以下は、世界有数の中国通である遠藤誉さんが、2021年4月に出版した下記の本の前書きからである。
日本国民のみならず世界中の人達が必読。
特に岸田派に所属している政治家達と、近しい政治家達は肝に銘じて読まなければならない!
文中強調は私。
1921年7月23日から31日まで、中国共産党第一回党大会が上海で開催された(最終日は浙江省南湖の船上)。
当時は蒋介石(1887~1975)率いる国民党が統治する「中華民国」の時代だったので、党大会開催は邪魔され、資料もちりぢりになったことから確実な開催日が確認できなくなり、1941年6月に開催された「建党20周年記念大会」において、区切りの良いところで「7月1日」を党の生誕記念日と定めた。
したがって今年2021年7月1日は、「中国共産党の建党100周年記念」となる。
現在の中国、すなわち中華人民共和国が誕生したのは1949年10月1日だ。
当時は「新中国」と称した。
新中国が誕生できたのは、毛沢東(1893~1976)らが国民党軍の掃討作戦を逃れてひたすら北上した「長征」の末に、西北革命根拠地が陜西省延安を含めた地域にあったからだ。
他の革命根拠地はすべて国民党にやられていたので、あのとき、もし西北革命根拠地がなかったら、中国共産党軍は国民党軍に殲滅されていた可能性が高い。
新中国は誕生しなかったということになる。
だから毛沢東は西北革命根拠地が築かれていたことを、この上なく喜び感謝した。
この西北革命根拠地を築いた者の中に、習仲勲(1913~2002)がいる。
のちに習近平(1953~)の父親になる人だ。
毛沢東は習作勲を「諸葛孔明より賢い」と高く評価し、その先輩である西北革命根拠地の高崗(ガオ・ガーン。1905~1954)を自分の後継人にしようとしたほどである。
ところが新中国が誕生してまもなくすると、高崗は「謀反を企てた反党分子」として追及され、1954年に自殺してしまった。高崗に謀反の計画ありと毛沢東に密告したのは鄧小平(1904~1997)と陳雲(1905~1995)だ。
1962年になると、今度は小説『劉志丹』を使って、当時、国務院副総理にまで昇進していた習作勲がやはり謀反を起こそうとしているとして失脚してしまう。
劉志丹(1903~1936)は西北革命根拠地を最初に築いた英雄的人物で、習作勲や高崗の先輩であり、戦友でもある。
習仲勲は、劉志丹を讃えることによって高崗の名誉回復を企てた「反党分子である」という罪で、16年間も獄中生活を強いられた。
その間に「長征」を讃えることも、「延安」あるいは「西北革命根拠地」を重要視することも許されないような空気が重くのしかかっていた。
毛沢束が1976年9月9日に他界すると、1966年から76年まで荒れ狂った文化大革命(文革)を起こした毛沢東までをも否定するムードがあり、毛沢東が後事を託した華国鋒(1921~2008。中共中央主席、国務院総理、中央軍事委貝会主席)は「毛沢東への個人崇拝を捨てきれていない」として、鄧小平によって引きずり降ろされ、鄧小平が実際上の最高権威者となって「改革開放」を推し進めたことになっている。
鄧小平は「改革開放の総設計師」と称され、「現代中国の父」と崇められて「鄧小平神話」が世界中を席巻し、定説となってしまった。
しかし、習近平政権になると事態は一変した。
習近平は毛沢東がよく使った言葉を頻用したり、自分自身を「私は延安の人」と言ったりなどして西北革命根拠地に焦点を当て、まるで「毛沢東への先祖返り」と揶揄されるようになった。
それだけではない。
2016年10月になると、今度は「長征80周年記念大会」を盛大に催して、習近平は実際に毛沢東らが歩んだ長征の要所要所をたどる旅にも出ているのだ。
そして翌年から激しくなっていったトランプ政権による対中制裁を、「長征」にたとえて「忍耐せよ」と説き、「最後は中国共産党が勝ったではないか」と檄を飛ばすようになっている。
もちろん、西北革命根拠地を築いた者の一人が自分の父親・習仲勲であることから、そこにあった延安を重要視するというのは分からないではない。
しかし習近平が打ち出す国家戦略を見ていると、それだけでは説明できないことがあるように思われてならない。
