期間限定の独り言

復興の道のりはつづく。

曇り時々晴れ

2012-04-30 20:37:44 | 日記
 この頃妙に涙もろくなったというか、何かにつけてすぐに涙が出て来て困る。考えてみれば勤めている二週間の間、週末のたびに泣き暮らしていたという話は書いたが、あれ以来のようである。
 昨日は叔父の家に一族集まって、祖父の十三回忌と祖母の七回忌の法事が行われた。母の実家であるところの叔父の家も、津波で無くなったのであるが、町でも古い方の家柄であった。大した事はないけれど、石造りの蔵があった。三代ほど前の女主人は、町内の寺の山門を寄付した数名の中に名前が残っていた。三十円というところに時代を感じる。
 そのお寺の、八十も近かったのではないかという老和尚も、奥さんと一緒に津波に巻き込まれて亡くなった。お寺は本堂の骨組みだけになり、墓地もすべて砂原になって墓石が散乱した。昨日法事に来てくれたのは、跡継ぎの若和尚さん(すでに若くはないけれど)である。
 叔父一家の仮住まいは、二階建てが四軒に分かれたアパートで、懐かしい昔の家から見れば狭苦しいことはたとえようもない。茶の間の隅の茶だんすの上に、一応位牌や写真や花や供え物を並べて、和尚さんがその前に座って、叔父と父、叔母と従兄弟二人が座るとその部屋はもう一杯で、母と叔母、従姉妹二人と私は隣の部屋にいたのだが、周りは家族の洋服が掛け並べてあってやはりジャングルの中みたいである。
 昔の家だったらあり得ない状況であるが、だいたい祖父と祖母の法事であれば当然お寺で行われたであろう。あまりにも激変した環境で、しかし集まるメンバーは変わらない中で、和尚さんのお経とご詠歌を久しぶりに聞いていたら、何だか昔のお寺や家や町のことを思い出して、涙が出て来て困った。
 和尚さんが唱えていたお経はたぶん法華経の観音経か何かだったのではないかと思うが(念彼観音力とか何とか言っていたから)聞いていただけなのでよくわからない。昔のお寺だったらお経の本があって、一緒にお唱えしたはずなのであるが、昨日は和尚さんも持って来られなかった。多分お寺にもまだ準備されていないのだろう。
 こういう時に暗誦できたら格好いいよなと思う。お経にあまり感動したので、この際仏教大学の通信教育にでも入ろうかしらと思い立ったくらいである。例によって私の必殺技の通信教育であるが、残念ながらこの春の募集は〆切で、次は秋だそうである。この衝動が半年後まで続くとは到底思えない。

晴れ暖かい

2012-04-28 20:59:46 | 日記
 ここ何日かテレビのニュースなんか見ていると、アナウンサーが枕詞のように、明日から連休という方も多いと思いますが、とか、お出かけの準備をしている方も多いんじゃないでしょうか、とか言うけれど、私はだいぶ前から無期限の連休であってどこにもお出かけなんかしない。言うまでもなく個人的なひがみに属するが、世の中そういう風に決まった暮らし方している人だけではないと思う。働いている人だっているだろうし、働き口のない人もいるだろうし、アナウンサーの枕詞に無用のストレスを与えられている人も少なくないのではないかと思う。私自身これも昔はあまり意識しなかったことだ。
 昨日あたりから全国的に急に気温が上昇しているようであるが、当地でも今日は大変暖かくなり、桜はみるみる散り出している。辞職騒ぎで心を痛めて、今年もあまり桜をゆっくり眺める気にもならなかったが、やはり桜は咲き始めがよい。せめてこれからの青葉若葉に癒されたいと思う。
 さて無期限の連休であっても、蟄居していては身体を壊すばかりだから、できるだけ出かけることにする。市の図書館が歩いて十分ほどの所にあるのはいいが、ただ問題はやはり元勤め先の前を通って行かねばならない。今日は土曜日だが授業をやっているので、出来るだけ遠回りして、太い通りを隔てた向かい側を知らん顔をして歩いて行く。
 いま読み出しているのは、例によって岩波新大系の『七十一番職人歌合』というものである。歌合という形態は昔からあったのであるが、室町時代に作られたこの作品の面白い所は、さまざまな職種の、いわゆる職人という人々に因んで読んだ歌を合わせてあるのである。歌そのものもよく出来ているのだけれど、大工とか左官とかいう、職人の絵がまた楽しい。絵と彼らの台詞だけ見ていても相当興味深い。
 この職人歌合の本には、さらにその後にいくつかの狂歌集が付いている。一応私は大学院修士で和歌を研究したということになっているのだが、やったのは新古今集周辺だけである。当然ながら狂歌なんてものは視界外だったのであるが、こういうのは何なんだろうと思う。新古今集歌人たちは定家にしても後鳥羽院にしても、幽玄の和歌ばかり詠んでいたわけではなくて、連歌もやれば狂歌も作っていたらしい。
 今日の文学研究者というのは、当然ながら創作なんかしない人がほとんどであろう。和歌の研究といったって、もちろん自ら歌を詠むなんてことはなく、国歌大観のCD-ROMをひたすら検索して論文を書くわけである。
 こういうのが現代の国文学研究だというなら、それはそうなんだろうなと思うよりないけれども、それで当時の歌人の意識が本当にわかるのかどうか。まあちょっと考えてみれば、私は歌を詠む才能もないし、定家卿に近付こうなんてことは絶対に無理なので、今日の研究はそういう方向には行かない事になっているのであろう。
 しかし考えてみると興味深いというか不思議というか、定家や後鳥羽院のみならず、それ以後の文学は雅俗という枠組みが出来てきて、たとえば三条西実隆なども、源氏も研究すれば狂歌も詠むという幅の広さを持っていた。こういう使い分けというか、棲み分けは、彼らの中では一体どういう意識になっていたんだろうと思うが、一つ言えることは、やはり彼らにとって文学は人生を賭けた高等な〈遊び〉だったのではないかと思う。こんな言い方をすると相当問題はあるが、少なくとも、現代の文学研究で飯を食っているような研究者たちの意識とはかなり違っていたろうと思う。

