文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

『人は平等』であるということを、本当はだれも信じていない。これは小学校一年生になった途端にわかることであり、これほどの虚構は他に見当たらない

2022年05月13日 22時53分26秒 | 全般
毎日と朝日が「韓国に対する加害責任」しか言わなくなったのもこのためである。と題して、2020年11月29日に発信した章を再発信する。
たたかうエピクロス、と題して月刊誌WiLLに掲載されている古田博司氏の連載エセ―からである。
本論文は2020年11月26日に発売された号から。
以下は前章の続きである。
私が「エセー体」で書く理由 
ユダヤ系の哲学者アドルノが、1958年の『文学ノート』の中で、エセーという文体について語っている。
当時ドイツでは、知識人にエセーは雑文あつかいされていた。
専門書や論文の文体が知識人の伝統形式というわけだ。
ところがアドルノは、「それはおかしい、網の目のように張り巡らされた客観性なるものも、そのじつ主観の業だと暴露できるのがエセーだ」と、ドイツではかなり大胆に指摘したのであった。 
それほどドイツは遅れていたのだ。
フランス・モラリストというのをご存じだろうか。
17世紀に集中して現れる、モンテーニュ、パスカル、ラ・ロシュフコー、ラーフォンテーヌらのことである。
18世紀のエルヴェシウスはその系統をひいている。 
彼らモラリストは当時の中世キリスト教界のスコラ学の言い回しを拒否し、宗教家・神学者・道徳家の身振りにも異議を申し立てる。
中世の権威筋を無視して、エセー体で自由に現実の際限なさを語るのである。要するに、ホッブズやロックらの社会科学系に対して、その人文系のようなものである。
彼らの敵は、もちろん中世キリスト教世界だった。 
そこでアドルノのエセー論を読んでとても納得したので、筑摩書房から出した『日本文明圏の覚醒』(2010年)というタイトルの単行本を全編エセー体で書いてみた。
西尾幹二氏が、「これは専門書だ」と、指摘されたのはじつに鋭かった。
それで自由な著述が可能になったので、以後私は新聞コラムだろうと、本来固い内容の哲学本だろうと、学術論文までぜんぶエセー体で書いてきた。
近代の権威筋を無視し、近代の伝統形式を拒否し、自由に直観し、超越したのである。

当初、竹内洋氏には「古田節」と言われたが、そのうち誰も何も言わなくなった。 
ある日、岡田英弘氏の文章を読んでいると、「『人は平等』であるということを、本当はだれも信じていない。これは小学校一年生になった途端にわかることであり、これほどの虚構は他に見当たらない」(朝日ソノラマ、1999年)というのがあった。

恐ろしいことがエセー体で書かれてあったので、また天才に先を越されたと思った。
ふと気になったので、奥さんの宮脇淳子氏にたずねると、先生も実は快楽主義者だったことをそれとなく告げられた。

