ケガレの起源と銅鐸の意味 岩戸神話の読み方と被差別民の起源 餅なし正月の意味と起源

ケガレの起源は射日・招日神話由来の余った危険な太陽であり、それを象徴するのが銅鐸です。銅鐸はアマテラスに置換わりました。

ケガレの起源と銅鐸の意味33 烏勧請の起源 第2部 烏勧請にみる西日本と東日本

2016年10月03日 14時57分10秒 | 日本の歴史と民俗
   第2章 コト八日の成り立ち

コト八日の定説
 まずはコト八日とはどんな行事なのかを『日本民俗大辞典』から引用しておこう。大辞典の「ことようか コト八日」から抜粋すると、
2月8日と12月8日の行事。中部地方以東では両日にほぼ同様の行事が行なわれるが、西日本では12月8日に集中している。(略)この両日が物忌を要する特別な日として強く意識されていたことは確かである。コト八日とは各地で各種の神や妖怪の来訪が伝えられており、疫病神の到来を恐れる伝承は東日本の広い範囲にみられる。(略)厄神送りの習俗もみられる。愛知県北設楽郡では2月、6月、12月8日にヨウカオクリといってコトの神の藁人形を村境まで送る。(略)

 以下、各地のさまざまな例が紹介されて、それぞれちがった様相をみせている。そして結局最後に、「コト八日の習俗は多様かつ複雑な様相を呈しており、その位置づけについては、コトの神の性格や、団子や目籠などの行事物や標示物など、さらに多方面からの詳細な検討が必要であろう」として、何であるかをひとくくりにできない複雑さと多様さを前にして、結論を留保している。『日本民俗事典』(大塚民俗学会編)『民間信仰辞典』(桜井徳太郎編)もほぼ似た主旨の内容である。結局コト八日とはなんだかよくわかっていないということである。

コト八日の烏勧請
 ではコト八日に行なわれる烏勧請にはどのような特徴があるのだろうか。『日本民俗大辞典』の同じく「コト八日」の項目のなかで愛媛県の例として、2月8日に「イモや魚の混ぜ飯を藁苞(わらづと)に入れ、カヤの箸を添えて屋根に上げる。これを鳥((とり))がくわえていくと幸いであるという。同様の行事は西日本各地でみられるが、多くは2月・3月の春事として行なわれており、2月8日の行事との習合が考えられる」としている。これはコト八日と烏勧請が結びついている例である。
 烏勧請とコト八日が結びついている例は『日本民俗大辞典』の「からすかんじょう 烏勧請」による解説では、3つの類型のうち第3のタイプとして説明している。それは「春と秋のコト八日の行事の中で行なわれているもので、餅や団子を吊るしておいたり置いておいたりして烏(からす)に食わせ、それによって厄払いとか疫病神送りをする、東北の一部と中国・四国の一部とに限られた特徴的な分布がみられる」とするものである。
 では、新谷尚紀の『ケガレからカミへ』の第5図「御鳥喰習俗の事例一覧」からコト八日に烏勧請をする例を拾いだしてまとめておこう。




整理番号   月日       主体     目的             
青森7 3月8日       家ごと  
秋田1 3月9日 10月9日  〃
山形1 2月8日       〃     吉凶予知・厄神除け
〃 2 2月8日 12月8日  〃
〃 3 2月8日       〃     厄払い
〃 4      12月8日  〃
宮城2 2月8日 12月8日  〃
〃 3      12月8日  〃     神様が京にのぼる
〃 4      12月8日  〃     古い神を送る
〃 5      12月8日  〃
〃 6 2月8日 12月8日  〃     厄神除け
茨城16 2月8日       〃     山の神へ供える
〃 17 2月8日       〃  大黒様がかせぎに出る
愛媛2 2月8日       〃     食べれば家は幸い
〃 3 2月8日       〃 
岡山3 2月8日       〃     食べるとよい
鳥取2 3月         〃    烏にコトを負ってもらう

県名につづく数字は「御鳥喰習俗の事例一覧」での整理番号。秋田1はコト八日とはしていないが、第6図「御鳥喰習俗の諸類型」ではコト八日に分類されている。鳥取2の「3月」は「大林」によると「3月コトノ日」となっている。

