ケガレの起源と銅鐸の意味 岩戸神話の読み方と被差別民の起源 餅なし正月の意味と起源

ケガレの起源は射日・招日神話由来の余った危険な太陽であり、それを象徴するのが銅鐸です。銅鐸はアマテラスに置換わりました。

ケガレの起源と銅鐸の意味47 正月行事にひそむ射日・招日神話2 射日・招日神話へさかのぼる

2016年10月29日 10時35分01秒 | 日本の歴史と民俗
   2 射日・招日神話へさかのぼる

射日・招日神話の痕跡がある事例
 『日本民俗大辞典』の「たいようすうはい 太陽崇拝」をみると、「太陽神に関する祭祀は現在ほとんど残っていないが、正月に初日の出を拝むこと、彼岸の社日参り、お日待ち、日の伴、天道念仏、天道花、お火焚神事などの行事の中に痕跡を残している」と、何種類かの行事にその痕跡をみることができるとしている。しかし、射日・招日神話を前提としてみていくと、日本の民俗における太陽信仰の痕跡は飛躍的にふえる、というよりもほとんど太陽信仰のために正月行事をはじめ、年中行事は行なわれていることになる。『散歩の手帖』25、26、27号そして今号の前章まで、烏勧請、弓神事、弓神楽、天岩屋戸神話、オコナイ、コト八日、餅なし正月、小正月行事と民俗事例をたどってきて、それは明らかであろう。たとえば弓神事だけでも萩原法子によると全国に450カ所あるという(「45」)。
 『稲と鳥と太陽の道』で萩原秀三郎は、オコナイ、弓神事、ゲーター祭り、近江八幡市馬淵の宮座、オビシャ、祁答院町の藺牟田神舞、西都市銀鏡神楽、広島県沼田町阿刀神楽、薩摩郡入来町浦之名の大宮神社に伝わる入来神舞などをあげて、射日神話にもとづく行事であると説いている。萩原はこれらの行事によって射日・招日神話は当然、日本列島にももたらされたのであり、天岩屋戸神話は射日・招日神話の射日の部分が欠落したものであると考えられるとしている(「46」)。しかしそれらは欠落したのではなく、スサノヲの暴虐の物語に入れ替わったのである。射日、つまり太陽を射るということは太陽を落すことであり、その結果は暗闇である。スサノヲの役割は高天原に数々のケガレをもたらした結果、太陽であるアマテラスを岩戸ごもりさせて暗闇をもたらし、騒乱、混乱を引き起こしたことである(「47」)。これが射日神話の部分に相当するのである。
 ここでは正月行事の中に射日・招日神話の痕跡を直接残している例を見出していこう。ただし、それらの事例は直接とはいっても、そのまま残っているものではない。これまで扱ってきたような、多くの正月行事などに反映されている形、あるいは紛れ込んだように残されているというものではなく、射日・招日神話にもとづく祭祀から直接に変遷してきたと考えられるという意味である。
 事例1 鹿児島県肝属郡佐多町1-31
ハイブシャ 〔竹之浦〕旧正月23日に今も行なっている。ハイブシャ(春武射)とは、全戸から正月のユエモン(祝い物で主として鏡餅のこと)に敷いた白い紙を世話人のところに集めて、そこで弓の的を作る。ナイダケという篠竹を曲げて、直径1mをこえる輪を作り、それに先の紙を張って、墨で丸をかく。そんな的をいくつも作り、同時に竹をまげて1.8mほどの弓とその矢も作って用意する。場所は観音の下の浜で、のひとびとが見物する中で、戸主たちが弓を引いて的を射る。
〔古里〕では的にあたるまで射る。

 鏡餅は祓われるべきケガレの太陽を表わしているから、それに敷いていた白い紙もまたケガレの太陽を象徴している。だからその紙を使って的を作るのである。しかも墨で丸を描く。墨もまたケガレを象徴し、丸は太陽をも表わしているのである。そんな的をいくつも作るというのは複数の太陽を作るわけで、余った危険な太陽である。そしてブシャを行なうのは「観音の下の浜」つまり境界である。陸と海との境であり、生活圏の外縁である。境界へ行ってケガレの太陽を祓えやるのである。30ページ第1章の「境界へ行って餅や雑炊を食べる」行為と共通するものである。〔古里〕では的にあたるまで射る」というのは、ケガレを祓わずにやめるわけにはいかないからである。的に当たるまで射る、最後は的がボロボロになるまで突き破るといったことが各地でよく見られるのは、ケガレがどうしても祓われなければ我らが望む太陽がもたらす穏やかな新年にはならないからである。
 事例2 鹿児島県大島郡三島村1-104
(附記)大里ではこのころ(2日)男の子にはイセブの木(五倍子(ぶし)に似た木)で弓を作ってやり、(略)「正月に男の子のおる家に弓と矢を祝う。弓はイセブ、矢は篠竹でつくり、3本である。祝われた家では三が日間、座敷に飾り、その後は子供に与える。子供はそれをもって門松に飾ったダイダイを的にして射て遊ぶ」と早川孝太郎氏の前掲書に記されている。