そもそも「高崗事件」は、今もなお「謎」として残っており、表面的には「高崗が謀反を企てた」という鄧小平らの言い分が通っているようなものの、鄧小平と陳雲が死ぬまで高崗の名誉回復を許さなかったことや、高崗の妻・李力群(1920~2020)が早くから「鄧小平は毛沢東より覇道だ」と主張し続けたことからも、鄧小平が何か不正なことをしたのだろうということが窺われる。
何が起きたのかを突き止めない限り、「中国共産党とは何か」、そして「習近平政権の正体は何なのか」を真に知ることはできない。
そこでこのたび「高崗事件」を徹底して解剖したところ、とんでもない事実が判明した。
それは鄧小平が野心に燃えて、自分が天下を取るために、高崗を陥れるための謀を陳雲と示し合わせて展開していたという事実である。
それが「幻想」ではなく、「真実」であることを示すために多くの資料を用いて本書の第二章で証明を試みた。
ト正平は、毛沢東が西北革命根拠地の革命家たちを重視するのを抑え込もうと悪知恵を働かせていたのである。
事実、高崗が自殺したあと、鄧小平は中央書記処総書記に就任するなど出世街道を走り始めた。
「高崗事件」の犯人は鄧小平だったのである。
それを証明することを可能にしてくれたのは、2008年に高崗の秘書だった趙家梁が著した回想録だ。
鄧小平が他界した1997年を待って書き始め、10年の歳月を費やして香港の出版社から『半截墓碑下的往事 高崗在北京』(半壊の墓標の下での出来事 北京における高崗)を出版した。
これらを基にさまざまな周辺事情を分析することにより、1954年以来の中国共産党の謎の事件の一つが解明できたと自負している。
だとすれば鄧小平は同様に、小説『劉志丹』を利用して西北革命根拠地を築いた習仲勲を陥れようとしたのではないのか。
西北にいた者はすべて「消して」しまわなければ自分の出世の邪魔になると思ったのではないのだろうか。
その疑念が頭をもたげた。
中国の官側の報道では、1962年当時、雲南省の書記をしていた閻紅彦が「これは高崗の名誉回復につながる」と言い始め、それを康生(1898~1975)に訴えて、康生か楊尚昆(1907~1998。当時、中央書記処候補書記)を通して鄧小平に知らせたというストーリーになっている。
康生はソ連のスターリンから秘密警察による粛清や処刑の方法を学んだ「中国のベリア(スターリン時代の粛清執行人)」と称される人物だ。
この説は一見「もっともらしい」筋立てに見えるが、当時の人物関係から見ると、実は「あり得ない」ストーリーだ。
なぜなら、一つには、閻紅彦は康生といかなる関係もないので、雲南省の書記がいきなり康生に直訴するということは考えにくい。
さらに重要なのは、閻紅彦は国共内戦時代の軍隊における鄧小平の直属の部下で、その後も閻紅彦と鄧小平は非常に緊密に連絡し合っており、閻紅彦は鄧小平のお陰で昇進しているので、鄧小平の言うことなら何でも従うという間柄である。
鄧小平と康生は「非常に仲が良かった」と、のちに康生の秘書が回想している。
一方、閻紅彦は西北革命根拠地において、劉志丹と対立していた謝子長(1897~1935)という、もう一人の革命家の部下だった。
あともう一歩で劉志丹一派(劉志丹・高崗・習仲勲ら)を生き埋めにできたところに、毛沢東らが長征の着地点に西北革命根拠地を選んだため生き埋め計確が中断させられ、謝子長一派側の罪が問われる結果を招いた。
延安に入った毛沢東は高崗を非常に気に入り、閻紅彦は高崗に虐められたという怨念を抱き続けてきた。
それを知っている鄧小平が閻紅彦と組んで習仲勲失脚のための陰謀を謀ったことが、今般の分析の結果、判明したのである。事実、習仲勲のすべての職を奪う決議をした会議が終わったその夜、閻紅彦は鄧小平宅を訪れて祝杯を挙げている。
本書の第三章でその証拠を求めて真相を突き止める作業に入るが、それを理解するためには「劉志丹と謝子長の相克」が分かっていないと究明できない。
そのため、遠回りのように見えるかもしれないが、第二草で西北革命根拠地における実態と「長征」の着地点としての役割をしつこく追いかけた。
