ケガレの起源と銅鐸の意味 岩戸神話の読み方と被差別民の起源 餅なし正月の意味と起源

ケガレの起源は射日・招日神話由来の余った危険な太陽であり、それを象徴するのが銅鐸です。銅鐸はアマテラスに置換わりました。

ケガレの起源と銅鐸の意味49 引用・参考文献 「今号における新たな知見」

2016年10月30日 09時56分47秒 | 日本の歴史と民俗
   引用・参考文献

1)  p4 木村成生「餅なし正月の意味と起源」『個人誌 散歩の手帖』27号所収、2014年、p21。
2)  p4 坪井洋文『イモと日本人 民俗文化論の課題』未来社、1979年、p177。
3)  p6 1)に同じ、p23。
4)  p7 柳田国男「小豆の話」『定本柳田国男集』第14巻所収、1978年、p460。
5)  p8 何彬「儀礼食・節句食のシンボリズムとアイデンティティ 中国北方漢族の場合」『東アジアにみる食とこころ 中国・台湾・モンゴル・韓国・日本』所収、おうふう、2004年、p16。
6)  p8 5)に同じ、金天浩「韓国シャーマンの儀礼食」p158。
7)  p8 5)に同じ、野村みつる「産育習俗における儀礼食と食物禁忌」p241。
8)  p9 廣野卓『食の万葉集 古代の食生活を科学する』中公新書、1998年、p76。
9)  p9 柳田国男「小豆を食べる日」『定本柳田国男集』第13巻所収、1976年、p395。
10) p10 柳田国男「知りたいと思ふ事二三」『海上の道』巻末に所収『定本柳田国男集』第1巻所収、1978年、p214。
11) p10 10)に同じ、「稲の産屋」『海上の道』所収、p208。
12)  p12文化財保護委員会『無形の民俗資料 記録 正月行事』全4冊、1966年~1971年。
13) p12 1)に同じ、p9~p10。
14) p15 1)に同じ、木村成生「小正月の訪問者と餅のゆくえ」p40。また『個人誌 散歩の手帖』25号、2012年。第3章「弓神楽から天岩屋戸神話へ」に詳述。
15) p15 木村成生「烏勧請の起源 第1部」『個人誌 散歩の手帖』25号所収、2012年、第5章「1日の始まりは日没から」。
16) p15 木村成生「烏勧請の起源 第2部」『個人誌 散歩の手帖』26号より、「余った危険な太陽」について引用する。
   太古、稲作農耕文化にともなう射日・招日神話において、カラスは太陽であり、太陽を運ぶ鳥であり、さらに太陽の昇降や鎮静を司る大役を負った鳥だったのである。人々は祭りの夜を徹して日の順調に巡ることを祈り、強すぎる太陽の象徴としての餅や団子を余った太陽として、日が昇るまえに、祭りの最後にカラスに与えたのである。餅や団子は太陽の象徴、それも強すぎる太陽、余った危険な太陽の象徴なのである。したがって烏勧請でカラスに餅や団子を与えるというのはカラスに危険な太陽を運び去ってもらうという意味なのである。
17) p16 小野重朗「夏正月と大隅の民俗」『日本民俗学』130号所収、1980年。
18) p16 長島要一「W・ブラムセンの情熱 『和洋対暦表』と古代日本」『図書』741号所収、岩波書店、2010年11月号。
19) p18 8)に同じ、p76。
20) p19 8)に同じ、p61。
21) p20 『土佐日記 蜻蛉日記』日本古典文学全集9、小学館、1973年、p43。
22) p20 『枕草子』上巻、新潮日本古典集成、新潮社、1977年、p22。
23) p21 金田久璋『森の神々と民俗』白水社、1998年、p105。
24) p21 2)に同じ、p94の事例35。
25) p22 1)に同じ、「小正月の訪問者と餅のゆくえ」p54。
26) p25 1)に同じ、「小正月の訪問者と餅のゆくえ」p46。
27) p26 木村成生「烏勧請の起源 第1部」『個人誌 散歩の手帖』25号所収、2012年、p36。
28) p27 林弥栄監修『山渓ハンディ図鑑1 野に咲く花』山と渓谷社、2003年、p540。
29) p30 1)に同じ、「小正月の訪問者と餅のゆくえ」p30。また『定本柳田国男集』第14巻所収「モノモラヒの話」p286~p289。
30) p31 15)に同じ、p35「尾張大國霊神社の儺追神事」およびp37「桑樹と射日神話」の項。
31) p34 15)に同じ。
32) p34 16)に同じ、p35、p41。
33) p35 1)に同じ、「小正月の訪問者と餅のゆくえ」p50。
34) p43 1)に同じ、「小正月の訪問者と餅のゆくえ」p40の「オドクウ様からスサノヲへ」。
35) p50 新谷尚紀『なぜ日本人は賽銭を投げるのか 民俗信仰を読み解く』文春新書、2003年、p204。
新谷は、ケガレは投げ捨てることによって祓え清められるとしている。たとえば貨幣はケガレの吸引装置であり、賽銭ではケガレを放ち捨てて祓え清めているのだという。だから神社は人々のケガレが祓え捨てられる場所である。神社はケガレの吸引浄化装置であると断じている。まことに強引な決め付けをしている。ではなぜ投げられるのが貨幣なのか。なぜ貨幣はケガレの吸引装置なのか。なぜ神社はケガレを浄化できるというのか。これらについては説明がない。
36) p51 15)に同じ、p40。また、『無形の民俗資料 記録第6集 正月行事2 島根県・岡山県』のp49。
37) p54 15)に同じ、「烏勧請の起源 第1部」。また、萩原秀三郎『稲と鳥と太陽の道 日本文化の原点を追う』大修館書店、1996年、第1章。
38) p54 15)に同じ、p41。
39) p58 柳田国男「山の人生」『定本柳田国男集』第4巻所収、筑摩書房、1973年、p100。
40) p63 1)に同じ、「小正月の訪問者と餅のゆくえ」p54「餅の一方向性」の項。
41) p66 小野重朗「南九州の正月仕事始め儀礼―山ノ神信仰の展開」『日本民俗学会報』34号所収、1964年。
42) p67 文化財保護委員会『無形の民俗資料 記録第5集 正月行事1 鹿児島県・大分県』、p11。
43) p68 15)に同じ、「第3章 弓神楽から天岩屋戸神話へ」。
44) p69 1)に同じ、「小正月の訪問者と餅のゆくえ」、p57「柳田、折口の提示した餅についての疑問」の項。
45) p70 萩原法子『熊野の太陽信仰と三本足の烏』戎光祥出版、1999年、p117。
46) p70 萩原秀三郎『稲と鳥と太陽の道 日本文化の原点を追う』大修館書店、1996年、p54。
47) p71 15)に同じ、p24「なぜスサノヲは暴れ、ウズメは踊るのか」の項。
48) p74 吉野裕訳『風土記』平凡社ライブラリー、2005年、p323。



   今号における新たな知見

1.P4  小豆はケガレの象徴であること。
2.P7  柳田国男は小豆の使い方について疑問を持っていたこと。
3.P11  小豆の使い方と餅なし正月とは共通している。
4.P13  オヘギが「おはぎ」の語源である。
5. P16  古代のある時代まで1年を2年に数えていたと考えられる。
6.P22 片品の猿追い祭りも天岩屋戸神話の名残りである。
7.P23 謡の起源は天岩屋戸神話におけるアメノウズメの「ウケ踏みとどろこし」による音である。
8. P28 雑煮の名の由来は正月の残り物を何でも混ぜ入れたことから。
9. P29 七草雑炊でまな板をコンコンたたくのは、反閇である。
10. p30 柳田の疑問「モノモラヒ」はケガレを運び去ること。
11. p32 五目飯、混ぜ飯などに混ぜ物を入れるのは米の足りない分のおぎないではない。
12. p33 日待ちも射日・招日神話にさかのぼる。
13. p34 赤い鯛の意味もケガレである。
14. p36 山の神の起源はケガレの餅、つまりケガレとしての余った危険な太陽である。
15. p40 餅を焼くことは、焦げ色によってケガレをつけたことを意味する。
16. p49 カラスに与えるものだから、米や銭などの供物は投げられる。
17. p52 ケガレの象徴としての墨を祓えやったことから、墨塗りは祝いになる。
18. p61 歳桶が重要なのは、アメノウズメの踏み鳴らしたウケフネにさかのぼるからである。
19. p63 ハマイバの意味はケガレの太陽を射るところ。

ケガレの起源と銅鐸の意味48 「ケガレの起源と銅鐸の意味」40~47分についての「おわりに」

2016年10月30日 09時51分15秒 | 日本の歴史と民俗
   おわりに

 第1章(小豆 ケガレの象徴として)で紹介したように、柳田国男は年中行事における小豆の使われ方について「何かまだ隠れている根拠」があるのではないかと疑問を提示している。それに対する答えとして私は、小豆がケガレの象徴であることを各地の民俗事例を引いて検証してきた。そして餅や小豆などの負っている象徴としてのケガレを行事のなかでどのように祓ってきたのかを、やはり民俗事例を引いて説明してきた。柳田に「隠れている根拠」という漠然とした疑問を抱かせた小豆は、ケガレの象徴である。その疑問は餅についてのわかりにくさと共通するものである。なぜそれにカラスがかかわってくるのか。それはカラスはケガレを運び去る役目を負っているからである。それについても射日・招日神話をあてはめることによって検証できること、そして正月行事は天岩屋戸神話、その起源である射日・招日神話を再現する行為であることを検証してきた。
 次号では反閇の謎に迫っていこう。反閇とは定説になっている地霊や邪悪な霊を踏み鎮めることではなく、太陽を鎮めることである。ケガレの太陽を鎮めて望ましきひとつの太陽を呼び出すことである。今号では、さまざまな行事の場面で実はケガレ祓いが行なわれていることを明らかにした。そして次号ではさらに、反閇がもうひとつのケガレ祓いの方法であること、つまり正月の迎え方としてのもうひとつの方法として反閇が存在することを明らかにしていこう。

ケガレの起源と銅鐸の意味47 正月行事にひそむ射日・招日神話2 射日・招日神話へさかのぼる

2016年10月29日 10時35分01秒 | 日本の歴史と民俗
   2 射日・招日神話へさかのぼる

射日・招日神話の痕跡がある事例
 『日本民俗大辞典』の「たいようすうはい 太陽崇拝」をみると、「太陽神に関する祭祀は現在ほとんど残っていないが、正月に初日の出を拝むこと、彼岸の社日参り、お日待ち、日の伴、天道念仏、天道花、お火焚神事などの行事の中に痕跡を残している」と、何種類かの行事にその痕跡をみることができるとしている。しかし、射日・招日神話を前提としてみていくと、日本の民俗における太陽信仰の痕跡は飛躍的にふえる、というよりもほとんど太陽信仰のために正月行事をはじめ、年中行事は行なわれていることになる。『散歩の手帖』25、26、27号そして今号の前章まで、烏勧請、弓神事、弓神楽、天岩屋戸神話、オコナイ、コト八日、餅なし正月、小正月行事と民俗事例をたどってきて、それは明らかであろう。たとえば弓神事だけでも萩原法子によると全国に450カ所あるという(「45」)。
 『稲と鳥と太陽の道』で萩原秀三郎は、オコナイ、弓神事、ゲーター祭り、近江八幡市馬淵の宮座、オビシャ、祁答院町の藺牟田神舞、西都市銀鏡神楽、広島県沼田町阿刀神楽、薩摩郡入来町浦之名の大宮神社に伝わる入来神舞などをあげて、射日神話にもとづく行事であると説いている。萩原はこれらの行事によって射日・招日神話は当然、日本列島にももたらされたのであり、天岩屋戸神話は射日・招日神話の射日の部分が欠落したものであると考えられるとしている(「46」)。しかしそれらは欠落したのではなく、スサノヲの暴虐の物語に入れ替わったのである。射日、つまり太陽を射るということは太陽を落すことであり、その結果は暗闇である。スサノヲの役割は高天原に数々のケガレをもたらした結果、太陽であるアマテラスを岩戸ごもりさせて暗闇をもたらし、騒乱、混乱を引き起こしたことである(「47」)。これが射日神話の部分に相当するのである。
 ここでは正月行事の中に射日・招日神話の痕跡を直接残している例を見出していこう。ただし、それらの事例は直接とはいっても、そのまま残っているものではない。これまで扱ってきたような、多くの正月行事などに反映されている形、あるいは紛れ込んだように残されているというものではなく、射日・招日神話にもとづく祭祀から直接に変遷してきたと考えられるという意味である。
 事例1 鹿児島県肝属郡佐多町1-31
ハイブシャ 〔竹之浦〕旧正月23日に今も行なっている。ハイブシャ(春武射)とは、全戸から正月のユエモン(祝い物で主として鏡餅のこと)に敷いた白い紙を世話人のところに集めて、そこで弓の的を作る。ナイダケという篠竹を曲げて、直径1mをこえる輪を作り、それに先の紙を張って、墨で丸をかく。そんな的をいくつも作り、同時に竹をまげて1.8mほどの弓とその矢も作って用意する。場所は観音の下の浜で、のひとびとが見物する中で、戸主たちが弓を引いて的を射る。
〔古里〕では的にあたるまで射る。

 鏡餅は祓われるべきケガレの太陽を表わしているから、それに敷いていた白い紙もまたケガレの太陽を象徴している。だからその紙を使って的を作るのである。しかも墨で丸を描く。墨もまたケガレを象徴し、丸は太陽をも表わしているのである。そんな的をいくつも作るというのは複数の太陽を作るわけで、余った危険な太陽である。そしてブシャを行なうのは「観音の下の浜」つまり境界である。陸と海との境であり、生活圏の外縁である。境界へ行ってケガレの太陽を祓えやるのである。30ページ第1章の「境界へ行って餅や雑炊を食べる」行為と共通するものである。〔古里〕では的にあたるまで射る」というのは、ケガレを祓わずにやめるわけにはいかないからである。的に当たるまで射る、最後は的がボロボロになるまで突き破るといったことが各地でよく見られるのは、ケガレがどうしても祓われなければ我らが望む太陽がもたらす穏やかな新年にはならないからである。
 事例2 鹿児島県大島郡三島村1-104
(附記)大里ではこのころ(2日)男の子にはイセブの木(五倍子(ぶし)に似た木)で弓を作ってやり、(略)「正月に男の子のおる家に弓と矢を祝う。弓はイセブ、矢は篠竹でつくり、3本である。祝われた家では三が日間、座敷に飾り、その後は子供に与える。子供はそれをもって門松に飾ったダイダイを的にして射て遊ぶ」と早川孝太郎氏の前掲書に記されている。

 早川孝太郎の前掲書とは『古代村落の研究』であるという。ダイダイを的にするというのは、蜜柑、柿、赤い魚などを赤色の儀礼食として使うのと同じ意味をもつ。ケガレの太陽の変化型である。
 事例3 鹿児島県大島郡三島村1-111
十五日 〔大里〕アカガイをこの朝食べる。早川孝太郎氏の前掲書には「14日にアカメシ(小豆粥)をたいて神をまつる。因に小豆粥はこの日が最初でその前につくることができない」とあるが、これは日が違うようである。
〔竹島〕この日の朝の汁には必ず貝をいれ、野菜は大根、豆腐など5種から10種までのものを、みな賽の目切りに切って入れなければならないとされている。またこの朝食に使う箸は、絶対に桑の箸でないといけない。そしてかりに他家に客にいっても、また自家に客がきても、桑の枝の曲ったなりに削られた箸でなければ、この日の朝食は食べないこととされている。

 大里の事例は日の間違いはともかく、小豆の解禁日がある事例である。竹島の事例は第1章「小豆 ケガレの象徴として」で事例17として取り上げている。その中で桑の木について、射日神話との関係を述べているが、野菜は「みな賽の目切りに切って入れなければならない」として、粥や雑炊、シモツカレとも通じることに注意するべきであろう。
 事例4 大分県東国東郡国東町1-154
ジュウソウ この日(正月13日)(略)、座元のツボ(庭)でマトーを射る。マトーはシリマエの組の4人が前日に座元の家に集まり、マガヤで編んでその上に白紙(半紙)をはり、墨で輪をかき、裏に「鬼」と字を書いて柄に逆さにつける。また両端に竹を曲げて「山」と「川」の小さいマトーをたてる。矢は75cmくらいの真竹で、白紙の羽根をつけたものを63本作る。弓は長さ180cmほどの樫の細枝にイヒチをなった紐(ヨリという)を弦にはったものを作る。祝詞のあと神職が明きの方に向けて3矢射たあと、座員が1人3本ずつ矢を射る。

 マトーは的か。20軒の宮座の株持ちの家を4軒ずつ5つに分けたものをシリマエと呼んでいる。墨で輪を描いたのは太陽の象徴、「鬼」の字は元は鬼神に通じるところから来たのだろうが、すでに射落とすべき、退治すべき鬼に堕しているのだろう。イヒチとは私には不明。
 事例5 島根県島根半島2-47
お的の神事 的射神事・歩射神事ともいい、半島地区では〔三浦〕御津神社、〔北浦〕伊奈頭美神社に残っている。伊奈頭美神社のお的神事は、元来は旧正月初午の日の行事であってか、今は6日にお田植神事といっしょに行なうようになっている。当日早朝、烏の鳴かないうちに、5人の頭屋が山へ行って椎の木を5、6本切ってき、これを浜へ森のごとくに立てる。白紙に天烏を画いて森の中ほどにとりつける。9時ごろ、一同拝殿でそろい、延導幣の頭、金幣持ちの区長、弓持ちの頭、斎主、矢持ちの頭2人の順で下がり、恵方に向かって森を3回まわる。天烏の的に向かってまず斎主が射、次ぎに区長、頭人、添頭の順で射、どうしても当たらぬ時には矢を持っていって突き破る。直会で解散。