 早川孝太郎の前掲書とは『古代村落の研究』であるという。ダイダイを的にするというのは、蜜柑、柿、赤い魚などを赤色の儀礼食として使うのと同じ意味をもつ。ケガレの太陽の変化型である。
 事例3 鹿児島県大島郡三島村1-111
十五日 〔大里〕アカガイをこの朝食べる。早川孝太郎氏の前掲書には「14日にアカメシ(小豆粥)をたいて神をまつる。因に小豆粥はこの日が最初でその前につくることができない」とあるが、これは日が違うようである。
〔竹島〕この日の朝の汁には必ず貝をいれ、野菜は大根、豆腐など5種から10種までのものを、みな賽の目切りに切って入れなければならないとされている。またこの朝食に使う箸は、絶対に桑の箸でないといけない。そしてかりに他家に客にいっても、また自家に客がきても、桑の枝の曲ったなりに削られた箸でなければ、この日の朝食は食べないこととされている。

 大里の事例は日の間違いはともかく、小豆の解禁日がある事例である。竹島の事例は第1章「小豆 ケガレの象徴として」で事例17として取り上げている。その中で桑の木について、射日神話との関係を述べているが、野菜は「みな賽の目切りに切って入れなければならない」として、粥や雑炊、シモツカレとも通じることに注意するべきであろう。
 事例4 大分県東国東郡国東町1-154
ジュウソウ この日(正月13日)(略)、座元のツボ(庭)でマトーを射る。マトーはシリマエの組の4人が前日に座元の家に集まり、マガヤで編んでその上に白紙(半紙)をはり、墨で輪をかき、裏に「鬼」と字を書いて柄に逆さにつける。また両端に竹を曲げて「山」と「川」の小さいマトーをたてる。矢は75cmくらいの真竹で、白紙の羽根をつけたものを63本作る。弓は長さ180cmほどの樫の細枝にイヒチをなった紐(ヨリという)を弦にはったものを作る。祝詞のあと神職が明きの方に向けて3矢射たあと、座員が1人3本ずつ矢を射る。

 マトーは的か。20軒の宮座の株持ちの家を4軒ずつ5つに分けたものをシリマエと呼んでいる。墨で輪を描いたのは太陽の象徴、「鬼」の字は元は鬼神に通じるところから来たのだろうが、すでに射落とすべき、退治すべき鬼に堕しているのだろう。イヒチとは私には不明。
 事例5 島根県島根半島2-47
お的の神事 的射神事・歩射神事ともいい、半島地区では〔三浦〕御津神社、〔北浦〕伊奈頭美神社に残っている。伊奈頭美神社のお的神事は、元来は旧正月初午の日の行事であってか、今は6日にお田植神事といっしょに行なうようになっている。当日早朝、烏の鳴かないうちに、5人の頭屋が山へ行って椎の木を5、6本切ってき、これを浜へ森のごとくに立てる。白紙に天烏を画いて森の中ほどにとりつける。9時ごろ、一同拝殿でそろい、延導幣の頭、金幣持ちの区長、弓持ちの頭、斎主、矢持ちの頭2人の順で下がり、恵方に向かって森を3回まわる。天烏の的に向かってまず斎主が射、次ぎに区長、頭人、添頭の順で射、どうしても当たらぬ時には矢を持っていって突き破る。直会で解散。