貧血なのです

2012-04-27 20:29:09 | 日記
 そんなわけで日々暇になり淡々と暮らしているのであるが、体調はかなりよろしくない。下血が毎日のように続いて、今日あたりはかなりだるい。いよいよ貧血になって来たものと見られる。
 まあ去年の夏ほどのことはないとまだ思っているのであるが、私の痔疾は一度ひどくなるとなかなかよくならない。去年の夏は、被災以来およそ半年、食生活がいい加減になったのが原因であった。半年かけて悪くなったものだから、良くなるにも半年かかると言い聞かせて頑張って、大体その通りで劇的に良くなった。
 そう考えるならば、今回も、勤めた二週間でしだいに悪化したのであるから、二週間休めば治るということになる。辞めてから大体二週間になるけれど、今の所はまだ一進一退で、昨日は相当よかったが今日は逆につらい。実際には、辞める時のストレスと、その後の一週間ほどの謹慎生活によって坂を転げ落ちるように悪くなったから、やはりもう少しかかるだろう。
 それで貧血でぐったりして、しかし蟄居ばかりしていては血行が滞るばかりだから、少しずつ図書館などに出歩きながら暮らしているのであるが、今日、辞めた学校から郵便が届いた。
 何事かと思って披いてみたら、健康診断の結果であった。そういえばそんなものも受けていた。見ると驚いたことに「要医療」という項目があって、なんとそれが貧血である。
 あの検診は勤めはじめてすぐ、四月の四日に受けたものだから、当時はまだ下血など当然始まっておらず、自分では何ら問題ない健康体(体力はないけれど)とばかり思っていたのであるが、血はかなり薄かったらしい。
 医療機関を受診して下さいと書いてあるのがかなり不気味ではあるが、いま医者に行ったとしたら、当然貧血の所見は出るに決まっていて、その原因は判り切っていて、では痔疾の病院に行って下さいという事になるに決まっている。よってわざわざ金をかけて医者に行く意味はないと思うわけであるが、それ以前からの貧血の原因は何なんだろうと不思議な気はしなくもない。どこかに癌でもあるのかしらと思ったりもするが、恐らくそんなことはなく、たぶん去年しばらく続いた下血の持ち越しで、血液は完全に回復していなかったのであろう。
 ただしそう考えてみると、やはり今年度からいきなり常勤の仕事は無理だったんだなあと思わざるを得ない。身体が本当でなかったから、精神の方も弱かったのであろう。私の意識ではあの展開は必然だと思っていたが、貧血とかでなかったら、もう少し違った展開がありえたかも知れない。歴史にもしはないのだけれど。

