日蓮への路

日本を愛していた日蓮を偲んでのブロクです。

日蓮聖人のご生涯

2005-06-26 23:05:12 | 日蓮について
日蓮聖人のご生涯に関連するサイトがありました。

1222年、千葉県安房郡小湊に漁師の家に生まれる。幼名・善日麿。
1253年、清澄寺に帰り、持仏堂の南面で「南無妙法蓮華経」と唱えて開宗し、「法華経」を釈尊が説いた経典のうちで、最高の経と認めて、その教えを実践することが真実に生きる道であるとしている。
1260年、「立正安国論」を北条時頼に献じる。四大法難が始まる。
1271年、龍口法難・佐渡流罪。
1274年、身延へ入山。
1282年、東京池上で入滅。

5月5日に日蓮の生涯について見て、後に、いろいろと調べてゆくうちに、日蓮に対する捉え方が変わってきたように思います。

鎌倉時代という背景にあって、愛国心の人であった日蓮です。

時代は徳川時代に移ると、外国からの侵略もなく、平和な時代が過ぎます。思えば、日蓮が果すことの出来なかったことを、徳川家康という人は、実行することが出来たようです。

時代が移って、幕末になると黒船がやってきて、開国を迫ります。これは、ひとつの危機的な状況でしたが、若者たちの活躍で、乗り越えることが出来たのかなと思われます。

日蓮の後に出てきた人々が、いかに優れていたのかということでしょうか。それとも、宗教と政治には、その役割に隔たりがあるということでしょうか。

もちろん日蓮以前にも、優れた人々が存在していたことでしょう。例えば、卑弥呼・・・とか。

では、日蓮が、いかに素晴らしい人であるのか考えてみると、やはり、愛国心の人だったということになるのでしょうか。しかし、政治家ではなかったと思われます。

日蓮の生涯を見て、学べきことがあるのではないでしょうか?

21歳の頃から、およそ10年にわたる修行により、法華経を信仰することを決意されます。鎌倉で説教を行われてから、22年の月日を費やされます。その後、身延山に住まわれて7年を費やされて、後に、故郷を目指して、東京の池上にてご入滅されたとのことです。

時の執権、北条時宗の選択が(信仰よりも習慣化・伝統化している宗派との繋がりの方が大切だと思っていた幕府が)、必ずしも、間違っていたものとも確信できません。

また、そんな幕府を見限り、日本中を歩いて法華経を広めようと考えられ、ついに身延山へ向かって旅立たれた日蓮の選択が、必ずしも、間違っていたとも確信できません。

北条時宗には、政治的な判断があったように、日蓮には、宗教的な判断があったと思われるからです。

この解釈は、いろいろあると思われます。しかし、正しいとか間違っているという判断は、誰にもできないのではないかと思われます。

日蓮という人を知るためにも、そういう冷静な気持ちを失わないようにしたいものです。



ある国のある人への伝言

2005-06-25 22:52:03 | 日蓮について
ある国のある人への伝言

常識的な感覚とプライバシーについて考えてみました。

プライバシーが奪われることは、苦痛であるために、社会でも、それが保障されています。

人が信仰をする時に、信仰のために自宅を開放することを求めることが、平然と行われたならば、どうなるでしょうか?

現在、それが行われています。しかし、一部の人たちのことです。

しかし、それが一般的になってきた場合に、誰が責任を取るのでしょうか?

折伏と言って、たくさんの人々を巻き込んでしまった人たちは、この責任を取れるでしょうか?

不幸な人に出会えるようにと祈って、折伏に成功したと語る人がいます。その人は、責任を取れるのでしょうか?

その家族を不幸にしたことの責任を取れるのでしょうか?

個人の家庭を信仰という名目で、占拠して、占拠されて、麻痺してゆく感覚は、次第に常識から外れてゆくのではないでしょうか?

「お願い、新聞取って!」と隣人に頼んで、それを聞いてくれない隣人を悪く思うことも平気になる感覚です。どこかに、そんな事実があるとかかれていました。まんざら嘘でもないようです。

悪口を書いているよう思える方は、プライバシー侵害を受けた経験のない方でしょうか?

折伏は、美辞麗句を並られて、情熱的に語られます。しかし、その先にあるのは、別ものです。

情熱的に語ってる方の家庭にすら、それが原因の不幸があるのです。誰も、それは、見せないでしょう。表面的な情熱とか、正義という言葉にだまされてはなりません。

一見、家庭的な雰囲気にだまされてはいけません。

そこは、一度足を踏み入れると、抜け出すことの出来ない世界です。

そして、精神的にも肉体的にも経済的にも、搾取され続けます。

一見、正義のような、情熱的な宗教論とか、信心の姿にだまされてはいけません。

信心という名の、そこでは、ひたすら搾取が行われています。

あなたの名前は、名簿に乗り、生涯、搾取され続けます。

名簿は、人々によって管理されます。常に、人々の目にさらされています。

時には、新聞啓蒙という名の営業活動のために、用いられます。

時には、折伏という名の勧誘活動のために、用いられます。

それは、情け、容赦のない活動です。常に、管理され、強要されます。

でも、それだけじゃないです。それを元に、たくさんの人の前にさらされます。

どうか、だまされないでください。
そして、気づいてください。

ある伝言より



オーストリアのお話-2

2005-06-24 22:51:30 | 海外のニュース
オーストリアの宗教の本の続きです。

Brief Overview of Organizations Active in Austria

The recitation of the mantras is called "chanting" and - according to the needs of the faithful - are practiced up to several hours a day.

