文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

この愚者にして悪人達が日本を貶める為に世界に拡散する嘘を、傍観したり座視していてはいけないのである

2021年12月31日 15時48分13秒 | 全般

京都・滋賀・奈良を最も頻繁に訪れていた頃、何度訪れても良いなと思った場所の一つが、大津の三井寺、新羅善神堂とフェノロサの墓がある三井寺の塔頭・法明院だった。
2019年03月12日に発信した以下の章を再読して気が着いた。
何故、新羅善神堂という名前なのかという事についてである。

韓国人が全羅南道の出身者を差別しているのは全羅南道とは日本人が統治していた地域…倭国の領土だったからなのである…これが私が気がついた事。
と題して、2019年03月12日に発信した章である。
段落等を修正して再発信する。

読書家の友人が「先日あなたが閃いた事を証明する論文が掲載されているよ」と言って月刊誌WiLL4月号別冊、歴史通…202X年「韓国」消滅へのカウントダウンを購入してきてくれた。
この号は日本国民全員が必読の書である…今すぐに最寄りの書店に購読に向かわなければならない…誰もが確かに、と頷くだろう。
知らなかった人は大変な感謝の念を抱くだろう。

古代朝鮮半島を支配していたのが日本人だった
*それが朝鮮半島人の反日思想の原点なのである。つまり朝鮮人は「底知れぬ悪」と「まことしやかな嘘」を実証しているのである。
韓国人が全羅南道の出身者を差別しているのは全羅南道とは日本人が統治していた地域…倭国の領土だったからなのである。
これが私が気がついた事。韓国人は知っているのである。つまり彼らは徹頭徹尾、嘘をついているのである。
この事は歴然たる事実=歴史であって変えようがない事を韓国人が知る事から始まらなければ真の日韓友好はあり得ない。
歴史を否定し続ける限り、韓国人は永遠に異常な国民であり続ける事になる。
韓国人は、そんな愚か者で生きて行くのだろう。
私たちは、もうこれ以上、この愚者にして悪人達が日本を貶める為に世界に拡散する嘘を、傍観したり座視していてはいけないのである。
私が大江健三郎達を酷評するのが当然であるだけではなく、彼らに対しても日本国は莫大な損害金を請求しなければならない。*

