳥名の方言には興味深いものがいっぱいある。以前、たまたま目を通していた本のなかに、おもしろい材料がみつかった。そこで
つぎのテーマは、茂吉のアマケラ
 斎藤茂吉に鳥の名を方言で詠んだ歌があるのだが、どうもおかしい。というか、これはまちがいだ……


ほっとすぺーす(№47)2006年9月 身近な「ヌエ」

2007年06月04日 10時43分54秒 | ほっとすぺーす野鳥をめぐって
ほっとすぺーす(№47)2006年9月 
身近な「ヌエ」
トラツグミは山の鳥、平地では冬鳥だから繁殖期には山へ行ってしまう、と思っていた。もちろん多くは山へ行ったり、より北の地方へ行ったりするのだろう。しかし、夏場の平野での声の記録や平野部での繁殖の可能性というのを受けて、おもに南関東でのトラツグミの生息状況について文献にあたってみた。
その結果、南関東では冬鳥としている本もあるが、留鳥としている本のほうが多かった。これは要するに、同じ南関東といっても山もあり丘陵もありなので、地域によって一様ではないからだ。
どのくらいの範囲のどんな環境について述べている本なのかで違ってくるわけで、冬鳥でもあり、留鳥でもあり、漂鳥でもありで、どれも正しいのだ。ただ筆者がフィールドにしている草花丘陵という狭い範囲では冬鳥という認識でいたので、実は留鳥という記述の多いのには少しおどろいた。平野部でもまとまった森林があれば、あるいは山沿いならば留鳥でいる可能性があるわけだ。
ということは、トラツグミはもともと山でも平野の森でも繁殖していたのが、平野部にまとまった森林がなくなったので、結果として山の鳥みたいになった、むしろ山へ追われた鳥、ということなのか。
夏にも平野部にいたのであれば、あれだけ特徴のある声なのだから、昔から記録が多くてもよさそうだ。源三位頼政の鵼退治ばかりが有名だが、夏の夜のヌエの声についてほかにもいろいろ伝えられている話が多いのではないか、と思って『ちんちん千鳥のなく声は』(山口仲美 大修館書店 1993年)を開いてみた。するとやはり、ある。
いきなり古事記までさかのぼるが、「~ 青山に 鵼(ぬえ)は鳴きぬ さ野つ鳥 雉(きぎし)はとよむ 庭つ鳥 鶏(かけ)は鳴く ~」(『古事記』上巻 大国主神)とあり、「ヌエの声は、キジやニワトリの声と並んで、奈良時代の人には親しい存在であった」と紹介している。また『万葉集』ではヌエに「こ」をつけて「ぬえこ鳥」と、親しみを込めて呼ばれている例もあるという。
『万葉集』にはぬえは6例あり、奈良のほかに筑前、讃岐でも詠われている。それらの歌からも奈良時代には、少なくとも怪鳥として忌み嫌うような存在ではなかったと言えるようだ。
そんな「身近な存在」だったヌエが平安時代になると不吉な鳥とされるようになる。さらに『ちんちん千鳥のなく声は』から紹介すると、藤原頼長の日記 『台記』では康治3年(1144年)6月18日、藤原忠実の日記『殿暦』では永久3年(1115年)6月25日の日付で、ヌエの声は凶事を暗示するものとして、占い師を呼んで、凶兆の意味を問うたり、物忌みしたりしたという。これは旧暦だろうから、新暦なら7月の中下旬、夏の繁殖期の記録だ。
だから気味悪がられる存在であれ、不吉な声であれ、とにかく夏になるとその特異な鳴き声が何かと話題にされていたのだった。その意味で親しい存在、なかでもツグミ類のうちではいちばん親しい鳥だったといえるかもしれない。ツグミやアカハラ、シロハラのようにトラツグミよりもずっと個体数の多いツグミ類でも、それらは冬の鳥でさえずりを聞くことも滅多にないから、話題にのぼることもかえって少なかっただろう。猟鳥として、つまり食べるほうの対象となると、話は別だが。
しかし近年では、この無気味ながらも親しいトラツグミの声も、かなり縁遠いものになったらしい。『山梨の鳥』(中村司、依田正直 山梨新聞社 1997年)によると、昭和50年6月半ばのこと、山梨県敷島町吉沢で毎夜、恐ろしい声の幽霊がでるという噂が広まって、地獄に引き込まれるような声で、町の人々に気味悪がられたという。たしかにそういう感じの声で、ほかにもUFOではないか、といううわさが広がったという話を何かで読んだ覚えもある。敷島町は地図でみたら、甲府市の北西側の隣りで、茅ケ岳の南面、その吉沢という集落は山間部のようだから、本来なら留鳥として生息していてもよさそうだが、そういう環境でもトラツグミの声は滅多に聞けないのが現状らしい。
いくつか例をあげて身近な「ヌエ」について述べてきたが、それでもやっぱり身近な、親しいという気にはちょっとなれないな、という気持ちが残る。
それでもう少し普遍的というか、あまねくというか、広い視野から見るという意味で、方言に注目してみることにした。そこで
つぎのテーマはトラツグミの方言名
トラツグミはツグミ類のなかでいちばん方言が多いのだ。

