ケガレの起源と銅鐸の意味 岩戸神話の読み方と被差別民の起源 餅なし正月の意味と起源

ケガレの起源は射日・招日神話由来の余った危険な太陽であり、それを象徴するのが銅鐸です。銅鐸はアマテラスに置換わりました。

ぐみ原わけて―北原白秋の「砂山」にみる3つの問題

2005年09月08日 10時07分57秒 | いろんな疑問について考える
ぐみ原わけて
北原白秋の「砂山」にみる3つの問題

ぐみ原わけて
 ある本を読んでいたら、北原白秋の「砂山」の歌が出ていた。何の気なしにその詞を読んでいたのだが、3番の「帰ろ帰ろよ ぐみ原わけて」というところに来て、「ああ、グミが出てきた」と思った。というのは、つい先ごろ、グミの木に会ってきたばかりだったからだ。それはいつもの早朝散歩の途中に見える1本のグミの木のことで、これはナツグミなのだが、赤く色づきだしたグミの実を、コジュケイが枝に上がって啄ばむという珍しい行動を見たのだった。
散歩コースの草花丘陵のなかにはグミといえばツルグミの木がたくさんあるが、ほとんどは若い木ばかりで実のなる株はごく少ない。ほかにグミの木といってもこのあたりは、自然の木はまれのようで、だから河川敷の中にある1本のナツグミの木は気になる木で、春、芽を出してから5月下旬ころ実が赤熟するまでは注目しているのだった。ほかに見あたらないところをみると、この木とて元はだれか人の手によってもたらされたものかもしれない。
それにしても、白秋の「砂山」にいう「ぐみ原」とはどういう情景だろうか。これまでにグミを見てきた経験はあまり多くないが、グミの木はどれも単独に生えているもので、2、3本寄っているとしても、原っぱといったような、いわば群生、群落という状態を呈するという木ではない、どうもそういう性質の木ではないと思っていた。そしてこの「ぐみ原」のグミの種類はなんだろうか。群落をつくる性質を持つグミもあるのだろうか。
早速手元の図鑑をいくつか見てみると、『山渓ハンディ図鑑4 樹に咲く花 離弁花2』(山と渓谷社2003年)のアキグミの項に「海岸や道路の飛砂防止や土止め用に植えられる」という記載があった。はたして白秋の「砂山」のグミはアキグミだろうか。
 「砂山」は1922年(大正11年)6月半ば、白秋が新潟市の寄居浜を訪れたことによってできた歌である。「お話・日本の童謡」(『白秋全集』16巻)の「砂山」から要約すると、師範学校の講堂で開かれた童謡音楽会で白秋は、自分の作詞した歌を次々に歌ってくれる子どもたちにとても満足し、新潟の童謡を作ると約束した。そして音楽会のあと案内された寄居浜の情景を材料にして「砂山」の歌を作った。
 では、「砂山」を3番まで改めて読んでみよう。

海は荒海、
向うは佐渡よ、
すずめ啼け啼け、もう日はくれた。
みんな呼べ呼べ、お星さま出たぞ。

暮れりや、砂山、
汐鳴りばかり、
すずめちりぢり、また風荒れる。
みんなちりぢり、もう誰も見えぬ。

かへろかへろよ、
茱萸(ぐみ)原わけて、
すずめさよなら、さよなら、あした。
海よさよなら、さよなら、あした。(『白秋全集』第26巻)