 元来は旧正月初午の日の行事だった、といえば思い出すのは稲荷の起源である。「山城国風土記」逸文の「伊奈利の社(「48」)」である。山へ行って椎の木をとってくるというところも似ている。風土記では「社の木を根こじて引き抜いて」持ってくるということになっている。風土記の方は稲荷社の起源になっているが、こちらはあくまでも烏の的を射る、当たらぬ時は矢を持っていって突き破るということで、古い型を保持しているといえる。風土記の記載よりもこちらの習俗のほうがこの行事の主旨を保存しているのである。なぜなら『風土記』の「伊奈利の社」ではすでに餅は白鳥となり山に下りて山の神となり、稲荷社の起源になったとされて、好事の源として転換しているからである。しかし的射神事・歩射神事の起源はケガレとしての太陽を射落とすことであるから、天烏の的はどうしても突き破られなければならない。稲荷社の起源については稿を改めて論ずる。
「当日早朝、烏が鳴かないうちに」というのは太陽が昇らぬうちにということで烏勧請同様、太陽が地中にあるうちに我らの望ましき太陽を選び出すという意味である。暗いうちに山へ行って椎の木を切ってくるというのは、椎の木は山の象徴であり、浜へ持ってくるのは浜が山とおなじように境界であるからだ。その境界に山を意味する森のごときものを作り、天烏を取り付けるとは、山に帰るカラス、つまり山に鎮まる太陽を浜という境界に鎮めることを意味しているのである。その太陽である天烏を射ることで太陽を鎮める。だからどうしても当たらなければ矢を持っていって突き破ることになるのである。
 事例6 岡山県真庭郡新庄村2-60
餅搗き 餅は通常、オオガエ餅、オイワイとよぶ歳桶にいれる2升5合分のお鏡餅二重ねと、ハマ、オイワイとよぶ小さな鏡餅をまずつく。ハマは神棚の数だけと、歳桶にいれる十二重ねをとる。その他、昔は親族と、嫁や婿が親元に年玉として持っていくオイワイをとっていた。

 事例6は「1 桶が重要であること」の事例2と同じである。一見射日神話の残存に見えないかもしれないが、歳桶をウケフネと考えれば桶に入れる鏡餅は太陽である。ハマは小さな鏡餅といっている。ということはハマも太陽である。なぜハマが太陽なのかについては、先述したように「ハマイバ」として稿を改めて検討しなければならない。
 事例7 徳島県麻植郡山川町3-35
旧正月9日、川田八幡神社で、お的(まと)といって古来の百手(ももて)的射の神事が行なわれた。奥川田区域の青壮年が斎戒沐浴の行(ぎょう)をして、射手10人が、かみしもを着用し、社の前庭で5人ずつ交互に出て的射1人百筋(すじ)を射る。

 事例8 三重県鳥羽市神島3-113
ゲーター祭り 浜ぐみの枝を束ねて輪にしたいわゆるアワは何を形どったものか、明確に説明し得る人はないが、日輪の形になぞらえた物だと一般にいっている。天に二日なく地に二王なしといって、もし偽りの日輪や偽りの王子があらわれたら許さないなどということを古老の連中はいう。夜明けに近いころ、当屋のイッケの若い衆ら数人が、この日輪を奉じて、いったん八代神社の一の鳥居前に行き、そこで気勢をあげて、東ゼコの高い丘の上に行き、そこから前浜の広場へ降りてくる。これより先、島中の16歳以上60歳までくらいの男という男は、皆手に手にかねて島の富士山から切ってきた女(め)竹(たけ)の長さ3間ぐらいの竿の先に白紙の幣をつけて、それを持って前浜に集合し、わいわいとはやしたてて、アワの降ってくるのを待機しているのである。この待っている間に、竹竿でお互いにたたき合いをして、「よいさ、よいさ」と騒がしいことひととおりではない。(略)そのうちにアワが東のセコの丘のほうから、わっしょい、わっしょいとあらわれてきた。(略)アワが近づいてくると、どっとアワをめがけて若い衆らが押しよせて、しばらくは右に左にアワをもみあっていた。このときは竹はもっていない。竹竿を持っている連中は波打ちぎわのあたりで相変わらずたたき合いをして騒いでいる。(略)やがて、ずずず、ずずずと海のほうへ進んでいくと、女竹の群れがどっとばかりアワに突撃し、たちまちアワは沖天高く突きあげられる。わあっという歓声とともに何百本という竹槍にささえられてアワは転々中空に浮きつ沈みつ走っていく。(略)やがて(略)アワが、口米の爺を出しているセコの若い衆の手に戻されるのである。つまり前年の当屋のセコの青年の手に受けとられ、わっしょいわっしょいとかついで214段の石段をかけあがり、八代神社の本殿に立てかけられるのである。このアワ突きをオテントウサンノ虫下シという人があった。虫がついたので虫下しをするのだという。

 なぜアワが最後に前年の当屋に受け取られるのか。高く突き上げられたアワは新しい太陽のようにも見えるが、鎮められるべき太陽であれば、前年のうちに始末される必要があるということだろうか。始末されるべき太陽をオテントウサンノ虫下シといったのであれば、言い得て妙である。
 事例9 三重県鳥羽市神島3-123 (53ページの墨塗りの事例4と同じ)
八幡の弓祭り 歩射が立願者によって行なわれる。立願の射手は12人以上おり道者という。あらかじめ乾燥させて、用意されていた松の割り木がある。それを束ねて作ったたいまつに火をつけて214段の高い石段を、爺とよばれる当屋2人と道者たち、その付き添い人などが行列をつくって登っていく。石段を登りつめた八代神社には高い石垣があり、点火したたいまつを両側に組んでおく。神社にはしとぎでつくったオシロモチとタカラモノと呼ばれる供物が供えられる。儀式がすむとたいまつを持ち、石段をユトリバまで降りてくる。ユトリバは石段の登り口、鳥居のわきにあり、語源は弓取り場か、あるいは昔アラダチという巫女が三河から来て湯立てをした跡ともいわれている。島の人々が石段の所で待機していて、たいまつの燃えさしを手のひらでこすって、「お祝い申す」といいながら、当屋の爺さんの顔にすみを塗る。すみを黒々と塗られると爺さんは「大漁大漁」と叫ぶ。このときタカラモノもまき、子供らが拾いあいをする。これらのあと歩射が行なわれる。的と射手との間にたいまつが燃えている。この火を越えて弓を射る。当屋がまず2本矢を射る。つづいて年長の道者から順次2本ずつ射て歩射は終わる。この日はどこの家でも、サバの形にごはんをこしらえて、神棚にお供えする。

 ゲーター祭りも八幡の弓祭りもどちらも射日・招日神話がもとである。なぜどちらも八代神社なのに、日を置かずに行なわれるのか。ゲーター祭りは大晦日から元旦、八幡の弓祭りは6日である。
 事例10 三重県度会郡玉城町棚橋3-162
 長くなるので必要なところだけを要約する。
お頭神事 町の神職は全く関与しない。座敷舞いの最初にがたがたと獅子が歯がみをする所作がある。この歯がみの音は悪魔をはらう呪力のあるものという。村人たちがあつまってきてククメモノのおひねりを棚の上に置いていく。各家でお頭に奉献するのがククメモノで、ククメルとは獅子の口の中にふくませるという意味のようである。座敷舞は午後2時ごろ始まり5時すぎに終る。
 夜は打ち祭りといい、前後にわかれていて、前段はネギヤ(祭りの頭人群を代表する家)の庭の舞、後段は村回りになる。打ち祭りは大荒れになる。打ち祭りのあとはイモトリの神事となる。イモは柳の木をけずって作られ、形が里芋に似ている。イモは神前の庭でネギがころがす。子供らがそれを取り合ってネギに返す。これを2、3回くりかえし、最後はネギの手にわたり、すべての神事がすんだあと村はずれへ捨てにいく。イモ捨て場は、棚橋と隣字の大野木との境界点で、オセチやおひねりもいっしょに捨てる。イモ捨てはもう夜の明け初めるころになって、太陽が上るといけないので、時間をよく見はからわなければならない。イモを捨てたら、一同はあとを振り向かずに帰らなければならない。正月に帰らない人でも、この神事の時だけは必ず帰るというほどだいじな祭りで、一年中の最大の行事であった。

 最初に獅子が歯がみをするというのは、歯がみのさいに出る音がホトホトやコトコトに通じるものであろう。神の来臨、つまり小正月の訪問者が来ることと同じである。その獅子の口に含ませるという意味のククメモノといわれる供物だから、ククメモノは運び去ってもらうためのケガレの象徴である。だから最後にはイモやオセチといっしょに境界へ捨てられる。ケガレの象徴とはケガレの太陽である。
 夜の打ち祭りになると興奮で大荒れになるというのは、多くの祭りにある騒乱、混乱の場面であり、「ウケフネを踏みとどろこし」の状況である。イモが庭で何回も転がされるというのも「踏みとどろこし」と同じで地に働きかけているのである。だから最後にはイモもオセチ、おひねりといっしょに捨てられる。始末されるべきケガレの太陽に相当する。それゆえに太陽が昇らないうちにすませる必要があるのである。祭りがすんで、昇る太陽が結果として招日神話に相当する。一年でいちばん大事、最大の行事とされるのは射日・招日神話に源があり、本来の正月を迎えるための行事だったからである。「一同はあとを振り向かずに帰らなければならない」というのは、民俗行事のなかでよくいわれることである。これについては『個人誌 散歩の手帖』29号「反閇 音と足踏み」で考察する予定である。
 事例11 三重県度会郡玉城町宮古3-171
 これも必要なところだけ要約する。
お頭神事 伊勢皇太神宮の摂社奈良波良神社というのが、村の西方に古くからあるが、無関係である。御園村高向でも、外宮の摂社宇須乃野社が無関係なのと同様である。神事の中心になる場所は下区と上区の境界で、クスギといい、小字名では苗代という。大正時代までくすのきの巨樹があったといっていた。一隅に社日さまの小祠がある。

 事例12 埼玉全地区4-116
 これも長くなるので要約する。
弓取り式 (南埼玉郡八潮町木曽根)1月16日、鎮守の氷川神社の境内で行なわれる。前日には集地(小字)ごとにその年の宿に集まって、御飯を食べほうだいに出すお高盛りが行なわれる。16日早朝、集地ごとに各宿に集まり、大的、大弓、小的が作られる。小的は集地の戸数だけ作られて、弓取り式のあと全戸に配られる。夕闇が濃くなるころ、いよいよ弓取り式にかかる。雌雄の鬼の字(雌鬼は鬼の字の上の点がない)が描かれた大的に向かって、各集地の顔役以下6人が出て弓を射る。弓取り式が済むと2組に分かれて拝殿で謡いの掛け合いが行なわれる。互いに大声をはりあげて相手の組を圧倒しようとするので、この弓取り式を別名けんか祭りともいう。
 川越市老袋(おいぶくろ)の氷川神社の弓取り式は2月11日に行なわれる。もとは早朝の行事だったが現在は午前10時からになっている。行列を組んで神社にくり込み、修祓・祝詞・玉串奉奠があり、終ると同時に拝殿の上から、古老が次々と矢を射る。なお弓射の終わったあと、木曽根、老袋ともに、矢をもって的がぶすぶすと何回も貫かれる。弓取り式あるいはオビシャは、このほか三郷町彦成、吉川町上河岸、春日部市赤沼、熊谷市玉井などでも行なわれる。

 弓取り式は日没後に始まるというし、川越市老袋ではもと早朝の行事だったともあるように、ケガレの太陽が地中に鎮まっているうちに行なわれる。つまり射日・招日神話の痕跡である。小的が全戸に配られるのは集落中のケガレ祓いをしていたことの名残りである。弓取り式のあとの謡いで互いに大声をはりあげて相手の組を圧倒しようとするのでけんか祭りともいうというのは事例10における「打ち祭りは大荒れになる」というところに相当する。これも祭りの騒乱、混乱を演出するもので天岩屋戸神話でいえば、高天原と葦原中国の暗闇、その時のサバエなす騒乱と混乱の状況であり、サバサバの行事などと共通していると考えられる。そして、謡がうたわれるというのは22ページ、67ページにもある。謡が騒乱、混乱のひとつの表現だったとも考えられる。23ページの「謡が入る意味」参照のこと。祭りの騒乱と混乱については稿を改めて考えてみたい。木曽根も老袋も最後は的がボロボロになるまで貫かれるのは弓取り式、オビシャに共通しており、それはケガレの太陽を確実に鎮めることがこの行事の本来の目的だからである。
 事例13 新潟県直江津市西横山桑取谷4-148
ビシャはごとに違うが、この村では今でも行なっている。神社ではただお祭りがあるだけで、家々でビシャを行なう。ヤマダケ(山竹)で弓を作り、矢はおがら(麻幹)で作り、これを神棚に上げる。子供たちは別の弓矢を作って遊ぶ。

 事例10のお頭神事では町の神職は全く関与しないというし、事例11のお頭神事も古くからある村の神社とは無関係であるという。事例11はそれを確認するためだけに引用した。それと一隅に社日の小祠があるのは、社日が射日・招日神話に起源するので示唆的である。事例13では、家々でビシャを行ない、神社ではこれも無関係に「ただお祭りがあるだけ」なのである。オビシャ、弓神事にかぎらず射日・招日神話にさかのぼる祭祀は、元来、神社とは無関係の民間祭祀だった。というより、神社発生以前からの共同体による、弥生以来の稲作文化に起源する祭祀である。
 それにしても、事例1~13は射日・招日神話に起源があり、その痕跡のある事例であると最初に述べた。それなのにこれらの事例には、招日の部分が無いではないか、と思われるかもしれない。その訳は、招日は実際の日の出がその役目を担っているからである。だから多くの祭りは夜間、未明、早朝であり、太陽が昇る前に行なわれる。この事例のなかでは5、8、9、10、12がそうである。

ケガレの起源と銅鐸の意味46 正月行事にひそむ射日・招日神話1 桶が重要であること

2016年10月28日 09時23分39秒 | 日本の歴史と民俗
   第3章 正月行事にひそむ射日・招日神話
   1 桶が重要であること

ウケフネと桶 
 前章では正月行事の中でのさまざまな場面で、もともとケガレを祓うことを意味する行為があったことを、事例をあげて説明してきた。ではケガレはなぜ祓われなければならないのか。なぜ正月行事にケガレ祓いがこのようにくり返し、念入りにおこなわなければならないのか。それは至浄の正月を迎えるためである。至浄の正月を迎えるとは、我らが望む穏やかなひとつの太陽を迎えることである。つまり、至浄の正月とは至浄の高天原の再現なのである。複数の余った危険な太陽を鎮めて、我らの望むひとつの太陽を迎えるのが、射日・招日神話の、そして高天原における天岩屋戸神話の表現するところである。それを地上にも再現して至浄の正月を作り出そうとするのが正月行事である。正月に行なうから正月行事ではなく、正月を迎えるための行事だったのである。正月行事をそう位置づけると、桶の重要性も自ずと浮かび上ってくる。そして桶あるいは桶と似たようなあつかわれ方をする樽、手桶、臼などが用いられる行事も同じく、天岩屋戸神話、そして射日・招日神話にさかのぼるものであると考えられる。
 桶が重要なのは天岩屋戸神話におけるアメノウズメが踏み鳴らすウケフネに起源があるからである。ウズメはウケフネを踏み鳴らすことによって太陽を鎮め、ひとつの太陽を呼び出したのである。
 ではまず『日本民俗大辞典』から「としおけ 年桶」を引用する。
正月にまつられる年神への供物を入れた桶。三方(さんぽう)に盛って供える形式より古い形式を伝えている。(略)主に兵庫県・岡山県・鳥取県でみられ、さらに島根県にもあり、分布の中心は中国地方の東半分。桶の中には米・餅・串柿・栗・カヤの実などが入れられるが、なかには1年間もうけたお金を入れるという兵庫県宍粟郡波賀町上野のような例もある。(略)これ自体が神聖な祭祀対象になっている例も多い。

 同じく大辞典の「としがみ 年神」にはつぎの記述がみえる。
年神(年桶)を11日まで神棚と同じようにまつり(兵庫県朝来郡朝来町多々良木)、このような年神をトシトクサマ、トシトコサン、正月さまなどとも呼ぶ。オイエ(居間や台所)の年棚に年桶をご神体としてまつる土地が多い。

 桶の重要性はいっているが、なぜ年桶が神聖な祭祀対象だったり、ご神体として祀られたりするのか。それについては大辞典には何も書かれていない。この章では各地の事例を検討し、桶がなぜ重要なのかを考えてみよう。

正月行事で桶がどう使われるか
 では『正月行事』全4冊の中から桶が使われている例を見ていこう。
 事例1 島根県島根半島2-19
棚桶 正月に餅を桶にいれて飾るという地方は、中国地方の東半に広くゆきわたっており、(略)そのうち〔坂浦〕では、現在、はなはだ形式化し、ただ歳飾りの下に置いてあるだけであり、中には、桶の中には何もいれず、この上にお鏡を供えたりしている家さえあるが、それでも、家によっては、これに手を触れることを非常にいやがるむきがある。現にこのたびも、写真を写すためすこしずらそうとし老媼からとても怒られたのであるから、やはりただの桶とは考えていないむきがある。(略)(棚桶の)中には米1升・餅1重ね・永銭などをいれ、まわりをシメで囲って結び、モロモキ(うらじろ)をつけ、今ではこれに伊勢の大麻をさす。疑うべくもない、この棚桶こそ依代である。

 「これに手を触れることを非常にいやがる」とか「すこしずらそうとし老媼からとても怒られた」という年桶である。この事例ひとつとってもたんなる桶ではないことがわかる。記録担当者の石塚尊俊は棚桶は依代であると断定している。
 事例2 岡山県真庭郡新庄村2-60
餅搗き 餅は通常、オオガエ餅、オイワイとよぶ歳桶にいれる2升5合分のお鏡餅二重ねと、ハマ、オイワイとよぶ小さな鏡餅をまずつく。ハマは神棚の数だけと、歳桶にいれる十二重ねをとる。その他、昔は親族と、嫁や婿が親元に年玉として持っていくオイワイをとっていた。

 歳桶には鏡餅二重ねを入れる。それと十二重ねのハマといわれる小さな鏡餅を入れる。であれば歳桶はやはり重要である。ハマとは上記によると、小さな鏡餅のことをいう。鏡餅はケガレの太陽であるからハマもケガレの太陽ということになる。そうすると話は横へそれるが、ハマイバ、破魔射場とはケガレの太陽としての餅を射るところとなる。ハマイバについては稿を改めて論じることになる。オイワイである鏡餅を親元へ持っていくのは祖霊信仰にかかわるとの見方は『散歩の手帖』27号の「餅の一方向性」で述べた(「40」)。
 事例3 岡山県真庭郡新庄村2-63
歳神の棚の飾り 歳桶には米1升を底に、その上にオオガエ餅といわれるオイワイとするめ、栗、田作り、昆布、家族の数だけの柿、およびハマと呼ぶ小さなオイワイ十二重ね(閏年十三重ね)をいれ、柴、豆がら、シメのコをつけたシメを張る。

