数コラム(№35)2006年5月
8万頭
対馬で駆除されたイノシシの数
1700年(元禄13)対馬藩は、イノシシによる農作物被害が著しいため、殲滅に着手。「全島を9区に分け、毎年冬期に1区ずつ猪を全滅する作戦で、この年に島の北端から始めて順次南下し、宝永6年(1709年)に島の南端に達して目的を遂げた。殺害した猪は8万頭余、人夫延23万人と猟犬延21780頭を要したという。」(『日本博物誌年表』磯野直秀 平凡社 2002年)。生類憐み令(1687年~1709年)時代の最中だった。
『生類をめぐる政治』(塚本学 平凡社 1983年)によると、「生類憐み政策を、その時代の批判文献に依拠して、戯画化し、したがって非社会的・非歴史的に解釈すると、ひとより鳥獣を大事にした政策といわれたりする。それは正しくないと考える。農耕を妨げる鳥獣を、追い、殺すこと自体が禁止されたわけではなかった」という。
ところで、全滅作戦の最後に「牝牡5組ばかりの猪鹿を舟に載せて、生きながら之を絶影島に放たしめたといふ話が伝はつて居る」という。これは柳田国男『孤猿随筆』の「対州の猪」による。絶影島は韓国釜山にあり現在は影島という。
8万頭
対馬で駆除されたイノシシの数
1700年(元禄13)対馬藩は、イノシシによる農作物被害が著しいため、殲滅に着手。「全島を9区に分け、毎年冬期に1区ずつ猪を全滅する作戦で、この年に島の北端から始めて順次南下し、宝永6年(1709年)に島の南端に達して目的を遂げた。殺害した猪は8万頭余、人夫延23万人と猟犬延21780頭を要したという。」(『日本博物誌年表』磯野直秀 平凡社 2002年)。生類憐み令(1687年~1709年)時代の最中だった。
『生類をめぐる政治』(塚本学 平凡社 1983年)によると、「生類憐み政策を、その時代の批判文献に依拠して、戯画化し、したがって非社会的・非歴史的に解釈すると、ひとより鳥獣を大事にした政策といわれたりする。それは正しくないと考える。農耕を妨げる鳥獣を、追い、殺すこと自体が禁止されたわけではなかった」という。
ところで、全滅作戦の最後に「牝牡5組ばかりの猪鹿を舟に載せて、生きながら之を絶影島に放たしめたといふ話が伝はつて居る」という。これは柳田国男『孤猿随筆』の「対州の猪」による。絶影島は韓国釜山にあり現在は影島という。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます