日蓮への路

日本を愛していた日蓮を偲んでのブロクです。

日本文化遺産の発見

2005-08-30 21:31:55 | 国内のニュース
蘇我馬子?邸宅跡、天皇の宮殿並みの規模

奈良県明日香村の島庄遺跡で昨年見つかった飛鳥時代の豪族、蘇我馬子(そがのうまこ)(?~626)の邸宅跡とみられる建物群の全容がほぼ判明したと、同村教委が24日、発表した。

 確認された建物は計5棟となり、このうち最大の建物は幅12メートル、奥行き7・5メートルの規模と確定した。当初の推定より一回り小さかったが、飛鳥時代の天皇の宮殿並みで、馬子の権勢を改めて裏付ける成果となりそうだ。

 一方、同遺跡で出土している、蘇我氏滅亡後に建てられた天武天皇の第1皇子、草壁皇子(662~689)の離宮「嶋宮(しまのみや)」とみられる建物跡の規模も判明した。計5棟確認された建物群のうち、最大の建物は幅12メートル、奥行き4・4メートルで、馬子邸とみられる建物より小規模だった。

 現地説明会は27日午前10時から。

(2005年8月24日23時22分 読売新聞)

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すごいですね...。


安土城の大手門跡前から大規模広場が出土

 織田信長が築いた安土城(滋賀県安土、能登川町)南側の大手門跡前で、大規模な広場が見つかったと、同県安土城郭調査研究所が18日発表した。戦国時代の城としては例がなく、自らの権威を高めるため、天皇の行幸をもくろんだ信長が、出迎えの儀式などを行おうとしたとみられる。

 大手門の南約44メートルに一直線に並ぶ石垣が4か所で出土したことから、広場は東西100メートル、南北44メートルと推定される。大手門を中心に東西3か所の「虎口(こぐち)」(出入り口)がすでに発見されており、広場の南側は沼地だったとみられる。

 安土城跡では、京都御所の内裏「清涼殿」に似た御殿跡や、五層七重(推定)の天主近くまで一直線に延びる大手道跡などが確認されており、防御を重視した戦国期の城郭としては異例の造り。今回の広場跡について同研究所は、「入城前に何らかの儀式を行った可能性がある。天皇や公家、従者の武士が威儀を正したり、信長の家臣が出迎えたりする施設だったのではないか」としている。

(2005年8月18日23時49分 読売新聞)

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安土、桃山時代ですかね...。



歎異抄について

2005-08-27 22:32:15 | 日蓮について
歎異抄について見てみましょう。

先日、歎異抄という名前のあるカルチャースクールの広告を見ました。そういえば、歎異抄って、どういう内容だろうと思いましたので、ここで調べてみることにしました。

歎異抄-検索

歎異抄-ウィキペディア(Wikipedia)より

歎異抄(たんにしょう)とは、親鸞の死後教団内に湧き上がった異義異端を嘆くために編まれた文章である。歎異鈔とも。

概ね(作者は)唯円説が定説となっている。編まれた時期であるが、親鸞が死してより30年の後(1300年前後)と考えられている。

背景について

作者唯円は善鸞事件の折に親鸞より直接話を聞いたものであった。

善鸞事件とは、親鸞が東国から急に京都に帰った後、東国での動揺に対し、親鸞は息子の善鸞を送ることで対処しようとした。しかし、善鸞は自分は親鸞より真に往生する道を教わったと嘯き、念仏は地獄行きの種であると言った。それを知つた親鸞は善鸞に対し親子の縁を切ったのが、事件の顛末である。

再発見について

この本は全く知られていなかったが、江戸時代中期に荻生徂徠や本居宣長などの学問の影響で再発見され、香月院深励や妙音院了祥などの学者によって研究が進められた。初めは深励の「歎異鈔講林記」や、了祥の「歎異鈔聞記」の注釈書があった。明治に入り、清沢満之らによって再評価され、周知されるようになった。