 事例2にもあるように、オオガエ餅とはオイワイであり、鏡餅である。徳島県では小正月の訪問者の行事のことをオイワイソと呼ぶが、これも鏡餅の意味からでているのかもしれない。そしてハマというのは、小さなオイワイである。ということは小さな鏡餅であるから、やはりここでも、ハマとは太陽のことであると再確認できる。事例2でもそうだが、ハマを12個作るとは12ヶ月分であろうから、12ヶ月の太陽の平穏であることへの願いであろう。だから閏年には十三重ねとしている。しかしこれは、太陽の数が複数であったとする射日・招日神話がもとであれば、余った危険な太陽としての12個あるいは10個がもとの形だったであろう。それらの太陽はアメノウズメの踏み鳴らしたウケフネである歳桶にこそ入れられるべきである。柳田の提出しているハマイバ、破魔射場の謎はこれで解けることになる。
 事例4 岡山県笠岡市陸地部2-94
シメ飾り 祝い鉢は年に1回しか使わないが、お鏡(お鏡餅)をいれる桶で、祝い鉢のない家ではハンボウか膳にいれて歳神様に供える。

 事例5 岡山県笠岡市北木島2-107
餅搗き まず鏡餅をつくが〔丸岩〕では、歳桶にいれてまわしながらもむ。

 まわしながら揉むことは、何かここでは特別な仕草なのだろうか。あるいは桶や臼のまわりを叩くことからの変化か。
 事例6 岡山県邑久郡長船町2-150
歳桶 〔八日市〕では、歳神の棚には大飾りをした。歳神にはたらの木、一むかえの餅(一重ねの餅)を月の数だけと、蜜柑、柿、かち栗などを祝いこむ。ただし、歳桶には米はいれなかった。庚申の年に、さいふを縫って歳桶にいれた。金に不自由しないためという。

 財布を歳桶に入れたのはケガレの象徴としての銭を表現しているのだろう。これもケガレ祓いである。50ページでもふれたが、投げられる供物としての銭については、なぜ銭がケガレの象徴であるか、稿を改めて検討する必要がある。

 事例7 岡山県赤磐郡吉井町戸津野、和気郡和気町吉田2-156
歳桶の中にいれるものは米1升、ほんだわら、鏡餅、小餅(月の数だけ)、柿、栗、するめ、えび、さいふなどでこれらのものをいれて歳神祭りに供える。

 事例8 岡山県和気郡吉永町田倉2-158
神棚の片隅(向かって左端)に歳桶をおき、米1升2合(閏年には1升3合)、お鏡一重ねをいれてふたをしておく。

 事例9 三重県志摩郡大王町波切3-145
大みそか お鏡を供える場所は床の前で、ユリという檜材を薄くはいで円形にした曲げ物に、直径7、8寸の物から1尺4、5寸のお鏡をのせる。(略)三方を使う家も増加してきたが、ユリを使うというのがここの古来からの風習である。

 そのユリも檜材の曲げ物ということからして、元は桶だったのではないか。さらに樽、手桶、臼も本来は桶だったと考えられる事例を次に3件と小野重朗の採集した例を記す。
 事例10 岩手県大船渡市立根町4-40
里帰り 嫁いできてから3年ぐらいの間は里帰りをする。里帰りの礼には、鏡餅3升のもの一重ね・魚2匹(メヌケ、またはキツジなどの赤い魚)・酒1升を樽にして持参する。

 事例11 徳島県阿波郡阿波町3-18
<
strong>餅つき 女2人か3人が1組となり手桶を中に置き、大きなささらを持って、餅つきのまねをして手桶を打ちながら周囲を回り、伊勢音頭を歌い後に謎かけなどをする。もらった餅はその手桶に入れてつぎへいく。

 事例12 三重県志摩郡大王町波切3-144、船越3-132
オヤノタル 餅つきのとき、3臼めくらいのときお重ねをつくり、嫁が生家の親へお祝いに持っていくことをオヤノタルヲタテテクという。
船越では昔はオジダル・オバダルといって叔父叔母にもタルモチを贈ったものであったが、今はオヤダルさえもなくなった。

 事例10、11、12は『散歩の手帖』27号で事例31、51、53として紹介している手桶と樽である。そして今回の事例1は『正月行事』2の島根半島から始まっているが、桶ではなく臼ならば『正月行事』1の中でも登場している。当初は臼の意味に気づかなかった。桶にこそ意味あり、と思っていたのだが、小野重朗の「南九州の正月仕事始め儀礼―山ノ神信仰の展開(「41」)」に出会って、桶が南九州では臼に替わっていることに思い当たり、臼の重要性にここで気づいたのである。臼について詳細は稿を改めてさらに検討を重ねたいが、ここでは臼も桶の役割をしていることだけを小野による次の事例で確認しておきたい。
 ⑦串木野市羽島・海士泊の臼オコシ
旧の大晦日に、臼を洗って、その中に枡に米・餅を入れたものを入れ、ユズリハ・ウラジロもそえて入れ、テギネ2本をその上におき、その上から大きいミを下向きにして被せる。これをウスを寝せるという。正月2日にはこのねせてある臼を起こす。2日は起きるとすぐ男主人が土間に下りて臼に被せたミをどけ、テギネで臼の縁を2つ3つコツコツと叩き、ミをもってふるう真似をする。これらはアキホウに向いて行なう。そして米や餅はだして2日に食べる。これをウスオコシといい、今でもやっている家が多い。
 この行事も永い時間の経過を経て変化や脚色が加わっているが、要は米・餅を桶に相当する臼に入れ、アキホウに向いて臼をコツコツ叩き、そのあと米・餅を出して食べるのである。つまりケガレの太陽を象徴する米・餅をアメノウズメの踏み鳴らしたウケフネに相当する臼に入れて、アキホウといわれる歳徳神のつかさどる方角に向けてコツコツ叩き、つまり「踏みとどろこし」、臼から出してケガレを運び去ることになるのである。そうとう変形はしているが、天岩屋戸神話へさかのぼるのである。これと同じようなウスオコシの行事が南九州のあちこちに点々とみられるとして、小野はほかに6例を紹介している。『正月行事』1でも鹿児島県のところで、 臼起しは大隅半島中央部で非常にさかんだったと報告している(「42」)。
 事例13 埼玉全地区4-121
甘酒祭り 狭山市奥富の梅宮神社の甘酒祭りは、2月11日に行なわれるが、10日は夜宮で、杜氏と呼ばれる頭屋が領主と氏子を招いて甘酒による酒宴を開く。(略)11日の本祭りは、(略)新旧頭屋の引き継ぎの頭渡しが行なわれ、その後は謡となり、神社での祭典は終了する。これについで、昔酒を醸したとき使った大樽がみこし形に飾られ、これをかついで中を夜ふけまでねり歩く。この祭りに特定の祈願はなく、五穀豊穣の祈願と考えている。

 「新旧頭屋の引き継ぎの頭渡し」というのは新年を迎えるという意味である。大樽をかついで「中を夜ふけまでねり歩く」のはケガレとしての余った危険な太陽がかつては入ったと見なされたであろう樽であり、その太陽を夜を徹して鎮めているのである。甘酒は粥、雑炊、シモツカレと同義であり、これもケガレを意味している。つまりこの祭りもオビシャ、オコナイなどと同様、新年を迎える行事である。甘酒祭りになったのは後の変化だろう。粥、雑炊、シモツカレとの甘酒の見た目の類似、そして樽が使われていたことによる酒の醸造との共通性が甘酒をみちびいたのであろう。
 このように年桶、歳桶、棚桶などの桶、さらに手桶、樽、臼、これら正月飾りに使われる桶が重要であること、桶がアメノウズメの踏み鳴らしたウケフネに起源があることが明かになったと思う。この桶は正月飾りばかりではなく、弓神楽の場でも重要な役割を負っている。『散歩の手帖』25号の「3章 弓神楽から天岩屋戸神話へ」で紹介した、広島県に伝わる弓神楽である(「43」)。
 弓神楽の中核をなす土公祭文では、神座の前に揺り輪(半切り桶)を据え、その上に弓を結びつけて、神職が打ち竹を持って弦を叩きながら祭文を読誦する。その揺り輪、半切り桶こそアメノウズメの踏み鳴らしたウケフネであり、したがって弦を叩くのはケガレの太陽を鎮めて、望ましきひとつの太陽を呼び出そうとする行為である。
 その揺り輪であるが、滋賀県の湖北ではオカワのことを「ユリワ」と呼ぶところもあるという。「ユリワ」とは事例9の「ユリ」、檜材の曲げ物という「ユリ」に相当するだろう。そしてオカワは『日本民俗大辞典』「オカワ」によると「供物として大きい丸餅を調整する際に、形状を固定成形するために用いる円形の枠」である。そして湖北地方ではオカワは重要視されており、「おこないの最後に成形した餅からオカワを取り外し、縄を巻いて整えて、次の頭屋宅の床の間や座敷の正面に飾り、翌年のおこないまでまつっておく。翌年のおこないは飾ってあるオカワを取り外すことから始まる。オカワが頭屋から頭屋へと永続的に継承され、おこないでまつる神仏を象徴するものとなっている」という。このように広島県の弓神楽で使われる揺り輪と同じ名をもつ湖北の「ユリワ」とも呼ばれるオカワは供物としての丸餅の成形に使われる円形の枠である。また年々引きつがれる象徴的な存在でもある。つまりオカワもまた桶と同じ意味をもつものであり、ウケフネにさかのぼるのである。

桶に何を入れたか
 つぎに、これらの紹介した13の事例から、桶、樽、手桶、臼の中に何を入れているか、振りかえってみよう。その内訳は以下のようである。
鏡餅7件、 餅5件、 米4件、 財布・銭3件、 その他3件。
その他の内訳は蜜柑、柿、赤い魚、栗、ほんだわら、である。
 これらの内訳は、実はケガレの象徴である。その他のなかの蜜柑、柿、赤い魚は小豆の赤に通じると考えられる。桶とこれらの内容物との組合せはこれまで述べてきたように、ケガレ祓いと密接な関係があることは察せられるであろう。
 では何の桶なのか。なぜ重要なのかと問えば、すでに述べたように、天岩屋戸神話の中で桶とは何であったかを振り返ればいいのである。この桶はアメノウズメがそれに乗って踏み鳴らしてケガレの太陽を鎮め、望ましきひとつの太陽、つまりアマテラスを呼び出そうとしたウケフネである。だからケガレの太陽としての鏡餅や餅、米を入れるし、やはりケガレを象徴する銭、それと関係の深い財布、それに赤い魚、蜜柑、柿など小豆の赤色からの連想としての赤い食べ物も同じく桶に入れるのである。ほんだわらや栗はのちの変遷であろう。
 『散歩の手帖』27号でも引用したように、折口は鏡餅を供物ではなく神体に近いものと見ている(「44」)。神体に近いとは妙な言い方である。そして『日本民俗大辞典』「としがみ 年神」によれば「年桶をご神体としてまつる土地が多い」という。歳桶はそれほど重要とされていたのである。それはケガレの太陽としての鏡餅が入れられるから重要なのである。折口のいう神体に近いものという鏡餅である。そして起源が天岩屋戸神話にさかのぼり、アメノウズメの踏み鳴らすウケフネに相当するから重要なのである。しかしなぜ重要なのかがわからなかったために折口は「神体に近いもの」という妙な言い方に留めざるを得なかったのである。
 正月行事の数々が桶ひとつを取り上げても、天岩屋戸神話とつながることが理解されたと思う。そして天岩屋戸神話とはもとは射日・招日神話である。というわけで次は、射日・招日神話に直接さかのぼる正月行事について考えてみよう。

ケガレの起源と銅鐸の意味45 正月行事にみるケガレ祓いの様相3 墨塗り、煤掃き

2016年10月24日 20時27分39秒 | 日本の歴史と民俗
   3 墨塗り、煤掃き

墨塗りと騒乱、混乱
 『日本民俗大辞典』の「すみぬり 墨塗り」ではまず、婚礼の際に聟や新夫婦に墨を塗るなど、祝いに関係して墨塗りが行なわれる例を5件紹介している。これらはいわば発展型である。それにつづいて紹介している2つの事例を次に示すが、これらは比較的古い形と考えられる。それは年の改まりに関係しているからである。
 ○ 福島県石城郡豊間町(いわき市)では、かつて小正月に若者組の役員の切り替えを行なった際に、墨祝いといって大根に墨をつけたもので若者頭はじめ新役員の額に塗りつけたといい、名誉に感じたという。
 役員の交替になぜ墨が必要なのか。「新役員の額に塗りつけた」というのは、新しい頭屋に塗る墨と同じことであろう。『散歩の手帖』25号において、島根半島の塩津の例として、オコナイ行事が終わり新しい頭屋が大餅を背負って下がる時、この新頭の顔に大根で墨をつけるという場面がある(「36」)。墨は周囲にいる者にもつけるので大騒ぎになるという。57ページの事例8でもあつかう。
 ○ 新潟県東頚城郡松之山村(松之山町)では、小正月の道祖神の火祭のあと、炭と灰を雪泥でこねてまず薬師如来の像に塗り、つぎに旧家の主人につけてから、一年間無事息災であるように厄落としの意味で村人が相互に炭を塗りあって祝ったという。
 墨がなぜ厄落としになるのか、それを村人が塗りあってなぜ祝いになるのか。「すみぬり 墨塗り」の項では最後に「墨塗りには化粧や灰塗りと同様に秩序や人格を更新したり再生したりする意味があるといえる」との解釈を載せている。だが、なぜそのような価値が墨塗りにそなわったのか。どうしてこのような、互いの顔に墨を塗りたくるといった奇妙な習俗が起こり、伝承されてきたのか。それについては言及がない。ところがこれも射日・招日神話で解釈できるのである。
 『日本民俗大辞典』「すみぬり 墨塗り」の項では墨塗りは祝いであり、それをされれば名誉に感じることであり、無事息災であるようにとの厄落としであり、秩序や人格の更新、再生をするものである。このようにいいことばかりである。
 しかし、いいことと見なされるのは歴史的変遷の結果であって、ケガレの象徴としての墨を祓えやったことからきているのであり、だから祝いになる。最初から何の根拠もなく墨を塗られてうれしがるはずがないのである。ではその前に何があったのか。墨は暗黒、暗闇を象徴するのであり、それが祓われたからあとは幸いに転じると考えられたのである。その暗闇、暗黒は射日・招日神話に当てはめれば、余った危険な太陽を射落として、我らの望むひとつの太陽を招きだすまでの闇のことである。そしてまた岩戸籠りの闇とその後にアマテラスを復活させることである。墨塗りによる騒乱、混乱は岩戸籠りによる暗闇、暗黒による騒乱、混乱を意味しているのである。多くの祭りに騒乱状態があるのも、神事のなかにサバサバ、あるいは「鯖」がでてくるのも、同じことである。したがってその後には話の展開として、ケガレの祓われた至浄の世界となることが約束されているのである。そうした経過が込められているから、墨を塗られてうれしいのであり、名誉とも感じ、厄落としとして解釈されることになったのである。では『正月行事』に記されている実際の事例をひいて、検証していこう。
 事例1 大分県東国東郡国東町1-128
雑煮は醤油で味付けをし、椎茸でだしをとり、餅は丸餅をそのまま入れる。そのときトシトコ様に上げるといって、鍋墨をちょっと餅につけたもの1個を入れる。

 28ページの第1章の事例11と同じである。鍋墨はケガレの象徴で、餅はケガレをつけて運び去る役目があるから、そうして小正月の訪問者であるトシコト様に上げるのである。
 事例2 大分県東国東郡国東町1-153
(正月11日)この日はスミヌリといって油ズミを大根にぬりつけ、の道を通る人にモンテイが顔に塗りつけてまわった。たくさんの人の顔に塗るほど、五穀が豊にみのるといって喜ばれた。

 モンテイとは若者のことである。ここでは墨塗りは五穀豊穣と解釈されている。
 事例3 島根県島根半島2-45
15日の朝、青年団一同、三社神社に集まり、前夜拝殿に安置しておいた神輿を祠にうつす。終わって御宿に帰り、大餅を小さく地下中へ配れるように切る。その1個と剣先の神札1枚ずつとを若い者をして配らせるが、配る者は化粧をし、墨を塗って出る。それが行った先でまた墨をつけられるというようなことがあって、帰ってくる時には真っ黒になっている。

 黒くなればなるほど喜ばしいということになる。次は歩射行事なので、少し長くなる。要約で紹介する。
事例4 三重県鳥羽市神島3-123
八幡の弓祭り 歩射が立願者によって行なわれる。立願の射手は12人以上おり道者という。あらかじめ乾燥させて、用意されていた松の割り木がある。それを束ねて作ったたいまつに火をつけて214段の高い石段を、爺とよばれる当屋2人と道者たち、その付き添い人などが行列をつくって登っていく。石段を登りつめた八代神社には高い石垣があり、点火したたいまつを両側に組んでおく。神社にはしとぎでつくったオシロモチとタカラモノと呼ばれる供物が供えられる。儀式がすむとたいまつを持ち、石段をユトリバまで降りてくる。ユトリバは石段の登り口、鳥居のわきにあり、語源は弓取り場か、あるいは昔アラダチという巫女が三河から来て湯立てをした跡ともいわれている。島の人々が石段の所で待機していて、たいまつの燃えさしを手のひらでこすって、「お祝い申す」といいながら、当屋の爺さんの顔にすみを塗る。すみを黒々と塗られると爺さんは「大漁大漁」と叫ぶ。このときタカラモノもまき、子供らが拾いあいをする。これらのあと歩射が行なわれる。的と射手との間にたいまつが燃えている。この火を越えて弓を射る。当屋がまず2本矢を射る。つづいて年長の道者から順次2本ずつ射て歩射は終わる。この日はどこの家でも、サバの形にごはんをこしらえて、神棚にお供えする。

 歩射は射日・招日神話が元である(「37」)。したがって前半の長々とした要約は後世の演出、儀式化にともなってついたもので「当屋の爺さんの顔にすみを塗る」ところからがこの行事の本質である。顔に墨を塗るのは、高天原の暗闇、騒乱、混乱であり、「大漁大漁」と叫ぶのはすでに墨塗りがケガレ祓いであったことが忘失されて、ケガレが祓われたならあとは好事となるからである。だから同時にタカラモノと呼ばれる供物もまかれる。供物をまくのも「2 供物を投げる、屋根に上げる」で述べたようにケガレ祓いである。そしてこの事例の本旨としての歩射が行なわれる。的と射手の間にはたいまつの火がある。この火は太陽を象徴しているのだろう。太陽信仰としての歩射、射日・招日神話であるが、太陽は片鱗も見えない。この日はどこの家でもサバの形にごはんをこしらえるというのは騒乱、混乱の象徴としてのサバである。騒乱、混乱とは古事記の天岩屋戸神話におけるアマテラスの岩戸ごもりによる暗闇、混乱の状態を表現した「サバえなす」(狭蠅なす)である(「38」)。サバが魚のサバになったのは、もとの意味が忘れられて身近な言葉としての鯖に結びついたのである。サバについては稿を改めて論ずる必要がある。
 事例5 岩手県大船渡市立根町4-41
墨付け 15日、午後になると竹串に差した大根に鍋墨をつけて、寺参りの帰りなどの通行人の顔に墨付けをする。行なうのは若者たちで、厄年の者は墨をつけると災厄を免かれるという。

