逝きし世の面影

政治、経済、社会、宗教などを脈絡無く語る

不思議な労災事故?『押尾学事件より悪い片山右京遭難事故』

2009年12月20日 | スポーツ・文化
元F1レーサーの片山右京氏が経営する会社の社員パーティの遭難事故ですが典型的な『気象遭難』で二人とも凍死のようです。
(アサヒ・コム参照)片山氏によると、『150~200メートルほど下でテントと2人を見つけたが、堀川さんはパニック状態だった。2人に毛布や寝袋をかけて温めたが、やがて宇佐美さんは泣き出し、ため息をつくようにして動かなくなった。堀川さんは奇声を発するようになった。』
それにしても酷い遭難で非難されても仕方がないでしょう。基本がなっていない。
まず、『17日午前6時半ごろ、御殿場口から登り始めた』とあるが冬至寸前の現在は日没が一番早い。
午前4時に自宅を出ているが、安全の為にはこの時間から登り始めるべきであっただろう。
この出発の遅れが予定外の安全でない場所でのテント設営となり今回の事故に繋がった。
(出発前の晩に元のレーサー仲間でもあるタレントのマッチこと近藤雅彦氏と飲んでいて、この不思議な時間設定になったと報じられている)

『登り始めたが、力量に差があり片山さんが先行した』とあるが、これは根本的なミスであろう。
力量に差があれば担ぐ荷物の分担で力量差(上る速度の差)を埋めるべきである。物見遊山のハイキングではなく登山なのですから同一パーティーでは安易に隊を分けるべきでない。
ですから隊を分けた遭難前日の時点で、この状態では『既に遭難状態であった』と言われても仕方が無いであろう。
『悪天候のため引き返して合流。午後5時ごろ、片山さんは1人用テントで、宇佐美さんと堀川さんは2、3人用のテントで就寝した』とあるが、何故2、3人用の同じテントに入らなかったのか理解に苦しむ。
安全性よりも居住性を優先させたのであれば、何をかいわんや。到底登山者の遭難事故と呼べる水準にないお粗末な話である。
富士山の最大傾斜度は頂上付近でも30度程度で遭難現場の6合目は何処にも危ない場所が無い緩い傾斜地である。
墜落したわけではなくテント設営の不備が原因で冬季の富士山特有の強風で、入っていたテントごと斜面を転がった状態である。
テントを失ってもまだ片山氏のテントが残っているので、これに収容すれば二人とも凍死しなくて済んだ。
一人では麓まで担ぎ下ろすことは不可能でも数百メートル程度の移動なら十分に行えるはずであるし、テントの方の移動も考えるべきである。
『毛布をかけた』とあるが何故こんな場所に毛布なんかがあるのでしょうか。?
しかも、毛布があるのに肝心の緊急時の風除けのツェルトザックが無い不思議極まる状態で、一体どんな冬山装備だったのだろうか。?なんとも不思議だ。
強風下では『如何にして風を防ぐか』が肝心で、テントやツェルト無しではどんどん体力を消耗する。

今回は遭難時に幸いにも携帯電話が通じ救助要請に成功したのであれば、如何につらくとも現場に踏みとどまって(危険な状態の遭難者だけにせず)共に救助隊を待っているのが常識中の常識である。
強風下の雪山の凹地は数分で雪に埋まって発見出来無い。
今回のようなパニックに陥っている状態の遭難者を、そのまま放置すれば必ず死ぬ。
(遭難時には情報が錯綜してしばしば誤報も混じるので軽々に判断するべきではないが)今度の事で自分だけ一人で下山して二人も見殺しにした片山氏の責任は免れないでしょう。

『限りなく労災事故に近い』

それにしても不思議な遭難事故である。
これは不慮の山岳遭難ではなく、よくある『納期を守るために』危険な仕事を無理して行った為に起こった『労災事故』では無いのか。?
元レーサーの片山右京氏の職業であるが、マスコミ報道では『自称』登山家、冒険家とあるが、普通これ等は『金を食う趣味』にはなるが、滅多に『金儲け』にはつながらないものです。
登山家としての何の実績も経歴も無い片山氏の職業登山家、冒険家とは、ノリピーこと酒井法子さんの夫の職業である自称プロサーファーと同程度ではないのか。
片山氏程度の実績でプロを名乗るのには出発点で無理があり、『経営していた会社』の営業(業務内容)とは何であったのだろうか。?
今度の富士登山が『会社の営業』の一環であったとしたら話が全く違ってくる。
それなら今度の遭難事故は山岳遭難ではなく、社員が上役の無理な業務命令を行っていて不注意でたまたま失敗した『労災事故』、『労働災害』に当たるでしょう。
片山右京氏には今回、登山パーティのリーダー責任以上に、社員の安全を守るべき上司としての管理者責任が何よりも問われるでしょう。
また自己の管理下にある遭難者を放置して二人も凍死させたのであれば、死亡原因が未定の押尾事件で押尾学が検挙された保護責任者遺棄罪にも問われる可能性が生まれる。
死亡原因と遭難者の放置との因果関係は押尾事件より明確なので、片山氏の責任の重大性は押尾学以上であるとも考えられるのです。


