逝きし世の面影

政治、経済、社会、宗教などを脈絡無く語る

雪の三之公かくし平「義尊王墓」散策

2021年12月20日 | 文化・歴史

写真は秋の後南朝方の尊義王(小倉宮の皇子)の墓所だと言い伝えられている三の公川「かくし平」にある奈良県川上村村営遺跡

三之公御所跡及び廟所

川上村の最南端のこの遺跡は、通称「かくし平・八幡平」と呼んでいます。昭和53年(1978年)川上村文化財第1号として認定された、後南朝の歴史を伝える文化財です。
その昔、南北朝合一後、約束が果たされず不信を抱いていた元南朝方の皇族の一人尊義王(小倉宮の皇子)は、南朝の復興を願って皇位 継承のしるし三種の神器の神璽(しんじ/まがたま)を奪い、川上村の「三之公」に隠れ住み朝廷を立てました。その後追手を嫌い、さらに奥の「かくし平」に移住しましたがそこで亡くなられます。
「八幡平」(三之公の在所の川向かい)は、最初に尊義王が京都から逃げて朝廷を立てた行宮跡、追手を気にしてさらに入った奥が「かくし平」です。かくし平「廟所(ぴょうしょ)」は尊義王の墓所、かくし平のもう一つの遺跡は、尊義王が奥へ逃げて朝廷を立てた「行宮跡」と言い伝えられ、明治の頃に稗が建てられました。これらの遁跡は川上村所有ですが、山林の所有者は民間の方です。山道ですので、歩きやすいように村の手によって整備されています。
6月~8月の天気の良い日は、谷川の石の苔や清水が木漏れ日に映えてとてもさわやかな美しさに出会います(ヤマヒルに注意)。三之公から徒歩約2時間、途中に「明神滝」があります。適度なハイキングコースです。明神滝付近には、「水源地の森」として村が購入した原生林もあり、三重県との県境に近い所です。なお、「尊義王・自天王・忠義王の3人の公家が住まいした地という意味で三之公と呼ぶ。」との伝承があり、こんなところにも後南朝のいぶきが感じられる川上奥の歴史ロマンです。

奈良県川上村(教育委員会)ホームページから

三の公かくし平「行宮跡」の全景

   

奈良県川上村が1978年(昭和53年)文化財第一号に指定して三の公かくし平に建てた標柱

三之公川トガサワラ原始林

生きた化石とも呼ばれる貴重な種の原始林

トガサワラは、第三期から第四期前半の比較的温暖な時代に、北半球に多く繁栄したマツ科の針葉樹の一種で、現在は紀伊半島と四国南部のごく一部に見られる日本固有種です。「材がサワラに似たトガ(ツガ)」ということからこの名になったようです。トガサワラ属は、現生種では北アメリカと東アジアの4種が知られているのみで、「生きた化石」と言われます。「三之公川トガサワラ原始林」は、国の天然記念物に指定されています。
 
松科の常緑樹の一つで、「サワラトガ」という別 名があります。葉が「トガ」に似て、材の外見が「サワラ」に似ているところからついた名前のようです。幹の長さ約30m、太さ約1mに達する大樹もあるといわれます。国内で大峰山付近と四国の一部に自生していますが、限られた範囲にしかない樹木です。
トガサワラ材は、これまで船舶、土木、鉄道の枕木、板、柱などに用いられてきましたが、水分が多く良材ではありません。葉の長さが3cm内外、ツガの葉より白味をおぴてやわらかな針葉樹です。川上村では、入之波より以南の三之公周辺や大峰山に近い周辺に点在しています。大木もあれば小苗程度のものなどありますが、三之公コクワ谷に原始林を構成しているということで指定されてきました。道から見える範囲が全てトガサワラではなく、トガ林の中に混じっています。
指定されたのは昭和4年で、大迫ダム→入之波経由→筏場字ニの股を左折れして橋を渡って奥へ→奥山方面 と三之公方面の別れ辻→右へ転じて谷川の橋を渡って進む→林道脇と川の間に説明板があります。その対岸の山一帯が指定林です。三之公の在所へ行く途中にあたりますが、正式名は「三之公川トガサワラ原始林」と言います。
奈良県川上村ホームページから
 
良く手入れされた人工林のなかにある川上村が立てた「かくし平入り口」の案内看板の標柱は湿気が高く直ぐに腐ってしまうが、今回見に行ったら完全に腐って雪の中に倒れていた (^_^;)
 