進歩史観の崩壊で露呈したこと 
最近私は、「着地主義と眺望主義」という言葉をよく使う。
当初はなぜやっているのか実は分からなかった。
眺望主義は、過去・現在・未来という、頭のなかの線型時間、つまり線分上に乗るまっすぐな時間で、現在から過去の記憶を見渡し、その風景を語るやり方だ。
連載前回で話したように、80年代から90年代にかけてのフェミニストは、今から眺めると「色ぐるひ」の女性論客に見える。 
ところが、当時の記録に体内時間をシンクロさせて、着地して周りを見ると風景ががらりと変わるのである。
前の時間を人間の時間とすると、これは生物の時間の方で、これだけが体内で流れている。
で、その風景は、切実な「女性の快楽主義者」であり、彼女たちは男性に満たされず苦しんでいるということだった。 
なぜこんなにフェミニストの風景が変わるのか。
考えられる推論は、自然の時間は線型時間とも体内時間とも異なるということである。
自然の時間、すなわち量子時間は非連続だ、ということだ。 
物理学者のカルロ・ロヴェルリ氏が、「いわばカンガルーのようにぴょんぴょんと、一つの値から別の値へ飛ぶものとして捉えるべきなのだ。…この世界はごく微細な粒からなっていて、連続的ではない。神はこの世界を連続的な線では描かず、スーラのように軽いタッチで点描したのである」(『時間は存在しない』NHK出版、2019年、86頁。これは邦訳のタイトルが問違っている。
あるいは時間論の哲学者大森荘蔵氏が、「よく知られているように、ある物理系のある物理量を観測することによってその系の状態を表現する状態関数がその量の固有関数の一つにこれまた非連続に移行する、いわゆる『波束の収縮』を起こすという理解に苦しむ現象がある」(『大森荘蔵著作集』第八巻「時間と自我」岩波書店。1999年)と、いっているのは、非連続な量子時間のことを語っているのである。
ではなぜ、私は眺望主義と着地主義などと、唱えるようになったのか。
それはヘーゲル・マルクスの進歩史観が完全に壊れて、直線的に流れる時間観が意味をなさなくなったからだと思われる。
もう一つ例を挙げよう。
連載の第13回で、60年代の「進歩的文化人」が、在日韓国人の差別と偏見の軽減に功績があったことを述べた。
この進歩的文化人の子孫が今の自称リベラルなのだが、こんなことを言ったそうだ。
「在日(韓国人)は祖国を裏切って日本にいる。そんな証言を出して、韓国が嬉しいはずがない」(産業遺産情報センターの軍艦島展示に文句をつけた、NHK解説委員、出石直氏の発言、『Hanada』10月号、加藤康子「記者か、活動家か、朝日、毎日が目の敵にする産業遺産情報センター」)。
まったく逆になってしまったではないか。「日本で差別されている人々」から「韓国の裏切り者」へ。
出石直氏よ、うちの元在日韓国人で、急歩的文化人に感謝していた妻が激怒していたぞ。
「父母が韓国から脱出してくれなかったら、済州島の寒村で学校にも行けなかった、どんなにありがたかったか。それを裏切者だとは!」と歯ぎしりしていたぞ。 
それはともかく、どうしてこんなことになったのか、これは眺望主義と着地主義でないと解けない。
時間の点と点を見る。
まず進歩的文化人は、資本主義より社会主義の方が進歩した経済体制だと思いこんでいた。
中国や北朝鮮は日本より優れている、その優れた国に日本は悪いことをして罪を背負った。
これが「アジア贖罪」であった。
韓国は資本主義なので、彼らからは悪で、社会主義の北朝鮮が善だった。
在日韓国人と、彼らは言わなかった。
在日朝鮮人といい、在日は北朝鮮の方につながっていたのだ。
だから彼らは在日朝鮮人への差別と偏見をなくそうとしたのだ。
そして一定効果があった。 
現在の出石直氏は、1968年のソ連のチェコ侵攻、1991年のソ連邦の崩壊、2002年の金正日の拉致自白などで、社会主義体制が善だとは言えなくなった進歩的文化人の子孫で、「アジア贖罪」だけが残ってしまったのである。
中国もナショナリズムで世界の各国と対立し、悪を振りまいている。
もはや韓国しかないではないか。 
そもそもの誤りは、進歩的文化人が、外国を自らの倫理のネタにしたことであった。
*私は、これはドイツの政治家や文化人にも共通する事だと確信している*
そんなことをするから、倫理観が外在してしまい、韓国に憑依してしまったのだ。
進歩史観はなおも護持している。
ほれ見ろ、韓国は進歩したではないか、ひょっとすると日本より進歩したと、思いこんでいるかもしれない。
「そんな立派な国から逃げ出してきたのだから在日韓国人よ、お前らは裏切り者だ」というわけである。
毎日と朝日が「韓国に対する加害責任」しか言わなくなったのもこのためである。 
贅言)(ぜいげん)すると、現在文部科学省教科青調査官のチーフ、中前吾郎君は筑波大学出身で私もよく知っているのだが、東アジアの「内在的発展論」の信者である。
これはマルクスの唯物史観のアジア版であり、東アジア各国は内在的な力量で主体的に普遍的発展法則にのっとって発展したとし、外在的な契機については全く関心が希薄なのが特徴的である。
彼が現在教科書検定で自由社の教科書を弾圧している背景に、もはや崩壊した「進歩史観」を必死に護持しようとし、アジア観が倒錯してしまった朝日、毎日とNHKの出石直解説委員らと同じ姿を見ることができるだろう。 
かつて、我が国のインテリゲンチュアで社会主義者華やかなりし頃、私も思想的にさんざん弾圧されたのだが、眺望的に過去を見返してみれば、彼らは自分たちから見て「間違っている古田」を善導しようとしていたのかもしれない。
骨董と化した進歩史観を早く捨てて、量子時間で歴史を眺望的に、着地的に見る観点を確立してもらいたいものである。


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