文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

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人生の師というべき織田信長そのままの構想…のちに彼らが全国へ散り、いわゆる近江商人となり…

2023年11月11日 11時24分08秒 | 全般

この湖面の上を縦横ななめに疾駆したのだ。人生の師というべき織田信長そのままの構想。
2018年01月31日
以下も昨日の産経新聞からである。
見出し以外の文中強調は私。

門井慶喜の史々周国
八幡堀
滋賀県近江八幡市
近江商人財力の源流
正式名称は八幡川だが、ここは 「八幡堀」と古色をつけるほうが気分がいい。
何しろ開削したのは豊臣秀吉の甥の秀次だったのだし、そののちは徳川三百年を通じて近江八幡の街をささえつづける物流の大動脈だった。
その風景はいまも往事のおもかげを残しているのだ。 
たびたび時代劇のロケに使われるというのもよくわかるし、SNSご愛用の向きにも一瞬の名画になるだろう。
私が最初にこの街をおとずれたのは『屋根をかける人』の下調べのためだった。
明治末期にこの街に居をさだめ、大丸心斎橋店、明治学院大学などたくさんの作品をのこした建築家W・M・ヴォーリズに関するもろもろを見に来たのだが、当面関係ないはずのこの八幡堀にふしぎと私はうしろ髪を引かれて、―こんどは、これを見に来よう。 
二度目のときは、真冬だった。 
しかも雪にみまわれた。
いっときは前も見えないほどの吹雪になった
が、小やみになると、そこにあるのはもはや徳川時代をこえて民話そのものの風景だった。
大阪から電車でほんの一時間のところにこれがあるという事実に私はおどろき、かつ安堵のため息をついたのである。
自然と人間のいとなみが、時間という触媒を得て、ここで完璧に鎔和している。 
そのながれは、もとをただせば琵琶湖である。 
上から見た地図でおおまかに言うと、琵琶湖の南岸から定規で線を引くようにして南へ水路を引き、それを東へ、北へと折りまげて琵琶湖にもどす。
それが八幡堀である。
線内には自然の山(八幡山)があり、その上に秀次は城をきずいたわけだが、これはもちろん叔父・秀吉の指示による。 
秀吉はここに、いわば豊臣家の安土城をつくりたかったわけだ。
軍事的要塞でありつつ琵琶湖を扼(やく)する商業都市。
当時の琵琶湖はいうまでもなく日本の中心に位置して京・大坂、北陸、および東国をむすぶ大水運網の舞台だった。
米も、塩も、反物も兵隊も、みなこの湖面の上を縦横ななめに疾駆したのだ。 
人生の師というべき織田信長そのままの構想。
そうして秀吉=秀次はこの街に、それこそ安土城ばりに楽市楽座の令まで発したから、国替えで秀次がよそへ行き、城が空き家になってしまうと、この街にはただ生きのいい商人だけが残されることになった。 
街そのものが市場になった、といえるかもしれない。
のちに彼らが全国へ散り、いわゆる近江商人となり、資本の蓄積をたくましくして明治日本の経済発展を準備したという事実を考えると、八幡堀は、文字どおり歴史の源流のひとつである。
ここにはお金がながれていたのだ。 
そうしてW・M・ヴォーリズは、明治期に、こういう商都に来たのである。彼はアメリカ人である。
はじめてこの水路をまのあたりにして、街の人に、「ああ、秀次さんのころやから、三百年前のしろものやな」と教えられたとき、よほど仰天したのではないか。
三百年前には故郷の大陸にはまだメイフラワー号も来ていなかった。
大統領もいなかった。
そもそも国家の歴史がはじまっていなかったのだ。
 
-これはまた、ふるい国に来た。 
ヴォーリズはそう思っただろう。
しかもその歴史の質は、きわめて例外的なことに、さむらい支配のそれではなかった。
ほぼ純粋な商人のそれだった。
これは奇跡としか言いようがない。
ヴォーリズ自身もまた故国では、子供のころから、何かを売ることの天才だったからだ。 
もしも彼の来たのが京都や東京だったとしたら、はたしてここまで驥足(きそく)をのばし得だろうか。
建物を建てるまではしたとしても、その上さらにあの「万能薬」メンソレータムまでも大売りに売ることができたかどうか。
土地が彼に力を貸したのだ。
…そんなことを思ううち、私はあんまり体がひえたので、近くの料理屋にとびこんだ。
ガスストーブで暖をとりつつ鮎の煮つけを食べたけれども、私にはややこっくりと甘すぎた。
砂糖が贅沢品だった時代にも、この街の人は、この味で、この琵琶湖のめぐみを口にしたのだろう。

 


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