 白秋が印象に残ったというぐみ原は植栽されたグミなのか、そして現在はどうなっているのか、とりあえずインターネットで探してみた。
 幸い、寄居浜海岸について、その歴史、砂丘と人とのかかわりなどを紹介するホームページが見つかった。ただ製作元がわからない。とりあえず見ていくと、その中には白秋の「砂山」の碑も写真入りで紹介されている。ホームページにはさらに「学校教育と砂丘、砂浜」という項目があって、「昭和11年(1936年)小学校卒業記念に砂防用のグミ、松の苗木を植えた」と書かれている。また「砂丘にはグミ林があった。子どものころ、グミの実を食べた」とも記されている。
さらに見ていくと、海岸砂丘の汀から内陸へ60mまでの「海浜植物園の植生断面図」というのがあり、次第に高まっていく砂丘の曲線の上に17種類の植物の名前が記されている。そのなかでいちばん高まったところ、つまり最も内陸に入ったところから2番目に「アキグミ」という文字を見つけた。汀から水平距離で55mのところになる。そのつぎにもう一つ、「新潟海岸の植物―二葉中学校所蔵資料使用」という資料があって、これにもアキグミが載っていた。
これで「砂山」のグミはアキグミであることが確認された。さきに見ていた『山渓ハンディ図鑑4 樹に咲く花 離弁花2』でも16種類あるグミ科のうちでアキグミにだけ「飛砂防止や土止め用」との記載があった。
ここで砂防ということばの意味について二通りあることに気づいた。ひとつは飛砂防止、つまり、砂が飛んで内陸に侵入するのを防ぐ。もうひとつは砂丘自体を風や波から守るということ。寄居浜を含むこの地域は、また砂浜、汀線の移動の激しいところであった。
 では、寄居浜のぐみ原はいつから植栽がはじまったのか。そこで新潟関係の文献をいくつか見ていくうちに新潟市史の年表に行き当たった。これは雑誌『郷土新潟』の何冊かに分載したもので手元にあったのは第2号から9号のうち5号を除く7冊。揃ってはいないがとりあえず見ていくと、第2号になんと「1617年 この年新潟浦浜にぐみを植栽した。これは新潟砂防工事の始めである。(風間正太郎稿新潟市史年表)」というのが出ているではないか。その後もひろっていくと、以下の記事がみつかった。

1653年 この年新潟浜村は沙入りのため寄居島と居所を交換した。
1712年 この年松苗を常盤岡から日和山に至る砂丘に植栽して砂防工事を緒につけた。
1758年 1月 長岡藩領寄居村は飛砂のため田地が荒廃し困窮が甚だしいので、新潟洲崎大川前島の内草生の地を開発せんことを曽根代官所に請うた。
1844年 3月 川村新潟奉行は寄居村の浜浦一帯に植林し保安林とした。
1864年 4月12日 新潟浜浦砂除簀立茱萸(ぐみ)植立ては前々より領主において年々実施の処、この年より村入用を以て致すよう仰出された。

1653年の項は、砂の害のために村を移転したということを示す。『新潟市史』上巻(名著出版 昭和48年復刻版)によると、寄居島というのは、信濃川河口の中州が発達して、島になったところ。浜村は信濃川左岸の日本海沿岸に発達した砂州の上にあり、北東方向へ発達した砂嘴が一応安定して、人が住み着いたところ。で、砂の侵入が激しいので、浜村を捨て、寄居島へ移ったものらしい。現在はどちらも、新潟の市街地になっている。
1712年の項の日和山は先に引用したホームページによると、この砂丘のなかで最も高い砂山で、江戸時代から新潟の名所だとのこと。しかし、明治以後は大半が波に削られてしまい、現在では「護岸、離岸堤により、かろうじて守られている」状態だという。また1864年のところでは、このころ毎年のようにグミが植えられていたことがわかる。
白秋の見たぐみ原はこれらの長年にわたって引き継がれてきた営みの結果なのだろう。白秋をこの時、案内したのは「お話・日本の童謡」(『白秋全集』16巻)によれば「学校の先生たち」となっている。子どもたちを引率した先生たちか、それとも音楽会開催に関係した先生か、いずれにしても地元の教育関係者だろうが、案内するなかで白秋にぐみ原の由来を語ったかもしれない。
 というのも、白秋はこのぐみ原には強い印象を持っており「お話・日本の童謡」の中で「驚いたのは砂山の茱萸(ぐみ)藪で、見渡す限り茱萸の原つぱでした。(略)金茶色の実が熟れる時節も、もうあの茱萸原にやつてまゐりませう。子供たちも私の童謡を自分のものとして、あの砂山の茱萸を摘み摘み歌つてくれるでせう。」と記している。
 「ぐみ原」はひとまずこれで解決した。

