文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

京都の伏見稲荷大社ですが、宮司が捧げる祝詞に「神は唯一にして御形なし。虚にして霊有り」…実は、稲荷神社も秦氏が広めたものなのです

2023年09月02日 16時15分51秒 | 全般

私と同様に月刊誌WiLLとHanadaを毎月欠かさず購読している有数の読書家である友人が以下の特集記事は凄いよ、と言ってきた。
その時の私は、作業中だったので、読まずにいた。
ただ、友人が田中英道氏を宮脇淳子さんのご主人である岡田英弘氏と混同していたので、それは違うよ、とだけ返答した。
昨夜、WiLLの読み残しを一気に読んでいて、その特集に到達した。
生きている内に知ることができて良かった。
私は京都に住んでいない人間の中では京都を訪れている世界一の人間だと思う。
8か月間も入院していた大病を完治した翌年の2012年には1年365日のうち300日、京都を訪れていた。
この時、最も訪れていた場所は京都府立植物園。
四季折々の花々や野鳥、蝶等の撮影に明け暮れていた。
数年前には1年のうち100日を嵐山散策、撮影していた。
渡月橋を嵐山公園の方に渡って突き当りに行くと小川が流れている。
そこに秦氏についての記述がある。
無論、その記述に田中英道氏の世紀の発見、日本国民全員必読の考察は書かれていない。
私と同様に誰もが秦氏や蘇我氏は単に渡来人とだけ認識していたはずである。
見出し以外の文中強調は私。

古代日本にユダヤ人が渡来した 田中英道東北大学名誉教授、茂木誠予備校世界史講師
ユダヤとのかかわりなしに日本史は語れないー日ユ同化論の真相に迫る

ユダヤ人埴輪という発見

田中 
日本の大学の学者は、新しい歴史的事実には口を閉ざしています。
私がユダヤ人埴輪の研究を発表した際も、日本の歴史学者は戸惑うばかりで、今のところ沈黙を続けています。
古代日本列島に、ヘブライ人(=ユダヤ人)が集団で渡来した痕跡が、さまざまな形で見つかっています。 
ところが、そういった研究に真正面から取り組む学者がほとんどいません。
一方、私のこの見解は2019年のテルアビブ大学の国際学会で、すぐに発表が認められ、招待されたのです。
茂木 
私は常々、ユダヤ人の歴史など、動画で発信してきました。
だから、独自のユダヤ研究をされている田中先生と、『日本とユダヤの古代史&世界史』(ワニブックス)を上梓することができ、私としても大変刺激的な一冊になりました。
田中 
茂木さんは成田空港のすぐそばにある千葉県芝山町で発掘された殿塚・姫塚という2つの前方後円墳、通称、「芝山古墳」から出土した「ユダヤ人埴輪」「画像参照」を見に行かれたそうですね。
茂木 
ええ、初めて訪れました。大学時代に考古学を学んだので古墳には興味があり、芝山古墳から出土した埴輪自体は何度も見たことがありました。
でも、考古学者がいうように、この埴輪は“武人埴輪”であると思い込んでいた。 
しかし、田中先生から「この埴輪はユダヤ人を模した人物埴輪である」と聞いてから、もう一度この埴輪を見に行くと、もう「ユダヤ人埴輪」にしか見えなくなってしまいました(笑)。
先生は、なぜこの埴輪がユダヤ人であるとお思いになったのでしょうか。
田中 
ツバの付いた山の高い三角帽子をかぶり、長い髭を生やし、長袖・長ズボンを身にまとい、剣をたずさえています。
明らかに渡来系の人物であると感じました。
少なくとも日本人的な特徴はない。
そして、最大の特徴は、服装や帽子ではなく「みずら(髪型)」です。
「みずら」とは耳のところで束ねられた髪のこと。
茂木 
聖徳太子の肖像画の両脇に並ぶ子供の髪型と言えばイメージしやすい。
この「みずら」には、どういった特徴があるのでしょうか。
田中 
「みずら」とは、どの民族もがするわけではなく、ユダヤ人がユダヤ教徒であることを示す証として、割礼(性器の一部を切除すること)に加え、このような髪型にしています。
『旧約聖書』には、次のように書かれています。
・あなたがたの「鬢(びん)」の毛を切ってはならない。髭の両端をそこなってはならない(レビ記19章27)
・髪の毛のすみずみを剃る人々はそれ(=異教徒)である(エレミヤ記9章26) 
「びん」とは、髪の毛の左右両側のもみあげの部分です。
ユダヤ人男性は、髪と髭を切らない、男性器の包皮は切り取れと、異教徒と違うことを肉体的に表現しようとしました。
ユダヤ人以外にこの「みずら」の風習のある民族を見たことがありますか?
茂木 
いや、ありませんね。
あの「みずら」に似たもみあげをユダヤ人の間では「ベイオト(ヘブライ語でPAYOT)」と呼んでいます。
確かに、「ユダヤ人埴輪」の「みずら」と、ユダヤ人の「ペイオト」は、そっくりです。
田中 
このような「ユダヤ人埴輪」が関東を中心に、関西や九州からも出土しています。
茂木 
田中先生の功績は、みなが、「武人埴輪」だとして思考停正していたものを「ユダヤ人埴輪」だとして“再発見”したことにあると思います。
これまでの歴史家や学者が、ユダヤ人を模した埴輪であると、なぜ読み取れなかったのか。
田中 
狭い専門分野しか語れない彼らが、西洋やユダヤ人の歴史について、あまりにも疎かったからではないでしょうか。
加えて、これまでの日本の歴史は中国や朝鮮半島との交わりで発展してきたという固定観念が強く、凝り固まっていた。 
遠く離れた異国の民族、ユダヤ人が古代日本と関係があったことに対する疑念が拭い去れない面もあったでしょう。

ユダヤ人大集団の到来
茂木 
日本に渡来人が来ていたことは、異論がありません。
それも中国や朝鮮だけでなく、もっと遠くから来ている人々がいても不思議ではありません。
ただそれをユダヤ人と断定できるのでしょうか。
ギリシヤ系やペルシア系といってもいいのではないか……?
田中
間違いなくユダヤ人です。
ユダヤ人はこれまで「アッシリア捕囚」(紀元前722年)、「バビロン捕囚」(紀元前582年)、「ユダヤ戦争」(135年)といった宗教対立によって何度も故郷を手放し、荒涼とした世界に投げ出されたのです。
西洋の多くの国々が異民族として入ってくるユダヤ人を軽蔑し、迫害してきました。
それによって彼らはディアスポラ(離散)で国を追われて、ある種、意図的に日本にたどり着いたのです。
茂木 
それはその通りです。
近代でも、帝政ロシアやナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺の歴史があります。
彼らの歴史は、常に屈辱の歴史でもありました。
田中 
こんなに迫害され続けた民族は、世界中にユダヤ人しかいません。
茂木 
田中先生は、ユダヤ人がいつ日本にやってきたとお考えでしょうか。
田中 
日本列島に本来の土着日本人、すなわち縄文人がいたころ、最初のユダヤ人が渡来してきたと考えています。
茂木 
ユダヤ人が戦争や迫害によって移動せざるを得なかった強い理由が、紀元前13世紀の出エジプト、前8世紀のアッシリア捕囚、前6世紀のバビロン捕囚など何度かありました。
この時代はまだ縄文時代ですね。
田中 
私は「五つの波」を経て、ユダヤ人が日本にやってきたと考えています(上表参照)。
茂木 
一番はっきりしているのは、第4波ですね。
応神天皇の時代(古墳時代)、1万人から2万人規模のユダヤ人大集団(秦氏)が弓月国(シルクロード沿いのイリ盆地にあった都市国家)から日本にやって来た。
この秦氏とはどういった存在なのでしょうか。
田中 
秦氏とはローマ帝国を追い出されたユダヤ人が、東へ旅立ち、シルクロード、または草原の道(ステップロード)をたどり、弓月国、支那満洲、朝鮮半島を経て、日本までやって来たとされる渡来人です(左頁地図参照)。
秦の始皇帝も泰氏が関係していると言われています。 
秦氏が朝鮮半島の新羅国を経由し日本列島にやってきたことは『日本書紀』にはっきりと記録が残っています。
秦氏のリーダーである弓月君は、日本に行きたいが新羅人が邪魔をするので助けてほしいと、応神天皇に願い出ています。
天皇も彼らを支援するため、新羅に兵を送っている。
茂木 
ユダヤ教やキリスト教の価値観ではエルサレムが世界の中央にあって、エデンの園(旧約聖書に登場する理想郷)は東の果てにあると考えます。
カトリック教会も必ず東を向いており、参拝者は東を向いて礼拝します。
本来なら、そのまま新羅で定住すればいいものを、あえて日本にこだわったのは、東の果てにある国への憧れが背景にあったのではないでしょうか。
田中 
ユダヤ人を支援し、受け入れた応神天皇も凄い。
日本に来たユダヤ人が渦のように巻かれた絹織物を天皇に献上したため、彼らに土地(今の京都)を与え、その場所を「太秦」と名付けました。
そこにある広隆寺は泰氏が建てたものと言われています。
「機織り」も、秦氏由来の言葉です。
茂木 
古墳時代の人口はおよそ500万人と推定されています。
日本に約2万人のユダヤ人が来たとなると全体のおよそ0.4%に当たります。
生物学的には、日本人の遺伝子には、ユダヤ人遺伝子はほとんど影響していません。
しかしそのユダヤ人たちが、もの凄く高度な技術を持って朝廷に仕えたわけです。 
現在、アメリカにおけるユダヤ人人口は2%ほどです。
メディア界や金融界、ハリウッド、学界などで強い力を持っており、アメリカにおけるユダヤ人の影響は計り知れないものになっています。
田中 
アメリカ人口の2%でそれができるのであれば、まして古代日本においてどれだけの力を持っていたのか、想像できると思います。