曇り肌寒い

2012-04-22 16:12:00 | 日記
 表題は以前どおり気候の記述に変わったが、内容はまだ今回の一件である。
 以前も書いたように、もともと今度の学校の採用の話は、大学の教授から来たものである。なんでも校長みずから教授室までやって来て、学生を紹介してもらいたいと頼んで来たのだそうである。
 ところがこれには前段があって、実はその一年前、研究室を卒業して同じ国語科の教員として就職していた人がいた。私もそれを知っていたから、去年の暮れ、最初に教授から話があったとき、去年彼が行ったばかりなのにまた採るんですかと不思議に思って訊いたものであった。
 その時教授が明かしてくれたことには、その某君は夏ころすでに辞職の意志を固めていて、今年度いっぱいで辞めることになっている。その理由は、某君は以前から高校の教員としては部活や生徒指導もやってみたいと思っていたのだが、今の仕事は学習指導と進学指導ばかりなので自分には向かない、というのであった。
 私はこの時点から、何だか変だなあとずっと思っていたのである。せっかく常勤という職を得たものが、部活指導や生徒指導をやりたいという理由だけで、たった一年で辞めるものだろうか。何か他に理由があるんではなかろうか。
 何か訳があるとしたら、前任者が一年で辞めた所に、私などが行って勤まるものだろうかと、ずっと漠然とした不安があった。結果から言うとそれが見事に的中してしまったわけであるが、教授も両親も、彼はそれが理由なんだろうと信じ込んでいるようであった。私も自分の根拠のない不安を、ついそんなものかなと見過ごしてしまった。
 某君は私と同期で、しかも同じ社会人で修士に入ったから、それなりに親しくしていた。採用の話が進む前に、私はメールでもいろいろと報告したり、学校の様子を尋ねたりしてみたのだが、彼は最初は、自分が年度末で辞めるということすら伏せていた。これは全く理解しがたいことであるが、一緒に仕事が出来るのを楽しみにしていますみたいなことさえ書いて寄越したことがあった。
 採用が本決まりになってからはさすがに、実は今年度で自分は辞職するのですと白状したが、動機はやはり部活と生徒指導の一点張りであった。
 実態がだんだん見えてきたのが、四月になって仕事を始めてからのことである。まず、同じ国語科の先任に、ところで某先生はどうして辞められたんでしょう、と聞いてみたら、向こうの方が労働条件がいいからじゃないですか、という答であった。某君は今年度は、以前に勤めていた学校にまた講師として戻っているのであるが、自分で次を見つけてしゃあしゃあと辞めて行きましたよ、となんだか刺のある答であった。
 さらに、この先任の授業を参観する機会があったのだが、生徒にも、某先生はこんな学校もう嫌だと言って辞めたので、私が現代文を担当することになりました、みたいなことを言っていた。それは当然冗談の雰囲気ではあるが、冗談は案外真実を反映する。
 そしてついに私じしんが持ち切れなくなって、二週間で急転辞職と相成ったわけであるが、某君にもメールで報告したら、驚いたことには、以前はおくびにも出さなかった学校に対する大変な悪口を書いてよこした。人間性のかけらもないとか、学校の体を成していないとか、それは文脈としては私の辞職を肯定する内容ではあるのだが、それほどに思っているのなら、どうして前もって自分の正直な感じ方を少しでも教えてくれなかったかと恨めしい。
 今回つくづくと思ったのは、世の中の人はみな自分よりかしこいんだなあということであった。某君としては一応の任期の一年は務めて、自分の次の行き先も見つけて、教授にも上手にとりつくろって、次に勤める人間にもよけいな先入観は与えずに去って行ったというわけである。
 そこへ行くと私は八方破れとしか言いようがないが、そういうかしこさは世の中に流す害悪の方が大きいんじゃないかと思う。今回私が正直に自分の心情を話した結果、教授は、これからは研究室としても、相手の学校の内情を知って学生を推薦しなければならない、と言って下さった。みんなが表向きだけ事なかれを装っていると、知らない人が馬鹿を見る。事なかれを装えない人が言う事ではないが。
 実際、今度の件では私は相当な被害を受けた。だいたいこの仕事のために、みなし仮設で家賃がかからなかった部屋を引き払ったのが最大の痛恨である。さらにはC校は一年限りだったから今年度は元々なかったが、A校は何も言わなければたぶん今年度も非常勤があっただろう。要するに、向こうにいれば職も部屋もあったのに、常勤の餌に釣られたばかりに、職も失い、家賃だけがかかる羽目になった。
 そんなわけで今は非常に落ち込んでいるのであるが、今朝ふと思ったのである。これは神様がくれたお休みなのかも知れないと。自分から職場放棄しておいて何を馬鹿なことをと呆れてはいけない。私の正直な感じを言えば、震災に遭って去年一年、ずっと働いてどうにか生活を支えてきた。ここで仕事がなくなったのは、みなし仮設よりは住み心地の良い部屋で、少しゆっくり休みなさいという天の声である。
 人の考え方というのは様々でおもしろいなあと思うが、確かに客観的には、無職無収入が続けば明らかに生活に困る。しかしそんな心配をするより、いわんや某君を恨むより、これは有難い時間なのだと思っていた方が精神的にはずっと健全である。仕事なんか、そのうち何とかなるわよ。

だるいのです

2012-04-21 20:29:44 | 日記
 そんなわけでとつぜん何もやることがなくなり、虚脱している。ちなみに昨日から、私の元勤務先では高一の二泊三日の合宿が始まっていて、私も同行するはずであった。私の役回りは何だったか不明のままであったが(出発一週間前まで何もわからなかったのだ)急に放棄してどうなったかと思う。知るかそんなの。
 今日は謹慎を休んで街に出た。一応しかるべき用事はある。三月に退職したC校で、お餞別を下さった先生が一人いたので、お返しをしなくてはいけないと前々から思っていた。昨日の午後思い立って、近況を記した手紙を書いて、今日、図書カード千円を求めて同封して送る。学校の教育方針と合わなくて云々と書いたが、こんなに早く辞めちまったと聞いて呆れかえる事であろう。
 お礼状を組み立てて送るために、コンビニでパンと切手を買ってから、川内の大学図書館に行った。お昼を食べて歌書でも漁ろうかと思ったが、案外寒くて長居は出来なかった。痔疾のせいでとかくお腹が不安定なせいもある。
 川内の桜はようやく咲きはじめていて、薄曇りの中で枝が光り輝いて見えた。図書館から見ていたら、昼すぎどんどんと学生が流れ込んで来ていた。どうも大規模な新歓の催しがあったようである。花は咲いても私の心は暗い。去年よりはまし、と言いたいが、今年は世の中が普通に戻ったのに私だけが暗い。
 下血が続いてどうもそろそろ貧血に入りつつあるような気がする。この頃は三食ごとに上厠するようなありさまで、今日も川内から歩いて帰る途中、やはり緊急事態となってダイエーのトイレに駆け込んだ。まだ去年の夏ほどの状態ではないが、とにかく早く治まって貰いたい。
 そんなわけでだるいのだが、寒いせいかなんだか風邪気味のような気もする。気持ちが落ちているから免疫も働きが低下しているに違いない。
 免疫と言えばもう一つこれまでに無かったことに、右手の小指がただれていてなかなか治らない。手の甲側の、指の真ん中あたりが赤くガサガサになって、時に痛く時に痒い。どうも不気味であるが、これもやはり白血球のバランスが変わって自己を攻撃しているのではないかと思う。ストレスというのは怖いものだと思う。

