比叡山から生まれ、はじまった日本の仏教から、栄西禅師について見てみましょう。
比叡山より
平安の最末期、備中(岡山)に生まれ、11才で出家、14才で剃髪、比叡山に登り、東塔東谷において天台教学を学び台密13流の一つ葉上流の祖となる。
仁安3年(1168)28才のとき中国(宋)に渡り天台の経典30A部を持ち帰り更に文治3年(1187)49才で再び宋に渡り臨済宗を学び、帰国後の建仁2年(1201)京都東山の近くに建仁寺を建てた。
境域には真言・止観道場もあり圓密禅三宗兼学の道場とした。
栄西-ウィキペディア(Wikipedia)より
明菴栄西(みんなんえいさい・ようさい、諡は千光国師、永治元年4月20日(1141年5月27日) - 建保3年6月5日(1215年7月2日))は、日本の仏教宗派・臨済宗の開祖。生年には異説がある。
天台密教葉上流の開祖でもある。
喫茶の習慣を日本に伝えたことでも有名である。
主な著作
『喫茶養生記』(古田紹欽全訳注、講談社学術文庫、2000年)
『喫茶養生記』は上下2巻からなり、上巻では茶の種類や抹茶の製法、身体を壮健にする喫茶の効用が説かれ、下巻では飲水(現在の糖尿病)、中風、不食、瘡、脚気の五病に対する桑の効用と用法が説かれている。このことから、茶桑経(ちゃそうきょう)という別称もある。
臨済宗-ウィキペディア(Wikipedia)より
一般に禅宗は知識ではなく、悟りを重んじる。禅宗における悟りとは、生きるもの全てが本来持っている本性である仏性に気付くことを言う。
師を持たずに悟りを得たゴータマ・シッダッタ(仏陀、釈尊)を持ち出すまでもなく、唐代の祖師たちは、師匠から教わって悟ったのではないのである。
悟りを言葉により定義することは出来ないが、言葉を始めとしていろいろな方法で悟りの境地を表現することはできる。そのため特に日本に伝わった後、詩や絵画を始めとした芸術的な表現の上に悟りが表現されており、その香りを味わうことができる。芸術以外にも、茶の湯や生け花を始めとした振舞いなどにも表現されており、振舞いをたどることによって、悟りの世界を味わうという手段も生まれている。それは知的な理解ではない。
成仏とか仏性とか仏とか、悟りとは、仏に関わることを理解することのようです。
悟りは、目に見えない空気のような、知ることが出来ない人の心のような、時に自分の心のような次元のものに近いのかなと思われます。
これが、仏教の醍醐味というか、面白いところかな・・・と思うのですが、悟りに夢中になってしまうと、人生がおろそかになってしまいそうなので、凡人には難しいものです。
伝えることの難しさゆえに、悟りを得た禅師の判断で、消えていった流派もあるそうです。
仏教は、いろんな弟子によって、広められていったのだなと伺い知ることのできることですね。
比叡山より
平安の最末期、備中(岡山)に生まれ、11才で出家、14才で剃髪、比叡山に登り、東塔東谷において天台教学を学び台密13流の一つ葉上流の祖となる。
仁安3年(1168)28才のとき中国(宋)に渡り天台の経典30A部を持ち帰り更に文治3年(1187)49才で再び宋に渡り臨済宗を学び、帰国後の建仁2年(1201)京都東山の近くに建仁寺を建てた。
境域には真言・止観道場もあり圓密禅三宗兼学の道場とした。
栄西-ウィキペディア(Wikipedia)より
明菴栄西(みんなんえいさい・ようさい、諡は千光国師、永治元年4月20日(1141年5月27日) - 建保3年6月5日(1215年7月2日))は、日本の仏教宗派・臨済宗の開祖。生年には異説がある。
天台密教葉上流の開祖でもある。
喫茶の習慣を日本に伝えたことでも有名である。
主な著作
『喫茶養生記』(古田紹欽全訳注、講談社学術文庫、2000年)
『喫茶養生記』は上下2巻からなり、上巻では茶の種類や抹茶の製法、身体を壮健にする喫茶の効用が説かれ、下巻では飲水(現在の糖尿病)、中風、不食、瘡、脚気の五病に対する桑の効用と用法が説かれている。このことから、茶桑経(ちゃそうきょう)という別称もある。
臨済宗-ウィキペディア(Wikipedia)より
一般に禅宗は知識ではなく、悟りを重んじる。禅宗における悟りとは、生きるもの全てが本来持っている本性である仏性に気付くことを言う。
師を持たずに悟りを得たゴータマ・シッダッタ(仏陀、釈尊)を持ち出すまでもなく、唐代の祖師たちは、師匠から教わって悟ったのではないのである。
悟りを言葉により定義することは出来ないが、言葉を始めとしていろいろな方法で悟りの境地を表現することはできる。そのため特に日本に伝わった後、詩や絵画を始めとした芸術的な表現の上に悟りが表現されており、その香りを味わうことができる。芸術以外にも、茶の湯や生け花を始めとした振舞いなどにも表現されており、振舞いをたどることによって、悟りの世界を味わうという手段も生まれている。それは知的な理解ではない。
成仏とか仏性とか仏とか、悟りとは、仏に関わることを理解することのようです。
悟りは、目に見えない空気のような、知ることが出来ない人の心のような、時に自分の心のような次元のものに近いのかなと思われます。
これが、仏教の醍醐味というか、面白いところかな・・・と思うのですが、悟りに夢中になってしまうと、人生がおろそかになってしまいそうなので、凡人には難しいものです。
伝えることの難しさゆえに、悟りを得た禅師の判断で、消えていった流派もあるそうです。
仏教は、いろんな弟子によって、広められていったのだなと伺い知ることのできることですね。