今年最初の最大級大寒波襲来中「かくし平」を見に行く
 
大寒波で豪雪が北海道や東北北陸などで報道されている中、紀伊半島の大台ヶ原山系北東側の北俣川三之公林道奥の川上村文化財第一号の後南朝の遺跡と国の天然記念物トガサワラ原生林を見にいくことにするが予想外に手こずった。
三之公林道は舗装されているが落ち葉や落石が多数落ちている。林道終点(標高470メートル)には公衆トイレや休憩所があり駐車場は10台程度は駐車できる広さがある。ところが「かくし平」への山道は「遊歩道」とは名ばかりの朽ちた木道が続き良く滑る。林道には雪がなく気温1度だが「隠し平」行宮跡へは片道2時間の登りで数センチ薄く積雪、もちろん気温は氷点下で風も強く寒さがに身に染みる。
かくし平「三之公」行宮跡(後南朝最後の天皇後亀山天皇の孫にあたる尊義王)の標高は800メートル、最高峰は馬ノ鞍峰1,178mなのですから目の前である。稜線までなら30分、そこから痩せ尾根を1時間程度で頂上に辿り付ける距離だが凍っていて歩き難い。頂上は名前の通りの「馬の鞍」のように尖った尖峰で浸食によって3等三角点の標柱がむき出しになり今にも倒れそうな危険な状態である。
今回の雪の中の後南朝かくし平「尊義王」行宮跡見物と馬の鞍峰登頂の帰り道の凍った遊歩道で足を滑らせて思いっきり尻もちをついた。この時に手をついた拍子に掌を切ってしまうが寒さのために神経が麻痺しているのか、まったく気が付かない。車にたどり着いた後でやっと出血していることに気が付く有り様。
 
260万年前、過酷な氷河期の4回の氷期を生き延びた「生きた化石」(天然記念物)三之公川トガサワラ原始林
 
生きた化石のマツ科の針葉樹トガサワラは水分が多く良材では無いので杉やヒノキのように材木として植林されない。このため馬の鞍のような痩せ尾根に生えていれば必ず天然の原生林である。三之公のトガサワラ原始林は100年近く前の1929年(昭和4年)日本の天然記念物に指定されている。
しかし何と言っても一番不思議なのは奈良県川上村は銘木の吉野杉の産地であり天然記念物トガサワラ原始林のある三之公の「かくし平」行宮跡に至る遊歩道や後南朝の尊義王墓周辺は手入れの行き届いた人工林の植林地帯なのである。(★注、現在の日本の林業は安い外材の輸入によって産業として成り立たないので山林が放置され荒れるに任されている悲惨な有様)林業が盛んな川上村三之公周辺に材木として使い道の少ないトガサワラ原始林が伐採も植林もされず生き残ったのは謎である。
古くからの後南朝尊義王の言い伝えと同じで、国の天然記念物指定の前からトガサワラ原始林が地元民によって大切に守られていた可能性が高いのである。(★注、1905年(明治38年)ニホンオオカミの最後の一頭が見つかった東吉野村鷲家口は川上村に近い)
 
 
(トガサワラや杉やヒノキなど)温帯性針葉樹は、古い時代(氷河期以前で今より温暖だった第三紀から第四紀前半)に栄えた樹木だが、その後、新参者で強い競争力を持った落葉広葉樹や常緑広葉樹が植生域を広げ、現在は、落葉広葉樹林帯と常緑広葉樹林帯の移行帯を中心に尾根筋や稜線部で肩身の狭い自生を強いられている。この仲間は、ヨーロッパでも日本でも化石としても発見されており、文字通り「生きた化石」と言われる所以である。(★注、地球の氷河期到来以前の「生きた化石」なのはトガサワラだけではなく、植林された杉やヒノキも同じ弱点があるので人工的に密植するとその後の頻繁な人の世話が是非とも必要だった)
 
学問上のこの木の発見は、1893年(明治26年)のことである。地元では古くから「トガサワラ」の名で知られた木であったが、当時、東京農科大学の大学院生であった白澤保美が奈良県吉野地方に向かった際に、この標本を持ち帰ったのがきっかけとなり、2年後にこれをツガ属の新種として発表した。
 