謹慎中なのです

2012-04-19 17:36:07 | 日記
 そんなわけで職場放棄して人でなしとなったので、しばらくは部屋で大人しく反省と懺悔の日々を送る。だいたい無職無収入に転落したので、出歩いて余計な金を遣っている場合ではない。
 しかし全くの一人で居るからには、完全に閉じ籠もっていては食うものも無くなる。それに懲役に掛かったのではあるまいし、部屋から一歩も出るなというのも無茶である。刑務所だって運動の時間はあるだろう。
 それでまず午前中、近くのマーケットに恐る恐る買い物に出かける。こうなってみると勤め先まで歩いて十分という部屋に越したのが仇となって、うろうろ出歩いていると生徒や教職員に見つかりそうで怖い。幸いマーケットは学校とは方角が逆なのでまだ助かる。
 もう一つ求めなければならないのが、痔疾の薬である。この二週間の仕事と、さらに辞職に伴うお詫び行脚のストレスで、あっという間に痔疾が悪化して下血が始まっている。早いところ治めないと、また去年の夏みたいに気息奄々になってしまう。
 ところがいま私が居を定めた辺りは、案外買い物には不便な所で、ドラッグストアの類は近くにない。マーケットから帰り道の調剤薬局では買えなかったので、少し離れたストアまで午後から歩いて出かけた。血行を良くするためにも運動は必要である。
 実はさらにもう一つ目論見があって、買い物には関係ない書物を鞄に入れて持って来ている。ドラッグストアからもう少し歩くと、なんとミスドがあるのである。実を言うとこの界隈は、昔の家に住んでいた頃バスでよく往来していた道筋で、あそこにミスドがあるというのは車内からいつも見ていてよく知っていた。しかし途中下車して入る機会はなくて、ずっと気になっていた。
 謹慎中ではあるが、ちょっと息抜きに寄らせていただく。初めて入ってなるほどこうなっていたかと思う。
 夕方になって、学校が退けて自転車で帰って来る生徒がちらほらと現れ出した。やはり出歩くのは午前中のうちにした方がよさそうである。マスクを掛けて気配を消して帰る。もし見つかって声を掛けられた日には、学校ではどういう話になっているかまず訊いてみなくてはいけない。たぶん急病でお辞めになりましたとでも取り繕ったのではないかと思う。であれば、下血が続いてと言っておけばよいかと考える。嘘ではない。

