文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

馬賊や匪賊を処断した写真もあります。処刑方法を見ると、どうみても中国式の処断方法だと思える写真ですが

2019年07月04日 11時43分51秒 | 日記

以下は前章の続きである。

濡れ衣が着せられていないか 

日本兵が女性をレイプしなかった理由は、規律が高かったからだけではありません。

実は現地の衛生状態は決して良くなかった。

性病や伝染病も懸念されていました。

ですから慰安所が必要だったし設置されていたんです。

性交渉で梅毒を患う恐れも十分ありましたからレイプなどはもってのほかでした。

日本兵はレイプなど眼中になかったし、まずやらなかった。

日本兵が女性を見たら手当たり次第に襲った、なんて話が流布され、今では真に受けている日本人もいますが、当時の日本兵は実に用心深かった。

衛生観念が徹底していたんです。

ですから、そんな話、当時を知る人間から見ると、荒唐無稽であり得ない話なんです。 

むしろ、中国兵が行ったことが日本兵がやったことに話がすり替えられている話も多いわけです。

東中野修道先生が南京事件の写真検証をなさっています。

あの手のニセ写真のなかには、例えば、通州事件で亡くなった日本人の写真を南京大虐殺で中国人が惨殺された証拠写真のように扱われていたものがありました。

馬賊や匪賊を処断した写真もあります。

処刑方法を見ると、どうみても中国式の処断方法だと思える写真ですが、それが日本兵による虐殺だとされているものもありました。

相当な部分で中国兵による行いがなすりつけられていると思っています。 

私は終戦まで中国にいました。

戦況をめぐる話もしばしば耳にしましたが、日本兵が南京で住民の人たちを虐殺した―などという話は全く聞いたことがありませんでした。

南京で仮に虐殺があったのなら、何か断片的にもそうした痕跡を察知するはずでしょうが、それもない。それは今言われているような虐殺が南京であった、というのは全くの作り話だったからだと私は思っていますし、私が生きているうちに日本の兵隊さんの汚名をそそぎたいと思っています。

大変だった引き揚げ 

終戦は7歳の時でした。

小学校2年生です。

残念でしたね。

ショックというより頭が真っ白になった。

何が起こったの?日本が負けるってどういうこと?という感じです。

とにかく実感が湧かなかったんです。

ただ、身の周りにいた中国人や朝鮮系の方々の態度が急に変わったことは覚えています。 

特に朝鮮系の方々の変わりぶりは豹変といっていいものでした。

急に威張り出す者もいました。

居丈高で傍若無人な振る舞いになるものもいました。

日本人をみると竹やりを持って投げ付けてきたこともあります。

幸い、子供でしたから私が襲われることはありませんでしたが、嫌な思いは随分しました。

同級生のなかには訳もなく殴られた者もいました。 

父が貿易会社を営んでいて、中国人の方々を雇って一緒に仕事をしていた関係もありますが、我が家の財産を全部よこせ、といってきた中国人もいました。

私の家には運転手付きの車両などもあって、裕福でしたからね。 

ただ、父は中国人従業員を大切にしていました。

軍需関係の仕事に携わっていたことが理由で父は戦犯として裁判にかけられそうになり、いったんは身柄拘束されましたが、このとき父を助けてくれたのも中国の方々でした。

父の部下や一緒に仕事をした人が「鈴木は悪い人間ではない、それはわれわれが証明する」といろいろなところに働き掛けてくれて、それで父は解放されたのです。

父がそのように身柄を拘束されていましたので、中国大陸から引き揚げてくるのは大変でした。

母親と私が4歳と3歳の妹を率いて荷物とともに北京、天津から港まで120キロを歩いたんです。

これは辛かったですね。 

引き揚げ者は何度も「収容所」のような施設に入れられます。

中国の役人が「荷物を検閲する」などといって実は分捕るんです。

タンク―の港へ行くまでの間にそのような「収容所」に入れられ、そのたびに金目のものが奪われます。

「ちょっと来い」と命じられて施設に連れられる。

それだけでも嫌ですが、バラックみたいなおんぼろ施設に母親と妹2人と僕と入れられて2日、3日、足止めを食らう。

容赦なく、冷たい風が入ってきます。

それで荷物は取られ、金目のものは洗いざらい抜かれていくんです。 

母は父からプレゼントされたブーツを大切にしていました。

ヨーロッパ製の立派なものでした。

父はとらわれの身になっているでしょう。

母は、手放したくないと思ったんでしょうね、私に「史朗、悪いけどこれを履いてくれ」と言うんです。

「履いて帰ってくれ」と。

履いていれば中国人には取られないからです。

でも毛皮のある女性用ですよ。

僕は黙って履いて中国大陸を歩きました。 

途中、貨物列車の無蓋列車に折り重なって詰め込まれたこともありました。

「乗る」とか「乗せられる」といったものではありません。

荷物として「詰め込まれる」んです。

屈強な男性がいわば下敷きのように下から支えるように入って、そのうえに女性が詰め込まれる。

わずかな距離しか走ってくれませんが、わずかでも多少の距離は歩かなくて済むでしょう。

劣悪さはひどかった。

雨でも降れば最悪だったでしょう。

よく病気にならなかった、と思います。 

道中、幼い妹2人はよくぐずりました。

それはそうでしょう。

120キロなんてとても歩けるものじゃない。

母親はもう息絶え絶えだったと思う。

下の妹は3歳でしたから、抱っこしなければいけないし、さらに荷物もあるわけです。 

私ももうひとりの妹の手を引いて歩かないと生きていけないのですが、私だって根をあげそうになります。

とにかく「史朗、おまえしか男はいないから。お父さんは今、収容されているし頑張れ」と言われて「日本男児だ、負けるもんか」でした。それだけです。

もう、つらいも何もない。

生きた心地がしないなかで、ただ必死でした。 

それでようやく港にたどりつきアメリカの艦船に乗せられました。

解放された父と再会したのは港を出る直前でした。

汚名をそそいだ父は中国人の運転する車で港に駆けつけ、出港の直前に間一髪間に合ったそうですが、私は疲労困憊で肩の荷が下りたのでしょう。

泥のように寝ていたそうで実はよく覚えていません。 

その後、艦船の甲板に出て海を見ることがありました。

真っ黄色の海が青い海に変わった時にびっくりしたのを覚えています。

中国の海は黄海というように本当に黄色い。

私自身が、それまで海は黄色と思っていましたから、見たこともない青い海を初めて見たときは正直、恐かった。

長崎の港に着いたときは桜の咲く季節でした。

中国では妙に寒い季節ですが、日本は春うららです。

桜を見て、なんてきれいなんだ、と。

ここは天国かと思いました。


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