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Chinaを「中国」と呼ぶ重大な過ち…「中国」という神話…中国と呼んではならない…世界は「支那」と呼んでいる

2023年05月14日 09時21分13秒 | 全般

中国の21世紀の姿が、かなりはっきりと見え始めてきた。国内的には実に多くの社会的矛盾や環境破壊の危険をかかえながら、対外的にはまさに「中華」の意味さながらに
2020年08月15日
検索妨害の犯罪に遭っていた。
その手口は以下の通り、関係の無い章を参照させるというものだった。
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以下は、Chinaを「中国」と呼ぶ重大な過ち、と題して、発売中の月刊誌Hanadaセレクションに掲載された、国際教養大学学長中嶋嶺雄の論文からである。
【「WiLL](花田紀凱責任編集)2006年9月号】
日本国民のみならず世界中の人たちが必読の論文である。

中国の21世紀の姿が、かなりはっきりと見え始めてきた。
国内的には実に多くの社会的矛盾や環境破壊の危険をかかえながら、対外的にはまさに「中華」の意味さながらに自己中心的かつ覇権主義的な姿勢を示しつつ、軍事面でも国際政治の面でも、大きく膨張しようとして突っ張っている。 
北朝鮮の核ミサイルをめぐる今回の国連安保理決議案の採択でも、中国の姿勢は一貫して頑なであった。
そのような中国が外部世界に与える脅威を、いかに封じ込め、極小化してゆくべきかが、アジアの国際政治の最重要課題だといってもよいであろう。 
そのためにわが国が果たすべき役割は大きく重いといえようが、その前提としては、中国に対する正確な知識に裏付けられた主体的な外交姿勢をつねに保持していなければならない。 
ここでは、私自身、中国を研究する者として当初から当然の前提のように習慣づけられてきていながら、従来から気がかりであった問題、すなわち「中国」という呼称の問題について、最近検討する機会があったので、この問題を私自身の立場からあえて論じてみたい。 
「中国」か「支那」か、それとも「シナ」か、をめぐるChinaの呼称問題は、戦前戦後を通じてしばしば問題になったのであるが、のちに詳しく見るように、結局はいわば行政命令のようなかたちで「中国」の呼称がわが国では圧倒的に支配的になって今日に到っている。
もとより、中華人民共和国および中華民国という国名の国家が正式に存在していながら、それらを「中国」と言う。
その呼称にこだわらざるを得ないのは、かつて中国とは中華民国を指し、今日では一般に中華人民共和国を指すという中国側の〈革命〉という事情によることのみに帰せられない同文同種の日中関係に固有な歴史的な経緯と理由があることは否定できないであろう。 
だから、"The United States of America"という国名の国家をアメリカや米国と呼び、公式には"The United Kingdom of Great Britain and Nothern Ireland”という国をイギリスや英国と呼ぶのとは異なった歴史的・文化的な文脈のなかに問題が置かれていることも否めない。 
では、なぜわが国では「China」(チヤイナ)を「中国」と呼んでいるのだろうか。
それは正しいのであろうか。 
わが国における「中国」の呼称に関する行政上の歴史的経緯については、これまでにも論じられたことがなかったわけではなく、「中国」か「支那」か、もしくは「シナ」かについて、識者の間でも、また新聞の投書などをめぐっても、様々な意見や論争が展開されたことがあった。
「中国」という神話 
「支那」は日清戦争での日本の勝利やその後の対中国侵略がもたらした蔑称なのだから使用すべきではないという立場を主張しつつ、戦前戦後の論争をも新聞記事などを丹念に拾い上げて紹介したのは、さねとうけいしゅう氏であった。 
一方、「支那」は蔑称ではなく当然使用すべきことを比較的最近もっとも系統的に主張している論客は、私の知る限り高島悛男氏と呉智英氏であろう。 
しかしながら、Chinaの呼称の問題は、その重要性にもかかわらず、個人の立場や主張としてはともかく、すでに解決済みの問題であるかのように一般には看做され、国民的な論議の対象になっているとはいいがたい。
「中国」と呼び慣わすことに何の疑いも抱かず、「中国」が当然だという”神話”が一貫して支配的であったからであろう。 
私自身もこれまでは当然のことのように「中国」と呼んできており、自分の著作においてもつねに「中国」を用いてきた。
代表的な中国通史としてよく読まれた貝塚茂樹著『中国の歴史(上・中・下)』(岩波新書)を見てみても、「支那」という用語は一切出ていない。 
そうしたなかで石原慎太郎氏や渡部昇一氏がしばしば「シナ」という呼称を平然と使われていることに対して畏敬はしていたのだが、この問題に対してそれ以上のコミットメントを私はこれまでしてこなかった。 
しかし、私が学長時代に私自身が編纂委員会委員長として実に多くの時間を費やした『東京外国語大学史』(全四巻)の資料編二には、ここで検討する資料を収録しておいた経緯がある。 