やめました

2012-04-18 10:52:59 | 日記
 かくして二週間で辞表を出して辞めることになった。よく世間で言われる、トンデモ新入社員の行状そのものである。しかし私は思うのだけれど、こういう風に個人を類型に分けて見るやり方ってあまり意味がない。つまり別の類型では、震災で被災して精神的に打撃を受け、仮設に引きこもって酒びたりになっている、哀れである、という見方もあるわけで(私は酒は飲めませんけれど)要するに個人の本当の姿というのは、当たり前のことだが各人それぞれ違う。
 そんなわけで今の私の立場としては、私、新入社員の味方です。という感じである。新入社員諸君が職場に違和感を感じるのは、それはある意味職場にとっては貴重なことであって、内部の人間にはわからないことが、先入観のない目にはよく見えるということはあると思う。異臭のする部屋に初めて入ると鋭敏に感じるが、中にいるうちに慣れてくるようなものである。それが本当に人間にとって有毒な悪臭であるのか、発酵・醸造のようなその場に独特の空気であるのかは別として、臭いという感覚は、本人も周囲も大切にしてもらいたいと思う。
 などと何だか山口瞳か伊集院静のようなことを書いてしまうけれども、私としてはそれどころでなかった。ここニ三日はあちこちにお詫び行脚であった。自ら選んだ道とはいえ相当くたびれた。そうかと言って仕事をそのまま続けるエネルギーももう無いのであるから、進むも地獄退くも地獄である。
 日曜の昼に辞職願を郵送し、月曜の朝に学校に電話をかけて副校長に通告し、そのまま部屋を出て街に逃亡した。ところが私の乗ったバスが、停留所で一時エンストしたにはいささか焦った。本当にこういうこともあるのだ。昔だったら船が嵐に遭ったみたいに、この中に神意に叶わない者がいると言って、占いで生贄にされる所である。
 しかし日常の通勤客を満載したバスはまもなく動き出し、私がドトオルで溜息をついている所に、学校から電話がかかって、一度話に来るようにというお招きを頂いた。このまま行方不明になって捜索願でも出されても困るので、話を付けに行くことにした。
 屠所の羊というのはこういう局面ではないかと思うが、校長室に連れ込まれて、校長と教頭にひたすらあやまって、もう続けられませんということを八方陳弁した。その間に、昨日ポストに入れた辞職願が届いたにはいささか驚いた。なにしろ近いから、八十円なのにほとんど速達のような速さで届く。
 当然のことながら校長は私がそこまで思い詰めていたとは全く知らないから、深呼吸して気持ちを切り替えなさいみたいな事をおっしゃり、二日間時間を上げますと言われたが、私にとってもはや酸素の量の問題ではないのであった。実はこのはるか後、心が本当にぐらついた局面が一回だけあったのだが、もはや手遅れであった。
 それは後で書くとして、今回の就職はもともと大学の教授からの斡旋であったから、教授のところにも挨拶に行かねばならないとは私も思っていた。校長も、これから先生の所に行っといで(この校長はなんとなく姐御調になることがある)と言われたので、またバスに乗って大学に行くことにした。
 教授には既にメールで知らせてあったから、詳しくお話をして、お詫びをした。例の長の話をしたら、教授は全面的に同感してくださって、そんなことは教員としては許されないことだとおもうね、とおっしゃった。そして、そんな学校の内情もよく知らずに紹介して済まなかった、とまで言って下さって、なんだか婚家でいじめられて逃げ帰った娘のような感じだったが、私は非常に感動したのである。
 それが一昨日の話で、うちに帰って夜になるのを待って、長文のメールを事務担当の教頭(この人は温和なキリシタンで人格者である)宛に送った。とにかく自分としてはこの学校で勤めて行く自信を失ったということに尽きる。
 それで夜が明けて昨日になって、とりあえず今日は最後に仮設実家に説明に行こうかとおもった。何しろいちばん最初、土曜日に泣きながら母親に電話をしたのが事の始まりだから、詳しい事情を話しておかなければいけない。
 ところがそこへまた教授から連絡が入って、話し忘れたことがあるからこれから来ないかという。昨日の一件でひそかに感動しているから一も二もなく承知したが、正直に言うといささか迷惑であった。話し足りないといえば当然、やはり辞めずに続けなさいということに決まっている。あるいは、これがいちばん断りにくくて困る展開だとひそかに思っていたのだが、常勤から非常勤に降格するから、授業だけは続けてくれという話でも学校からあったか。
 しかし常に事柄を本質的に考察する教授がおっしゃったのは、今回の件でいちばん迷惑するのは生徒である。自分も教員の一人として、生徒を第一に考えるべきだとおもう。辞めるという意志はそれとして、切りのいい所まで続けてはどうか、というご意見であった。まあこう言っては何であるが、私は当事者だから、他人の考えそうなことは大体考え尽くしている。授業に穴が空き、担当者が変わって、いちばん迷惑するのは生徒に違いない。しかし物は考えようで、まだ新学期になって二週間も経たないうちだからこそ、辞めるなら今がよいのである。続ければ続けるだけ傷は深くなる。
 昨日の夕方、私が帰った後に校長から教授に電話があって、いま抜けられると授業に非常な支障を来すから、せめて一ヶ月でも続けてもらえないかと言われたらしい。きわめて常識的な話で、反発を感じる私の方がつくづく分からず屋だと思うが、今の段階で心身ともに限界だというのに、一ヶ月続けてさらにボロボロになって、それではいさようならとなったら、私は一体どうなるの、ということである。
 結局、私の感情がこじれてしまったんだろうなと思うけれど、とにかく本音と建前、虚飾の多い学校だったなと思う。私を説諭している時に、あなたの代わりは居ないのよ、などと校長は有難い言葉をおっしゃったが、学校を出て歩きだした私の頭には自然と、今ごろ校長は県教委から講師登録者の名簿でも取り寄せているだろう、という想像が来た。それには何の根拠もないが、やはり本音はせめて一ヶ月、である。
 そんなわけで教授には改めて存念を申し述べて、精神的にも変調である、ということまでお話しして、では仕方がないねと諦めていただいた。しかしやはり自分の仕出かしていることは本来許されないことなのだと改めて思った。
――しかしふと思うのだけれど、世の中に「許されないこと」というのは色々あるものである。当然人殺しとか詐欺とか法律に触れることもあるが、たとえば不倫の恋とか、人の感じ方はいったいどうなんだろうと思う。私は今回自分の身に起きてみて、本当はいかんのだけれども、どうしてもこうするよりなかった、という感覚はよくわかったような気がするのである。
 それで教授との再度の談判もぶじ終わって、昨日の午後はようやく仮設実家に行った。うちの親はあまり余計なことは言わない方だから、こういう時は有難い。完全に理解してくれるとは言えない点もあるが、それは他人でない甘えからであろう。
 晩ご飯を頂いてうちに帰って来て、最後の大仕事として、ゴミ袋一枚持って、夜陰に乗じて学校に乗り込んだ。最後に私物を引き上げるためである。土曜のうちに、いちばん貴重だと思われる辞書三冊は持ち帰って、月曜の朝に副校長に通告した時に、あとの私物は全部ゴミにして下さいとは言ってあったが、やはり片付けまで誰かにさせたのでは申し訳ない。
 メールを出した教頭に、昼すぎ大学から電話をして、最終的な確認はしたが、その時何の指示もなかったので、学校に行っていいものやら判断がつかない。たぶん生徒の前には二度と姿を現してほしくないだろうと思う。私も長はじめ先生方には会いたくない。
 それで夜九時前に行ってみたが、驚いたことに生徒がまだちらほらと帰る所で、しかも折悪く、私の授業にいた男子生徒だったようで、校門の所で先生どこ行ってたんですかと声を掛けられて狼狽した。私の方では誰とも判別がつかなかったが、真っ暗な中で、しかもマスクまで掛けて姿をやつしていたのに、よくわかったものである。
 唯一私が辞職を後悔したのは、実はこの時であった。一時間半の校長の話など、怖ろしいばかりで何ら私の心には響かなかったが、この何も知らない生徒の素直な反応はこたえた。二週間ばかりで、ここまで私という存在は浸透していたかと改めて思った。実はひそかに誇らしい思いもあって、例の長の理不尽な暴挙に関係なく、私ってけっこういい先生じゃないかと思う。
 詰め込んで来たゴミ袋の仕分けをしながら、今からでも辞表を撤回しようか、と一瞬だけ思ったのは事実である。しかしもうすべては過ぎ去ってしまったのだ。覆水盆に返らず、ではないけれども、世の中には戻せないことというのがある。今さら無理に戻したとしても、傷んでしまった私の心身では続かないのはわかっている。これは大きな流れの中の、一つの美しい挿話として憶えておくべきものだ。
 かくして世間並みの専任は二週間で夢と消え(しかし本当にこの二週間は悪夢のようだった)さすらいの非常勤は今日も行く。to be continued.

