明らかになる信長の素顔
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だが、近年の研究によると、そうしたイメージとはかなりかけ離れていることがわかってきた。そ
れが、歴史教科書にも反映されてきているので、以下に紹介しよう。 「美濃くみの〉の斎藤氏を滅
ぼして岐阜城に移ると、『天下布武 〈てんかふぶ〉』の印判を使用して上洛の意志を明らかにし
た。翌年信長は、畿内を追われていた足利義昭 〈あしかがよしあき〉を立てて入京し、 義昭を将軍
職につけて、全国統一の第一歩を踏み出した」(『詳説日本史B』 山川出版社2018年) これを読む
かぎりは、昔の教科書の記述とあまり変わらない。問題なのは「天下布武」の解釈として説明され
た、次の脚注部分である。 「当時の 『天下』には、世界・全国という意味のほか、畿内を示す用法
もあった。信長の用いた 『天下』を後者の意とみる説もある」 ――私たちは「天下布武」というの
は、全国に武家政権を樹立するという意味であり、信長は天下統一を目指していたと教わってき
た。 なのに、 教科書には 「天下」 = 「畿内」説が紹介されているのだ。 なお畿内とは、大和・山
城・摂津・河内・和泉国の5つ、おおむね現在の奈良・京都・兵庫・大阪の2府2県にあたる。
実は近年、「天下布武」は全国統一を意味する言葉ではなく、 足利義昭を奉じて上洛し、畿内に室
町幕府の将軍政治を復活させようという意味に解釈すべきだという説が強くなっている。 信長は、
将軍の政治を復活させて京都を中心とする畿内を安定させ、そのうえで、自分の分国(領国)拡大
に乗り出していくつもりだったのだとする。
しかし、なかなか畿内は平和にならず、仕方なく信長は畿内周辺の敵を次々と平らげ、やがて将軍
義昭とも対立するようになってしまう。 結果、「天正元年の義昭追放を機に、『天下』であった五
畿内が分国になった段階を経て、さらに分国が拡大していくと、天下は全国を意味する語へと飛躍
していった」(池上裕子著『織田信長』吉川弘文館) というのである。 つまり、頑張って畿内を安
定させようと戦っているうち領地が急拡大し、さらに将軍義昭を追放してしまったので、はからず
も自分がそれに代わって天下人になるような状況が生まれたというわけだ。 なお、 信長は楽市・楽
座や関所の廃止など、 経済的な先進性があったと教科書には書かれているが、これについても近年
は、もっと先進的な大名はほかにもおり、取り立てて〝信長の政策が進んでいたわけではない、こ
とがわかってきた。