今回、私の編集で刊行した文春新書『歴史の嘘を見破るー日中近現代史の争点35J』の年表作成に当たって、作成者の孫国鳳さん(東京大学博士〈学術〉と新たな資料を探索し、その重要性に改めて気づいたのであった。 
中国が今日のようにむき出しの大国主義的な姿勢を強めつつあり、一方では中華民国という実態が大きく変化して、そこの住民自身が「中国」「中国人」ではなく「台湾」「台湾人」というアイデンティティを強めつつある現在、中国の呼称問題には、改めて検討が加えられてしかるべきであろう。 
また同時に、その理由や原因が十分追究されることなく、一般には至極当然のこととして見過ごされてきているこの問題のなかに、わが国の中国認識ないしは対中国姿勢におけるきわめて重大な過ちの根源が隠されているように思われる。
「支那」と「中国」 よく知られているように、中国のことを戦前の日本では一般に「支那」(シナ)と呼んでいた。 
たまたまいま私の手許にある朝日新聞(縮刷版)の昭和17(1942)年7月4日付紙面を見ると、堀情報局第三部長が「支那における英米の策動」と題して放送したという記事が載っている。
同日付夕刊には、「国民政府主席汪精衛氏は支那事変5周年記念日を前に『支那事変と大東亜戦争』と題する次の一文を草し、2日特に本社を通じて友邦日本の朝野にこれを発表した」として、「東亜解放こそ和平への道」という南京特電が汪精衛の文章とともに1面トップに掲載されている。 
同じ7月14日の紙面には、戦後には魯迅の作品の翻訳者として竹内好氏らとともに知られることとなった増田渉氏の「新支那の文化建設」という連載記事も出ている。 
第二次大戦中は、「中国」という表現が「中国側軍隊」「中国民衆」といったように混在して使われている場合も見受けられるが、大方は「支那」であり、昭和5年以前はほとんどが「支那」であった。 
日本では古くから「唐」「宋」「清」といった王朝の名称をいわゆる「中国」に対して用いていたといってよいであろうが、「China」(チャイナ)が世界的に普及し始めた徳川時代中期以降は、一般に「支那」が使われるようになったとの説もある(石田幹之助氏)。 ところで私は最近、高校時代の同級生一行が秋田ツアーに来た折に、武家屋敷と桜で知られる角館を案内していて、モロコシの銘菓で人気の菓子司(かしつかさ)「唐土庵(もろこしあん)」が客寄せのために店頭に出している看板を見つけて、一つの知見を得ることができた。 
そこにはこう記されていた。 
「天保の頃、寺子屋で使われていた教科書『烏帽子於也』に角館の産物の一つとして唐に土と書いてモロコシとあります。モロコシは江戸時代に呼び慣わされていた中国の国の名前であります」 
天保(1830~43年)の頃、少なくとも佐竹藩の寺子屋で使われていた教科書には「唐土」の表現があり、当時は清国になっていた「中国」をモロコシと呼んでいたことが類推されよう。 
だとすれば徳川時代末期にも「唐土」やモロコシが用いられていたようであり、それは主に福建省から長崎にやってきた代々世襲の通訳・翻訳官(訳司)を「唐通事」と呼んでいたこととも一致する。 
明治6年11月に東京外国語学校が神田一ッ橋に創立されたとき、その教授陣の何人かは長崎の「唐通事」出身であり、教えた言語は当初は南京官話、間もなく北京官話(今日の「中国語)になったが、それらは「漢語」と呼ばれていて、学科名は「漢語学科」であった。 
「清語科」を経て「支那語」「支那語学科」となったのは、辛亥革命によって清国がなくなり中華民国が生まれた大正2(1913)年になってからである。 
ここにも見られるように、わが国では王朝名をもって呼んでいたのであるが、China(チャイナ)が国際的に通用し始めた徳川時代末期には「支那」の呼称もかなり使われていたようである。
当時の「中国」が満州族の征服王朝「清」であったこともあって、漢族のなかには「支那」を使いたがった向きもあったという。 
「支那」はいうまでもなくChina(チャイナ)のことである。
それは中国大陸の主要な地域をカバ″―する領域名であり、一種の文化圏を総称するのであって、「清国十八省」を対象にして用いられたように、一般にモンゴル、満州、チベット、新疆などの非漢族地域はそこに含まれていなかった。 
多くの学説がほぼ一致しているところでは、紀元前230年以上も前に最初の統一王朝として出現した秦始皇帝の「秦」(Ts'in  チン)が古代インド人など外国人によって訛(なま)ってCina(チーナ)と発音され、あるいはそれが西漸して今日のChina(チャイナ)になったものとされている。
そのほかにも、ビルマ(現ミャンマー)との国境に近い雲南省の古代都市「支那城」起源説なども存在している。 
「秦」(Ts'in  チン)が西漸してThin(チン)、Sin(シン)、Cina(シーナ)、China(チーナ)などに転じ、やがてChina(チャイナ)として定着したのではないかとの推測は、中近東のシリアでは「中国」をTsinistan(ツィニスタン)と言い、イランではChinistan(チニスタン)と呼んでいることからも説得的であろう。

