お天気は今日の話である。しかし昨日はいろいろと思いがけない事態が起きて、くたびれて、日記の稿を継ぐどころではなかった。今日も本当はこんな事をしている場合ではないのかもしれないが、とりあえず思い出しておこうと思う。
簡単に言うと、人身事故で電車が止まって、出勤に苦労させられた。電車のせいばかりでなく、それに対する自分の反応も、結果的に見て不適当であったので腹が立つ。
ふだん通りに始発駅に着いて見たら、人身事故で運転見合わせというので、これは当分復旧する見込みはあるまいと思って、バスで途中まで行って、そこからタクシーに乗り換えようと思った。全部タクシーで通すよりは安いと考えたのだが、それにしても全く知らない土地に地図も何も無しで降り立ってタクシーをつかまえようというのはいささか無謀である。
途中で電車の線路から逸れるような方向へ走り出したようなので、いい加減にバスを降りて、まず学校へ電話をしてみたら、教頭が、あれ電車まだ止まっていますか、みたいな反応をしたので、もしかしたらと思って、駅へ寄ってみたら、確かに電車が動いていた。どうもじたばたせずに始発駅で待っているのが正解だったようである。
ホームに上がった瞬間に列車が発車して、私の授業に出ている生徒が乗っていた。次に来たのは途中までしか行かない列車である。どこまで間が悪いのかとまた逆上したが、結局、次の電車に乗って、授業の始まる十分前に学校に着いた。バスも電車も空いていたからずっと座れたし、タクシーにも乗らずに済んだから、まずはよかったのだろうと思うが、プリントの印刷など授業の準備もぎりぎりで、蒸し暑い中大汗をかいて大変消耗した。
午前中の授業を終えて、ふだんなら途中のコンビニで食料を調達してくるのだが、今日は移動で精一杯だから何も準備していない。いい機会だから、外に出ることにした。近くの和風ファミレスに行って、数日前からの宿願であるところの天ざる蕎麦を食べた。タクシーに乗って数千円散財する可能性があったことを思えば、七百円くらい大したことはない。
私の授業は午前中で終わりなので、ゆっくり学校に戻って、出席簿を整理してすぐ帰った。来週の教材は週末に考えればよい。まさかもう電車が止まることはあるまい。
それより今日はこれから行くべき所が他にある。今朝がた無事に電車に乗り込んでやれやれと安心した時に、鞄に付けてあったお守りが失われていることに気がついた。おそらくあたふた駆け回っている間に紐が切れたのであろうが、どうにか無事に学校に着いて授業に間に合ったのも、これが身代わりになってくれたのかも知れないという気がする。お礼参りに行って、新しいのを頂いてこようと思う。
お守りは榴ヶ岡天満宮のもので、今年の初詣の時に引いたおみくじの中に入っていた小さな勾玉である。全部で八色あって、どれか一色が入っていて、色によって違うご縁があるというもので、私が当ったのは学業に縁があるという水色の勾玉だった。やはり勉強を続けなさいという御託宣かとあの時は思ったものであった。
実は最近になってまた、仕事に追われて修論を怠けて、思うように進まない上に資料の提出などばかり求められて、もう止めようかという気になりだしている。そこで再びおみくじを引いて、神意を伺って見ようというつもりもあった。
お参りを済ませて、境内の同じ箱にまた百円を入れて、よくかき回して一つ引いて、開けてみたらまた同じ水色の勾玉が当ったには少し驚いた。何しろ天満宮だから、ぜんぶ学業を象徴する水色の玉にしてあるのかとも思ったが、それはいわゆる近代合理思考というものであろう。やはり素直に神意として受け取るとすれば、目論見書は見送っても、修論は出来なくても、文学の勉強は続けなさいということだろう。
おみくじの本文は四十八番小吉であった。「平凡な事を静かに続けて、運を天にまかせておく雰囲気」であるそうだ。
簡単に言うと、人身事故で電車が止まって、出勤に苦労させられた。電車のせいばかりでなく、それに対する自分の反応も、結果的に見て不適当であったので腹が立つ。
ふだん通りに始発駅に着いて見たら、人身事故で運転見合わせというので、これは当分復旧する見込みはあるまいと思って、バスで途中まで行って、そこからタクシーに乗り換えようと思った。全部タクシーで通すよりは安いと考えたのだが、それにしても全く知らない土地に地図も何も無しで降り立ってタクシーをつかまえようというのはいささか無謀である。
途中で電車の線路から逸れるような方向へ走り出したようなので、いい加減にバスを降りて、まず学校へ電話をしてみたら、教頭が、あれ電車まだ止まっていますか、みたいな反応をしたので、もしかしたらと思って、駅へ寄ってみたら、確かに電車が動いていた。どうもじたばたせずに始発駅で待っているのが正解だったようである。
ホームに上がった瞬間に列車が発車して、私の授業に出ている生徒が乗っていた。次に来たのは途中までしか行かない列車である。どこまで間が悪いのかとまた逆上したが、結局、次の電車に乗って、授業の始まる十分前に学校に着いた。バスも電車も空いていたからずっと座れたし、タクシーにも乗らずに済んだから、まずはよかったのだろうと思うが、プリントの印刷など授業の準備もぎりぎりで、蒸し暑い中大汗をかいて大変消耗した。
午前中の授業を終えて、ふだんなら途中のコンビニで食料を調達してくるのだが、今日は移動で精一杯だから何も準備していない。いい機会だから、外に出ることにした。近くの和風ファミレスに行って、数日前からの宿願であるところの天ざる蕎麦を食べた。タクシーに乗って数千円散財する可能性があったことを思えば、七百円くらい大したことはない。
私の授業は午前中で終わりなので、ゆっくり学校に戻って、出席簿を整理してすぐ帰った。来週の教材は週末に考えればよい。まさかもう電車が止まることはあるまい。
それより今日はこれから行くべき所が他にある。今朝がた無事に電車に乗り込んでやれやれと安心した時に、鞄に付けてあったお守りが失われていることに気がついた。おそらくあたふた駆け回っている間に紐が切れたのであろうが、どうにか無事に学校に着いて授業に間に合ったのも、これが身代わりになってくれたのかも知れないという気がする。お礼参りに行って、新しいのを頂いてこようと思う。
お守りは榴ヶ岡天満宮のもので、今年の初詣の時に引いたおみくじの中に入っていた小さな勾玉である。全部で八色あって、どれか一色が入っていて、色によって違うご縁があるというもので、私が当ったのは学業に縁があるという水色の勾玉だった。やはり勉強を続けなさいという御託宣かとあの時は思ったものであった。
実は最近になってまた、仕事に追われて修論を怠けて、思うように進まない上に資料の提出などばかり求められて、もう止めようかという気になりだしている。そこで再びおみくじを引いて、神意を伺って見ようというつもりもあった。
お参りを済ませて、境内の同じ箱にまた百円を入れて、よくかき回して一つ引いて、開けてみたらまた同じ水色の勾玉が当ったには少し驚いた。何しろ天満宮だから、ぜんぶ学業を象徴する水色の玉にしてあるのかとも思ったが、それはいわゆる近代合理思考というものであろう。やはり素直に神意として受け取るとすれば、目論見書は見送っても、修論は出来なくても、文学の勉強は続けなさいということだろう。
おみくじの本文は四十八番小吉であった。「平凡な事を静かに続けて、運を天にまかせておく雰囲気」であるそうだ。