TacoToma

タコとトマトが好き。
つまり食べることが好きってことです。
プラス、最近は韓国ドラマ関連も書いています。

広隆寺の弥勒菩薩と善徳女王の関係は??

2010-05-26 04:20:36 | 韓国ドラマ・映画
仕事でチン・ハンスという人を調べていたら、次のような記事に遭遇しました。
韓国の人はこういう考察が好きですねえ。

広隆寺の弥勒菩薩は、善徳女王の父である真平王が日本に贈ったものだそうです。

*************************

[ホン・ユンキの歴史紀行日本の中の韓流を探して]⑪
京都の名札'広隆寺'建てたチン・ハスン長官
新羅工芸の極致 弥勒仏奉安… '日本国宝1号'にょっきり

◇新羅赤松‘宝冠弥勒菩薩半跏思惟像’.

新羅から海を渡って倭へ来たチン氏一族の足跡は今日の京都の地と密着している。その象徴的な名所が京都の広隆寺だ。寺刹・広隆寺は京都市の西部地域太秦の町にある。京都駅の前の総合バスターミナルで普通バスで30分の距離に位置して訪ねて行くことも容易だ。 広隆寺には新羅赤松で作られた日本国宝第1号‘宝冠弥勒菩薩半跏思惟像’があって、やはり国宝(指定番号はない)の百済楠で作った‘宝髻(サントゥ)弥勒菩薩半跏思惟像’があって非常に有名だ。

宝冠弥勒仏像は西暦616年新羅王室が倭国王室に送った仏像(‘扶桑略記’)だ。 この新羅の仏像は1951年6月9日日本文化財委員会で日本国宝第1号と指定された。(広隆寺、1970年発行)

◇ホン・ユンギ韓国外大教授

ところである国内学者が根拠も提示しないで“宝冠弥勒菩薩半跏思惟像は日本国宝第1号ではない”と言い出したことがある。 だが、東京教育大美術史学科町田甲一教授は“宝冠弥勒菩薩半跏思惟像は‘新国宝第1号’で有名だ”(大和古寺巡歴、1992)として51年当時新国宝第1号と指定されたと明らかにした。 また、新聞記事にも次にのように記されている。 “広隆寺は宝冠弥勒菩薩半跏思惟像(国宝指定第1号)を本尊仏像として、京都に建設された最も古い寺刹だ。”(京都新聞、2004年5月1日付27面)

わい曲された見解は他にもある。韓国で日本語を教えるノヒラ・シュンスイが書いた本‘日本人はビックリ! 韓国人の日本偽史’にも“宝冠弥勒菩薩半跏思惟像は日本国宝第1号ではない。そっくり似た韓国国宝第83号(ソウル、龍山(ヨンサン)国立博物館所蔵)と比較して優越感を享受するための韓国人たちの主張で‘日本国宝第1号’というものが‘定説’で今日にまで知らされていると考える”とした。

今日日本が世界に自慢の種にするこの新羅弥勒仏像が唯一日本国宝第1号と指定された背景がある。 それは非常に貴重な文化財が消失する火災が相次いで発生したためだ。 1949年1月26日国の地、法隆寺の金堂壁画(7世紀始め高句麗曇懲僧侶製作)が原因不明の火災で消失した。 翌年の1950年7月2日京都の金閣寺も放火事件で燃えてしまった。(‘日本史年表’日本史学研究会編、1968)これに慌てた日本文化財委員会は急いで宝冠弥勒菩薩半跏思惟像を日本国宝第1号に指定、徹底した保護対策をたてることになった。

現在まで他の日本国宝に対しては指定番号が決められていない。 宝冠弥勒菩薩半跏思惟像が日本最高の接待を受けることになったのだ。 また、95年1月17日、日本の神戸地域で大きい地震が発生するとすぐに日本文化財当局は国宝第1号の安全のために仏像下の床に地震被害予防対策でいわゆる‘耐震台’を設置した。

◇広隆寺境内の沿革碑。チン・ハスンをとんでもなく中国人に変えた碑文。

京都の名刹広隆寺は推古天皇(592~628)時代の財務長官チン・ハスン(秦河勝、6~7C)が西暦603年11月一生懸命たてた寺刹だ。 その当時チン・ハスン長官は百済王室から倭王室に送った百済弥勒仏像をまつって寺刹をたてた。 ところでこれを新羅から送ってくれたとする‘新羅仏像説’を主張する学者もある。

九州大仏教史学科・田村円澄教授が代表的だ。 彼は“広隆寺の二つの国宝木造弥勒仏像は全部新羅から送ってくれたもの”と断定した。 ところで百済弥勒仏像は百済王室で楠を使って彫刻したもので、弥勒仏像の脳天に大きく結婚して一人前の大人になった姿の‘宝髻’が異色だ。

603年創建当時、寺刹は蜂岡寺と呼ばれたが後日広隆寺に改称された。 チン・ハスン長官が新羅人豪族の本拠地であった京都の地太秦に寺刹を建てた過程は次のようだ。

“聖徳太子は満朝百官に‘私たちの尊い仏像を誰が迎えて行きます’といった時、チン・ハスン長官が‘私がお連れします’と進言して仏像を祭って蜂岡寺を建てた”(‘扶桑略記’)。最初名称が蜂岡寺であった今の広隆寺に伝わる‘広隆寺縁起’には仏像は“弥勒像だ”と伝える。 この弥勒像は現在の広隆寺に安置されているもう一つの日本国宝で百済弥勒上の宝髻(サントゥ)弥勒菩薩半跏思惟像であり愛称は‘泣く弥勒像’だ。 百済由来という最も古いという根拠は15世紀文献([山城州葛野郡楓野大堰郷広隆寺由来記])だ。

◇日本‘国宝第1号’の文字が書いてある広隆寺正門左側掲示対の写真額縁.