今度こそやめてやるー

2012-04-14 21:29:53 | 日記
 全く駄々っ子のような日記で、辟易している読者も少なくあるまいと思う。そのうちお叱りのコメントが飛んで来そうな気がするが、仕様がないのである勤まらないのだから。
 色々と文句は少なくないのであるが、一つはこの学校、単純に仕事が半端なく多い。授業が週二十一時間なんて普通の県立高校ではまずあり得ないが、加えて会議が三時間、下手をすると県立の二人分くらいはあるのではないかと思う。
 そしてその割に報酬が少ない。常勤講師の辞令を見たら二十二万に少し欠けるほどだった。あまりあからさまに銭金の話はしたくないが、県立で非常勤をやるとだいたい週一コマあたり月給一万円に換算できるから、それとほとんど変わらない。もちろん常勤となるとそれに社会保障その他が加わるが、毎日フルの拘束で、授業以外に加わる仕事を考えれば、明らかに合わない。
 ちなみにこの学校は、大学を通して募集する時に、この報酬も仕事の具体的な量も全く明らかにしなかった。だまされる方も悪いが、だました方も良くないと思う。
 そして、週二十四時間がどのように分布しているかというに、最後の授業が終わるのが午後七時前である。朝は八時頃から始まるから、下手をすると十二時間くらい平気で連日拘束される。
 こんな事をつらつらと書いていると、今日び世間ではそれが当然であるという人もきっと居るであろうが、あえて野暮な正論を言うならば、教員だろうと何だろうと、八時間労働をはみ出す分は残業であるはずだ。サビ残なんて略語は私はこの間始めて目にしたが、これは本来は不当労働行為であって、みんな唯々諾々と従っているから、いつの間にか当然のようになってしまうのである。誰かが声を上げなければ現実は変わらない。それで私は来週から一人ストライキを行って辞めてやろうと思っているんだけどね。
 しかしここで、仕事自体に充実感があればまだ意欲が保つのである。私の場合、教室で生徒に授業をしていれば、それなりに疲れるけれども、九分の六でも何とかなる。しかし今日という今日は切れた。
 学校にはやたらと管理職めいたのが居て、校長副校長の下に進学コースの長というのがいる。これが何だか地獄の獄卒みたいな恐ろしさで、とにかく生徒を震え上がらせて何も考えさせないようにして、その隙間に知識を注入するのがいちばん効率が良いと思っているらしい。前回にもちょっと書いたけれども、雰囲気としてこの学校は陸軍幼年学校にたいへん似ている。いやそんな所入ってみた事はないけれども、要するに、ある観念で人間を染め上げて一つの目的に邁進させる教育である。それはやり方がうまければある程度成果は上がるものであって、生徒のコメントを読んでいると、時々北朝鮮人民みたいな印象がある。それでも今の所この学校の進学コースは上り調子で、昨年度はついに東大理Ⅰに現役で入れたというのが自慢である。ロビーにはボードを立て並べて、麗々しく合格者名簿が張ってある。予備校のような感がある。それでキリスト教教育なんてどこにあるかと思う。イエスがこれを見たら片っ端から引き倒すのではないか。
 それで今日は始めてその長が私の授業に入り込んで来たのだが、彼がじろじろと見回っているうちに、運の悪いことにはその目前に居眠りをしている生徒が一人いた。いつぞやも書いた通り、寝ている生徒を起こさないのは業務命令違反だと言う学校だから、私も日頃からよほど気をつけていたのだけれど、今日はつい気がつかなかったのである。それは確かに落ち度だが、知って放置したのではなく、ちょうどその生徒の意識が飛んだ所に長が入って来たという感じではなかったかと思う。
 私も気がついて、どうするかなと思って見ていたら、いきなり長はそいつの頭を張り、叱りつけて出て行った。私も少し驚いたが、油断大敵ですな、と声をかけてやった。教室の空気は和んだが、それが長には何だか癪にさわったらしい。
 授業が終わって職員室に戻ったら、管理職の席の背後の小部屋に呼び出されて叱られた。はいはいと恐れ入って聞いていたが、うちに帰って晩御飯を食べる頃になってよくよく考えたら腹立たしくなって来た。
 私が考えたのは、つまりこういうことである。古典の授業の間は、教室の中では私がとにかく唯一絶対の存在であるはずだ。たとえ長であっても、その授業中に勝手に生徒に手出しをするのは越権である。寝ている生徒がいるというなら後で指導を承る。その場でならばせめて指示をしていただければ私から起こす。
 それを断りもなくいきなり頭を張るということは、授業者である私を、生徒全員の前で蔑ろにして見せたということである。それで生徒に舐められるなというのは筋が違うであろう。あの場ですぐ生徒に声を掛けたというのはとっさの本能であるが、自分も成長したなと思う。昔ならビビッて何も言えなかったと思うが、つまりああいう時はすぐ自分の手に教室の主導権を取り戻さなくてはいけないのである。
 それを長は何だか自分の指導が茶化され侮辱でもされたかのように感じたようであるが、やはり旧陸軍だよなあと思う。私なんかはマジメも休み休み言えというのがモットーで、いわば海軍の方がまだ性に合う。気風に合わないのだから仕方がないので、そんなに統一的にやりたいんなら長(化学)が古典の授業もやって下さいてなもんである。ちなみに私は高一の化学くらいならまだ出来る。ニ三年はさすがに無理だけれど。
 まあ今日の一件で私は長に目をつけられたに違いなく、この先いって絶対幸せにはなれないであろう。だいたいここ数日は九時間目が続いて身体も相当きていた。胃腸の調子がおかしく、あっという間に痔疾も再発している。唇は割れるし歯茎から血は出るしあかぎれは治らない。これすべて白血球のバランスが崩れて、自己を攻撃しているのである。
 今でこそこうして冷静そうに文章なんか書いているけれど、今日の午後は涙が出て来て仕方がなかった。長にやっつけられたからだけではなく、やはりここ数日精神状態はかなり追い詰められていて、職員室で教科書の評論文を読んでいて、悲しくなって泣けてきたことさえある。
 今日は幸か不幸か自殺を考えるよりも、冷静に辞職願と詫び状を書いて、封筒に入れて封をしてある。明日これに切手を貼って出す。さらに月曜の朝に副校長に電話をかけて通告する。その先どうなるかわからないが、まず行動を起こさないと何も変わらない。
 いきなり私がストライキしたら、授業に穴が空いて困るだろうとは思う。けれどそんなもの、非常勤をニ三人雇えばすぐ埋まる。私の代わりなんか幾らでも居るのである。
 辞めるとして、しかしわざわざみなし仮設を出て引っ越しただけは本当に勿体なかったと思う。せっかく家賃が只だったのに、口惜しくて仕方がない。高すぎる授業料を払ったと思うよりないが、これで無職になっていつまで部屋を維持して行かれるか。忸怩たるものはあるが、また名簿に登録して、どこか県立の非常勤を探すしかないか。