日本の同化力の凄さ
茂木 
世界的に見てもユダヤ人は迫害され、異質な存在とみなされてきたのに、なぜ日本では同化することができたのでしょうか。
田中 
日本の風土を理想郷として受け入れることができたからではないでしょうか。
彼らはもともと、砂漠に生きる民族ですから、自然環境が極めて過酷です。
周辺一帯が砂漠地帯であり、厳しい生活を強いられます。
厳しい環境で生きていくためには目に見えない、人間を超越した存在にすがりたくなります。
だからユダヤ人は「神」をつくったといってよいでしょう。 
しかし、日本の自然は緑が豊かで水も豊富、魚や木の実など何でもある。
生きている環境がユダヤ人と日本人では、あまりにも異なっていた。
砂漠の宗教である一神教を捨て、日本の豊かな自然信仰の中に溶け込む方が彼らにとっても都合がよかった。
これが日本の同化力の凄さだと思います。
茂木
日本に同化し、朝廷から名前や地位、土地をもらう。
さらに日本人と結婚し、その混血の子供を育てて一生過ごすようになる。
それが三世代も続くと完全に日本人化してしまいます。 
「ユダヤ教は1神教であり、日本の神道は多神教であるからユダヤ人が日本に順応したはずはない」という固定観念があります。
しかし、『旧約聖書』をちゃんと読めば、古代イスラエルの12支族のうち、アッシリア人の捕虜となり行方が分からない「失われた10支族」は戒律が緩く、すでに多神教を受け入れていました。
だから多神教の縄文人と同化したと考えても不思議ではないのです。
田中 
ユダヤ人はみな、1神教であると思い込んでしまうのは間違いです。
内部分裂と派閥抗争はユダヤ民族に限らず起こる出来事です。

秦氏の影響力
茂木 
同化したユダヤ人は日本にどのような影響を与えたのでしょうか。
田中 
先述したように2万人の秦氏を受け入れる大英断を下した応神天皇は、後に八幡神の主祭神として祀られました。
八幡宮は秦氏が創設した神社であり、「我々ユダヤ人をよくぞ受け入れていただきました」という泰氏から応神天皇への感謝の意味が込められています。
そして彼らは応神天皇のため、当時最大の前円後方墳(前方後円墳は間違い)を建造したのです。
茂木 
八幡神というのは武家の神とされていますが、その起源は、はっきりとは分かっていません。
もともと、秦氏が大陸で祀っていた神なのか……。
田中 
八幡を「ハチマン」と呼ぶようになったのは、後の時代からで、もともとは「ヤハタ」と呼ばれていました。
「8」という数字には「沢山」という意味があります。
つまり、八幡(ヤハタ)とは「秦(ハ夕)が沢山」という意味ではないのか。
また、ユダヤ教の唯一神である「ヤハウェ」の名前とも似ています。
茂木 
なるほど……確かに言われてみれば「ヤハタ」と「ヤハウェ」は似ていますね。
秦氏がやってきた古墳時代には、どういった変化があったのでしょうか。
田中 
極めて大きな変化がありました。
1万年以上続いた縄文・弥生時代は、木の文化でした。
しかし、古墳時代以降、秦氏が石の文化と、土木・建築の技術を日本に持ち込みました。
日本は本来、自然と調和した生活をおこなってきたため、むりやり自然を加工することはなかった。
三内丸山遺跡(青森県)にある六本柱建物がいい例です。
ところが古墳は巨大な人工物で、石の文化です。
ここに秦氏の影響があると思われます。
茂木 
弥生時代後期の吉野ヶ里遺跡(佐賀県)から最近、新たに石棺墓が見つかりました。
石の加工は、明らかに渡来人が持ち込んだ技術です。
古墳も、がっちりとした石棺をつくり遺体を保存する。
これは肉体が蘇ることを意図しており、縄文的な死生観とは異質な文化が入ってきた。
応神天皇陵や仁徳天皇陵のような巨大な前円後方墳を建造するには、秦氏のような渡来系の人々による相当な技術と組織力、資金力が必要だったでしょう。
田中 
秦氏は土木事業を得意とする一族として堤防をつくるなど、灌漑や用水路の技術を生かすことで日本に貢献しました。
後の時代に聖徳太子の側近として有名な秦河勝という人物が登場します。
名前が「河に勝つ」ということからも、土木技術に長けていたことが分かります。
京都の桂川や賀茂川の治水も泰氏に依るところ大です。
このように、高度な技術で政権中枢に貢献することで、政治にもかかわるようになったのです。 

