期間限定の独り言

復興の道のりはつづく。

ようやく春らしくなった

2010-04-30 20:31:41 | 日記
 天気はまだ陰晴定まらないところもあったが、今日はようやく春らしさを感じられた感がある。街のケヤキ並木も昨日今日で芽吹いてきて、枝が柔らかくふわふわとした感じになってきた。早い年には二月ころすでにこうなっていたこともあったのに、今年はよくよく春が遅かったのだと思う。連休中は急に暖かくなるという予想だから、どんどん葉が広がることであろう。
 今日は旧学校の出勤日であったが、とつぜんのように新しい仕事が舞い込んでどうなることかと思った。朝、職員室の黒板を見たら、年間授業計画提出〆切、と書いてある。本当は教務か教科から連絡が来るべきところであるが、何も聞いていない。見なかったことにしようかと思ったが、一応去年もやった仕事なので、知って放置するのはよくなかろうと思う。
 それにしても、年間の行事予定と授業数を記したプリントが、今年は手元に来ていない。元来これがないと授業時数を正確に数えられないが、幸い共通フォルダの中を適当に探したら見つかった。
 これに授業計画の雛形がしまってあるところも書いてある。あとは去年もやった国語表現Ⅰについては、去年の計画と実績をにらみ合わせて数字を適当に変え、今年度久しぶりにやる古典講読は、幸い教科書も学校に置いてあったので、適当に単元を抜き出して予定表を作り、教科主任の机に置いてきた。
 これでようやく明日から私も休みであるが、そんな無条件に休んでいるわけには行かない。休み明けからの教材作りもしなくてはならないし、そろそろ修論も書き始めたい。まあ基本的には休みであるが、休みながら仕事というところである。

終日雨

2010-04-28 21:23:57 | 日記
 風雨の強い一日であった。何も用事が無ければ出歩くような気候ではないが、仕事とあればやむを得ず、今日も一応つつがなく過ごしてきた。気がつけば一時の衰運もどうやら復調したかの印象があり、それは要するに新しい職場での日常に慣れてきたということなのであろう。
 三時間の授業を終えて、さてそろそろ帰ろうかなと思っていたら、教頭が珈琲片手に隣の空いた机にやってきて、しばし差しで会談してしまった。
 管理職も各学校でさまざまで、この四月から新しく勤め始めた学校の教頭先生は非常にまめなタイプであるらしい。非常勤講師にも気を配り、それぞれ身の立つように考えて下さると見えて、採用の時にも、教採を受けるつもりがあるのかどうか、もし受けるなら面接の練習もしてあげよう云々というお話があった。
 採用試験の要項が出回るのが例年五月の連休ころだから、今年もそろそろそういう季節が来たということである。今まで勤めてきた学校はどうなの、といったような雑談に混じって、教採はどうするか、というお話もあった。
 今の私の気持ちを正直に言えば、新しい学校にひと月つとめてみて、自分が専任の教員として、さて学校の中でどんなことが出来るだろうか、と改めて考えてみなくてはならないと思うようになった。自分は特に指導力があるというわけでもなく、部活の指導が出来るというわけでもない。男性教員に期待される役割の一つとして、反抗的な生徒に睨みを利かせて統制するような生徒指導があると思うが、それも全く向かない。
 それで採用試験で有利になるような人脈もないとなると、いくら受けても通らないというのは当然であろう。この歳になっては、望むこととては最低限、非常勤の仕事が途切れずに入ることくらいである。教採を受けるとすれば講師登録の際に有利になるかもしれないというくらいの意味であって、通る望みはあまり持ちようもない。
 それにしても、講師というのはだいたいが、専任を退職したベテランか、教採挑戦中ならば大学を出て数年、二十代の若手である。そのいずれかならば周囲も接しやすいのだが、私のような老書生で非常勤では、だんだん周りからも浮いてきたなあと思う。普通に専任に採用されていればもう十年研を受けるような歳なのである。いつもながら私の生きる道はもうどこにもないような気がしてくるが、言っても詮ないことである。

曇りのち雨

2010-04-27 22:02:06 | 日記
 編集画面をベータバージョンに変えてみたが、私は元来画像もそれほど使わないし、使い勝手と言ってもあまり変わらないような気がする。入力する箱が大きくなったのは確かだが、だいたい私の機械そのものが画面が小さいのだから関係ない。
 さて連休を前にして今週も私は毎日働かねばならない。ここ三年ほどはずっと、週三日八コマという状況で、傍ら大学院なるものに入りはしたものの、まあ気楽きわまる生活を送っていたものが、とつぜん週五日、十二コマとなってみるとさすがに疲れる。専任の教員のことを考えれば罰が当たるというものであるが、これが後期にはさらに十六コマになってしまう筈で、一体どうなるんだろうと不安になる。
 ところで、新しい学校の授業では、伊勢物語第六段、いわゆる芥川の話をやっているのだが、今日は帰りにあゆみ書店に寄って、参考資料として立石和弘『男が女を盗む話』(中公新書)を求めてきた。以前もちょっと中身を見て、これは読まなくてはと思っていたのだが、今日ふとまた目に留めて、やはり読まなくてはと思い、ほとんど衝動的に買ったのである。
 バスで読みながら来て、まだ読了はしていないが、あまり感心しない書物であると思った。いちがいに無駄だったとは言えない。いろいろと知識として教えられる点はあるし、加えて、古典はこんな風に読んではいけないという反面教師の面がある。
 この本は一昨年に出て、著者は、巻末の紹介によると昭和四十三年生まれというから、今年四十二歳ということになる。大学院に入って以来、なんとなく感じていることとして、最近の国文学研究は面白くない。昔に比べれば、機械が進歩したし、新しく発見された文献もあったりして、そういう点は進んだのかもしれないが、文学への向かい方としてどこか違うんじゃないかと思わせられることがある。
 この本で言えば、芥川をはじめ、「男が女を盗む」型の話は物語の中にいろいろあるわけだけれども、これをこの著者は、簡単に言うと、男の側の幻想であり身勝手であるととらえる。略奪され拉致される女の内面は置き去りにされているという。
 著者はそんな単純なことを言ったつもりはないと言うかも知れないが、私には納得できない気分が濃い。女性の主体性がどうとか、支配と抑圧の装置だとか、そういう近代的な言葉を、古代の物語に押しつけていいものだろうかと思う。女性の主体性などと言っても、古代において今日と同じような意識が確立していたかどうか。
 一般に若い研究者によくありがちな傾向として、自分の新説を立てるのにばかり性急で、古典を現代の視点から裁断してしまう。とにかく批判的なことを言えばよいという所があって、古典を本当に昔の人の気持ちになって読んでいるだろうかと思う。いつの時代でもそうだが、伊勢物語の男女は決して個人だけで生きていたのではないはずで、当時の社会通念その他を考慮せずに、フェミニズムまがいの現代思想を持ち込んだところで古典からさて何が得られるか。