ほっとすぺーす(№46)2006年7月 いないはずの鳥がいる

2007年06月04日 10時42分28秒 | ほっとすぺーす野鳥をめぐって
ほっとすぺーす(№46)2006年7月 
いないはずの鳥がいる
渡りをする鳥は夏鳥でも冬鳥でも、いつごろ来ていつごろいなくなる、とだいたい決まっている。しかし、ときにはちょっと早すぎる例や、こんな時期にいていいのか、ということもある。そんな中から3例についてみてみよう。
2004年9月19日 ゴジュウカラ 草花丘陵
2005年6月24日 トラツグミ 草花丘陵
2005年7月16日 ヒドリガモ 草花丘陵下の多摩川
ゴジュウカラは山の鳥で、留鳥に分類されるが、冬には少数が平地でも見られることがある。草花丘陵でも何度か見ているが、上の記録のときはあんまり時期が早いのでおどろいた。てっきり9月は初かと思ったが、過去の記録を調べたら、1996年9月16日草花丘陵というのがあった。96年から97年の冬はカラ類の混群のなかに何回かゴジュウカラをみたし、さえずりも聴いた。いくつか文献もひらいてみたが、東京周辺での9月の平野部での記録はみつかっていない。ただ『静岡県の鳥類』(静岡の鳥編集委員会 1998年)に「非常にまれな状況であるが、96年秋~冬期にかけて平地の各所に出現した」という記述があった。同じ年の同時期なのが気になるところだ。それで日本野鳥の会東京支部の支部報『ユリカモメ』の96年から97年の冬の「鳥信」欄を見たら、97年の1月に国立市と日野市、2月に日野市の出現記録が載っていた。他の年と比べてどうか、そこまではまだ見ていない。
トラツグミも山の鳥で、冬には平野部にもやってくる。と、思っていた。上の記録のときもそう思っていたから、あまりの時期はずれにびっくりした。丘陵の南面を広く占有しているゴルフ場の正門のほうで「ヒー」、「ヒー」という機械のきしむような音がしていた。最初はなにかの機械が働いているんだろう、くらいに思っていたのだが、でもまさか、まさかと思いながら、音のするほうへ行ってみたら、ゴルフ場へ入る手前の道路わきでついに出合った。植え込みのハクモクレンの枝にトラツグミが現われたのだ。開けた環境で、よく晴れたあかるい朝だった。最初にその「おと」に気づいたところから300mくらい離れていた。これまでの筆者の記録によると草花丘陵では、トラツグミは10月から5月上旬までとなっている。
だから、6月の平地での記録は相当めずらしいと思いながら文献を見ていったら、これが案外出現しているのだった。日本野鳥の会神奈川支部の『神奈川県鳥類目録3』(1998年)には1993年7月19日横須賀市太田和で「自然林、裏山から声が聞こえる」という記録。同じく『神奈川県鳥類目録4』(2002年)では、1997年8月30日に平塚市桜ヶ丘で落鳥個体が発見されている。その解説欄では三浦半島でも繁殖している可能性が高いとしている。
また、『狭山丘陵の鳥』(荻野豊 さきたま出版会 1981年)によると、6月、7月に4回の記録があり、繁殖している可能性がある。トラツグミは繁殖期には山へいってしまうと思っていたのだが、どうもそうでもないらしい。
ヒドリガモは当地ではあまり見られない冬鳥で、これまでには羽村堰の堰上の広い水面で数年前に見たことがあるが、あとはもっと下流の睦橋周辺で観察していたころ毎冬何度か見ていた程度。もともと越冬のカモ類は少ない地域だが、近年はさらに減ってしまった。そんなカモがそれも7月に出るというのはごくめずらしい。そのとき一度きりしか見ていないので、どこからか飛んできて飛び去ったのだろうから、怪我をして帰りそびれたとも思えない。
これも文献を見てみると、『神奈川県鳥類目録3』の7月に2件、『神奈川県鳥類目録4』の「36旬出現図」のグラフには6、7、8月の夏場にもわずかずつ記録がある。だからそんなにめずらしいことではないのだろう。
結局これら3件は過去にもいくらか記録があって、それなりに納得がいったのだが、それでもちょっと気になるのはトラツグミだ。気になるというのは、平地での繁殖があるかもしれない、という可能性についてだ。そこでもう少し広く資料をあたってみた。その結果、出てきたつぎのテーマは
身近な「ヌエ」
山で繁殖すると思っていたトラツグミだが、もともとはそうでもなかったかもしれない。