海は荒海
 それにしてもなんで荒海なんだろう。「砂山」の歌を読むかぎり天気は悪いというほどではない。佐渡ヶ島は見通せるし、もう日が暮れるというのに子どもたちは遊んでいるし、雀は飛ぶし、まったく穏やかではないか。寄居浜を訪れた白秋の記述は、やはり「お話・日本の童謡」によると「その前は荒海で、向うに佐渡が島が見え、灰色の雲が低く垂れて、今にも雨が降り出しさうになつて、さうして日が暮れかけてゐました」とあり、そして子どもたちが遊んでいる。悪天の最中ということではない。嵐のあとで時化の余波が寄せていたわけでもないだろう。
ふつうに考えれば、日本海なんだから荒海、それでいいじゃないか、ということなのか。ここですぐ思い浮かぶのは芭蕉の「荒海や佐渡に横たふ天の河」である。この有名な俳句も手伝って、日本海すなわち荒海。その印象としてなんの抵抗があろうか。
 しかし冬の日本海は確かに荒海というにふさわしい気がするが、白秋の「砂山」は夏である。芭蕉の「荒海や佐渡に横たふ天の河」も季語としては秋であるが、まだ夏である。「荒海や」の句は7月の七夕の前ごろ、出雲崎でできた、あるいは想を得たといわれており、新暦では8月18日ごろという。夏の日本海を知らないが、台風でも来ない限り、比較的穏やかなのではないか。とすると白秋の「砂山」は単に既成の観念としての「荒海」、そして芭蕉の俳句を引き継いだ「荒海」なのか。
 確かに白秋の「砂山」と芭蕉の「荒海や佐渡に横たふ天の河」とはよく共通している。「荒海」、「佐渡」、そして「天の河」に対しては「お星さま出たぞ」。天気は悪くない。それなら芭蕉の「荒海」はどこから導かれてきたか、あるいは何を根拠とした「荒海」なのか。
 そこでここからは芭蕉の「荒海」について考えてみよう。
芭蕉の『おくのほそ道』から越後の部分をたどってみる。芭蕉と曾良はみちのくの旅を終えて、鼠ケ関から越後へ入り、『おくのほそ道』では9日、『曾良随行日記』によると16日で越後を通り過ぎている。その間は雨がちで、『曾良随行日記』の記述では一時雨や小雨程度の雨、夜の雨もふくめて日程のうちの半分に雨の記述をふくんでいる。これでは海も陰鬱で重苦しい感じの日が多かったかもしれない。ただし、「荒海や佐渡に横たふ天の河」の句の想を得たといわれる(他説もあるが)出雲崎についた7月4日(旧暦)は『曾良随行日記』では快晴となっている。7月2日の昼から晴れて、3日、4日とも快晴、4日の晩に「夜中、雨強降」となっている。だからここまでの海は穏やかだったはず。
 この実際の天気と芭蕉の句との矛盾については何冊か見た芭蕉関係の本でも触れているものがあり、一応研究者にも気になる箇所ではあるらしい。膨大な量の芭蕉関係文献であるから、そのうちのわずかな本しか見ていないが、それでも、たとえば荻原井泉水、山本健吉の本で取り上げられていた。
荻原井泉水は『奥の細道ノート』(新潮社昭和30年)のなかで、このときの日本海について、曾良の作品『雪丸げ』の中での詞書「越後の国、出雲崎という所より佐渡が島へ海上十八里となり。初秋の薄霧立ちもあへず、さすがに浪も高からざれば、ただ手の上の如く見渡されて」という佐渡ヶ島を望む穏やかな海の表情と、芭蕉の「荒海や」の句との矛盾について、つぎのように言及している。

芭蕉の気持ちとしては、佐渡の島に対する悲愴な感じを出すために、天の川というものの寂寥たる感じを出すために「荒海や~」という句の言葉を選んだのであるから(略)この句は決して「事実」を客観的に写生したという風な作り方ではなくして、作者の主観を通しての詩的構成をもってまとめ上げたものだということが解る。

つぎに山本健吉の『芭蕉 奥の細道まで―その鑑賞と批評2』(新潮社昭和30年)から引用する。

実際に荒れていたかどうかには拘りなく、佐渡まで十八里の北の海を、芭蕉が「荒海」と観ずることは、あり得ることなのである。「大罪朝敵の類」が遠流せられた島が浮かぶ海であり、波の音が魂削り腸(はらわた)ちぎれる思いをさそう大海洋であり、「荒海」とは芭蕉の観念のなかに、あるいは詩魂のなかに、形成されたイメージと言ってよい。