以上の事例1~5は墨塗り行為であるが比較的おとなしい事例である。
 事例6 鹿児島県薩摩郡甑島1-58
耳引き節句 〔手打の浜〕以前は15日に外の通りを歩いていると、二才組(青年組)の連中が顔にヘグロ(灰墨で鍋墨のこと)を塗って誰かわからないようにし、道の角などから現われて耳をひっぱった。ひとびとは耳を引っぱらせぬように、鳥打帽を深くかぶって歩いたりした。なんのためにこんなことをするのかわからないが、耳を引っぱってもらった方が健康上よいという話をきかされたことがあった。

 顔に鍋墨を塗って外へ出ていくのは〔手打の浜〕だけしか記載がない。他のでは耳を引っぱる習俗はあるが墨はつけないらしい。耳引き節句の行事自体、下甑村だけのものだという。
 墨をつけるにしても、つけないにしても、いきなり通りかかりの者が耳を引っぱる、誰でもよい、道の角から現われていきなり引っぱる、など尋常ではない。もちろんこうした行事のあることを誰もが承知の上でのことであるのだが、それでもひとしきり騒ぎになるのは当然だろう。その騒ぎを起こすことが目的なのである。前日にはハラミゼックといってケズリカケを花のようにつけた棒を持って男の子が女の子や若い嫁のいる家を訪ねて、その棒で女の子や嫁を突いたり騒いだりするという。14日15日を合わせて考えるべきものだろう。なぜなら墨を使う例は1件にすぎないが、14日のハラミゼックには土地を突くという行為が含まれるからだ。2ページ手前に次の事例がある。
〔瀬尾〕「花嫁をだせだせといいながら、ケズリカケで地べたをついてまわる」。
〔青瀬〕「ケズリカケをもって、『ハラミダセ、ハラミダセ』といいながら、の家々の庭の上を突いてまわる」。
〔里の園下〕「嫁出セ ハラミダセ 嫁女出セ ハラミダセといいながら、家々をまわってその庭の土地を突いてまわっていた」。
 家々をまわって土地を突いてまわるというのが古い形であろう。これは地に働きかけているのである。地に働きかけるについては『個人誌 散歩の手帖』29号「反閇 音と足踏み」で詳述するが、地に働きかけるとは太陽を鎮めることであり、アメノウズメの「ウケを伏し踏みとどろこし」の行為であり、天岩屋戸神話におけるスサノヲの暴虐からアメノウズメの「ウケを伏し踏みとどろこし」に相当し、騒乱、混乱を表している。女の子や若い嫁を追いかけて騒ぎをおこすのも、耳を引っぱるのも騒乱、混乱の象徴であり、墨を顔に塗って出るのもそうである。それらは土地を突くことにより、地に働きかける行為が元であり、地に働きかけるとは反閇であり、太陽鎮めである。
 事例7 島根県島根半島2-39
餅搗き 11日の朝から、神輿飾りと並行して御歳徳神の餅搗きをはじめる。(略)2升甑で7、8斗もつくから終わりは4時か5時ごろになる。その間、つくほどに、やがて餅のつけっこが始まる。サシ(長さ6尺くらいの手杵)についた餅を、そこらにいる者にやにわにつける。そのため、つく者、こねる者、みな青年団に入団した時につくった絣の筒袖を着ているが、見る見るうちにそれが餅だらけになってしまう。かくして最後に、化粧をした役員が、しゃもじを持って臼のまわりをまわり、餅搗きを終わる。この餅搗きが終わった夜、皆が寝しずまったころを見はからって、青年団の委員長が、神輿の中に神札を1体そっといれる。
〔坂浦〕では、(略)つき終わると、ここでは餅のつけっこなどはないが、そのかわり頭屋の主人を臼の中にいれてつくまねをし、次にトンド総代、次に氏神頭、次に明神(恵比須)頭を同様にし、最後には餅もみ連中をだれもかれもいれてつくまねをする。したがって、ここでも着物は餅だらけになるが、こうしてついた餅は絶対に鼠がかまぬと信じられている。
〔諸喰〕では、15日の朝、トンドがすむと各自燃えさしをとって
潮水につけ、それを氏神に持って参って本社の戸につける。その後直会があるが、この折にはお互いに顔に墨をつける。
 事例7もかなり騒乱、混乱をきたすことになる。ただしそれは墨によるのは諸喰だけで、前の2ヶ所は餅のつけっこである。墨でなくても、餅は再三述べているように、ケガレの象徴であり、ケガレをつけて運ぶものであるから、行事における意味は墨と同じである。「最後に、化粧をした役員が、しゃもじを持って臼のまわりをまわり」というところの「化粧」とは元は墨だったかもしれない。「臼のまわりをまわり」というのは、臼は桶からの変化、アメノウズメがウケフネをふみとどろこしたことに相当するのであろう。「寝しずまったころ」とは複数のケガレとしての余った危険な太陽が鎮まった状態であり、「神輿の中に神札を1体そっといれる」とは我らにとって望ましき太陽を選んだものとみなすことにほかならない。太陽信仰そのものの痕跡である。ひとつひとつの行為は一見、何の為にあるのか、何を意味するのか、そもそもこれらの行為に意味など格別になさそうにも見えるが、こうして射日・招日神話が変遷したものであるとしてとらえれば、行事の中でのそれぞれの行為に納得できるのである。
 事例8 島根県島根半島2-49
オコナイ (オコナイの行事が終わり)やがて新頭、つまりこれからの頭屋が、大餅を背負って下がるが、その時、この新頭の顔に大根で墨をつける。墨はついでにそこらにいる者にもつけるから大騒ぎになる。新頭宅では、持って帰ると、これをトコの前の筵の上に安置し、旧頭宅へ持ちまわりの小宮を迎えにゆく。旧頭も同時に来たり、大餅の前で盃をして引継ぎ式を行ない、次いで鎌どりといって、鎌をとって餅を2つに切りそめる。それを後、さらに小さく切り、各戸へ配る。

 周囲のだれかれとなく墨をつけ合うから大騒ぎになるのは当然であるし、それをねらっている。引継ぎ式というのは旧頭から新頭へ役が替わるわけで、年が改まることを意味する。餅を小さく切って各戸へ配るのは、各家々からケガレの餅を運び去ることからの変化である。すでに元の行事の意味が忘失されているので、各戸へ配るのは餅が縁起のいいものと理解されるようになってから変化した行為である。行事に含まれるそれぞれの内容が、元の射日・招日神話の順序どおりではなくなっているのは、本質が忘れられたためである。それにもかかわらず、説明はすでにできなくなっていても、昔から大事とされていたとして伝承されるのである。
 事例9 三重県鳥羽市神島3-122
万歳 長ったらしい万歳がめでたく終了すると、赤ずきんの才蔵は、入り口に立って見物している娘さんの所へ飛んでいって顔に墨をつける。この墨をつけられると縁起がよいといってだれも怒らないのであるが、それでも皆逃げ出すのである。

 事例6~9は1~5に比べて墨塗りによってさらにわざわざ騒乱、混乱状態を引きだそうとしている例であるが、1~5に比してはっきりした違いがあるわけではない。いずれの場合でも墨塗りとは騒ぎを引きおこすことが目的なのである。その騒乱、混乱は多くの祭りのクライマックスにみる喧騒、騒乱状態と共通するものであることは、稿を改めて追究することにする。「サバサバ」「鯖」もこれに関係してくる。柳田に「鯖といふ魚の信仰上の地位は、詳かに調べて見る必要があるのだが、今までは誰も手を着けて居なかつた(「39」)」との指摘がある。

煤掃き、煤払い
 煤掃き、煤払いの日に米由来の食物が作られるのも、やはりケガレ祓いから来ているのである。『正月行事』全4冊の中から9ヶ所の事例を紹介しておく。
 事例10 島根県島根半島2-19
煤払いの日には団子をつくって神棚に供える。

 事例11 岡山県真庭郡新庄村2-59
終わると煤掃き団子をつくって、トコ(床)と神棚に供える。〔二橋〕の清川家では、焼き餅であった。〔田中〕の内田家では、煤掃き粥をつくって供えていた。〔川上村〕では、柴迎えに切ってきた空木の木で煤払いをした後、台所の上の天井に上げておき、去年上げておいた木をおろして、煤掃き団子をつくるたき物にしていた。

「空木の木で煤払いをした」というのは、空木の木で叩くことによってケガレの太陽を鎮めたという意味である。空木の木はサバサバで使われる木である。事例11の少し前、『正月行事』2の49ページでは、島根半島のオコナイを紹介しているが、そのオコナイの中で行なわれる鯖々の行事では寺の本堂の床を空木の木でたたく。空木は卯の木であり、卯は東を意味する。つまりアメノウズメの「踏みとどろこし」に相当し、太陽を鎮め、まねく意味がある。
 事例12 岡山県井原市2-82
煤掃きをすますと、「ごみ(すす)がよくのどをとおるように」とか、「のどのごみをさろうてしまう」とかいって米の粉の団子をつくり、味噌の団子汁をして夕食どきに食べた。

 煤掃きと団子のつながりがわからなくなった後の付会である。
事例13 岡山県笠岡市2-93
煤掃き団子(煤取り団子ともいう)といって、白米をひいて、周囲5寸ぐらいの団子をつくる。

 事例14 岡山県笠岡市2-105
昔から煤取り団子をつくって近所へ配り合ったり、神仏にお供えし、夕食に食べる。
〔金風呂〕では、そば粉でつくるともいう。また、小麦粉の団子に、ささげあんをまぶしたりもする。
〔真鍋島〕掃除が終わると白米の粉で団子をつくり、生のまま屋内の神仏にお供えし、夕食にはそれをいれて、雑煮(団子汁)をつくって食べる。

 事例15 岡山県邑久郡牛窓町2-149
〔千手〕では、25日に煤掃きをし、煤掃き団子をつくる。

 事例16 岩手県雫石町4-11
12月27日、皆そろって早起きをし、アサザノコ(朝早く起き、朝食前に食事をすること)といって、かねて用意しておいたオハラミマンジュウを食べてすす掃きに取りかかる。

 オハラミマンジュウは(お孕みまんじゅう)で、小豆が中に入っているという。
 事例17 岩手県雫石町4-13
すす掃き 去る14日の阿弥陀様の日に作った火を通さない生の餅のオヒトネなるものを、主婦が炉の灰の中に埋めて蒸し焼きに焼き上がるようにしてくれているので、昼近くにはふっくらと焼き上がったものを家内中ですこしずつ分けあって食べる。

 事例18 岩手県大船渡市立根町4-38
ススオロシ ススオロシの祝いごとは、膳にお神酒・白飯、またはススリダンゴを盛りオカミの神棚に供え、家内中でも食べて祝う。供える神様は、特になんの神様ということはない。

ケガレの起源と銅鐸の意味44 正月行事にみるケガレ祓いの様相2 供物を投げる、屋根に上げる

2016年10月21日 09時44分10秒 | 日本の歴史と民俗
   2 供物を投げる、屋根に上げる

供物を投げる、まく
 神への供え物をなぜ投げるのか。投げるといえば赤飯投げ、片品の猿追い祭りについては第1章で述べた。投げる、まくということでは『正月行事』全4冊のなかでは5例あり、屋根に上げる例は6例ある。以下に事例1~10として供物を投げる、まく、あるいは屋根に投げ上げるなどの例を紹介して、供物その他はなぜ投げられるのかについて考えてみよう。
 事例1~4はまく、投げつけるといった5例であり、5~10は屋根に上げる例である。
 事例1 鹿児島県肝属郡佐多町1-17
フカウチ、チンカラカーメ
 正月6日を六日年という。この日、全体の小中学生の男の子が集まり、の家々を1戸ずつチンカラカーメをしてまわる。意味不明になっているとなえごとを、声をそろえてとなえる。「チンカラカーメ」の意味も不明という。
このとなえ言葉を終ると同時に、子供達は家から用意してきた白米の粒を一にぎりとって、床の方や家の間のまわりに向かってパラパラとまく。家の主婦は祝ってもらったお礼に、子供たち1人1人に小餅を2つずつ配る。子供たちはそれをもらって、また次の家へいく。全部終えるとクラブに帰って、その餅を焼いて食べたり、家に持ち帰って食べる。この行事全体をチンカラカーメと称している。

 上は佐多町外之浦の例だが、島泊では、となえ言葉をとなえたあと、首につるした袋から籾と粟を少しとり出して、思い思いに家の中に向かって投げつけるようにまきちらすという。
 事例2 鹿児島県大島郡三島村1-113
二十日正月 この日カラスノクチアキ(烏の口開き)という行事がある。唐芋コッパを粉にして、ぼた餅のような団子をつくり、それをくだいて庭にまいて烏(からす)に食べさせる。ちょうどそのころ唐芋の苗床つくりをするので、烏にほじくってくれるなと祈念するもので、の当番役の家の庭で行なうことになっている。

 かなりくずれているが、団子をカラスに与えてケガレを運び去ってもらうとする烏勧請の意義はとどめている。唐芋の苗をほじくらないようにというのは、後の付会である。
 事例3 三重県志摩郡大王町波切3-148
元旦の名ノリ 各戸では名ノリが来るのを待ちうけて、お祝儀を出す。お祝儀はおみき1本、とっくりに酒を入れて出す。それに小さなお鏡餅一重ねというのが普通である。そのほか家によって、キャラメル・みかんなどをばらばらと子供らに投げてやる商家なども見受けられた。

 事例4 岩手県雫石町
農ハダテ 朝食が済むと、男たちは山かせぎのいでたちで、おのやのこぎりやなたを携え、コビルの餅を背負い、荷縄を持って、ノサに白紙1枚と麻糸1結びを添えて持ち、1升ますに白米少々を入れて山へ出かける。山に着くとおのやのこぎりをおろして雪に立て、なたを持って手ごろの所から木の枝を切り落とし、これにノサを掛けて1升ますの米をまき、皆で次々に、ノサに向かって拝む。(略)(帰ったら)山から戻ってきた餅を焼いて食べる。

屋根に上げる
 事例5 岡山県真庭郡新庄村2-60
餅搗き (餅搗きが)終わると臼を明き方に向けて倒し、下に敷いていた藁は明き方に捨てる。臼をふく藁製のミズマワシは屋根に投げあげておく。

 ミズマワシはミズタワシの誤記かもしれない。
 事例6 岡山県笠岡市茂平2-126
(2月1日を)ヒトイ正月といい餅をつく。セカチンイッコといって、お餅と御飯を一度に供える。神様が出雲に旅立たれる日で、特別に早くお供えする。また、わらじを片足分だけ、屋根に投げあげる。

 事例7 三重県鳥羽市神島3-99
すす払い これらの神棚のすす払いは松葉ほうきではく定めである。松葉ほうきは松の小枝で大ズスと小ズスと大小2本つくる。大ズスは松の小枝を5本からげてつくり、竹の柄をつける。小ズスは竹の柄はなく2本からげである。神棚は小ズスではく。(略)すす払いが終わると大ズス・小ズスは屋根にあげておく。

 事例8 岩手県雫石町橋場4-14
餅つき 初めの臼で、お供え・オボコ・神棚に飾る長銭・マルキ銭を作る。そしてミズノ鏡(1升5合餅ぐらいの丸い鏡餅)3枚をとる。ミズノ鏡は、6月1日まで食わない。6月1日にミズノ鏡を食えば病気にならないと言っている。ミズノ鏡を包んだ藁つとは屋根に上げる。不幸(死者)があった場合はその日にミズノ鏡を食べた。

 事例9 岩手県大船渡市立根(たっこん)町4-41
屋根ふき 笹・コブノ木・栗の小枝3種を合わせて束ね、台所・オカミ・小座敷の3か所の入口に当たる屋根の軒端にさす。このほか、他の棟(御堂・浄屋・うまや・便所・水車の各間口)に径10か所さし、屋根年越しをする。屋根ふきが終わるとグシ餅をまく。白餅12(閏年には13個)を母屋の裏から屋根を越して表のニワに投げる。グシ餅マキは、主人、または年男が行ない、家内じゅうの者が投げられた餅を拾う。

 事例10 埼玉全地区4-106
正月棚 正月棚は20日のえびす講ののちにとりはずす所が多いが、多くはこれは燃してしまうか、屋敷神、あるいは坪の間(庭すみの植えこみ)のすみに納めておく。道陸神焼キをする秩父や児玉郡の一部ではこのとき燃やしてしまう。所沢市北野では翌年の節分のオタキアゲに燃やすことになっている。また、所沢市南永井のように、屋根にほうりあげておくような変わったところもある。


 以上の事例の内訳をみると、投げる例では
① 白米をパラパラまく(鹿児島県)。
② 籾と粟を家に向かって投げつける(鹿児島県)。
③ ぼた餅のような団子を庭にまいて、烏に食べさせる(鹿児島県)。
④ キャラメル・みかんなどをばらばらと子どもたちに(三重県)。
⑤ 木の枝を切り落とし、これにノサを掛けて1升ますの米をまき(岩手県)。
 屋根に上げる例では、
① 臼をふく藁製のミズマワシを屋根に投げあげておく(岡山県)。
② わらじを片足分だけ屋根に投げあげる(岡山県)。
③ すす払いに用いた松葉ほうきを屋根にあげておく(神島)。
④ 鏡餅を包んだ藁のつとを屋根に上げる(岩手県)。
⑤ 白餅12個を母屋の裏から屋根を越えて表のニワに投げる(岩手県)。
⑥ 年神様をまつった正月棚を屋根にほうりあげておく(埼玉県)。

供物はカラスに投げ与える
 以上の事例の内訳のうち、供物を投げる事例では白米、籾、粟、団子など、米由来の食物を庭に撒いたり、家に向かって投げつけたりするという。これらの行為は結果としてカラスやほかの鳥が食べることになる。つまりケガレを運び去る役割を担ったカラスにケガレ祓いをさせるのが本来の目的であり、そこからの変遷と考えられる。だから供物は投げられるのである。
 そして屋根に上げるほうの事例では、臼をふいた藁、歳神様がはいたとされるわらじ、すすを払った松葉ほうき、鏡餅を包んだ藁、餅そのもの、歳神様をまつった正月棚、といずれもケガレの象徴、あるいはケガレを運び去ることに関係した物である。直接に餅や米由来の食物でないということは、これらがのちの変化型であり、烏勧請のくずれた型であると考えられる。つまりもともとはカラスにケガレ祓いをさせる意味だったと思われる。それを示す例が福井県小浜市にみられる。21ページ「赤飯にみるケガレ」の事例7である。
 そこでは神社の屋根に赤飯を供えてカラスにほどこす。この献饌のことを「カラス」と呼ぶのである。投げるのはそれらが祓うべきケガレの象徴だからであり、それをカラスに与えるからである。しかし、投げるという乱暴かつ無礼なやり方は、ケガレをつけられたから汚いとの思いから投げ捨てるのではない。まして、新谷が『なぜ日本人は賽銭を投げるのか(「35」)』でいうような、投げ捨てれば祓われることになるという単純なものでもない。これが汚いものではないことは、白米、籾、粟、団子、キャラメル、みかんの例で明らかである。
 ではなぜこれらの供物を投げるのか。それはケガレを運び去るのがカラスだからである。投げられる供物はケガレの象徴である。賽銭もケガレの象徴だから投げられるのである。ケガレとは余った危険な太陽である。つまり、銭という金属の供物もまたケガレの太陽だったのである。供物はケガレの太陽であるから、太陽の昇降をつかさどるとされるカラスに投げ与えるのである。受け取ったカラスは山へ向かい、ケガレの太陽は山に鎮まることになる。金属としての銭については稿を改めて論ずる必要がある。