にわか雨猛威を振るう

2010-04-24 17:03:49 | 日記
 当然のことながら更新をしないと訪問者が減る。見たら昨日などIPが七である。逆に何か書けば、今の所IPがおよそ六十~七十、PVが百四十前後になる。まあ実際の閲覧者とは微妙に違うであろうくらい、ネットの仕組みに疎い私でも知っているつもりだが、それでもこんな極私的な日記を見てくれている人がいるのだなと思う。有難いことです。
 さて今日は、土曜日であるにも関わらず朝っぱらから出勤であった。午後からPTA総会があり、二時間だけ授業をやるということで、その一時間目に割り当ってしまったのである。非常勤だから断ることも可能なようであるが、特に用事もないことだし、他の先生に負担になると思うと断りにくいものである。
 しかし今日の代休は三十日の金曜だというのだが、私の場合、その日は旧学校の授業が普段どおりあって何ら恩恵にあずかれない。たいていの学校では今日でないにしてもどこかで授業参観を入れて、三十日を休みにして連休を作るらしいが、旧学校はそんな配慮を一切しない。わざわざ休みにしなくても、休みたい生徒は勝手に休むから放って置けばいいということではないかと思われる。そのくらい普段から欠席が多い学校で、毎時間平気で十人くらい来ない。この四月から新学校に勤め始めて、生徒ってのは毎日来るもんなんだなあと感心する。
 そんなわけで今日は一時間だけ授業をして、すぐ帰る。すぐに出て電車に乗らないと次は一時間近く待たされる。後は父兄も来るし生徒は放課になるし、ぼやぼやしていると混雑に巻き込まれてしまう。
 時間はたっぷりあるから、予定では、長町駅で降りて百円セール中のミスドで一服して、ひさしぶりに古本屋萬葉堂へ行ってみよう、と思っていたのだが、この目論見はことごとく外れた。
 まずミスドもドトオルもベローチェも大混雑で、食糧補給が全くできない。これはこの二十一日から長町一丁目でサアカスが開かれているからである。知らないわけではなかったが不覚であった。とうぶん長町には来るべきではない。
 やむを得ず仙台に逃れる。幸いにして行きつけのミスドに席があったので一休みできた。持参の源氏物語を少し読んで、この際だから本町の同じく古本屋である「火星の庭」に足を伸ばしてみようかなと思って外に出たらすさまじい雨が降っている。
 今日は天気予報でもこんなに雨が降るなんて聞いた覚えはない。一時は叩きつけるような雨で、とても外を歩くどころでない。地下道にもぐり込んでイービーンズのジュンク堂に入る。
 昼すぎて外に出るとさんさんと日が降っている。ドーナツ二個ではエネルギーが切れてきたので、改めて南町のドトオルに入ってパンと紅茶を取り、『新々百人一首』読む。もうどこへ行く元気もないのでそのまま帰った。結局、本を読みながら街をうろうろしたという感じの一日であった。

晴れやや風強し

2010-04-21 17:35:50 | 日記
 学校の近くの桜はまさに今が満開で、朝行くときにこの風で散ってしまうかと思ったが、どうやら今日一日は保ったようである。おそらく明日以降雨が降るようだからいよいよ終わりであろう。
 今日の行き先は新しい学校で、水曜は間に昼休みをはさんで、三、四、五時間目と連続して授業がある。おそらく一週間の中でもいちばんハードな時間割で、とは言っても専任の先生に比べれば楽なものである。専任の先生ともなると六分の五とか、甚だしい場合は六分の六なんて状況がありうる。
 まあそれでも三つも続けざまに授業をやると嫌になるので、教材もできていることだし早々に立ち帰り、イオンモールに寄る。
 一応用事としては、金曜日に旧い学校で配るファイルを購入することがある。例年、私が国語表現Ⅰを受け持った生徒には、プリントを綴じ込むファイルを配る。一冊六十円ほどのフラットファイルだからささやかなものだが、自腹である。専任ならばいろいろ申請して認められれば、公費で買うように手配もできるのであろうが、非常勤にはそんな望みはない。黙って買ったほうが早いし、生徒も悪い気はしないようである。
 これを今週の火曜日に配ろうと思って、朝に地元の文具店に立ち寄ったら、残念ながら人数分に少し足りなかった。後で考えれば、色違いなら問題なく数が揃ったので、それでもよかったのだが、同色ではできないと言うので、後で買い足すことにした。
 明日は雨なので、今日のうちに揃えた方がよいかと思ったのだが、目的を達せなかった。イオンモール三階の文具コーナーに行ってみたら、ファイルの棚ががら空きで、ものが全くない。新年度でよく売れたのであろうが、在庫を補充してないのは非常に遺憾である。
 仕方がないのでドトオルの珈琲を飲んで帰る。カフェの珈琲を飲むのはなんだか久しぶりな気がする。命の洗濯という感じである。やはり職員室の机とか、生協の飲食コーナーとはちがう気分がある。
 もう一つ、書き忘れるところであったが、未来屋書店で丸谷才一『新々百人一首・下』(新潮文庫)を求める用事もあるのだった。このあいだ同じ店で上巻は買ってある。まだ読み終えていないが、ぼやぼやしていると絶版になりそうな気がなんとなくしてきたので、早いうちに求めておこうと思う。
 行ってみれば案の定というか、上巻は無いままで、当然のように下巻は売れ残っていた。この本は今でも店頭に置いてある本屋はなかなかない。そのうち絶版になるのではないかと心配であるが、これは古典文学はもちろん、国文学を専攻する学生には必読書ではないかと思う。