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全く仰る通りです。 (ichiro.jr)
2009-12-20 14:26:27
これを『労災事故』という位置付けての視点は素晴しい論考だと思います。それにしても前日、マッチと呑んでて出発時間が遅れたんだとすると、殺人罪をも適用出来そうなフザケタ「社長」である。
返信する
ichiro.jrさん、はじめまして (逝きし世の面影)
2009-12-20 16:57:57
コメント有難う御座います。これからも宜しくお願い致します。

幾ら人が二人も死んでいても『殺人罪』には当たらないでしょう。
『殺人』とは殺した側に『殺す意思』がないと成り立たないのです。
『痛い目にあわせてやれ』程度の犯意(意思)では傷害致死罪(3年以上の有期懲役)にしかならず殺人罪(無期あるいは死刑又は5年以上の有期懲役)にはならない。
今回の場合には故意ではないので過失致死罪(50万円以下の罰金)で、自動車の運転などのような業務上の過失である場合には業務上過失致死傷罪(5年以下の懲役若しくは禁錮又は100万円以下の罰金)です。
ただし2007年からは自動車は自動車運転過失致死傷罪として7年以下の懲役。

それにしても考えてみれば不思議ですね。
近代民主主義は個人の『違法行為』は処罰するが、それ以前の社会では重罪であると考えられていた個人の『内心』は、どれ程モラルに反する不思議な考えであれ凶暴であれ異常であれ『違法』とはせずに処罰しないのです。
民主主意とは、個人の『内心』を聖域として守ることで成り立っている。
近代社会とは個人の内心である宗教(道徳)から切り離す事で成立しているのです。
政教分離や思想信条の自由の原則ですね。
その為に宗教から科学が独立することが出来たし、それで近代社会は成り立っているとも考えられるのです。
民主主義の基本は、どれ程悪い事でも(あるいは良いことでも)内心である限り守るべき(誰も責任を問われない)ものなのです。
ですから、この基本どうりなら『個人の内心』と切り離して、すべて物事の『結果責任』こそ問うべきですが、面白い事に民主主義以前の社会の方が人の死に対してはシビアで『結果責任』を問題にしていた。
江戸時代に大八車での交通事故死の責任を問われて遠島(重罪)になっていますが、これは欧米でも事情は同じらしい。
現在のような『当事者の犯意を問題にする社会』、言い換えると『結果責任を問わない社会』が出来上がるのは産業革命以後の話で、これは『自動車を一般市民に売る為だった』なんて面白い説もありますね。
確かに、うっかり交通事故を起こしたら無期懲役では、誰も怖くて車を買う者は一人もいません。
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Unknown (愚樵)
2009-12-20 17:20:52
面影さん、こんにちは。いつもTBありがとうございます。

私はこの遭難が報じられた日、仕事でちょうど富士山がよく見渡せる場所にいたんです。よく晴れてはいましたが雪煙が上がっているのが遠くからもよく見えて、こんな日はとても登れたものではないと見ていました。片山右京遭難のニュースを知った時には救助が遅れて死人が出るとは思いましたが...。

それにしても片山右京がパーティーを分けていたとは知りませんでした。これまでは彼が一人で下山してきたことの当否は判じかねると考えていたのですが、パーティーを分離していたことと考え合わせると、彼には独断専行の傾向があるようにも思えます。それは命懸けの冬山登山のリーダーが最もしてはならないことなのですが...。

F1レーサーも過酷な職業だということは聞きます。片山右京はその「過酷」というところを追いかけて冒険家に転身したのかもしれませんが、冬山ではレーサーのように自身だけが過酷さに耐えればよいわけではない。もしかしたら「片山社長」は、そこのところをよく理解できていなかったのかもしれません。
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勉強になります (志村建世)
2009-12-20 17:37:18
たまたま見たコメント欄ですが、結果責任を厳しく追及されると自動車を買う人がいなくなるというのは勉強になりました。また、ここで愚樵さんにお会いしましたが、今は富士山の見えるお住まいなのですね。熊野よりも寒いでしょう。
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レースの世界とは全く違う世界 (逝きし世の面影)
2009-12-20 18:01:39
愚樵さん、コメント有難う御座います。