ケガレの起源と銅鐸の意味43 正月行事にみるケガレ祓いの様相1 餅を焼く意味

2016年10月18日 09時48分34秒 | 日本の歴史と民俗
   正月行事にみるケガレ祓いの様相

   第1章 餅を焼く意味

餅を焼くにも解禁日がある 
 餅は食べるためにのみ焼くのではない。餅を焼く行為自体に意味があることを『正月行事』の中から見出していこう。
 事例1 大分県東国東郡国東町1-128
シゾメ(仕事はじめ)正月2日は朝早く起きて雑煮を祝う。この雑煮は餅を焼いて入れ、味付けは味噌を用いるのが普通である。

 朝早く起きるのは射日・招日神話の痕跡をとどめているからである。射日・招日神話については第3章でもあつかう。雑煮はケガレ祓いを意味する。雑煮に焼いた餅を入れるのもケガレの餅はケガレの太陽を意味するからである。餅は焼くことが決っているわけで、食べる人の好みには左右されていない。事例1は正月2日のシゾメの例であるが、元日についての記述をみると、雑煮には丸餅をそのまま入れている。このときは焼いていない。そしてトシトコ様に上げるといって、鍋墨をちょっとつけた餅を1個入れるという。つまり元日の餅も2日の餅もケガレ祓いの意味を残しているのである。
 事例2 岡山県真庭郡新庄村2-71
焼き初め(正月4日)この日、餅を焼いて歳神に供えるとともに、ぜんざい(しるこ)をつくって食べた。〔美甘村田口〕の一町田家では、山入り木に切り目をつけて焼き初めの餅を押しこんでいた。

 この調査地では元日に雑煮をつくり、餅に雑煮の汁をかけて食べるとの記述があるので餅なし正月ではない。しかし正月4日に「焼き初め」として、この日はじめて餅を焼く。焼く日を決めているのである。この日は初山入りの日でもあるというので、くずれてはいるが、やはり餅なしの解禁日でもあったと考えられる。ケガレを祓う意図はぜんざいを食べること、山入りして切った木に切り目をつけて、ケガレの象徴としての餅を押し込むとするところにもうかがわれる。ぜんざいはケガレとしての小豆を使うのである。
 では山入り木に切り目をつけて、焼き初めの餅を押し込むことがなぜケガレ祓いになるのだろうか。これについては成り木責め、鍬初め、鍬入りとも関係しているので『散歩の手帖』29号「反閇 音と足踏み」で詳しくあつかうが、山から木を切ってくるとは山の象徴を下界に下ろすということなのである。だから山から下ろしてきた木に焼き初めの餅、つまりケガレの餅を押し込むとは山にケガレの太陽を鎮めるのと同じことなのである。その意味が早くに忘失されてしまったので、山の神を迎えるとまで意味を変遷させて今日に至っているのである。これは山の神の起源について結論めいたことを述べているのだが、この問題は稿を改めて多くの事例を検討して、詳述しなければならない。
 事例3 岡山県井原市2-86
雑煮 (元日)神祭りがすんで雑煮を食べる。雑煮の具は鰤、かまぼこ、ほうれんそうなど、醤油汁でたき、餅にかけて食べる。(略)正月三が日間は餅を焼いて食べてはいけない。

 元日に雑煮をつくり、餅にかけて食べるとの記述があるので餅なし正月ではない。しかし三が日間は餅を焼いてはならないというところに、餅を焼くことが何気ないことではなく、正月の行事のなかで意識的であったことが見える。なぜ餅を焼くことが意識的であったのか。それはやはりケガレを象徴的につけるということが餅を焼く意味だからであろう。
 事例4 岡山県笠岡市2-98
正月三が日には餅を焼いて食べてもかまわないが、ただ正月にかぎらず餅をついた日には焼いて食べてはいけない。〔尾坂の一部・六条院町〕では、正月三が日は餅を焼いてはいけないという。

 事例によって、つまりその家により、地域により、焼くことへの対応がまちまちなのは、事例3もふくめて元にどんな意味があったのかが忘れられているためである。
 事例5 岡山県赤磐郡吉井町戸津野2-162
正月4日 初めて餅を焼く。

 ここの例でも餅はすでに三が日のうちに使っているのであるが、焼いてもいいのは4日からなのである。
事例6 三重県志摩郡大王町船越3-138
この火ではじめて餅を焼いて食べる。それまでは餅は焼けぬことになっている。時刻は夜明け前の4時過ぎである。

 この火とは元旦の明け方近くに、船越神社の境内で、子供たちによって集められたオニサエギを燃やした火である。オニサエギとは「径2、3寸の松割り木を2つに割って、平年は12本、閏年には13本、けし炭で横線を引いたものである。門松の根元に置いたオニサエギは、船越神社でのオタイに使用される」と説明されている。これは元旦のことであるが、やはり餅を焼く解禁日が設けられているわけで、しかも夜明け前と指定しているのは、元が射日・招日神話にあることの痕跡である。
 事例7 三重県志摩郡大王町波切3-148
元旦の名ノリ(アアタラシキ)の最後で
船頭が「だんな、たぬしや」というと、子供らが「餅焼け餅焼け」とはやして終わるのである。タヌシヤは金持ちの方言である。「餅焼け」はこの名ノリがすまぬと正月の餅は焼いて食べることができない定めであるから、もう餅は焼いてもよいぞ、というのだという。

 名ノリとは、山の神のふたつの当屋が漁師の家々を1軒1軒元旦に回って、今年も大漁でありますようにと祝福のことばをのべて回礼することであるという。夜中であること、1軒1軒回ること、漁師の荒い声でわれ鐘のように大声でどなることなど、ケガレ祓いの行為が変化したものと推察できる。であるならば名ノリが済むとは正月を迎える準備がととのったことになり、本来なら餅は遠ざけて正月になるはずであるが、かなり変貌していて食べるために焼くということになっている。大王町波切は漁村である。そもそも稲作の行事だったものが漁村の習俗にまで変貌しているのである。
 事例8 埼玉県4-108
大宮市植水では三が日は餅を焼いてはならぬとか、所沢市山口ではこの間には何も捨ててはならぬとかいっている。

 以上の8件の事例は、この日までは餅は焼けないという例である。しかし、なぜ焼いてはいけないのかはいずれにも記されていない。では解禁日になって、焼けるようになった餅をどうしているかといえば、食べるとしか記されていない。すでに焼く意味がケガレを祓う行為につながることが忘失されているからである。

 それでは8件の事例から餅の解禁日を抜き出してみよう。
事例1 正月2日、はじめて餅を焼いて雑煮に入れる。
事例2 正月4日、はじめて餅を焼いて歳神に供えるとともに、ぜんざいに入れて食う。
    焼き初めの餅を山入り木に押し込む。
事例3 三が日は餅を焼いて食べてはいけない。
事例4 餅を搗いた日には焼いて食べてはいけない。
    正月三が日は餅を焼いてはいけない。
事例5 正月4日、初めて餅を焼く。
事例6 元旦の明け方、はじめて餅を焼く。
事例7 元旦の名ノリが終ると、餅を焼いて食べてもよい。
事例8 三が日は餅を焼いてはならぬ。

 事例1は元日だけは餅を焼いてはいけない例。事例2、3、4、5、8は三が日間は餅を焼いてはいけない例。事例6、7は新年を迎えるまでは焼いてはいけないという例である。ということは「餅なし正月」における餅のあつかいとよく似ている。ケガレの餅を運び去ったり、祓ったりしたのだから、新年には餅はあってはならないというのが「餅なし正月」である。餅を焼いてはいけないというのは至浄の新年を迎えたのだからケガレの象徴としての餅の焦げ色をつけるべきではないという意識の現われではないか。それが事例1、2、3、4、5、8、である。しかし正月に餅を供えたり食べたりすることが次第に当たり前になっていったので、ケガレの餅を遠ざけねばならないという根元的な意識がなくなり、痕跡として、正月に餅を食べたり供えたりはするが、ケガレの象徴としての焦げ色の餅は三が日間はあってはならないという行為に移行していったのではないか。
 だから事例6、7以外は元日や三が日には焦げ色の餅を避けている。ところが6、7は元旦早々にすでに餅は焼けるのである。そこで考えられるのは、6も7も三重県志摩郡大王町のともに漁師町である。ということは本来、農村の正月行事であったものが漁村へ入り込んだもので、それには時間的な経過があって変貌をとげたのである。ケガレの餅は正月にはそぐわない、という正月と餅の本来なら対立的な関係が、農村部でもそうなっていったように、次第に淡くなり、新年とともに餅があることは当たり前になり、元旦のはじめから祝いとしての神聖な餅としてあつかわれるようになったのではないか。

焼いた餅によってケガレを祓う
 次は、焼いた餅、つまりケガレをつけたとされる餅をどうしているか、どのように祓えやっているのか、その痕跡が残っている例を見ていこう。
 事例9 鹿児島県薩摩郡甑島1-45
磯餅焼き、竈焚き 〔瀬上〕ここではカマタキ(竈焚き)といって、女の子供たちが中心になり、近くの山の裾や田のあぜの上などに数人が集まり、小さいかまどをカマ土や石を集めて作り、そこで火を焚いて、餅を煮て食べる。これは正月の2日の行事で、今もよく見られる。今では男の子も女の子にならってやるが、古くは女の子だけがやるものであった。

〔中甑〕ここの町でもやはり正月の2日に竈焚き、またはイソモチヤキ(磯餅焼き)といって、海辺や山のぐるりにいって、いろりを組んでそこで女の子が餅を煮たり、焼いたりして食べる。
〔里の村東〕旧暦正月の16日に、今でも竈焚き、磯餅焼き、をおこなっている。男の子も女の子も、何人かずつでもやって海岸にいき、持ってきた瓦と石を使ってジロを作り、そこで餅を焼いて食べる。家で子供の数だけのお重を作ってもらいそれを持って集まり、海辺でカイビナ(貝)をとり、鍋で雑煮を作ることもある。焼いたり煮たりした餅は、はじめのものだけ皆でよく拝んでから、海の波の遠くに投げ入れる。これは竜宮様にあげるのだという。
〔里の園上〕旧暦1月15日か16日に磯餅焼きをする。いろいろのごちそうを持って、主に女の子が、それに男の子もまじって磯辺にかまどを築き、そこで餅を焼いたり煮たりして食べる。餅が焼けるとそれを海に投げこみ、「竜宮様にあげもす」といって、今年もよい年であるように皆でお祈りをする。

 4つの地区で少しずつ違いはあるが、まずこの行事は近くの山の裾や田のあぜ、海辺や山のぐるり、海岸、海辺、磯辺などと表記される場所へ出かけていく。第1章の「小豆 ケガレの象徴として」の事例15「七日節句」でも述べたようにこれは共同体の外縁、境界である。そこでケガレの象徴である餅を焼くなどの行為によって、ケガレを祓えやることを意味している。雑煮を作ることもあるというのも、雑煮もケガレを象徴するから同じ主旨である。特に里の村東と里の園上では焼いた餅を海に投げこむというのは境界へ祓えやる行為そのものである。竜宮様にあげるというのは後の付会であろう。
 おもに女の子たちの行事となっていて、特に瀬上では「古くは女の子だけがやるものであった」としているが、古くは正月行事に女性は遠ざけられていたが、この事例ではその痕跡が見られないこと、子どもの行事になっていること、本土から稲作とともに移入した民俗であると考えられることなどから比較的あたらしい型である。新しい、古いというが、ここでの新旧は稲作の列島への伝播当時の古さを残したものか、それ以後のものか、といったかなり歴史的に長い尺度で言葉をつかっている。
 事例10 岡山県笠岡市陸地部2-102
トンド トンドの残り火で餅を焼いてその餅を歳神様に供え、それをとっておいて、大風が吹いたり、ドンドロ(雷)が鳴ったときに出して焼いて食べると大風があたらないし、ドンドロが家の上で鳴らずよそへ逃げるという。トンドの灰と焼き餅を屋根の棟におくと類焼を免れるという。

 すでにケガレの意味は忘失し、災厄を除くことに行事の主旨は転換している。焼き餅を屋根の棟におく、というところに、屋根に上げることでケガレ祓いがされることの痕跡を見ることができる。
 事例11 岡山県岡山市円山2-175
14日お飾りまかり ドンドの餅(正月の餅をつくとき、つくっておく)を焼く。このドンドの餅を焼いたのを切って、家の内外の神に供える。昼には正月と同じようにお供えをする。ご飯のへりには、ドンドの餅をひっつけておく。しかしこのドンドの餅は食べないで、フェエト(こじき)、猿まわし、人形つかいなど、正月にやってくる人たちにやったものである。

 まかりとはおろすことで、14日はお飾りを下ろす日である。ドンド用にあらかじめ作った餅があり、正月にやってくるフェエトなどの小正月の訪問者たちに与えることになっている。これによってケガレが運び去られる。以上の3例は焼いた餅を境界へ行って食べる、海へ投げる、屋根に上げる、小正月の訪問者に与えるということで、ケガレを祓い去る目的が明確である。

焼いた餅に意味がある
 事例12 島根県島根半島2-44
〔諸喰〕トンドの火で焼いた餅は新藁に包んでとっておき、6月1日にとり出して氏神に供える。

 事例13 岡山県笠岡市北木島2-124
〔金浦から大井一円〕にかけては、14日の夕方、日の入りと同時にドンドをする。餅を焼いて食べる。焼いた餅を歳神様に1個お供えをすると、雷が落ちないという。

 焼いた餅であることに威力がある。そこに焼いたことの元の意味が籠っている。元の意味とは、焼いた餅を小正月の訪問者である歳神様に与えてケガレを運び去ってもらうという意味である。それが好転して雷よけになったのであろう。
 事例14 岡山県邑久郡牛窓町平山2-136
ドンド 〔白茅〕火が盛んに燃えるころ、「さぎっちょうや ドンド 餅のカゲをやいてくえ」と、はやしながら、シメ飾りや門松を燃やし、歳神様に供えたお餅をちょっとこがして、枡にいれて持って帰り、小さく切って神様ごとに供え、雑煮にいれて食べる。これもかぜをひかないまじないである。〔白茅〕ではオドクウ(お土公)様に供えた餅を焼くのだという。

 餅を焦がすことに意味を残しており、事例13と同様、失われた本意のあることを感じさせる。この本意が忘れられると、焼くことの重要だった痕跡として、占いやまじないに変わってゆく。枡に入れて持って帰るのも、なぜ枡かを考える必要がある。これは桶に通じるのではないか。第3章の「1 桶が重要であること」で詳述する。オドクウ様に供えた餅を焼くというのも、オドクウ様はケガレを負っているからである。オドクウ様のケガレについては『散歩の手帖』27号の「オドクウ様からスサノヲへ」を参照のこと(「34」)。
 事例15 岡山県和気郡備前町友延2-166
15日トンド このトンドの火でトンド餅を焼く。そして藁灰を餅の上に載せて家に持ち帰り、灰は入り口や雨だれおちへまくと、長虫や百足(むかで)の魔よけになる。(略)トンドの餅は切って小豆粥の中へいれる。この粥をまず神に供えて、あと家内一同が粥を食べる。

 事例16 秋田県男鹿半島4-69
セド 16日に正月の飾り物を1か所に集めて焼くことをセド(柴燈または採燈)といっている。(略)真山神社では正月3日の夜、行なっている。(略)ここでもセァドウといって氏子が夜中に真山神社に集まり、神酒・餅・煮た大豆などを供えて神官が祝詞をあげてから餅焼きをする。社殿のそばに餅焼き場があり、そこに用意された生の薪木一棚ほどに火を点ずる。(略)その燃えさかる中に神に供えた大餅をヒバシと称する長さ6、7尺くらいのゴマ木(ぬるでの方言)の先端の枝を利用して又状のところに載せて焼き、真黒焦げになったのを数十片に切断して、災難除けに村中に配る。

 歴史的時間の経過するなかで、行事に演出や権威づけがされるが、要は焼いた餅を村じゅうに配ることである。そのための餅焼き場まで用意されている。それほどかつて餅を焼くことに意味があったことを示している。その意味とは焦げ色をつけることでケガレを象徴させているということである。
 以上のように、餅は焼いてこそ、その存在価値を発揮するのである。その価値とはケガレの象徴である焦げ色をつけた餅を食べたり、供えたり、祓えやったりすることである。ではそれぞれの行事のなかで、どのようなふるまいとしてケガレの祓い方が残存しているのか。前章の最後に示した課題を焼いた餅について追究していこう。

事例1からふりかえると、焼いた餅のなりゆきは次のようになる。
① 雑煮などに入れたり、煮たり焼いたりして食べる。大分県、岡山県、三重県、甑島。
② 歳神などに供える。岡山県、島根県。
③ 山入り木につける。岡山県。
④ 海に投げ込む。甑島。
⑤ 屋根の棟におく。岡山県。
⑥ こじき、遊芸人にやる。岡山県。
⑦ 村じゅうに配る。秋田県。

こうして並べてみると、①②⑦はすでにケガレとしての餅の意味が忘れられて、しかも神聖なもの、縁起のいいものとなっているので食べたり、配ったり、歳神に供えたりして祝いの意味で用いられているのである。したがってこれらは新しい形である。③から⑥はどれもケガレを祓う行為が残存しているのである。餅はケガレの象徴として焼かれ、焦げ色をつけられ、③から⑥のようにさまざまなやり方によって祓えやられてきたのである。ただしこちらも現在の行事のなかで、ケガレ祓いをしているとは意識されていない。