見出し以外の文中強調は私。
佐藤洋二郎 作家・日大芸術学部教授
韓国人の虚言癖に辟易(へきえき)しながらも、古代朝鮮経由で多くの文化が列島に伝わってきたと思い込んでいる日本人はまだ少なくない。
*原文はヘキエキとカタカナのみだった。私を含めてヘキエキをへきへき、として使用していた人は多いと思う。その思い違いを正してくれた事を著者に感謝して、漢字とひらがなに、私が替えて、今回は発信します*
「渡来人」などという新造語にユメ惑わされるなかれ。
新羅王家に流れる倭人の血 
今日、わたしたちが使っている多くの日本語は、明治以降、この国に新しい文化が入り、西周や中江兆民、福沢諭吉ら当時の知識人が、全体の意味やニュアンスを考慮して翻訳・意訳したものだ。
それゆえに本来の言葉の意味と合致していないものもある。
そして言葉は時代とともに変容するし変質もする。 
歴史という言葉がある。
その歴史の「歴」という文字は物事を歴然と、つまりはっきりさせることであり、「史」は文章のことだ。
だから歴史とは、文章で物事をはっきりさせるということになる。 
そして文字が残されていなければ歴史は遡っていけない。
だが、神話や民話、伝承や伝説となると、書き残された文字があるとしても、それは即歴史となるわけではない。
歴史となるには物的証拠が必要なのだ。 
歴史は勝者が書き残すし、それらの行為はわたしたち人間が行う。
その上、人間の感情は一筋縄ではいかない。
そこには自分たちの正統性の主張や誇張も入るだろう。 
だが年月が経ては、そのことを知っている者もいなくなるし、確認する手立ても少なくなってくる。
それは警察官の取り調べに似ていて、容疑者が自白してもすぐに犯人とはならない。自白した通りに殺人現場に行き、物的証拠が出てきて、それらが合致してはじめて犯人となる。 
わたしは歴史認識をそのように考えているので、書き残された文字から探って行き、なおかつその場所を訪ねるというのが正鵠を射ていると考える。 
そんな気持ちで30年以上神社を歩いている。
そこには「正史」と違う伝説や伝承があり、それを探っていくのが愉しい。
朝鮮半島と日本の関係も、「正史」とは違う別の角度から歴史が見えてくる。 
朝鮮半島と日本は地理的に近いこともあり、あるときは親しくなったり、齟齬したりしてお互いの歴史を構築しているが、昨今の日韓の歴史認識は著しく乖離している。 
民主主義の基本は公明、公正、公平だと考えているが、それは歴史認識にも言えることだ。
それぞれの国家としての面子や自尊心もあるだろうから、勢い相手の言い分を認めようとせず、認めれば自国の歴史を歪めてしまうこともある。 
行きすぎれば民族主義に走るし、差別感も芽生える。
民主主義と同じように、重なる歴史は公明に公平に公正に見ることが、真の歴史を知ることにつながる。
ちなみに「公」という文字は、人が両肘を上げている格好だといわれている。
肘を上げればものをたくさん持つことができない。つまり欲張りではないということだ。 
逆に「私」という文字は禾編だ。それは穀物を表す。転じて財産の意味になる。その財産を持ち、人に肘鉄を食らわすのが「私」という文字だ。
つまり欲張りということだ。
私利私欲に走る人間は公人というわけにはいかない。
今日の政治家は汚職や不法献金を繰り返す私人ばかりで、政治がうまく機能しないのはそのためではないか。
そういう施政者が歴史をつくっていくのも事実だ。
万民のためにいい政治を行うという志のある人物もいたのだろうが、世の中が安寧で穏やかであれば、歴史もまた落ち着き、書き残すことも少ない。 
日本史でも世界史でも、そこに列記されているのは社会の異常なことばかりだ。
大化改新、鎌倉幕府成立、明治維新などと羅列していけば、政治や世の中が反転したことがわかる。
それらのことが書き継がれてきたのが歴史ということになる。 

さて、今日わたしたちが歴史を語ることができるのも、「記紀」をはじめ、さまざまな書物が残っているからだ。 
朝鮮の正史として「三国史記』がある。
高麗17代仁宗の勅命で、金富軾たちが三国時代から統一新羅末期までのことを編纂した朝鮮半島の最古の歴史書だ。
1143年に編纂が開始され、2年後に完成したものである。
初めて編まれた正史としては実に年代が新しい。
720年成立の『日本書紀』より400年以上も後のことだ。
それより以前に古い書物があって、それに依拠して書かれたのかもしれないが、それは現存しないようだ。 
「三国史」の新羅本紀第一の第四代脱解尼師今(だっかいにしきん)(在位57-80)の部分に、「脱解が王位に即いたとき、その年は62歳であった。姓は昔氏で、王妃は阿考夫人である。脱解はむかし多婆邦国で生まれた。その国は倭国の束北一千里のところにある」と記されている。
原文は「女王国東渡海千余里 復有国皆倭種」で、「女王国から東に千余里の海を渡って行くと、また国があり、彼らは皆倭種である」ということだが、その国にいた人間が新羅の第四代の王になり、その血脈が代々新羅の王家に流れている。 
また当時の政治の最高指揮官である瓠公(ここう)という人物は「もともと倭人で、むかし瓢(ひさご)を腰にさげ、新羅にきた。それで瓠公と称した」とある。
その男を脱解が登用して政治を行ったのだが、すると、新羅の国の土台は日本人がつくったということになる。 
今日の韓国の大もとは日本人がつくったという記述を、韓国の人々はどう説明するのだろう。
「天皇は百済人だ、日本は韓国がつくった」などと言うが、その根拠はどこにあるのか。