内容について

真名序
1から10条までの親鸞の言葉
10から18条までの唯円の異義批判
後序

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元々は、厳しい生活に苦しんでいた庶民を救済するために、複雑であり難しい教えであり一部の人々のみ知ることの出来た仏教を、いかにわかりやすく伝えてゆくのかを目的とした鎌倉仏教です。

当時、政治家とならずに宗教家となり、鎌倉仏教の教えを学び、信じた人々の、仏教に対する情熱が伝わる歎異抄です



道鏡について

2005-08-20 00:02:17 | 日蓮について
道鏡について見てみましょう

奈良時代に、道鏡という僧侶が、天皇の地位を得ようとした事件を道鏡事件とされているようです。このようなことがあって、遷都して、それまでの仏教は奈良に残して、平安の都、京都で、最澄らによって新しい仏教を築かれていったとされているようですが・・・。

道鏡-ウィキペディア(Wikipedia)より

道鏡(どうきょう、700年? - 宝亀3年4月7日(772年5月17日))は、奈良時代の法相宗の僧。物部氏の一族の弓削氏の出自で、俗姓が弓削連であることから、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)とも呼ばれる。兄弟に弓削浄人。

物部氏の一族だった?

物部氏の一族から、仏教の法王になられたのですね。そうすると、道鏡事件の性質というのは、僧侶が天皇の地位を得ようとしたというものとは、違って見えてきます。

道鏡より

称徳天皇の死をもって天武天皇系の皇統が断絶して天智天皇系の皇統が復活した事から、天智天皇系の皇位継承を正当化するために天皇と道鏡を不当に貶めているのではという指摘もある。

参照 もう一つの神託「道鏡」事件
    同郷人・弓削道鏡再考
    むだ話より

道鏡-検索


サンスクリット語が堪能だったという道鏡は、奈良時代にして、これほどの人がいたのだということを教えてくれます



大化について

2005-08-19 00:01:34 | 日蓮について
大化について見てみましょう。

大化-ウィキペディア(Wikipedia)より

奈良時代になり、現代の平成につながる大化(645年~649年)をいう年号を使うようになりました。

物部氏を滅ぼして、仏教を尊ぶようになった日本ですが、権力を得たために廃頽的になってしまう仏教の影響もあり、何度も遷都しているようです。

遷都のたびに、新しい仏教が育っていったのでしょう。現代の仏教は、武家社会であった鎌倉時代に、育った仏教なのかな・・・と思われます。

そういう意味で、武家社会(弥生時代から武家社会だったのかもしれないですが・・・)に移行してゆくと、都は京都に置かれて、安定していたようです。国家を征服するのではなく、都を京都に置くという武家社会の姿に、先人たちの願い、精神を見る思いがします



「日蓮への路」 第8巻

2005-08-18 22:32:15 | 日蓮への路
「日蓮への路」について、まとめてみました。


「日蓮への路」第1巻

「日蓮への路」 について
日蓮について
仏教の伝来について
世界における仏教
宗教と世界平和について
仏典-仏教典籍、仏教の経典
宗教と哲学について
僧侶と信徒について
修行について
信心、信仰について
神仏について


「日蓮への路」第2巻

法華経について
法華経と文献学
摂受と折伏について
仏教の経典について
日本の世界平和活動について
世界平和を目指したある国のお話
ある人の祈りのお話
新聞啓蒙について
革命と改革について
仏教のはじまり


「日蓮への路」第3巻

お釈迦さまについて
ある国の財務のお話
2004年10月25日のことです。
ある国の表彰状のお話
釈迦族について
インドとパキスタン
チベットについて
隣国について
もうひとつの国のお話
ある国のタブーのお話


「日蓮への路」第4巻

タイとミャンマーについて
カンボジアについて
仏教美術について
ラオスとベトナムについて
マレーシアとブルネイとインドネシアについて
バングラデシュとモルティブについて
ブータンとシンガポールについて
東ティモールとフィリピンについて
フィリピンのお話
宗教と政治について