ほっとすぺーす(№45)2006年5月 キクイタダキは燃えている

2007年06月04日 10時39分55秒 | ほっとすぺーす野鳥をめぐって
ほっとすぺーす(№45)2006年5月 
キクイタダキは燃えている
草花丘陵浅間岳、1995年3月23日。いつもの散歩コースで尾根上の山路を歩いていたときのこと。広葉樹の梢のほうで4羽のキクイタダキが追いかけっこをしているらしい。1羽はすぐに見えなくなったが、あと2羽の雄が横枝で雌1羽をはさんで、2mほどの間で対峙している。それぞれがオレンジ色の冠羽を大きく目立たせて向かい合っている。冠羽の中心は赤々と燃えているようで、ちょうどマッチの火をつけて燃え立たせた感じで、そうして体を小刻みにふるわせながら枝上を旋廻する。曇った朝で林内は暗く色がなく、キクイタダキもモノクロの体で、冠羽だけが鮮やかだった。
鳥のある部分の羽の色にはなんらかの意味があるらしい。たとえばウソが採餌しながら枝を上へ上へとせりあがっていくとき、2~3回ずつはばたくたびに白い腰がパッパッと点滅するように見える。キビタキが飛んでいるとき、後ろ姿だと黄色い腰がよく目立つ。カケスの白い腰も、ひらひらと薄暗い林内をすべっていくとき、よく目立つ。
 それらはいかにも意味ありげに見える。繁殖期にはキクイタダキの冠羽のように信号を発するのかもしれない。それというのも、ルリビタキの脇のオレンジ色の意味がわかったと思えることがあったからだ。
 それは1995年4月20日、奥多摩の鷹ノ巣山へ登ったときのこと。山頂を後にして、帰りの石尾根上での標高1450mくらいの地点だった。横枝にとまっていたルリビタキの雄が脇のオレンジ色の羽を体側へふくらませて、ブルブルと振っている。下腹から下尾筒にかけての白い羽毛も横へおなじように膨らませている。背中側から見ていたのだが、閉じた翼の両側へ大きく張り出したオレンジ色の羽毛が輝いているかのようだった。ふだん見慣れているルリビタキの雄の脇羽よりはるかに目立った。5mくらい離れた枝に雌がとまっていた。
 おなじ観察は1998年4月20日にもあった。場所は上記のところから南へ尾根をわけて、しばらく行った榧ノ木山の北峰1470m。やはり雄のルリビタキが枝から枝へ移っては脇のオレンジ色の羽毛を目立たせる行為をくりかえしていた。直後に雌の姿も見られた。
『鳥の社会』(中村登流 思索社 1976年)の第8章の「コミュニケーション世界」によると、「キビタキの上尾筒は黒い背と尾羽に対して、明示度の高い黄色であるが、雄対雄のたたかいの際には、この部分の羽毛を逆立てて強調する」という。また「シリアカブルブルの下尾筒は紅赤色であるが、求愛ディスプレイ中に拡張され、羽毛のつけ根に赤いだんごをつけたように見える」という記述がある。ということは、同じく下尾筒が赤いアカゲラやオオアカゲラも同じように強調するのだろうか。と思って、同じ著者の『原色日本野鳥生態図鑑 陸鳥編』(中村登流、中村雅彦 保育社 1995年)を見ると、アカゲラの雄の対立時のポーズという挿図があって、下尾筒をだんごのようにふくらませた絵がでている。オオアカゲラについては記述はないが、やはりそうなのかもしれない。
この本には求愛や雄同士の対立時のポーズの絵がよくでているので、ほかにも探してみると、キビタキの雄が威嚇のさいに黄色い腰を強調する場面や、カケスが春先の番い形成時に白い腰を逆立ててみせることなどを紹介している。
アカハラもあの橙赤色の脇の羽毛を逆立てるというし、キクイタダキも「雄どうしのなわばり争いは冠羽を逆立て、尾羽を開閉し、翼を半開きにしつつジージーと叫ぶディスプレイをする」という。
ルリビタキの項では、「渡来当初には2~3羽の雄の会合があり、雄はくちばしを斜上方に向けて白い喉を見せ、脇のオレンジ色の羽毛を逆立てる奇妙な対立の姿勢をとる。このため脇の羽毛は左右に大きく広がり、背後から見ると両翼から外側へはみ出しているほどである」としている。筆者の観察したのは雌への求愛場面だったようだが、雄の行動の様子はよく似ている。
最初のキクイタダキにもどるが、キクイタダキは山の鳥で、冬でも平野部で見られることは少ない。草花丘陵では冬鳥として飛来するが、これまでの経験では見られない年のほうが多い。というか94年から95年の冬は今ふり返れば異常に多かった。12月から4月まで何度も見た。いったい何があったのだろう。渡りの不思議。そこで、
次のテーマは、いないはずの鳥がいる
「もう」なのか、「まだ」なのか。ちょっと疑いたくなる時期に見られた鳥について。