1978年2月に政治復帰した習仲勲の第1の赴任地は広東省たった。
荒れ果てた深圳などの辺鄙な地区を開発し、香港に出稼ぎのために逃亡する大陸の庶民を引き留めるには、何としても香港と隣接する深圳などの地ぼを豊かにしなければならない。そのため習仲勲は広東省のいくつかの地区に「中央の権限を譲渡してくれ」と必死で中央に懇願した。
そのときに浮かんだ概念が西北革命根拠地で創っていた「革命特区」だ。
こうして「経済特区」という概念が出来上がっていったのである。
改革開放も経済特区もすべて鄧小平の発想であるかのように位置づけられているが、実は華国鋒は改革開放と同じ意味の「対外開放」という言葉を用いて、実際上、改革開放政策を実施しようとしていたし(2008年に『還原華国鋒(華国鋒の真相を掘り起こせ』という論文など)、経済特区は習仲勲が汗まみれになりながら実現していったものだ。
それを主張するためか、2012年11月の第十八回党大会で中共中央総書記に選ばれた習近平が最初に視察した場所は深圳だった。
父・習仲勲が鄧小平の陰謀により失脚してからちょうど50年間。
半世紀にわたる忍耐と怨念が、静かに血を噴き始めた瞬間だ。
この員が関係を見ない限り、習近平の国家戦略と、なぜ憲法を改正してまで国家主席の任期制限を外したのかに関する復讐の怨念の深さは見えてこない。
それに関しては第七章で論じた。
鄧小平神話を堅固なものにさせたのは、実は日本だ。
本来なら1989年6月4日の天安門事件で、民主を叫ぶ若者の声を武力で封じたのだから、中国共産党の一党支配作制はここで終わりを告げる可能性は大きかった。
それから間もなくベルリンの壁は崩れ、共産主義体制の最高峰にいたソ連も崩壊した。
天安門事件は中国共産党による一党支配体制を崩壊させる唯一にして最高のタイミングだった。
そこに待ったをかけた国がある。
日本だー。
西側先進諸国が一致して対中経済封鎖を行おうとしていたのに、それを緩くさせただけでなく、実行された経済封鎖をも、すぐに解除させてしまった。
1992年に天皇陛下訪中まで成し遂げ、制裁を掛けていた西側諸国を一気に「中国市場への投資」に傾かせていった。
これにより中国経済は息を吹き返し、2010年にはGDP規模において日本を抜き、2028年にはアメリカを抜くだろうと予測されている。
経済復帰したのだから、民主の声を武力弾圧した鄧小平の判断は正しかったものとして中国でも受け止められ、少なからぬ日本のメディアや政財界関係者を含めた西側諸国にもその視点が広まっていった。
このような言論弾圧と民主弾圧をする国家の価値観が、やがて全世界を統治するルールになっていくことを、人類は許していいのだろうか?
習近平は鄧小平への復讐をする際に、「父親の仇を討つのを優先するのか、それとも一党支配体制維持を優先するのか」という選択を迫られる場面に何度も出くわしている。
そのとき習近平は「一党支配体制の維持」を最優先事項に置く要素があることを見逃してはならない。
つまり習近平の弱点は「親の思いを裏切って一党支配体制を優先した」というところにあり、ここは「脆弱性」を持ってる。習仲勲は死ぬまで「少数民族を愛し大切にした」だけでなく、鄧小平の陰謀により1990年に再び政治舞台からの失脚を余儀なくされたその前日まで「異なる意見を取り入れなければならない。その法律を制定せよ」と会議で訴え続けた。
習近平はこれを否定しているのだから「良心の呵責」にさいなまれているはずだ。
ここに習近平政権の脆弱性が潜んでいるので、一党支配体制を揺るがすには、そこを突くと良いだろ中国共産党の歴史は、血塗られた野望と怨念の歴史だ。
それを正視するには、「鄧小平神話」を瓦解させなければならない。
毛沢東から始まり、習仲勲によって支えられた革命の道。
その「おいしいところだけ」をいただこうとした鄧小平の野望と陰謀。
その背骨があってこその、習近平の国家戦略だ。
今、日本がどこにいるのかを見極めるためにも、私たちは「鄧小平神話」を打ち破る勇気と、真実を手にするという「知性への挑戦」に着手しなければならないのである。
本書がその試みに、いくらかでも貢献することができれば望外の幸せだ。