中国と呼んではならない 
そのChina(チャイナ)を、1949年に成立した中華人民共和国も対外的な公式名称として使っていて、英語名はPeople's Republic of Chinaである。
中国革命以前から存在し、今日でも台湾に存続している中華民国の場合は、Republic of Chinaである。 
ところで、中華人民共和国や中華民国を「中国」と呼ぶのは、中華人民共和国や中華民国の略称としての「中国」ではない。
「中国」は『孟子』や『史記』にも出てくる古い言葉であり、「中(華人民共和)国」もしくは「中(華民)国」では決してないのである。 
かつて冷戦時代には中国を「中共」と呼んだ場合があり、わが国のマスメディアも昭和30年代後半までは概ね「中共」と言っていた。
とくに共産中国に敵対的ないしはそれを嫌悪する立場では「中共」と呼ぶことが一般的であったが、この場合は中国共産党の略称としての「中共」であるから、中国当局自身が「中共中央八期三中全会」と言ったかたちで使っている中国共産党の略称としての「中共」の場合と、外部世界が国家としての「中国」を指す場合とが混在していたといえよう。 
現に台湾の李登輝前総統もしばしば「中共」と言われるが、この場合は当然、国家としての「中国」を指している。 
なお、台湾に逃れた蒋介石政権を「国府」と呼ぶこともあったが、この場合は、「国民政府」の略称であり、中華人民共和国成立後は日本と中華民国との関係は主として「日華」と呼ばれてきた。 
さて、「中国」が中華民国や中華人民共和国の略称ではないのなら、それはどういう意味なのか。
言うまでもなく「世界の中心の国」「中原の精華の国」さらには「四囲の東夷・西戎・南蛮・北狄といった野蛮人の地とは異なる高みにある国」の意味であり、自らを世界や宇宙の中心に位置づける自民族中心主義(エスノセントリズム)の「中華思想」にほかならない。 
だとすれば、わが国が現在、China(チャイナ)を「中国」と呼ぶのは、「中華思想」的な中国的秩序体系の一員に馳せ参ずることになってしまっているとも言えなくはないのである。 
聖徳太子が「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや」と隋の皇帝煬帝に堂々と書き送っていたことに明らかなように、両者の関係は少なく見ても対等なのであって、以来、わが国は中国の朝貢国として中国的世界秩序(Chinese World order)に組み込まれることはなかったにもかかわらず。
この点からしても、China(チャイナ)を「中国」と呼んではならなかったのであるが、わが国は多くの外国とは例外的に異なっていて、China (チャイナ)を「支那」ではなく、「中国」と呼ぶことになってしまったのであった。 
どうしてこんなことになったのであろうか。
この設問に答える前に、他の国々では"China"どう呼んでいるかを言語別に見ておこう。

世界は「支那」と呼んでいる 
いまや国際共通語とも書える英語(米語)では、まず「中国」を指して'Central Land'とは言わない。
周知のようにChina(チャイナ)である。
この稿続く。

 





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