goo blog サービス終了のお知らせ 

哲学者か道化師 -A philosopher / A clown-

映画、小説、芸術、その他いろいろ

Flying Shine『CROSS † CHANNEL』

2006-06-09 | ギャルゲー
 今回のうろ覚えギャルゲーレビューはFlying Shineの『CROSS † CHANNEL』を取り上げる(もっとも、これはまだ二回目で前回取り上げた『最終試験くじら』からかなり間が空いてしまったが)。もちろん『CROSS † CHANNEL』はギャルゲー史上に燦然と輝く超名作!なので、このBlogを読むような人でまだやっていないという人は、こんな文章を読まず中古屋にでも行って買ってプレイしたほうがいい。間違いない。数ある名作の類にもれず、けっこうアンチもいるが、ギャルゲーに興味があるなら、どちらにしろやらなければならない、と言っていいほどの作品である。『Fate』シリーズのシナリオライターである、奈須きのこ氏でさえ、「越えられない壁」と呼んでいる。それにこの文章はネタバレだらけで、すでにプレイした人にゲームを思い出しつつ読んでもらうことを想定している。

 『CROSS † CHANNEL』の核心はもちろん、田中ロミオ氏のシナリオである。田中氏は、これもギャルゲー史に残る名作である『加奈~妹~』『家族計画』のシナリオを書いた山田一氏と同一人物とされている(本人のコメントがなく確証はないが、ある意味で「常識」となっている)。ペダンティックな趣味に満ち溢れ(哲学的な自我論など、たとえば欲求は自己志向なのに対し、欲望は他者を志向するうんぬん)、ニッチなネタの笑いを提供し(「チヌ野郎」と主人公たちが罵倒され、そのもともとのネタである「チヌ鯛」についてヒロインたちが解説したり)、壮大な物語を語り、プレイヤーを泣かせる(ちなみに、筆者は泣かなかったが)。それに、筆者から見て田中氏が非凡なのは、「ギャルゲー」という形式・演出を批評的に利用したことである。どういうことであるか。まず、あらすじから語ってみよう。
 主人公たち7人(男3人、女4人)はある高校の放送部。その高校は、全国的に実施されているあるテストで高得点を取り、精神的にやばい(狂人に近い)とされている人たちが集められ押し込められているところである。もともと主人公がその部を作ったのは、ほとんどコミュニケーションの成り立たない人ばかりの学生から、比較的まともな人たちを集めて、まともな(≒社会的な)営みを行うため。放送部の活動として、ある日合宿を行ったのだが、その帰りにはさまざまな理由から部は分裂してしまう。そして、合宿を終え帰った次の日、世界からはその7人を除いた人間(動物も)が忽然と消えてしまっている。そして、主人公は、放送部を再びまとめようとするかたわら、世界に呼びかけるべく、先輩に協力して校舎の屋上でラジオのアンテナを作る。ラジオアンテナが作り上げられたそのとき、しかし、彼らはまだ気づいていない。世界は一週間しか続かず、それ以上は再び週のはじめに巻き戻り、彼らのそれまでの記憶が消えているということも。
 あらすじを書いてみると、そもそも設定からして鳥肌ものだと感じる。ある日起きたら、数人の知り合いを残して人間が全部消えているってどうよ。しかも、本編では、この設定が極めて印象的な方法で暴かれる。物語のループ一週目(といっても、本当に厳密に一週目かはわからないが。本編では、数万回ではきかないほどのループの存在が示唆され、我々が一週目だと思っているループはその中のどれでもいい)においては、プレイヤーには一週間のループという閉鎖世界のルールは示されていない。テクストに端々で作品世界についての違和感を感じはするが、せいぜいちょっと人間関係に難ありの設定なんだ、というくらい。そして、ギャルゲーにおいては標準的な形式だが、主要登場人物以外の立ち絵がなく、教室の風景などの背景にも人影がない(もっとも、授業中、昼休み中など、現在では人影のある教室風景の方が一般的だが、人影のないギャルゲーもときどきある。はじめて『CROSS † CHANNEL』をやるプレイヤーは、この作品は「ときどき」のほうなのだろう、と思うはず)。しかし、主要登場人物以外の立ち絵がなく、背景に人影がないという演出を使って、実は本当に人がいないという「フェイク」をやってのけたのは筆者の知る限り、本作のみである。そして、この「本当に人がいない」という事実が明かされるのが、一週目の最後の日、組み上げられたラジオのアンテナと仲間たちを前に、主人公・黒須太一が「生きている人、いますか?」という放送をおもむろに始めるシーンなのである。このゲームをやったことのある読者は、ここでこのシーンの衝撃を思い起こしているはずだ(と思う)。こうしたプレイヤーの思い込み(ギャルゲーの形式や演出への「慣れ」)を「フェイク」に利用した例としては、『Ever 17~out of infinite~』で主人公が鏡を見たシーンと双頭をなしている。
 とまあ、プロローグである一週目がこのように終わり、すぐに人のいない校舎の風景ばかり映し、軽やかで少しメランコリックな響きのテーマが流れるオープニングにつながる、というにくい演出である。