「日蓮への路」第5巻

オーストリアのお話-1
オーストリアのお話-2
ある国のある人への伝言
日蓮聖人のご生涯
日蓮の遺文
立正安国論
日蓮宗


「日蓮への路」第6巻

伝教大師(最澄)の世界
源氏物語
法然上人
栄西禅師
親鸞聖人
悟りについて
仏について
道元禅師
日蓮上人
大師(たいし、だいし)


「日蓮への路」第7巻

仏性について
人について
日本の歴史について
三経義疏について
歴史書について-上
歴史書について-中
歴史書について-下
奈良時代について
飛鳥時代について
古墳時代について


「日蓮への路」第8巻

鶴見山古墳について
岩戸山古墳について
白村江の戦いについて
出雲風土記より
弥生時代について
弥生前期について
弥生中期について
弥生後期について
魏志倭人伝について
倭国について


これまでの内容です。興味のあるところから、ゆっくり見ていってください。

これからも、分かりやすい内容を目指してゆきますので、よろしくお願い致します。




倭国について

2005-08-17 00:35:07 | 日蓮について
倭国について見てみましょう。

倭-ウィキペディア(Wikipedia)より

倭(わ、やまと)とは、古代から中世にかけて中国の各王朝から日本を指す際に用いられた呼称である。

古代中国では、日本列島に住んでいた日本人を倭人と呼び、そこに形成された国々を総称して倭国と呼んでいた。

「楽浪」は、漢の武帝が紀元前108年に朝鮮半島へ設置した四郡の一つである。この記事は紀元前後の倭が百余国に分かれていたことを書いている。中国人たちの目には、倭という列島があり、そこには「国」といえる地域があると映っている。紀元前から倭には地域国家・独立国家があったのである。

古代の中国史上に姿を見せる倭人の国家「倭」については、1世紀の奴国や3世紀の邪馬台国よりも後の時代においては、広く関東から北九州までを支配した大和王権の国家のことを指すと考えられている。中でも、4世紀以降たびたび中国史上に姿を見せる王制国家を指して、特に倭と呼ぶことが一般的である。

奴国-ウィキペディア(Wikipedia)より

奴国(なこく)とは、1世紀 - 3世紀前半にかけて、博多付近に存在したと記録されている国。


弥生時代を見てゆくと、国家形成の基本の時期かと思われます。けれど、奴国(なこく)という記録されている国を見ると、それ以前に、国家があったという見方も、出来ないことはない・・・とも思えてしまうのです。遠い昔から、この国を支えてこられました、この国の、ご先祖さまを偲んで・・・ 



魏志倭人伝について

2005-08-16 00:30:15 | 日蓮について
魏志倭人伝について見てみましょう。

魏志倭人伝-検索

魏志倭人伝-ウィキペディア(Wikipedia)より

魏志倭人伝 (ぎしわじんでん) は、中国の歴史書『三国志』の中の魏の歴史が書かれた「魏書」(通称『魏志』)の東夷伝に収められている倭人の条の日本において一般に知られる名。『魏志倭人伝』の名はあくまで通称である。

東夷伝-ウィキペディア(Wikipedia)より

東夷伝(とういでん)は、中国の史書の中で、中国の東方に住んでいる民族、部族、国家などについて書かれた伝(記述)。

東夷は、元々は中国の山東半島一帯に住んでいた実在の民族の事を差していた様だが、史書が書かれる時代には東夷は消滅しており、一般的に中国の東に住んでいた諸国、民族、部族などを差していた。

楽浪郡-ウィキペディア(Wikipedia)より

楽浪郡(らくろうぐん)は紀元前108年から西暦313年まで朝鮮半島北部に存在した中国王朝の郡県、つまり直接支配地域である。郡治(郡役所所在地)は現在の朝鮮民主主義人民共和国平壌特別市にあった。東方における中国文明の出先機関であり、朝鮮や日本の文明化に大きな役割を果たした。