「渡来」は新しい造語 
また近年、古代史において「渡来」という文字が多用されるのはどういうことだろう。
わたしは歴史的には首を傾げざるを得ない言葉だと思っている。
「帰化人」が適切ではないという理由で金達寿氏たちが提唱し、定着したのが「渡来人」という言葉だが、わたしは「記紀」にも載っていないこの言葉に疑問を抱いている。 
『日本書記』には「帰化」「来帰」「来朝」「帰朝」という文字が多く見られるが、「渡来」という言葉は、わたしには見つけられなかった。
一方、「三国史記」には「来投」「投亡」「亡人」という文字が見られる。
これらの意味は飢餓や貧困、戦禍によってその地を離れることだ。
そうして半島を離れた人々が日本にやってきた。
それを「渡来人」という一言で片づけていいものか。 
『宋書』や『南斉書』によれば、倭王は朝鮮全土の統治者として認められている。
そんな強国に、半島人が新たな文化とともに渡来してくるとはとうてい思えない。
本末、「渡来人」という言葉には「海を越えてやってきた人」という以上の意味はないが、迫害を受けて逃げてきた者や、豊かな土地を求めて人植した者もいるだろう。
自国で何不自由なく暮らしている人問が、なにも危険をおかしてまでやってくる理由はない。
さまざまな境遇の人々がやってきたと考えるのが筋だ。 

それに対して「帰化」は、元来、中華思想により、異民族が君主の徳によって感化されて従うことを意味する。
「帰朝」は本国に戻ってくることだ。
『日本書記』にはそれらの言葉が書き残されているのに、今日、「渡来」や「渡来人」という言葉が主流になり、わたしたちはそこから歴史を見ようとしている。
いったい歴史学者たちは新しい造語を使って、どんな教育をしようとしているのだろう。 

「帰化」「帰朝」という言葉が使われたのには理由がある。
まして上代は現在より「言霊」を人切にしていたはずだ。
日本人の精神的バックボーンになるのが、この「言霊」と「怨霊」だということは多くの人たち知っている。
その彼らが「帰化」や「来化」、「帰朝」と頻繁に記しているのだ。 
半島から日本に戻ってきた、日本に帰属したという意識で書かれていると考えるのが筋ではないか。

それを当時の書物に一言も載っていない「渡来人」などという言葉を使って、歴史を探っていこうとするのはどうかしている。
半島にも倭国があり、あるいはそれに附随する国があったから、彼らはそう書いているのだ。 