 元来は旧正月初午の日の行事だった、といえば思い出すのは稲荷の起源である。「山城国風土記」逸文の「伊奈利の社(「48」)」である。山へ行って椎の木をとってくるというところも似ている。風土記では「社の木を根こじて引き抜いて」持ってくるということになっている。風土記の方は稲荷社の起源になっているが、こちらはあくまでも烏の的を射る、当たらぬ時は矢を持っていって突き破るということで、古い型を保持しているといえる。風土記の記載よりもこちらの習俗のほうがこの行事の主旨を保存しているのである。なぜなら『風土記』の「伊奈利の社」ではすでに餅は白鳥となり山に下りて山の神となり、稲荷社の起源になったとされて、好事の源として転換しているからである。しかし的射神事・歩射神事の起源はケガレとしての太陽を射落とすことであるから、天烏の的はどうしても突き破られなければならない。稲荷社の起源については稿を改めて論ずる。
「当日早朝、烏が鳴かないうちに」というのは太陽が昇らぬうちにということで烏勧請同様、太陽が地中にあるうちに我らの望ましき太陽を選び出すという意味である。暗いうちに山へ行って椎の木を切ってくるというのは、椎の木は山の象徴であり、浜へ持ってくるのは浜が山とおなじように境界であるからだ。その境界に山を意味する森のごときものを作り、天烏を取り付けるとは、山に帰るカラス、つまり山に鎮まる太陽を浜という境界に鎮めることを意味しているのである。その太陽である天烏を射ることで太陽を鎮める。だからどうしても当たらなければ矢を持っていって突き破ることになるのである。
 事例6 岡山県真庭郡新庄村2-60
餅搗き 餅は通常、オオガエ餅、オイワイとよぶ歳桶にいれる2升5合分のお鏡餅二重ねと、ハマ、オイワイとよぶ小さな鏡餅をまずつく。ハマは神棚の数だけと、歳桶にいれる十二重ねをとる。その他、昔は親族と、嫁や婿が親元に年玉として持っていくオイワイをとっていた。

 事例6は「1 桶が重要であること」の事例2と同じである。一見射日神話の残存に見えないかもしれないが、歳桶をウケフネと考えれば桶に入れる鏡餅は太陽である。ハマは小さな鏡餅といっている。ということはハマも太陽である。なぜハマが太陽なのかについては、先述したように「ハマイバ」として稿を改めて検討しなければならない。
 事例7 徳島県麻植郡山川町3-35
旧正月9日、川田八幡神社で、お的(まと)といって古来の百手(ももて)的射の神事が行なわれた。奥川田区域の青壮年が斎戒沐浴の行(ぎょう)をして、射手10人が、かみしもを着用し、社の前庭で5人ずつ交互に出て的射1人百筋(すじ)を射る。

 事例8 三重県鳥羽市神島3-113
ゲーター祭り 浜ぐみの枝を束ねて輪にしたいわゆるアワは何を形どったものか、明確に説明し得る人はないが、日輪の形になぞらえた物だと一般にいっている。天に二日なく地に二王なしといって、もし偽りの日輪や偽りの王子があらわれたら許さないなどということを古老の連中はいう。夜明けに近いころ、当屋のイッケの若い衆ら数人が、この日輪を奉じて、いったん八代神社の一の鳥居前に行き、そこで気勢をあげて、東ゼコの高い丘の上に行き、そこから前浜の広場へ降りてくる。これより先、島中の16歳以上60歳までくらいの男という男は、皆手に手にかねて島の富士山から切ってきた女(め)竹(たけ)の長さ3間ぐらいの竿の先に白紙の幣をつけて、それを持って前浜に集合し、わいわいとはやしたてて、アワの降ってくるのを待機しているのである。この待っている間に、竹竿でお互いにたたき合いをして、「よいさ、よいさ」と騒がしいことひととおりではない。(略)そのうちにアワが東のセコの丘のほうから、わっしょい、わっしょいとあらわれてきた。(略)アワが近づいてくると、どっとアワをめがけて若い衆らが押しよせて、しばらくは右に左にアワをもみあっていた。このときは竹はもっていない。竹竿を持っている連中は波打ちぎわのあたりで相変わらずたたき合いをして騒いでいる。(略)やがて、ずずず、ずずずと海のほうへ進んでいくと、女竹の群れがどっとばかりアワに突撃し、たちまちアワは沖天高く突きあげられる。わあっという歓声とともに何百本という竹槍にささえられてアワは転々中空に浮きつ沈みつ走っていく。(略)やがて(略)アワが、口米の爺を出しているセコの若い衆の手に戻されるのである。つまり前年の当屋のセコの青年の手に受けとられ、わっしょいわっしょいとかついで214段の石段をかけあがり、八代神社の本殿に立てかけられるのである。このアワ突きをオテントウサンノ虫下シという人があった。虫がついたので虫下しをするのだという。