 以上がコト八日に行なわれる烏勧請である。合計17例が示されており、内訳は東日本13例、西日本4例である。新谷はこれについて次のような解釈をしている((31)。())
 ○ コト八日の行事は、厄神送りとか厄払い的な意味をもつ場合が多いが、そこでもやはりそれぞれのコト八日の目的にそった意味づけがなされている。
 ○ コト八日の行事における烏は、それが何らかの神の使いであるとは観念されていない。
 ○ 烏にコトを負ってもらうといったり、厄神送りなどといっているように、厄払いの確認というような意味を持っており、むしろ葬送儀礼における魂送りというのに近いものである。
 つまりカラスは厄払いをしてくれる者という役割として登場するので、ことさら神だったり神の使いだったりする必要はない。厄払いという役割がはっきりしているのである。
 コト八日の行事は『日本民俗大辞典』で「中部地方以東では両日にほぼ同様の行事が行なわれる」としているように、2月8日の例が7件、さらに3月も2件あり、合わせれば9件。そして12月8日に行なう例は秋田の10月9日を入れれば8件上っており、その中で両方行なうのが4件ある。「両日にほぼ同様の行事が行なわれる」といわれるようにコト八日に烏勧請が習合した場合でも東日本では2月、12月の両方で行なう例が少なくない。それに対して西日本では3月の1件を含めて2月8日の例が4件で12月はひとつもない。この東西の違いは何を意味しているのか。
 そして上にまとめた東西の合計17例はすべて各家ごとの烏勧請であり、神社、小祠で行なうものはひとつもない。烏勧請が習合していないコト八日の場合も、ほとんどは各家ごとに行なうようである。『日本民俗大辞典』によれば、たとえば妖怪を防ぐために各家で目籠を高く掲げたり、ヒイラギを戸口に刺したり、グミの木を囲炉裏で燃やすなどの魔除けは、それぞれの家ごとで行なう。
 しかし愛知県北設楽郡の2月、6月、12月の各8日に行なわれるヨウカオクリはコトの神の藁人形を村境まで送るというもので、これは共同体の行事である。さらに長野県、群馬県では2月8日の行事が道祖神祭となっている例もあり、これも共同体によるものである。
 そうすると家ごとのコト八日や烏勧請が習合しているコト八日では魔除けであったり厄除けであったりして、共同体のコト八日では厄神を村境まで祓えやる行事だったり、燃やして祓えやる行事だったりすることになる。これらの違いは何を意味しているのか。
 ひっかかるのはコト八日に行なわれる烏勧請はすべて各家ごとであるという事実である。家ごとで行なわれる烏勧請は共同体で行なうものよりも新しいということは19ページですでに述べた。そしてカラスに餅をなんとしても食べてもらおうと強く強いる西日本型よりも、吉凶や作占いをする東日本型のほうが新しいということもすでに指摘した。コト八日に行なう烏勧請には、山形1の「吉凶予知」ひとつを除いて厄神除け、厄払い、食べれば家は幸いなどとするように、食べてもらえるとその結果として、状況の好転が期待できるといった方向に行事の意味が理解されている。このようなコト八日における烏勧請の行為は古い型である西日本の共同体の烏勧請と、新しい型である東日本型の家ごとによる烏勧請との中間型、移行型といえないだろうか。コト八日の烏勧請が家ごとであること、2月と12月両方であることも、中間型、移行型であることを示唆している。さらに検討していこう。