 つまり芸術的表現、詩的構成、観念のなかのイメージといった解釈をしている。そのとおりなのだろう。だから「荒海や」でいいのである。ただ筆者はいくつかの文献を見ていくなかでひとつ気になることがあった。それを紹介して、「荒海」に、もしかしたら芭蕉がこめたかもしれない意味を考えてみよう。
 じつはぐみ原について調べているとき、巻町の角海浜(かくみはま)に関する海岸侵食についての報告をみつけた。巻町・潟東村教育委員会による『角海浜―角海浜綜合調査報告書』(昭和50年)で、そのなかに「角海浜の自然」(長島義介)の(1)、「海岸浸食の歴史と原因」という章がある。なお、『角海浜―』の文中では、「侵食」でなく「浸食」の字を使っているが、ここでは「侵食」に統一する。
 まずその冒頭部分を引用すると、

新潟市海岸にみられる海岸侵食は、巻町の海岸一帯にも同様に起こっている。その原因については、新潟港防波堤の構築、大河津分水の完成に伴い、沿岸流で運ばれた砂が海岸に堆積しなくなり、もともと沿岸で生じている侵食作用の方が堆積作用の衰退によって強くなった結果と考えられている。しかし、角海浜や五箇浜の海岸侵食は、村の口碑や古文書にみられるように、数百年前より起こっている現象なのである。角海浜村は元禄以前は本村(ほむら)海岸付近にあったが、大波欠により現在の位置に移転したと伝えられている。また実在したと思われるヒカリと言うは、現在陸地にその住跡が発見されず、沖合にヒカリと呼ばれる所が有ること等から海に没したものと考えられている。

 同じく、『角海浜―角海浜綜合調査報告書』から紹介すると、「浦浜海岸自然関係諸事一覧」という表があり、この地方での海岸侵食に関する史実を年表にまとめている。そのなかに、「1688-1703元禄 角海浜村本村より移転(口碑) 移転理由は大波欠けのため」となっている。これは引用した冒頭部分の角海浜の移転のことであろう。
元禄といえば芭蕉の『おくのほそ道』の旅は元禄2年、1689年のこと。『曾良随行日記』によれば、芭蕉はこのとき新潟、弥彦、寺泊、出雲崎、柏崎という道順で歩いている。実際にどの道をどう歩いたかとなると、研究者によって、若干の違いがあるが、新潟からしばらく海沿いを歩く。それから内陸へ入り、弥彦を経て寺泊の手前までは海からは離れた道を辿っている。というのは角田山から弥彦山へと連なる山塊の東側、内陸側を通過しているからである。
 この点を大星哲夫氏の『越後路の芭蕉』(冨山房 昭和53年)で見ていくと、芭蕉は7月4日朝、弥彦を立ち弥彦山と国上山のあいだの猿ケ馬場峠を越えて、野積という小さい海辺の村にでる。ここからは海沿いに寺泊へ向かうのである。
 角海浜はこの野積(のづみ)から海沿いに北北東へ8kmほどのところ。元禄の15年間のうち、いつ角海浜の移転があったのか、資料は明らかにしていないが、1688年なら芭蕉が通る前年、それ以後なら1703年までの15年のあいだに海岸侵食による村の移転があったことになる。
 さらに「浦浜海岸自然関係諸事一覧」には「1675-1793 延宝3~寛政5 五箇浜村120年間に三列の町並を失う」と記されている。五箇浜村は角海浜の北隣の村。これもやはり正確な年は史料として残っていないらしい。芭蕉の通過以前に町並を失う被害があったとすればそれは、1689年以前の14年間のいつかであり、芭蕉の通過以後とすれば1793年までの104年間のうちのいつか。それも一度に三列の町並を失ったのか、数度にわたって削られたのか、恒常的にじわじわと削られたのか、具体的な状況は何もわからない。
しかし、約30km北の寄居浜のグミの植栽のはじめが1617年ということを考えあわせると、砂の移動はそれよりだいぶ前からすでに問題になっていたはずで、角海浜方面の海岸侵食と寄居浜の飛砂とは無関係ではないだろう。
というのは、新潟海岸の砂の移動には地形と風向きが大きく影響しているらしいからだ。これを柳田国男の『地名の研究』(定本柳田国男集20巻)によって見てみよう。『地名の研究』の「43 新潟及び横須賀」によると、越後から羽前羽後にかけて、信濃川、阿賀川を始めとして、多くの川が河口で東北方向へ屈曲しているのは、この海岸では西南の風が強く、且つ多いからであろうと柳田は考えている。その一定方向の風の多いことについて、「駿河の久能の山彙或ひは越後の弥彦の如き海に面して横はり臥せる山では仮にまともに沖から吹当てる風でも、此山の付近に於ては横に流れて浜に沿うた風となる」ので、風位が常にほぼ相似た方向になるという。
角海浜や五箇浜は弥彦山、角田山のすぐ下、西の風をまともに受ける山麓にある。その山に当たって起こる一定方向の風。そして砂を多く出す川の存在、それによってできる砂嘴。その風と荒波とがしばしば海岸線を変貌させてゆく。したがって芭蕉が通過していったころ、海岸侵食が眼前の、まさに足元の問題として、すでに存在していたと考えられる。
 そのほかの海岸侵食についての記事をおなじく「浦浜海岸自然関係諸事一覧」から列記する。