ケガレの起源と銅鐸の意味42 小豆 ケガレの象徴として

2016年10月08日 10時11分26秒 | 日本の歴史と民俗
   第2章 赤飯その他にみるケガレ

赤飯にみるケガレ 事例7~9
 事例7 これには『森の神々と民俗』で取り上げている烏勧請を引用する。
小浜市平野では、3月10日に桜神社で弓打ちの神事を行ない、そのあと社殿横の田の神社・山神社・天照皇太神社の屋根に赤飯を供える。烏に赤飯をほどこすこの献饌のことを「カラス」と呼んでいる。ビシャがすむと当屋のひきつぎを行なう((23))。

 赤飯には小豆(またはささげ)を使う。だから小豆が負っているケガレの象徴としての民俗的意味を赤飯もそなえているのである。その赤飯を屋根に上げてカラスに与えるとは、ケガレの運び手であるカラスにケガレの象徴である赤飯を差し出すのである。それを屋根に上げるということは、屋根に上げる行為もまたケガレ祓いだからである。屋根に上げる行為については第2章の「2 供物を投げる、屋根に上げる」で検討する。弓打ちの神事自体がケガレ祓いを意味する。
 事例8『イモと日本人』から引用する。
群馬県邑楽郡板倉町海老瀬北、元日の朝暗いうちに分家の者はイッケの本家へ赤飯を持って挨拶に行き、赤飯を先祖様(仏壇)に供えてもらう。本家からはお返しに里芋をもらい、それを持ち帰って煮てから分家の先祖棚に供えたという((24))。

 なぜ元日の朝暗いうちに本家へ行かねばならないか。事例6の団子を夕飯のときに食べること、残しても鶏鳴時より前には食べ終わるべきこと、と同じである。朝、暗いうちにということは太陽が出ないうちに、ケガレの太陽を象徴する米・糯米由来である赤飯、それに混ぜた小豆を始末するという意味である。その始末する先が本家であるのは、本家へ持っていくことが祖神、鬼神への方向性をもつからである。『散歩の手帖』27号第2章の「餅の一方向性」を参照のこと((25))。
 
片品の猿追い祭
 事例9 群馬県片品村花咲の猿追い祭り
各集落から選ばれたサカバン(酒番)、ヒツバン(櫃番)と呼ばれる当番が東西に分かれて拝殿の前で一列に向き合って並び、杓文字で赤飯を投げ合う。赤飯投げが済むと拝殿に上がり、謡がうたわれる。それが終ると、本殿の奥にひそんでいた白装束の猿役が大きな幣束を持って外へ駆け出し、社殿を右回りに3回まわる。ヒツバン、サカバンが猿を追うが絶対に追い越してはならない。猿役は鍛冶屋、山崎の2つの集落にすむ星野姓の家だけに限られる

 『日本民俗大辞典』上巻「せきはん 赤飯」(板橋春夫)の項に、祭りの中で赤飯を投げ合うという片品の猿追い祭が紹介されている。これも赤飯がケガレを象徴していることの痕跡と考えられる。群馬県片品村花咲の猿追い祭である。インターネットのweblio辞書の用語解説で片品村の猿追い祭を検索したら、文化庁の国指定文化財等データベースが出てきて、「片品の猿追い祭り」があった。事例9はそれを引用したものである。
 ほかに見た2、3のホームページを合わせるとこの祭りは猿の害をふせぐために始まったということになっており、白い大猿が作物を荒らすので退治するという話もある。最後は猿役が社殿に入って幣束を納めて祭りが終るという。このように、祭りの展開を見たかぎりでは猿の被害よけに起源をもってくるしかないのだろうが、よく見ると、この祭りの中には天岩屋戸神話の構成要素が詰まっている。
 なぜここでも赤飯がケガレを象徴していると考えられるのか。それは色をつけることによってケガレを表わすとともに、赤飯を投げるからでもある。赤飯を投げるのはケガレを祓う行為なのである。餅や米を投げる、撒く、屋根へ放り上げる、賽銭を投げるなどはケガレを祓うことを意味しているのである。ケガレとはカラスが運び去るものである。だからカラスに投げ与えるのである。これについては第2章の「2 供物を投げる、屋根に上げる」でとりあげる。なぜケガレは祓われなければならないか。それはケガレとは余った危険な太陽であり、旱魃、天候不順をもたらすからであり、それらは自然災異としてのケガレだからである。ならばこの祭りも射日・招日神話、それを継承した天岩屋戸神話に起源すると考えられる。

謡が入る意味
 では「片品の猿追い祭り」の一連の行為のどこに天岩屋戸神話が詰まっているだろうか。この祭りの要素を考えると、まず赤飯がある。その赤飯は投げられる。そのあと謡がうたわれる。そして突然猿役が現われて走りまわる。その猿役は追われるのだが、決して追い越されることはない。
 この一連の展開は天岩屋戸神話におけるスサノヲの暴虐によって引き起こされる暗闇と混乱を現わしている。高天原と葦原(あしはらの)中国(なかつくに)はそうしてケガレに満ち満ちた世界となる。そしてアメノウズメの踊り、アマテラスの復活、スサノヲの追放までを猿追い祭りはなぞっているのである。ではその赤飯と謡の意味を追究してみよう。
 ○ 赤飯  ケガレの象徴としての赤飯であり、この場合のケガレとは暗闇がもたらす騒乱、混乱である。
 ○ 赤飯が投げられる  投げられるのはケガレ祓いの行為であるが、それとともに、向き合って双方から投げ合うという動きに騒乱、混乱の状況が表現されている。これは「サバエなす」の状態でもある。
 ○ 謡がうたわれる  謡は次号のテーマ「反閇 音と足踏み」の「音」に相当する。音とは従来の解釈にいうところの神のおとずれを表わす音であり、ホトホト、コトコトなどの訪問者の来訪を告げる音でもあり、それから派生したと思われる声、大声、となえ詞、乱声、サバサバなどである。行事のなかで謡がうたわれる位置をみると、謡はそれらの音と共通の意味を持つと思われる。その音は何に起源するかといえば、アメノウズメの踏み鳴らすウケフネ、つまり桶を踏み鳴らした音である。赤飯、および赤飯投げで展開された騒乱、混乱が高天原の暗闇であり、そこへ登場するのが、アメノウズメのウケ踏み鳴らしである。謡が秘めた意味と、行事の中で謡が現われる頃合いは他の事例とも共通していることがわかる。

 たとえば67ページの第3章の「桶が重要であること」の事例13の「甘酒祭り」では、新旧頭屋の引き継ぎの頭渡しが行なわれたあとに謡がある。新旧頭屋の引き継ぎとは年が改まることである。年が改まるとは、我らの望む新たな太陽が迎えられることである。ということは射日・招日神話では余った危険な太陽が鎮められて、我らの望むひとつの太陽が現われるところである。つまりそれはアメノウズメが踏み鳴らしてアマテラスを呼び出すことを意味する。その踏み鳴らしの音から派生したものは、民俗行事の中にいろいろあるが、そのひとつが謡なのである。
 さらにもうひとつ例を示すと、79ページ第3章「2 射日・招日神話へさかのぼる」の事例12「弓取り式」である。弓取り式が済むと2組に分かれて謡の掛け合いが行なわれる。この弓取り式は射日神話そのものである。ケガレの太陽を射落として、つまり先の例でいえば、新旧頭屋の引き継ぎが終って、ということは赤飯の投げ合いが終って、謡が行なわれるのである。
 いっぽう、謡とはちがうが、『個人誌 散歩の手帖』27号で紹介した「アアタラシ((26))」も新春の祝いことばを述べてまわるのだが、謡と同じ意味づけのようだ。謡の起源もこのあたり、つまりケガレ祓いがすんで新年を迎える境い目に現われる祝言だったかもしれない。
 以上の3つの例にみるように謡は、
① p22 赤飯が投げられたあと。
② p67 新旧頭屋の引き継ぎのあと。
③ p79 弓取り式のあと。

 つまり①ではケガレが祓われたあと、これで年が改まる。②では頭屋が引き継がれたあと、これも年が改まる。③では弓取り式は日没後に行なわれる。これも夜が明ければ新たな太陽を迎え、年が改まることになる。
 いずれも年の改まりの境い目に謡がうたわれることになっている。わずか3件と少ないが、ここに何か意味を見出すとしたら、年の改まりに謡を置いているということなのである。その境い目とはアメノウズメの「ウケ踏みとどろこし」によってアマテラスを呼び出す、つまり年が改まる境い目である。ということは謡はウズメがウケフネを踏み鳴らした音に起源するのである。だから能の翁では反閇と謡が重要なのである。これははたして飛躍しすぎた考えだろうか。38ページ事例7であつかう「元旦の名ノリ」も同じ位置づけであり、一種の謡であるかもしれない。
 そしてなぜ猿なのか、それは猿女の君、アメノウズメへの連想である。これは尾張大國霊神社の裸祭を連想させる。猿は裸祭りにおける神男(しんおとこ)、神男はスサノヲである。裸祭りでは神男が境内から追い出されることによってケガレが祓われ、新年を迎えられる。これはケガレを高天原から追放する行為を模したものである。だからスサノヲと神男と猿役は同じである。追放されていくスサノヲは絶対に追い越してはならない。だから猿役も追い越してはならないのである。神男とスサノヲの関連については『散歩の手帖』25号に詳述している((27))。
 つまり赤飯投げはケガレ祓いであり、それはケガレの太陽を鎮めることである。片品の猿追い祭りとは天岩屋戸神話の再現なのである。いきなり猿役が飛び出してくるというのは、サバエなす状態、つまり高天原を暗闇と混乱に落し入れた状態を表わしている。この混乱状態こそ多くの祭りや神事の中で演出される騒乱や混乱、突然の場面転換の源と考えられる。そのあとアメノウズメがアマテラスという太陽を呼び出し、スサノヲは追放される。このスサノヲが猿役に相当する。スサノヲの追放はケガレを運び去ることを意味する。だから猿追い祭りでは、追放されるスサノヲとしての猿役を決して追い越してはならないのである。ではどうして猿なのかといえば、射日神話にのっとった太陽祭祀である鎮魂祭に奉仕したのは猿女君であり、猿女君の祖神はアメノウズメである。これらの連想が猿を呼び出したのであろう。天岩屋戸神話の構成要素が猿追い祭りには垣間見えるのである。『日本民俗大辞典』「せきはん 赤飯」の項ではさらに埼玉県児玉郡神泉村の飯台行事、赤飯を境内所狭しと投げ散らすという事例を紹介している。

雑煮、七草粥、五目飯、混ぜ飯などにみるケガレ 事例10~19
 これまで小豆、餡、赤飯を例にそれらが元はケガレを象徴するものだったことを検証してきた。さらに同じことは雑煮、雑炊、七草粥、シモツカレ、煤掃き団子、まぜ飯、五目飯などについても言えるのである。ふたたび『正月行事』から引用してゆく。
 事例10 鹿児島県薩摩郡甑島1-48
〔平良〕子供たちはこの神社(愛宕神社と水神社)のまわりから、マベノシバのはえている枝を折ってきて年寄りの人のいる家を訪れ、そこのイロリで持ってきたマベノシバを燃してまわる。マベノシバはパチパチと大きい音をたてて燃えるので、この音をおそれて鬼が入ってこないという。その家の人は子供に餅をやる。子供たちはこのようにしてもらった餅を持って集まり、自分たちだけで野原や庭先などで雑煮を煮ていっしょに食べる。
〔青瀬〕海岸にたくさんはえているダテク(ダチクのことで、大きなススキのようなもの)を切って集めてたくと、パンパンと音がする。これで鬼を追いはらうという。

 ダテクとはダンチクのことであろう。図鑑によるとイネ科ダンチク属で、暖地の海岸に群生することが多いという((28))。マベノシバばかりではなく、大きい音を出すことに意味があることはこれからもわかる。ほかに多くの集落ではほら貝を吹く。大きな音を出すことの意味はいずれも鬼を追いはらうこととされているが、一方、上甑村では鬼が餅を投げてよこす、餅を落としてくれるといった伝承になっている。このように対応のちがう鬼とはなんであるか。大きな音とは何か、といった疑問は『散歩の手帖』29号「反閇 音と足踏み」で詳述する。
 ところで事例10のどこがケガレを現わしているのかについて考えなければならない。餅をもらう子供たちは小正月の訪問者であり、ケガレを負った餅を運び去る役目である。野原や庭先で、その餅を入れて雑煮を作るのはなぜか。なぜわざわざ野原や庭先なのか。それは境界を想定してのことだろう。子供たちという小正月の訪問者がケガレの餅を境界で祓えやるのである。この行為にケガレを祓う意味が残存している。カラスが山という境界へケガレの餅を運び去るのと同じである。境界でケガレを祓う行為は、事例15と40ページ第2章の「1 餅を焼く意味」の事例9でもふれている。
 事例11 大分県東国東郡国東町1-128 元日
トシトコ様は年徳様で大黒天の像である。家の座敷か広間に、明きの方に向けてトシトコ棚を作り、一升枡の中に像を入れてまつる。できるだけ黒いと縁起がいいといい、掃除をしない。(雑煮には)餅は丸餅をそのまま入れる。そのときトシトコ様に上げるといって、鍋墨をちょっと餅につけたもの1個を入れる。
 ここでは鍋墨がケガレの象徴である。それをケガレを運び去る役目のある餅に負わせてトシトコ様に上げる。そのためトシトコ様もできるだけ黒い方がいいといわれるのである。鍋墨については第2章「3 墨塗り、煤掃き」で取り上げる。トシトコ様は年徳様であり、小正月の訪問者である。したがってケガレを運び去る役目である。一升枡の中に像を入れるというのは、一升枡が桶からの変化として使われているのだろう。桶とはアメノウズメがそれに乗って踏み鳴らす「ウケフネ」である。桶については第3章の「1 桶が重要であること」で取り上げる。つまり鍋墨をつけた餅を雑煮に入れてトシトコ様に供えるとは、墨、餅、雑煮、小正月の訪問者、これらすべてはケガレ祓いを担う要素でできているのである。

「雑煮」の名の由来
 事例12 大分県東国東郡国東町1-129
正月4日の朝は、正月の食べ残しをすべて入れた雑炊を作り、トシトコ様に供えてから家族で食べる。

 トシトコ様に供えてというのは、事例11と同様ケガレをトシトコ様に負ってもらうことのなごりであろう。食べ残しをすべて入れるというところにケガレの象徴をみることができる。要するに混ぜ飯、五目飯とも同じく、雑炊雑煮もいろいろなものを混ぜたり搗きこんだりして、ケガレの象徴を作ることなのである。シモツカレも同じである。シモツカレについては稲荷信仰と密接な関係があるので、稿を改めてとりあげる。そこで思い至るのは10ページ、柳田が疑問(12)でいぶかしがっている「雑煮」という正月らしくない名称である。「雑煮」とは食べ残しをすべて入れたり、いろいろなものを混ぜたり搗き込んだりして、ケガレの象徴を作ったことから出ているのであろう。

 事例13 鹿児島県肝属郡佐多町1-19 若菜打ち 
〔外之浦〕6日の夜、7日の夜明けに、七草雑炊に入れる若菜(多くは菜っ葉で、芹をつんできたり、ゴボウなども加えることがある)をまな板の上におき、すりこぎを持ってまな板をコンコンたたきながらとなえごとをする。(一部省略)

 6日の夜、7日の夜明けというのは、これも年とりの晩で、この時七草雑炊を作るというのはケガレを祓うのである。まな板をコンコンたたくのは叩いて出す音に意味があるからである。その音は反閇に通じると考えられる。反閇とはケガレの太陽を鎮める行為である。この行事は必ずまな板をコンコンたたく、この音をともなうのである。たんに雑炊に入れる菜をまな板できざむ音から出たのではない。反閇については『散歩の手帖』29号「反閇 音と足踏み」で詳しくあつかう。
 事例14 鹿児島県肝属郡佐多町(伊座敷の町では)1-20七草雑炊
7日の朝は七草を入れて、七草粥にあたるナナトコズシ(七草雑炊)を作って食べる。その年7歳になった男の子、女の子を持つ家では、子供の7つ祝いを盛大に行なう。7歳になった子供は晴着をきて、膳に椀をのせたものを持って近くの7軒の家をまわって七草雑炊を少しずつもらう。その家の人は子供に7歳になった祝いをいって、自家の七草雑炊をその食器に入れてやる。7所の雑炊をもらうからナナトコズーシというわけである。

 7軒の家をまわってケガレの象徴である雑炊をもらって歩く。つまりこれは祝いといっているが、それは餅に聖性を認め神供とされるようになって後の変化であり、それから子どもの行事となったのである。もとは村の家々からケガレを運び去り、至浄の正月を迎えるための行事なのである。これは柳田の説く「モノモラヒ」の行為に通じる。つまりケガレを集めて歩く小正月の訪問者からの変化型である。モノモラヒについては『散歩の手帖』27号でとりあげた。柳田の「モノモラヒの話」には、古くは餅を貰い歩いたとの習俗があり、それが何を意味し、なぜそうするのかと柳田は疑問を呈している(「29」)。

境界へ行って餅や雑炊を食べる

 事例15 鹿児島県薩摩郡甑島1-51 七日節句
〔瀬尾〕7日には女の子は思い思いに何人かずつ集まって磯にでて、小さいかまどを石で作る。そして流木を集めてまきにし、小さい鍋に七草の野菜と米とを入れて七草雑炊を炊いて、お互いに磯で食べて遊んだ。

 ここでは七草雑炊を磯で食べることに意味がある。事例10の「野原や庭先など」で雑煮を食べるのと同じく、境界へ行ってケガレを祓う行為の残存である。甑島の他の集落の例では、
 ○ 磯端でかまどを作り米を洗って七草を入れ、ナナトコゾースイを作り
 ○ たんぼの中で餅を煮て
 ○ 海岸や野原、空屋敷などに集まって雑炊を炊く
 ○ 山の近くや海辺にいき、弁当を持ってきて食べ、また自分たちでもご飯を炊いて
などと、いずれもわざわざ野外の特定の場所へ行って雑炊や餅、飯などを食べる。その場所とは磯、磯端、たんぼ、海岸、野原、空屋敷、山の近く、海辺と漠然としているように見えるが、これらは境界としての意味づけがされていると考えられる。子供のことだからあまり遠くへやることにはならなかったが、海岸、山の近くなど生活圏の外縁まで行って米または糯米由来の食物、つまりケガレの象徴としての食物を持ち寄ってケガレ祓いすることを意味しているのである。

 事例16 鹿児島県薩摩郡甑島1-52 ナナトコ雑炊
正月7日、7歳になった男の子も女の子も晴着を着て、近くの7軒の家の七草雑炊をもらってまわり、それを食べる。この粥のことを7戸からもらうのでナナトコ雑炊といっている。

事例14と同じ「モノモラヒ」に通じる習俗である。
 事例17 鹿児島県大島郡三島村1-111 十五日
〔竹島〕この日の朝の汁には必ず貝をいれ、野菜は大根、豆腐など5種から10種までのものを、みな賽の目切りに切って入れなければならないとされている。またこの朝飯に使う箸は、絶対に桑の箸でないといけない。そしてかりに他家に客にいっても、また自家に客がきても、桑の枝の曲ったなりに削られた箸でなければ、この日の朝食は食べないこととされている。

 粥とも雑炊ともいってないが、材料をみな賽の目に切って入れるとなっているので、粥や雑炊とほぼ同じものを想定していいだろう。それを桑の箸で食べなければならないとされている。桑の木は『散歩の手帖』25号の「桑樹と射日神話」の項で述べたように射日神話とは切り離せない木である。尾張大國霊神社の儺追神事の最後、的射神事における桑の弓でもある(「30」)。ケガレとしての余った危険な太陽を射落とすための桑の弓である。その伝承が広く存在していたことを感じさせる桑の箸なのである。

五目飯を食べる意味
 事例18 岡山県邑久郡牛窓町2-149
〔千手〕では、餅搗きの日はきまっていないが、暮れがおしつまってからつくことが多い。(略)餅搗きのあと、五目飯を食うのが親睦でもあった。しかし、これも67~8年前のことである。

 ここで五目飯というのは何気ないように見えるが、五目飯と決っていたというからには、たんなる親睦に食べるもの、ではすまないだろう。もとに五目飯と決めた意味、理由があったはずである。それは粥、赤飯、雑煮、雑炊などと同じであろう。つまり、飯や餅に他の食材を混ぜたり搗き込んだりしてケガレを表現していたといういきさつである。それゆえの五目飯とみるべきであろう。それはこれまでの17の事例が示している。先述したがシモツカレもそうである。シモツカレについては稿を改めて、稲荷社の起源との関係でくわしくとりあげる予定である。
 『日本民俗大辞典』上巻「ごもくめし 五目飯」では「混ぜご飯はもともと、日常の食事の補いにすぎなかった」「多くの農山村では節米が唱えられ、それぞれの土地で収穫される畑作物で米の足りない分を補うという食べ方が工夫されていた」として、五目飯は白米飯が足りないための補いとの解釈である。そうした面は現実問題としてあったであろう。しかし古くから粥や赤飯、雑炊など、飯になんらかの混ぜ物を入れる食物が年中行事や儀式と結びつき、それを食べる日がたとえば元日、4日、5日、6日、7日、小正月などというように決っていたのはこれまでの事例が示している。そうした慣習を考えると、たんに米が足りないからとか、日常の食事の補いという理解ではすまないのである。

日待ち
 事例19 岡山県和気郡和気町吉田2-163
(正月の)5日夜から6日朝にかけてお日待ちをしていた。終戦までは村中の男が子どもまで全員寄り合っていた。今は1軒から1人出る。5日の夜は夜通し起きて話をし日の出を拝む。混ぜ飯をして食べていた。費用はお日待ち用のたんぼがあり、それから出していた。

 ここでもケガレの象徴という意味を負った混ぜ飯なのである。日待ちはかつては重要な行事であった。『日本民俗大辞典』「ひまち 日待」の項によると、日待ちの特徴として、
 ○ 一夜眠らずに籠りして明かすこと。
 ○ 日の出を拝して祈ること。
 ○ いくつかの禁忌を伴うこと。
  日待ちに出席する者は出席前に必ず風呂に入らなければならない。
  庚申の夜は男女同衾(どうきん)をしてはならない。
  日待ちの日には仕事をせずに休み、精進料理を食べること。
などの決まりがあり、年始にあたっての大事な行事とされている。それはかつては村中の男が大人から子どもまで全員出席するものだったこと、日待ちにかかる費用を捻出するために専用のたんぼがあったということからも、いかに大事にされていたか推察される。それは日待ちがかつて新年を迎える行事だったからであろう。日待ちとは太陽を待つことである。一夜籠ったすえに日の出を拝む。そしてケガレを負ったとみなされる混ぜ飯を食べるところにケガレの太陽を祓った痕跡がある。たんに白米飯が足りないための補いではないのである。日待ちとはこれもまた射日・招日神話の残存なのである。射日・招日神話の残存については第3章でも取り上げる。

その他にみるケガレの象徴
 『日本民俗大辞典』(下巻)「だんご 団子」の項に「滋賀県愛知郡愛東町では祭礼の宵宮にヨミヤダンゴと呼ぶヨモギ入りの餅を作る」との記述がある。これもケガレの象徴と思われるヨモギ入りの餅である。しかも祭りの宵宮に作られる。宵宮とは『日本民俗大辞典』「よみや 宵宮」によれば、本来は神霊の降臨を仰ぐ祭りの中心であったと考えられている。「神霊の降臨を仰ぐ」という解釈には同意できないが、それはともかくとしても、祭りの本質が宵宮にあることはまちがいない。したがって祭りの本来の意味からすると、宵宮が中心なのである。それについては『散歩の手帖』25号第5章「1日の始まりは日没から(「31」)」で述べた。なぜその宵宮に団子を作るのか。それは団子がケガレの太陽の象徴だからである。射日・招日神話における余った危険な太陽がここでは宵宮の団子なのである。飯に混ぜ物をすること、団子や餅に餡をつけること、ヨモギを搗き込むことも、ケガレを象徴させるのである。
 そしてすでに『散歩の手帖』26号で取り上げた「コトノ箸オサメ」と「イノチゴイ」を振り返ってみよう。「コトノ箸オサメ」とは正月の祝いの膳に使った箸をコトノ箸といい、使ったあと屋根の上に放り上げておくという慣行である。そして「イノチゴイ」とは愛媛県に伝わる習俗で、2月8日にイモや魚の混ぜ飯を藁苞に入れ、カヤの箸を添えて屋根に上げるというもので、鳥(とり)がくわえていくと幸いとしている。これらもまたケガレを祓えやる行事であることはすでに述べている(「32」)。「イノチゴイ」の行事に作るイモや魚の混ぜ飯もケガレの象徴である。それらに用いた箸もケガレをおびるからケガレ祓いの行為として「屋根に上げる」のである。屋根に上げることについては、第2章の「2 供物を投げる、屋根に上げる」でもあつかう。
 赤い鯛を使うことについては『散歩の手帖』27号「小正月の訪問者と餅のゆくえ」で事例53として紹介しているが、もともと「赤色の儀礼食」からきている。『正月行事』4、大船渡市の「里帰りの礼には、鏡餅3升のもの一重ね・魚2匹(メヌケ、またはキツジなどの赤い魚)・酒1升を樽にして持参する」というもので、ケガレを象徴する赤色としての魚なのである(「33」)。
 以上のように、小豆も餅その他の米由来の食物もケガレの象徴であり、正月行事のなかでそれらケガレの象徴がさまざまに展開していくのであることが理解されたと思う。柳田の提示した小豆についての疑問にもほぼ答えは出たであろう。ただしそれらのケガレは現実にはケガレとして意識されていないのである。したがって、行事の中で明確に祓われることはない。そこで次章では、明確ではない祓いの行為が行事のなかでどのようなふるまいとして残存しているのか、いくつかの具体的な行動に沿ってケガレ祓いの様相をみていこう。

ケガレの起源と銅鐸の意味41 小豆 ケガレの象徴として

2016年10月07日 13時24分12秒 | 日本の歴史と民俗
 第1章 小豆にみるケガレ

小豆の餡
 さきに『散歩の手帖』27号の「餅なし正月の意味と起源」の中で、「赤色の儀礼食」に使われる小豆について考えてきた((1))。今回は小豆についてさらに追究していこう。坪井洋文は『イモと日本人 民俗文化論の課題』において「餅なし正月」にともなう神話・伝説をその内容によって7つに分類した。「赤色の儀礼食」はそのうちのひとつである((2))。それは小豆で色をつけた餅、小豆の餡(あん)を塗りつけた餅、赤飯、さらに小豆を用いた雑煮、粥、汁の類を供物、儀礼食としたものである。そこで述べた私の結論というのは、小豆が主体となっている赤色の儀礼食はケガレの象徴であるということであった。その理由として、坪井の7分類はすべてケガレを出発点としたものであり、その中に「赤色の儀礼食」も含まれているからである。さらに、坪井の分類中の事例29、福島県相馬地方に伝わるアカアカモチの例は糯(もち)米(ごめ)に小豆をまぜて搗いて赤色をつけた餅で、白い餅をエエモチ(良い餅)というのに対してアカアカモチといわれている。ということは、それはケガレのある餅の意であると考えられること、そして『日本民俗大辞典』「せきはん 赤飯」の項によると、凶事の赤飯の例が全国各地にあることなどを上げておいた。
 また烏勧請はケガレを除去するのが目的であり、しかもその事例の半数で白い餅ではなく焼餅、小豆餅、赤飯、混ぜ飯、焼米などが使われていること。つまり白い餅も本来ケガレをそれに受けて運び去る役割があるが、さらに、こげ色や赤色もケガレを象徴しており、そのために餅を小豆でよごしたりするのであると考えられるのである。それらの例は次の一覧表にみるとおりである。

   烏勧請にみる、ケガレと考えられる餅や米の分布

青森県   焼餅、炙り餅
岩手県   小豆餅、焼餅
山形県   ボタモチ、小豆団子
埼玉県   焼餅、焼餅
千葉県   焼餅
新潟県   蕎麦か五目飯
静岡県   玄米餅
愛知県   焼米、焼米、焼米、焼米、社の供物のさがり、御供米をまく、焼米
岐阜県   焼米
長野県   焼米
滋賀県   小豆入り玄米飯
鳥取県   焼米
島根県   焼米
愛媛県   小豆飯、混ぜ飯
長崎県   籾を炒る
宮崎県   赤飯、赤飯、小豆
鹿児島県  赤飯、ぼたもちのような団子

 この一覧表は大林太良の『稲作の神話』から抽出し、新谷尚紀の『ケガレからカミへ』から補ったものである。ひとつの県に同じ言葉が並ぶのは、事例の件数をそのまま出しているためである。烏勧請が行なわれる青森県から鹿児島県までのほぼ全域に分布していたと考えて差し支えないであろう。ところでその内訳をみると東に焼餅、西に焼米という傾向がみられる。それが何を意味しているのかは不明。

 さらに坪井洋文の抽出した餅なし正月の由来を語る全53事例も『散歩の手帖』27号で述べたように、半数以上の28例で糯米や米に小豆やヨモギを入れ、あるいは里芋やうどんが使われている((3))。
 これらの事例から小豆がケガレの象徴であるというのは明らかであろう。しかし、あるいは読者はまだ受け入れがたいかもしれない。なにしろ小豆がケガレの象徴であることは、27号で餅がケガレの象徴であることを展開したのと同様、誰にも気づかれずにきたし、文献の上にも現われなかった。ならば一度ここで小豆に焦点をあてて、小豆もケガレの象徴として使われていたということを検証していくことにしよう。
 そこでまず、問題提起として、小豆がケガレであるという私の主張が突飛ではなく、充分検討に値する問いかけであることを明らかにしよう。それには柳田国男の提示した小豆についての疑問を引き合いに出すことでこと足りるであろう。
 柳田は小豆を昭和17年「小豆の話」、昭和24年「小豆を食べる日」、そして最晩年の『海上の道』に収録した昭和26年の「知りたいと思ふこと二、三」、昭和28年の「稲の産屋」でも小豆を取り上げている。そして民俗における小豆の不可解な扱われ方の奥には重要な秘密が、柳田の言によれば「何かまだ隠れている根拠」があるのではないかと憶測している。柳田の抱いた疑問は未解決のままで終っているのである。しかし、小豆をたんなる食物ではないと柳田はとらえている。そこに柳田の問題意識、さまざまな民俗事象に向ける関心の鋭さがある。
 というわけで今回はまず、柳田が抱いた小豆をめぐる民俗への疑問を抽出していく。それによって民俗における小豆の不可思議性が浮かびあがり、再認識されるであろう。さらに各地の民俗行事から事例1~19を拾いだした。これらを検討することによって、小豆や赤飯などの儀礼食、五目飯、混ぜ飯などもケガレを象徴したものであることが理解されるであろう。その結果、小豆をケガレの象徴とみることで、柳田が抱いた小豆への疑問が解き明かされることであろう。すなわち小豆の持つ民俗上の性格は餅と一体のもの、餅と連動するものであることが確認できるのである。

小豆、柳田の疑問
 柳田は「小豆の話((4))」(昭和17年)の中で小豆について次の疑問を提示している。(1)から(6)として抜き書きにした。
(1) どうして又此一種の食物が目出たい日には賞翫せられ、不吉の際にはわざと用ゐられぬ習はしになつて居るか。
(2) 附近の諸民族の中には同じ習慣が((1)のように)果して有るか。但しは又是が日本人独特のものであるか。
(3) 近頃始まつたか、はた古い昔からずつと此通りであつたか。
(4) 本来は之(小豆)を用ゐる時が定つて居たのかと思ふ。それは不吉の際に、わざと之をさし控へる仕来りのあるのを見てもわかるが、更に一方には常の日にも之を禁じて居る例が残つて居る。岩手県の幾つかの村里では、今でも正月は15日より前に、小豆を食つてはならぬと謂つて其戒めを守つて居る。
(5) 一ばんよく知られて居るのは所謂お稲荷さんの祭であるが、其以外にも、疱瘡神送り、即ちこの病を運んであるく神を退散させる祭にも、やはり小豆飯を供へたといふ話は普通である。中国地方の人ならば、誰でも知つて居るゲドウとトウビヨウ、又は四国で殊に有名な犬神の如く、之を飼つて居る家を富貴にし、その相手の家を苦しめるといふ想像上の動物なども評判ばかりで実地を見た者は無いのだが、やはり定まつた日にこの小豆飯を供へて、祭つて居るといふ人が多い。
(6) 小豆がさほどめでたい食物ならば、どうして疱瘡神や人に憑く野狐の如き、隔離を必要とする別世界のものの、之を饗応して返そうとするのかといふことである。
 小豆をめぐる民俗について柳田は日本周辺の諸民族ではどうなのかと(2)と次にあげる(7)(8)のように取り上げ、これを比較したいと望んでいた。この時代ではほとんど不明だったらしいし、現在でもあまり情報はないのかもしれない。『東アジアにみる食とこころ』に若干の記述がみられる。それによると、中国では北方漢族の場合として正月15日、新年が始まって最初の満月に、もち米の粉で作った餡入り団子を食べるという。これを「元宵」といい、「元宵」は砂糖をベースにゴマ・小豆・クルミやピーナッツなどを入れる甘い味が基本的であり、茹でて食べるものという((5))。
 韓国ではうるち米で餅を作り、それを蒸器で蒸したものをシルトック(甑餅)という。うるち米の粉と小豆を交互に重ねて蒸したものが一般的であるとされる。小豆は悪鬼や雑鬼を追い払う意味があるという((6))。
 また中国江南地方の年中行事を記した『荊楚歳時記』では小豆は疫病よけ、殊に疫神よけに用いられ、冬至には赤豆粥を作るとされている。同書は日本には10世紀までに伝来したといわれているので、小豆の呪術性もそれによりわが国に伝えられた可能性を指摘している((7))。
 以上のように中国や韓国でも日本の民俗にみる小豆の使われ方や役割とよく似ている。共通している点は、餡にするかどうかはともかく、米といっしょに使われること、悪鬼・雑鬼を追い払ったり、疫病よけ疫神よけになったりというように、呪術性があるということである。新年が始まって最初の満月である正月15日に食べる、あるいは冬至に使うというふうに、用いる日が決っている場合もあるなども、日本の民俗との共通点である。ということは柳田の疑問(2)の答えとして、日本人独特のものではなく、そうした民俗的性質を保ったまま日本列島へ伝播した、しかも米といっしょに使われることから、おそらくは稲作文化の中の一要素として稲作とともに伝播したと考えられる。そうであるならば、小豆の民俗的性質についても『荊楚歳時記』の伝来した10世紀よりもはるかに早く、弥生時代に遡るだろう。小豆の伝来は弥生時代とみられている((8))。つまりは作物としての小豆と民俗としての小豆は日本列島にもたらされた当初からともにあったと考えられるのである。

次に「小豆を食べる日((9))」(昭和24年)から柳田の提示した疑問を(7)から(15)に示す。
(7)ビルマの国から可なり多量に入ると聴いて、珍しく感じた記憶がある。さういふ方面の小豆栽培も古いかどうか。又其用途なり是に伴なふ感覚なり約束なりに、日本とどの程度までの共通があるか。
(8)(小豆が)古代はどうあつたかを尋ぬべき機会でもあると思ふ。小豆を稗粟麦のやうに、又近世の都会の米の飯のやうに毎日食ひ、又は乾菜や芋大根と同じにカテ飯のカテとし、腹のたそくにして居た時代は、日本ばかりか他民族の中でも、曽て無かつたやうに私には推測せられる。
(9)小豆を常の日には食べないといふこと。
(10)正月15日を粥始めとも称し、この日以前には粥はこしらへぬといふ土地があるかと思ふと、一方には7日を七草の粥とする慣例も、可なり広い区域に認められて居る。それと同様に、小豆も15日より前には食べてはならぬといふ処が東北ばかりか関東の農村にもあるのに、他には又元日2日、7日や11日に、必ず小豆を食べることになって居る例も相応に多いのは、何か共通の理由からではないかと考へられる。
(11)小豆を餅に付けて元日から、食べることにして居る風習であった。
(12)雑煮といふ言葉はどう見ても正月らしくないが、是は或は新しい一つの食べ方が、始まつたことを意味するものかもしれない。
(13)この餅には身の上餅、めいめい餅といふ類の名があつて、最初から之を各人に分配するのを例として居た。
(14)小豆が其機会に限つて用ゐられたのは、簡単に理由を見出し難いだけに、何かまだ隠れて居る根拠があるものと見てよいのである。
(15)どうして此様に根強く、殊に改まつた式日に用ゐられるかは、やはり考へて見なければならぬのである。
 (1)(4)(9)(10)(14)にみるように小豆の使い方には制限がある。式日以前には粥をこしらえてはならぬとか、決った日に必ず小豆を食べるなど、餅の制限と似ている。「餅なし正月」と共通した要素がみられるのである。
「7 小豆を食べる日のこと((10))」(昭和26年)からも1点。
(16)(小豆が)物忌と常の日との境目を明かにする為の食物だつたことが、証明し得られることを期してゐる。
そして「稲の産屋((11))」(昭和28年)から1点をあげる。
(17)始めはあの色相から、作物の中に加へられたかと考へられる。或は今一歩を進めて、米の飯や粥の色を花やかにして、食べる人の心を改まらしめる為に、用ゐられ始めたかとさへ想像せられる。延喜式の中などにも可なりの量、数多くの機会に用度として列記せられ、一々はまだ当つて見ぬが、目途はすべて式典の為であり、(以下略)
 ここでは飯や粥の色を花やかにして人の心を改まらしめることから使われ出して、色の花やかさを式典の花やぎに利用するようになった、というのが柳田の小豆の解釈ということになる。小豆についての柳田の関心は次第に式日と常の日を分けるために小豆が使われているという点に集中してきている。以前よりも小豆に対する疑問、問題意識が鈍くなっているようにもみえる。

