おわりに
ここまで烏勧請の西日本と東日本におけるちがいについて考えてきた。そのちがいは西の弥生社会に対する東の縄文的要素を色濃く残した社会とのちがいに由来するものであった。なかでもケガレ観の有無によるちがいが大きく影響したものである。そのため烏勧請は東日本へ伝播する過程で西日本の弥生社会の特徴であるケガレ観が伝わらないことによって変質し、ケガレの有無を問うものから厄払いや占いへと移行したのであった。さらにコト八日の行事を通してみても烏勧請の変化を裏づけることができた。このような西から東への移行にともなう変化は暦の移入による正月の移動からもうかがえるのであった。
これまで餅についても多少ふれてきたが、「餅なし正月」も実はケガレ観と暦の移入による正月の移動にかかわるものであると考えられる。さらに、いったい正月をはじめとする年中行事にとって、餅とは何なのか、総合的にとらえる必要がある。次号では「餅なし正月」をはじめとして正月にとって餅とは何なのかについて考える。
ここまで烏勧請の西日本と東日本におけるちがいについて考えてきた。そのちがいは西の弥生社会に対する東の縄文的要素を色濃く残した社会とのちがいに由来するものであった。なかでもケガレ観の有無によるちがいが大きく影響したものである。そのため烏勧請は東日本へ伝播する過程で西日本の弥生社会の特徴であるケガレ観が伝わらないことによって変質し、ケガレの有無を問うものから厄払いや占いへと移行したのであった。さらにコト八日の行事を通してみても烏勧請の変化を裏づけることができた。このような西から東への移行にともなう変化は暦の移入による正月の移動からもうかがえるのであった。
これまで餅についても多少ふれてきたが、「餅なし正月」も実はケガレ観と暦の移入による正月の移動にかかわるものであると考えられる。さらに、いったい正月をはじめとする年中行事にとって、餅とは何なのか、総合的にとらえる必要がある。次号では「餅なし正月」をはじめとして正月にとって餅とは何なのかについて考える。
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