晴れのち曇り

2010-04-20 21:08:27 | 日記
 今日はよく働いた。
 例の、新年度から席が消滅した学校へ行ってみたら、明け渡しが少しずつ進んでいて、机上の雑物はだいぶ取り除けられて、ノートパソコンが置けるだけの広さは確保されていた。引き出しも、すべてとは行かないが、天板の下と、袖の一番上の箱は空になっていた。
 一度撤去したものをすべて戻すほどの余裕はないが、どうやら文房具くらいは収納できる。しかし机上にはまだ雑物が多くて、回収したプリントを添削して判子を押して記帳するという作業はとてもできないので、別室の机に移動するしかないが、まあやむを得ない。引き出しともどもさらなる整理を期待したいが、希望は持たないことにしたい。
 今日はそれより、調子の悪い印刷機と戦って切れかけた。今朝は途中の文房具店に寄って、授業で生徒に配るファイルを買うという用事もあるので、早めに出てきたのだが、授業の前にプリントを印刷しようとしたら、いちばん調子のいい機械がインク切れになっている。
 仕方がないので二番手の機械を使ってみたら、これがいつにも増して出来が悪い。端的に言うと、一枚ずつ印刷が出来ず、いちどに何十枚も紙を送っては止まるのである。しかもこれが頻繁に起こる。裏表印刷をしていたら、最後には一枚ずつ刷っては戻すようなありさまで、これでは木版画とあまり手間が変わらない。
 印刷室で一人で大汗流して、ぶつぶつ文句を言いながら、全くひどい目に遭った。これしきのことでパニックになるとは我ながら情けない。実際はそんなに時間が押していたわけでもなく、まあ珈琲を一服する暇がない程度だったのである。
 かくの如く、やはり生活面では何かと衰運で、思いがけない蹉跌が起こる。授業はどこの学校でも無難に済んでいるからまだいいが。
 二時間授業を終えてから、今週金曜日の分の教材を準備したら、すっかり夕方になってしまって、大学へも行かずカフェにも寄らずそのまま帰った。つまらないけれども仕様がない。

晴れ

2010-04-19 17:01:33 | 日記
 月曜日は仕事が早く上がるのでこうして日記を書くことができる。有難いことである。
 教室での授業はどうやら順調だから、このうえ文句を言っては罰が当たるというものであるが、他の面ではどうも運気が下がっているような気がする。今日など、それではお先しますと言って学校を出て、駅まで歩いて来て、桜があまり綺麗だから写真でも撮ってみようかと思って、あれそういえば携帯どうしたっけなと考えてみたら、自分の机の引き出しに入れたまま忘れて来たのだった。
 電話もメールもめったに来ないし、一日くらいまあいいかなと一瞬思ったが、明日はこの学校には来ない。さすがに明後日まで放置しておくのは心許ないので、戻ることにした。職員室に入って、恥ずかしながら帰って参りましたと言ったら、誰も判ってくれなかった。携帯忘れたんじゃしょうがないですよねと同感されたからまあいいのだけれど。
 しかし花見客で大変な混雑である。桜百景なんてものがあるのかないのか知らないが、なにしろバスツアーに組まれるくらいの名所で、今日あたりは天気もよくて満開と来ると、蟻の甘きに集うがごときという活況を呈している。
 実は私は四年前まで、同じ駅を利用して、別の学校に務めたことがあったのだが、何だか年々観光客は増えているような気がする。地元のお祭りの関係者は結構な事だと思っているかもしれないが、日常生活で利用している人間にとってはひそかに迷惑である。自分は仕事なのにこの遊民どもがという、いわれのない嫉妬も混じっていそうである。
 そういう気分を含めて言うのだが、今の日本、つくづく小金のある暇人が多いのだなあと思わざるを得ない。その多くは仕事も引退したような老人や中老人であるが、元気で暇そうなこういう人種が遊び歩いているのを見るにつけ、ワーキングプアとか、子育てに苦労している若年層とは一体どこの話だろうと思う。
 私は一部の政治家が言うように、消費税を上げるべきだなどという議論には一概に賛成できないが、それにしても社会資源の偏在ということは絶対あると思うのである。
 私の両親は復帰前後の沖縄で暮らし、私はそこで生まれたのであるが、観光客などほとんどいなかったと言う。日本中どこでも、観光などという享楽に憂き身をやつしている人間は少なかった。みな淡々と働いていたのである。
 それでも社会が健全に成長しているのであれば別にいうこともないが、今のこの国は、国家予算の三分の二ほどが借金で、それにもかかわらず国民の不平を憚って税金を上げることもできず、次世代を担う子供は増えない一方で、桜が咲いたといっては老人たちが浮かれ歩く。明らかに滅びの道である。
 そんなわけで、私は桜は綺麗だと思うが、観光客が集まる名所は嫌いである。兼好法師の言うように、桜はあくまで自然に眺めるのがいい。