文字を軽んじると歴史は歪んでくる。
日本についての記述は中国の書物にはたくさん出てくるし、すでに「倭国」としての存在も書かれている。
『論衡(ろんこう)』には「周時天下太平 倭人来献暢草」、周の時代は天下太平にして、倭人がきて暢草(ちょうそう)を献じたとある。
暢草は酒に浸す薬草のことを指すらしいが、朝貢についても事細かに記されている。
『普書』や『梁書』には倭人の祖先は呉の太伯の子孫と書かれている。
半島に侵攻を繰り返す 
その影響かもしれないが、今日でも着物のことを「呉服」という。
揚子江近辺から船に乗れば、なにもしなくても九州に着くと土地の人間に聞いた。
日本での稲作が九州の発祥だとすれば、彼らが運んできたという推理もあるいは成り立つ。 
神武「東征」が南九州から起こっていることを考えれば、先端技術を持った彼らが東進したとも思える。
ちなみに「東遷」と「東征」とでは意味が違うが、これも深く吟味されることなく安易に使用されている。
「東を征伐する」と都を「東に遷す」とでは意味が違いすぎる。 
韓国人は稲作も半島から伝播したというが、それは地理的、気候的、海流的にも、根拠が乏しい。 
文化面においても、『陏書』に「大業三年 其王多利思北孤遣使朝貢使者曰 聞海西菩薩天子重興仏法故遣朝拝 兼沙門数十人来学仏法」とあり、倭王の多利思北孤が使いを出して貢ぎものをし、海の西の菩薩天子は熱心に仏法をやり、そのため僧侶を派遣してそれを学ぶためにきたと記述されている。
日本人はすでに二千年前に中国と交流を持ち、仏法を学んでいる。 
『隋書』や『魏志』には倭人は鉄を使うと記されている。
鏃(やじり)や鉄器を使っていることが、彼らにとって驚きだったから書き残したのだが、倭人は二千年前に製鉄をしていた。 
仏法を学び、先端技術を習得している日本の文化が、少なくとも中国の歴史書を読むかぎり朝鮮半島から流入したとは考えにくい。 
そして「三国史記」や「記紀」を読めば判然とするが、有史以来、日本は数えきれないほど朝鮮半島を侵攻し続けている。
その逆は無きに等しい。
わたしは室町期に李氏朝鮮が対馬を十日前後攻めた「応永の外寇」しか知らないが、ほかにあるのだろうか。
倭寇の侵入が夥しくあり、高麗の沿岸には人々が住まなくなった。
この倭寇の拠点となっていた対馬を強襲して船を破壊し、人質を解放したというのが「応永の外寇」だが、それ以外は逆に日本に人質を差し出したり、貢ぎ物を繰り返したりしている。
なおかつあれだけ侵攻していた新羅には、日本が唐・新羅連合軍に敗れた白村江の戦いから、国家問の交流は乏しくなっている。 
南都六宗や鎌倉新仏教との関わりも、日本は朝鮮より唐から影響を受けている。
文化の輸入も遣隋使や遣唐使とともに中国からだったはずだ。
『隋書』にも見えるように、朝鮮半島から文化が入ってきたという説は成立しにくいし、古代から攻撃を受け続けている国から、さまざまな文化が流入したというのも考えにくい。 
長江ルートと半島ルートの両方があったとしても、日本より朝鮮半島のほうが国力も文化水準も高かったと言うのは間違いだ。
そう言い張るなら、その根拠を提示しなければ、「嘘も百回つけば真実になる」の類だろう。
日本の律令も冠位も朝鮮を真似てつくったわけではない。       
それなのに文禄・慶長の役のおりに、「東アジアの文化的後進国であった日本は、朝鮮から活字、書籍、絵画、陶磁器などの文化遺産を略奪し、多くの技術者や学者を拉致して行った。これとともに朝鮮の性理学も伝えられ、日本文化に大きな影響を与えた」と高麗大学教授で韓国哲学会会長などを歴任した申一徹氏(1931年生まれ)は言っている。
「三国史記」や「三国遺事」よりも四百年も古い『日本書記』や『古事記』がすでに存在し、それよりさらに古い中国の歴史書にも、日本がどういう国でどういう存在だったか書かれているのにも関わらずだ。 

日本が執拗に新羅を攻めたのは、そこに鉱物があったからだ。
845年にアラブ人のイブン・クルダドビーが編纂した『王国と道路綜覧』には、「中国の向こう側に、新羅という、山が多く、いろいろな王たちが支配している国があり、金が多く産出している」とあり、それを求めてすでにイスラム人が定着していたと書かれている。 
新羅は黄金の国でもあったのだ。
『日本書記』にも、黄金があるから神功皇后たちが攻めたとある。
だから日本は侵攻を繰り返したのだ。
そのことは「記紀」だけでなく『三国史記』にも書かれている。

韓国人は自分たちの「正史」すら否定するのだろうか。
日本について云々する前に、自国の「正史」を読んだほうがいい。 
少なくともそこには倭国が何度も攻めてきたことが書かれている。
そういう国が彼らのいう文化の乏しい国であるはずがない。
何世紀にもわたり海を渡って攻めてきたとすれば、それは日本が大国であるということ以外に考えられない。

「怒りっぽく復讐心に満ちている」 
当時の交通は海路を利用した。
朝鮮半島には痩せた土地が多い。
わたしは中国は全州、韓国にも20回以上は行っているが、やはり韓国よりも日本のほうが国土は豊かだ。
気候も日本のほうが温暖である。 
『朝鮮紀行』を書いたイギリスの女性紀行作家イザべラ・バード(1831年生まれ)は、「朝鮮はまぎれもなく山岳国であり、平野らしい平野」はないと言っている。
豊かな国であれば人口も増え、自ずから国力も増す。
日本が朝鮮半島を攻め続けていたのは、そういう圧倒的な国力があったからだ。 
あるいは半島に倭国や「任那」が実在したから、何度も攻撃できた。
そう考えるのが自然ではないか。

はじめから存在しなかったというのでは、学問・研究とは言えない。
端から放棄していると思われてもしかたがない。
あったか、なかったかを調査研究するのが歴史学者のあり方ではないか。 

