文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

それでもすごさは分かった。「向こう側が全体からなっているか、部分の集合なのか」を議論しているのである

2019年07月06日 21時39分03秒 | 全般

以下は前章の続きである。
先見者エピクロスの不幸 
私は出身がシナ史だが、どういうわけか筑波大学の政治学に配属されて政治学者になった。
北朝鮮の論文が受けたらしい。
哲学の話もよく書くが、哲学研究の手ほどきを受けたことは一度もない。
そこで最近やっと、ギリシア哲学が大層すごいことに気づき、一人で感動している。 
『エピクロス 教説と手紙』(岩波文庫)というのを読んだのだが、紀元前4世紀の人である。
「自然研究に神話を入れるな」(ピュトクレス宛の手紙、主要教説12)、「神は人間の祈りを聴かない」(断片その二の58)、「夢見は預言にならない」(断片その1の24)、「万物は偶然であっても問題ない。万物は必然だという人は、偶然だという人がいるのも必然になってしまうからだ。第一必然は悪だ」(主要教説16、断片その1の9と40)、「善悪は結果の見通しだ」(主要教説の34)、そのまま引用すると一頁埋まってしまうので、圧縮したり抽象化したりした。
原文は少し違う。
で、要はそんなことが書かれている。
今ならば全部当たりだが、紀元前の古代にこんなことを言って無事でいられるはずがない。
古代というのは、自然を見て神話を語り、夢見でうらない、飯を喰っている人が大勢いるのだ。
今の雷は神のたたりだとか、海が荒れるのは海神を怒らせたからだとか、人々を脅かし、ひれ伏させる者たちもエピクロスには舌打ちしたことだろう。
あるいは鞭で追い払ったものか。 
万事、時間を超えるということはこういうことで、エピクロスは恐るべき先見者なのである。
百年先のエルサレム滅亡を告げた、古代イスラエルのモレシテ・ガテの預言者ミカよりももっとすごい。
内容をもう少し見てほしい。
すさまじく冷酷だとは思われないだろうか。
神は人の祈りも聞き入れないし、自然とは関係ないという。 
こんな風に現代から直接頭で(頭の中の線形時間で)記録を見るのではなく、体で(体の中の体内時間で)記録のあった頃にシンクロしてその地に着地して周りを見、匂いを嗅ぐ歴史研究を着地主義と呼ぶことにしよう。
前者は頭そのままこちら側で乗り物に乗ったような気分で過去を見わたすので眺望主義とする。
丸山眞男などはこちらだろう。
うまい言葉がないので、苦肉の策で考えてみた。
もっといい言葉があれば、もちろん従うつもりである。 
エピクロスは当時としては許しがたい存在であり、当然誹謗中傷や弾圧を受けたことが、ディオゲネス・ラエルティオスの『ギリシア哲学者列伝』にある。
ひどい目に遭ったので、「隠れて、生きよ」(断片その二の86、これは本文のママ)という箴言を残している。
何だか身につまされる言葉である。
古代ギリシア哲学のすごさ 
神さまは人間を放り出し、自然は冷酷にふるまい、世の人々には排斥される。そのような苦痛と不快を埋め、何食わぬ顔で生きるためにも、エピクロスの哲学は快楽主義でなければならなかったのである。 「もしわたしが味覚の快を遠ざけ、性愛の快を遠ざけ、聴覚の快を遠ざけ、さらにまた形姿によって視覚に起る快なる感動をも遠ざけるならば、何を善いものと考えてよいか、このわたしにはわからない」(断片その二の10) 
ここまでくれば、ただの飽食で、すけべえで音楽好きで、美人好みではなかったことが、お分かりいただけたことだろう。
神も自然も世間もエピクロスにはつらく、当然いつも貧乏でパンと水ばかりの食事、金がないから遊女屋にも行けない。
でもエピクロスは美形で女にはきっとモテたのだろうと、だいたい推測がつく。
若かった頃の私のようだ。
私も先見者なのだが、そんなことに気づいたのは、ずっと後のことだった。
もっと早くエピクロスを読むべきだった。 
そういうことを告げるためではなく、迫ってくる死の恐怖からのがれたくて、夜半、長谷川三千子先生に電話をかけてしまった。
この人はすごい人で、たぶん旧約の女預言者デボラかホルダの仲間だと思う。
瞬時に察して、いつでも電話しなさいとおっしゃって下さった厚意に反し、私はそこから長々とエピクロスがいかに自分に似ているかとか、これまで生きてきた苦痛と不快、つまり不幸を延々と愚痴ってしまったのだった。
先生はあきれたように、「自分はパルメニデスの方です」とおっしゃって電話を切られた。 
そこで性懲りもなく、翌日図書館へ行ってプラトン全集のパルメニデスを借りだしてきて読んでみたのだが、これまたなんともすさまじい内容であった。
繰り返すが私は、哲学研究の手ほどきを受けたことがないので、すべて純な感動である。 
まず、パルメニデスとソクラテス、プラトンは年代を異にするので、ここに書かれているのは「霊の会話」に擬されたものだ。
論理が今の論理とは全然ちがうので、何を議論しているのかさっぱり分からない。
「古代ギリシア人の会話の論理」みたいな本か論文があれば案内になるのだが、専門外なので調べがつかない。
お手上げで、寝たり起きたりしながら漫然と読んだのだが、時間という概念が年齢という概念になっている。
自然概念も毛髪や泥や、汚物などはつまらないものとして除かれている。
まあ、眺望主義から言えば、自然も時間も全然現代には及ばず、甘いのである。 
それでもすごさは分かった。
「向こう側が全体からなっているか、部分の集合なのか」を議論しているのである。
これは私が、またもや図々しく『ヨーロッパ思想を読み解く』(ちくま新書)なんていう本を書いてしまった時に、漠然と気がついたことなのだが、深入りするとやばいと察知し、するりと通り抜けた箇所であった。
私はこんな風にいつも先に気が来て、あとから言葉が降ってくるのである。
既にやってしまったことに後から気づき、やってしまったことがまとまって、単文になって到来するというと、預言者らしくなる。 
多くの読者は何を言っているか分からないだろうけれど、読者を顧みずに書いているから、ここはするりと擦りぬけてほしい。
とにかくこれで、私には分かったのである。
長谷川三千子先生の書きものが、なぜ「金亀虫擲(こがねむしなげう)つ闇の深さかな」(虚子)なのかが。
この稿続く。


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