
安倍元首相の国葬をめぐって世の中騒がしいこと、騒がしいこと。
人それぞれの考えがあるのは理解できますが、極論から極論にとんでいるようで、葬式も(これは本当の意味の葬式ではなくて「お別れ会」だと思いますが、、、、、、、)自由に出来ない風潮は異常だと思え、ある種の怖さも感じます。
タカ長は甘いのですが、長女を亡くした者としては、志半ばで倒れた人として可哀そうに思うのです。安倍政治のすべてを支持していたわけではありませんが、その思いとは別に、気の毒なことになったと思っています。
国葬の費用はどぶに捨てるようなもの、と言うような声も聞きましたが、これもまた一方的。
東京に世界各国の要人が集まって、何もしないで帰るわけがありません。そのとき東京は世界外交の場になるはずです。その場を提供する費用として考えれば、少なくともムダ金ではありません。日本の存在感を示す費用だと思えば安いものだとタカ長は思います。
弔意の強要と言う発言もありますが、タカ長は強要されていると思ったことはありません。国葬への対応は国民それぞれの気持ちに任されているはずです。タカ長はその頃東の空を見ながらタカの飛来を待っているはずです。
キリがないのこれで止めますが、要するに大局的な目でモノを見ている発言が見えないと言うことです。

今は発言する気にもなれないことですが、マスク問題も同じようなもの。
マスク着用の効用だけは言っても、デメリットの部分に触れる人はいません。今は○○のためにマスクをするのではなくて、マスクすること自体が目的になっているように見えます。
手段と目的のすれかわり。これもまた近視眼的な発想だとタカ長には思えます。
日本は民主主義国家だと言うことになっていますが、だからと言ってマスク着用の判断も思い通りに出来ない、これもまた異常ではないのか?
民主主義と言うのなら、それぞれの人の判断に任せればよいこと。それが出来たいところに怖さを感じないのでしょうか?

そんなことよりタカの渡り。
大きなことは望みませんが、それでも大きな群れを2回や3回は見たいと思っています。

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