聖徳太子=イエス・キリスト 
茂木 
飛鳥時代には、ユダヤ人はどのような影響力を持っていたのか。
特に聖徳太子との関係が気になります。
田中先生は聖徳太子と血縁関係のあった蘇我氏についても研究されていますよね。
田中 
蘇我氏こそ第5波のユダヤ人であったとみています。
431年、東ローマ帝国で「エフェソス公会議」と呼ばれるキリスト教の重要な会議が開かれました。 
この会議で「ネストリウス派(キリスト教の一派)は異端である」と公式に認定された。
ネストリウス派は国を追われ、東へ旅立ち、日本にたどり着きます。
このネストリウス派追放の流れで日本にやってきた一族が蘇我氏となるのです。
茂木 
話を整理すると、まずネストリウス派はキリスト教徒の1派であって、ユダヤ教徒ではありません。
ユダヤ教徒はそれ以前の2世紀にローマ帝国に弾圧され、世界に離散してしまいました。
田中 
その離散したユダヤ人の一部が東方へ広がる過程で、キリスト教(ネストリウス派)に改宗していったと考えられます。
“蘇我”という名前を見てもわかるように、自らに「我、蘇り」というキリストを暗示する名を付けています。
キリストが処刑後、三日後に蘇ったのです。
それは、自ら「ネストリウス派である」と名乗っているようなものです。
彼らこそ蘇我氏の始祖だと考えられます。
茂木 
蘇我氏は、いわば「新しい秦氏である」とお考えなのですね。
蘇我氏は、大和政権で最も勢いのあった豪族であり、政権中枢に入り込み、自分の娘を天皇に嫁がせて政治を支配したことで有名です。
田中 
ネストリウス派たる蘇我氏は、日本でひそかに“自らの宗派のキリスト教”を広めようとしましたが失敗、蘇我氏は滅亡しました。
なぜ蘇我氏は滅亡したのかーこの謎を解くカギが「聖徳太子はなぜ。厩戸皇子(うまやどのおうじ)と呼ばれたのか」という問いにひそんでいます。
茂木 
『日本書紀』には、母親の穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)が厩(うまや)(馬小屋)の前で産気づいて生まれたと記されています。
これは、マリアがイエス・キリストを馬小屋で産んだという福音書のエピソードと酷似しています。
田中 
蘇我氏はつまり、「聖徳太子を日本のキリスト」にしたかったため、キリスト生誕と聖徳太子誕生の話を強引に結びつけようとしました。
しかし、聖徳太子は皇太子であり、日本の伝統的価値観を重視したため、これを受け入れられなかったのです。
聖徳太子は蘇我氏の企みを見抜いたのです。 
聖徳太子は記録では病死となっていますが、蘇我氏の反感を買ったため暗殺されたのではないか、と私は思っています。
詳しくは拙著『聖徳太子は暗殺されたユダヤ系蘇我氏の挫折』(扶桑社)をご一読ください。
茂木 
蘇我馬子は聖徳太子の叔父にあたる崇峻天皇と穴穂部皇子を暗殺しています。
馬子の孫の入鹿は、聖徳太子の息子である山背大兄王を攻め、一族もろとも死に追いやっています。
田中 
この蘇我氏の冷徹ぶりをみかねた中臣鎌足が中大兄皇子を立て、蘇我入鹿を暗殺、そして一族の力を完全に除いたのです。
茂木 
「乙巳(いっし)の変」ですね。
大化の改新の始まりです。
田中 
そうです。
蘇我氏没落後、有力豪族が皇族に対してテロを企てるようなことはなくなりました。
この時の日本は蘇我氏によって呑み込まれる危機的な状況だったのです。
茂木 
古墳時代には秦氏の勢力が強くなりましたが、彼らは決して皇統を脅かさず、完全に日本に同化しました。
彼らが広めたのが穏やかな八幡信仰だった。 
ところが蘇我氏は一線を踏み越えようとした。
それは彼らが一神教徒であったからで、ネストリウス派キリスト教を広めるために政権を乗っ取ろうとしたが、強引なやり方があだとなり、滅ぼされてしまったーなるほど。