「任那」は『日本書記』にも多く出てくるし、『肥前風土記』や『新撰姓氏録』にも出てくる。
「三国志」「宋書」「梁書』などにも、その存在が記されている。

資料がないのは韓国だけなのだ。
韓国の史料にないからといって、実在しなかったという根拠にはならない。
書き換えたり、消し去ったりした者たちの根拠のない反論は、歴史を貶めることになる。 
冒頭にも書いたが「歴史」は書き残された文章によって遡ることができる。
日本独自の前方後円墳という物的証拠も多くある。
それに「好太王碑文」もある。
文字と物的証拠が合致しているのに、なにもかも否定する根拠はなんなのか。 

自分たちも言葉と物的証拠を提示して反論しないと、建設的な研究にはならない。
前方後円墳を潰したり、自国に不利な文字を消したり、歪曲した解釈をして、歴史を誤っているのは韓国人のほうではないのか。 

中国の『隋書』にも「使持節都督新羅仟那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」、倭王が朝鮮半島の支配権を認めたと、似た記述が何度も出てくる。
また600年初めの『遣新羅史』には、「新羅百済皆以倭為大国球物並敬仰之恒通使往来」とある。
新羅や百済は、倭国を大国だと認めている。

にもかかわらず、畏敬する国に文化や技術を持って「渡来」してきたと言うのである。 
そのほか中国の『北史』や『魂書』にも、日本のことはいくらも出てくる。
早くから認知されているのだ。
なおかつ人質や貢ぎ物を受け取り、朝鮮半島全域を支配する力があった国に対して、なにを根拠に優位性を唱えるのだろう。 

朝鮮半島の歴史を調べるとすぐに判然とすることだが、彼らの悲劇と苦悩は、中国と日本という強国に挟まれていたことにある。
有史上、それはずっと続き、近代まで変わることがない。 

フランス人司祭のシヤルル・ダレ(1829-1878)は、ソウルで処刑されたダビリュイたちが集めた資料を編纂した『朝鮮事情』に、「豊臣秀吉の死によって、日本軍が征服地を放棄して引き揚げることがなかったら、おそらく日本は朝鮮全土を制圧していたであろう」と書いている。 
イザベラ・バードも、「朝鮮には階級がふたつしかない。盗む者と盗まれる側である。両班から登用された官僚階級は公認の吸血鬼で、人口の五部の四をゆうに占める下人は文字どおり下の人問で、吸血鬼に血を提供することをその存在理由とする」
「朝鮮ではなにもかもが低く貧しくお粗末なレベルなのである。階級による特権、貴族と官僚による搾取、司法の完全なる不在、労働と少しも比例しない収入の不安定さ、いまだ改革を知らない東洋諸国の政府が拠りどころにする最悪の因習を繰り返してきた政府、策略をめぐらすどろぼう官僚、王宮と小さな後宮に蟄居したせいで衰弱した政府」(『朝鮮紀行』)と書いている、内側から腐敗し、国家として崩壊していたのだ。 

ダレの『朝鮮事情』には「彼らは、怒りっぽいが、それと同程度に、復讐心に満ちている。たとえば、50の陰謀のうち49までが何人かの陰謀加担者によって事前に暴露される。これらはほとんどいつも、個人的な恨みを満足させるためのものであったり、かつての少し辛辣な言葉に対する仕返しのためであったりする。敵対する者たちの頭上に懲罰を加えることができるならば、自分が罰せられることなど、彼らにとってはなんでもないことである」「朝鮮人は一般に、頑固で、気難しく、怒りっぽく、執念深い」とあるが、まるで現代の韓国について語っているようだ。

朴槿恵氏は“千年経っても恨みは晴れない”と言ったが、国家の最高責任者がそういう意識では、未来がどうなるかは明らかだ。 
多大な影響の下に日本を模倣していた国が、改竄や捏造、歪曲を繰り返し、証拠となる文字や物的証拠を無視して恨みごとを言う。 

韓国の1996年版の高校生用『国史(上)』には、「倭乱でわれわれが勝利を収めることができたのは、わが民族の持つ潜在力がすぐれていたためである。すなわち、官軍レベルの国防能力では、わが方が日本に遅れをとっていたが、全国民的レベルでは、日本を凌駕した」と書かれている。
そうではない。明の援軍を頼んで戦ったのが史実だ。 