しんでやるー

2012-04-09 20:12:23 | 日記
 何だかまた前回に輪をかけて不穏な表題なのであるが、昨日の日曜日は本当に危なかった。朝起きるから訳もなく悲しくて、一日ほとんど泣いて暮らした。いや本当の話、夕方ベローチェに行っても涙ぐんでいた位だから、かなり変な人である。
 鬱病は月曜が危ないなんてよく言われるが、私の場合はおそらく、一週間疲れ果てて、日曜日ようやくお休みにたどりついて、ふと気がゆるんだのだろうと思う。夕方には自殺念慮もしだいにやわらいで、今日はどうにか出勤して仕事をしてきた。
 まあ死ぬという人に限ってなかなか自殺するものではないというのは俗説ではあるが、しかし実際そういう傾向はあるだろう。私なんか二十年前の大学生の頃は、死というものは毎日のように非常に身近に意識していた。やっとの思いで卒業してからも、つらいことの方が多かった。
 国文学に転向して、ようやくこの人生は生きるに値するという気がしてきていたが、ここまで鬱に落ち込んだのは全く久しぶりである。
 二十年来なんとか生きているのだから大丈夫なんだろうとは思うが、どのくらい危ないものか実際よくわからない。今日は夕方学校を出て、自分の部屋に帰る道を歩きながら、何だか不思議な気がした。一つ間違うといま自分という人間は、こんな所を歩いていなかったのかも知れないのだ。
 昨日はベローチェで、鍵を持って部屋に来てくれるように、母に宛てて携帯メールを書いた。これを月曜の朝に届くように送信予約しておく。学校にも同様に欠勤を届ける。私は晩のうちに処決するに当たっては、風呂場に渡してある鉄棒で縊死するか、包丁で頚動脈を行くか。
 そして炬燵の上に残しておく書き置きの文面まで考えた。かくの如く自分の死を思うと悲しくなって泣けて来るのである。これでは本当はいかんので、単に感傷に甘やかされているだけである。これを冷徹に、ふだんと同じ意識で想定できなければ駄目である。そうなれれば、自死というのは決して悲しむべきことでもないと私は思っている。