「コトを負う」とは
 餅や団子をカラスに食べてもらうことによって、厄払いや疫病神送り、あるいはコトを負ってもらうことができるというのがコト八日における烏勧請の目的である。
 ではなぜ厄払いや厄神除けが烏勧請によってできるのか。その理由は「烏にコトを負ってもらう」という鳥取2の事例にさぐることができる。
 コトをカラスに負わせるとは何か。コトとは『民間信仰辞典』によれば行事、祭事、斎事である。『日本民俗大辞典』(上)では「歳時の折目の意味。折目には多く神祭が行なわれるのでコトは祭事(神事)の意味を含み、(略)関東から東北地方にかけて年中行事や休み日をカミゴトという地域がある。(略)ジンジ(神事)といった場合は神社での神祭をさしている」という。ということは、正月行事をはじめ、年中行事として行われる行事はみなコトである。そのコトをカラスに負ってもらうというが、「行事」をカラスに負ってもらうというのでは意味をなさない。そして実際にするのは餅や団子をカラスに与えることである。ということは、餅や団子が負っている意味こそがコトの本質であり、その本質をカラスに負わせるということになる。
 そして射日・招日神話にもとづく弓神事や烏勧請で解釈すると、オビシャやオコナイなどの弓神事も烏勧請も、余った危険な太陽を始末して穏やかなひとつの太陽を迎えることが目的である。その余った危険な太陽を象徴するものがオビシャでは烏の的であり、オコナイでは新頭へ引き継いで餅割りされる餅であり、烏勧請ではカラスに与える餅や団子である。つまり年中行事、祭事、斎事をコトといっているのは、たんに神事(かみごと)というところを省略したから事(こと)なのではなく、「負ってもらうべきコト」を始末する行事である、ということがもとの意味であり、コトである餅や団子にケガレである危険な太陽を託して祓えやるのが「コト」の真の目的なのである。「コトを負う」とはそういう意味である。
 餅や団子とは余った危険な太陽であり、世界を暗黒と混乱におとしいれるものであり、罪穢れのすべてを搗き込んだ土餅である((32)。())つまりケガレの象徴である。そのような重い意味を含んだコトをカラスに負ってもらい、厄払いするのがコト八日における烏勧請の目的である。
 ここで何がケガレにあたるかを確認しておこう。ケガレとは新谷尚紀の『ケガレからカミへ((33)』())によれば、身体にまつわる糞尿、血液、体液、垢、爪、毛髪、怪我、病気、死などである。そればかりではなく社会にまつわる貧困、暴力、犯罪、戦乱など、そして天変地異や旱魃、風水害、病害虫、飢饉、不漁、不猟などの自然災異もケガレである。余った危険な太陽もケガレなのである。
 コトが従来いわれているような歳時の折り目という表面的な意味ではなく、ケガレにまつわる意味であることは「コトの箸オサメ」という習俗を見ても裏づけられる。和歌森太郎の『民俗歳時記((34)』())によると「コトの箸オサメ」とは正月の祝いの膳に使った箸をコトノ箸といい、いろいろと春ゴトの食事に用いて、そのあと各戸の屋根の上にワラで結んで放り上げておくという慣行である。ワラ縄で軒の下につるしておくところもあるという。なぜそんなことをするのか、和歌森は言及していない。イカリゴトともいうが、その語意はあきらかでないとしている。これを行なう前に、五目飯をたいて、箸の使い納めをするという。和歌森の記述は以上である。祝いの膳に使った箸をなぜそのように払い捨てるように始末するのか。それはつまり、現在では正月の祝いの膳ということになっているが、源はそうではなかったのである。正月の祝いの膳とはケガレの膳だったのである。
 それゆえに最後に五目飯をたいて箸を使い納めにするというのは、五目飯にケガレとしての混ぜ飯の役目を負わせているからであろう。これについては「『イノチゴイ』とは何か」でもう一度取り上げる。イカリゴトのイカリというのもケガレを負っていることと無関係ではないだろう。
 箸を屋根にほうり上げるというのは烏勧請でカラスに餅などの供物を与えることを連想させる。それというのも最後に五目飯をたいて箸の使い納めをするからである。五目飯とは混ぜ飯であり、ケガレを負わせた餅と同義であると考えられる。ケガレを負わせて祓えやるべきコトに使用されたケガレの箸であり、だからこそ、その使い納めにケガレを象徴する混ぜ飯である五目飯に使い、最後に屋根に上げてカラスにケガレを運び去ってもらうというのが「コトの箸納め」のもとの意味ではなかったか。
 餅や団子をカラスに運び去ってもらうことが余った危険な太陽を始末することであり、それがとりもなおさずケガレを取り去ることになるというのが烏勧請の目的である。烏勧請で浄穢の確認をするとかケガレの有無を問うというが、カラスに餅や団子を運び去ってもらうことでケガレが取り去られたことが確認され、祭りが進められ、終われるのである。その餅や団子とは余った危険な太陽を象徴させたものである。
 またコト八日には烏勧請ではなく、人形送りをするところもある。三河、遠州のコト八日では藁などで素朴な人形を作って、悪霊を送り出す目的で人形送りをする。『日本民俗大辞典』(下)「にんぎょうおくり 人形送り」によると、人間の身体を模した人形(ひとがた)を何らかの霊や魂の依代として、村境や川や海などに送り出す呪術的行事があるという。また「形代送り」といって罪や穢れを形代(かたしろ)に託して送る行事もある。
 つまり、人形や形代にコトを託して村境へ送るにしても、烏勧請でカラスに穢れであるコトを負わせるにしても、コトを祓えやって厄払いしようとする目的は同じである。これはコト八日以外の烏勧請にも、弓神事にも通じている。起源は射日・招日神話で、旱魃をもたらす危険な太陽を祓えやることである。

