文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

19世紀初めの朝鮮の儒者が、「(我が国の拙(つたな)きところ)針なし、羊なし、車なし」(鄭東『晝永編』)といっている。

2020年09月18日 23時58分23秒 | 全般

以下は、さっきネットで発見した記事からである。
■室町時代前期の1429年、日本にきた朴端生は、次のように復命していた。
それによると「日本の農人水車の設けあり」として、学生の金慎に「造車の法」を精査させて模型を作り、鍍銀(銀めっき)、
造紙(紙漉)、朱紅、軽粉等の製造法を報告している。
この時の復命では、日本の貨幣経済の実態や店舗商業の発展等にも及んだが、
その中で技術に言及していたのは、渡航前に世宗から
「倭紙堅靱、造作の法また宜しく伝習すべし」と、日本の技術を導入するよう命じられていたからである。
朝鮮はまだ物々交換の時代で、貨幣や商いを知らなかったので、15世紀の朝鮮通信使は日本の乞食は銭を乞うと驚きをもって記録している。
これに対して日本では、朴端生が日本を訪れる百年以上も前に、水車を利用して離宮に川の水を汲み上げた話が
『徒然草』(第五十一段)に記されている。
その水車が農民たちの手で取り付けられていたことを考えると、
当時、日本と朝鮮の間には相当の技術格差があったことがわかる。
したがって、韓国の歴史教科書にあるように
「技術を学ぶのに苦労していた」のは、
日本側ではなくむしろ朝鮮の方であったのである。
朝鮮人が水車の技術を導入しようと苦慮していたことに関しては、
1880年代になっても金弘集が「朝鮮には灌漑設備がない。水車もない」
と未開性を嘆いていた。
つまり朝鮮では、朴端生が1429年に日本に来た後、500年近くかけても水車を実用化できなかったということになる。
以下は、産経新聞、2008/12/17の「正論」からである。
≪■「チャングム」のまやかし≫
近頃、会合で話をすると10人に1人位は韓国時代劇チャングムのファンがいて、物語をそのまま史実だと思いこんでいることが多いので、正しておきたい。
まず朝鮮の李朝では、女子が宮中に出仕すると王様と疑似婚姻関係に入るので一生外に出られない。
チャングム女史のように出たり入ったりはできない。
ドラマでは李朝時代は色彩にあふれているが、ほんとうは顔料がないので民間に色はない。
中国の清朝でも日本の江戸時代でも陶磁器に赤絵があるが、朝鮮には白磁しかないのはそのためで、民衆の衣服が白なのも顔料が自給できないからである。
民芸研究家による「朝鮮の白は悲哀の色」というのも、今では真っ赤なウソである。
上流階級だけは中国で交易する御用商人から色のある布を買っていた。
李朝は清朝や江戸時代と異なり、技術革新を嫌い、低レベルの実物経済で500年もの統治を可能にしたのであり、どこに似ているかといえば、いまの北朝鮮に似ている。
19世紀初めの朝鮮の儒者が、「(我が国の拙(つたな)きところ)針なし、羊なし、車なし」(鄭東『晝永編』)といっている。
針は粗雑なものがあったが、ちゃんと縫うには中国から針を買わねばならなかった。
当時の中国針は優秀で、日本も輸入している。
羊はモンゴルに征服された高麗にはいたが、いつの間にか滅びた。
車は西洋文化が流入するまではない。
木を曲げる技術がなかったからである。
だから李朝には樽(たる)もない。
液体を遠方に運ぶことすらできなかった。
かつて日本が保護したとき、韓国はそのような国であった。
≪■歴史教科書にも国内批判≫
韓国の歴史教科書について、最近では韓国の学者の間でも批判が出始めている。
日本がやってきて、せっかく李朝期にあった韓国近代化の芽を摘み、植民地期にひたすら収奪したという論はもはや無理の限界に来ている。
批判には、「このような収奪論には実証的な根拠が確実ではないという問題点がある。コメは日本に収奪されたのではなく、経済論理に従って日本に輸出されたのであり、それにともなって日本人を含む韓半島(韓国人は朝鮮半島をこう呼ぶ)全体の所得が増加した」(教科書フォーラム編『代案教科書 韓国近・現代史』2008年3月)と書かれてある。
振り返れば韓国の歴史教科書もはじめからナショナリズム一辺倒であったわけではない。
初期には、日清戦争で「日本の勝利となり、下関条約が結ばれ朝鮮の独立が認められた」(★佐鎬『中等世界史』英志文化社、1959年)とか、朝鮮は清の「半属国」だった(金聲近『高等世界史』高等学校2・3学年用、教友社、1962年)とか、平然と言っていた。
日本が強制的に保護条約を押しつけたと居直るのは、70年代の中頃からのことで、朴正煕政権の後半、力量を持った民族ではなかったことが被植民地支配の原因だったと、ひそかに反省し始めたときであった。
 ≪■利権あさる一部マスコミ≫
ところが、82年6月26日に日本のマスコミが、教科書検定で日本の中国への「侵略」が「進出」に書き換えられたという誤報を行った。
日本ではちょうど検定制度をめぐって政府と日教組が大揉(も)めだったときだ。
中国・韓国からのはげしい抗議が始まり、結果として近隣諸国条項(1982年11月24日、教科用図書検定基準)が設けられ、その影響で文部省の第6期学習指導要領(1989年告示)で、「とくに朝鮮については我が国と深いかかわりがあり、従前よりもさらに重視するようにする」という但(ただ)し書きがついてしまった。
反省の機会を失った韓国の歴史教科書は、日本の自虐史観に反比例するように、どんどんと自尊的になり、「しかし日本は帝国主義列強よりもさらに残忍にアジア各国を蹂躙(じゅうりん)し、20世紀の歴史を悲劇で飾った第二次世界大戦を起こした。このような悲劇は日本の朝鮮強占ではじまり、これは隣の国との友好関係を破壊したところにその原因がある」(申チェシク・洪ソンピョ『高等学校世界史』ポヂンヂェ、1990年)とまで、歴史の歪曲(わいきょく)を行うようになっていったのである。
日本の自虐史観の対照には韓国の自尊史観があるのであり、それはひずんだ鏡のように日韓の関係を歪(ゆが)めてきた。
もはやポストモダン期にある日韓では、世論は反日でも贖罪(しょくざい)でも盛りあがらない。
盛りあがっているのは、韓国の反日市場で利権をあさり、同じく日本の贖罪市場で利権の維持に汲々(きゅうきゅう)とする、一部マスコミと学者たちにすぎないのではないか。
(ふるた ひろし)。


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