やめてやるー

2012-04-06 21:20:43 | 日記
 背景を春らしく変更した割にはずいぶん不穏な題名であるが、新年度始まって数日にして、新生活への希望なんてものは全く消滅している。後はいかにして辞めようかということを考えている。五月病どころでない四月病である。四月馬鹿という言葉もあるが。
 まあ簡単に言ってしまえば、気ままな非常勤生活に慣れ切った私に、今さら束縛の多いフルタイムは無理でした、ということになるのであるが、それにしても、今度のD校はとっ散らかった学校だと思う。
 いろいろ首を傾げる所は多いのであるが、今まで経験したうちでまず一つ根本的な所を言えば、管理職の空虚にして無駄な講話がとにかく多い。東条英機をはじめとして、旧日本軍の軍人は、中隊長に至るまで折にふれて自分の部下に精神訓話を施すのを好んだというが、まさにそれを連想させる教育論である。
 まず四月の二日、一日かけて初任研というのを受けたが、午前は校長から学校の沿革を伺った。これはまあ知識として有効であったと思うが、午後が全くひどかった。教育顧問という肩書きの、正体は県立高校の校長などを務めたらしい、もう八十も近いのではないかというお爺さんが、古今東西の偉人の言葉をいいかげんに切り貼りした資料を元に延々と抽象的なことを喋って、夕方までかかった。
 そういうのはたしかに「いい話」なのではあるけれども、われわれ新任の者としては、他に必要なことがいくらもあると思う。だいたい私はいまだに校内の地理が全くわからない。生徒にも言うのだけれど(何とすでに授業が始まっているのだ)ここ数日の私は、自分の身辺三メートルの世界で生きている。その外側は常に謎だらけである。
 翌日は聖堂に集められ、教職員の始業式だというので、かつて中学・高校と六年間切支丹学校に通った私としては、ひそかな期待をもって参加したのであるが、これがまた宗教的な感動とは全く無縁な会であった。学校法人には理事長というのがいて、これがやはりどこかの大学教授とか、文科省の審議会の役員をやった天下りらしい。式典の時だけ学校に現れるらしいが、この爺さんが理事長講話と題して、また自動筆記みたいな頭も尻尾もない話をえんえんとするのである。これは本人が、いま私は思いつくままに喋っているんですよ、年の功でね自由に流れ出てくる、と堂々と言っていたから間違いない。
 今日は午前中職員会議をやっていた。その冒頭、校長がまた有難いお話を三十分もしたらしい。らしい、というのは私たちはその間、資料の印刷を命じられて半分その場に居なかったからである。午前中の職会の資料を当日の朝に印刷しようなんて学校は聞いたことがない。他の分掌でもずいぶん泡食っていた担当者がいたようだが、そういう大事な指令が直前まで流れて来ないのである。
 それで校長(ハリーポッターに出て来そうな魔法使いのようなマダムである)は、口を開けばホウレンソウが大事、と言うけれど、こういう無駄な訓話のせいで暇を取られて、肝心のことが抜けるのだと思う。だいたい、今日午前中は職員会議が入っていて結局昼過ぎまでかかったが、驚くべき事には、同時に授業も組んである。今はまだ春休みという建前だから課外と言っているが、生徒は全員出席して授業である。途中には私の持ち時間もある。会議が終わりそうにないので、まさか生徒をほったらかす訳に行かないんだろうと思って抜けたが(実際は授業の方がよほどまし)理屈を言えば授業で抜けた教員に、その間の話は伝わらないわけである。後で資料を見るにしても、こういう隠れた連絡不行き届きに大事故の原因はあったりするのである。
 そんなわけで進学実績に命をかけている本校は、始業式もせずにすでに授業をしているのであるが、私に言わせればこれがまた間違いである。年度変わりの今の時期というのは、いろいろ不安定で学校の機構も定まらないから普通は休みになっている。さまよえるオランダ人というオペラは、みんな休む安息日に抜け駆けをして海に出たら難破したという話だったと思うが、世間一般休む時に働いてろくなことはない。
 たとえばこの学校では、まだ名簿も出席簿も出来てないし、正式な時間割も決まっていないし、教室の掲示さえ去年のままで、私は行くたび道に迷う。専任の先生方にしても、こういう状態だから何かと読み抜けがあるのではないかと推量する。
 昨日は当地も低気圧のせいで大風が吹いて、授業は休みと相成った。ところがその緊急連絡がうまくいかなかったとかで、私などは事情をつまびらかにしないが、保護者からだいぶクレームが来たらしい。今朝になってまた校長が、校長の名前で詫び状を出すと言う事は、学校の信頼に関わりますからね、いつも言うようにホウレンソウをしっかり(以下略)と訓示していたが、私に言わせればこの時期に授業を強行するのがいちばんの間違いである。
 そしてさらにこの校長の何だかなあと思う点は、やたらに命令という言葉を振り回す所である。出勤簿に朝一番で押印しないのも、授業中寝ている生徒を起こさないのも業務命令違反なんだそうである。大阪の「教育改革」は全く人ごとでない。
 かくして私は一週間でもう嫌になりかけているのであるが、そんな中で唯一、教室に行って生徒たちに接する時間だけが今のところは救いである。学校そのものは違和感だらけだが、生徒には向学心があるので授業は悪くない。この生徒たちのためには頑張ろうという気持ちにもなるが、それもいずれはお前のやり方では駄目だという横槍がどこかから入るかも知れない。
 だいたい現実的にとんでもないと思うのだが、私の持ち時間は週二十一時間もある。他の教員と比べても一番多い部類になる。担任も分掌も責任ある地位はないからと言って、何も判らない新任にここまで持たせるかと思う。
 だから本当に阿鼻叫喚になるのは本式に動き出す来週後半以降であろうと思うが、すでに私の体調には微細な異変が起こりつつある。まず指のあかぎれがまたひどくなってきた。傷の治りがよくない。これは末梢の血流がストレスのため阻害されている証拠である。今日は夕方部屋に帰って来て、朝に仕掛けて出たご飯が炊けているのを見たら訳もなく涙ぐまれた。精神的にも微妙に危いのではないかと思う。