1732 享保17 波欠け山脱
1794 寛政 6 波欠け
1840 天保11 波欠け(マクリダシ)角海浜村一軒取り崩し
1850 嘉永 3  諸願書扣 家屋移転理由海岸60間から5間に減る
1881 明治14 波欠け(マクリダシ)五箇浜村舟小屋の崩壊
1886 明治19 波欠け(マクリダシ)角海浜村2~3戸危かり
1922~1939 大正11~昭和14 角海浜二家並と道路海中に没す
1939~1965 昭和14~昭和40 五箇浜村の海岸侵食増す

 マクリダシというのは何か。波欠けとマクリダシとは同じ現象のようだ。本文中に一応意味づけしており、「即ちマクリダシとは普段ゆるやかな斜面の海底が何かの原因で瀬や深みが出来その海底地形によって生じた磯波と循環流が急激に海岸の砂を移動させる局部的で、まれな波浪現象と思われる」と説明している。また「元禄頃より海洋気象や海底地形が変わり、磯波と循環流による海岸侵食が始まったと思われる」と推定している。
こうした烈しい一面をもつ越後の海を、間近に辿る芭蕉たちが、まったく海岸侵食について地元の人から耳にすることがなかったと考えられるだろうか。7月2日に芭蕉は新潟に着き、3日は弥彦に、4日は出雲崎に泊まる。前後4日間にわたって海岸侵食の烈しい地域を歩いている。
 芭蕉も曾良もそれについては何も語っていない。間接的な証拠も何も無い。したがって「荒海」と海岸侵食を直接結びつけるには無理があるようだ。だから、断定するつもりはないが、想像してみるのは許されるだろう。地元民の語る海岸侵食の話にうなずきながら「ああ、越後の海はなんと非情の海であることか」と芭蕉は思い、それもあって「荒海や」と口をついたかもしれない。
 角海浜から寄居浜までは約30km。白秋も寄居浜のぐみ原を前にして、海岸侵食の話をあるいは聞いたのではないか。先に紹介したホームページによると、寄居浜では昭和22年までの60年間に汀線後退が75mに及んだという。海岸線が内陸へ75mも削られたのだ。そして明治22年以前にすでに海岸侵食が生じていたと推定している。