 以上のように小豆の用い方は独特であり、常の日には食べず、使う日が限定されていたり、解禁日を設けるなど、利用のしかたには制限がある。まためでたい食物でありながら、一方で疱瘡神や人に憑く野狐を饗応して退散させるためなどにも用いられる。小豆はこうした特別の用途をもっていた。これらには(14)に見るごとく何か隠された根拠があったのではないかと柳田は想像している。その柳田の疑問は(16)(17)にみるように、晩年に至っては淡いものになったようであるが、「稲の産屋」「知りたいと思ふ事二三」は『海上の道』に収録されたように、柳田は最晩年まで不可解な小豆にこだわったのである。

餅と小豆の類似
 このように小豆について柳田が抱いた疑問を抜き出していくと小豆が餅の扱いと似ていることに気づく。特に小豆の使い方に制限をもうけている点などは餅なし正月における餅と同じようである。
 たとえば常の日には食べないで、なんらかの式日に用いる。元日に餅につけて食べる。米の飯に小豆で色をつけたり、粥にして米とともに用いられる。特に食べる日に制限をもうけている点では餅なし正月と同じである。つまり餅と同じ目的で小豆は使われているのではないか。そうであるならば、『散歩の手帖』27号「餅なし正月の意味と起源」で述べたように、餅がケガレの象徴であったり、ケガレをつけて運び去るための器であるように、小豆は運び去られるべきケガレの象徴ではないか。そこで次は民俗資料のなかに小豆がケガレを象徴していると解釈できる事例をさがしてみよう。

民俗にみる小豆のケガレ 事例1~6
 『無形の民俗資料 記録 正月行事((12))』全4冊(以下『正月行事』と略記する)のなかには小豆についての民俗事象もみられる。そのなかから、小豆にかつてケガレの意味が込められていた痕跡をさがしてゆく。これらの資料で取り上げた民俗では、すでに小豆が負っていたと考えられるケガレの意味は直接的には現われていない。したがって、それぞれの事例に現われた習俗において、小豆の使われている様子が記述されているだけである。しかし、一歩踏み込んでなぜここに小豆なのか、なぜこういう使い方がされているのかと問うていくと、ケガレとしての小豆が浮かびあがってくるのである。

 ※ 1―165 1は『正月行事』全4冊の巻数、165はその中のページを示す。

事例1 大分県宇佐郡駅川町1-165
あん入りの餅は吹出物ができるといってつかない家も多いが、正月中にくる乞食にやるために少しはついておく。

 なぜあん入り餅は吹出物ができるといわれるのか。そして正月には乞食が来るものだ、そして乞食に与えるのだということが、あん入り餅を作っておく前提になっている。乞食は『散歩の手帖』27号「餅なし正月の意味と起源」の中で「ホトホトの餅」「ケガレの除去と被差別民」で述べたように小正月の訪問者に相当しケガレを運び去る者である((13))。「あん入りの餅は吹出物ができる」という伝承によってあんには負の価値がそなわっていることが示され、それによって小豆がケガレを象徴している痕跡をとどめていると考えられる。さらにその餡入り餅はケガレを運び去る役目を負った小正月の訪問者である乞食に与えられる。
 この報告ではつづいて餅の種類をあげている。鏡餅、小餅、切り餅。切り餅にはカキ餅、アラレがあり、ごま、青海苔、大豆、落花生などを入れる。その他にも、つきたての餅を小さくちぎって酢につけて食べる酢餅、つきたての餅の外側にあんをつけたオヘギなどがある。それら多くの餅のほかに冒頭のあん入り餅が作られるのである。ケガレを運び去る役割としての乞食に、ケガレを象徴するあん入りの餅を与えて運び去ってもらうことが目的だったと考えられる。ところでオヘギは、オハギ、ボタモチのオハギの語源であろう。春は牡丹でボタモチ、秋は萩の花でオハギという説は後の付会と考えられる。いずれ稿を改めて取り上げたい。

 事例2 烏朔(からすづい)日(たち) 大分県東国東郡国東町1-122
旧12月1日をカラスヅイタチ(烏朔日)という。この日は烏の起きぬうちに、つまり烏の鳴かない未明に起きて、粘ばる食物を食べる。もち米をウルシ(粳)に混ぜて炊いためしや小豆飯を食べる。

 この行事の元の意味はカラスが起きないうちに飯や小豆飯を供えることにあったと解釈できる。朝暗いうちに起きてそうするということは、もとはこの行事が烏勧請そのものか烏勧請を含むものだったと想像される。粘る食物を食べるようになったのはのちの変遷である。上につづく文面をみると、粘る食物を食べるということに興味が移っているのがわかる。というのは、この日はトシトコ様が唐の国に相撲をとりにいくので、ねばり腰で勝つようにとか、トシトコ様が出雲に村の者の縁結びに行く時の弁当で、良縁があるまでねばってもらうために、といった話がつづく。「カラスヅイタチ」の本来の意味はこの習俗のなかには、未明に起きることと小豆を使うことだけに残っている。「カラスヅイタチ」はカラスにケガレを運び去ってもらうことによって新年を迎えられるという烏勧請の意味だったはずで、小豆飯が運び去られるべきケガレを象徴している。「カラスヅイタチ」という行事の名称にも行事の主旨が痕跡として残っているといえる。

 事例3 仏の口あけ 岡山県笠岡市2-125
念仏の口開き、鐘開き、仏開け、仏正月、仏の日などと称して、餅にあんこをまぶしたもの、黄粉餅、ぼた餅、団子、草餅、くぐ餅(くぐの葉をつけたかしわ餅の一種)などのいずれかをつくって供える。6個供えるものともいう。

 ここに出てくる餅は白い餅ではなく、団子は不明だが、どれもみなあんこ、黄粉、草(ヨモギか)、くぐ(くぐの葉は筆者には不明)などをまぜた、あるいはつけたものである。それらは『散歩の手帖』27号の「赤色の儀礼食の分析」で述べたように、餡をつけたり混ぜ物を入れて搗いた餅はケガレを表現していると考えられる。

 事例4 岡山県笠岡市陸地部2-95
旧正月の餅に限りアンビー(あん餅)をしない。アンビーをしたら大きなデモノ(腫物)がその家の主人、あるいは大事な人(長男とか嫁入り前の娘)にでるといって恐れてつくらない。

 事例1の大分県宇佐郡と同じく、こちらもあん餅はデモノ腫物である。ここでもデモノ(腫物)ができるという表現にケガレの痕跡を残していると考えられる。旧正月の餅に限っているというのも、古い習俗をより強く残すといわれる旧正月だからであろう。餡はケガレの象徴とする痕跡がわずかに残ったとみられる。

 事例5 岡山県赤磐郡赤坂町大屋2-157
(煤払いが済むと)煤掃き団子をつくった。これは米の粉の団子であんをつけたものである。これをオドクウ様、お稲荷さん、お金神様にお供えする。「オドクウ様に一番に供えんとほかの神様が受けとられない」という。

 牛窓町千手でも煤掃き団子をつくるが、餡はつけずに味噌汁にして食べる。餡をつけるほうが古いと考えられる。オドクウ様にまず供えるというのもケガレ祓いの痕跡と理解できる。オドクウ様はケガレと関連が強く、ケガレを運び去るからである((14))。そのオドクウ様にケガレの象徴としての餡付きの米粉団子を供えることでケガレ祓いを託している。

 事例6 岩手県雫石町西山4-11一杯おろしのだんご(12月20日)
家族一人一杯ずつの粉でだんごをこしらえてあずきを入れ、これを皆で夕飯のときにいただく。もしこれを夕飯のとき一度に食べかねた場合は、夜中の鶏鳴時より前に必ず食べ終わって厄払いする。

 朝でもない、昼でもない、夕飯の時にいただくというのがこの行事の要であろう。それは日没から一日が始まるからである((15))。次の新たな太陽が出るまでにケガレとしての余った危険な太陽((16))を象徴する団子を始末する必要があるから、鶏鳴時より前に必ず食べ終わらねばならないとされるのである。だから食べ終わればケガレの太陽を象徴する小豆入りの団子が始末されて厄払いができる。ここには射日・招日神話を背景として最後に烏勧請の痕跡もとどめた、新年の迎え方の古い姿が残っている。

夏正月の新年
 さらに、ボタモチと称する麦の粉の団子をカラスに与えて、夏正月の新年を迎えるという事例を紹介しよう。この中には小豆餡やボタモチが登場する。
 『『日本民俗学』130号で小野重朗は「夏正月と大隅の民俗」と題して、周知の冬の正月に対して、旧暦6月末から7月初めに夏正月があるとの説を、大隅半島の民俗を例として展開している((17))。これは一年二年説として『図書((18))』に紹介されたブラムセンの仮説を裏付けする内容でもあり、注目されてよい。一年二年説については稿を改めて考える必要がある。
 この行事を地元ではショガッドッ(正月ドッ)といっている。ドッというのはトキ(時)であり、節とか折り目といった言葉であるという。しかし、なぜ正月というのかという小野の質問に対して答えてくれた古老は1人も居なかったという。では小野による大隅半島の夏正月についての5つの事例を次に抜粋で紹介する。

① 肝属郡根占町横別府、大久保の正月ドッ 各戸では新しい麦の粉の団子に小豆餡を被せたもの(これをボタモチという)を作り、ムギワラのツトに入れて家の門口のあたりの木などに下げてトッの神に供え、家族で食べる。
② 根占町山本、尾上の正月ドッ 正月ドッをボタモチサゲとも言うのは家々でボタモチを作って、それをツトに入れて戸外に下げるからである。それは烏(からす)に供えるのだという。これを正月ドッというのは、いろいろ災厄のある年を送って早くいい新しい年にする意味があるから行なうのだという。
③ 根占町山本、丸峰の正月ドッ ショガッドッ、この日はの青年が、早朝に森山の上で大声で「正月ドッジャッドー」と呼ぶ。トキノカンサー(トキの神様)をよぶのだという。小麦粉で団子を作り、小豆餡を塗りつけたものを小麦ワラの縦のツトに2つ3つ入れたものを家々の、竹笹の垣などに掛けておくと、の子供たちが、それを無断でもらって回った。
④ 根占町川南、牛牧の正月ドッ どの家も、小麦で作ったダゴ(団子)をツトに入れて戸口のあたりにつり下げ、家人みなでたべる。この日が6月の終りの日になるようにする。
⑤ 根占町川北、浦の正月ドッ の田植えが全戸終ると「田植アガイノシバ」(田植上イノ柴)という一連の行事がはじまる。シバは柴日の意で柴を立てて祭りをする日の意であるらしい。一連の最後が正月ドッでボタモチサゲとも言い、ボタモチを作りツトに入れて木戸口に下げた。
 柴祭りについては29号「反閇 音と足踏み」で取り上げる。以上がショガッドッである。上の5事例のなかで小豆餡やボタモチの行方を抜き出してみると、
① トッの神に供え、家族で食べる。
② カラスに供える。
③ 子供たちがもらって回る。
④ 戸口のあたりにつり下げ、家人で食べる。
⑤ 木戸口に下げる。

 ①以外はいずれもボタモチを戸外の木戸口や木に下げてカラスや子供たちにとらせるとするものである。これらの行為によって小豆餡のついたボタモチを運び去らせるのが目的となっている。ここでもやはり、小豆にはケガレとしての意味は忘失しているが、カラスや子供たちが小正月の訪問者として小豆餡のついたボタモチを運び去る役割を担っている。事例1から6に見たように、やはり小豆餡をつけたボタモチを運び去らせる。これもケガレの象徴としての小豆なのである。つまり27号「小正月の訪問者と餅のゆくえ」で家々から餅が運び去られたように、小豆餡やボタモチを運び去ることが夏正月と称して行なわれたのである。

文献ではわからない小豆のケガレ
 ところで、なぜ小豆がケガレであることにこれまで気づかれずにきたのか。この疑問は餅についての疑問と同じものである。餅がケガレであることをなぜ歴史は記さずに経過してきたのか。それは最古の文献が記されるより以前にすでに餅や小豆がケガレを象徴するものであることがわすれられていたからである。しかし民俗の中には事例1~6に示したように、さらに全19事例その他で示すように様々な形で痕跡として残り、現代に伝えられているのである。『散歩の手帖』25、26、27号は餅がケガレであることを検証するために進められてきたともいえる。そして文献からではすでに捕らえられないものが、民俗のなかに潜んでいること、そしてかろうじて検証できるものであることを明らかにしてきた。小豆についてもやはり、民俗をさぐることによって小豆がケガレの象徴である痕跡がみつかるのは事例1~6で明らかであろう。それでは、文献ではすでに小豆がケガレの象徴であることは見出せないことも確認しておこう。
 廣野卓の『食の万葉集 古代の食生活を科学する』によると小豆が文献に現われ始めた例を次のように紹介している((19))。
 ○ 『古事記』上巻には、死んだ大気都比売(おおげつひめ)の鼻にアズキが生える記述があるので、阿(あ)加安(かあ)豆(ず)木(き)(赤小豆)が古くから食用にされたことは理解でき、弥生時代には伝来していたといわれる。
 ○ 天平勝宝5年(753)には、正月15日の小豆粥を食する行事も勘奏(調べて奏上する)されている(『年中行事抄』)。
 ○ 『万葉集』にアズキを詠んだ歌はないが、巻11と12に、小豆奈九を「味気なく」と訓んでいる。
 ○ 奈良時代の史料に頻繁に登場する佐(さ)佐(さ)介(げ)(大角豆)も、弥生時代中期には伝来したといわれている。ササゲも用途のひろい豆で、それをものがたるように、蒸(むし)莢(さや)角(ささ)豆(げ)や生(なま)角(ささ)豆(げ)、青角豆と書かれた木簡が平城京跡から出土している。
 ○ アズキをもちいて飯を赤く染めることは、『荊楚歳時記』が奈良時代に伝来しているので、その記述から知られていたと考えられる。
 ○ 『荊楚歳時記』にも「冬至の日に、赤(あ)豆(ずき)粥(がゆ)をつくり、以て疫(えき)を禳(はら)う」とあるように、赤色が邪気をはらうという俗信によるものである。
 ○ 現在、正月15日(小正月)は「餅入り小豆粥」を炊くが、これは旧暦15日が望月(満月)であり、望月の望が餅に読みかえられたことによる。もちろん、小豆粥を祝う風習も古来からつたえられており、『延喜式』にも、小豆粥の配合が示されている。
 以上のように小豆についての記載はあるが、ケガレの象徴と思われる例やケガレに結びつきそうなあつかい、用途などは奈良時代にはすでにない。ただ『荊楚歳時記』に小豆粥で疫を祓うとしているのは8ページでも述べたように小豆の呪術性としてケガレ祓いの行為が痕跡として残ったかと思える。餅と小豆をいっしょに炊くことが「望月の望が餅に読みかえられた」などというシャレで始まったことではないのである。
 一方、これも推察ではあるが、混ぜ飯らしいものが『日本書紀』の持統元年にみられるとして廣野は「八月(はつき)の壬(みずのえ)辰(たつ)の朔(ついたち)丙(ひのえ)申(さる)に、殯(もがり)宮(のみや)に嘗(なおらいたてまつ)る。此を御青(あおきお)飯(もの)と曰(い)ふ」というのを紹介している。そして「日本古典文学大系」『日本書紀』の頭注に「一説に青飯を菜飯とする」との記述があることを指摘している((20))。
 廣野は「新嘗において祖霊に青飯を供える慣例の検討はべつにして」と述べて、これ以上追究していないが、新嘗とは新年を迎えることと同義であるから、そのおり、青飯である混ぜ飯を供えるということは、ケガレの象徴としての御青(おあきお)飯(もの)を祓えやって新年を迎えるということにならないか。混ぜ飯などについては事例10~19でも扱うように、これもまたケガレの象徴である。
 このように小豆、あるいは青飯をケガレの象徴という立場から見ていけば、その痕跡なしとはしないが、これ以上の追究は無理であろう。後の時代には、『土佐日記』『枕草子』にも小正月の小豆粥がみられるが、すでに祝いの食物として認識されている。
 『土佐日記』(934~935年)をみると「1月15日。今日、小豆粥煮ず。口惜しく、なほ日の悪しければ、ゐざるほどにぞ、今日二十日あまり経ぬる。」との記述がある。口語訳では「15日。きょう、おきまりのあずきがゆを煮ない。残念でならないが、残念といえば、やはり天候が悪いので、ぐずぐずしているうちに、きょうで20日あまりたってしまった ((21))」。
 船旅の途上で天候悪く日和待ちである。何事もままならず、ささやかな年中行事も満足にできないことを嘆いている。
 『枕草子』では「15日。節供まゐり据ゑ、粥木ひき隠して、家の御たち・女房などの、うかがふを、「打たれじ」と用意して、常にうしろを心づかひしたるけしきも、いとをかしきに、」と小正月の行事が記されており、傍注、頭注によると、15日の小正月には小豆粥を供する。その粥を煮るのに用いた焚き木が「粥の木」つまり「粥杖」で、これで女性の臀を打つと、男児を懐妊するという俗信があったとされる。この粥の木をかくし持って娘や女房たちのすきをねらうので、打たれてなるかと用心して背後を常に気にしている様子がおもしろいといっている((22))。こうした習俗は民俗のなかにもみられ『日本民俗大辞典』では「ハラメウチ」「よめたたき 嫁叩き」などとして項目を立てて解説している。以上のように小豆がケガレの象徴であることは文献からたどることはできない。
 ここまで、民俗事例の中から餡や小豆飯にケガレの痕跡をみてきた。つぎに赤飯に現われているケガレの痕跡をみてみよう。

ケガレの起源と銅鐸の意味40 小豆 ケガレの象徴として

2016年10月07日 13時15分59秒 | 日本の歴史と民俗
   小豆 ケガレの象徴として

   目次

第1章 小豆にみるケガレ
小豆の餡/小豆、柳田の疑問/餅と小豆の類似/民俗にみる小豆のケガレ/夏正月の新年/文献ではわからない小豆のケガレ

第2章 赤飯その他にみるケガレ
赤飯にみるケガレ/片品の猿追い祭/謡が入る意味/雑煮、七草粥、五目飯、混ぜ飯などにみるケガレ/「雑煮」の名の由来/境界へ行って餅や雑炊を食べる/五目飯を食べる意味/日待ち/その他にみるケガレの象徴