哲学者か道化師 -A philosopher / A clown-

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本田透『電波男』

2006-06-13 | 
 本田透の『電波男』を読んだ。まあ、何かといわれている本ではある。本としては、ブラックユーモアのつもりで読めば、とりあえず楽しめるのではないかと思う。それに筆者は、本田透の主張にある程度賛同してもいいくらいだ。
 この本では、『恋愛資本主義』という、恋愛を媒介に資本を循環させようとするシステムを批判し、そのオルタナティヴとしてオタク文化を挙げる。『恋愛資本主義』システム下では、競争としての恋愛が奨励されているため、いわゆるブサイクな人は、恋愛弱者として、その恩恵を受けることができないからだ。愛を受け取ることのできない個人は、恋愛を奨励するシステムの中で、疎外され続ける。しかし、実際には『恋愛資本主義』システム内でも、ファッションとして、あるいはセックスを求めての恋愛しか行われておらず、このシステムの中には、そもそも愛が存在しない。それに対し、『恋愛資本主義』システムに疎外された他者であるオタクは、『萌え』という妄想を介した脳内恋愛により、愛を得ることができるうんぬん。
 本田氏が『恋愛資本主義』を批判する論旨については、状況認識の過度の単純さを除けば、かなりうなずけるものだと筆者は思う。思えば、容姿というきわめて偶然的なもので、まるで人の価値が決まるかのような価値観は批判されてしかるべきだろう。とは言え、このシステムを批判する者としてのオタクというのは、あまりにも強引なもっていきかただ。少なくとも筆者には、オタクが社会の中で重要なプレイヤーになる像というのは、思い浮かばない。以下は、筆者のコメント。
 恋愛資本主義においては、まるで恋愛が究極の救済であり、万人が享受できるものと提示される。しかし、実際においては、恋愛は競争過程に他ならないため、競争からあぶれるものが出てくる。このあぶれものに対し、無関心どころか不寛容なのは、恋愛が万人のためにある、という前提と矛盾しているではないか、という論理的な欠陥をわれわれは指摘・批判できる。何も、この世からあまねく孤独を救済できないから、恋愛資本主義がダメだと言っているわけではない。恋愛資本主義が、「恋愛は万人にある」「孤独は排除すべき恥である」というイメージを植えつける一方で、孤独や疎外を積極的に作り出すシステム、もっと言えば、孤独や疎外という犠牲を誰かに押し付けねば維持不可能なシステムだからこそ問題なのである。これは、本質論ではない。ただ単に、言説が内部で矛盾し、破綻しているではないかという指摘・批判なのである。
 本田氏は、オタクを『恋愛資本主義』を批判する者としてみるが、一方でオタクこそ二次元のかわいい女の子(男の子)しか見ないではないか、と批判することは可能だろう。それにそもそも、本田氏の措定する、恋愛資本主義対オタク世界、イケメン対キモメン、DQN(暴力男)対オタクという二項対立構造は、それほど自明のものではない。となれば、『電波男』という本自体、本田氏の妄想の産物(「他者」がいない)と批判されても仕方ないのである。。
 それに筆者としては、オタクはニッチな趣味だから面白いのであって、本田氏が妄想するようなオタクが天を取った社会などは、オタク趣味は至極つまらないものになっているだろうと思う。ある意味では、オタク趣味が社会的には後ろ指をさされる背徳的なものだからこそ、淫靡な快楽として、享楽できるのである。
 では、オタクはどうすればいいのであろうか。筆者に言わせれば、簡単である。つまり、オタクは二次元と三次元の両方での戦いという、『二重の闘争』を経験しなくてはならない。どちらかが、現実なのではない、どちらもが現実なのだ。最大の復讐とは幸福になること、というのと同様に、闘争とは「好むと好まざるに関わらず自らを楽しむ」ことなのである。現実の恋愛を批判したければ、ギャルゲーのほうが楽しいと言えばいいのである。ギャルゲーを批判したければ、現実の恋愛のほうが楽しいと言えばいいのである。そして、両方を楽しめれば、それに越したことはないのである(ほんとか?)。まあ、結局のところ、趣味や嗜好の問題ということになるのであるが。

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