すずめさよなら
 3つ目の問題として、スズメを考えてみよう。というのは、すでに暮れようとしている砂山になぜスズメがいるのか。それも少なくないらしい数のスズメが「砂山」の詞からは感じられる。
 ふたたび「お話・日本の童謡」から引くと、「見渡す限り茱萸の原つぱでした。そこに雀が沢山啼いたり飛んだりしてゐました」と述べている。一般に野鳥は夕方早めに活動をやめてしまう傾向がある。そして、早々に塒(ねぐら)の周辺に集まって塒入りの準備にはいる。スズメがたくさん集まって、すでに暮れようとしているのに、鳴いたり飛んだりしているというのは、塒入り直前の様子である。福生市内で筆者が何度が観察した塒入りの情景にもよく似ている。
 スズメは人家周辺を生活の場にしているので、ふつう塒も家屋の隙間などを利用している。唐沢孝一氏の『スズメのお宿は街のなか』(中公新書1989年)によると、単独で夜を過ごす定着相のスズメは風雨を避け、保温や危険防止のため、人家など構築物の隙間を利用するという。
 それが6月ごろになると、春に生まれた幼鳥たちが親から離れて、若鳥中心の群れを作るようになる。筆者の地元でのこれまでの観察によると、この若鳥中心の集団塒は街なかの樹木、たとえばケヤキ、サクラ、クスノキ、それに竹やぶなどに塒入りするし、多摩川の河川敷ではアシ原やオオブタクサの塒も見たことがある。木でなく草であっても、外敵が容易に近づけない場所ならば塒になる。
 塒の形成から消滅までの継続した観察はしたことがないので、充分な記録はないが、1996年にひとつだけややまとまった観察があるので、それによって見ていこう。ただしこれは夕方の塒入りではなく、早朝の塒立ちの記録。
 1996年7月2日、多摩川へ早朝散歩のために、いつものように自転車で福生団地のわきを通ったとき、塒立ちに気づいた。それ以前にも何度もスズメの塒立ちの様子は見たことがあるので、すぐにそれとわかった。まだ日の出前だが、薄明るいうちから騒々しくなって、塒立ちの直前であることがわかる。といっても、その後、群れの全体がいっせいに飛び立つわけではない。塒の位置よりひときわ高いところ、たとえばこの場合だと、そばの団地の棟の屋上のフェンスに数羽から数10羽の小群を作っては飛び立っていく。塒入りのとき小群で飛び込んでくるのと、様子は同じようだ。
発見した7月2日はケヤキの木で、その後8月6日までは同じケヤキであることを確認している。通ったときと塒立ちの時間帯とが合わなかったためか、しばらく観察してなくて、8月23日に見たときは隣りの棟の別のケヤキに移っており、いっしょに並ぶサクラとクスノキにも集まっていた。この場所では9月24日まで続き、9月27日にはさらに20mほど東のクスノキに塒があった。この集団塒は10月3日に見たときにはすでに消滅していた。
 データの不足をおぎなうために、さらに唐沢孝一氏の『スズメのお宿は街のなか』に助けてもらおう。「第8章 スズメたちの夜」のなかに滝之入新一氏の観察記録として、皇居から大手町の将軍塚に入塒するスズメの季節的変化を示したものがある。それによると、5月から塒の集団化がはじまり、6月7月と次第にスズメの総羽数が増えていき、8月がピークで450羽、9月が437羽、その後11月には激減してしまう。塒入りする木はクスノキなど、となっている。
 また東京駅から皇居へ向かう大通りのイチョウを塒にしている集団について、「黄昏時に一直線にこのイチョウの木を目指して飛来し、しばらくチュンチュンと賑やかに鳴き交わし、その後、急に静まりかえって眠りにつく」と塒入りの様子を伝えている。これは福生市内での竹林、ケヤキ、クスノキでの塒入りの様子ともよく似ている。
 以上、述べてきたように、白秋がぐみ原で見たスズメの群れ、「砂山」に登場するスズメたちはちょうど塒入りのところだったと考えられる。白秋は、はからずも、ぐみ原を塒とする若鳥を中心としたスズメの集団塒の場に居合わせたものであろう。

追記:スズメの塒入りの観察
2005年7月27日 18:35~18:43 天気は晴れ
JR青梅線、昭島駅北口わき。上り線から線路沿いの道を隔てて10mほどのところ。
植え込みのシラカシ、ケヤキ、サクラで、おもにシラカシに入る。2、3羽~10羽ぐらいずつが鳴きながら周囲から飛び込んでくる。木の繁みの中から絶えず鳴き声が聞こえる。駅のホームにいて最初に気づいたのも鳴き声によった。8分間で合計113羽、これは塒入りの途中から途中の数で総個体数は不明。この日の日没は18時50分。

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