寒かった

2010-04-18 11:18:08 | 日記
 昨日あたりまでえらく寒かった。真冬と同じである。日本中の人がたぶん同じ事を書いていたんじゃないかと思うけれども、当地でも雪が降って白くなった。
 新年度が始まって一週間して、予想されていたように日記など書く暇もなく時間が流れて行く。勤めに出ていると日々思いがけないことも起こるが、大体は書く気にもならないことばかりである。
 今ひとつ思い浮かぶことを書いてみる。机の話である。司馬遼太郎が随筆か何かで、個人の持つ権力を机にたとえて、ある時期の東条英機は首相の机と陸相の机と参謀総長の机をかき集めて独裁権力を確立した云々という事を書いていたが、確かに机にはそういう象徴的機能があると思う。
 非常勤というものは、どこでもいろいろ割を食うことが多いが、専用の机がなかなか確保されないというのもその一つである。四年目に入った元の学校では、昨年度まで有難いことに、職員室とは別の部屋に専用の机が与えられていた。ところが年度末に席替えになって、私の机には別の先生が来ることになった。
 非常勤は年度末早めに仕事が終わるから、席替えが発表になる前に、私はいつも私物を撤去して机を明け渡すことにしている。荷物を持ち帰るのは面倒だから、袋に詰めて部屋の隅に置かせてもらうが、三月末には綺麗に明け渡すのである。
 それで今年度は、もと私の机には新しい先生が来てスムースに仕事を始めているのだが、私の席はいまだに決まっていない。本当はその隣の机が割り当てられることになったのだが、そこはまた別の先生(職員室に専用の机を持っている)の雑物が置き重ねられていて、これをなかなか撤去してくれない。
 総務部の担当の先生が、四月初めにいちど交渉してくれて、じゃあ仕方がないですねと明け渡しに同意してくれたというのだが、一昨日出勤してみたら、未だに履行がない。とりあえず別室の空いている机で仕事をした。
 その居座っている荷物の主は、一昨日は午後から出てきたのだが、別室に居た私のところに来て、何事もなかったように、あっち使っていいですよ、なぞと言われたが、現実にはとても仕事のできるような空間ではないのである。
 その場では私も、今日は生徒に配る教科書を持って来るのに広い場所がほしかったので、と答えたが、後で考えると本当になめてるよなあと腹が立ってきた。
 いろいろと考えてみたけれども、一つには、私は週二日しか来ないから、誰かと共用でよく、専用の机は無駄であるということは言えるのである。あの先生としては、暗黙のうちに明け渡す必要はないはずだと主張しているのかもしれない。
 あるいは、自分の権利は主張しないといけないということを私に教えるつもりかという気もする、というのは、これまで私にはいろいろ親切に便宜を取り計らってくれた先生だからである。ああいうことをする人だとは思わなかった、という裏切られた感がある。
 いずれにしても、決まった机がないというのは悲惨である。だいたい年度初めに発表された職員席の一覧には、私の名前がどこにもない。非常勤でも他の先生方はみな書いてあるのに、私のだけない。私の居場所は一体どうなるのであろうか。