ほっとすぺーす(№44)2006年3月 アカショウビンは馬を呼ぶ

2007年06月04日 10時38分28秒 | ほっとすぺーす野鳥をめぐって
ほっとすぺーす(№44)2006年3月 
アカショウビンは馬を呼ぶ
 バクロノカカとはつまり馬喰(博労)の嬶(かかあ)という意味で、柳田国男の『野鳥雑記』に紹介されている。それは神奈川県の津久井郡や山形県の荘内地方などに伝わるアカショウビンの方言だという。津久井郡に伝わる水恋鳥、つまりアカショウビンの昔話を紹介する。

この鳥を一に博労の嬶と云う。それは亭主の留守中ろくろく馬の世話をしない邪見な女房があった。亭主が戻って来た時馬に水をやったかと訊ねると、ハイやりましたといつも嘘をついていて、馬を干し殺してしまった。そこでとうとう鳥に生まれかわったが、前生の報いで自分の腹が赤く水に映って水を飲む事が出来ない。ただ雨をまって漸く咽喉を濡らすばかりだと云う。(『日本民俗誌大系第8巻 関東 「相州内郷村話」 角川書店 1975年)。

大事な馬に水をやらなかったので、バチが当って鳥にさせられたという話で、柳田はアカショウビンには雨にまつわる昔話が多く、雨を待ちかねるようなこの鳥の鳴き声なので、こうした昔話ができると説明している。しかし、なぜアカショウビンの元の姿が博労で、しかもその本人ではなく女房なのか。それについては触れていない。
 その疑問が一挙に氷解したのは『動物のフォークロア「遠野物語」と動物』(遠野物語研究所 2002年)を読んでいるときだった。その「第2講 日本人の動物観」(野本寛一)がおもしろいのでここに紹介しよう。
 三橋美智也のヒット曲のなかでも有名な「達者でな」。「藁にまみれてよ 育てた栗毛 今日は売られてよ どこへ行く…オーラ オーラ 達者でな」。作詞者の横井弘氏がなぜこの「オーラ オーラ」を使ったのかというと、「終戦直前に、横井さんは茨城県の連隊に回されたのだそうです。全然経験のないところで馬の当番をさせられました。(略)ところが馬をどう扱っていいのか分からない。その時、先輩が、「オーラ オーラ と言えば馬はおとなしくなるんだ」、と教えてくれた」という。
馬を呼ぶときの声はほかにも、たとえば岩手県稗貫郡の大迫町や花巻市では「オーラ オーラ」、鹿児島県では「オロ オロ」、静岡県の天竜市では「オロオロオロ」、狐を呼ぶのに、兵庫県では「オロロヤ オロロ」、カラスを呼ぶのに、青森県の二戸町では「ローローロロロ、ローロロ」などの呼び声が各地にあるという。この辺を読んでいて、ピンと来た。「ロロロ」はアカショウビンの声ではないか。だからアカショウビンは馬喰なんだ。
さらに人間の子守唄では「島原の子守唄」に「はよ寝ろ泣かずにオロロンバイ」がある。これら「「オロ」系の呪言は、動物霊や不安定な嬰児の魂を呼びよせ、安定させる力を持つものと考えられます」と野本氏は述べている。
 この「ロロロ」がアカショウビンの鳴き声「キョロロロロ……」を思わせる。だからアカショウビンを馬喰に関係する役回りで昔話に登場させたと考えられる。
 でもどうして嬶なのか。それにもちゃんとわけがある。馬喰は留守がちなのである。『辺界の異俗 対馬近代史詩』(高澤秀次著 現代書館 1989年)を見ていたら、ちょうど馬喰の話が出ていて、第4章の最初、「馬喰の交通史」に、「わたしの若い頃は、一年のうちで外に泊まるのが六分、うちにいるのが四分くらいで、帰ってこようにもこられんかった」。昔はどこへ行くにも牛や馬を歩いて引いていったわけで、簡単には帰れなかったのだ。だから各地を泊まり歩くことになる。そういえば宮本常一の『忘れられた日本人』で「土佐源氏」のなかにばくろう宿というのがあった。
 これで馬喰は留守、それで女房、馬を呼ぶ声、アカショウビンの鳴き声、水にまつわる話、となって、昔話の舞台設定がととのうのである。
 ところで、アカショウビンは全身が褐色ぎみの赤い鳥だが、腰の一部にだけ水色の部分があって、それがタテに一線が入ったようになっている。なぜ腰にだけこんな水色の線が入っているのだろう。理由はまったく見当がつかないが、鳥の羽色もおもしろい。そこで、
 次のテーマは、キクイタダキは燃えている