今より温暖だった「地球の生き証人」トガサワラ原始林
 
暖かい黒潮が流れる本州最南端の潮岬は一番温暖で紀伊半島南西斜面の大台ヶ原山系は降雨量最高記録があるほど大量の雨が降る三之公川に今より温暖だった地球の生き残りのトガサワラ原始林が残ったが、同じ場所に後南朝行宮跡の言い伝えが地元民のあいだに残っていたのですから何とも愉快である。
ただし、過酷な氷河期(間氷期)の今よりも炭酸ガスが豊富で温暖だった地球の生き証人であるトガサワラ原始林の方は科学的に本物で間違いないが、地元民の言い伝え(奈良県川上村史跡第一号)の三種の神器の勾玉を持って三之公川かくし平に立てこもった600年前の後南朝「尊義王」行宮跡の真偽のほどは定かでない。(三の公や隠し平の遺跡群は全て破壊的カルト宗教である「国家神道」の明治以後に建てられた新しいもの)
そもそも現地は「隠し平」とは言うが少しも「平」ではないし夏は大台ケ原名物のヤマビルが大量発生するは冬は標高800メートルの高地なので死ぬほど寒さが厳しくて短時間なら我慢できるが、到底尋常な普通の神経では住めるような場所ではない。
 
 

わが町にも歴史あり・知られざる大阪

/567 東高野街道/58 八尾市 

守屋塚 全国の神社が玉垣 /大阪

 JR八尾駅から南西へ700メートルばかり歩くと、太子堂の交差点に至る。交差点を西へ折れてすぐ、酒屋さんの隣には鳥居が建ち、玉垣が巡らされている。扉が付いていて施錠されているので、中には立ち入れないが、奥には「物部守屋大連(おおむらじ)墳」と刻まれた石碑がデンとあり、両脇に石灯籠(どうろう)を従えている。これが物部守屋の墓。

 前を通る国道25号は、前回紹介した渋川道で、物部、蘇我馬子軍ともに通ったとされる道だ。墓があるのも納得。江戸時代の「河内名所図会」には、「守屋塚」として土盛りの上に一本松が描かれている。それが現在のような形になるのは明治になってから。堺県知事・小河一敏が1869(明治2)年に石碑と石灯籠を建立した。
有料記事 残り1290文字(全文1604文字)

大事な部分だけを文字起こしすると、

目を引くのは玉垣だ。全国の神社の名前があり、すべて神社の寄進だという。石上神宮(奈良県天理市)の名前も当然ある。物部氏の総氏神で、ヤマト王権の武器庫だったというから、軍事氏族の物部氏とは関係が深いわけだ。(★注、なんと、神社本庁や靖国神社の寄進した玉垣もある)

物部守屋を射た矢を納めたという鏑矢塚(八尾市南太子堂3)

用明二年(587)に厩戸皇子(聖徳太子)と蘇我馬子は、渋河で物部守屋と戦います。稲城(いなき)を築き、榎木の上から弓を放つ守屋に苦戦した皇子らは三度退却しますが、四天王に祈願すると、迹見赤檮の放った矢が守屋を討ち、皇子と馬子らは勝利したと『日本書紀』に記されています。大聖勝軍寺周辺にはそうした史跡が残されており、鏑矢塚は、迹見赤檮が守屋を射た矢を埋めたと『大聖勝軍寺略縁起』(1455)は伝えています(八尾市教育委員会、2010年)
 
物部守屋を射抜いた時に使用した弓を埋めたと言われる弓代塚(八尾市南太子堂3丁目35)


(近所に住んでいる人でも誰も知らない守屋弓代塚)
 
物部守屋を射落とした迹見赤檮(とみのいちい)が弓を埋めた場所もあるが、これがなかなかやっかいで、ずいぶんうろうろした。鏑矢塚から南の竜華中学校のさらに南に電線の鉄塔が並んでいる。中学から見て一番手前の鉄塔北側、民家との間を入っていくと「弓塚代」の碑が立っている。
なんで弓と矢を埋めたのわからないし、史実かどうかも怪しい。鏑矢塚も弓代塚も、1930年(昭和5年)に竜華町が建立している。文献的には豊臣秀吉の家臣・片桐 且元(かたぎり かつもと)の検地に最初に出てきて、両方とも無税地。と言うことは、徳川幕府が聖徳太子の遺跡だと認めたんでしょう。鎌倉・室町時代には出てこないので、村が自立してきて「ここは聖徳太子遺跡だ」と言ったのかも。言ったもん勝ちなのか。
(抜粋)
12月18日 毎日新聞(知られざる大阪)
 