F1など4輪は良く知りませんがカートや2輪のレースに参加していた友人が何人かいましたが、これ等は根性が絶対に必要であるという共通項はありますが、幾らスポーツ登山であったとしても登山は競技スポーツではないので根本的に差があるようです。
レースに限らずすべての一位を争う競技では誰かの為に自分の命を犠牲にするなどの考え方ではなく、其の正反対の考え方である他人の足を引っ張ってでも勝つのが正しいのです。誰かがコケテくれれば自動的に自分に有利に働く。
何故元F1レーサーの片山氏は、植村直巳のように単独行を選ばなかったのか。?それなら自己責任の世界で、今回のような事故にはつながらない。根本的に出発点で間違っているようですね。
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『内心』を問う社会は住み難い (逝きし世の面影)
2009-12-20 19:13:36
志村さんコメント有難う御座います。

この問題は考え出すと実に興味深いですね。
近代以前の個人の『内心』を問題視する社会は、これはもう今よりも道徳的ではあるが矢張り住み難い堅苦しい社会ですよ。
幾ら心の中で妄想を膨らませても、あるいは道徳に反する事を小説などに書いてもリアルでなくフィクションであれば罰せられない今の社会は素晴らしい。
ところが近頃問題に為り出したセクハラや差別問題ではこのリアルとフィクションの境界線が曖昧です。
完全に事実だけを問題とせず被害者の内心が最優先される。
同じ行為、同じ言葉でも相手が嫌な異性の上司ならセクハラになるが同性の同僚なら問題なしで、密かに好意を寄せている異性なら飛び上がらんばかりに喜ぶ。
全く同じ行為や言葉でも三者三様で全く違ってくるのです。
何故そうなるかと言うと、この場合の『セクハラ』も『差別』も全く同じ『個人の内心』のことを考えているからです。
現実の『社会的制度としての差別』を問題にしているのではなく、個々の個人の内面にある心の中の差別意識『内心』を問題としているのです。だから悩ましい。

ブログとは不思議なツールで駅頭で大勢に向かって演説しているようでもあり、密室で親しい人と秘密の隠し事を語っている様でもある。

差別問題悪と言えばつい最近、ブログ市長として有名な鹿児島の阿久根市長が『高度医療と障害』の関連性を書いて『差別問題』として問題になっている。
一般に広く公開されているブログで市長という公人が書いては駄目でしょう。これでは忌まわしき優生学に限りなく近く道徳的には間違っている。
ところで科学的事実としては如何でしょうか。?
元々優生学が家畜の改良で実績があるので人間に応用しても必ず成果は上がる仕組みになっているので、科学的には間違っていないが、道徳的には間違っているのです。
市長のブログの事実は、今の高度医療が高度障害を生んでいるのは医療関係者なら誰でも知っている。
命を助ける程度の技術はあるが治療するまで達していない未熟な発展途上段階にあるのが残念ながら現実です。
ですから阿久根市長の発言自体は真実だが、『公開の場では言ってはいけない』ことなのですね。
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Unknown (無味無臭)
2009-12-20 22:49:36
片山右京の事件に興味をもちまして、いろいろブログやら新聞やら漁っていたのですが・・・。

僕は、冬の山も登るんですけど、たぶん冬の富士山は独立峰特有の強風と、滑落、寒波の影響には細心の注意するにあたいしますが、それさえ気をつければ・・・まぁ計画と経験と体力が伴っていれば難易度はそれほど高くありません。むしろ冬の剣岳や不帰のキレット、聖岳のほうが難しいでしょう。死亡率だけでしたら谷川の方が怖いぐらいです・・・。

