日蓮への路

日本を愛していた日蓮を偲んでのブロクです。

ある国のある人への伝言

2005-06-25 22:52:03 | 日蓮について
ある国のある人への伝言

常識的な感覚とプライバシーについて考えてみました。

プライバシーが奪われることは、苦痛であるために、社会でも、それが保障されています。

人が信仰をする時に、信仰のために自宅を開放することを求めることが、平然と行われたならば、どうなるでしょうか?

現在、それが行われています。しかし、一部の人たちのことです。

しかし、それが一般的になってきた場合に、誰が責任を取るのでしょうか?

折伏と言って、たくさんの人々を巻き込んでしまった人たちは、この責任を取れるでしょうか?

不幸な人に出会えるようにと祈って、折伏に成功したと語る人がいます。その人は、責任を取れるのでしょうか?

その家族を不幸にしたことの責任を取れるのでしょうか?

個人の家庭を信仰という名目で、占拠して、占拠されて、麻痺してゆく感覚は、次第に常識から外れてゆくのではないでしょうか?

「お願い、新聞取って!」と隣人に頼んで、それを聞いてくれない隣人を悪く思うことも平気になる感覚です。どこかに、そんな事実があるとかかれていました。まんざら嘘でもないようです。

悪口を書いているよう思える方は、プライバシー侵害を受けた経験のない方でしょうか?

折伏は、美辞麗句を並られて、情熱的に語られます。しかし、その先にあるのは、別ものです。

情熱的に語ってる方の家庭にすら、それが原因の不幸があるのです。誰も、それは、見せないでしょう。表面的な情熱とか、正義という言葉にだまされてはなりません。

一見、家庭的な雰囲気にだまされてはいけません。

そこは、一度足を踏み入れると、抜け出すことの出来ない世界です。

そして、精神的にも肉体的にも経済的にも、搾取され続けます。

一見、正義のような、情熱的な宗教論とか、信心の姿にだまされてはいけません。

信心という名の、そこでは、ひたすら搾取が行われています。

あなたの名前は、名簿に乗り、生涯、搾取され続けます。

名簿は、人々によって管理されます。常に、人々の目にさらされています。

時には、新聞啓蒙という名の営業活動のために、用いられます。

時には、折伏という名の勧誘活動のために、用いられます。

それは、情け、容赦のない活動です。常に、管理され、強要されます。

でも、それだけじゃないです。それを元に、たくさんの人の前にさらされます。

どうか、だまされないでください。
そして、気づいてください。

ある伝言より



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