コト八日の位置づけ
 そこでコト八日の位置づけについて考えてみよう。カラスに負わせるコトとは餅や団子である。餅や団子とは余った危険な太陽である。つまりコトはケガレた太陽である。しかし、西日本型の烏勧請とはちがって、コト八日ではすでに浄穢の確認をしようとする意識は見あたらない。そうはせずに祓えやることによって厄払いをしている。つまり西日本型の本来の烏勧請よりも新しいのである。そしてまだ占いには移行していない。コト八日の烏勧請を執行するのは家ごとである。家ごとで行なわれる烏勧請はすでに述べたように東日本型、新しい型である。つまりコト八日における烏勧請とは烏勧請の西日本型から東日本型への移行途中に相当すると考えられる。人形送りや疫病神送りなど共同体によるコト八日が村境や川、海へ祓えやるというのも、未だ共同体の行事としてなら、ケガレの排除としての性格をいぜん保っており、それがコト送りとして行なわれることを示している。そして家ごとのコト八日になったものは厄払いの行事に変化したのである。
 このように、東への伝播にともなって変化していった経過をコト八日の烏勧請にみることができるのである。この伝播にともなう変化は西と東におけるコト八日の執行する時期のちがいからもうかがうことができる。

コト八日の行なわれる時期
 『日本民俗大辞典』によると、コト八日をいつ行なうかについて、西日本では12月8日に集中しており、中部地方以東では12月8日と2月8日の両日に行なわれるという。「新谷」のデータにみるコト八日に習合した烏勧請の場合も同じで、12月8日が4件、両日が4件、2月8日が5件となっている。しかし西日本でも、コト八日と烏勧請が習合している場合には、愛媛、岡山、鳥取の4件にみるように2月8日である。コト八日は西日本では12月8日に集中するとされているのに、烏勧請が習合すると2月8日なのである。ということはコト八日が烏勧請と習合するのは後の変化であり、東日本の2月8日への変化同様、各家ごとに移行してからのタイプと考えられる。烏勧請が東日本へ伝播する過程で共同体から家ごとへ、浄穢の確認やケガレの有無を問うことから占いへと変化したように、コト八日は東日本へ移行するにともなって変化していったのである。その過程が12月8日から2月8日への移行に表われているのではないだろうか。そして12月8日から2月8日へ移行したのは暦の移入による正月の移動後であろう。
 このような私の考え方にもとづいて『日本民俗大辞典』の「コト八日」の解説をみていくと、いくつか訂正や追加が可能になる。いずれも射日・招日神話による解釈に沿って大辞典の解説を読んでいくと、いくつかの点でコト八日がなぜそうなっているのか、謎が解けたり理解が進んだりするのである。