暴風

2010-04-14 21:44:55 | 日記
 昨夜はひどい風でよく眠れなかった。また不安感やら低血糖やらで倒れるかと思ったが、うとうとしているうちに朝が来て、特に何事もなく昼間の世界に離陸も成功した。
 しかし依然として西風がむやみと強い。新しい学校へ行く線路はこの風の影響をきわめて受けやすいのがかねて心配であったが、新年度早々に列車が遅れるとは思わなかった。
 私自身、今日は三時間目からの授業だからあまり心配は無かったが、学校に着いてみると、始業は三十分遅れ、各時間五分ずつ短縮の四十五分授業という特別時間割になっていた。
 今日で担当の四クラスはすべて回った事になる。三時間やってどこもどうやら無難に終わった。こうしてみると私のやり方で別に問題なくみんな対応してくれるので、やはり一昨日のクラスが変なのだ。というより、あのクラスの二人の女生徒が変なのである。
 明日はそのクラスの二回目の授業であるが、担任が心配して最初見に来てくれるそうである。たいへん有難いことではあるが、いささか迷惑でないこともない。済みませんと唱えつつ、どうして私が謝らないといかんのかと釈然としないのも確かである。

陰晴・寒暑定まらず

2010-04-13 20:21:19 | 日記
 昨日あたりから冬と春と夏が同居しているのではないかと思う。二つの季節が同居する状態は普通に無くもないが、三つは異常である。今日など、朝出かける時は霧雨が飛んで薄ら寒かったが、午後には日が差して蒸し暑くなった。
――天、何をか言うや、四時行われ、百物生ず。
なんてな言葉がどこにかあったと思うが、四季の巡りというものは天の意志であって、これが順調でない、ということは、人の社会においても何かが狂っていることの反映であると考えるのが、東アジアの世界観であったと言っていい。
 人の一生にも四季があると吉田松陰は言ったそうである。どんな短い一生でも、春夏秋冬がある。今年のNHK大河ドラマ龍馬伝は四月から第二部に入ったが、これを第二シーズンとかいう言い方をしているのは、そういう由来もあるのか知らんと憶測したりする。
 そういう観点から今の世相を見るに、やはり四季が狂ってるよなあと思うのである。この稿はあくまで個人的な日常を書く欄で、政治的な話は埒外にしておきたいが、例の変な名前の新党のことである。表に出ている政治家は七十歳前後で、黒幕とされる元首相と新聞人は九十近い。年寄りばかりだという陰口が絶えない所以で、これに対して応援団だという都知事は記者会見で、我々ほど国を憂えている若い連中がいるのかなどと逆上していたようであるが、あれはやはり自然の摂理から見ると変なのである。しかし本人に変だという自覚がないからどうしようもない。
 よその自治体のことだからどうでもいいけれども、しかしあの知事は、銀行を作ったのもオリンピックを誘致したのも失敗したというのに、ろくに責任も取らずに新党などに関わって、それでいいんだろうかと私など不思議でならない。
 生き物として老いてくるはずの個体がいつまでも枯れない、というのは異常であるが、この国では一方で、人生の春であるはずの子供たちが疲れていたり、夏であるはずの若者たちが萎えていたりする。これでは気候も狂うはずだと思う。人みな自然に従うべく努めるのがよろしく、あの人らは立ち上がれなどと人に言う前に、年相応に大人しく引き込むのが務めではないのか。
 しかしかくいう私なども、まさに人生の真夏であるべき年頃でありながら、学を修めるという点ではいまだ春にとどまり、精神状態としては薄暗い秋から冬にたそがれ、働いて子供を育てるなどという夏の営みはどこにもない。全く自然に反しているということは自覚せざるを得ない。今日などまた年金の取立て状が来たが、今年も学生特例で逃れようと思う。金が無いんだから仕様がないじゃないかという所である。