本当に神道?
田中 
今までの話を通じて、古代日本にユダヤ系氏族が流入していたのはほぼ確実であったことがご理解いただけるのではないでしょうか。
実際に、現代でもユダヤと日本が同化していたと思わざるを得ない事物がたくさん残されています。
茂木 
『旧約聖書』に「イサクの燔祭」と呼ばれる話があります。 
エルサレムにモリヤと呼ばれる山がありました。
ユダヤ人の始祖をアブラハムといい、彼は、羊を飼う遊牧民族の長でした。
モリヤの山で、神に羊を捧げていましたが、突然、神から「息子のイサクを捧げろ」とお告げがあったのです。
アブラハムは息子イサクをモリヤの山で、剣で刺し殺そうとした瞬間、天使がそれを止めた。
神はアブラハムを試したのです。
この物語を「イサクの燔祭」といいます。
田中 
長野県に諏訪大社がありますが、諏訪湖を挟んで上社と下社があります。
上社の御神体を守屋山といいます。
諏訪大社は御柱祭が有名ですが、それ以外に「御頭祭」という奇祭があり、江戸時代の頃まで75頭の鹿の頭を捧げる儀式があった。
さすがに現在では鹿の剥製が使われています。
また幕末までは、男児を柱に縛り付け、神官が剣で剌すような儀式も行われていました。
茂木 
これは明らかに「イサクの燔祭」でしょう。
モリヤの山=守屋山。
話ができ過ぎています。
これを偶然だと言えるのでしょうか。
そもそも、神道は血を忌むのに、鹿の生首を捧げていたことも異質極まりない。
田中 
まだあります。
京都の伏見稲荷大社ですが、宮司が捧げる祝詞に「神は唯一にして御形なし。虚にして霊有り」という一文があります。
茂木 
神道は多神教であるにもかかわらず「神は唯一である」とするのは、矛盾しますね。
田中 
実は、稲荷神社も秦氏が広めたものなのです。
茂木 
それなら納得です。
田中 
日本人とユダヤ人は全く異なった存在であって、関係がないと思われるかもしれませんが、実はユダヤ人は日本の文化や風習に対して中国や朝鮮半島以上に影響を与えたのです。
このように考えると、ユダヤ人やユダヤ教が身近に感じられるはずです。
ところが、メディアの多くは、ユダヤ人差別に敏感なためか、ユダヤ人のことに触れたがらない。
茂木 
実は今回の本もある新聞社から広告掲載について、いろいろ横やりがあったりもしました。
田中 
しかし、これまでお話しした内容に鑑みると、日本の歴史はユダヤとのかかわりなしには語れません。
もっと言えば、今や世界の歴史や文化をユダヤ問題なしに語ることはできない。
それだけ影響力が大きい。
だからこそ、ユダヤ問題に対する偏見や恐怖論、腫れ物を扱うかのような態度を払拭すべきです。
茂木 
おっしゃる通りです。
変に隠すから、かえって無責任な陰謀論が広まってしまうのです。
田中 
ユダヤ陰謀論も悪いですが、ユダヤを絶対化するような考え方もよくありません。
そのことをユダヤ人自身も、もっと自覚すべきです。
今は、そういう議論ができるいい兆候があるように思います。
茂木 
日本でもユダヤ問題をオープンに議論し合える時代が来てほしいですね。
田中
全くです。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。