以下は2018/7/23に発信した章である。
月刊誌Voice今月号の掉尾に「文明之虚説」と題して掲載されている渡辺利夫氏の連載コラムで西部邁氏について書かれていた論文からの抜粋である。
文中強調は私。
人間は言語的動物である。
人生と社会のすべての観念は言語によって操作される。
観念操作において西部邁氏ほどに流麗な文筆の才をもつ思想家は珍しい。
ラディカルの意味の一つは根源的である。
そう、西部氏の文章には時論であっても、時論の根源にあるものへの眼差しがいつも込められている。
昨今のマスコミのセンセーショナリズム、スキャンダリズムには異臭が漂う。
大衆(マス)とは、時論の根源にあるものなどにはおよそ無関心で、日々を精一杯真面目に生きつづける者たちである。
この大衆に向けて扇動的で醜聞的な報道を恒常的に流し、それを自由民主主義者の言説でもあるかのように装う、というのが現代日本のマスコミの嵌った、つまりは陥穽である。
西部氏はもう三十年も前の『マスコミ亡国論』でこういっていた。
「とくに日本にあっては、敗戦後の精神的空虚のなかに輸入も同然のかたちで持ち込まれた自由民主であったために、またそれが階級的な社会秩序と宗教的な価値秩序を著しく欠くのを特徴とする日本の文化パターンにうまく適合したために、秩序なき自由と抑制なき民主が純粋培養されたのであった」
自由と民主という、日本の慣習体系つまりは伝統とは異質の観念が導入され、これが自己肥大してしまったのが現在だという西部氏の主張は、われわれの眼前で日々展開されているマスコミの怪しさと危うさを問う思考の基点だと私も考える。
しかし私などよりはるかに深遠な観念世界を生きる西部氏は、伝統の破壊がこうまで手ひどい日本に虚無と絶望を抱きつづけ、それがもはや忍耐の限度を超えて自裁死を氏に選ばしめたのであろう。
後略。