帯方郡-ウィキペディア(Wikipedia)より

帯方郡(たいほうぐん)は、後漢末・三国時代に遼東半島および楽浪郡を支配していた公孫氏の公孫度が204年、楽浪郡の南方を分割して新たに設置した郡。今の黄海南道もしくは京畿道近辺に有ったと推測されている。
三韓や倭と中国大陸を結びつける窓口の役目を果たしており、魏志倭人伝の邪馬台国記述にある帯方はここであると言われている。
八王の乱によって中国が再び内乱状態に入ると漢民族の影響力が及ばなくなり、313年 南下してきた高句麗によって滅ぼされる。


紀元前後の日本は、100余の国があったと漢書に記されてます。前漢の武帝が、紀元前108年に、朝鮮半島西部にあった衛氏朝鮮を滅ぼし,その地に楽浪郡を設置しており、そこで倭国との交流があったと思われます。

邪馬台国の名前が出てくるのは、もしかすると、魏という国家と、邪馬台国に特別なつながりがあったためかもしれない?・・・などということを思ったりします。

この時期の日本人の暮らしは、インターネットなどが使われることを除いてですが、現代の人々の暮らしと変わらなかったのだろうなと思う、今日、この頃です。



弥生後期について

2005-08-15 00:20:35 | 日蓮について
弥生後期について見てみましょう。

2世紀-ウィキペディア(Wikipedia)より

主な出来事より

○2世紀初めごろ - 日本で石器が消滅し、鉄器が普及する。
○105年 - 後漢の蔡倫が製紙法を改良する。

日本:弥生時代

○107年 - 倭国王帥升ら、後漢の安帝に生口160人を献上する。(後漢・永初1、丁未;『後漢書』安帝紀、同東夷伝)
この頃、倭は朝鮮の弁韓・辰韓の鉄を盛んに輸入する。(『魏志』韓伝)
○147年ごろ - 倭国大乱(- 189年ごろ)
○184年ごろ - 倭国乱れ、互いに攻伐しあい(倭国大乱)、長い間盟主なし、と伝える。(『魏志』倭人伝)
○「中平□年」の紀年銘を持つ大刀出土する(奈良県天理市東大寺山古墳)。
中平(紀年銘)は、184~189年。
○この後、卑弥呼が共立されて、王となる。(『魏志』倭人伝)

この頃、登場した鮮卑について調べてみました。

○156年 - 鮮卑の檀石槐が北匈奴を破り、モンゴル高原を統一する。

鮮卑-ウィキペディア(Wikipedia)より
鮮卑(せんぴ、紀元前1世紀? - 6世紀)は中国北部に存在していた民族。魏晋南北朝時代には南下して中国に北魏(魏志倭人伝の魏、上記写真)などの国を建てた。鮮卑は東胡から出た民族で、言語学的にはモンゴル語系統という説が強いが、テュルク系、モンゴル系、ツングース系との混血とする説もある。

テュルク-ウィキペディア(Wikipedia)より
トルコ系の人々のことのようです。
モンゴル-ウィキペディア(Wikipedia)より
モンゴル系の人々のことのようです。
ツングース-ウィキペディア(Wikipedia)より
ロシア系の人々(ロシア方面に住んでいたアジア系の人々?)のことのようです。

中国北部(北東アジア)では、現代につながる独自の民族がいたのですね。



弥生中期について

2005-08-14 22:35:21 | 日蓮について
弥生中期について見てみましょう。

紀元前1世紀-ウィキペディア(Wikipedia)より

紀元前1世紀は紀元前を区分する世紀で紀元前100年から紀元前1年までの100年間を指す。

主な出来事より

紀元前1世紀頃:祭祀が行われていた。北九州では甕棺墓が流行し、多数の前漢鏡を副葬する甕棺墓が少数見つかっている。

紀元前後:倭人は百余国に分かれて、その中の何国かは前漢の楽浪郡に朝献するという。(『漢書』地理志)