『日本民俗大辞典』の「コト八日」を読み直す
 P636 中段6行目「コトを1年の行事と解釈するか、正月を中心とした祭祀期間と考えるか二つの解釈があり」。
 これはどちらでもない。2月8日と12月8日のコトは1年の始めと終りでもないし、正月の祭祀期間の始めと終りでもない。暦の移入によって正月が移動した結果である。コトとは厄を払う行事であり、そのもとはケガレを祓うことであり、そのケガレとは余った危険な太陽である。そして起源は、望ましい穏やかな太陽の出現を願う射日・招日神話の祭りであり、稲の収穫後の新嘗祭つまり本来の正月を迎える祭りであって、正月にする祭りではない。それが共同体による浄穢の確認から本来の信仰がうすれて各家の行事となるにつれ、簡略化して厄払いへ移行したものである。ということは本来の正月である収穫後の秋の行事が、暦の移入にともなって正月が後ろへずれて、その結果12月から2月へ移ったと考えられる。西日本では12月8日に集中しているのに反して、中部地方以東で12月8日、2月8日の両方または2月8日のみコト八日を行なうのは暦移入後に伝播したからであることを示しており、つまり官暦が普及したあとに伝播したということを示している。コトの日も古くは正月を迎えるための行事だった時代があったのであろう。

 中段10行目 「この両日が物忌を要する特別な日として強く意識されていたことは確かである」。
 12月8日も2月8日も特別な日であったと認識されているのは、その日が籠りの日だからである。つまり正月を迎えるための行事である。1日は日没から始まり、日没後から籠りをして余った危険な太陽を始末し、その末に新しい太陽が昇る朝を迎えるのである((35)。())この日没からの一連の手続きが祭りの本質だったと考えられる。そして籠りは物忌にあたる。「物忌を要する特別な日」というのは新嘗の祭りのさいに物忌することに通じ、新嘗の祭りはすなわち新年を迎える祭りである。
 「常陸国風土記」に新嘗の祭りで諱忌(ものいみ)しているという場面がある。『風土記((36)』())によって見ていく。祖(みおや)の神(かみの)尊(みこと)(母神)が(神子)神たちのところをめぐって駿河の富士の岳(やま)についた時には日が暮れていた。一夜の宿りを頼んだところ、富士の神は、いま新嘗の祭りをして家中のものが諱忌(ものいみ)しているのでお泊りいただくことはできない、と答えている。
 このように新嘗の祭りに際して諱忌するのが忌籠りである。『日本民俗大辞典』の「ものいみ」によると「神事そのものが忌籠りであって、別火し沐浴して一切の不浄を退け、徹夜して神に仕えるという物忌の形式を」とるという。つまりコト八日が「物忌を要する特別な日」というのは新嘗の神事に由来するからであり、射日・招日神話によって新たな太陽を迎えることに由来する、それゆえに特別な日だったのである。
 富士と筑波の話にはもうひとつ重要な点がある。祖の神尊はなぜ富士の岳を冬も夏も寒くすることができるのか。祖の神尊は母神であり、つまり祖先神に通じる神である。その神が、おまえの親なのに泊めてくれないのか、と富士の神を恨んで、それではと「冬も夏も雪が降り霜がおり、寒さ冷たさがつぎつぎに襲いかかり、人民(ひとびと)は登らず、酒も食べ物も捧げる者も無かろう」といって、以来富士山には年中雪があるという由来譚になっている。祖の神尊は祖先神であるから、やがて鬼神になる。鬼神は自然災異に働きかけることができる、というのが祖霊信仰であると筆者は考えている。そうした自然災異に働きかけるのは祖先神であるという考え方が『常陸風土記』のなかに残っているのである。

 中段12行目 「事八日には各地で各種の神や妖怪の来訪が伝えられており、疫病神の到来を恐れる伝承は東日本の広い範囲にみられる」。
 なぜ各種の神や妖怪が現れるということになったのか。「コト」の意味が何だかわからなくなったために、負のイメージの伝承が神や妖怪になったのではないか。あとで述べる八日吹きで天候が荒れるというのと共通していると思われる。
 射日・招日神話で9つの太陽が射落とされて、残ったひとつも隠れてしまって暗闇と混乱がもたらされた。その暗闇と混乱の結果が、やがて神や妖怪の出現を連想させることになったのではないか。東日本ではそれがさらに疫病神になっているというのは、東日本への伝播の途中で祓えやるべき対象に変化したからではないか。それはコト八日に習合している烏勧請がおもに厄神除け、厄払いを目的としていることと並行している。