聖徳太子1400年プロジェクト 八尾は聖徳太子と物部守屋 | 八尾市

令和3(2021)年は聖徳太子没後1400年の年であり、さまざまな自治体が聖徳太子に関わる歴史資産等を活用した取り組みをはじめています。廃仏派の物部守屋の戦いの舞台であったともされているなど、ゆかりの地が多くあります。
それらの歴史をふまえ、八尾市では「聖徳太子1400年プロジェクト 八尾は聖徳太子と物部守屋」を主催し、八尾市観光協会はじめ市内施設や関係機関、他自治体等と連携しながら、歴史にあまり親しみがない方にも、楽しんでいただけるよう、さまざまな企画を展開していきます。(★注、と書いてあるが、地元の八尾市民が誰も知らない摩訶不思議なプロジェクト \(^o^)/ 

物部宗家滅亡(物部守屋の戦死)は587年ごろ(1434年前)

物部守屋大連墳や鏑矢塚、弓代塚などの国道26号線太子堂交差点の南1キロの八尾市南木の本の光蓮寺前にある物部守屋の稲城跡の石碑

樟本神社(木の本)境内

樟本神社(北木の本)拝殿

樟本神社(南木の本)境内

樟本神社(くすもとじんじゃ)は、大阪府八尾市にある神社。延喜式神名帳に「樟本神社 三座 鍬靱 河内国志紀郡鎮座」と記される式内社であり、現在の八尾市木の本(旧丹北郡)、北木の本、南木の本(旧志紀郡)の3箇所に鎮座している。

創建の年代は不詳であるが、古墳時代以前に遡ると考えられる。祭神は、古来は木霊とされるが、のち、布都大神饒速日命。 当地が物部氏の旧領地であり、用明天皇の時代に物部守屋が守護神として崇めていた神々を持ち込んだと考えられる。(★注、ウィキペディアの「楠本神社」から)

国鉄竜華操車場建設工事中の1935年(昭和10年)に発見された渋川廃寺跡。見つかった場所が物部守屋の「渋川の別業」があったとされる場所で、現在は荒ぶるスサノオを祭神とする渋川神社(物部守屋墳から600m北の八尾市植松)にあり、物部氏(宗家)建立の氏寺に違いないとすれば物部氏と蘇我氏の対立は宗教戦争ではなかったという仮説が成り立つ。

実は物部守屋は巨大な「渋川寺」を建立しており、聖徳太子や蘇我馬子以上に大陸からの仏教導入に熱心だったらしいのは確実なのである。

物部守屋の稲城跡から500メートル程度の範囲内にある北木の本と木ノ本、南木の本の三か所に全く同一名称の「楠本神社」という小さな氏神様がある不思議。平安時代中期の905年編纂の延喜式にも名前がある古い歴史があり物部氏との繋がりが伺われる。同じ八尾市には物部氏の支族である弓削氏の氏神様の弓削神社がJR志紀駅・長瀬川を挟んで東西に2社が同一名称の神社として存在する。すぐ近くに同じ名前なら何かと混乱して不便だと思うが実に不思議だ。(★注、物部氏は天皇家以外では唯一天孫降臨神話を持っている最も古い軍事氏族で大阪南部の八尾市周辺が本拠地だったらしい)

ちなみに曽我宗家滅亡の大化の改新(蘇我入鹿暗殺の乙巳の変)は645年(今から1376年前。物部宗家滅亡の587年から58年後)

乙巳の変(いっしのへん)は、飛鳥時代645年に中大兄皇子と中臣鎌足らが蘇我入鹿を宮中にて暗殺して蘇我氏(蘇我宗家)を滅ぼした政変で、戦国時代の記憶が残る江戸時代初期に描かれた『多武峰縁起絵巻』(奈良県桜井市の談山神社所蔵)では切断された生々しい首の断面が正確に描写されている。

ところが21世紀のアメリカ軍傭兵組織のISISイスラム国の場合には小さなナイフとテレビ撮影用のピンマイク装着。なんと、切断した首のCG画像を手抜きして首が砂漠に突っ込んだ状態で死んでいたのですから大笑い。しかし、2015年当時は散々テレビ放映した爆笑画像を、たった6年後の現在はことごとくグーグルなどが消してアメリカのインチキCG画像誰にも見られないように徹底的に隠蔽しているのですから恐ろしい。


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1 コメント

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後付け歴史ロマン (ローレライ)
2021-12-21 15:30:24
後付けの宗教戦争遺跡と南朝司令部遺跡,歴史ロマンには後付が多い!
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