以下は今日、発売された週刊新潮の最後に在る高山正之の「変見自在」からである。
日本国民のみならず世界中の人たちは、彼の博識、見識、取材能力の高さに舌を巻くだろう。
彼は戦後の世界で唯一無二のジャーナリストであり、日本の宝物である。
75万円だけですか
ダグラス・マッカーサーは米国がフィリピンに建てた傀儡政府に雇われた形でマニラに赴任した。
仕事は10万精強のフィリピン国軍作りだが、その任務は日本軍が攻めてきたときどれほど米兵の盾になれるか。
英軍にとってのインド兵みたいなものだった。
昭和16年11月末、日本への最後通牒ハル・ノートが出されたころには盾の準備も何とか間に合い、それを補強する戦車部隊も米本国から到着していた。
英国も九竜とマレー半島に強固な要塞を構築し、インド兵の配置を終え、戦艦プリンス・オブーウェールズもぎりぎり
12月2日にはシンガポールに入った。
万事予定通り。
そして真珠湾攻撃も予定通り。
さあマッカーサーの出番となってすべてが狂った。
彼は夜明け前に日本軍の攻撃を知らされたあとずっと居室に閉じこもったまま。
手元には独の最新鋭戦闘機ですら歯が立たない重爆撃機B17が40機もある。
それで台湾の日本軍基地を叩きましょうと部下が促してもただおろおろ。
そのうち日本の爆撃機がクラークフィールドを襲って地上にあったB17や戦闘機など200機をすべて破壊してしまった。
日本軍のリンガエン湾上陸を聞くころにはマッカーサーも判断力を取り戻して、すぐさまコレヒドール島に撤退を決めて逃げだした。
そこも危なくなると「I shall return」とか言って兵士を見捨てて敵前逃亡を決断した。
逃げる前、傀儡政権のケソン大統領を呼んで「国軍を養成してやった報奨金50万ドルを要求しニューヨークのケミカル銀行の彼の口座に振り込ませた」(マイケル・シヤラー『マッカーサーの時代』)。
彼はまたコートニー・ホイットニーの忠告で逃亡前にフィリピン鉱山の株を買い占めて戦後、大儲けをした。
ホイットニーは後にマッカーサー憲法を書き上げる一人になる。
そんな男が敗戦日本を仕切った。
彼はまず彼に恥をかかせた日本軍に徹底的に仕返しした。
山下奉文は屈辱の絞首刑に処した。
次に「戦争指導者39人を吊るせ」と言った。
米国の集団処刑はスー族の部族長38人を一度に吊るしたマンカト裁判がある。
彼はそれを凌ぐ39人の記録を樹立する気だった。
彼はまたキューバ、フィリピンなどと同様に米国製憲法の押し付けも試みた。
ホイットニーがその草案を書き上げる一方、GHQは審議する国会議員の入れ替えをやった。
まともな議員をパージしGHQの言いなりになる候補者を立てて当落まで決めた。
加藤シズエら女性39人とGHQが出獄させた共産党員が衆議院に入り、彼らの尽力でマッカーサー憲法は成立した。
GHQは日本の人口を減らすために社会党に人工中絶合法化法案を提出させ、成立させた。
この法律には加藤シヅエが戦前にヒットラーと競い合った知的障害者の強制断種を合法化する一項も入っていた。
それを応援したのが朝日新聞だった。
マッカーサーは意のままになる国会にもう一つ無理難題をやらせた。
終戦間際、無害通航が保障された緑十字船を米潜水艦が魚雷攻撃し、2000人が殺される阿波丸事件があった。
生存者は給仕係の下田勘太郎ただ一人だった。
米側は非を認めたが、米大統領選に立つ気だったマッカーサーは日本側に賠償要求を引っ込めさせ、ついでに駐留米軍の経費一切を日本が負担するよう要求。
これを国会審議で飲ませた。
マッカーサーはテニアンに軟禁されていた下田勘太郎を第一生命ビルに呼び、口止め料75万円を与えた。
後にも先にもマッカーサーが日本で払ったのはこれだけだった。
早大の豊永郁子教授が先日の朝日新聞でマッカーサー憲法を称賛し「起草者にGHQの優秀な人材を得たことは日本にとって幸運だった」と書いていた。
マッカーサーとホイットニーのことかしらん。
早稲田ではこんな人が教鞭をとっているんだ。