あ~・・・なんかわけわからんこと言ってますな。すんません。。

あの~、ちょっと聞きたいんですが、まずテントについてなんですが、
「何故2、3人用の同じテントに入らなかったのか理解に苦しむ。
安全性よりも居住性を優先させたのであれば、何をかいわんや。到底登山者の遭難事故と呼べる水準にないお粗末な話である。」
って言うんですが、テントを分けるのって、むしろ安全性を増したんじゃないんですか?だって、その事故したテントに右京さんもいたら彼死んでたわけですし・・・。それに、冬でのソロテントってすごく寒いんですよね。むしろみんなで同じテントに寝たほうがあったかい。にもかかわらずソロにするのって、結構右京がんばってますよね~。しかもソロテントもってあがるのめんどくさいし。まぁ、「一人で寝たい」っていう気持ちでもあったのだろうかね。いいんじゃない?って思う。少なくとも、批判されるところは何もないんじゃない?
あと、「墜落したわけではなくテント設営の不備が原因で、富士山特有の強風でテントごと斜面を転がった状態である。」ってあるけど、富士山じゃ、ちゃんと設営してても吹っ飛ぶよ。だから、不備かどうかはわかんない。吹っ飛び=不備ってーのはちょい違うんじゃないすかね?
仲間に対する応急処置や対策が正しかったのかはよくわからないけど、俺はそれは別に批判できないと思う。テントを移動させることや遭難者を担ぐことも簡単には言えない。その状況を判断しないとね。風が強かったり、暗かったり、何よりももう助からなそうな遭難者に時間と体力を使うのは正しくない。だから、まぁ批判できない。なにより、「今回は遭難時に幸いにも携帯電話が通じ救助要請に成功したのであれば、如何につらくとも現場に踏みとどまって(危険な状態の遭難者だけにせず)共に救助隊を待っているのが常識中の常識である。」とは俺は思わないし、間違ってるだろう。山では、まず自分の命の安全の確保こそが優先されるべきではないのか?実際、そういう法律もあったような・・・なかったような・・・詳しく知らん。。すまん。。。
何よりも、山という場所において、命は自己責任以外の何者でもない。それこそ常識ではなかったのか。今回不運にも亡くなってしまった二人だって、山の素人ってわけではなさそうだったし、それくらいの心得はあるはずだ。これは、別に大雪山のツアー事故じゃないんだし、それほど片山右京の管理者責任なんてあるんだろうか。別に、部隊のなかで右京さんが先行したって、それが部隊の中で決定されたのだったら、そんなのはご自由にって話だ。それが失敗だったか成功だったかは、生き残ったやつの反省と、俺たちの批判的興味の対象でしかない。

そして最後に。ここの主は冬の富士には行きましたか?

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かばう人が多くてびっくり (なつ)
2009-12-21 01:37:31
初めまして。おっしゃっていること、いちいちごもっともと
思います。常識のある方のご意見を拝読できてよかった。

世の中、片山右京をかばう人が多くてびっくりしています。
「号泣して謝罪」日本人はこれに弱いんですかねえ。
「泣いて誤ってるんだから許してやれよ」って感じ
でしょうか?

冒険家を気取り、南極遠征をもくろんでいたなら、
一人で行うべきで、他人を、まして自分とこの社員を
道連れにすべきではありませんよね。
その時点で、社長として、人間としてどうなの?と
思ってしまいます。

あと、こんなに右京をかばう人が多いのは、
同じ宗教を信じてる人たちの擁護かもしれませんね。
粘着質の長々とした文章、皆同じ気質に見えます。
不適切なら削除してください。
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なるほど (通りすがり)
2009-12-21 07:34:23
http://sankei.jp.msn.com/affairs/disaster/091219/dst0912192053014-n1.htm
参照までに貼っておきます
押尾学事件より悪いと書いてありますが、個人的に片山右京に責任はないと思います。
上のコメントに書いてあるが、同じ宗教を信じてる人たちの擁護とありますね。
ならば、ここに書いてる人たちも同意見を求めて書いてる人たちですね。
この記事を書いた方のためにも私は反対意見を残しておきます。
返信する
あらあら (山屋)
2009-12-21 08:39:56
まあ、皆さん、そういがみ合わずに。
ぼくは、北海道で山をやってるものです。
この度お亡くなりになった事については、とても残念に思い、心よりお悔やみ申し上げます。
僕は、山が大好きなんですが、いつも危険と隣り合わせであることから、入山した時点で自己責任と考えております。
つまり、誰が問題で、誰の責任と責めることは出来ないのではないのでしょうか?
入山するときの気候確認、装備のメンテナンス、健康管理などコンディションが万全だったのかが気になります。
ぼくは、片山氏の会見、亡くなられた方の親族のコメントを観て、皆が
「山が大好きだったんだな」
と感じました。
山に登る際は、自分にあったレベルの登山、保険の加入、個人の安全を大切にし、怪我せず楽しい登山を心がけて戴きたく思います。
なんか偉そうになってしまってすいません。
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