 中段20行目 「厄神送りの習俗もみられる。愛知県北設楽郡では2月、6月、12月8日にヨウカオクリといってコトの神の藁人形を村境まで送る」。
 「コトの神」とはいうが、コトとは余った危険な太陽であり、コトとはケガレの象徴である。しかし西日本型とちがってここではすでに浄穢の確認へのこだわりはない。それでもまだすべてが家ごとの行事になったのではなく、共同体の行事として残っている点は西日本の伝統を引き継いでいる。コトの主旨はケガレとしての余った危険な太陽だから、それは何としても境界へ祓えやらなければならない。共同体で行う意味は境界へ祓えやることがおもな目的として存在しているからで、各家ごとの行事になれば、その家から外へ、あるいは敷地の外へ厄払いすればすむと見なされただろう。藁人形を村境まで送るという行為は共同体の行事であり、それだけケガレ祓いの祭りとしての本来の神事の意味を残しているといえる。

 下段7行目 「12月8日は八日吹きで天候が荒れるとするところが西日本各地にあるが、これも事八日に神の出現があることを示すものといえよう」。
 天候が荒れるというのも、神や妖怪が来訪するとか、疫病神の到来というように、不穏な状況や混乱への不安を連想させるものであるらしい。荒れるといえば高天原におけるスサノヲの暴虐の話に結びつくことを考える必要がある。そうすると、スサノヲの暴虐とは射日・招日神話における、すべての太陽を射落とした時の暗闇と混乱である((37)。())天候が荒れるというのはそれを象徴しているのではないか。それを象徴する場面の痕跡が東日本ではなく、稲作先進地の西日本各地にあるというのは示唆的である。2月8日ではなく12月8日であるということからしても、東日本へ移行してからの新しい変化型ではなく、西日本の古い段階の話だからだといえる。コト八日に神の出現があるというのは、天候が荒れることの本来の意味が不明になってから後の変化であろう。

「イノチゴイ」とは何か
 下段10行 「愛媛県では2月8日をイノチゴイ(命乞い)と称し、イモや魚の混ぜ飯を藁苞(わらづと)に入れ、カヤの箸を添えて屋根に上げる。これを鳥((とり))がくわえていくと幸いであるという」。
 「イモや魚の混ぜ飯」を作るというのは白い飯を汚す必要があるということではないか。唐突であるが「餅なし正月」におけるケガレの餅、つまり色つき餅に相当するものである。しかし今はそれについて述べる段階ではない。「餅なし正月」については次号で「餅なし正月の意味と起源」として詳細に取り上げる。混ぜ飯、色つき餅は尾張大國霊神社の裸祭りで使う土餅、あらゆる罪穢れを搗き込んだとされる黒い土餅((38)や())、広島県御調郡(みつぎぐん)久井町(くいちょう)の莇(あ)原(ぞう)中組の弓神楽における泥だらけの土団(()子(39))を思い出させる。こちらの場合は餅ではなく混ぜ飯だが、餅にかわってケガレの象徴としての飯を作ったものではないか。混ぜ飯を屋根に上げて鳥(とり)に食われることを幸いとするというのも、ここはカラスではないが、烏勧請の主旨が生きているといえる。ケガレの餅ならぬケガレの混ぜ飯である。そう解釈するとなぜ「イノチゴイ」なのか、その意味もはっきりしてくる。「イノチゴイ」は、この行為によってカラスが食べてくれれば危険な太陽が始末されて天候温暖、稲は豊作、したがってわれらの命は救われるということになるからである。確かに「命乞い」の行為なのである。カラスに命乞いである。草餅や彼岸のぼた餅など、わざわざ白い餅にヨモギを搗き込んだり、小豆の餡で真っ黒にするというのも、もとは餅を汚すことによりケガレとしての太陽を象徴させたのではないか。これらの、白い餅でないことの意味や小豆に込められた意味なども探究する必要がある。これらは次号の餅と正月の関係のなかで詳細に取り上げる。
 このように見てくると、コト八日の行事は重要である。それは西日本では浄穢の確認にこだわりの見られた烏勧請が、東日本に伝播してケガレを問わなくなって占いに変化したように、コト八日も東日本型に移行する過程で内容が変わったのである。その変化とは共同体の行事としてコト八日が行なわれる例では、境界へのケガレの排除としての性格を保っており、家ごとの行事になると厄払いになるというものである。

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