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週刊 日本の100人 第60号 後醍醐天皇

2019-09-09 05:09:45 | 歴史関連情報
週刊日本の100人 後醍醐天皇

シリーズ第60号は後醍醐天皇です。



偉人なら、だれもが波瀾万丈の人生を送っていると思います。

それでは、歴代天皇の中で、最もバイタリティのある、激動の人生を送ったのはと聞かれたら?
おそらく、多くの人が後醍醐天皇を選ぶのではないでしょうか?

私の家の隣に、曼陀羅寺があります。
縁起によれば、元徳元年(1329)、後醍醐天皇の勅願により、天真乗運の開基として創立されたといわれています。
そのため、親近感を抱いています。

簡単に、振り返ってみましょう。


 鎌倉末・南北朝初期の天皇。(1288-1339)
 後宇多天皇の第2子。尊治と言います。母は談天門院藤原忠子。なんと祖父の愛人でした。子を天皇にしたいという思いで、亀山上皇にすり寄ったのでした。

 天皇家は大覚寺(亀山天皇系)・持明院(深草天皇系)両統が対立し、幕府の調停で交互に天皇を出していました。
 これが混乱のもとになります。

 大覚寺統の後宇多は第1子、後二条天皇の子邦良の即位を望みます。
 健康が優れぬ邦良の幼少時の中継として、延慶1(1308)年、尊治は持明院統の花園天皇の皇太子に立ちます。

 皇太子の時に略奪婚。以後、一生の間に20人前後の女性に40人近い子女を生ませるという絶倫な精力の持ち主であったそうです。
 それはそれとして、古典に通じ、儀式典礼に関心深く、学問・和歌にも意欲的。『源氏物語の』桐壺(醍醐天皇がモデル)の頃の治世に憧れ、後醍醐と名乗ります。

 即位後は、隣国・宋の政治制度である君主国家を目指します。身分が低くても才能ある人を登用した、官僚制の上に、皇帝が独裁的な権力を握っていたのです。
 1321年に親政を開始すると動き始めます。
・ 北畠親房らを登用
・ 記録所を再興
・ 京都の酒屋に課税。洛中の地子を止めて京を天皇の直轄下に置く。
・ 神人に対する寺社の公事賦課を停止。

 これらは、発展しつつあった経済を利用して、権力の基盤を築こうとするものでした。
 後醍醐は、宣旨に絶対の力を与え、世襲制を打破しようと考えました。中央八省も改革しました。これには大きな反感を招きました。

 ネックは、自分の子が天皇になれないこと。それを調停した幕府打倒に目が行くのは当然でしょう。

 律僧文観を通じて楠木正成を引き入れ、伊賀兼光などの幕府の要人、美濃源氏(土岐頼員、多治見国長ら)らと討幕計画をたてましたが、正中1(1324)年幕府に洩れて失敗します。それが正中の変です。
 発覚のきっかけは、土岐頼員の妻の・・・・・。おっと、これは、本書を見てください。

 元徳2(1330)年には、米価・酒価の公定、関所停止令により商工民を引きつけます。
 南都北嶺(興福寺・延暦寺)を自ら味方に引き入れ、北条氏に反発する悪党・海賊の支援を頼み、元弘1(1331)年、再度挙兵しますが、失敗し隠岐に流されます。
 その時、光厳天皇に渡した神器は、何と偽物でした。
 全くあきらめていなかったのです。
 
 護良親王が吉野で、正成が千早城で挙兵したのを待って、1333年に隠岐を脱出。船上山で朝敵追討の宣旨を出し兵を集めました。これに足利尊氏が帰順し、六波羅軍を破り、幕府を滅ぼしました。

 足利尊氏。新田義貞も源氏です。平氏である北条氏を破ったのは、源氏によるところが大でした。

 これにより、建武新政府を樹立します。征夷大将軍は、護良親王です。

  それ以後、後醍醐は公家・武家を合わせて支配します。
・ 大内裏を造営、費用捻出のための紙幣発行を計画。
・ 天皇中心の儀式典礼を整える。著書『建武年中行事』『建武日中行事』
・ 諸国の一宮、二宮および国分寺を天皇直轄とする。

 周囲を腹心の貴族・武士で固め、それらによる記録所・恩賞方による綸旨絶対の政治を推進します。これまでの官司請負制・知行国制を打ち破り、世襲を廃した人事により、貴族や官人、武士を支配しようとしました。
 
 また、徳政令を発し、質地の取り戻しを認め、貸借関係を整理する一方で、地頭領の所出の20分の1を徴収しました。

 天皇でありながら、自ら密教の行者として祈祷を行った後醍醐は、僧衣を黄色に統一しようとし、寺院・僧侶にもその意志を強制しようとしました。しかしそれまでの慣習を無視した政治に対する反発を受けて、さらには、次第に後退、足利尊氏・直義の反乱により政府は崩壊しました。

 ここでもあきらめず、後醍醐は神器を持って吉野に移り、南朝が成立します。

 しかし、病に倒れ、公家統一の夢を果たせぬまま吉野で憤死します。

 倒幕に二度失敗し、倒幕後、親政が実現しますがすぐに倒され、そこでもあきらめずに吉野で立ち上がるなど、その行動力は他に例を見ません。

 さて、その後醍醐天皇をどう評価するか?

 みなさんはいかが?


■特集
 後醍醐天皇
  朕が新儀は未来の洗礼たるべし

■ライフ&タイム
 公家一統を目指した不撓不屈の天皇の51年
 皇位を継承した野心家/鎌倉幕府への挑戦
 敗北、そして配流/理想実現に向かって
 死してなお尽きぬ闘志

■ヒューマンエピソード
 自らの信念に忠実な生まれながらの帝王

■クローズアップ
 天皇による大改革 建武の新政の実態

■人物スクランブル
 後醍醐天皇 人物相関図
 楠木正成/北畠親房/幸徳秋水/熊沢寛道

■後世への遺産
 団子、雅楽、南朝……聖皇にまつわる伝説

■評伝アラカルト
 後醍醐天皇考
  洞院公賢/中院通冬/村松 剛
  北畠顕家/三条公忠/網野善彦

■ビジュアル人物事典
 伊達宗城/田中角栄/田中義一/田中正造
 田中光顕/谷川士清/谷崎潤一郎/田沼意次

■日本の100人ミュージアム


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