 なぜアワが最後に前年の当屋に受け取られるのか。高く突き上げられたアワは新しい太陽のようにも見えるが、鎮められるべき太陽であれば、前年のうちに始末される必要があるということだろうか。始末されるべき太陽をオテントウサンノ虫下シといったのであれば、言い得て妙である。
 事例9 三重県鳥羽市神島3-123 (53ページの墨塗りの事例4と同じ)
八幡の弓祭り 歩射が立願者によって行なわれる。立願の射手は12人以上おり道者という。あらかじめ乾燥させて、用意されていた松の割り木がある。それを束ねて作ったたいまつに火をつけて214段の高い石段を、爺とよばれる当屋2人と道者たち、その付き添い人などが行列をつくって登っていく。石段を登りつめた八代神社には高い石垣があり、点火したたいまつを両側に組んでおく。神社にはしとぎでつくったオシロモチとタカラモノと呼ばれる供物が供えられる。儀式がすむとたいまつを持ち、石段をユトリバまで降りてくる。ユトリバは石段の登り口、鳥居のわきにあり、語源は弓取り場か、あるいは昔アラダチという巫女が三河から来て湯立てをした跡ともいわれている。島の人々が石段の所で待機していて、たいまつの燃えさしを手のひらでこすって、「お祝い申す」といいながら、当屋の爺さんの顔にすみを塗る。すみを黒々と塗られると爺さんは「大漁大漁」と叫ぶ。このときタカラモノもまき、子供らが拾いあいをする。これらのあと歩射が行なわれる。的と射手との間にたいまつが燃えている。この火を越えて弓を射る。当屋がまず2本矢を射る。つづいて年長の道者から順次2本ずつ射て歩射は終わる。この日はどこの家でも、サバの形にごはんをこしらえて、神棚にお供えする。

 ゲーター祭りも八幡の弓祭りもどちらも射日・招日神話がもとである。なぜどちらも八代神社なのに、日を置かずに行なわれるのか。ゲーター祭りは大晦日から元旦、八幡の弓祭りは6日である。
 事例10 三重県度会郡玉城町棚橋3-162
 長くなるので必要なところだけを要約する。
お頭神事 町の神職は全く関与しない。座敷舞いの最初にがたがたと獅子が歯がみをする所作がある。この歯がみの音は悪魔をはらう呪力のあるものという。村人たちがあつまってきてククメモノのおひねりを棚の上に置いていく。各家でお頭に奉献するのがククメモノで、ククメルとは獅子の口の中にふくませるという意味のようである。座敷舞は午後2時ごろ始まり5時すぎに終る。
 夜は打ち祭りといい、前後にわかれていて、前段はネギヤ(祭りの頭人群を代表する家)の庭の舞、後段は村回りになる。打ち祭りは大荒れになる。打ち祭りのあとはイモトリの神事となる。イモは柳の木をけずって作られ、形が里芋に似ている。イモは神前の庭でネギがころがす。子供らがそれを取り合ってネギに返す。これを2、3回くりかえし、最後はネギの手にわたり、すべての神事がすんだあと村はずれへ捨てにいく。イモ捨て場は、棚橋と隣字の大野木との境界点で、オセチやおひねりもいっしょに捨てる。イモ捨てはもう夜の明け初めるころになって、太陽が上るといけないので、時間をよく見はからわなければならない。イモを捨てたら、一同はあとを振り向かずに帰らなければならない。正月に帰らない人でも、この神事の時だけは必ず帰るというほどだいじな祭りで、一年中の最大の行事であった。

 最初に獅子が歯がみをするというのは、歯がみのさいに出る音がホトホトやコトコトに通じるものであろう。神の来臨、つまり小正月の訪問者が来ることと同じである。その獅子の口に含ませるという意味のククメモノといわれる供物だから、ククメモノは運び去ってもらうためのケガレの象徴である。だから最後にはイモやオセチといっしょに境界へ捨てられる。ケガレの象徴とはケガレの太陽である。
 夜の打ち祭りになると興奮で大荒れになるというのは、多くの祭りにある騒乱、混乱の場面であり、「ウケフネを踏みとどろこし」の状況である。イモが庭で何回も転がされるというのも「踏みとどろこし」と同じで地に働きかけているのである。だから最後にはイモもオセチ、おひねりといっしょに捨てられる。始末されるべきケガレの太陽に相当する。それゆえに太陽が昇らないうちにすませる必要があるのである。祭りがすんで、昇る太陽が結果として招日神話に相当する。一年でいちばん大事、最大の行事とされるのは射日・招日神話に源があり、本来の正月を迎えるための行事だったからである。「一同はあとを振り向かずに帰らなければならない」というのは、民俗行事のなかでよくいわれることである。これについては『個人誌 散歩の手帖』29号「反閇 音と足踏み」で考察する予定である。
 事例11 三重県度会郡玉城町宮古3-171
 これも必要なところだけ要約する。
お頭神事 伊勢皇太神宮の摂社奈良波良神社というのが、村の西方に古くからあるが、無関係である。御園村高向でも、外宮の摂社宇須乃野社が無関係なのと同様である。神事の中心になる場所は下区と上区の境界で、クスギといい、小字名では苗代という。大正時代までくすのきの巨樹があったといっていた。一隅に社日さまの小祠がある。