広隆寺の本尊仏の宝冠弥勒菩薩半跏思惟像は本来新羅第26代真平王(579~632在位)が送った弥勒像だ。 日本歴史の本は“推古天皇24年(西暦616年) 7月新羅で奈末竹世士を派遣して仏像を進呈した”(‘日本書紀’)と書いている。


同じ年同じ月の‘扶桑略記’は‘日本書紀’と全く違った内容を見せる。 “推古天皇24年(西暦616年) 5月3日女王が病気で寝込むと、太子は女王の快癒を誓願して朝廷の高官たちに私の故障ごとに寺と塔をたてろと命じた。 7月新羅王が高さ2隻の金仏像を送って寄贈するとすぐにこの仏像をホ蜂岡寺(広隆寺)に安置した。 この仏像は時々光をギラギラ発光する奇跡を見せた。”(‘扶桑略記’).

また他の注目される資料もある。 “推古天皇24年5月3日女王が倒れるとすぐに聖徳太子はいろいろな所に伽藍をたてるように誓願したし、聖体と同じ仏像を願うとすぐに7月新羅王が金仏像を送ってくれた。 高さ2隻であり蜂岡寺に安置した。”(今上皇帝‘一代要記’ 1278~1287)。一代要記の著述者今上皇帝は日本第91代後宇多天皇(1274~1287在位)だ。 現代日本の史学者たちも異口同音に国宝第1号宝冠弥勒菩薩半跏思惟像は新羅から伝わってきた(水沢澄夫‘広隆寺’等)と話す。

◇広隆寺の昔の風景描く。

美術史学者水野清一教授は“赤松弥勒仏像は新羅から送ってくれたものであり、ソウルの徳寿宮(トクスグン)美術館(今は国立博物館)にある金銅弥勒像(90㎝、韓国国宝第83号)と全く同じだ”(法隆寺)で明らかにした。

宝冠弥勒菩薩半跏思惟像は永い歳月のせいで本体にメッキされた金色が退化剥落して今は赤い赤松の色だ。 真平王の長女は賢かったというトンマン王女で、後日新羅最初の女王になった第27代善徳女王(632~647在位)だ。 隣の倭国の初めての女王の推古天皇の身柄を仏力で治癒するように助けるのに弥勒仏像を送った真平王は新羅歴史上初の女王王位継承を考慮したのではないかと思う。 善徳女王は推古天皇が逝去して4年後玉座に座った。 古代京都に広隆寺をたてたチン・ハスンは当時この土地最高の富豪で、豪族チン氏一族の指導者であった。 強大な財力で推古天皇(592~628在位)王室財政を助ける蔵卿の財務長官もした。 聖徳太子は、やはりチン・ハスン長官を尊重して互いに親しかったために真平王が親しく送った宝冠弥勒菩薩半跏思惟像を広隆寺に奉安するようにした。

したがって西暦603年最初に百済の宝髻弥勒菩薩半跏思惟像を迎えて広隆寺が建設されたし、続いて西暦616年新羅真平王が送った宝冠弥勒菩薩半跏思惟像も寺刹に安置されたと整理するのが正しい。 こういう過程を経て今日の広隆寺に百済の楠‘宝髻弥勒像’と新羅の赤松‘宝冠弥勒像’が双壁を成し遂げていることだ。

◇広隆寺霊宝殿全景。弥勒菩薩半跏思惟像などが安置されている。

ドイツの哲学者カーをヤスパース(1883~1969)は宝冠弥勒菩薩半跏思惟像を示して“この仏像ぐらい人間実存の真の平和な姿を実現した芸術品を今まで見たことがない”(篠原正暎‘敗戦の彼岸にあるもの’)として古代ギリシャやローマの彫刻像を超越する最も優れた仏像だと称賛した。 日本のある大学生は陶酔したあげく仏像とキスしようとして突然に駆け寄って思わず弥勒上の右手子指を折る騒動をおこしたという。 指はまた保守されたし、その後からは僧侶1人が仏像の前にいつも守って立っている。

現在の広隆寺境内にたてられている寺刹沿革碑石(1971年建設)には‘新羅弥勒像’という表示が全くない。 この寺刹発行の由来のパンフレットなども新羅弥勒上であることを明らかにしていない。 しかも沿革碑は“チン・ハスンは秦始皇帝の子孫だ”として意外にも中国人説を前に出している。 秦始皇帝の姓氏は秦氏ではなくて瀛氏であり名前は政だ。 チン氏一族研究の権威の井上ミツオ教授は“チン氏は新羅から到来した人々だ”(井上満郎‘渡来人’)で断定した。 碑石も、由来パンフレットも正さなければならない。

ホン・ユンギ韓国外大教授senshyu@yahoo.co.kr
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 岡田サッカーはやっぱりあかん | トップ | あらうま堂の味噌ラーメン »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

韓国ドラマ・映画」カテゴリの最新記事