After the founding of its own political party in Japan in 1964, the organization won considerable political influence there with its president, Daisaku Ikeda. It is reported that the party reacts independently in organizational and financial respects, from which it has obtained good mutual contacts. After one stage of rigid organizational work, Soka Gakkai seems to have recently started a dialogue on cultural work with Buddhism and other religions in Europe. It cannot yet be predicted how far this tendency to be open has gone in all locations worldwide.

In addition there are still a series of movements which operate on the principles of a widely diverse group of currents which cannot be covered here because of restrictions in space. In case of doubt, please make inquiries at one of the information and counselling centers listed in the appendix.


宗教のお話(英文)
エキサイト翻訳



オーストリアのお話-1

2005-06-23 22:51:27 | 海外のニュース
オーストリアで出版された宗教関連の本の紹介がありました。

SOKA GAKKAI
The Buddhist lay movement, "Soka Gakkai," which originated in Japan, was founded in 1930 by teacher Makiguchi Tsunesaburo after he joined the school of the Buddhist monk Nichiren Daisonin (1222-1282). The organization proselytized heavily in the 1950s and 60s and today it claims it has about 12 million members worldwide. Its central idea is veneration of "Gohonzon," one of the mantras presented calligraphically on a wooden tablet. Every member has a likeness of it. The "Gongyo" (constant exercise) ceremony is carried out daily in front of the "Gohonzon" while the two chapters of the "Lotos Sutra" (one of the teachings of Buddha's Shakyamuni) and the "Nam Myoho Renge Kyo" mantra (title line of the Lotos Sutra) are recited out loud.

上記の内容の続きは、47ページ(エキサイト翻訳)になります。

先日、宗教と政治について考えてみましたが、世界には、このような文も存在するのですね。


信仰している人々は、その新聞を通じて、毎日、世界で撮影された写真を見せられています。そこには、美辞麗句が並んでいて、世界平和に貢献していると感じさせられます。

人々は、何が起きているのか、現場に行って確かめることは出来ません。

信仰心をもって、信仰しているように、言われていることを信じているだけです。



「日蓮への路」 第4巻

2005-06-16 00:50:37 | 日蓮への路
「日蓮への路」について、まとめてみました。


「日蓮への路」第1巻

「日蓮への路」 について
日蓮について
仏教の伝来について
世界における仏教
宗教と世界平和について
仏典-仏教典籍、仏教の経典
宗教と哲学について
僧侶と信徒について
修行について
信心、信仰について
神仏について


「日蓮への路」第2巻

法華経について
法華経と文献学
摂受と折伏について
仏教の経典について
日本の世界平和活動について
世界平和を目指したある国のお話
ある人の祈りのお話
新聞啓蒙について
革命と改革について
仏教のはじまり


「日蓮への路」第3巻

お釈迦さまについて
ある国の財務のお話
2004年10月25日のことです。
ある国の表彰状のお話
釈迦族について
インドとパキスタン
チベットについて
隣国について
もうひとつの国のお話
ある国のタブーのお話


「日蓮への路」第4巻

タイとミャンマーについて
カンボジアについて
仏教美術について
ラオスとベトナムについて
マレーシアとブルネイとインドネシアについて
バングラデシュとモルティブについて
ブータンとシンガポールについて
東ティモールとフィリピンについて
フィリピンのお話
宗教と政治について


これまでの内容です。興味のあるところから、ゆっくり見ていってください。

これからも、分かりやすい内容を目指してゆきますので、よろしくお願い致します。




宗教と政治について

2005-06-15 00:33:50 | 日蓮について
宗教と政治について考えてみましょう。

一般論として意味を調べてみましょう。三省堂提供「大辞林 第二版」より

宗教
(1)神仏などを信じて安らぎを得ようとする心のはたらき。また、神仏の教え。
(2)〔religion〕経験的・合理的に理解し制御することのできないような現象や存在に対し、積極的な意味と価値を与えようとする信念・行動・制度の体系。アニミズム・トーテミズム・シャーマニズムから、ユダヤ教・バラモン教・神道などの民族宗教、さらにキリスト教・仏教・イスラム教などの世界宗教にいたる種々の形態がある。