 事例12 埼玉全地区4-116
 これも長くなるので要約する。
弓取り式 (南埼玉郡八潮町木曽根)1月16日、鎮守の氷川神社の境内で行なわれる。前日には集地(小字)ごとにその年の宿に集まって、御飯を食べほうだいに出すお高盛りが行なわれる。16日早朝、集地ごとに各宿に集まり、大的、大弓、小的が作られる。小的は集地の戸数だけ作られて、弓取り式のあと全戸に配られる。夕闇が濃くなるころ、いよいよ弓取り式にかかる。雌雄の鬼の字(雌鬼は鬼の字の上の点がない)が描かれた大的に向かって、各集地の顔役以下6人が出て弓を射る。弓取り式が済むと2組に分かれて拝殿で謡いの掛け合いが行なわれる。互いに大声をはりあげて相手の組を圧倒しようとするので、この弓取り式を別名けんか祭りともいう。
 川越市老袋(おいぶくろ)の氷川神社の弓取り式は2月11日に行なわれる。もとは早朝の行事だったが現在は午前10時からになっている。行列を組んで神社にくり込み、修祓・祝詞・玉串奉奠があり、終ると同時に拝殿の上から、古老が次々と矢を射る。なお弓射の終わったあと、木曽根、老袋ともに、矢をもって的がぶすぶすと何回も貫かれる。弓取り式あるいはオビシャは、このほか三郷町彦成、吉川町上河岸、春日部市赤沼、熊谷市玉井などでも行なわれる。

 弓取り式は日没後に始まるというし、川越市老袋ではもと早朝の行事だったともあるように、ケガレの太陽が地中に鎮まっているうちに行なわれる。つまり射日・招日神話の痕跡である。小的が全戸に配られるのは集落中のケガレ祓いをしていたことの名残りである。弓取り式のあとの謡いで互いに大声をはりあげて相手の組を圧倒しようとするのでけんか祭りともいうというのは事例10における「打ち祭りは大荒れになる」というところに相当する。これも祭りの騒乱、混乱を演出するもので天岩屋戸神話でいえば、高天原と葦原中国の暗闇、その時のサバエなす騒乱と混乱の状況であり、サバサバの行事などと共通していると考えられる。そして、謡がうたわれるというのは22ページ、67ページにもある。謡が騒乱、混乱のひとつの表現だったとも考えられる。23ページの「謡が入る意味」参照のこと。祭りの騒乱と混乱については稿を改めて考えてみたい。木曽根も老袋も最後は的がボロボロになるまで貫かれるのは弓取り式、オビシャに共通しており、それはケガレの太陽を確実に鎮めることがこの行事の本来の目的だからである。
 事例13 新潟県直江津市西横山桑取谷4-148
ビシャはごとに違うが、この村では今でも行なっている。神社ではただお祭りがあるだけで、家々でビシャを行なう。ヤマダケ(山竹)で弓を作り、矢はおがら(麻幹)で作り、これを神棚に上げる。子供たちは別の弓矢を作って遊ぶ。

 事例10のお頭神事では町の神職は全く関与しないというし、事例11のお頭神事も古くからある村の神社とは無関係であるという。事例11はそれを確認するためだけに引用した。それと一隅に社日の小祠があるのは、社日が射日・招日神話に起源するので示唆的である。事例13では、家々でビシャを行ない、神社ではこれも無関係に「ただお祭りがあるだけ」なのである。オビシャ、弓神事にかぎらず射日・招日神話にさかのぼる祭祀は、元来、神社とは無関係の民間祭祀だった。というより、神社発生以前からの共同体による、弥生以来の稲作文化に起源する祭祀である。
 それにしても、事例1~13は射日・招日神話に起源があり、その痕跡のある事例であると最初に述べた。それなのにこれらの事例には、招日の部分が無いではないか、と思われるかもしれない。その訳は、招日は実際の日の出がその役目を担っているからである。だから多くの祭りは夜間、未明、早朝であり、太陽が昇る前に行なわれる。この事例のなかでは5、8、9、10、12がそうである。

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