シナを頼むのは近代においても変わることはなく、イザベラ・バードは「朝鮮は、数世紀来中国の属国であり、他の諸国とはなんら関係していなかったので、宗教、文明、思想および風俗の上で中国が朝鮮に及ぼした影響はとても大きかった」と見ている。
当時の朝鮮の人々は中国の文化や教育を懸命に勉強している。
自ら同化を望んでいるのだ。 

さらに「かなり丈夫にみえる火縄銃を作る。この国には非常に質のいい銅があるにもかかわらず、彼らが使うすべてのものは、日本から運んできたものである」
「しかし不思議なことに、にもかかわらず軍隊は概して非常に弱く、彼らは重大な危険があるとさえ見れば、武器を放棄して四方へ逃亡することしか考えない」と続く。 
宣教師の証言と彼らの歴史認識にも乖離がありすぎる。
技術力はない。
民衆への搾取と圧政で為政者に対する忠誠心が薄くなっている。
その上、両班(貴族)たちは我先に逃げ出す。
そのことを秀吉軍は知っていたから、あっという問に占領できたのではないか。

二大強国に挟まれた悲哀 
朝鮮は古代から中国・日本に貢ぎ物と人質を出し、清が明を倒した時には清に加担したが、その後、清は徳川幕府よりも過酷な貢ぎ物を要求している。  
〈毎年、次の如く貢納するものとする。金百両、銀千両、白米一万包、絹布三百匹、普通の亜麻布一万匹、精大朝布百匹、大紙二十張一千巻、小紙一千張、鋭刀二千振、水牛角一千本、模様花五十張、染料二百斤、胡椒百枡、虎皮百張、海狸皮四百張、青鼠皮二百張等。これらの献納は、己卯年(1639)の秋からとする〉 

人口700万前後と推定される朝鮮がこれでは国力を増せるはずがない。 
こういう文章を目にすると、明にも日本にも配慮しなければいけない朝鮮の潜在的な苦悩が見えてくるし、臣下の生活がどれほど圧迫を受けていたかも窺い知ることができる。
朝鮮の歴史は常に二国の強国に配慮しなければ生きていけない悲哀に満ちたものだ。 

明に対しては、「朝鮮国王は、新しく交替するたびに、特使を遣わして皇帝にその即位の承認を求めねばならない。特使はまた、王家に関すること、朝鮮で発生した主要事件について、すべて報告しなければならない。反対に、ほとんどの中国人使節が宮廷での品階では朝鮮国王より上位にいるために、朝鮮国王は、使節を迎えるときソウル城外に出てつつしんで敬礼をしなければならないし、そのうえ、使節が入城した門以外の別の門を通ってソウル城内に入らねばならない」と綴られている。
現在の意識から見れば、もっと屈辱的なことも書かれている。
独立国として扱われているとはとても思えない。
テレビドラマとは大違いではないか。
*NHKを始めとしてテレビ各局が本当にデタラメで噴飯物の韓国のテレビドラマ(しかも、その多くは日本のテレビドラマや映画の剽窃)今なお放送しているのは、彼らが戦後いかに売国奴的な報道を続けて来たかの、これ以上ない証明なのである。およそ、テレビ関係者というのは下種の集まりだと言っても過言ではない。* 
そんな国から文化や技術を持って「渡来」してくるだろうか。
経済も文化も、国力のあるほうに流れていくのは自明のことだ。
まして日本本土は朝鮮半島から一度として攻められておらず、古代から日本が一方的に侵攻するばかりだったことを、中国朝鮮日本の三国の歴史書は書き残している。 
わたしは日本が半島を支配していたと書く中国の歴史書を信用しているし、朝鮮半島南部と九州の一部が倭国だったことも、書き残された文字や物的証拠から信じているので、当時の人々が、「帰化」や「帰朝」という言葉を使ったのは至極当然のことだと考えている。
少なくとも残された文字から辿っていくかぎり、先端技術も文化も朝鮮半島から入ってきたとは思えない。 