 そして、主人公たちは無数の「同じ」一週間を、例外を除いて記憶が何度も消えながら、すごしていく。主人公はある週では美希と恋愛し、ある週では霧と恋愛し、ある週では冬子と恋愛する…というある意味とっかえひっかえな感じなのだが、全体は一本の物語でありながら、記憶を消されながら一週間をやり直すせいで、恋愛の「排他的な二者関係」という定義にはまったく矛盾しないのだ。ギャルゲーというジャンルは、基本的にそれぞれのヒロインごとに「運命的な」恋愛をするので、あるヒロインとそのルートを選び取った場合には、他のヒロインとルートは結局ありえなかったもの、と切り捨てられる(例えば、『Kanon』で月宮あゆルートを通った場合、美坂栞はご臨終し、川澄舞は魔物との戦いに永遠に勝利しえず、沢渡真琴はただの狐…かな?ひょっとして実は「奇跡」でみんな助かってるのかもしれない)。こうした、一見バラバラの物語、実は一本の物語、という配置は田中氏の次作『最果てのイマ』にも受け継がれている。こうした、ジャンル(この場合ギャルゲー)の形式や演出をいったん取り込んだ上で加工し、従来とは違った意味を付与した形式や演出として差し戻すという営為を、筆者は「ジャンル批評的」な作品作りと呼びたい。つまり、作品(物語と言ったらわかりやすいか)に対して、メタ(上位)レベルにある形式や演出をいったん取り出して加工し、もともととは異なるかたちで作品に挿入しなおすのである(ひょっとしたら、批評家の東浩紀先生は、七月に公刊予定の『動物化するポストモダン2』で『CROSS † CHANNEL』や『Ever 17』を題材に、筆者が「ジャンル批評」と呼ぶものを「メタ・リアル」と呼び、議論するかもしれない。ある一見自明と思われる現実=物語は、実はその上位に位置する、形式や演出といったルールに縛られている。そのルールを現実=物語に取り込むことで、ある特殊な形式をもった作品が生まれる、とか)。
 『CROSS † CHANNEL』においては、主人公は七香という閉鎖世界にはいないはずの少女の序言を得て、ループの例外を見つけ、自分以外のみんなが現実世界に帰る方法を発見し、悲しみつつも自分を除く全員を返したあと、一人で閉鎖世界に残るのである。この過程は、本当に人間関係とは何か、ということを問い詰めるものでいい!主人公は本当に友人たちのことを思うからこそ、彼らと離れてでも彼らを現実世界に返す。もっとも、そもそもなぜ主人公が閉鎖世界へと入り込んでしまう能力を得たのか、という理由付けなどは、いまいち理解・納得できないものではあるが。
 そして、もう一つこの作品に対する賛辞に水を差さなければならないのは恐縮だが、ある意味、人間関係に理想を見すぎているのではないかということだ。しばしば熱烈なアンチが言うとおり、「青臭い」のである。筆者としては、「青臭さ」に嫌悪感はないものの、これだけ作品に批評的な仕掛けを持ち込んだシナリオライターにしては、友人関係についてナイーヴに期待し過ぎるのではないかと思う。より精確には、友人関係とはこうあらねばならない、という理想(のみ?)を書いたのではないか。現在読み進めている恩田陸の『黒と茶の幻想』では、大学時代からの友人たち男二人女二人が40くらいになって旅行しいろいろ話をする、という一見平凡そうな話だが、実は、その友人関係も一筋縄ではなく、内に縫合不可能なさまざまな葛藤や断裂を抱えながら、それでもお互いに認め合い尊敬しあっている、ということを丹念に描いている。中には、本当に相手と自分の関係を思うからこそ、本当のことを言わず、最後まで秘密として隠し続けたりもする(章によって視点が変わるので、前の章で明かされなかった真実が、後の章で他の人の内面の独白として明かされたりする)。ある意味では、アイロニカルな関係として友人関係が描かれているのだ。それに対し、『CROSS † CHANNEL』ではこのアイロニーがない。ヒロインの秘密も全て主人公がすべて見取ってしまうのである。もちろん、結局のところ、主人公=読者が全てを見取ってしまう(作者が意図的に隠してしまうのでなければ)というのは、物語においてもっとも一般的な形式であるのだが(ミステリーもSFもみんな基本的にはそうである)。そして、この主人公=読者(プレイヤー)という関係こそ、ギャルゲーのもっとも基礎にあたる形式・演出のひとつであり、ひっくりかえす甲斐のある盲点なのである。実際に、田中氏も『最果てのイマ』において、主人公=読者(プレイヤー)関係をひっくり返すような「ジャンル批評」的営為を行っている。そして、主人公=読者(プレイヤー)関係を現在もっとも徹底的なやり方でひっくり返したのが『Ever 17』なのである。この二つの作品については、いづれ(いつになるかわからないが)取り上げる。あと蛇足的に言えば、七香の正体が、主人公が物心つく前に死んでしまったお母さんだというのは、いくらなんでも『エヴァ』的な家族ロマンスすぎるよね。

 というわけで、一応の論旨はここまで。筆者も原稿用紙10枚以上を一気に書いてしまって、さすがに疲れた。読者によっては、超名作『CROSS † CHANNEL』において語るべきポイントを逃していると感じる人もいるかもしれないが(例えば、『黒須CHANNEL』→『CROSS CHANNEL』→『CROSS † CHANNEL』→『黒須ちゃん寝る』とか、ちょっと謎なラストシーンとか)、筆者としては、語るべきを語ったつもりでいる。最後に、筆者は、エンディングの『CROSSING』が流れて、鳥肌が立った瞬間を忘れられない。曲、歌詞、イラスト、そしてシナリオの余韻が響きあって、グッ!と来てしまった。作品自体を凝縮した、本当にいいエンディング。筆者は姑息ながら、ゲームデータを分解して、MP3にデコードし、いまでも思い出すように聴いている。

♪絶望でよかった 虚無だけを望んだ
 約束と時間と思い出と時間と
 それだけが乾く命を潤す
 きしむ心を優しくつつみこむ
 …

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『かみちゅ!』 | トップ | 恩田陸『黒と茶の幻想』 »
最新の画像もっと見る

ギャルゲー」カテゴリの最新記事