蘇我馬子?邸宅跡、天皇の宮殿並みの規模
奈良県明日香村の島庄遺跡で昨年見つかった飛鳥時代の豪族、蘇我馬子(そがのうまこ)(?~626)の邸宅跡とみられる建物群の全容がほぼ判明したと、同村教委が24日、発表した。
確認された建物は計5棟となり、このうち最大の建物は幅12メートル、奥行き7・5メートルの規模と確定した。当初の推定より一回り小さかったが、飛鳥時代の天皇の宮殿並みで、馬子の権勢を改めて裏付ける成果となりそうだ。
一方、同遺跡で出土している、蘇我氏滅亡後に建てられた天武天皇の第1皇子、草壁皇子(662~689)の離宮「嶋宮(しまのみや)」とみられる建物跡の規模も判明した。計5棟確認された建物群のうち、最大の建物は幅12メートル、奥行き4・4メートルで、馬子邸とみられる建物より小規模だった。
現地説明会は27日午前10時から。
(2005年8月24日23時22分 読売新聞)
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すごいですね...。
安土城の大手門跡前から大規模広場が出土
織田信長が築いた安土城(滋賀県安土、能登川町)南側の大手門跡前で、大規模な広場が見つかったと、同県安土城郭調査研究所が18日発表した。戦国時代の城としては例がなく、自らの権威を高めるため、天皇の行幸をもくろんだ信長が、出迎えの儀式などを行おうとしたとみられる。
大手門の南約44メートルに一直線に並ぶ石垣が4か所で出土したことから、広場は東西100メートル、南北44メートルと推定される。大手門を中心に東西3か所の「虎口(こぐち)」(出入り口)がすでに発見されており、広場の南側は沼地だったとみられる。
安土城跡では、京都御所の内裏「清涼殿」に似た御殿跡や、五層七重(推定)の天主近くまで一直線に延びる大手道跡などが確認されており、防御を重視した戦国期の城郭としては異例の造り。今回の広場跡について同研究所は、「入城前に何らかの儀式を行った可能性がある。天皇や公家、従者の武士が威儀を正したり、信長の家臣が出迎えたりする施設だったのではないか」としている。
(2005年8月18日23時49分 読売新聞)
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安土、桃山時代ですかね...。
奈良県明日香村の島庄遺跡で昨年見つかった飛鳥時代の豪族、蘇我馬子(そがのうまこ)(?~626)の邸宅跡とみられる建物群の全容がほぼ判明したと、同村教委が24日、発表した。
確認された建物は計5棟となり、このうち最大の建物は幅12メートル、奥行き7・5メートルの規模と確定した。当初の推定より一回り小さかったが、飛鳥時代の天皇の宮殿並みで、馬子の権勢を改めて裏付ける成果となりそうだ。
一方、同遺跡で出土している、蘇我氏滅亡後に建てられた天武天皇の第1皇子、草壁皇子(662~689)の離宮「嶋宮(しまのみや)」とみられる建物跡の規模も判明した。計5棟確認された建物群のうち、最大の建物は幅12メートル、奥行き4・4メートルで、馬子邸とみられる建物より小規模だった。
現地説明会は27日午前10時から。
(2005年8月24日23時22分 読売新聞)
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すごいですね...。
安土城の大手門跡前から大規模広場が出土
織田信長が築いた安土城(滋賀県安土、能登川町)南側の大手門跡前で、大規模な広場が見つかったと、同県安土城郭調査研究所が18日発表した。戦国時代の城としては例がなく、自らの権威を高めるため、天皇の行幸をもくろんだ信長が、出迎えの儀式などを行おうとしたとみられる。
大手門の南約44メートルに一直線に並ぶ石垣が4か所で出土したことから、広場は東西100メートル、南北44メートルと推定される。大手門を中心に東西3か所の「虎口(こぐち)」(出入り口)がすでに発見されており、広場の南側は沼地だったとみられる。
安土城跡では、京都御所の内裏「清涼殿」に似た御殿跡や、五層七重(推定)の天主近くまで一直線に延びる大手道跡などが確認されており、防御を重視した戦国期の城郭としては異例の造り。今回の広場跡について同研究所は、「入城前に何らかの儀式を行った可能性がある。天皇や公家、従者の武士が威儀を正したり、信長の家臣が出迎えたりする施設だったのではないか」としている。
(2005年8月18日23時49分 読売新聞)
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安土、桃山時代ですかね...。