*朝鮮通信使が文化を日本に持って来たなどと放送し続けているNHK大阪の知的退廃は目に余るのである* 

前述の申一徹氏は70年代初めに次のように記している。  
〈元来、東北アジア文化圏のなかでは日本は、『倭人』といって中華文化の中心から遠く疎外された『絶域』に属していたという文化的「庶子』意識の劣等感が長期にわたって内在していた。伝統文化の序列は、どこまでも中国-韓国―日本(倭)という厳然たる順序ができあがっていたから、古代から倭は(中略)韓国を上国とあがめていた〉 
笑止というほかはない。
当時も現在も、日本人の誰がこんなことを考えるだろうか。
開いた口が塞がらないとはこういうことを言うのだろう。
それが哲学者で教育人だというのだから呆れる。 

1982年の2月号の『月刊朝鮮』には、『「縮み」志向の日本人』を書いた李御寧氏(1934年生まれ)の次のような文章が載っている。  
〈世界には二大不思議がある。日本に行って日本人一人一人をよく見ると、どこか足りないところがあって、顔かたちはまあまあです。そんな印象なのに、どうしてこういう人々が集まって、こんな世界的な経済大国を作り上げたのか。それが不思議の一つですね。逆にもう一つ正反対の不思議かあります。一人一人見れば、韓国人は絶対に日本人に遅れておらず、むしろ先に進んでいる人々です。そういう立派な人々が集まって形成した社会がなぜ過去には日本人に支配されるほど弱い国であったのか。これまた不思議の一つですね。結局、日本の集団主義と韓国の個人主義の差が今日の両国の差になったのです〉 

もっと自国の歴史を知ってもらいたいと思うのは、わたしだけではないだろう。
中国・日本の両国にいったい何度侵攻されているのか、何人の人質を送っているのか。
どれほど多大な貢ぎ物を差し出しているのか。それもずっと。
古代は日本に支配されていた史実を、学者であるにもかかわらず、知らないのだろうか。
これほど言葉を軽んじ、推量や思惑でものを言うのは捏造・歪曲に等しい。

他国に対して自国が優秀だという意識が強すぎるのは歴史的コンプレックスを露呈していることになる。 
わたしは韓国の作家たちと何度も酒をともにしたことがあるし友人もいる。
個人的には「好韓」だが、最近の言動は目に余る。
行き過ぎは国家間の友好を損なう。

日韓の大学教授たちのマイノリティ文学に加えてもらい、ブラジルで一緒においしい酒を飲んだこともある。
韓国の大学で講演をしたこともある。
だが、大学でのシンポジウムの後で、日韓の歴史認識のやりとりを目の当たりにして、彼らの多くが自らに関わる書物や白国の「正史」を読んでいないことに気づかされた。 

わたしが知るかぎりでは、日本は公然と韓国を貶めたり、「口撃」したりはしていないはずだ。
それに対して、失礼な言い方だが、韓国は政治家や知識人が、自らメディアに対して悪意ある発言を繰り返している。
それでは政治は前に進まない。

ここに述べられている当時の紀行作家や宣教師たちの声や、中国・日本の歴史書に記されていることを、もう一度探ったらどうか。
自らの「歴史」をなくしたなら、別の史実から探っていくしかないではないか。 

人間は自分の背中は見えない。
糸くずやシャツが出ていれば、人に教えてもらわなければいけない。
他者に配慮することや謙虚になることは人間だけの特権であり、やさしさではないのか。 

申一徹教授には、なによりも言葉が歴史をつくるということを強く意識してもらいたい。
哲学者なら哲学という言葉の意味を記憶して、発言してもらわねばならない。
哲学とはギリシア語の「sophia(智)をphilein(愛する)」ことではないか。
物事の根本原理を探求することではないか。 

また、わたしには李御寧氏の文章が知識人の言葉だとはとても思えない。
こういう乱暴な言葉に出会うと、日本人なら誰でも身構えるから、一層嫌韓が増えることを危惧する。 

そもそも「歴史」に国家の悲劇はつきものだ。
日本も原爆を落とされている。
過去に恨みの目を向けるだけでは「歴史」は構築できないはずだ。 
歴史は人類の共通の文化遺産なのだ。
少しでも客観的な目が必要なのは言うまでもない。

 


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