57年:倭の奴の国王が後漢に朝貢し、光武帝から印綬を授けられる。(『後漢書』光武帝紀、同東夷伝)筑前国志賀島(福岡市)出土の金印「漢委奴国王」である。

・・・帥升や卑弥呼などが登場するのは、弥生後期になります。

日本:弥生時代

○弥生文化が関東地方に波及する。
○近畿地方を中心に銅鐸、西日本に青銅製武器形祭器による祭祀が行われる。階層の秩序化すすむ。
○関東地方や東北地方南部に縄文時代の一墓制である再葬墓が見られる。
○北部九州では甕棺墓が盛行し、その中の一部のものが多くの前漢鏡を副葬する。
○北部九州では、鉄器や鉄製農具が使用される。また、巨大集落現れる。吉野ヶ里遺跡。
○北部九州勢力と畿内勢力の間で、鉄の獲得のための軍事的緊張が高まる。

活躍した人々

紀元前97年ごろ-前漢で司馬遷が『史記』を完成。
紀元前47年-クレオパトラ7世がエジプトの主権を握る。
紀元前7~4年頃-ナザレのイエス生誕。

見ると、紀元前99年、前漢の李陵が匈奴に降伏するとありました。モンゴルという国は、元と呼ばれる以前、すでに中国を支配していたのですね。

匈奴-ウィキペディア(Wikipedia)より


この時代、関東では、縄文時代の一墓制である再葬墓が見られたとあります。初期、中期だけでも300年の歳月という弥生時代を追ってゆくと、当時、公的図書館、個人的図書館のような公文書館のような建物がなかったということは、考えずらいと思えるようになりました。著名な学者さんとか、いたのでしょうね。

これまでの認識不足ということでしょうか・・・。



弥生前期について

2005-08-13 21:20:25 | 日蓮について
弥生前期について見てみましょう。

紀元前3世紀-ウィキペディア(Wikipedia)より

紀元前3世紀は紀元前300年から紀元前201年までの100年間を指す。

主な出来事より

北九州に金属器の農機具を使って稲作が行われていた。西日本各地に波及した。

日本:弥生時代より

○古墳時代に先立って、この時代に、方丘墓と円丘墓があった。
○一般に方形周溝墓・方形低墳丘墓と呼ばれる。
○北部九州では、方丘墓が少なく、甕棺墓が多い。
○畿内地方では、方丘墓が多い。
○瀬戸内東部地域では、円丘墓が出現する。

活躍した人々

プトレマイオス・ソテル(紀元前367年頃-紀元前283年頃)-エジプト、プトレマイオス朝初代国王(在位紀元前323年-紀元前285年)
アショーカ王 生没年は不明-マウリヤ朝の第3代の王(在位紀元前268年-紀元前232年)
シュラクサイのアルキメデス(紀元前287年-紀元前212年)-数学者・物理学者
孟子(紀元前372年? - 紀元前289年)
始皇帝(紀元前259年 - 紀元前210年)- 秦皇帝(在位246年 - 紀元前210年)
項羽(紀元前232年 - 紀元前202年) - 西楚の覇王。
劉邦(紀元前256年あるいは紀元前247年 - 紀元前195年) - 前漢・初代皇帝。


宗教を含めて、数学、物理学、天文学と、学門も発達していたようですね。また、中国で万里の長城建設していたり、秦の始皇帝、宰相の李斯の進言により焚書坑儒を実施ということがあり、この時に、秦に失望(?)して(または、日本に期待して?)逃れた人々の中に、後の日本が帰化人として迎えたとされる秦氏(一族)がいたということになるのでしょうか。

戦国時代(中国)-ウィキペディア(Wikipedia)より

金属器が使われていて、方丘墓と円丘墓などを作っていた当時の日本が、文化的に遅れていたということは考えられないので、どのような書物が使われていたのか、興味深いところです。

やはり、国内の文献、資料が残されてないのは、残念です。