宗教教育
宗教に関する知識や理解を深め、宗教心や宗教的情操を養う教育。日本では国公立学校が特定宗派の宗教教育を行うことは禁じられている。

政治
(1)統治者・為政者が民に施す施策。まつりごと。
(2)国家およびその権力作用にかかわる人間の諸活動。広義には、諸権力・諸集団の間に生じる利害の対立などを調整・統合することにもいう。
「―にたずさわる」

政治教育
国民に政治に関する基礎的な知識を与え、権利の行使や責任履行のための理解や態度の育成を目的とする教育。

政教分離
政治と宗教を分離し、互いに干渉することを禁止すること。日本国憲法は、信教の自由を保障し、国・地方公共団体が、特定の宗教団体に特権を与えたり、宗教的活動を行なったりすることなどを禁止し、政教分離の原則を定める。国教分離。


さて、最近は、政教分離の法則すら問題じゃなくて、一致もいいのではないか・・・と言うような話をする人がいるといいます。憲法に関わることを語っている人がいるということを、知っている人はいるでしょうか?

憲法に関わることは、国民にとって重大な問題であるにも関わらず、知られていない現実を、どのように捉えればよいのでしょう?


参照となる新聞、雑誌より


~~~一部省略~~~

ここから「公共領域は合理性から民主主義といった世俗的理念に委ね、宗教は私的領域を本来の場とする…しかし、最近、宗教は個人のものとする理解がどうも世界のリアリティに合っていないのではないのかと考えられ始めています。政治と宗教を別の領域に分けるという考え方が、必ずしも適切であるかどうか考え直そうとする見方が有力になってきました」と続く。

~一部省略~

そんな思案に耽りながら、『聖教新聞』の束をめくった。'05年4月21日4面、座談会『栄光の学会創立75周年』83を見ると「世界の哲人は『立正安国』の精神を希求」「国際宗教社会学会ドブラーレ元会長“宗教団体が政治に影響を与えるのは当たり前”」の大文字が踊る。

~~~一部省略~~~


政治と宗教を別の領域に分けるという考え方が、必ずしも適切であるかどうか考え直そうとする見方など、いったい、どこの国で有力になってきたのでしょうか?聞いたこともない話です

国民の知らないところで、憲法に関わる問題が取り上げられているようです。けれども、他のマスコミ、ジャーナリストらは、これについて取り上げることはないようです。

しかし、公然とこのような記事が載せられていることは、現実のようです。

それを信仰とされている人々が増えています。そして、信者を増やすために闘おうと言われ続けています。



フィリピンのお話

2005-06-14 00:31:12 | 日蓮について
現在、フイリピンはキリスト教が大半を占めているようです。

ところで、フイリピンと日本の関係について教えてくれるサイトがありました。

http://www.geocities.jp/wimaciiaccess/sinjituwadokoni.swf

上記のサイトは、フィリピンが日本にとって、どのような国なのか、わかりやすく伝えてくれます。そして、戦後に生きる日本人が、決して忘れてはならないことがあります。

遠い昔から伝えられてきた精神が、愛国心があります。

戦後に生きる日本人が、忘れ去ろうとしているかのように思えます。しかし、本当に忘れ去ることが出来るでしょうか?

戦後60年の今年、当時を知らない世代の人々が定年を迎える時代となったのだな・・・と思います。それでも、戦争を知らなくとも、先人たちの残された文を読むと、言葉を聞くと伝わってくるのです。

愛国心は世界の常識であり、普遍的なものです。


東ティモールとフィリピンについて

2005-06-14 00:00:10 | 日蓮について
東南アジアに、キリスト教が大半を占める国があります。

東ティモールと、フイリピンでは、キリスト教が大半を占めているようです。


仏教やヒンズー教やイスラム教だけではなくて、キリスト教の国もあるというアジアは、仏教の信仰の地でありながらも、仏教という、ひとことでは語りつくせない地でもあるようです。

お釈迦さまのふるさとのネパールから始まって、南アジアと東南アジアについて見てきました。

エジプトと同じように、もっと古代からの文明は存在したのだろうと予感させるアジアの古代文明について記された文献、残っているといいなと思います。

また、アジアといえば、東アジアについても見てゆこうと思っています。



ブータンとシンガポールについて

2005-06-13 00:23:30 | 日蓮について
ブータンとシンガポールを見てみましょう。

南アジアの8カ国のひとつであるブータンでは、チベット仏教を信仰しゾンカ語を主要言語とするチベット系のブータン人が60%を占める。他にヒンドゥー教徒でネパール語を話すネパール系住民がいるようです。

東南アジアの12カ国のひとつであるシンガポールの宗教は、仏教、道教、イスラム教、キリスト教、ヒンズー教などのようです。

これまで、南アジアと東南アジアについて見てきました。

小さな国ではありますが、しっかりと仏教を信仰している人々が暮らしているのですね。

本当に、世界は広い・・・と教えられます。